聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第1章 鈴の音は導く

1 (風→宏希)
 夢を見た。
『生きろ』
 と、力強く囁かれた。
 そう囁いた少女が、今、隣で眠っている。
 目を覚ます気配はない。
 カーテンの隙間からは、夜明け前の薄明かりが忍び込みはじめている。
 顔を、覆った。
 万が一今、彼女にこのおれの顔を見られないように。
 誰の顔になっているかわからない、この顔を見られないように。
「風?」
 さすがに気づいたのだろう、寝ぼけた炎の声が聞こえてきた。
「どうした?」
 もぞもぞと起き上がると、炎はおれの頭を包み込むように抱き寄せた。
「怖い夢でも見たのか? ん?」
 恐い夢。
 恐い夢?
 恐いのは、夢の中よりも今の方だ。
 薄氷を踏むようなこの現実に引き戻された今の方が、よほど怖い。
 小さい頃、よくそうしてくれたように、炎は優しくおれの頭を撫でる。
「おれは……子供じゃない」
「ああ、そうか」
 小さく抗議しても、炎は頭を撫でるのをやめない。それどころか、髪に小さく口づけてくる。
「炎」
 静かに苛立ちを込めて、おれは彼女の名を呼んだ。
「ん、なんだ?」
 眠る前の甘さが消えた、母のような姉のような家族としての優しい声。
 そんな声が聞きたいんじゃない。
「炎」
 わざと手荒に彼女をベッドに押し倒す。
 見上げた彼女は、してやったりとばかりににんまりと微笑む。
「風」
 甘い声で囁かれ、伸ばされた腕がおれの首に絡みつく。
 もう少し明るければ、彼女の紅蓮の瞳に映る自分の顔を見ることができただろう。
 誰の顔になっていただろう。どんな表情をしていただろう。
 見ることができなくてよかった。
 きっと情けない不安げな顔をしているのだろう。
 慰められなければ心の平衡を保つこともできないほど、おれはこの現実が恐ろしい。
「泣きそうな顔をしてる」
「言うな」
「そんなに怖い夢だったのか?」
 からかう唇を荒っぽく塞ぎ、中に舌を捩入れ絡めながら吸う。
 炎の味がする。
 甘い紅蓮の花の蜜を吸うように、万遍なく味わい尽くす。
 くぐもった呻き声が次第に蕩けていき、甘いため息に変わっていく。
 凍りついたように冷たかった指の先が彼女の肌に温められ、感覚を取り戻していく。
 一つになっていく感覚の中に溺れながら、おれは自分を取り戻していく。
「風」
 そう、おれは風環法王。
 この世界の統治者である夫婦の間に生まれた第七子。
 薄闇の中でもわかる白い肌。額に落ちかかる髪は黄金。瞳の色は碧。成神後、兄姉に憚って留めた年齢は十七。
 そして、今抱いているこの女性は火炎法王。
 風の、二番目の姉。
「炎、まだ、だめ」
 快楽を追い求めはじめた姿に釘を刺し、我慢を強いながら快楽を与えて苛め抜く。
 浮かんできた涙を吸取り、額を合わせる。
 初めて彼女を抱いた時、彼女はまだ十六だった。
 今のおれよりもまだ少し若かった。
 それからようやく再会できた時、彼女は少女のさなぎを脱ぎ捨てて大人の女性になっていた。むしろおれの方がかなり幼くなってしまっていて、もどかしくてかっこ悪くて仕方なかった。
 それでもようやく、こうやってこの腕の中に取り戻すことができた。
 おれの与える快楽の中に身を委ねた彼女は、十六の時と変わらない。
 可愛い。
 愛しい。
 もっと彼女が欲しくなる。
 おれの女神。
「いいよ」
 おれの一言で、呪縛が解けたように彼女の身体が震える。
 それを抱きしめて、おれも募った思いを吐きだす。
 霧が晴れていくように本能を理性が消していく。
 夢が、終わる。
 夜明けの明かりが床まで照らしはじめている。
 また今日も、彼女を姉さんと呼ばなければならない一日がやってくる。
「ふーう」
 とろんとした目で炎はおれの髪に指を差し入れる。
「大好き。愛してる」
 和らいだ目が、その言葉が真実であることを伝えてくる。
 あともう少し、眠りを貪ってもいいだろうか。
 髪に差し込まれていた手をとって、かわりに指を絡ませる。口づけようとして、はたと思いとどまる。
 その薬指には、風が小さい頃から一度たりとも外されたことのない指輪が嵌められていた。銀色の何の装飾もない他愛のない指輪。
 間違えても、これを外そうとしたり、これにおれが口づけることは許されない。
 もどかしい、印。
 これが何であるかを、おれは知っている。
 これは昔、おれが作ったものだったから。
 だけど、おれはこれを渡せなかった。
 何故なら、渡す前におれは死んでしまったから。

 ――という、夢を見た。
「……思春期の男子になんつー夢見せるんだよ!」
 枕を投げつけて、夢の残像を振り払う。
 まだ目覚ましが鳴る前だったからよかったものの、そんな時間だったら大惨事だったぞ。
 頭を抱えながら、シャワーでも浴びて頭を冷やそうと着替えを抱えてそろそろと部屋を出る。
 だが、なんてことだろう。
 折悪しく、向かいの部屋からトイレにでも行こうと出てきた妹の茉莉とかち合ってしまった。
