ユジラスカ―逢瀬― 3

                    
 暇をもてあました末弟の風が物見遊山に来たのはそれから一年ほど経とうかという頃の
ことだった。
「兄さん、恋人ができたんですって? 十五、六の美しい少女だと聞きましたよ」
 久しぶりに会うなり囁きこまれて、俺は思わずまだ成長途中の末弟の顔を見つめ返した。
 だが、目の前にあるのは一年余りも記憶の底に封印していたはずのあの黒紫の瞳。
「……誰から聞いた……?」
「鉱兄さん」
 楽しげに答えた風から俺は遠慮なく顔を背け、脳裏に浮かんだお調子者の四男の浅黒い
顔に罵倒を浴びせかけてやった。
 それなのに日に焼けたあいつの顔の前には例の少女の瞳が呪うようにまだちらついてい
る。
 アメジストに深い闇を溶かし込んだ、妖艶という言葉そのものを体現した瞳。その瞳は、
治癒で治したというのにはじめて見つけた時の傷だらけの姿までをも引き連れてくる。
「そんなに固まることないじゃないですか。でも、今度は鉱兄さんの話本当だったんです
 ねー。いつもどこまでが冗談か分からないことしか言わないのに」
「……どうして鉱が知ってるんだ?」
「あれ、龍兄さん覚えてないんですか? 去年鉱兄さんが遊びに来たこと」
「鉱が? いつ」
「それが、ちょうど龍兄さんが恋人連れ帰った直後だったみたいで、龍兄さんも侍女の皆
 さんもかまってくれなそうだったから帰ってきたって言ってましたよ。まさか龍兄さん、
 本当に鉱兄さんが来たことすら忘れてた?」
 笑いをこらえきれずに小さく声を漏らしながら小刻みに震える風を睨みながら、俺は未
だちらつく少女の面影を振り払うようにざっと去年のことを思い返す。
 思い返そうとしたのだが……
「兄さん、もしかして僕が来たことすら邪魔だったんじゃないですか? 気にしなくてい
 いんですよ。僕は僕で好きに遊んでますから」
 ニヤニヤと笑ってる風は、明らかに俺の中に俄かに少女の面影が湧き上がっているのを
見透かしていた。
「珍しいか?」
 俺にとっては面白いことじゃない。
「初めて見ました。女性のことを考えてる龍兄さんなんて」
 苦笑まじりだったが、笑い声はもう混じっていない。
 風が生まれたのは綺瑪が自殺する少し前。育兄上以外の俺たち兄弟の名付け親でもあっ
た彼女が、最後に名をつけていったのがこの風だった。
 しかし、彼の物心に彼女の影はない。
 それほどあれから時は経ってしまった。
 ユジラスカの花散るさまを幾度見送ってきたことか。
 そう、あの少女はユジラスカ同様俺の心を揺らす。
「あれはユジラスカの精だ……」
 重苦しく胸に詰まったものを吐き出すように俺はそう言った。
 途端、風は再び破顔する。
「ユジラスカの精!! それはまた美しい源氏名をつけて! 兄さんらしくもなくメロメ
 ロですね」
「メロメロって……そういうわけじゃない。ユジラスカの下から拾ってきたといったら侍
 女たちが勝手にそう呼ぶようになっただけだ。大体、樹木の精を恋人になどできるもの
 か」
「そうですか、そうですか。大切になさっているんですね」
「……侍女たちに世話を頼んで以来、お前に言われるまで忘れていたんだよ。……その、
 一年くらい」
 おそらく、俺の性格を七人の兄弟中最もよく把握している末弟は、それが冗談ではない
と知って心底呆れ顔をした。
「いつか、兄さんにもまた片時も心から離せなくなる女性が現れますよ」
 繕うように聞こえなかったのは、どこか予言めいた響きがあったからなのか、奴の実感
がこもっていたからなのか、このときは知る由もない。


 風が帰国したあと、俺は少女の様子を知るために世話を任せた侍女・マルパソを呼びよ
せた。
「ええ、まだ西の棟にいらっしゃいますよ」
 マルパソは興味深げに俺を見つめる。
「お前までそんな目で見て……」
 ため息混じりにつぶやくと、マルパソはこらえきれずに噴き出した。
「だって、龍様が一度忘れたことを思い出すなんて、きっとルガルダの森が落っこちてき
