聖封神儀伝
3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
信じるなかれ
疑いこそを その身に刻め
受けし裏切りの代償は
頼りし故の 代価なり
序章 嵐の日
この湖に戻ってきたのは、言うまでもない。おれを育ててくれた父母に仇を討ったことを伝えたかったからだ。
返り血で赤く染まったこの手と顔と身体。
そして、未だ赤い血が滴り落ちる剣。
これらを以って、おれは見事本懐を遂げたのだと、早く貴方たちの墓の前に立ちたかった。
風は疾く、おれを運び、夜明け前、紅蓮の花咲く湖の下へと送り届ける。
上空から見下ろす湖は、夜中、月灯りすらないというのに星明りのみでひっそりと、しかし過激な色で淫らに花開く八重咲の蓮の花でびっしりと覆われていた。それと知らなければそこが湖だとは誰も気づかないだろう。遥か向こう岸の山の際まで赤い絨毯が敷き詰められているかのようだ。
これくらい一面途切れることなく赤ければ、赤い血の色が水に混じろうとさしたる違いはあるまい。
うっかり脳裏を過った現実的な思いに蓋をして、今一度、おれは血に塗れた西楔・周方皇の剣を掲げ見る。
「ようやく――」
血の滴りを受けて、足元が揺らいだ。
嫌だ、嫌だという嫌悪感が如実に下肢に伝わってくる。
憐れだとは思わなかった。
これはこういう契約だ。その契約もあと少し。
「行け」
風は円を描きながら湖岸へと着陸し、おれはさっとその上から身を翻して降りた。
風はよろりとよろめいたが、やがて気を取り直したように一刻も早くおれから離れたいとばかりに、再び飛び立っていった。
「ありがとう」
届かないと知りつつ、風を見上げて小さく声を送り出す。
風は振り向くことなく天へと消えていった。
「これでいい」
これで終わりだ。
全ては完結した。
おれの望みは果たされた。
この剣から滴る血は、西楔・周方皇が第一皇妃エマンダの血。
十年間、欲しくて欲しくて仕方がなかった血。
一体どれだけこの日を夢見たことだろうか。
どれほどこの日が来ることを待ち焦がれていたことだろうか。
「おれは――」
ついにやったのだ。
ついにこの剣で――父から与えられたこの剣で、愛する母と育ててくれた父母を死に追いやった憎き仇の首を取ってやったのだ。
自らを鼓舞する思いに突き上げられるように、口から哄笑が漏れはじめた。
「あはははははははは」
刻むように規則的に刻まれる笑いは、勝利に酔いしれる前に渇いた笑いに転じていた。
何も面白いことはなかった。
何も嬉しいことはなかった。
この血塗られた剣の重みが、もっと達成感や充実感を味わわせてくれるものだと思っていたのに。
どうして――
「どうしておれは、満たされないんだ――!!」
両手で頭上まで振りかざした剣を、湖めがけて投げつける。
湖岸まで這い寄ってきていた紅蓮の花の花びらを散らし、黒い水飛沫をあげて、剣はゆらゆらと揺れながら水の中へと沈んでいく。
「足りない。足りない、足りない、足りない!!」
おれは湖の中へと駆け込み、沈んだ剣を拾い上げ、両手で柄を握って頭上高く振り上げた。
「くそっ、くそっ、くそっ」
紅い花の花芯めがけて振り下ろす。
一輪。二輪。三輪、四輪。
紅蓮の花は水飛沫の中に花びらを舞い踊らせながら、切り崩されている。
五輪。
花は散る前に剣の切っ先に押し通されて、湖底に深く突き留められた。
ずぬん、と得も言われぬ柔らかな弾力が手に押し戻されてくる。
泥の花。
この華やかな紅蓮の花が、別にそう呼ばれるのは、泥の沈殿した汚い水に生息しているからだと言う。花が華やかであればあるほど、根を張る泥は深く、水は生ぬるく茶色く濁っている。しかし、上から見下ろす者には、鮮やかな花弁や丸みを帯びた大判な葉に隠されて水中を覗き見ることは叶わない。
何が悔しいのかはわからなかった。
宿願を果たしたというのに、なぜ満たされないのか。
おれは一体、他に何を望んだ?
