聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第6章 夢の代価

3(風)
 最後にまともに豊穣祭を執り行えたのはいつのことだっただろう。
 確か、あの時は聖が本番直前に調子を崩して、挙句何を考えたのか窓から落ちたところを龍兄さんに救われて、無事に本番の舞台をこなしてまた倒れたのだった。それでも、あの年の豊穣祭は、楽しかったな。炎の打ち上げた花火と龍兄さんの雷光の競演、鉱兄さんが造ってくれた芸術祭向けの意匠の凝った舞台、聖の美しい歌声。あんな楽しいお祭りで統仲王と姉弟八人が揃ったのもあの時くらいだっただろうか。その後の深月祭からは、何だかんだ闇獄界との小競り合いだったり個人的な理由だとか何かで、なかなか全員揃わなかったんだよな。闇獄界の侵攻に神経をとがらせていると、どうしても手放しで祭りを楽しめなくなる。仕方がないこととはいえ、何かあると、ふとあの時のことを思い出してしまう。特に、聖の歌声。祈りがこもった声が空に溶けていく様が美しくて、何度も何度も目裏に再生してしまう。どんなに耐えがたいことが続いても、いつかまたあの歌声が聞けるようにするのだ、と、どこかで気持ちを奮い立たせてもらっている。
 それでも、もう、あの時のような豊穣祭を行うことは二度と叶わない。
 第三次神闇戦争。
 北楔羅流伽の西側からから侵攻した闇獄界は、魔麗の国に雪崩入り、麗兄さんの命を奪った。
 法王が死んだ。
 これは、法王と名乗る姉弟たちに激震を与えた。
 法王でも死ぬことが分かったのだ。神の血を分けた子でも、命は永遠ではなかったのだ。
 おれたちは、そう、人であり死が定めだった時があったはずのおれでさえ、信じられないほどの衝撃を受けた。それほどまでにおれはもう、神の子のふりを長く続けていたのだった。信じないと正気だった炎は叫んだが、麗兄さんの遺体が天宮に運び込まれてきた時、おれたち法王はその事実を受け入れざるを得なかった。
 ただ一人、病が重くもう床から起き上がれないほどになっていた聖だけは、ひそかに喜んでいたと、誰かに聞いた。誰に聞いたのかはもう忘れた。炎には言うなとだけ口止めをして、おれは血の呪縛から逃れられないことに絶望していた妹が、初めて希望を見出したことに複雑な気持ちになった。
 いや、本当は他にも喜んでいた法王はいたのかもしれない。妻子を亡くした鉱兄さんは後を追いたがっていた。炎だって、一度おれの前で死を希うようなことを言ったことがある。
 そして、闇獄軍は北からだけでなく、同時に南西の鉱土の国にも侵攻した。
 今までは境界を侵犯しては四将軍に止められて終わる程度の小競り合いと、少し大規模になってもそうそう戦力は分散してこないのが闇獄軍だったのだが、歴史が進めば進むほど、軍略の知が蓄積されるのか、はたまたその方面に優秀な人材が集まりはじめたのか、対峙する神界も昔のまま来たものを追い返すだけでは防ぎきれなくなっていた。何より、神界には魔法があったが、闇獄界には魔法がない代わり、科学力で殺傷能力の高い武器をあまた開発・増産し、同時に命を惜しまない形ばかりは人の形をした感情のない兵を生み出し、武器を持たせはじめたのだ。その昔は闇獄兵と言えば人の形も取れない崩れかけの魔物ばかりだったのが、この頃では立派に人の体裁をとっているため、神界軍は攻撃をためらい、その隙に大幅に殺られるのが常となっていた。そうなると、主力となるのは法王の魔法しかなかった。そもそも、神界の民たちからなる神界軍は、魔法の祝福を受けたものと、武力に優れたものとで構成されていたが、いつの時でもたくさん守り、たくさん跳ね返すのは法王の魔法に依っていた。法王と一回の兵士では力に大きな開きがあったのだ。それでも、雑魚な魔物たちを倒す分には十分に戦えていた。それでどうにかこうにか神界を守ってきたのだが、今回の戦いは最早今までの様々な定石が通じなくなってしまっていた。
 焦りは士気を打ち消し、沈痛な雰囲気が軍に伝染していく。軍だけでない、神界に生きる全ての人たちが、今回ばかりは小さな子供に至るまで不安を抱えていた。その空気がまた、神界の空気を淀ませ、闇獄界との空間の歪を生み出しやすくし、闇獄軍の侵攻を拡大させていた。
 闇獄軍に攻め入られ、焦土と化した鉱土の国。
 その国の主は、先の周方の戦いで亡くした妻子を追うように、麗兄さんに次いでつい一年前に死んだ。遺体は天宮へと運ばれたものの、葬儀の予定も未だ立ってはいない。
 法王の死は、確実に神界の民の士気を削ぎ、闇獄界に攻め落とされるかもしれないという恐怖を蔓延させた。誰もかれもが精いっぱいで戦場に向かい、戦場に立ち、あるいは後方に残された人々も不安と戦いながら日々を凌いでいた。
 だから、兵の誰かが多少何かに依存したとして、強くは責められないとは思っていた。
 とはいえ――
「何、これ、姉さん」
 おれは血よりも赤い毒々しい液体の入ったガラスの小瓶を拾い上げた。
 火炎の国ラス・ポリス砂漠の北西、鉱土の国との国境があるグラン平原に作られた野営地には、ひときわ大きな天幕が二つあった。一つはこの南の戦役の総大将である火炎法王の天幕。そしてもう一つは、南方で苦戦が続いたため援軍を率いてきた風環法王であるおれの天幕だ。この日の戦いが終わり、それぞれの天幕に戻ろうと、炎と他何人かの部下たちと共に歩いていた時だった。何の拍子か炎の腰元に括りつけられた荷袋から小瓶が零れ落ちてきたのだ。
 炎は口を真一文字に引き結び、おれとは目も合わせずに無言でおれの手からそれを奪い取る。
「何か、あった?」
 腕を掴んで引きとめるも、炎は一瞥すらせずに無表情でおれの手を振り払い、自分の天幕へと入って行ってしまった。
 赤ワイン、だろうか。
 炎がその昔、酒豪だったことは聞いたことがある。酒を浴びるように飲み、毎日違う男を寝室に引き込んでいたとかなんとか。多分、キルアスがいなくなって、風が炎を口説き落とすまでの間の話だ。おれと付き合いはじめてからの炎は、夜におれとワインを酌み交わしながら談笑することはあったが、溺れるように酒を飲んだりすることはなかった。酒を持ち歩くなんて、見たこともない。しかも、ここは戦場だ。酔いつぶれて指揮ができなくなるわけにはいかないから、戦場に酒は持っていかないというのが炎の信条だったはずだ。
 戦場に来てから炎の様子がますますおかしくなっていることくらい、おれだって気がついていた。その前から変な薬に手を出したり、子が欲しいと精神的に不安定になってはいたけれど、対外的にはいつもの正気の炎だった。それに、あの怪しげな薬の一件の後も、炎の機嫌のいい時は何事もなかったかのように求められ、幾度か夜を共に過ごしている。だから、自分が側にいれば大事にはならないと思っていた。何かあっても止められる、と。それなのに、いつの間にか酒の小瓶まで戦場に持ってきているだなんて。
 しかも、部下たちの前だったにもかかわらず、取り繕いもしないとは。
 すぐに問いただしに行きたかったものの、部下たちの手前もあるし、残務整理にも追われているうちに、すっかり夜になってしまっていた。夜衛を残して野営地中が寝静まった頃、おれは人目につかないように炎の天幕に渡った。
 炎の私室である一番奥まった部屋だけ、まだ薄明かりが灯っている。その薄明りの下で、深く椅子にもたれグラスに指を掛けたまま、炎は眠りに落ちていた。
 おれの気配にも気づかないほど、深く、寝入っている。
「炎」
 昼間の疲れもあるのだろう。
 起こしてしまうのも忍びなくて、仕方なくおれは炎を抱きあげる。
 昼間、総大将としてすっと背筋を伸ばしてしなやかに皆の前に立つ女の身体が、くにゃりと柔らかく腕の中でしなった。しかもその身体は、あれほど激しく朱雀蓮を揮う武将のものとは思えないほど、羽のように軽い。
 寝台に寝かせて、おれは彼女の寝顔を見下ろす。
