聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第6章 夢の代価
2(樒→宏希→聖)
「姉ちゃん!」
河山君をリングに残して早々に退場した洋海は、あっさりと大勢の観客の中からわたしの席を見つけ、当たり前のように横の人を笑顔でどかせるとどかっと隣に座った。
「あんた、一体どうやって……」
「姉ちゃんの座ってる席が分かったかって? そんなの、おれにかかれば一目瞭然だよ。リングからぐるり360度を眺めればあっさり見つかったよ」
「まさかそのために試合に出てたの?」
西方将軍の決勝トーナメントを見に行こうと誘ってきたのはメディーナだった。メディーナには、ヨジャから招待券二枚と決勝トーナメント表が人伝に渡され、そのトーナメント表を覗き込んだら、一回戦に見慣れた読み方の名前が神界文字で記されていた。〈モリカゲ ヒロウミ〉と。
「まぁ、それもあるけど、一度やってみたかったんだよねぇ」
「何を?」
「風環法王と手合わせ」
ニヤリと笑う洋海の手には、まだ〈白虎〉の大剣が握られている。
「元西方将軍が風環法王とこんな大会で手合わせなんて、そんな必要ないでしょう」
そもそも、風兄さまがあんなに剣が使えたなんて聞いていない。
さっきの洋海と河山君の戦いを見て、洋海が本気なのはわかったし、それを河山君は余裕で躱しているように見えた。洋海がヴェルド時代よりも体格的に劣っているからと言って、その腕前までがた落ちしているとは思えない。それならば、河山君もとい風兄さまの技量の方がそもそも上だったということになる。
「興味ない? 西を守るのに、どっちが相応しかったか」
「何言ってんのよ」
呆れたわたしにかまわず、洋海は満足気に息を吐き出した。
「おれはすごく興味があったよ。本当はどっちが西を守るのに相応しかったか」
「そこに鉱兄さまは含まれてないわけ?」
「決着をつけたかった。本当の周方皇はどちらだったのか。西方将軍はどちらだったのか」
「だから、何言ってるのよ。風兄さまだって西側が闇獄界からの侵攻に晒されれば一も二もなく戦ってたじゃない。風環法王なんだから当たり前よ」
洋海はいかにも上から目線でおめでたいなーという目でわたしを見た。
「何よ?」
「ううん。なんにせよ、ヨジャ・ブランチカが約束を守ってくれてよかったよ」
「約束?」
「風環の姫と姉ちゃんを観客席に呼び出してくれたら試合に出てやるって言ったんだ」
「そうだ、あんたどうやって神界まで来たのよ」
「だから、ヨジャ・ブランチカに呼ばれた。西方将軍を決定する試合に出てほしいって。決勝トーナメントからでいいからって」
「なんでまた、洋海に」
「ん~、おれ、分からないでもないよ。きっと、おれと河山さんを戦わせたかったんだよ。というか、風環法王に西方将軍ヴェルド・アミルと戦わせてあげたかったんじゃない?」
なんとなく分かったような満足気な顔をして、洋海は、今度は葵と戦いはじめた河山君を見下ろした。
「何のために」
「あの剣、周方皇の剣なんだよ」
羨望と軽い諦めが混ざった目で河山君を見下ろしながら、洋海は言う。
「これは、〈白虎〉。統仲王から西方将軍に神界を守るために与えられる剣」
「周方皇は基本、代々西方将軍を兼ねていたのだったな」
「そう。西方将軍は実力主義だけど、周方皇は血統。でも両方を兼ね備えなければどちらにもなれない」
メディーナの合いの手に洋海は頷き、〈白虎〉を手の内から消す。
「あの人は、風環法王にならなかったら、周方皇となり、西方将軍となっていた人だよ。父が周方皇の後継者と認めたのは兄だった。父は、自分の代わりにあの剣で兄を守りたかったんだ。きっと、自分が死んだ後も守りつづけたいと思ったんだろうね。手合わせして、近くであの剣を見て確信した。未だに剣の柄には周方の紋章が刻まれているんだ。〈螢羅〉なのに」
洋海は悔しそうにちょっと笑った。
「兄って……」
「ヴェルドとサヨリには、腹違いの兄がいた。その時代、父には母とは別の正妃がいて、その正妃とは別に火炎の国で見初めた女性を第二皇妃として連れてきたんだ。兄はその第二皇妃の子供だった。父との間に子供ができなかった正妃もとい第一皇妃はプライドを傷つけられ嫉妬に狂い、第二皇妃と兄を皇宮から追い出し、逃げる第二皇妃を暗殺した。兄は難を逃れたけれど、数年後、風の精霊王を従えて周方宮を一人で襲撃し、復讐を果たした。その時、父はなぜか殺されなかった。その代わりなのか何なのか、ほとぼりが冷めた後、北楔羅流伽から自分よりも二回り近く年若い皇女を正妃に迎え、おれたちが生まれた」
わたしはきょとんと洋海を見つめ返す。
「……ドロドロだね」
「ドロドロでしょ? おれたちの頃には父はそんなのおくびにも出さなかったし、誰もそんな噂する人いなくなっていたし、吹き込んでくる人もいなかったから、多分サヨリは知らないよ」