 ますよ」
「必要のないことは忘れるようにしているだけだ」
「永遠の命というのも大変でございますね。でも、だからこそ、思い出された上に会おう
 となさるなんて、これはよっぽどのことですよ。ああ、ルガルダの森が落っこちるだけ
 じゃすまないかもしれませんね。ユジラスカの精を巡って第二次神闇戦争とか? き
 ゃー、龍様、頑張らなきゃvvv」
 不躾な上に不穏なことばかり言っているが、彼女だからこそあの少女の面倒を見続けら
れたのかもしれない。
 だからといって、ここまで笑われるのは心外もいいところなのだが。
「おっと、これは失礼いたしました、天龍法王。彼女のことは……実際に会ってお確めに
 なってはいかがですか?」
 笑い声を飲み込もうとして失敗したマルパソはあっさりと主に礼節を尽くすことを放り
出し、むしろ一層明るくからからと笑いながら退室していった。
 息を、吐き出す。
 綺瑪の自殺以来、俺はなるたけ意識的に人を、特に女性を遠ざけるようにしていたと思
う。他人に興味を持つことなど、この永い時を生きる上ではいずれ悲しさとむなしさを味
わわされるだけ。
 <影>と呼ばれ、俺たち同様長寿が約束された存在だと思っていた綺瑪にすら死は訪れ
た。
 人は、それ以上に時間が限られる。心を預けるには、あまりにももろすぎる。
 自分がどれだけ欲深い存在だったのか気がついたのは、つい最近のことだ。
 それでも望まずにいられないあたり、永遠に救いがたい――
 めったに訪れることのない侍女たちの寝所ばかりが集まる西棟へ伸びる回廊は、昼間は
人も少なく肌寒い。
 あの少女を連れ帰って一年。
 日は再び少し伸びて、雪に埋もれた外を照らす光も優しさを増す。
 ユジラスカの元にはあれ以来行っていない。百年に一度の花の宴も、そろそろ終演だろ
うか。
 宴のあとのユジラスカは再び枝だけの寒々しい姿に戻り、それから若芽を芽吹かせてい
く。そのサイクルはこの世界の季節に惑わされることなく、年単位でゆっくりと巡ってい
く。
 多少古ぼけた木製の扉が、ユジラスカの幻想から俺を引きもどした。
 ノックをするために引きあげた腕を、俺は一度おろしていた。
 一瞬よぎった逡巡。
 開けてよいのか、と。
 一年近く放っておいた彼女に今更どんな顔をして会うつもりなのか、と。
 しかし、本当はもっと本能的なものだったに違いない。
 目裏に灼きついた黒紫の瞳が、操るように左手を持ち上げさせる。
 乾いたノック音に我に返ったときには聞き覚えのある涼しげな、しかし丸く穏やかな女
性の返事が中から返ってきた。
 向こう側から扉が開けられ、現れた人物の姿に俺は息を呑む。
 一年という歳月は、傷ついた野生動物さながらだった少女を予想以上に美しく大人びた
女性に成長させていた。
 一本も髪の毛の生えていなかった頭部には、見事な黒髪が豊かに波打ちながらのび、顔
の輪郭を甘く縁取る。蝋人形のように生気の失せていた肌は、今や真珠のように磨き上げ
られ、艶やかに輝いていた。
 そして、何より捜し求めるまでもなく行き着いたのはあの黒紫の瞳。
 その双眸にあの殺伐とした空虚はどこにもない。しっとりと内から光を放ち、みずみず
しく潤いに満ちて輝く紫水晶がはめ込まれていた。
「お久しぶりです。天龍法王」
 優しい微笑と優雅なお辞儀。
「どうぞお入りになって」
 言葉遣いまですっかり宮廷女性の作法が板についている。
 あっけにとられていると、彼女はくつくつと笑った。
「ああ、髪ですのね? 天龍法王がわたくしをお忘れになっていた年月だけ伸びてしまい
 ましたわ」
 ついに俺は言葉を失った。
 こんな恨み言までさらりといえるようになるとはたいした回復ぶりだ。だが、あまりに
変わりすぎてしまっていて、本人かどうかも危ぶみたくなる。
 疑念は彼女の部屋に入ってさらに膨らんだ。
 窓際には花瓶に生けられた紅の鮮やかなブーゲンビリアに鉢植えの白いシクラメン。部