「エマンダは、殺した」
この手で確かに斬りつけ、壁に抑えつけて心の臓を一突きにした。貫かれて飛び跳ねる心臓の震動も、まだこの手に刻まれている。目を向いたあの女の憎しみと恐怖に満ちた顔も、死の気配に支配されながらずるずると壁伝いに崩れ落ちていく姿も、この目でちゃんと見つめていた。
命乞いはされなかった。
ただ、憎しみをぶつけられただけだ。
幼い頃、周方城の庭で向けられた視線と同じ、憎悪に満ちた視線を投げつけられただけだ。おれと母の存在全てを否定する、あの視線。
突き貫く時よりも、泥の中から剣を引き抜く方が労力がかかった。
そして、あの女の顔を象徴するかのような六輪目の花が散る。
二度、三度とおれはその花を突き倒した。
花はばらばらになって形も花弁も分からなくなった。
それでもおれの心は満たされない。
どんなに憎悪をぶつけても、どんなに目的のものを破壊しても、おれの心の中に溜まった澱は一掃されることなく、波立つ度に深く澱みを増していく。
おれはどうしてほしかったというんだ、あの女に。
命乞いをしてくれればよかったのか?
聞く気もないくせに?
それでも、一時は屈服させられたと溜飲は下げることができたのではないか?
それなのに、あの女は最後までおれを睨みつけたままだった。憎悪をぶつけたまま息絶えた。
おれに憎しみを植え込んだのはあの女だというのに!
おれだけが一方的に悪いというように、目で責め立てるだけ責め立てて、目を閉じることもなく死んでいった。
おれが何をした?
おれは何もしていない。
おれは、ただ生まれてきただけだ。
周方皇の寵愛深い第二皇妃の息子として、この世に生を受けてきただけだ。
それなのに、どうしてそんなにも憎まれなければならない?
恨まれなければならない?
おれは、晴らしたのだ。
十五年に渡って鬱積してきたこの恨みを、ついに晴らしてやっただけなのだ。
なのに、なぜ――理解しろなどとは言わない。あの女にもあの女の第一皇妃としての立場があったに違いない。そんなことは分かっている。周方皇の寵愛を受けられず、子にも恵まれず、昼間から一人寂しげに庭をさ迷い歩くあの女の姿を、おれは知っている。おれを見る度、心苦しそうに顔をしかめ、いつしか母に向ける視線と同じ感情をぶつけるようになったことも、気づいていた。
だからといって、嫉妬に駆られるがままにおれと母を殺していいはずがない。
後宮から逃げ出した後も執拗に追いかけ、追い詰め、ついには母を追っ手に殺させた。
おれが縁もゆかりもない養父母に引き取られて生きていると知るや、おれと養父母の住む家を焼き、罪も何もない養父母まで殺してしまった。
そんなことが、許されるはずがない。
おれよりも、あの女の方が殺している。
おれは確実に殺したのはあの女一人。
あの女は父と母と養父母の三人。
違いといえば、己の手を汚したか否かだけだ。
傷つけた人数?
この剣に染み込んだ血は何人分か?
そんなこと、今更数えて何になる?
おれは殺していない。
邪魔なものを排除するために剣を揮っただけだ。
その剣に自ら辺りに来た者たちの命の数など、数えてなどいられない。
あの女を守ろうとしたなら、その者たちとて同罪だ。
おれの母や養父母を直接手にかけた者が含まれていれば、してやったりといったところだ。
「おれは……」
雨が降ればいいと思った。
天を仰ぎ、満天の星空の下、今すぐにでも分厚い雲があの明るい星を覆い隠し、弾丸のように雨が降り注げばいいと思った。
「風よ」
今のおれなら、それができる。
黄色い燐光を放つ魔法石を手のひらに宿し、握りしめる。
風を操る力を手に入れたおれになら、雲を呼び、雨を降らせることができる。
しかし、それで何になる?
契約は終了した。
きっともう、あいつらはおれの前に姿は現さない。
風の精霊王の魂を握ったままだろうと、あのプライドの高い女は、二度とおれを許すことはないだろう。
風など、吹かない。
もう二度と、おれの口から彼女を呼びつけることはできない。
おれは何を失った?