 どんなに廊下が暗くても、茉莉の怒りと嫌悪のインジケーターが急上昇していくのが感じられる。
「宏希の、変態〜っ!」
 叫ばれたあとは、ラブコメならお決まりの平手打ちが来るところだが、うちではそうはならない。
 茉莉はおれに触れるのも嫌なくらい、俺のことが大大大大嫌いだった。
 トイレに行きたくて出てきたんだろうに、ばたんと部屋に引っ込んでしまった。
 やれやれ、とおれはため息をつく。
 どうして着替え持って夜中に部屋から出てきただけで、変態呼ばわりされなきゃならないんだ。(いや、あたってるけど。やましさくらいならあるけど)
「茉莉、二階のトイレ使えよ。おれ、下の方使うから」
「はぁ? バカっ、変態っ!!! もう、信じられないっ!」
 ドアの向こうから喚いている茉莉の声にはこれ以上構わず、おれは大人しく下に降りる。心持ち階段を降りる足音を高くして。
 下に降りると、上で茉莉がそろりと部屋から出てくる気配がした。
 ほんと、やれやれだ。
 これだからこの年頃の男子の体は扱いに困る。
 いやいや、体は正常なんだ。おかしいのはああいう夢を見ることの方。
 あそこまで刺激が強いのは久しぶりだった気がする。
 それでも慣れとは恐ろしいもので、炎の体の曲線美よりも、あの頃何に悩んでいたのかということの方が気になってきている。
 あの頃といっても見せられる前世の記憶はランダムで、あんな秘め事のシーンだけからではとうていいつの時代か計り知れないことが多いのだが、今回は――第二次神闇戦争の前、か。
 風が炎と結ばれたのが奈月の戦いの直後。それからちらつくキースの面影に苦しめられはじめたのが第二次神闇戦争の頃。
 だから、きっとその頃だ。
 炎の側にいられたら満足だと思ってた。
 どんな姿になったって、たとえ血が繋がってしまったとしても、永遠に彼女の側にいられるなら、自分はどんな代償でも払おうと思っていた。
 まさかその代償が、自分の影に苦しめられることだとは思いもしなかったけど。
 炎がキースを愛し続けていることは、おれにとって嬉しいことであり、風にとって辛いことだった。
 はじめは風だって指輪を見る度に葛藤するほど辛かったわけじゃない。
 幼少時は彼女の薬指の銀色の輝きに気付いた時、驚きと嬉しさが込み上げ、誰も見ていないところで小躍りしたくらいだ。
 彼女はおれのことを忘れないでいてくれた!
 それだけで十分だった。
 あれ以来、彼女の心に深く残ることができた男は自分だけだったのだと自尊心が満たされた。
 いつからだろう。
 あの銀色の指輪が嵌められた左手の薬指から目を逸らすようになったのは。
 彼女を手に入れれば、全てが丸く収まると思っていた。
 なんなら、自分はキースなのだ、といつか名乗ろうと思っていた。
 それが、とうとう名乗り出る日が来ることもなく、彼女はおれの腕からいなくなってしまった。
 彼女を抱けば抱くほど身体が満たされて、心が満たされて、自分という人物が確立されていくようだった。
 彼女の紅蓮の瞳に映し出される風の姿を自分と認識し、自分と風が一つになっていく度に、おれはどんどん自分がキースだと名乗れなくなっていった。
『風、大好き。愛してる』
 そう囁かれるたびに、おれは自分が風になっていくのを感じていた。
 彼女がおれを風に作り直していったのだ。
 時のかさみはあっという間に人として生きた時間を飛び越して、悠久の時へと移っていく。むしろ、人であった時間が夢幻のほんのひと時であったかのように自分のアイデンティティは薄れていき、自分は元から風だったのではないかと、キースなどという人物は幼い頃絵本ででも見た物語の主人公をなぞっただけなのではないかとすら思えてくるほどだった。
 自分はキースなのか、風なのか。
 まさか悩むことになろうとは、女神と契約したときには夢にも思わなかったのに。
 だってそうだろう?
 炎を好きなのは自分だ。キースだ。
 それが新たに風として愛し始めるなんて、思いもしなかったのだから。
 彼女は、キースのことは一度も話してくれたことはない。
 過去の男のことは、何一つ口に出したことがない。
 聞いても、『今あたしの目の前にいる男があたしにとっての一番の男さ』、と嘯くばかり。
 じゃあ、その指輪はなんなんだ、と聞ければよかったのだが……

『戒め』
 彼女は銀色の指輪に口づけて、そう呟いた。
『二度と、大切な人をなくさないようにするための、これは戒め』
 睫毛に悲しみを宿らせながら、彼女はそう、繰り返した。

 ああ、なんだ、聞いてるじゃないか。
 どうして忘れていたのだろう。
 こんな大切なこと。
 こんな、大切な……まるで、キースを今でも本当は忘れられないんだ、みたいなこと……
 そうか、だから忘れてたのか。
 それを聞いてからおれは、キースの影を彼女の心の底に見るようになったのだから。
 聞くんじゃなかったと、もう二度と聞くものか、と。
「違う……のかな」
 欲しかった答えじゃないから、ではないだろうか。
 本当はなんて言ってほしかった?