屋を飾る飾り布はみな凝った刺繍が施されていて、さらにその上には手作りの人形や小物
があふれかえるいかにも年頃の少女らしい部屋になっていた。
 とてもあの殺伐とした目を持っていた少女の部屋とは思えない。
 そう、一番変わったのは彼女自身。
 ソファに案内したあと、お茶を入れる手つきも手馴れていて危なげがない。
 どんなに不躾な視線を送っても崩れない柔和な笑顔……と、不意にその口元が歪んだ。
「っふっ……く…くっ…くくっ」
 漏れ出したのは老婆のように低くかすれた笑い声。それはすぐに奇妙な音階をつけた割
れんばかりの嘲笑にとってかわった。
「あっははっはははははははははっ、ははははっはははははははは……」
 腹を抱え、髪を振り乱してのけぞりながら少女は茫然としている俺など眼中にないよう
に笑いもだえていた。
 胴を折り、顔を伏せてまでしばらく笑い転げた後、笑い声は唐突に途切れた。
 彼女は顔だけを上げ、上目遣いに俺を見上げる。
 ぞっと、全身が粟立った。
 黒紫の双眸は、また深い闇を抱えていた。
「どうだ、面白かっただろう? というか、お前の顔のほうが傑作だったか。めったに拝
 めないんだろう? お前の凍りついた表情なんて。それどころか表情筋が残っているか
 どうかも怪しいとマルパソは言ってたんだ。よかったな、まだ老化していなくて!」
 なんというか……途方に暮れた気持ちとはこういうものをさすのだろうか。
「お前が奇異な目で見ていたこの部屋だって、ここに来たばっかりの時、早く私がなじめ
 るようにと無駄な配慮をしてくれた侍女たちがごてごてと飾っていったものだ。私もマ
 ルパソも居心地が悪いってのですぐに撤去したんだけどな、お前が来るというからマル
 パソと二人で再現したんだ。こんな少女趣味の部屋、一時間だっていられるものか」
 再びふつふつと笑い出した彼女は、もはや長らく放っておいた俺への意趣返し以外の何
者もみえてはいないようだった。
 俺は必死に気持ちと状況を整理する。
 一年前の強いながらも空虚な瞳。表情に乏しかった少女。それが、方向はどうあれこれ
ほど感情を露にして笑っている。
「その……笑えるようになったんだな」
 俺は何とか思ったことをまとめて口にした。
 ふつり、笑いが途切れる。そしてその口元から波状に表情がこわばっていった。
 自分でもそれがわかったのだろう。無理に笑顔を作ろうとしてそれは簡単に崩れ、あと
には焦りと崩れた微笑に間の抜けたとりとめない表情だけが残った。
「これは……笑うということじゃないって、マルパソに言われた……」
 怒られた子供のように、悄然と彼女は呟いた。
「これは、心の底から笑うことじゃないんだって。本当に笑うのは『楽しい』とき。でも、
 私にとっての『楽しい』は……ここの人とは違う…みたい。それでも……」
 俯いた彼女の顔に手を伸ばす。
 温度があった。一年前は氷づけにされたように冷たかったのに、今は確かに生者のぬく
もりと肌の弾力がある。
「助けたときは何の表情もなかった。負の感情すら見えなかったんだ。真っ白な石膏の仮
 面をかぶっているわけでもないのは明らかだったから、その……心配はした」
 最後の一言を言ってしまった後で、罪悪感が全身を薙いでいく。
 一年も忘れていたというのに――たとえそれが黒紫の瞳の呪縛を恐れた故のことだとし
ても――それは自分でも呆れるほどいい加減な言葉だった。
 けれど、彼女は怒りもせず、まじめな表情を取り繕って俺を見つめた。その顔にさっき
のような上品さも柔和さもない。
 見つけた時の手負いの動物のような厳しい表情が未だに影を落としている。
 きっと、それが今でも彼女の本当の表情。
「私は……戻れるのか?」
 ためらいがちに押し出された言葉は、あの怪我を見たことがあるものにとっては俄かに
は信じがたいものだった。
「戻りたいのか?」
 予想済みの問いかけだったのだろう。それでも彼女は一呼吸置いてから台詞でも読むか