「え」
一瞬、三井君の彼女の佳杜菜さんの顔が思い浮かんだ。
「どうして洋海は知ってるの?」
「調べた。周方の歴史調べてて、周方皇に代々引き継がれている剣があると知って、親父に聞いたら知らないふりされたから、徹底的に調べた。兄が生まれた頃は周方皇の剣はちゃんと儀式の際に周方皇が身に着けるものとして登場していたけど、第二皇妃と皇子が追い出された後の儀式からは、代わりに〈白虎〉が周方皇の腰に佩かれるようになっていた。だから、追い出される時に皇子にあげたんじゃないかって。そしたら、皇子の周方襲撃の時に使っていた剣が周方皇の剣だったという記述を見つけた。しがない衛兵の日記だったけどね。それ以来、周方皇の剣は完全に歴史から姿を消している。周方を襲撃した皇子の行方も分からないまま、生死すら不明だった。輪生環の記録まで調べたけど、皇子は――キルアス・アミルは死んだ記録すらなかった」
「徹底的だね」
我が弟ながら恐ろしい。いや、ヴェルドだったと思うとむしろ意外な気がする。いつも快活でこだわりなくカラカラ笑ってて、後ろ暗いところなんかまったくなくて太陽みたいに明るい人だと思っていたのに、そんなに徹底的に物事を突き詰めるタイプだとは思わなかった。
「意外だった?」
「うん」
「おれ、こう見えて結構しつこいんだよ?」
ニヤリと洋海は意地悪く笑う。
わたしは思わず肩だけでもメディーナの方に寄せて距離をとる。
「冗談だよ。姉ちゃんをどうこうするつもりなんかねぇよ。でも――しつこさでいけば、やっぱあの人の方が上回るかなぁ」
洋海はにやにやと闘技場の上で葵の朱雀蓮を跳ねて躱しつづける河山君を見下ろした。
「やっぱ、血だねぇ」
そのセリフには、風兄さまが炎姉さまを追いかけつづけている以上の重みがあった。
「風環法王と火炎法王の中が不問に付されてた理由、知ってる?」
ふと思い出すように、洋海は呟いた。
「ううん」
理由があるなら知りたかった。聖だって、ずっと羨ましいと思っていた。風兄さまと炎姉さまが相思相愛なまま許されている理由が分かれば、自分だって許されるようにできるのではないかと思っていた。
「キルアス・アミルは風の精霊王と契約を結んだ。その結果かどうかは知らないけれど、愛優妃様は第七子を妊娠した後、なかなか産み月が来なかったらしい。十月十日経っても、一年経っても、二年経っても」
「……それって、死んでない?」
二年って、それはさすがに神様である愛優妃でも無茶な話ではないだろうか。
「死んでたんだと思う。いや、魂が宿らなかったから生まれてこられなかったんだと言われれば、神様の世界はそうですかと納得してやらなくもないけれど。本来は、その第七子が風の精霊王と契約して北西の領地を治める風環法王として誕生するはずだった。それが、キルアス・アミルが無理やり精霊王と契約したがために、第七子が生まれてこられなくなった。精霊王の祝福なしには法王は生まれてこられない。むしろ、精霊王の祝福を得られない法王など生んでも無駄」
「無駄……」
何か恐ろしい真実を聞いたようで、ぞわりと背筋が冷たくなった。
洋海もはっとしたようで、慌てて表情を取り繕った。
「あ、今の話は姉ちゃんは忘れて? うん、忘れよう。忘れた方がいい。そうだ、何も聞いてない。姉ちゃんは何も聞いてなんかいない」
「何を無理矢理……」
「忘れていいから。その時になったら、おれが何としてでも絶対に守るから」
洋海に低い声で囁かれて、わたしの思考は静かになった。
「わかった。でも、わたしを守るために洋海が傷つくのは許さない」
「また無茶なことを。その時は〈治癒〉で治してやってよ」
「その時って、そんなの来ないのが一番でしょう」
「一番だけど、おれたちが転生したのってどうしてだと思う? 転生してもいいよ。輪生環ってそのためにあるんだし。でも、同じ時代、同じ場所に、しかも前世の記憶付きで蘇ってる。あり得ないことに、絶対に死なないはずの統仲王(かみさま)まで転生してきてる」
「工藤君が……」
「おかしいと思わない? 統仲王まで人間のふりして学校通って、何ならおれたち集めて? 闇獄界からはおれたちが今までよりも数段弱い泥人形の人間として蘇ってることを知ってるように闇獄主たちが仕掛けてきてるし。そして今までの二人とも、悪く言えば返り討ちに遭っている。むしろ、返り討ちに遭いに来てるとしか思えないんだよね。あの人もそう」
洋海は、対面の主賓席に座るヨジャ・ブランチカをまっすぐに見据えた。
「ヨジャ・ブランチカも?」
「あの人は、兄キルアス・アミルの侍従だった人だ。ボケた爺さんの記憶が正しければだけど。あの時代について記されたものはほとんど残っていないんだ。それこそ徹底的にその歴史をなかったことにしたんだろうね。だから、ボケてちょっと口が軽くなって昔のことを語りはじめた爺さんくらいしか、その時のことを教えてくれる人はいなかった。第二皇妃が皇宮を追い出されるきっかけになったのは、兄が第一皇妃に毒を盛られて死にかけたかららしい。それをいち早く見つけて助けたのが、あのヨジャ・ブランチカ。しかも……」