 戒めだなんて、そんな過ちみたいな言い方してほしくなかった。
 二度となくしたくない、なんて、また次に大切な人ができた時のことなんて考えてほしくなかった。
 ――大切な人の形見。
 それだけでよかった。
 それだけで、おれは満たされた気分になれたのに。
『まだキースのこと忘れていないよ。今でもまだ、ちゃんと愛してるよ』
 そう、言ってほしかった。
 風に向かって、そんなこと言えるほどデリカシーが無い女なわけないけど、風なんて二の次でよかった。一番はキースだって言ってほしかった。
 それなのに彼女は、『風、大好きだよ。愛してるよ』と囁く。
 何番目の愛なのか、と問いたかった。
 身体は許しても、心の一番は譲らないでほしかった。
 譲られているのかどうかすらも分からなかったけれど。
 風と付き合いはじめてから、彼女に他の男の影がちらつくことはなくなった。心底おれだけを見つめてくれていた。それだけで満足できればよかったのに、おれは、足りないと思ってしまった。
 どうしてほしかったのかな。
 キースも風も愛していてほしかった?
 亡くなった人のこと、いつまでも追いかけていてほしかった?
 おれを愛してくれれば、キースのことも取り戻せるんだよ、と、どうして早くに囁いておかなかったんだろう。
 風として生きていく限り、おれはどんどんキースに戻れなくなっていって、いつしか自分の恋敵が前世の自分になっていた。

「風様って素敵よね〜」
 そう、笑えない。
 今生もこの女は何の気なしにそんなことを言ってくるのだから。
 朝から元気に揺れるポニーテールに眩しさを覚えながら、おれは心の奥底でげんなりと溜息をつく。
 今度のおれの恋敵は風か、と。
 科野葵の左手は保育園に通う弟の宝也と繋がれている。
 おれの右手は同じ保育園に通う直緒の手を握っている。
 弟たちとの身長差は七十センチ前後。弟たちは弟たちの目線できゃらきゃらと高い声でおしゃべりが繰り広げられている。おれたちはおれたちの目線で、無難に近づく文化祭の話でも、と保育園に送る朝の道すがら切り出そうとしたら、これだ。
 空気を読め、空気を!
 慌てて弟たちが聞き耳を立てていないか確認するが、彼らは彼らの世界でまだ話題は完結していた。
「何慌ててんの」
 けらけらと笑う科野の姿でさえ、朝の光を受けて神々しく見えるのだから勘弁してほしい。
 今朝がた見た夢の汚らわしさを悟られぬよう、おれは顔を背ける。
「え〜、なに〜、まさか昔の自分に嫉妬〜?」
「お、いっ」
「やだっ、怖ーいっ。あははははっ」
 あははははっ、じゃないっての。
 母がちょっとした病気で手術が必要で、入院している間だけ、茉莉と交代で弟の直緒を保育園に送り迎えするようになって二週間。同じ保育園に科野の弟も通っていると、たまたま朝、科野と一緒になって知ってから十日あまり。兄弟の多い科野のところも交替で送り迎えをしていると聞いて、朝、科野と一緒に保育園に弟たちを送っていくのはこれが三回目になる。
 意外に制服組の送り迎えというのはいるもので、ちらほら岩城学園の制服を着た生徒たちが年下の弟妹達の手を引いている。
 岩城学園にあるのは幼稚舎で、保育園はない。数年前、母が復職するにあたって都内を必死に探し回っていたことをふと思い出す。
「ったく、朝から能天気な。何かいい夢でも見たのかよ」
「うん!」
 大きく頷いた勢いでポニーテールが大きく跳ねるように揺れる。
 そう言えば、炎もいつも後ろで長い髪一つに結わえていたっけ。
 こんなにあけすけに能天気に笑ってる姿はあまり見たことがなかったと思うけど。
「今朝は風様がね……おっと、これはいくら河山にでも言えないな。ふふふっ」
 少し頬を赤らめて思い出している様は、どこからどう見ても恋愛に初心な少女そのものだ。例えば、キースと出逢って次第に意識しはじめていった頃の炎の表情によく似ている。
 それでも、今が平和だからなのか、彼女の笑顔に影はない。
 炎は、誰かに心を許すことを極端に恐れている節があった。
 どんなに豪快に兄弟たちに笑って見せていても、どんな困難が降りかかっても部下たちに笑い飛ばして見せていても、心の中では「大丈夫、何とかなる。あたしが何とかする!」と決意を固めているかのようだった。自分が何とかしなきゃ、自分しかできないんだ、と思い詰めているかのような節があった。
 結局、彼女は何か困ったことになっても人に頼ることが下手くそだったと思う。もっと相談して助けてもらったっていいのに、と思うことが何度あったことか。風が力を得てからはこっそり上手くいくように裏で尽力したりしたものだけど、今の彼女については、兄弟が多いせいだからなのかなんなのか、豪快な姉御肌はそのままだけど、思い詰めて一人で抱えていくような節は見当たらなくなっていた。
 いいことだと思う。
 自然に誰かに頼れるようになったことは、彼女にとってはとてもいいことだと思う。
 もし炎もそうだったならば、きっとあんな最期にはならなかっただろう。
 思い出しかけて、おれは目を伏せる。
 危ない危ない。