いや、何も失ってはいない。
そもそも、これはただの借りもの。本物の所有者が生まれる前に、ちょっとおれが拝借しただけのもの。力ある者の魂を握り、脅して屈服させただけだ。
これは借り物で、おれは真の所有者ではなく、力だけを求めたただの偽物。
これ以上は、おれには必要のないもの。
砕け散るように魔法石は燐光を撒き散らしながら、おれの手の中から消えていく。捕えられた蛍が両手から逃げていくように、淡い燐光を糸引きながら煌めき、散っていく。
使ってはいけなかったのだ。
風の精霊王の力など、借りてはいけなかったのだ。
しかし、借りずにどうやって周方城に入り込めた?
どうやってあの女の首を取ることができた?
必要だった。
だから手に入れた。
後悔などしない。
ことを起こす前にそう決めていたはずだろう?
そして、全てが終わったら解放してやる、と。
全てが終わったのだ。
だからもう、二度と彼女のことは呼ばない。
雨など降らなくてもいい。
このまま、この泥の湖の中に進んでいけば、この身はもろともに泥水に洗い流され、泥の泥濘の中に沈み、可憐な紅い花の苗床となる。
それで、いいだろう、もう。
母も、養父母も、分かっている。
おれが何をしたか、分かっている。
善良なあの人たちにとって、おれは――敵討ちを為した優秀な息子などではなく、血に狂ったただの罪人だ。
剣が肉を裂く度、身体の内から何かが込み上げた。
勢いよく噴きだす血を浴びる度、悦びが身体に刻まれていった。
自分がおかしいと、気づいたのはもう大分前の話だ。
そう、例えば、敵の刃からおれを守るためにおれを抱きしめていた母が斬られて血を浴びた時から、おれはその衝撃と生温さの虜になっていたのだ。
墓になど、行けるものか。
共に眠ることなど、できるものか。
おれは、あの人たちに合わせる顔など、一つもない。
剣を杖に一歩深みへと進むごとに、泥は深くなり、緩さを増していく。
紅蓮の花の茎や根は水中で絡み合い、幾度もおれの足を奪い、泥水を呑ませる。
甘くもないざらついた泥水を吐きだした時、ふと全身に悪寒が走った。
風の精霊王の力を行使しようと、周方皇の剣を振りかざそうと、血だらけのこの服が返り血だけで済むわけもない。深い傷も浅い傷も、今になって泥水を啜って痛みを訴え始める。しかし、それだけではない。この悪寒は、傷が痛んでのものでも、傷からの出血が原因のものでもない。もっと、身体の内から生命を削られていくような悪寒。
「ぐっ……は……」
思いもよらず込み上げてきたものが口から吐き出される。
赤い、血。
おれは、さっきの戦いで内臓をやられただろうか?
否。
そこまで間抜けではない。
じゃあ、この血は何だ?
衣類に染みついたあらゆる人々の血が混じったどす黒い血液とも違う、この真っ赤な鮮血は、なんだ?
『人の身で、我を従わせようというか? 人の身でこの精霊王の魂を絡め取ろうと? そんなことをしてみろ。いくら周方王の血を引く身体でも、内側から焼け爛れるぞ?』
捕らわれながらも、憐みの籠った目で睨みながら不敵に嗤った彼女の言葉が耳元で蘇った。
「そういう、ことか」
それならそれでいい。
このおれの命、くれてやる。
どうせもう、この他に為すこともない。
好きなだけ内側から抉り、喰らい尽くすがいい。
剣の柄の天辺はすでに水中の中だった。
その柄に掴まりながら、込み上げる血を、二度、三度吐きだす。
おれの血を浴びた紅い花は幼子が恐怖に身を震わせるように小刻みに震え、滴る血を留めきれずに湖へと垂れ流していく。
血が失われる度に、悪寒は酷くなる。視界は鮮やかな花も霞んでくる。
柄を握る手からも力が奪われていき、重くなった身体は水面へと呑みこまれていく。
「死ぬ気か?」
片方だけ水上に残った耳に、知らない少女の声が降ってきた。
水上に残された片目を上げる。
満天の星を背景に、黒い影に乗った紅蓮の華のごとき燃え立つように厳しい気配を纏った少女がおれを見下ろしているようだった。
口を動かすと、僅かばかりの隙間から泥水が流れ込んできた。
苦い。
ペッと吐きだすと、血も共に混じっていた。
わざわざ見知らぬ少女に応えてやる義理もない。
死ぬ気なのか、と?