「しかも?」
「ヨジャ・ブランチカは第一皇妃の実の息子だという噂が当時はあったんだって」
あまりの展開についていけなくて、わたしは首を傾げる。
思い出したのは昨夜覗き見てしまったヨジャ・ブランチカの悪夢。高位の女性に虐げられている胸が気持ち悪くなるような夢。
「エマンダ? その第一皇妃の名前は、エマンダ?」
洋海が頷く前に、リングでの試合に夢中になっていた観客がわぁっと歓声を上げて沸き上がった。
リング中が火の海と化していた。
その中心にぎりぎり身体にそって結界を張って耐えているのは河山君。葵は、リングの端で悠々とその様を眺めている。
「ちょ、葵」
「葵さん、本気だなぁ」
狼狽えるわたしをよそに、洋海は膝に頬杖をついて悠々と観戦を決め込む態勢に入る。
「悠長にそんなこと言ってる場合じゃないでしょ。止めなきゃ河山君、殺されちゃう」
「この西方将軍の決定戦のお約束、忘れた? 殺したらアウト。即負け。葵さんが本気で河山山を殺しにいくわけがないし」
「いやいやいやいや、それでも、あれはかなり河山君厳しいんじゃない? 熱いよ、絶対」
何なら、今すぐ河山君だけでもリング上からどこかに転移させてしまおうかと思ったら、河山君を中心として大きな風のうねりがゆるりと生じた。うねりは炎を巻き込みながら速度を上げ、天空へと昇り立つ。巻き込まれた炎は、あれほどの業火であったにもかかわらず、リング中に半径を広げた竜巻に押しつぶされるようにして消えていく。竜巻は轟音と共に速度を上げ、黒々とした凶悪な姿となっていき、所々で雷光を光らせながら渦巻く。一方ですり鉢状の観客席は三百六十度、冷たい風が竜巻に引き寄せられるように吹き込み、袖やスカートの裾から出た腕や足に鳥肌が立つほどだった。
まもなく、リングの上には雨が降り出した。
リング上だけに降り注ぐ豪雨だ。
リング上を踊り狂っていた炎は、大半が竜巻に巻き込まれて押しつぶされ消えていたが、残された炎も白い滝の柱のように降り注ぐ雨によって完全に打ち消され、白い煙だけが立ち上りはじめる。
呆気にとられたずぶ濡れの葵の前に、やはりずぶ濡れの河山君は堂々と一歩一歩歩み寄り、剣の切っ先を葵の胸元に突き付けた。
「チェックメイト」
雨がやみ、やたらと静まり返ったリングの上で、河山君の落ち着いた声だけが零れ落ちた。
一瞬の間を置き、司会者がクロフクメンの勝利を宣言する。
湧き上がる歓声とともに、今見せられたのはなんだったのかと戸惑いの声が混じる。
「大気を操れるなんて、最強だよね」
呆れたように洋海が呟いた。
「今のあれ、どういうこと?」
「法王の力の強さって、末子に行くほどやばい能力もってるって、聞いたことある? 聖の時空を操る能力なんて、それ自体神クラスで規格外だけど、あの人の風を操れる能力ってのはつまり、気象を左右できるってことなんだよ。見てたでしょ? 葵さんがリング中を炎で覆って大気が熱されたところに、冷たい風を呼び寄せて一気に空気を冷やして雨を降らせる。十八番の炎をいいように使われた火炎法王はもちろん、水海法王も天龍法王も、あれじゃあ顔負けだよ。ああ、物体の熱を左右できる麗もか。あの人、今一人で四人分の法王の力を使ったわけだ。ずるいよね~。えぐいよね~。やっぱあの人、人じゃないわ。れっきとした法王だわ」
ため息交じりにそう言ってるものの、洋海はどこか誇らしげだ。
「風兄さまの時に使えていたら、歴史は変わっていたかな」
風兄さまは魔法は治癒くらいしか使えなかった。精霊王との契約のせいだと今ならわかるけれど、気象まで操作できる能力があったなら、一人でもどれだけ闇獄軍を倒せたか知れない。
「一人の力には限界があるでしょ。まさか姉ちゃん、キルアス・アミルと風の精霊王との契約の前まで時を巻き戻してやり直させたりしようなんて考えてないよな?」
「そ、そんなこと、できるわけないじゃん。時間の流れは絶対に未来に向かって一方通行だもの。巻き戻すなんてそんな大罪、犯せるわけ……」
ちり、と頭の片隅で何かが爆ぜたような気がした。
あるはずのない、時を巻き戻した記憶が起き上がろうとして無理に押し返されたような、そんな感覚。
「姉ちゃん?」
たった数日であろうと、それは許されない。
そんな大それたことを、するわけがない。する、理由がない。
なのになぜ、時を巻き戻すということに既視感を覚えるのだろうか。
手繰り寄せた糸口は、ぷつりと途中で途切れ、何の映像も結ばない。
やめよう。そんなことしているわけがない。これが途中からやり直しされた二度目の歴史だなんて、そんなことあるわけがない。
でも。――もし、やっていたとしたら、何を代価に売り渡した?