 朝っぱらからあっちの世界に引き込まれてたまるか。
「今の科野なら、風に耳元で囁かれただけでもテンションあがってそうだよな」
 ぼそっと嫌味混じりに制裁をかける。
「何よー、その言い方。そういう河山はどうなのよ。炎、素敵〜とかってならないの?」
 ずいっと近場から顔を覗き込まれて、思わずおれは首から仰け反る。
「っ、痛っ。首が……っ」
 変な仰け反り方をしたせいで、首がおかしな音を立てていた。
「だいじょうぶ、お兄ちゃん?」
 心配そうに直緒が見上げている。
「直緒くんのお兄ちゃん、だいじょうぶ?」
 科野の手に繋がれた宝也まで穢れない目で心配そうにおれを見上げている。
「大丈夫、大丈夫。心配ない、これくらい」
 こきこきと首を動かして、攣りかけたあたりをほぐして、元気に笑ってみせる。
「よかった〜」
 それだけで、純粋培養された天使たちは顔を見合わせて安心したように頷き合っている。
「二人ともおっとりしてて助かったな」
 くくく、と笑いながら科野が先に歩き出す。
 おれはもう一度首を回して後を追いかける。
 彼女の背中で、朝日を反射しながら黒いポニーテールが揺れる。
 できることなら、彼女の背中はあまり見たくない。
 いつもおれは、君を追いかけてばかりだから。
 何かあれば、君の前に立って君を守りたい。
 平素であれば、さっきのように君と並んで共に歩きたい。
 それだけが、おれが風から受け継いだ君への願い。
 弟たちを保育園に預けて、高校へ向かうまでの間、科野の歩く速度は弟たちと歩く速度よりも大分早くなる。急いでいるからではなく、それが本来の彼女の早さなのだそうだ。闊歩するという言葉がまさに似合うような歩き方で、胸を張って凜と歩く姿は美しい。あまり早く歩くと彼女と一緒にいられる時間が減ってしまうから、おれとしては少しゆっくり目に歩いてほしいのだけど、凛々しく歩く彼女と並んで歩けるのもまた一興と言い聞かせて、それは口には出していない。
 科野との関係?
 それは、何とも微妙なところで、はっきりと付き合っているかと言われればそういうわけでもなく、でもなんとなくお互いの想っていることは分かるというか、そういう曖昧な状態のまま今に至る。
 火炎法王の生まれ変わりである彼女を見つけたのは、おれが訳あって東京に来てしばらく経った頃。そして確実に再会できたのは、中学受験で岩城の中等部に入学した時のこと。
 入学式のあの日、学園の桜並木の下、初等部からの持ちあがりで入学してきた生徒たちの中に彼女はいた。今思えば草鈴寺や藤坂と一緒だったのだが、おれの目は彼女だけに釘付けになっていた。
 見つけた、と思った。
 ようやく、逢えた、と思った。
 心の底から魂が震えるように歓喜の叫びが聞こえてきて、おれの身体から声となって抜けようとするのを、意味も分からず拳を握って堪えた。
『え、ん』
 両拳を握ったまま立ち尽くし、呟くと、友人たちと談笑していたはずの彼女はおれの声が聞こえたかのようにこちらを見た。
 遠くから不思議そうに小首を傾げていたのを、今でも鮮明に思い描くことができる。ゆっくりと流れるように黒いポニーテールが揺れていた。
 しばらく、と言っても、彼女はすぐに隣にいた友人に小突かれていたから我に返ったのだろうけど、おれにとっては大分長いこと見つめ合っていた気がした。
 すると、彼女は友人たちの輪から抜け出して迷うことなくおれの前まで歩み寄ってきて、にっこりと笑った。
『久しぶり』
 それはもう、上機嫌の。
 念願がかなったと言わんばかりの嬉しさがはちきれそうな笑顔だった。
 おれは今すぐにでも抱きしめてしまいそうなのを堪えて、『やっと逢えた』と言った。
 そもそも、あのセリフはおれが言ったというよりも、風がおれの口を借りて言ったようなものだった。
 そう、そこでおれはようやく、この懐かしさの正体がおれ自身の記憶にあるのではなく、おれが生まれるずっと前の人物の気持ちなのだと気が付いたのだ。
 それから、おれは度々夢を見るようになった。現代日本の影も形も感じられない中世ヨーロッパ風の宮殿で暮らす夢、戦争の夢、鉄球のついた鎖で敵を薙ぎ倒す夢、愛しい女性を慈しむ夢。
 おれと科野は、その頃からすでに連絡を取り合ったりするような仲だった。ただし、おれも科野も親しい友人たちにもそのことは告げておらず、こっそりと秘密を共有しあうような仲だった、と言った方がいいかもしれない。
 だから、いますぐ側に空いた科野の右手があるけれども、おれはそれを容易く握ることは未だにできない。むしろ、再会した日から日が経つにつれて、どんどん恋人というよりも仲間という枠に閉じ込められていくようだった。
 おれは科野を見ているつもりだけれど、科野はおれを通して風を見ているようだったから。
 話せば話すほど、秘密を共有すればするほど、彼女の風への憧れが強く印象付けられていって、おれは彼女に何も言えなくなっていった。