 不思議なもので、眠る彼女の顔には、初めて彼女と出会った時の少女の面影が未だにちらついていた。
 おれは身も心も変わってしまったというのに、彼女だけはまだ少女時代に取り残されているかのようだった。
 軽く額にキスをして、ふとテーブルに載せられたままのワインに手を伸ばした。
 戦場にこんなものを持ち込んでいるのもどうかと思うが、それ以上に、一口口に含んでみると、アルコールの度数がおれといつも飲み交わしていたものよりもずっと高いことに驚かされた。
 周りには薄めるための水も氷も見当たらない。
 はっきり言って、味はいまいちどころか腐敗一歩手前で、葡萄臭がきつくて何が何だかわからなかった。
 こんなもの、人が飲める代物じゃない。安酒以前の問題だ。
「何だ、来てたのか」
 多分、岩に頭を打ちつけるように痛いのであろうこめかみを右手で抑えながら、彼女は気怠そうに身を起こした。
「おれはこんなワインじゃ、とてもお付き合いはできないけど?」
「……それはオレ用のものだ」
「じゃあ、さっき小瓶に入っていたのも、コレ?」
「……用がないのなら帰ってくれ。オレは、お前の顔を今一番見たくない」
 なんだか知らないが、怒っている。酔いつぶれて頭が痛いのをおれのせいにしているとも取れるが、一度もおれの顔を見ないあたり、おれの顔を見たくないのは確かかもしれない。
 しかも、一人称がおれと一緒にいるのに「オレ」のままだ。
「何か気に障ることでもした?」
 長く一緒にいると、どんなに好きでも気に障ることなど沢山やらかしているらしいが、敢えておれは挑発するように尋ねてみる。
「お前がそこにいるからだ! 早く出ていけ!」
 怒鳴り声に混じって嗚咽が漏れたのを、おれは聞き逃さなかった。
「なんだ、やっぱりいてほしいんじゃないか」
 ベッド際に座り、長く波打つ赤い髪を束ねる邪魔な紐を解きながら、彼女の顔を覗き込む。
 彼女は手で顔を覆い隠したまま何も言わなくなった。
「一体何があったの? もしかしておれ以外に……」
「そんなことあるかっ!!」
 即座に否定してくれたのを嬉しく思いつつも、おれは窘める。
「そんなに大きな声を出したら、人が来るよ?」
「……そしたらお前をつまみだしてもらえるじゃないか」
「本気?」
「当たり前だろ」
 どうも言っていることが釈然としない。
 それに、髪を解いてあげたのに、未だに彼女は男のままだ。
「ねぇ、どうして女に戻ってくれないの?」
 酔いに任せてゆらゆらと揺れていた炎は、ぴたりと動きを止めた。
 それから、彼女は泣き腫らして真っ赤になった目でおれを睨み据え、憎しみそのままに躊躇いなくおれの頬に平手打ちを飛ばした。
 どうやら、本当に悩みの根源にはおれがいるらしい。
 はたと、彼女は正気に戻ったらしく、ぼんやりとおれの頬を打ち据えた右手を眺めおろしていた。
「オレは、女なんかじゃない。なるもならないも、もうなれない」
「もうなれないって、炎が女だってことは、おれが一番……!」
「ごめん、もう帰って。叩いて悪かった」
 彼女は顔を上げない。
 今夜は、いつにも増して虫の居所が悪いらしい。本当ならここで一度撤退した方が双方のため。ということくらいおれも分かっていたのだが。
「ヒント一個と、キス一回で帰ってあげてもいいけど?」
 今夜はこのまま残してはいけないと思った。
 彼女はじっと自分の両掌を見つめていた。
「あたしは、今日何人殺した?」
 まるで、自分の手に血糊が未だべっとりとついている幻が見えているように、彼女は怯えながらおれに尋ねた。
 おれは、具体的な数は答えられなかった。
 その代わり、彼女のお陰で助かった神界の兵たちの数を答えたが、彼女は震えたままだった。
「明日は何人殺せばいい? オレは、一体何人殺せば、この地獄から出ることができる?」
 開いた両掌で自分の顔を覆い、彼女はわっと泣き出した。
 昼間、敵を屠る彼女に迷いはない。鮮やかなくらい、総大将でありながら自ら玄熾を駆って最前線で道を切り開いていく。彼女の美しい花の餌食になる者、焔に呑まれる者――彼女の火力は戦場にあって圧倒的だった。
 なのに、今おれの目の前にいるのは、蚊の一匹殺しても詫びを念じつづけそうな脆く危うい女だった。
「あたしはもう、殺したくない。誰も、神界のみんなも、闇獄界の奴らだって……もう、誰かが死ぬのは見たくない」
 震える肩を抱きしめ、おれは約束のキスを唇からもらった。
 長く口づけていた割には、ただ触れたままのキスだった。嗚咽を殺すために口を封じているような、そんな色気のないキス。焦れて舌を忍び込ませようとすると、やんわりと胸を押し返された。
「おやすみなさい、風。よい夢を」
 さっきまで怯えて震えていた女と同じとは思えないほど、慈愛に満ちた声。何か覚悟を肚に決めたからこそできる、全てを受け入れ包み込むような女神の微笑。そのくせ、このまま壊れてしまいそうな脆さを感じさせる微笑だった。
 これ以上は踏み込めない堅固な何かで線を引かれて、おれは肩を落としてと炎の部屋を後にした。
 幕で仕切られた次の間を一つ通り抜けてもう一枚幕をめくり、外に出る前の玄関の役割をしている小さな間に滑り出ると、そこには察しのいい宿蓮が待ち構えていた。
「随分と短かい逢瀬でしたね」
 棘と嫌みの混ぜ合わせた短い言葉。顔を突き合わせる度にどんどんこの女が苦手になっていく。
「何か言っていましたか?」
 己の感情を殺しきった声で、宿蓮はおれに尋ねた。
「自分で確かめればいい」
 冷たくおれは突き放す。
 キースと炎の子をラピラス渓谷の最高峰から谷底に捨ててきたと口にした女だ。しかも、炎がこんなにも苦しんでいるのに〈影〉として見守ることしかしようとしない。いくら負い目があろうと、もっと接し方があるだろうに。
 自分のことを棚に上げて、おれは宿蓮を睨みつける。
 宿蓮は、察しの悪い生徒を見るような目でおれを見た後、これ見よがしにため息を吐いた。
「貴方は、炎がいつから慈愛院を作りはじめたか知っていますか?」
「慈愛院?」
 慈愛院は、闇獄界との戦争で孤児になった子供たちや夫を失った女性、身寄りのないお年寄りたち、負傷した元兵士たちを収容する施設だ。設立者は火炎法王。確かに、おれがキースだった時にはなかったものだ。闇獄界との小競り合いが激化するにつれて家を追われ身寄りや居所のない人たちが増えていって、その人たちを救済しようと炎が天宮や各国に設置したのが慈愛院だ。
 となれば、それほど昔からあるわけではない。もしかしたら、神様時間ではごくごく最近のことなのかもしれない。
「では、炎がジリアス・ルーリアンの元に通っていたことはご存じですか?」
 おれは首を傾げる。
「炎が、ジリアスのところに?」
 この間見つけた下品なピンクの小瓶に入った薬は、どう見てもジリアスに処方されたものではなかったし、宿蓮もそれは否定していた。まさか、最愛の妻を失った後ずっと独り身を通しているジリアスが、よもや炎と情を交わしているなど考えがたいが。
「不躾な妄想はおやめなさい。不愉快です。貴方が現れてから、炎が他の男性に興味を示さなくなったのは、貴方も知っていることでしょう?」
 まったく、月もなくほぼ真っ暗だというのにただの沈黙からおれが考えたことをお見通しだなんて、嫌なお局様だ。
「まあ、ジリアスが口を割るとは思えませんが」
 宿蓮は用心深くヒントを小出しにしてくる。
 おれのことは気にくわないけど、炎のことは大切だ、ということだ。
 まるで嫁入り前の娘の父親のようだな。
 あるいは、恋人になりたくてもなれないジレンマを抱えているかのような。〈影〉であることを優先する宿蓮には、ともに寄り添い慰めることしかできないだろう。厳しい母親のように、時に父親役もしながら、親のように、姉のように、友のように、そして、師として、影として、炎の側にいることしかできない。