ざっと血の気の退く思いを味わったところで、洋海の呼びかけに我に返る。
「ごめん、大丈夫。時を巻き戻すなんて、しないわよ。しかも、風の精霊王との契約時点って、聖が生まれるよりも前じゃない。そこからまた歴史を積み上げていくなんて気が遠くなること、しないしできないしやらないって」
さすがに、そんな古代から時を戻したら、必ずうまくいっていたところにも歪ができる。さすがに健康体が自慢のわたしだって、生きて帰ってこられるかわからないことに賭けるわけにはいかない。
それでも、時を戻せば、もう一度神生をやり直すことができたなら――いや、それがうまくいっているなら、きっと聖はもう幸せになっている。わたしはここに存在していないかもしれない。聖が死ぬことがなければ、わたしは生まれていないのだから。それとも、今生きているわたしの時間は、どんなに時をやり直しても結果は同じという証明なのだろうか。
聖は、いつもベッドの中から天井を見上げていた。終わることのない永遠の未来を突き付けられながら、砂時計の砂が緩やかに落ちていくように絶望を積み重ねていた。
肉体は牢獄だ。
魂の牢獄。
一度入ってしまえば、もう二度と出られない。
聖の身体は、か弱く病がちで、好きに外で遊びまわることもできず、闇獄界との戦いがあっても戦に赴くなどできず己の無力ばかりを味わわされる牢獄も同然だった。
死は、彼女にとって希望だった。
唯一牢獄から逃れられる方法。輪生環にはいることさえできれば、泥人形の身体となって短い生を繰り返すことになろうと、ひたすら病に苛まれ続ける身体からは出ることができるし、うまくすれば元気に外を跳ねまわることだって可能になるかもしれないのだ。神界に生まれ変わりたいとは言わない。人界の泥人形でいい。統仲王と愛優妃の造った箱庭の中でいい。この身体から逃れられるなら。
彼女の夢は、叶えられた。
聖の夢の続きとして、わたしはいる。
夢のブルーストーンに生れ落ち、運動は得意ではないけれど丈夫な体を持ち、友人に恵まれ、それなりに平穏無事に恵まれた人生を歩んでいる。これって、実はとてもすごいことなんじゃないだろうか。少なくとも、今わたしはひとりぼっちじゃない。ベッドに縛り付けられるだけの時間なんて考えられないくらい元気だ。
でも、さっき洋海が言っていた、わたしたちが同じ時代、同じ場所に転生してきた意味。統仲王まで転生している意味。そして、次第に巻き込まれて神界にまで来ちゃって、目の前で繰り広げられる神代のような魔法戦。
確実に、わたしたちは夢の代価を払わされようとしている。
葵がおかしくなっているのも、炎姉さまが望んだ夢の続きと現実が入り混じってしまったからだとしたら? 河山君が風環の国の迷宮で風の精霊王の本当の力を手に入れた意味は? そんな力、平和が続くならいらないはずだ。葵の炎の魔法も、わたしの時空を渡ったりする魔法も。
魔法を持たされた意味。
この時代、人界に生まれ変わった意味。
その代価を、河山君はまさに今、払っているのかもしれない。
「チェックメイト」
科野の胸元に突き付けた剣の先に、ぽたりと科野の髪から滴り落ちた雨の雫が零れ落ちた。科野はその雫を見つめていたのかどうか。顔を下げたまま、上げようとしない。その状態で、司会者はおれの勝利を告げ、寒風に震えあがっていたはずの会場中が熱気とともに沸き上がった。
「河山……お前、ずるいぞ」
「ずるくないよ」
「あたしより強いなんて、ずるい」
科野らしくない怨嗟の呟き。
らしくない? そんなわけはないか。ストレートな感情表現をする彼女だからこそ、浮き沈みは当たり前。からりと姉御肌なのは人前だからこそ。
「勝たないと、君は本音を言ってはくれないと思って」
「クロフクメンなんて、ださい。ネーミングセンスどうなってるの」
そういう本音が聞きたかったんじゃないんだけど。
「あまり考える暇がなかったんだよ」
「黒、似合わない」
そこではじめて科野は顔を上げ、おれの顔に手を伸ばし、黒い覆面を取り去った。
「風はいつも白ばかり着てた」
「黒は麗兄さんの専売特許だと思ってたから。それに、風環の国の爽やかな風に似合うのは、やっぱり爽やかな白だろ?」