おれの気持ちなど関係ない。現に、この身体は死にかけている。人の身で精霊王を使役した罪を贖うために内側から喰らわれはじめている。
それだけだ。
「満足か?」
再び降ってきた声に、おれはぴくりと肩を震わせた。
「お前は満足の行く結果を残せたのか?」
淡々と少女は声を落としてくる。
「そんなこと……」
思わず口を開いてしまい、空気とともに泥水を気管支に吸い込む。
むせたおれは、必死に剣の柄に両手で体重を預け、ひしぐ背中を丸めて咳き込んだ。
「愚かな」
感情の欠片ひとつ込められていない声に、おれは思わず天を振り仰ぐように彼女を見上げた。
「お前に何が分かる!」
叫んだ瞬間、腹の内からごぼごぼと煮えたぎった血が溢れ出た。
かきむしりたいほどの痛みが胸と腹の中を暴れ狂っている。
「お前は何だ! 誰なんだ! おれを見下ろし、馬鹿にし、愚弄し! 何様だというんだ!」
「火炎法王、炎」
黒い影の上に悠々と腰かけ、組んだ膝の上に頬杖をついて見下ろしながら彼女は思いがけない名を名乗った。
「火炎、法王……? 裁きの女神が直々におれを裁きに来たのか? 耳の早いことだ」
この世界の創世主である神の娘の一人。火炎の国を所領とし、この世に悪が生まれてからは、秤に乗せて善悪を量り、人を裁くという。
しかし、そんな存在が本当にいるとは思わなかった。
裁きの女神が本当にいるのなら、とうにエマンダは裁かれているはずだ。母と養父母の三人を先に手にかけたのは、あの女だ。この世に正義があるというのなら、敵討ちに燃えるおれを唆してあらゆる武術と暗殺術を仕込むような男が、この世界でのうのうと生きていられるわけがない。
不意に腹の底から怒りが湧き上がり、おれは泥底から剣を引き抜き、頭上の女に向けた。
そうだ、この世に正義などない。
だからおれが、自ら正義を果たしたのだ。
「届かぬ」
憐れみを込めた声が落ちてくる。
剣の切っ先から、泥水が流れ落ちてくる。
「なぜ、殺した?」
「なぜ、殺した……まるで見ていたようだな。それならなぜ、止めなかった?」
「止めてほしかったのか?」
「裁きの女神だというのなら、神界の正義を守る女神だというのなら、おれの為したことは人殺しだ。お前たちの眷属である精霊王さえ穢し、エマンダの首を獲るために何人殺したかさえ分からん。なぜ、見殺しにした?」
「……見殺し……?」
「法王様ほどの力があったんなら、いくらでもあいつらを助けてやれただろう? 無駄に血を流させずに済んだだろう? おれ一人、先に潰しておけば今夜の悲劇は……」
「悲劇だというか? それは、誰にとっての悲劇だ?」
「誰にとっての、悲劇、だと……?」
「人の心は縛れぬ。我が心の天秤は、起こったことしか量れぬ。結果が出なければ、何もないのと同じだ」
「しかし、あんたは知っていたんだろう!? 何が起こるか、知っていた。知っていて、止めなかったんじゃないか! それならあんたも同罪だ。救える命を救えなかったあんたも……」
「幼子のようだな。自分のしたことを棚に上げ、我を詰るとは。救ってほしかったのなら、何故傷つけた。止めてほしかったのなら、なぜ止めなかった。それが、お前の答えだったのだろう?」
「それならなぜ、あんたは今頃ここに現れた?! 千里を見通す耳目がありながら、おれの母が殺された時も、養父母が殺された時も、あんたは何もしてくれなかった! 本当に悪いのはあの女だ! その女をのうのうと生かしつづけたのは、あんただろう?! 裁きたいというなら、まずはあの女を裁け!」
「もう、お前が裁いたではないか」
頬杖をついたまま、裁きの女神は退屈そうに言った。
おれは、全身の力が抜け落ちるのを感じた。
振り上げた腕から力が抜け、手からは剣が落ち、泥と紅蓮の華を散らして沈んでいく。
「おれは、あんたの手のひらの上だったって言うのか?」
ははっと力ない笑いが口から零れ出て、不意に握る拳に力が籠った。
「ふざけるな!」
おれは沈みかけた剣を引き上げ、切っ先を黒い影に向けて思い切り剣を投げつけた。
当たるなど、思っていなかった。
黒い影は空中で俊敏に身を翻し、的を失った剣はより湖の深い方へと落ちて沈んでいく。