 さっきだって、「風様って素敵よね〜」とか、できることならもうあまりおれの前で言ってほしくないのに。むしろ、「炎、素敵〜」ってならないのかって聞かれれば、映画の女優のように素敵な女性だとは思うが、それだけだ。多分、科野自身もそんなものなんじゃないだろうか。メディアで見る芸能人への憧れと同じように、毎晩の夢を映画のように見ているだけなのではないだろうか。そうじゃなきゃ、あんなに軽々しく弟たちがいるところでも昨日のテレビの話をするように話題に出せたりするものか。それも本人に向かって、きゃっきゃと浮かれている時点で、おれが思うのと同じ気持ちは抱いていないに違いない。
 ただの親しい異性の友人。
 それくらいのものなのだ。きっと。
 今年の四月、中等部の木沢光をターゲットに闇獄界から闇獄主の一人が魔法石を狙ってきたのだと科野から聞いた。その時、彼女は思い切り人前で魔法を使ったと言っていた。人前、と言っても同じクラスの夏城や守景や三井や藤坂のことだったが、彼らもまた、その前世の兄弟姉妹たちだったと聞かされて、おれはぐらりと意識が揺らぐ思いがした。おかしなことに、炎はすぐに見つけられたが、他の兄弟たちまで一緒に転生してきて同じ学校にいるとは思っていなかったのだ。
 魔法は、二人だけの時にこっそりと試したことはあった。
 はじめに使って見せたのは科野の方で、当たり前のように灰皿の上に載せた新聞紙の欠片に火を灯して見せた。おれはその火を吹き消すように一瞬の強い風を起こすことができた。あまり強い魔法は大事件にもなりかねないから使うのは我慢して(科野談)、ほんの少しずつ、記憶を寄せ集めるように魔法の呪文も思い出していった。
 そして、先月、夏合宿に行った先で今度は三井が前世の実の娘に狙われて、おれもそこで初めて人前で身を守るために魔法を使った。
 風の魔法。
 だけど、威力はと言われれば、科野のように爆発的な破壊力を発揮するほどのものではなく、多分周りの奴らは多分わざと力加減したと思っているかもしれないが、本当に法王が使い手なのかと聞かれても仕方がないくらい、身を護り敵を撃退する神界の一般魔法兵レベルの魔法くらいしか使えなかった。
 今朝、夢の夢で見たキースが周方宮を襲撃した時ほどの魔法など、夢のまた夢だったのだ。
 風の時だって、あれほどまでの暴風を吹き荒れさせたことはなかった気がする。いつも適当に身を守ったり治癒したりするのを専門にしていたくらいで、大勢の闇獄兵を風で吹き飛ばすほどの戦いを、おれはついぞできなかったのではなかったか。
 科野の手を握れない代わりに、左手に密やかに風の渦を宿してみる。
 これくらいなら呪文もなく起こすことができる。何ならドライヤーの代わりに髪を乾かすくらいのこともできる。だけど、それ以上は。
「そういえば、今日の放課後も練習やるって、左右田から連絡来た?」
 おれは早々に興味の方向を変えようと試みた。これ以上、昔の自分に嫉妬させられても面白くない。
「いいですよーだ、もう。はいはい、左右田から練習追加の連絡ね。来た来た」
 科野は、鞄からスマホを取り出して確認しながら答える。
 見ているのは、昨夜おれにも送られてきた文化祭で上演する演劇の追加練習のお知らせだ。
 言っておくが、おれも科野も演劇部じゃない。おれはテニス部、科野はバスケ部。
 そのおれたちに声をかけてきたのは、映像研究同好会副会長で隣のクラスの左右田だった。映研では、今プロジェクションマッピングに凝っているらしく、これを使って映像をとりたいと思っていたが、文化祭となると演劇部も忙しい。役者が足りないということで、科野の運動神経の良さとおれのルックスが選ばれた、と。そこはおれのことも運動神経で選んだと言ってほしかったが、優しそうでつかみどころのない笑顔が科野演じる主人公の相手役にピッタリだ、と左右田には力説された。
 映画のタイトルは名付けて『五稜郭のゆり〜幕末の嵐〜』。
 時は幕末。
 新選組入隊を豪語して出奔した兄に成り代わり男として家を継いだ少女が、討幕の嵐に巻き込まれ、戊辰戦争のさなか脱藩して函館に渡り、五稜郭で儚くなるまでを壮大に描き出す。
 もちろんフィクションなのだが、その少女役には科野が、少女の兄と同い年で幼馴染ながら家が格下のため、少女のお守役兼付き人として見守るだけの歯がゆい立場に置かれているのがおれ、という世にもありそうな構図に、あらすじを聞いた三井や織笠は大笑いしていた。
「そもそも、あの時代に男装の麗人ってのが、設定的にも史実的にも無理があるよなー。科野、ちょんまげ結うの?」
「結わないよ!!」
 真っ赤になってそっぽを向くと、さらさらと科野のポニーテールが揺れる。
 ちょんまげのかつらだけは、おれも科野も、いや、出演者全員が丁重に辞退した。「時代考証が〜」とか言う左右田には、「土方さんだって、この時には短髪だよ!」とスマホで検索した写真を突き付けて、なんとか事なきを得たのだ。
「プロがフィクションでやるなら見ていても面白いだろうけどさ、高校生の文化祭の演劇舞台の出し物にしちゃ、ハードル高いよね」
「演劇部ならまだしも、おれらただのバスケ部とテニス部だしな」
「そうそう。それなのに、左右田は気合い入れてプロジェクションマッピング作ってるし」
「気合の入り方がおれたちと違うよなー」