「何言ってるの。いつもずっとそうやって白ばかり着て、身の潔白を証明し続けてただけでしょう」
科野の言葉に、おれはすっと目を眇める。
「あたしとのこと、罪悪感でいっぱいだったくせに」
「それでも好きだった。君の側にいられるなら、どんな手でも使う。人が神に懸想したんだ。同じ格の血を求めた結果が君を苦しませることになっていたとしても、おれは君の側にいたかった」
人が神の身体を、能力を、時間を手に入れたんだ。その力で自ら世界をどうこうするつもりなんてない。身の程は知っている。おれは炎の側にいられればそれでいい。身の潔白を証明? そうかもしれない。二心はないと、統仲王と愛優妃に見せる必要があった。同時に、約束を反故にすることは許さない、と牽制していた。
「炎が死んだ後、黒ばかり着ていたとヨジャが言っていた」
風のことでヨジャ・ブランチカの名前を出されて、おれの眉は思わず跳ねていたと思う。
炎が亡くなった後、風は一度だけ、自分が殺したはずの元部下と闇獄界で邂逅する。黒ばかり着ていたなどと言われるほど、そんなに前から見られていたとは思わなかった。
「カラスのようだったって」
「カラスは余計だ。喪服だよ、喪服。先に行ってしまった炎を偲んで」
「それだけじゃないでしょう? 隠すものがもう何もなくなった。だから、黒を着られるようになったんじゃない? 身を隠すように生きていたキルアスも、白系よりは落ち着いた黒や青系の服 を好んで着ていたし。白を着ていた貴方は、最後までキルアス・アミルであったことを隠そうとしていた。己からでさえも」
身の潔白を証明しているつもりが、おれは白を着ることで自分自身を隠しつづけていた、と? 他者だけでなく、自分自身からも?
「自分が誰なのか、分からなくなっていた時があったでしょう。キルアス・アミルなのか、風なのか。そして、どちらも自分なのだと思いつつ、やがてキルアスに嫉妬するようになっていった」
炎が見ていた風。
それは、一番近いところで見ていた分、とても的を射ていた。
おれでさえ認めたくないと思っていたことをポンっと言われて、おれは自分自身に対するざらりとした嫉妬の手触りを心の奥底に感じる。波打ち際の砂のように、乾く前に波に洗われて重くなり、塩分でべたついていく砂のような、掬い取っても指の合間に細かい粒子が纏わりついて、きれいに流れ落ちないあの砂の感触だ。
「誰からも、人だと疑われないように――お前は白を着つづけていた。あたしはそれが、とても苦しかった。あたしがお前の運命を狂わせた。あたしが……あの時お前を生かさなければ」
科野はそこで言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。
おれは、急に処刑台に立たされたような、切羽詰まった気持ちになった。
その言葉の続きを聞きたくない、と。耳を塞いでしまいたかった。
人であったことを、誰からも疑われないように、自分からも欺きつづけてきた。
欺瞞はやがて真実となり、人であったことなどおくびにも出なくなっていた。
それでも、心の根底には記憶は留まりつづける。
炎を愛したい。
その心の原動力は、人であるキルアスの記憶だ。
炎を愛しつづけるためには、人である記憶を忘れるわけにはいかない。
いっそ消してほしいと、嫉妬に駆られて何度思ったか知れないが、それでも、キルアスがいなければ、風はいない。風として生きつづける存在意義が失われてしまう。
「済まない。こんな重い罰になるとは思わなかったんだ」
殺しておけばよかったと、言われると思った。
周方でエマンダを殺した夜、ホアレン湖に現れた裁きを司る女神。
殺されるかもしれないという恐怖を吹き飛ばそうと、無意識にあらん限りの八つ当たりをした。そんなおれに、彼女は償いを命じた。生きるという、罰。生きて、彼女が作るという子供が剣を持たなくてもいい世界を見届けるという、約束。
確かに、おれは死んでいない。
キルアスの身体も、風の身体さえも滅びたが、記憶は魂に刻まれてここに在る。
「人としての人生を、ちゃんと歩ませてやりたかった。それなのにあたしは……あたしの欲で、お前をあたしの元に引き留めつづけてしまった」