「この間は、子供が欲しいと言っていた。おれが現れて、もう一度亡くした子供の代わりを得られるかもしれないと思って、そんなことを言っているんだと思ってた。あのピンクの小瓶の薬だって、そのために飲んでいるんだと」
 宿蓮はゆっくりと首を振った。
「違います」
 はっきりと、突きつけるように否定する。
「あの子は、今のままだともう二度と得られないと知っているから、欲しいのです」
 おれは、何かピンとくるものを感じて宿蓮を見返した。
 生理が来ないと言っていた炎。どんなに夜を共にしても身籠ることのない炎。ジリアスから処方されたわけではない出どころの分からない怪しげな薬に手を出していた炎。まるで自分を傷つけるように深酒を繰り返していた炎。ブルーストーンに行きたいと、二人で一緒に行こうと約束していた炎。結局、ここから逃げ出す前におれたちは戦争に捕まってしまったけれど、正義感の強い炎は、侵攻してくる闇獄軍を前にここで法王をやめるわけにはいかなかったのだろう。
 結局、彼女は自分の一番欲しいものを後回しにした。だから、余計苦しんでいる。死の匂いに、引き寄せられている。
 もし、炎が身籠らない理由が精神的な理由だけでなかったとしたら? 成神の儀の直前に身籠ったせいで、うまく身体を再構築できないで傷を残してしまっていたのだとしたら? ――それはもう、取り返しがつかない。
「宿蓮、あんた、おれのこと嫌いだよな?」
「ええ。大嫌いです。見るのもおぞましい」
 世の女性たちは老若問わず、風環法王のこの容姿が大好きだ。見た目に騙されて、キャーキャー黄色い声を上げ続けられてきたこのおれを捕まえて、おぞましいとは、よくもそこまで嫌われたものだと思う。
「それは、おれが何であるかを知っているから?」
「人が神に恋をするなど、恐れ多いにも程がある」
 宿蓮はおれの目をひたと見つめたまま、言ってはいけないことを静かに突きつけてきた。
「私が許すとお思いか?」
 全て知っているのだと、脅してくる。
「それでも、黙ってはくれている。感謝しないとね」
 これ以上、ここでお局様の嫌みを聞いている場合ではない。
 夜が明ける前にジリアスを叩き起こして炎のことを確認し、もう一度ちゃんと炎と話をしなければ。キルアスが炎と結ばれたあの夜、一体おれは何を壊してしまったのかを、きちんと確かめなければ。
 宿蓮の前をすり抜けたおれの背中に、諦めたような声が投げかけられてきた。
「戯れです」
 戯れ――冗談だって? 何に対して? おれのことを許さないと言ったことに対して?
 それならば、宿蓮の「許さない」は本音だ。戯れだとぼかさなければならないほどに、おれのことを深く憎んでいる。
 おれは一度立ち止まり、その言葉を背中から受け流して炎の天幕から出た。
 察しがいいのは炎の〈影〉だけではなく、うちの騎獣もそうらしい。
「寝なくていいのか?」
 麒麟の姿をとっている逢綬に尋ねるが、逢綬は一つ長い首を縦に振っただけで、おれを背に乗せると大地を軽く蹴り、空中へと舞い上がった。
「聖刻城へ」
 ジリアスは、天宮の侍医であるとともに、北方将軍でもある。北の戦いで魔麗法王を失った今、本来は北の守りに徹さなければならないところだが、このところ特にも聖の体調が思わしくないため、聖刻城の聖のところにつきっきりになっていると聞いていた。
 その分、天龍法王の肩に北方全てがかかってしまっているのだが、今のところなんとか耐え凌いでいるらしい。
 逢綬が聖刻城に降り立つ頃には、うっすら夜明けを感じる黎明となっていた。それにも関わらず、聖刻城内は皓皓と明かりが灯され、騒々しさが外気をも揺らしている。
 するりと城内に入り、馴染の侍女に声をかける。
「何かあったの?」
「ついさっき、聖様が血をお吐きになって」
 侍女の持つ手桶には、どす黒い液体がなみなみと揺れていた。
 炎のことも心配だけど、この血の色、血の量、尋常じゃない。
 聖の部屋までの階段を一気に駆け上げると、部屋の前に心配そうに集まっている侍女たちを押しのけて、無理矢理室内に入った。
「聖!」
 診療にあたっていたジリアスと澍煒が振り向く。
「風様? どうして」
 驚く澍煒の声に交じって、弱々しく枯れた声がした。
「風兄さま?」
 それはもはや聖の声じゃなかった。
 多くの侍女たちに取り囲まれてベッドに横たわっているのも、美しかった金と黒の髪が半ば抜け落ちて骨と皮ばかりになり、熱に浮かされた異色の双瞳だけがぎょろぎょろとして、かろうじて呼吸をしている状態の聖だった。
 いや、あれは本当に聖と言えるのだろうか。
「聖」
 思わず零れ出た声が重く床に落ちて沈んでいった。
 この戦争が始まる前は、ここまでひどくはなかったはずなのに。
 おそるおそる頬に手を伸ばしてみるが、もはや頬骨が分かるほど皮も薄くなり、骨に張りついているだけのようだった。
「風様、あまり触れられますと感染する恐れも……」
 目当てのジリアスが控えめに進言したが、おれはむしろ聖がここまで悪かったと知らなかった自分に腹が立って仕方なかった。
「おれがおれの妹に触れてどこが悪い!」
 思わず当り散らすように怒鳴ってしまって辺りが静まり返るが、気にしている余裕はなかった。
 かろうじて弱々しい光を灯した青と黒の目が「兄さまったら」と窘めていたが、おれは構わず彼女の頬に手の平をあてた。
「だめ、だよ、兄さま。本当に、私の病気、伝染(うつ)る、みたい、なの。この、間、も、一人、殺して、しまっ……た」
 押し出されたしゃがれた声。
「そんな言い方するんじゃない」
 聖は、微笑む。もはや満足に伸ばすこともできない頬と口元の皮を引き攣らせるようにして。
「兄、さま。お耳、貸して」
 聖の口元に耳を寄せると、聖は掠れた声で囁いた。
「姉さま、のことで……お話したい、ことがあるの。……人払いを」
 言われるがままにジリアスと澍煒、そして侍女たちに一度部屋から退るよう頼む。
 誰もいなくなった部屋で、聖は一度咳き込んだ。
 起こすこともできず、身を捩って少しの血を吐いた。
 黒い、血。
 こんな色の血が体内を巡っているなんて、さぞ具合が悪いだろうに。
 口元を拭ってやると、ぜーぜーと息を切らしながら、聖は「ありがとう」と言った。
「さっき、いっぱい血を吐き出したから、これでも少しは、ましなのよ。いい時に、来てくれたわ」
 自嘲気味になっているのは、心も弱ってきている証拠だ。龍兄さんも北の戦地に赴いて大分立つ。この様子だと、長らく会えていないに違いない。
「声も、こんなんで……聞き苦しくて、ごめんね。もう歌も、歌えなく、なっちゃ、った」
 一言一言区切りながら、苦しげに、でもおれへの気遣いを込めて、聖は続けた。
「この間、ね、炎姉さまが、お見舞いに来てくれたよ」
「この間って、いつ?」
「もう、大分前。戦争が始まる、ちょっと前」
 ブルーストーンに行こうと言い出した、あの頃のことだろうか。
「ねぇ兄さま、炎姉さまのこと、どれくらい好き?」
 聖はじっと色の異なる瞳をおれに向けて尋ねた。
 おれは、少しその意味を考え、答えを用意する。
「聖が龍兄さんを好きなのと同じくらい」
 勘のいい聖のことだ。今更炎との関係を隠したって仕方がない。
「ふふ、私の方が、絶対、勝ってるわよ。私は、ただ、好きなわけじゃ、ない。愛して、いるわ」
「おれもだよ」
「聖は、ね、いつか龍兄と一緒に、どこか遠いところに行って、子供たーくさん産んで、幸せに暮らしたい、の」
 どこかで、聞いたようなセリフだ。
 ブルーストーンの海に行きたいと、炎が言っていた。一度行ったら、もう二度と神界には戻ってこられないであろう世界の海が見たい、と。
「でも、こんな身体じゃ、とても、無理。月のものも、もう長いこと、きていない……」
 気遣わしげに聖の目が伏せられる。
「ごめん、ね。男の人に、こんなこと。でも、好きな人が出来たら、その人の子供、欲しいって思うのは、おかしな、こと、かな……」
 もう誰かを殺めたくないと、炎は言った。
 炎が慈愛院を始めたのは、いつからだった?