 運動部は文化祭はクラスの出し物に注力するくらいだから、他の文化部の奴らより暇っちゃ暇だが、いきなり映研プロデュースの舞台に出ろ、というのはいくらなんでもあんまりな話だと思ったものだ。
 が、科野が引き受けてしまったのだ。
「もしかして、後悔してる? 役、引き受けたこと」
 「んー」と考えながら、科野は筋雲が列をなす青空を見上げる。
「あたし、昔から文化祭の演劇といえば王子様役とかが多かったからさー、女役やれるの、これが最初で最後かもって思ったんだよね」
 科野なら、王子役もさぞかしばっちりだったことだろう。きっとそこらの男がやるよりも男らしい王子になっていたに違いない。
「でも、今回だって女役って言っても男装してるじゃないか」
「お姫様に求婚しなくてもいいだけ、女役だなーって思うじゃん? それに」
 考えながら、科野はふと言葉を途切れさせ、上目遣いにおれを見つめた。
「なに?」
「今日練習するの、問題の最後のシーンだよね? ――河山、台詞練習してきた?」
 探られるように聞かれて、おれは明後日の方を向いた。
 「それに」、の続きがどうして今日の練習のシーンに繋がるのか。それは、五稜郭での最終決戦の前、旧幕府軍が総崩れになった矢不来でのこと。主人公の少女は降りしきる銃弾の中で大怪我を負い、おれ演じる幼馴染の付き人に背負われて戦場から命からがら撤退するのだが、追っ手に囲まれ、あえなく幼馴染の付き人は主人公の少女を別の隊士に預けて逃がし、自分は殿を務めるために生き別れとなってしまう。そこまではフィルムに記録したものを流すことになっている。撮影はほぼほぼ終了しており、今は左右田が腕によりをかけて編集しているに違いない。問題は、その映像の後。最後に五稜郭の最終決戦の前夜、男装の少女と幼馴染の青年が再会を果たすシーン。ここだけは生で演じてほしい、というのが左右田の依頼だった。
 映像を撮りきるために素人ながら台詞を覚え、演技のようなことをし、箱館戦争での周りの隊士役にも運動部(主に剣道部)が多数駆り出されたことで大根役者ぶりも薄まっただろうと多少安心していたものの、文化祭の最終日、プロジェクションマッピングを投影するために生で演技してほしいというのは、いくら何でも素人には荷が重い。しかも、その最後のシーンが、なんていうかもうこっ恥ずかしいとしか言いようがないシーンなのだ。
 最後に振り向いて、ただ抱きしめられるだけの科野は、大して台詞もないからいいだろうが、おれの方はそうはいかない。
 『科野さんと河山君をイメージして書きました!』って、ノリノリで台本見せられた時には、思わず何かの因縁を感じずにはいられなかった。
 どんな台詞かって?
 それは、言えるわけがない。
「本番さえ何とかなればいいだろ」
「あー、それって失敗するパターンだ。残念でしたー。最後だけかっこつけて決めようったって、そうは上手く問屋はおろさないんですー」
 何が言いたいんだ、科野は。
 台詞くらいは見た。でも、あれを本当におれに言えっていうのか?
 そりゃあんまりだろ。って、台本描いたのは監督兼務の左右田だけど。
 おっと、科野ばかり責めていても仕方ない。この話題にわざわざ触れたのは、他でもない。
「おれ今日、茉莉と直緒のお迎え交換したんだよ。あいつ、どうしても部活の練習今日は抜けられないからって。だから、四時くらいには出ないといけないんだ」
「ちぇっ。あーそうですかー。いいですよー。どうせ張り切ってるのはあたしだけですよーだ」
「なんでそうやさぐれるんだよ」
「風に夢中なのもあたしだけですー」
「だーかーらー」
 思わず苛立ちが声に出てしまう。
 科野は立ち止まっておれを見つめ返した。
「ねぇ、あたしたちだけの秘密、きっともう無くなっちゃったんだね」
 無表情で呟くように言ったかと思うと、最後ににこっと悲しげに笑って、科野は先に駆けだした。その向こう、校門の前には藤坂と守景が並んで歩いている背中が見える。
 走る科野の背中では、ぽんぽんと黒髪のポニーテールが揺れている。
 心なしか、元気がない。
 でも、今ここでおれはその背中を追うことはできない。
「仲良く登校ですか。おはようございます、河山君」
「うわっ、工藤っ」
 背後から眼鏡に七三分けの、近年まれに見る絵に描いたような秀才スタイルの学級委員長兼学園高等部生徒会長に声を掛けられて、おれの背中は悪事を見つかった時のようにびしっと伸びる。
 こいつが統仲王だと科野から聞いてからは、尚更いろいろ見透かされてるんじゃないだろうか、と開き直っていた風の頃に比べたらごくごく小市民的な反応をしてしまう。
「なぁ、お前ら、付き合ってんの? 付き合ってないの? 付き合ってたんじゃなかったの?」
 ひょこっと工藤の反対側から三井が現れて、下からわざとらしくおれの顔を覗き込んでくる。
 おれは守景たちと合流して楽しげに昇降口に向かう科野の背中を見つめながら、思わず「さぁ」と呟いてしまっていた。
「『さぁ』?! えっ、そうなの? 夏合宿の時なんかあったんじゃなかったの?」
 夏合宿の時、科野と?