「違う! おれはおれの意思で風環法王となることを受け入れた。愛優妃との契約を呑んだんだ。君の側にいたいと願ったのはおれだ! おれにとって、生きることはとうに罰ではなくなっていたんだ。エン、君と出会って、おれは生きたいと望むようになった。君がいなくなって、おれはどん底に突き落とされたんだ。あらためて君が神の娘だということを突き付けられて、それでも諦めきれなくて、その一方でおれの身体はどんどん精霊王との無茶な契約の代償に命を削られていた。もっと生きたいと望んだのは、おれ自身なんだ。君のせいじゃない。愛優妃との契約も、渡りに舟だった」
「違う。違う、違う、違う。あたしが望んだからだ。あたしが望んだから、お前はあたしに囚われた。あたしの望みすらも自分の望みだと思い込んでしまった。あたしは、お前に人としての人生を返したい」
両肩を掴まれて下から挑むように睨み上げられ、おれは息を呑んだ。
「君が何を思い、どんな力があってそんな風に思うのかわからないけれど、おれが君に惹かれたのは自分の意思だ。君を追いかけてこんなところまで来てしまったのも、おれの意志だ。たとえ君が望んだことが全て叶う力を持っているのだとしても、相手にも意思はある。その意思と合致しなければ、あるいは、その意思をそう仕向けることができなければ、望みなど全て叶うはずがない。相手をその気にさせるためにどんなに強力な誘惑の魔法を使おうとも、魂に刻まれた本心までは操れない。君の望みは、例えるならきっかけを与えただけだ。その望みに応えるか否かは、相手の意思だ。おれは君を追いかけて人から神の身体を得た。そして、今は人間の身体を得て、約束通り、ブルーストーンで君を見つけた。おれはもう、人としての人生を歩んでいるよ。だから、帰ろう、科野」
おれの肩を掴む科野の手から力が抜け落ちていった。ずるずると彼女はその場にへたり込む。
リングの床石についたその手を、おれは掬い上げた。
「帰ろう。急がないと、文化祭の本番に間に合わなくなる。演劇でヒロイン役やるの、夢だったんだろ?」
床石にしみていく黒い水の影を見て、そういえば自分たちはずぶ濡れだったと気付き、暖かい風を呼び寄せる。彼女のポニーテールから水が滴り落ちなくなるまで、リングに広がった黒いしみが消えるまで、彼女は顔を上げなかった。
「諦めようとは思わなかったのか?」
ようやく顔を上げた科野は、宇宙人でも見るかのように真剣にいぶかしげな表情を浮かべていた。
「人が神と結ばれるわけがない。永遠にだなんて」
おれは少しキルアスのことを考える。
「諦める前に次の選択肢を提示されたようなものだったから。しかも、神様が叶えてくれるっていうんだ。最強の約束じゃないか」
「神は裏切る。神は嘘を吐く。神は、己のいいように他者を扱う。基本的に自分本位のわがままな生き物だ」
「神様は人には及ばない能力を持っている。人は神に願う。祈る。諦めそうなとき、くじけそうなとき、望みを繋ぐために、神の名を呼ぶ。神界を作った女神が約束すると言ったんだ。君との神生を得られるなら、疑うことなど些末なことだ。他に方法を検討している余地もなかったし。人は、基本神様を信じているものなんだよ。とても都合よく、ね」
科野は虚を突かれたような表情でおれを見ていた。
「そうか。お前は人だったな」
「そうだよ。そして、今は人間だ。――科野も」
握られるばかりだった科野の冷たい手が、ようやくおれの手を握り返してきた。
「願いは叶えられていたのか」
「そうだよ。叶えられた夢を、自ら潰しに行くこともないだろう?」
「河山は……この後もずっと側にいてくれるか?」
「もちろんだよ。また長い時をかけて探すなんてごめんだからね。どこにもいかないように、行ってもいいけど、その時はおれもついていくよ」
「ストーカーか」
「鬼ごっこはおしまいだ。もう、逃げないで」
握り返された手を引き寄せて、おれは科野を抱きしめた。
天井を見上げて、見慣れたモザイク模様をそこに見る。唐草の蔦の先まで視線でなぞり、紫の実に一度目を止めてから、ポンっと次の細い蔦の端に飛び移る。
つまらない夢よりもさらにつまらない現実。目が覚めても、覚めていなくても、膨大な時間に押しつぶされそうなのは同じ。