 彼女は、女になりたかったんだ。女として生きていたから、心と相反する方向へと進んでいく状況で身動きが取れなくなってしまった。
「姉さま、ね、私のお見舞いに来た後、ジリアスに何か、相談していたよ。今のままじゃ無理だって、それだけ、聖にも聞こえちゃった」
 永遠に続く神生。
 永遠に、この身体に縛られつづける神生。
 神の血筋に、死はない。
 そう言われていたのに、麗兄さんは死んだ。鉱兄さんも死んだ。
 聖にも、死の気配が色濃く忍び寄っている。
 今までの常識がこの戦争が始まってから短期間で全て覆されて、神界の人々にも動揺が走っている。
 こうなる前に、おれは早く彼女を連れ出すべきだった。
 龍兄さん、貴方も、聖がこんなになってしまう前に早く逃げてしまえばよかったんだ。
 なんて、他の誰かを責めても仕方ない。
「兄さま、早く、姉さまのところへ。救えるのは、兄さま、だ、け……」
 次の瞬間、聖はさっきよりも激しく咳き込みはじめた。
 どす黒い血がどこから湧き出たのかと思うくらいたくさん撒き散らされ、音を聞きつけたジリアスと澍煒、侍女たちが慌てて駆け込んでくる。
「風様、その血に触らないでください!」
 侍女が悲鳴を上げる中、聖は病魔に浮かされた目でじっとおれのことを見つめていた。
「早く、早く、姉さまの、ところ、へ……」
 息も絶え絶えの聖に背中を押されて、おれは踵を返した。
「ジリアス、聖を頼む」
「善処します」
 ジリアスの言葉に、希望は何も感じられなかった。死を先延ばしにするしかできないのだと、後は聖次第なのだと、そう言いたげだった。
 聖に教えてもらえてよかったのかもしれない。ジリアスに聞いても、きっと何も話してはくれなかっただろう。医者としてはそれが正しい。だけど、それじゃ救えない人もいる。
 外は、黎明の暗闇が取り払われ、すでに太陽が地平線の彼方から顔を出しはじめていた。
 待っていた逢綬に飛び乗り、火炎の国へ取って返す。
 太陽が天頂に差し掛かりかけた頃、おれはようやく野営している天幕に着いた。
「どこに行ってらしたんです!」
 血眼のカインに白い甲冑を投げつけられる。
「夜明けに奇襲があって、全軍前線に出ています。うちの軍はヴェルド様が率いています!」
 怒声に怯んでいる暇はなかった。カインに手伝われながら甲冑を身に着け、再び逢綬に飛び乗る。
 前線は大混戦の様相を呈していた。
 まさかこんなに早くぶつかり合いになるなんて、予想もしなかったことだ。野営をし、戦場となる場所に予め塹壕などを造り、それからようやく迎え撃とうというところだったのに、いつの間に闇獄軍はこんなに深くまで駒を進めてきていたのだろう。
「風環法王、遅い!」
 喚声と怒号、悲鳴。それらが土煙とともに巻きあげられる最中、宿蓮の叱責が鋭く突き刺さった。
「炎はずっと前線で指揮を執っている! 早く交代して差し上げろ!」
「言われるまでもない!」
 自分の周りにそれと知って群がってくる闇獄兵たちを文字通り絃で一網打尽に刻みながら前線へと進み、ようやく炎の紅蓮の甲冑を発見する。
「炎! もう休め! あとはおれが引き受ける!」
「風!」
 敵を朱雀蓮で打ち払い、振り返った彼女は、疲れているはずなのになぜか昨夜のような悟りきったような優しい微笑を浮かべた。
 なぜだろう。とても嫌な予感がした。
 全て諦めきったからこそできる、全てを受け入れる微笑。
 ああ、そうだ。昨夜は薄暗かったから分からなかったけど、あれは慈愛の微笑なんかじゃない。諦念の微笑だったんだ。
「え……ん……!」
 もう一度名を呼びかけた時、目の前で彼女は信じられない行動に走った。
 騎乗していた黒毛の獅子玄熾の腹に、朱雀とは別に腰に下げていた白銀に閃く短刀を鞘から引き抜き、躊躇いなく突き立てたのだ。
 玄熾は悲鳴を上げ、炎を乗せたまま痛みにのた打ち回るように暴れ回りはじめた。もはや主人を守るという理性は残っておらず、痛みに任せて闇獄軍が大挙して押し寄せてくる方へと駆け抜けていき、炎は闇獄軍のど真ん中で玄熾から振り落とされた。
 わっと敵軍に喚声が上がり、宙高く放り出された炎の落下点に兵士たちが群がる。
 ゆっくりと流れる目の前の光景をそのまま受け取るわけはいかなかった。おれは逢綬の腹を蹴り、心得た逢綬は一飛びで炎の落下地点へと向かう。が、それよりも早く、さっきまで炎が築いた仲間の死体の山を駆け上り、闇獄兵たちが炎に向けて剣や槍の穂先を突き上げる。
「炎!!!」
 無数の槍と剣が、炎の身体を貫いた。
 運よく紅蓮の甲冑の隙間を縫えた槍の穂先が炎の身体から突き出、赤い血がシャワーのように吹き出す。
 さらに槍と剣を突き込もうとする兵士たちをまとめて螢羅の糸で搦めとり刻み捨てて、おれはそいつらの上を駆け上がった。
「炎!」
 背中に突き立てられた複数の刃に、どう抱き起したらよいものか、一瞬ためらう。
 もし、おれが風環法王として名ばかりでなく、それなりに強力な攻撃魔法が使えたなら――遠くからでも炎を襲う闇獄兵たちを切り刻むことができたのに。
 唇を噛みしめたところで、力が手に入るわけではなく、時を戻せるわけでもない。
 意を決して、痛みと出血を最小限にできるよう〈治癒〉を唱え、炎の身体を貫く刃に手をかけると、そっと冷たい手が小さく震えながらおれの手に触れた。
「風」
 うっすらと目を開け、荒い息にどうにか乗せるようにして、炎がおれの名を呼ぶ。
 口元には微笑。
 ほっとしたような、穏やかな微笑。
「こんな時に、なに笑ってるんだ」
 炎の微笑に反して、おれの声は厳しいものになる。
 明らかに炎の様子はおかしかった。いつもならおれの治癒さえあればすぐに傷など回復するのに、今日は治癒よりも早く炎の命の欠片がかき集めきれずに落ちていく。目元に、頬に、死の影が忍び寄ってきているのが見て取れる。――法王なのに。
 早くこの刃を抜き取らなければ。
 そう思うのに、おれの手を留める炎の手は思いの外強情だった。
「なんか、嬉しくて。こんな時なのに、こんな場所なのに、愛されてるなぁって感じるなんて、……あたしやっぱり女じゃないのかも」
「なに言ってるんだ。喋るな!」
「死体の山の頂があたしの死に場。キースを失ってからずっと決めていた。だから、本望なの」
 やけに澄んだ目でおれを見つめて炎は囁いた。
「治すって言ってるだろ! それに、こんな時に他の男の名前なんか出すなよ」
 自分の前世みたいな男に嫉妬するなんて、おれくらいだろうけど。
 睨むと、炎はふわっと花がほころぶように笑った。
 もしかして。そう思うことは何度もあった。
 炎は、風がキースだと気づいているんじゃないかって。
 胸にかけた指輪のネックレスを取ろうとしてキースの話になった時、炎はまるで目の前にキースがいるかのように、おれに向けて「貴方」と言った。その時は錯乱しているんだろうと思うことにした。キースであっても、風であっても、辛い時に彼女の側にいられなかったのは確かだったから。
 そう、何度も気づいているんじゃないかと思うことはあったけれど、おれはそれに気づかないふりをしてきた。
 確信させてしまったら、おれの負けのような気がしていたから。
 自分がキースだと明かして、何の罪悪感もなく炎と交われたら。そう思わなかったこともなかったが、どこかで、おれは自分が風であることを選んできていた。
 キースだったのに、風である自分も捨てられなくなっていた。
 中途半端だったんだろうか、自分は。
 結局キースも捨てきれず、風にもなりきれず。
 ――彼女は、ずっとそれに気づいていた?