のように一気に言った。
「私は、R‐314。闇獄界はC区の被験体だ。ここは神界。私が生まれたのは闇獄界。
 私の存在はもとからこの世界とは相容れないはずだ。ここにいてもただの食客になって
 しまう」
 黒紫の瞳は激しく揺れていた。
「本当はもっと早くにここから出て行くつもりだった。けど、マルパソがお礼くらい言っ
 てから出て行くのがこの世界の常識だと教えてくれた。だから私は今日までここに留ま
 っていた」
 何かを断ち切ろうとするかのように、揺れている。
「礼を言ってくれるのか? あの時、俺はお前に放っておいてほしいと頼まれたのに助け
 たんだぞ?」
 彼女はしばらく口を噤んだ。
 それからおもむろに開かれた口からは、選ばれた言葉が再び紡がれる。
「はじめは……そう、恨んだ。けど、私はマルパソに出会えて自分の存在をはじめて他の
 人と同じものなのだと考えることができるようになったんだ。助けてくれたお礼じゃな
 い。私が言いたいのは、マルパソにひき会わせてくれたお礼だ」
 ひた、と据えられた黒紫の瞳に俺の目は釘付けになっていた。息もつけず、彼女の言葉
すらおぼろにしか聞こえてこない。
 はじめて彼女の目が開かれた時と同様、俺の全神経はすべてその瞳に注がれ、一方で絡
みつく呪縛を解こうと妙な汗が体の内からにじみだした。
「その目は、何かの呪がかけてあるのか?」
「目?」
 やっと声を振り絞って出された俺の言葉に彼女の瞳は困惑気味に揺らめき、おかげで俺
は何とかその瞳の呪縛から逃れた。
「ああ、この目は邪眼の研究に使われていた。人を惑わせたり、誘ったり、さっきのお前
 のように動けなくしたり。……あ、わざとじゃなかったんだが、とにかく色々できるら
 しい」
「そう……か」
 そうだ。いくら美しいとはいえ、この少女にこんなにも惹きつけられる覚えなどない。
 この落ち着かなさは、あの黒紫の瞳の向こうに潜む見えない引力のせいなのだ。
「そんなことより、お礼だ。お礼を言わなきゃ私はここから出て行けないんだから、心し
 て聞けよ。ありがとうございました、天龍法王」
 深々と彼女は頭を下げた。
 ふわりと前に落ちかかる黒髪に、気づくと俺は見とれていた。
「よし! 礼は言ったよ、マルパソ!」
 ぼんやりしたままの俺にはお構いなしに彼女は勢いよくソファから跳ね上がるようにし
て立ち上がった。
「どこへ行くつもりだ?」
 思わず訊ねた俺に、彼女の答えは短い。
「森へ」
 彼女は窓辺に置かれた花瓶を下に退けると、大きく窓を開け放った。
 丸い月がぽっかりと顔を出す。
 雲ひとつない紺碧の夜空。
 彼女は出窓に足をかけて身軽にその上によじのぼった。
 ふと、空を見上げて彼女は呟く。
「月は神界にもあるんだな」
 何気ない風を装いながら、その声は感嘆に満ちていた。
「おかしなものだな。いつも見上げてきたはずなのに、どうしてか今日は特別に見える」
 その声につられるように、俺は窓辺に寄る。
「闇獄界にも、あるのか?」
「ある。同じやつがな。監視しているのだそうだ。神界のは統仲王を、闇獄界のは愛優妃
 を」
「なぜ? 誰が?」
「さあ、そこまでは」
 振り返り様の微笑。
 俺は、飛び降りようとした彼女の手首を掴んでいた。
「何だ、まだ何か用か?」
 煩わしげにしかめた顔。
 瞳だ。
 この黒紫の瞳が、俺の心を波立てる。
「ここは三階だ。こんな高さから飛び降りられたら……またこの部屋に押しこまなきゃな
 らなくなる」
 彼女は一瞬ひるんだ。
「怪我をしたら、またあの時のように直してくれればいいじゃないか」
「直すじゃない、治す、だ。いいか、治癒ならいくらでもしてやれるが、どこに助けられ
 るのをわざわざ見過ごして自分の仕事を増やす奴がいる?」
「……」
「俺はお前がいたところの科学者とかいう奴らとは違う。大体、三階から飛び降りたら下
 手すれば即死だぞ?」
 唇をかみしめて聞いていた彼女は、不意に俺の手を振り切って部屋の中に飛び降りた。