早く終わってくれればいいのに。
こんな退屈な神生、早く潰えてしまえばいいのに。
望みは何も叶わない。願うだけ無駄。生きているだけ、無駄。息をするだけ無駄。
天井に描かれた蔦の先が手を差し伸べるように伸びてくる。私はそれに手を伸ばし、掴み取ろうとして、空を握る。
はっと、熱に浮かされていたのだと気付く。
チチチ、と窓の外で鳥が歌う声がした。
外は晴れていた。
驚くくらい澄んだ青い空に、黒い鳥影が二羽連れだって飛んでいく。
翼があったらな、と思う。
翼があったら、飛んでここから出られるのに。
汗で気持ち悪く張りつく寝間着をうっとうしく思いながら、寝台に両手をついて身体を起こす。もう、自分の身体ではないようだ。こんなにも言うことを聞かない身体なら、もうなくていい。
ため息よりも呪詛を口にしながら、足を床につける。
寝台の柱を支えにしながら、よろりと立ち上がる。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――
たったこれだけの動作なのに、もう息が切れている。
忌々しい、この身体。
唇を噛みしめて、顔を上げて窓の向こうを見上げる。
寝台の柱から手を離して、一歩、窓に向かって踏み出す。あっという間によろめいて、近くの椅子の背もたれに摑まる。次はテーブル。次はまた椅子。そして、ようやく窓際に辿り着く。
ガタガタと音を立てて窓を開ける。
ふぅっと秋の風が吹き込んできて、実りの匂いが鼻腔をくすぐった。
青い鳥が飛んでいく。美しい瑠璃色の羽をもつ鳥。
あの鳥を追いかけて捕まえられたら、私は幸せになれるだろうか。
他愛もないことに、急にそうだという思いが込み上げてきて、私はぐっと窓の外に手を伸ばした。
青い鳥は、チチチと歌う。
そうだ。さっきから歌ってくれていたのはあの青い鳥なのだ。
捕まえれば、きっとずっと私の側で歌ってくれる。鳥かごに閉じ込めて、枕元にずっと置いておけば、きっと私もこの世に倦みはしない。
あの鳥が、欲しい。
片手で窓枠を掴みながら、より向こうに手を伸ばす。
届かないと分かっているくせに、伸ばした手で宙を掻く。
青い鳥は私を見ようともしない。ううん、私のことになんて気づいていない。視界に入ってすらいない。
どうして? どうして気づいてくれないの? お前の歌声は私の心に届いたのに。お前の歌声が私を目覚めさせたのに。私を見て? 私に気づいて?
ぐらりと、身体が傾いだ。
もちろん、外に。
「聖様? 聖様? お加減はいかがですか? まもなく豊穣祭の本番が始まりますが、お加減は……」
扉の外から気忙しい侍女の声が響いてくる。
そうだ。今日は豊穣祭の本番だった。
鳥など追いかけている場合ではない。体調が悪いと倒れている場合ではない。歌わなきゃ。歌を、私が歌わなきゃ。
それでも、私は青い鳥から目が離せない。青い鳥の囀りがまだ耳に届いてくる。どんどん遠ざかっていくのに、離れていけばいくほど、どうしても手に入れたくて仕方がなくなる。
憧れとはそういうものだ。
そんな悟りが突如降ってきて、私は我に返った。
その瞬間、私は窓から落ちた。
何階だったろう、ここは。
視界が全て青空になる。
丸く弧を描く天頂が見える。
「失礼しますよ、聖様。――聖様!?」
次女とともに部屋に入ってきたヴェルドの悲愴な声が降ってきた。開いている窓に気づいたのだろう。すぐにヴェルドは窓から身を乗り出し、手を差し伸べる。
私はその手を一瞥して、ふっと身体から力を抜いた。
どうせ私は死なない。
落ちて大地に叩きつけられれば痛いだろうし、骨も折れるだろう。でも、きっと誰かが――風兄さまが〈治癒〉で治してくれる。たとえすぐに風兄さまが駆け付けられなくても、きっと誰かが治してしまうのだろう。そうでなくても、神の身体はなかなか生が尽きない。病とは共存し、打ち負かすことはできなくてもしぶとく時を重ねつづけている。
『青い鳥が鳴いている。
青い鳥は私を見ない。
青い鳥は、蒼穹の彼方に消えてしまった。
青い鳥は――』
ふわりと風がそよいで、背中を優しく持ち上げた。
眩暈のような一瞬の心地よさ。
私は青い空に手を伸ばす。秋らしい、澄んだ高い空に。
『青い鳥はどこ?