 〈治癒〉に専念しているはずなのに、炎の首や背からは血が吹きだしつづけ、抱き上げた身体からもどんどん温もりが抜けだしていく。その温もりすら、次第に冷たくなっていく。
 法王が死ぬはずはない。たかが刺し傷くらいで、死ぬはずがない。
 だって、そうだろう?
 ホアレン湖で初めて君を見つけた時、君は湖の片隅を自分の血潮で紅蓮に染めるほどだったというのに、それでも日を重ねて元気になったじゃないか。
 それが法王の生命力というものだろう?
 魔法石の力に耐えきれない不完全な人の身体を捨て、神の血が通うこの肉体を得たのだから、あの時よりも強力な〈治癒〉をおれは使えるようになっているはずなんだ。
 それなのにどうして、回復しない?
「聖、どうだった?」
 どうして知っているのか尋ねたいところだったが、昨夜天幕でおれを唆したのは誰あろう宿蓮だ。しかも、逢綬に乗って行ったのだから、どこに行っていたのかと怒っていたカインもその実、おれがどこに行っていたのかくらい把握していたに違いない。
「闘ってた」
 骨と皮で明日をも知れない状態だったなんて、とても言えなかった。
「だから炎もがんばれ! この戦争が終わったら、今度こそ約束を果たそう?」
「約束……」
「ブルーストーンに行くんだろう? 海を見るんだろう? 広ーいって叫ぶんだろう?」
「うん……ああ、そうだった」
「そんな大したことない願いだったみたいに言うなよ」
「そうじゃ、ない。あたしには、大それた願いだったみたい。あたしね、家族が欲しかったの。好きな人とその人との子供と一緒に、あったかく安らかに過ごせたらなって、憧れてたの」
 つい今朝がた、同じような願いを聞いたような気がする。
 姉妹揃って、生まれる立場を間違えたかのような慎ましやかな、それでいて、一人では決して叶えられない大きな願い。
「笑わないでね。あたしはもう、法王の名も、裁きの女神の名も重くて仕方なかった。逃げ出したくてしょうがなくて……。風、貴方が好きなの。好きで好きでどうしようもなくて、貴方の子供が欲しくて仕方がなくなってしまって……鉱の家族が羨ましくて……でもね、だめなんだって。この身体じゃもう、二度と……この世界では永遠に願いが叶えられない」
 穏やかに澄んでいた目に、不意に絶望が宿る。
 それが引き金になったように身体は痙攣し、激しく咳き込んで、炎は真っ赤な血を吐きだした。
 聖とは違って、黒くない、深紅の鮮血。
「ごめんね。風は悪くないのに、ずっと八つ当たりしてしまって。大好きで大好きで……貴方の顔を見る度、辛かった。あたしはもう、女に戻れないんだって思ったら、もうどうしようもなくて……この身体、捨てたくて仕方なかった」
 絶望が宿っていた紅蓮の双眸は、獲物に狙いを定めたかのように一気にぎらつきだす。
 握り返す手にも力が籠る。
 炎は、何かに取り憑かれているかのようだった。
 死へと向かい一直線に脇目も振らず駆け抜けているかのようだった。
「ごめん、ね。せっかく、側にいてくれたのに。今度はちゃんと、女で、いられるようにするから、だから――見つけて」
 強く握り返された手にはっとすると、炎は熱に浮かされているかのような潤んだ目でおれを見上げていた。
「あたしを、探して……」
「分かった! 分かったから……!」
 滅多なことは言わないでくれ。
 そう言う前に、おれの手に触れていた炎の手からゆるりと力が抜けていった。
 紅蓮の双眸からは命の灯火がゆらゆらと消えていく。
 口元には、おれの返事が届いていたのか、笑み。
「炎! 炎!! 炎――!!!」
 どうして、自分勝手に望みだけ託して逝くなんて――ひどいじゃないか。あんまりじゃないか。しかも、永遠の命を持つという法王の命の理はどうしてしまったというんだ。麗兄さんも鉱兄さんも、死んだって聞いたけど、どこかでまだ、ただの冗談なんじゃないかって、思ってた。だって、神の血の流れるこの身体が死ぬはずはない。
 たったこれっぽっちの剣や槍の刺し傷で、死ぬわけがないんだ!!
 力の抜けた手首には、もはや脈は残っていなかった。
 流れ出る血の量は相変わらず多いままで、あっという間に炎の身体は冷たくなっていく。その身体から一思いに突き立てられた剣や槍を引き抜き、もう効くかどうかも分からない〈治癒〉をかけつづけながら、自分の肩から白いマントを外して炎を包み込む。
 その間、炎は一度も目を開けなかった。呻き声一つ漏れ出なかった。
 白いマントはあっという間に紅蓮に染まっていく。炎が、己の色に染めていく。
 見たこともないほど穏やかな寝顔に、おれは小さくため息を吐いた。どれだけの夜、彼女の寝顔を見ながら過ごしたか知れないのに、こんなにも安らいだ顔は初めて見た気がする。眠っていても、おれが側にいても、炎はどこかで絶えず気を張っていたということなのだろうか。おれは彼女にとって安らぎとはなりえず、最後にはむしろ彼女を追い詰めてしまったということか。
 涙は込み上げなかった。
 自分の道はこれでよかったのかと、彼女を抱き上げてその顔に問う。
 人の身を捨てて、神の血を分けてもらってまで彼女を追いかけ続け、これほどまでに永い間側にいたというのに、最後にもたらしていたのは苦悩だったとは。おれが一人で蜿蜒と恋人ごっこを続けていただけではないか。彼女はちゃんと思いを口に出してくれていた。苦しいのだと喚いてくれていた。それでもおれは――このままでいいと思っていたんだ。このまま、恋人同士のまま甘い時間を続けられればそれで言うことはない。人だからこそ、神の永遠という時間をどう過ごすか考えていた。炎は、神の娘だったからこそ、短命の人に憧れたんだろうか。なぜ彼女が家族に憧れたのか、そう言えばあまり聞いたことがなかった。炎の幼少期の話。龍兄さんと、幼馴染と過ごした日々。昔は天宮なんてものはなくて、荒野にログハウスのような家を建て、父、母、兄、姉、そして双子の龍兄さんと暮らしていたのだ、とは聞いたことがある。父と母は王でも妃でもなく、ただの父と母であったと。そのうち神界に人が溢れ出し、自分たちは特別な存在になっていった。そう、とてもつまらなそうに話していた。たまに、あの頃に戻りたいと思うんだよ、とも。
 もっと、話をすればよかった。もっと、いろいろな話を聞けばよかった。もっと早く――ブルーストーンに連れて行けばよかった。
『あたしを探して』
 わかったよ。わかったから、もう遠くに行くな。おれがちゃんと君に辿り着けるように導いてくれなきゃ。
 どうして、君を失ったと理解できる?