「それならそれでかまわない」
「こっちがかまうんだ! せっかく助けたものを、やっぱり死ぬつもりだったんじゃない
 か!」
「助けてくれなんて言ってないだろう。私は私だけのものだ。私の命もこの体も、誰のも
 のでもない、私のものだ。私だけがどうこうできる権利がある!」
 彼女の声は静かな怒気をはらんでいた。
 そして、瞳は見るものを灼きつくさんばかりに冷たく燃えている。
 ふいに、俺は気がついた。
 この瞳は俺を見ているんじゃない。俺など素通りしてその後ろに自分を実験台にした科
学者たちの姿を見ているのだ。
 いや、自分勝手なことを言った俺のことも怒っているのには違いないだろうが。
 それでも、俺は……引きとめずにはいられなかった。
「たとえ無事に降りられたとして、どこへ行くつもりだった? あの森か? あの森は人
 を生かさない。特にあの木は人の生気を吸い取る。それにあの森は天空に浮いているか
 ら、翡瑞がいなければ昇れない」
 怒りを吐き出して落ち着いたのか、彼女は静かに、だがまだどこか探るような目で俺を
見た。
「なら……連れて行ってくれないか。私はもうここにいる理由がない」
「だから、あの森に行っても死ぬだけだと言っているんだ!」
 怒声を上げた瞬間、冷ややかに迎えた黒紫の瞳に中てられて、俺は一気に血の気が引い
た。 
 どうしてこんなに苛々させられるのか。
 どうしてこんなに彼女を放っておけないのか。
 人と、関わるのはやめたはずだ。
 それなのに、どうして――
「本人が死にたいと言っているんだ。お前には関係ない」
「じゃあ……関係があればいいんだな?」
 引きよせた手を彼女はふりはらわなかった。
 態度では。
「なんだ。私を抱きたかっただけか。だったら好きなだけ抱けばいい。それで飽きたらあ
 の森に捨ててくれ」
 ぎり、と見上げたくせに、口では淡々とそう言い放ち、ためらいなく彼女は服を脱ぎ始
めた。
 俺は慌ててその手を押さえこむ。
「違うっ。そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味だと?」
「天龍の国にお前の籍をつくる。お前をこの国の国民にする」
 彼女に居場所を与えてやれるのは、いや、俺自身の望みを叶えられるのは法王である自
分だけだと俺はよく知っていた。
 狡賢い策略をめぐらそうとする俺を見透かしたように、彼女は皮肉めいた笑みを浮かべ
る。
「国民には自殺する権利もないのか?」
「神界にはそんなことを考える者はいない。俺には人々がそんなことを考えなくてもいい
 ように、神界の十三分の一のこの領土に住む人々の幸福な生活を保障する義務があるん
 だ」
「なら、私の幸福は今後一切の未来から切り離されること。この体から、私自身から解放
 されることだ」
 自分でも御託と思えるようなことを並べておいて、方向はともかく強い意志に支えられ
た彼女を説き伏せることなどできるわけもなかった。
 だからといって、彼女の望みどおり見殺しにすることなど――
「だめだ。そんなこと、許さない」
「なんだそれは。別に私は天龍法王に許してもらう必要など……」
 両腕が、彼女を抱きしめていた。
「死ぬなんて簡単に言うな。未来なんていらないなどと、簡単に口にしてくれるな」
 ああ、そうなんだ。
 俺がひきつけられたのは、人を惑わし誘うその黒紫の瞳じゃない。
 死を望む人の匂いだ。
 最後に逢ったときの綺瑪と、彼女からは同じ匂いがしたんだ。
 だから、ひきとめなければ、と。
 もう、二度と同じ後悔を繰り返さないように、ひきとめなければ、と――
 面影すら重ならない少女を抱きしめながら、俺は記憶の奥底に蓋をして沈めていた綺瑪
の名をひたすら叫んでいた。
 叫ぶたびに胸が切り裂かれる。
 綺瑪。
 本当なら、俺たちはもっと一緒にいられるはずだったんだ。
 それこそ永遠に。
「筒抜けだぞ、天龍法王」
 低くいなされて、はたと俺は彼女を放した。