 あれは、科野がバリバリ暴れられるぞーってテンションあがっていただけだろう。ついでに言えば、炎と風は相性がいいから、火力強めてくれとおれのことを呼んだにすぎない。
 キスはおろか、手さえ繋ぐ機会もなかったっていうのに。
 というか、きっとあの時、おれたちは秘密の共有者っていう建前すらも失ってしまったんだろうな。
 前世の恋人が、また恋人同士にならなきゃいけない理由なんてない。
 そりゃ、そうだ。
 じゃあ、おれは何のために科野を見つけたんだろう。
 何のために、ここまで来たんだろう。
 彼女を追いかけ、探し求めて。
「三井、佳杜菜ちゃん元気?」
 ふと、何気なく聞いてみる。ほんの少し、上手くいってなかったりして、と悪意めいた期待をして。
「おうよ。見ろよ。この間も二人で江の島の水族館行って来てさ」
 目の前に押しつけられたスマホの大画面には、頬を寄せ合って一つの飲み物をハート形のストローで飲む二人の写真。
 こいつ、ついにガラケーからスマホに乗り換えたか。
 恋人の力は偉大だ。
「ごちそうさま」
 わざわざスマホまで出して見せてくれた三井に心の籠らない礼を言って、おれはすたすたと一人で校舎までの残りの道を歩きはじめる。
 とうに科野の姿は校舎の向こうに呑みこまれてしまっている。
「なんだよー、冷たいじゃん。さっきの写真はお付き合い一か月記念でさー」
「はいはい」
「聞けよ」
「聞いてるよ」
「大変ですね、河山君も」
「じゃ、代わりに聞いてやって。お先〜」
 鬱陶しいくらい朝からテンションの高い三井を工藤に預けて、おれは歩く速さを速めた。
 別に今更科野に追いつきたかったわけじゃない。
 ただ、前世の夫婦がまた恋人同士から上手くやってる事例なんて今聞きたくなかっただけだ。
 おれと科野の方が出会うのは早かったはずなのに。
「やっぱり、難しいもんなのかな」
 出会うことはあってもすれ違ったり、長く続かなかったり、認められなかったり、手放さなければならなかったり。
 運命、なんてたった二文字の言葉のせいにもしたくなってくる。
 もしそれのせいにできるのなら、統仲王だった工藤に文句の一つや二つも言ってやりたいところだ。
「何が難しいんですか?」
 チリン、チリン、とネコの首輪の鈴のような音がした。
 ぞわっと背中が粟立つ。
 靴箱から内履きを取り出しかけた手が止まる。
 油の注がれていないカラクリのように、ぎぎぃっと首だけを左に向けると、そこにはごくごく最近、男子テニス部のマネージャーとして入部してきた一年の美竹真夢がいた。
「おはよう、美竹さん」
 笑顔が引き攣っていたとしても、もはや不可抗力だ。
 美竹真夢は、入部以降、ちょくちょくこうやって不意打ちで、しかも風や炎のことを考えてる時におれに話かけてくる。まるで頭の中で考えていることが見えているんじゃないかと思うほど、嫌なタイミングで、だ。
「おはようございます、河山先輩」
 声は可愛い。顔も、まあかわいい。だけど、この苦手意識は彼女が入部してきた当初からのもので、すでにどうしようもない。
「朝から難しい顔して、何かありましたか?」
「いや、特に何もないよ」
「真夢、男子テニス部のマネージャーとして、部員の皆さんの精神状態にも気を配らなきゃいけないなって。だから、何かあったらいつでも相談してくださいね」
 入部して半年の一年に相談できることなんてそうそうないんだけど、と言いたい言葉を呑みこんで、おれは簡単に「ありがとう」とだけ返す。
「遠慮しないでくださいね」
 彼女の動きに合わせて、ちりちり、ちりちり、彼女の手元の鞄から鈴の音が聞こえてくる。
 昨日、茉莉の鞄からも同じ音がしていたっけ。
 嫌われているから余計なことだと確かめられなかったけど。
「その音、鈴?」
 つい気になって、手短に済ませるはずだった会話を引き延ばしてしまっておれは内心頭を抱える。
 美竹真夢は顔をぱっと明るく輝かせ、いそいそと鞄から赤いストラップで結ばれた二つの鈴を取り出して見せた。
「これ、今はやってる縁結びの鈴なんです。好きな人がいる人が持てば、想いが叶い、まだ好きな人がいない人が持てば理想の人に出会えるっていう」
 さて、茉莉はどっちだろう。好きな人がいるようには見えないが、そうか、茉莉も中二だから、恋愛とか興味が出てくる年頃なのか。
「河山先輩もお一つ、いかがですか? 御利益たっくさんあるんですよ。好きな人とたくさんお話しできるようになったり、やってみたいと思っていたことにチャレンジできるようになったり。だから私、みんなにも持っててほしいなって思って、いくつか多めに持ってるんです」
 ほら、と美竹は鞄からパッケージングされた縁結びの鈴をざらりと十個ほど出して見せた。それぞれ赤だったりピンクだったり水色だったり黄色だったり、と、女の子たちの好きそうな色でストラップと鈴のカラーリングが統一されている。しかも片方はもう一つの鈴よりも華やかな透かし模様の装飾が施されていて、これはさぞかし女の子たちも欲しくなるだろう、と思えた。
 が、おれは残念ながら年頃の女の子じゃない。