 おれは君を追い詰めて、最期には君に大変な罪を犯させてしまった。
 それでもなお、君がおれに逢いたいと望んでくれるなら。
 おれは闇獄兵の死体の山を一歩一歩踏みしめながら下りていく。
 身の程知らずの闇獄兵が、格好の餌とばかりにおれたちを取り囲み、襲い掛かろうとしたが、螢羅を一振りして切り刻んでやった。
 そうやって自陣に戻ろうとするおれの前に、ふわりと一人の女が降り立った。
「火炎法王は、望みを遂げたの?」
 戦場に到底似つかわしくない大きく胸元の開いた黒のタイトなカクテルドレスに身を包んだその女は、腰まである長い黒髪、白磁の肌に睫毛が頬に影を落とす彫の深い顔立ちをし、妖艶ながらも機知に富んだ赤い瞳でおれを真っ直ぐに見つめていた。
 おれは、思わず口を開けた。
 まさか、と、そればかりが早まる鼓動と共に頭の中に繰り返される。
 女は炎の表情を覗き込むと、ため息とも憐みともつかぬ吐息をその赤い唇から漏らした。
 そして、改めておれを真正面から見据える。
「はじめまして、風環法王」
 彼女は、わざと「はじめまして」を強調して、赤い唇で妖艶に微笑んだ。
 おれは、何も答えることができない。
 嘘だ。そんなはずはない。
 もし、この時言葉にできたとしたらそんな思いがぐるぐると渦巻いていた。
 この世界に幽霊などというものがいただろうかと、愚にもつかぬことを考える。
 ああ、どうしてこんな時に。
「私は、〈貪欲〉のリセ・サラスティック」
 赤い口元から流れ出したその女の名前は、聞き間違いでなければ、キースの生母と同じ名前だった。
 いや、まさか。
 もう何年経ったと思っているんだ。数百年どころじゃない。数千、数万年と時は過ぎ去っているじゃないか。
 なぜ、生きている?
 そもそも、エマンダの刺客にあの草原で殺されたのではなかったのか?
 おれはずっと、騙されつづけてきたのか?
 何の言葉も発せないでいるおれに、女は困ったように笑いかける。
「そんな顔をしないでちょうだい。私は、彼女が望みを遂げたのか確かめたかっただけ」
「死ぬことが、望みだったと?」
「もうそれしかないと、思ったのでしょうね。こちらに来れば、まだ手立てはあったかもしれないのに、ばかな人」
 こちらに来ればって、闇獄界に行けば、と?
「馬鹿なことを言わないでくれ。法王が闇獄界になど与するものか」
「そう、ねぇ。確かに、そうかもしれないわねぇ。あなたたち、真面目ね。理性なんてあったって、望みを叶える障害にしかならない。欲しいものがあるなら、面子も何も気にしてたらダメ。全てを投げ打ってこそ、本当に欲しいものは手に入れられるものなのよ。彼女のように、ね」
「唆したのは……お前か!?」
 母なのだと、思わないようにした。
「唆したなんて、人聞きの悪い。私はただ、願いを叶える方法を教えただけ。いくつかの選択肢の中から、彼女はこの道を選んだの。きっと、貴方のこと信じてたんでしょうね」
 憐れむように彼女は元息子のおれを見た。
 大変なものを背負い込まされてしまって、と口元が嗤っていた。
「信じてもらえたのなら、おれは約束を守るだけだ」
「子供のような正義感はそのままなのね。かわいらしい」
「なっ」
「キルアス」
 そう呼ばれて、息が止まった。
「またね」
 彼女は、母とは到底呼べない魔女のような笑みを残して、黒い瘴気に巻かれてその場から姿を消した。
 腕に抱く炎の身体がずんと重たくなった気がした。
 あの人は、知っていたんだろうか。おれがずっと、何百何千何万年と風環法王を演じ続けてきたことを。それと知って、ずっとおれの前に姿を現さないようにしていたのか?
 愛優妃が喋ったのか、それとも自ら何かのきっかけで気がついたのか。
 〈貪欲〉のリセ・サラスティック、と名乗っていた。
 〈貪欲〉という冠が意味するところは、すなわち、闇獄主の一人になってしまっていたということだ。
 いつから? どうして?
 それが聞けたら、もうとっくにさっき尋ねている。
 おれがキルアスだと知っている母親が、いつどこでどうして炎と知り合ったかは知らないが、きっと、あの人が炎を唆したのだ。同じ女として、助言するような態を取りながら近づいていったに違いない。
 炎がそう簡単に騙されたり唆されるタイプだとは思えないが、大分精神的に参っていたのは周知の事実。心の隙間に入り込まれてしまったのかもしれない。
 おれは、それを救えなかった。
 まだまだ時間はあると思っていたから、時が経てば考えも変わって落ち着くと思っていた。
 時は、有限だった。
 その事実を胸に刻みつけて、静まり返った神界軍の陣にようやく辿り着く。
「炎――!!」
 駆け寄ってきた宿蓮は、炎の顔を見て小さく叫んだきり動かなくなった。
 おれは闇獄兵の死体の山の上での彼女の状態をかいつまんで説明すると、宿蓮は唇をかみしめたまま、ようやく冷たくなった炎の頬に触れた。
「馬鹿な子」
 いつもはせっかくの美人が台無しになるくらいしょっちゅう眉間にぎゅっと皺を寄せて厳しい表情をしているのに、この時ばかりは宿蓮は泣きそうになっていた。それでも泣かなかったのは、宿蓮の意地だったのか、ここが戦場だということを思いだしたからなのか。
「炎の死因は他言無用です。我が軍の兵士たちの士気にも関わります。突如玄熾が暴れ、投げ出された炎は闇獄兵たちに討たれた。そういうことにしておきましょう」
「玄熾は?」
 宿蓮は首を横に振った。
「どこかへと消えたきり、戻ってくる気配はありません。裏切られたと、心に深い傷を負っても仕方のないことです」
 炎と玄熾は仲が悪かったわけじゃない。むしろ馬が合う酒飲み友達という感じだった。
 それなのに、乗せているときに急に腹など刺されたら、怒りなど飛び越えて何が何だか信じられなくなってしまうだろう。
 何より、玄熾だって、落ち着けばこうなる前に自分に何かできたことはなかったのか、と自問してしまうに違いない。
「また愛する人の死に立ち会わなくて済んだ分、少しは不幸ではなかったのかもしれない」
 宿蓮は炎を見つめてぽつりと言うと、おれを見上げた。
「ありがとう」
 きっぱりとおれにそう言うと、宿蓮は一晩中おれとともに炎の側についていた後、炎の亡骸を天宮に運ぶと言って戦線を離脱していった。そのまま、おれは今生で彼女の姿を見ることはなかった。
 鉱兄さんに続いて炎の葬儀も何も未定のまま、おれは何かに憑かれたように火炎の国に攻め入る闇獄兵たちを蹴散らし、前線を押し返していった。そうこうしているうちに育命の国から育兄さんが駆けつけ、南方面から上陸してくる闇獄兵たちを食い止めることに成功した。
 それでも、神界の至る所で闇獄兵は文字通り湧いて出るようになっており、さらに大隊を組んで海から上陸しようとしたり、気の抜けない時期が続いた。
 そんな最中、さらにおれは二人の訃報を立てつづけに聞くことになる。
「申し上げます。一昨日、天龍法王が敵将グルシェースと相討ちの末、戦死なさいました」
 そしてほぼ同時に、もう一人の伝令が息急き駆けて飛び込んでくる。
「申し上げます」
 思わずおれと、天幕に同席していた育兄さんは視線を交わした。
「同じく一昨日、聖刻法王が闘病の末、悔しくも身罷られました」
 ああ、やっぱり。
 納得すると同時に、胸の中で最後の拠り所となって心を支えていたものがあっけなく打ち砕かれた。