それでも虚しさを埋めるため、むしり取った花を少女めがけて投げつける。
「おれを、何だと思っている!? おれを、おれの人生を、おれの時間を、おれの大切な人を……なんだと思っているんだ!!」
花は軽い。
当然、少女まで届くことはない。
それでもおれは周りから花がなくなるまで毟っては投げつけた。
少女はそれを、無表情で見下ろしていた。
「おれは、おれは……何のために人を殺したんだ!!」
手が届く限り最後の花を投げつけて、おれは天に向かって慟哭した。
「己が恨みを果たすため、であろう? 親の仇を討つため、であろう? 誰か褒めてくれるとでも思うたか?」
感情のこもらない少女の声に、おれの頭の中はいや、視界すらも真っ白になった。
開いたままの口の中に、少女に届ききらずに落ちてきた花びらが入り込む。
「ああ……」
もっとも情けない呻き声が、口から漏れた。
血と共に花びらが口から押し出され、顎に貼りつく。
雨が、降りはじめていた。
視界が真っ白に歪んでいる。
頬が雨に塗りつぶされていく。
膝が崩れ落ち、顎まで水に浸かってなお、おれは天を仰いで――泣いていた。
馬鹿だと、思った。
全て覚悟して臨んだことだったはずなのに、どうして今更、悲しいと思うのだろう。
どうして今更、誰かの言葉が欲しいと、思ってしまったのだろう。
母と養父母の墓を目指したのは、褒められたかったから。
誰かに反応してほしかったのは、許してほしかったから。
嫌悪以外で、おれを受け入れてくれる存在(もの)が欲しかったから。
そんなもの、求めるだけでもおこがましかったのに。
そんなこと、望むだけでも愚かだというのに。
泣かずに、いたかったのに。
母が殺された時に、涙を噛みしめたのが最後だった。
家が焼かれ、養父母が殺された時も、歯を食いしばって悔しさと憎悪を復讐の糧にした。
泣いたら負けると思った。心が折れてしまうと思った。
溜め込んだ復讐の為の全ての澱が流れ出してしまうと思ったのだ。
「ああ……」
だからもう、手放していいんだ。
全て、終わったのだから。
「はは……あははははははは」
泣きながら笑うなどという芸当が、自分にできるとは思っていなかった。何がおかしいのかさっぱりわからなかったが、腹の底からおれは笑った。
憐れな己を自ら慰めるために笑っていたのかもしれない。
不意に、耳元で派手な水音がした。
はっと顔を上げると、空中の黒い影から飛び降りた少女がザバザバと泥水を掻きわけ、おれに近づいてきていた。
おれは手の甲で涙を拭い、口元の血を拭い、少女を見上げた。
泥に沈んだ膝は、もう自分では立て直せそうになかった。
「立て」
「……嫌、だ」
「立て」
「どうせ見殺しにするなら、このまま沈めればいいだろう」
やけくそに叫ぶと、燃え盛る紅蓮の髪を持つ少女は、無造作におれの手を掴んで引き立たせた。
ぬかるんだ泥から膝が解放された瞬間、勢い余って前のめりに少女に倒れ込む。
少女は押し倒されて無様に湖水に沈むことはなく、しっかりとおれを抱きとめていた。
おれは、何が何だかわからなかった。
濡れた衣服越しに、久方感じたことのなかった生温かな生きる者の温もりが伝わってきた。
「お前に償いを命じる」
「償い……?」
「生きろ」
耳元で少女は囁いた。
それがおれへの罰なのだと、淡々と。
もはや、何も為さなくてもよい。
今はただ、生きろ。
せっかく母親に庇われ、養父母に育まれた命を投げ出すな、と。
それは、絶望にも近い光の言葉だった。
「どうやって……」
自嘲混じりの呟きを、少女は嘲笑った。
「だから、罰なのだ」
その嘲りは、なぜか少女自身にも向けられているように聞こえた。
「いつか――そう、いつか。お前のような子供が剣を持たなくてもいい世界を作ってやる。その時までお前は生きて、それを見届けろ」
自戒に満ちた囁きを残し、少女は腕を解いた。
その身を、空中を彷徨っていた黒い獣がくわえ、飛び去っていく。
「約束だ。いいか、約束だからな!」
黒い獣の背に飛び移った少女が振り返り、念を押すように叫ぶのを、おれは茫然と見送っていた。