「いや、いいよ。おれは。そういうのは」
「それじゃあ、妹さんとかにどうです? 煌びやかな方を女の子が持って、質素な方を殿方が持つと、良いご縁が結ばれるんですよ。はい、どうぞ」
 ずずいと赤いストラップで結ばれた二連の鈴を目の前に押し出されて、おれはこれ以上断りようもなく、「あ、ありがとう」と力なく答えてうっかりそれに手を伸ばしてしまった。
 おれの手が触れた瞬間、鈴はちりんと涼やかな音をたてた。
 同時に、びりりと僅かながら拒むような電流が指先から駆け抜けたような気がした。
 なんだろう、今のは。気のせいだろうか。
 あまりよくないものなら、茉莉にもきちんと注意しておかないと。
「どうしました?」
「ああ、いや、何でもないよ」
 おれはさっと鈴を鞄の中に押し込んで、美竹真夢から離れ、追い越していこうとする夏城に声をかけた。
「夏城、おはよう」
「ああ……おはよ」
 ああ、の後、しばらくしてから付け加えられた「おはよ」に、どことなく気遣いを感じる。
「さっきのは?」
 ちらっと後ろを横目に見て聞いてくる。
「テニス部の後輩マネージャー。恋愛運に効くお守りだって、鈴、渡されちゃってさ。妹用にって」
「ふぅん。そんなものが流行ってるのか」
「茉莉も同じ鈴、とうに鞄につけてたんだよな」
「じゃ、誰かにあげるしかないな」
「そうだよなー。おれが持ってても仕方ないし。夏城、守景さんにプレゼントしてみる?」
 思いもよらなかったのか、夏城は前屈みに咳き込んだ。
「河山こそ、科野にやればいいだろう」
 取り繕うように咳払いしながら、夏城はこちらに水を向けてきた。
 鈴を押し込んだ鞄からはちりんと玲瓏な音がする。
 豪快な科野には似合わない音だ、なんて本人が聞いたら二度と口を利いてくれなくなりそうなことを思って、おれは言葉を飲んだ。
「何か、嫌な感じしたんだよな、この鈴」
「霊感でもあったのか?」
「そうじゃないけど。もらった時、ピリッとした」
「後輩マネージャーの念が籠ってるんじゃないのか?」
 夏城はちらりとおれの鞄を見てまた前を向く。
「夏城まで怖いこと言わないでよ。そうでなくても最近あの子と遭遇率が高いんだから」
 そう、待ち伏せられてでもいるかのように。
 それを思い出したら、早くこの鈴を手放したくて仕方がなくなってきた。
 この軽やかな音色、高校生男子の鞄から響くような音じゃないだろう。
「それなら尚更、早いところ、手放すことだな」
「どうやって」
「俺は協力できないけどな」
 ふいっとそっぽを向いたまま、何事もなかったかのように夏城は教室に入っていく。
 おれはわざと鞄を揺らして鈴の音を確かめた。
 ちりちりとかわいらしい音がした。
「あれ、河山、鞄から可愛い音してるね」
 先に教室に着いていた科野が、席に座りながら耳ざとくおれの鞄から鳴る音に気がついた。
 科野はわくわくとした目でおれを見上げている。
 これは出さずには済ませられまい。
 仕方なく、おれは赤いストラップで結ばれた二つの鈴を出して見せた。
「それ、巷で噂の恋が叶う鈴のお守りじゃん!」
 わくわくしていた目がきらんと輝く。
 くれ、寄越せ、と言わんばかりの圧力を目から感じる。手はすでに鈴の前に差し出されてきている。
 おれはその手の上に、コロンと鈴を乗っけてやった。
「えっ、いいの?! これ、人気でなかなか手に入らないのに!」
 人気? なかなか手に入らない? さっき美竹真夢がごっそり持っていたのに?
 さてはあいつ、買占めでもしたか?
「さっき、美竹真夢からもらったんだ。おれが持ってても仕方ないから、よかったらやるよ」
 嫌な感じがした、とは付け加えずに、おれは科野の手に鈴を乗せたまま自分の席に向かった。
 後ろでは科野と守景と藤坂が、何やらきゃあきゃあ騒いでいる。
「よかったな、貰い手がついて」
 夏城が外を見たまま嘯く。
「どうだろ」
 肩をすくめたのはほんの少しの罪悪感と、肩の荷を下ろせたかのような解放感からだった。
「そんなに欲しいものかな、恋愛のお守り」
「未来が不確定だから縋りたくもなるんだろ。あれがテストで100点取れるお守りだったら、河山も簡単にやったりしなかっただろ?」
 確かに、持ってるだけでテストで100点が取れるなら譲ったりはしないだろう。気づかれないように音が鳴らないように何かにくるんで隠すに違いない。
「でも、確実なことは未来が来てみなければわからない。女子の場合はむしろ、確実に両想いになれる、なんて信じていない部分があるからこそ、ああやって楽しめるのかもな」
 夏城がらしくないことを言っているなと思ったら、視線の先には守景がいた。
「絶対、とか、必ず、は怖いよね。取り返しがつかくなりそうで」
「女子の恋愛は他力本願。男子は自力、と言いますからね」
 どこから聞いていたのか、通りすがりの工藤が眼鏡を光らせて机の脇を通り抜けていく。
 おれと夏城は顔を見合わせ、何食わぬ顔で歩いていく工藤の背中を振り返った。
 次いでHRのために担任の片山が入ってきて、ちりちり、リンリンという鈴の音はおしゃべりと共に消えていった。