 周りでは咽び泣く声が聞こえはじめる。
 しかし、おれは悲しみも何も、もう感じることはなかった。
 ただ一つ。
(次は、おれか)
 確定事項のように未来が頭に浮かんだ。
「もしかして、二人とも同じ時間だった?」
 頭を下げ続けていた伝令たちは、顔を上げて互いに顔を見合わせ、頷き合う。
「は、はい。天龍法王は、ガルガロッサ平原にて劣勢に立たされていたのですが、幻のように聖様が現れて白い光が放たれたかと思うと、敵将以外、皆干からびて消えてしまったそうでございます」
 一瞬で生命体の時間を早送りしてしまった、というところだろう。
 龍兄さんのためなら、本当に至れり尽くせるなんだな。
 思わず緩んだ口元に、育兄さんが見咎めるように鋭い視線を投げかけていた。
 伝令が去った後、夜になって育兄さんは自分の天幕におれを呼びつけた。
「さっき、なぜずっとにやついていた? 周りに誤解されるような表情は慎んだらどうだ?」
 白いワインをなみなみと二つのグラスに注ぎ分けながら、育兄さんは口調ばかりは厳しくおれを窘めたが、おれは一向に堪える気がしなかった。
 多分、育兄さんも建前だけでそう言っているのであって、どうしておれの口元が緩んでしまうのか、本当は分かっている気がしていた。
「隠したい相手は、もうみんないなくなってしまいました」
 渡された白ワインを一気に飲み干して、おれはあっけらかんと言い放った。
 ワインは、炎と呑む時ほど美味くはない。上級酒であるにもかかわらず、だ。
 彼女と呑むちょっとのワインは特別だ。飲みながら、今晩はどう口説き落とそうか、考えることができる。心のままに柔らかな言葉で攻め落とそうとしても、意外に素直じゃない彼女にはプイっとそっぽを向かれてしまう。しかも、受け取る側に受け取るつもりがないと、発された言葉すらも真っ直ぐすぎて陳腐なものになってしまう。
「そんな呑み方をするものじゃないよ。あとで悪酔いしても知らないよ」
 二杯目を求めたグラスに惜しげもなく琥珀色の液体を注ぎながら、育兄さんは苦笑する。
 やけになっているのだ、と、分かってもらえたなら嬉しい。
「それで? どうしてわざわざご自分のテントにおれのこと呼びつけたんですか? 説教だけなら外でもいいでしょう?」
「風環法王の沽券に係わるかと思ってね」
「またまた~」
 ひらひらと手を振って見せたおれの前に、育兄さんはすっと一通の封書を差し出した。
 “風へ”――
 走り書きされている割には、きちんと形を保っている文字には見覚えがあった。
 おれはグラスを置き、封書を開く。
 龍兄さんだった。
「……どうして僕に……?」
「ちなみに、私に宛てたものはなかったよ。統仲王や海に宛てたものも、ね。お前だけだ。その意味が、分かるかい?」
 育兄さんは、少し寂しげに、でも優しく笑っていた。
 おれは答えが分からず、頷くことも首を振ることもできぬまま、手紙に視線を落とす。
『私が死ぬ時、周りに誰もいなかった時のために、お前にこれを託す。もしそうなった時は、統仲王にこう伝えてくれ。おれは、二度とあんたの子には生まれてきたくはない、と』
 おれは、不謹慎にも少し吹いてしまった。
「そんなに面白いことが書いているのか?」
「遺言の始まりが、統仲王に、二度とあんたの子には生まれてきたくないって――本音だなぁと思って」
 吹きだした笑いはまだくすくすと腹筋をくすぐっている。
 育兄さんも思わず吹き出し、笑いながら長いため息を吐いた。
「我々は、きっと誰も、二度と統仲王の子には生まれてきたくないと思っているだろうよ」
「違いない」
 二人でひとしきり笑った後、おれは育兄さんに尋ねた。
「ねぇ、龍兄さんが亡くなった時、側には誰かいた?」
「ベルテオーネルが亡骸を天宮に持ち帰ったと聞いている」
「そう。じゃあ、ベリテオーネルにも同じこと伝えたのかな」
「それは、どうだろうな。風、お前だから言う気になったのかもな」
「そうかなぁ。みんな思っていることを、今更?」
「ああ、今更だけどな」
 そつなく肯定した育兄さんを以外に思いながら、おれはまた文面に没入した。
『この先は読まなくてもいい。ただ、聖の一番親しかった〈兄〉であるお前にこれを伝えることは、聖への懺悔になるかもしれないと思った。』
 そこには、龍兄さんの聖への想いが確かに綴られていた。
 聖は、愛しくて大切な女性だ、と。
 兄として思いに歯止めをかけようとしながらも、惹かれてしまう罪悪感。同じ血の流れる身体への嫌悪と疎ましさ。しがらみなどないかのように炎を愛したおれとの違いに対する苦悩。
『聖が生きていたら、風の口から伝えてほしい。今度は必ず聖のことだけを考えるから、と。何ものにも振り回されずに、聖のためだけに生きるから、と。』
(兄さん、それは自分で伝えるべきことでしょう)
 静かに息を吐いて、おれは龍兄さんからの遺書を燭台の灯火にかざした。
「なんだ、取っておかないのか」
 残念そうに言った育兄さんに、おれは苦笑する。
「正気だったらこんなもの残しませんよ」
「聖のことか」
 ため息と苦笑が、育兄さんの一息に混じる。
「炎と龍兄さんは、やっぱり双子なんですね。考え方が似ている。身体に振り回されて思う通りに人を愛せないってところとか」
 もしかすると、炎もどこかで姉としての歯止めなるものがあったのかもしれない。ずっと悩みながらも、それでもおれを選んでくれていた。
 だから余計、苦しかったのかもしれない。
 苦しくて苦しくて、この世界から出られないのなら、自分の身体から脱出することばかり考えてしまったのかもしれない。
 魂の解放、なんて、彼ら神様の子供たちには、本来叶うはずのない願いを叶えてしまったのだから。
「風はどうだったんだ?」
 ワインを一口呷り、育兄さんは楽しそうにおれを見る。
 この世の全ての輪廻を管理している育命の国の王。その彼が、おれのことを知らないわけがない。
「おれは、前世のお蔭でこの身体には縛られることはなかった。愛優妃と取引をしてでも、炎の側にいたかった。実際、おれは絶対死ぬことはないからって、炎を口説いていたほどですし」
 予想通り、育兄さんはちょっと笑う。
「炎が闇獄界側の将だったなら、きっと今頃、おれはあっちの陣にいましたよ」
 今でも、彼女があっちに生まれ変わっていたら、あっさりと闇獄界側に寝返る自信がある。一番大切な妹も、一番大好きだった兄も、神界からはいなくなってしまったから。
「くっくっくっくっくっ。それは困る」
 喉を慣らして笑いながら、育兄さんは鋭くおれを見据える。
「危険分子でしょう? 消すなら今のうちですよ?」
「はは。みすみす優れた将を殺せるほど、すでにこちらには余裕などないのだよ。しかし――一つ尋ねておこうか」
「今までさんざん聞いといて、改まって何です?」
「風、それはお前が一人で喋っていただけだよ」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。ああ、喋らせたのを私のせいにはしないでおくれよ」
「育兄さんたら、喋らせ上手だから」
「じゃあ、喋らせ上手ついでに喋ってもらおうか」
「なんでしょう」
「風。炎が死んで半年。お前が神界の将として命を賭ける所以は?」
 愛優妃との取引はとっくに反故になっている。
 炎が死んだ時点から、おれは新しく生まれ変わった炎を探しに行く旅に出たって、何も文句は言われなかったはずだ。
 それでも、おれが今ここにいる理由。
 風環法王として、戦場に立つ理由。
「おれは、前世が庶民だったので、未だに兄弟(あなた)たちを天上の人のように思うことがあるんです」
 愛優妃に騙されたかな、と、何度となく思っていたのだが。
「我らにそんな口を利く庶民など、おらぬだろう」
 育兄さんに一笑に付されて、思わずおれも笑いが漏れ出てしまった。
 それもそうだ。
 おれは、一体何を勘違いして生きてきたんだろう。
 結局、おれも身体に縛られていたんじゃないか。
 他の兄弟たちに劣等感を持つことで、炎との特別な関係を意識しないように無意識の方へと押し流そうとしていたのではないだろうか。
 そう思ったら、笑わずにはいられなかった。
 笑って、笑って、笑って、ぽっかりと胸の真ん中に空虚な穴が空いていることに気付いた。
 全て、炎のために捧げた一生に、今余白ができている。
「とりあえず、炎の転生した少女に出会えるのを待っているんです。彼女、見つけてほしいって言ってましたから。あ、もしかして育兄さんはご存じですか? 把握済みですよね、きっと」
「知っていたとしても、教えられないよ」
「そうですよね。そう簡単に見つかってしまったら、つまらないもの」
「闇獄界に転生していたら、有能な将を一人失うことになるしな」
「またまた~。でも、そうですね……あるいは、誰かに殺されるのを、待っているんでしょうかね」
 炎との約束を違えられず。けれど、今は自分の生に対して執着はなく、放り出したいとすら思っている。
 彼女のいない永遠は、人だったおれの心にはあまりにも長すぎる。
 おれは白ワインを一気に飲み下した。
 喉がカーッと熱を持った。
 聖の喉の痛みはこんなものではなかっただろう。もっとひどく、灼けつくように腫れ、呼吸すらもきつかったに違いない。
 それでも、彼女は龍兄さんのために生きるつもりでいた。
 よくなるつもりでいた。
 全く、感服せざるを得ない。血の重さがわからない年齢でもなかっただろうに。
「いや、あの子は多分、一番早い時期に理解していたよ。自分の寿命のことも、何もかも。だから、精一杯わがままに生きたんだよ」
 滑らかな低音の声に心の声を掬われて、思わずおれは育兄さんを睨みつける。
「盗聴なんて趣味が悪いですよ。ワイン、ごちそうさまでした」
 空になったワイングラスをテーブルに置き、おれは席を立つ。
「私は趣味が悪いんじゃなく、性格が悪いんだ」
「へぇ、掘ったら色々出てきそうですね」
「出てくるよ、いろいろとね。龍にはちょっとした借りがあったこととか、海のこととか」
「面白そうですね。機会があったら是非」
 そんな機会は巡ってこないだろうなと思いながら、おれは育兄さんに背を向け、部屋の扉に手をかける。
 そこで、ふと立ち止まり、育兄さんの方を振り返った。
「ねぇ、どちらになると思います?」
 炎の生まれ変わりに出会えるのか。
 それとも――
「お前の直感が当たるよ」
 育兄さんは琥珀色のワインを見つめたまま、明日の天気を予報するようにこともなげに言った。
 おれの心臓は、思わず大きく跳ねていた。
 やはり、という思いと、ようやく、という思いと。
 その間で大きく揺れ動いていた。
「育兄さん、おれが生きているうちにその性格、矯正してみませんか?」
「可能だと思うか?」
「……いいえ」
 真面目に問われて、思わず心のままに否定してしまったおれは、心臓が大きく弾みすぎるのも忘れて笑ってしまった。
 胸に下げた袋には、炎から一房切り取った赤い髪が収められている。その袋を静かに握って、おれは育兄さんの天幕を出た。
 その後、神界軍は統仲王を総指揮官として陣中に迎え入れ、本格的に闇獄界へと侵攻を開始する。
 いつも防戦一点張りの神界軍が闇獄界に侵攻するのは、有史以来初めてのことだった。
 その将の一人としておれも闇獄界へ渡り、月だけが浮かぶ真っ暗闇の中を部下たちを率いて駆け抜けたが、その勢いも愛優妃がいるというディアス城の門前で尽きた。
 どこで判断を誤ったのかは分からない。
 ただ、気づいたら闇獄軍に取り囲まれ、隊は壊滅し、おれは地に捻じ伏せられて何度も背中に刃を突き立てられていた。
 何とか顔を上げようとすると、目の前に男の足が仁王立ちに立っているのが見えた。
「キルアス」
 声が降ってきた瞬間に、おれはぞわりと全身が震えた。
「いや、今は風環法王か」
 お前か。お前がおれを待ち伏せ、隊を壊滅させたのか。この迷路のような真っ暗闇の中で。
 おれは、歯を食いしばって奴の名を呼ばないようにする。今生最後に呼ぶ名が、また奴の名だなんて死んでも死にきれない。だから、顔を伏せて群がる闇獄軍たちの好きにさせようと決める。ここから抜け出そうとしたところで、今度は目の前のこいつにまた殺されるだけだ。それだけは、嫌だ。
 目の前の男はふっと鼻で笑っていた。
 笑え、笑え。好きなだけ笑え。もう二度と会うこともない。お前が何でこんなところでまだ生きているのかなんて知らないが、そんなこと、もうどうでもいい。互いの最期の時に立ち会うのが宿命だなんて反吐が出る。最期くらい、静かに逝かせてくれ。
「賢くなったな、キルアス」
 男は、しゃがんでおれの耳元でわざとらしく優しく囁く。
「信じるな。疑え。己が身を守りたければ、疑いつづけろ。その通りに、お前は生きた。よくやった」
「お前に、褒められ、ても……」
 思わず零れ出た怨嗟の声に、自分で歯噛みする。
 絶対にこいつと最後の言葉など交わすものかと思っていたのに。
 おれは、ずっと風環法王を演じてきた。奴は、そう評価している。だから、おれをキルアスと初めの名で呼ぶのだ。
「キルアス」
 万感の思いを込めてそう呼びながら、奴はおれの顎を持ち上げ、間近で顔を覗き込んできた。
 唾でも吐きかけてやりたかったが、もう身体は自由が利かない。目を開けているのがやっとだったが、こんな奴の顔を最後に見るくらいなら、さっさと閉じてしまいたい。そう思うのに、奴の表情は妙に哀愁漂って優しかった。
「また会おう、キルアス」
 するりと奴の手が顎から引かれて、おれはそのまま冷たく湿った石畳に顔を伏せた。コツコツと奴の足音が遠ざかり、好きにしていいと判断した従卒たちが面白半分におれに群がり、憂さ晴らしがてら無数の刃を突き立てる。
 炎と同じような死に様だ。そう思ったら、はじめは感じていた激痛もやがては薄れ、真っ暗闇だった視界に光が満ちはじめる。
(ごめん、炎。約束守れなくて)
 風のまま、君を見つけようと思っていた。
 でも、どうやらおれもここまでらしい。
『あたしね、家族が欲しかったの。好きな人とその人との子供と一緒に、あったかく安らかに過ごせたらなって、憧れてたの』
 死の間際、眩しげにおれを見つめる彼女の紅蓮の瞳が忘れられない。
 全てを悟り、全てを受け入れた瞳。
 ふ、と。
 思った。
 彼女はおれに「風」を望んだわけではなかったんじゃないか、と。
 都合のいい解釈だと思われるかもしれない。
 それでもおれは、そう気づいた途端、妙な高揚感と幸福感に満たされたんだ。
『だから、見つけて――あたしを、探して――』
 大丈夫だよ。
 必ず約束は果たそう。
 君のことは見つける。
 君が望んでくれたこの「おれ」が、必ず。
「約束……は、守る、よ……」
(え……ん……)