青い鳥はすぐそこに――』
風に支えられ、私の身体はゆっくりと落下する。
じたばたする気にもなれなかった。こんなに早く見つかるなんて思わなかったから。
この風は、きっと風兄さま。
豊穣祭の本番前に体調を崩して寝台に倒れこんでしまった私を心配して、様子を見に来てくれたのだろう。だから、何も心配いらない。この身体が地に着いたら、何もなかったように起き上がって、ごめんなさい、心配かけてと笑って謝って本番の舞台に立たなければ。
なのに、予想に反して私の身体は誰かの腕の中に納められた。
風に巻き上げられた銀の外套が視界に入る。
まさか、と思う。
まさか、と二度目は自分を嘲笑った。
何を期待しているのだ、と。
期待など、もうしないと何度誓ったことだろう。その度に裏切られるのに。
そもそも、最近はもう顔を合わせることすらない。見かけたとしても銀の外套を翻して去っていく背中だけ。
いるわけがない。
私がいるところに。
腕など、差し伸べてくれるわけがない。
この私に。
「何をしている、聖」
いとも簡単に、その人の腕は私を抱き留めていた。
私は恐る恐るその人の顔を見る。
目を見る前に、顎の輪郭を確認し、唇の形、鼻筋を経て、やはり目を見られなくてぎゅっと目をつむる。
「聖、無事―?」
少し離れたところから風兄さまと炎姉さまが駆けてくる。
ということは、やはりこの腕は風兄さまのものではない。
目を開けない私に業を煮やしたのか、腕は私の足を地につけ立たせようとした。のだが、熱だけでなく宙を落ちて平衡感覚も麻痺していた私は、自分の足だけで立てずによろめいた。すかさずその腕は、私をその胸に抱きよせた。
「龍、兄」
鼻腔に龍兄の匂いがした。甘くて懐かしい香り。ついつい甘えたくなるような、この世のどの花々、果物を掛け合わせても作れない至高の香り。
「あまり心配をかけるな」
至福の時間は、胸から押し返されて呆気なく終了した。
どういうつもり?
そう聞こうとしてその人を見上げる。
久方ぶりに薄氷色の瞳が私を見ていた。
「青い鳥が」
緊張で閉まり切った喉から、ようやく声を絞り出す。
「青い鳥が、いたの。歌っていたの。だから私、欲しくて」
小さい頃のように、甘えたな喋り方になる。もっとちゃんと大人っぽく話せればいいのに、言葉を押し出すだけで精一杯だ。
それとも、私は小さい頃に戻りたかったんだろうか。小さい聖なら、またこの人に見てもらえると。
口を噤み、俯いて、いつの間にか龍兄の服を握っていた手から力を抜く。
青い鳥は、飛んで行ってしまったのだ。
ここにはもういない。
そして、この人は、私の青い鳥じゃない。青い鳥だと、思ってはいけない人。
息を吸う。
心を落ち着かせるために吸い込んだのに、龍兄の甘い香りがして神経を狂わせる。ポロリと涙が出そうになって、必死で留める。
甘えてはいけない。
想いを、気持ちを、香りを、全てを振り切って、意を決して私は笑顔を作って顔を上げた。
「心配かけてごめんなさい。助けてくれてありがとう」
まだ腕を支えてくれていた手を解いて押し戻す。
そして、意識的に風兄さまと炎姉さまの方を振り返った。
二人は少し離れたところで遠慮がちに私たちを見守ってくれていたらしい。
「風兄さま、さっきの風、風兄さま? ありがとう。お陰で助かったわ」
思ったよりも張りのある自分の声に満足して、私は龍兄に背を向けて歩き出す。
「聖」
その私に珍しく、龍兄の声が追いかけてきた。
驚いて私の足は止まり、期待してはいけないと息を吸い込んで自分を落ち着かせてから振り返る。
「なぁに?」
そんな私に、むしろ龍兄の方が驚いているように見えた。
そうよ。私だって成長するの。いつまでも龍兄の背中を追ってばかりに小さな聖じゃないの。
私だって――
「今日の舞台、楽しみにしている」
思いがけずかけられた言葉に、全身を覆いこんでいた重いものが内側からぶわりとひっくり返され、喜びが駆け巡った。
それでもまだ、額面通りにその言葉を受け取っていいのかと猜疑心が鎌首をもたげる。
これ以上傷つきたくないと、その言葉の裏の意味を探り出す。
泣きたくなった。
たった一言、乾いた大地に雫がもたらされただけで、もう十分じゃない。それなのに疑うということは、私はまだその続きを期待しているのだ。
期待しては裏切られ、期待しては裏切られる。
龍兄は悪くないのに、私が勝手に期待して、勝手に思い通りにならない龍兄を罵って傷ついている。龍兄は青い鳥じゃない。籠に閉じ込めて、枕元に置いて鳴かせるだけの青い鳥じゃない。
いい加減、私はもう自分に翻弄されたくはないのに。
「ありがとう。がんばるね」
ぐっと口角を上げて最上の笑顔を作って返して、また前を向く。
龍兄の次の反応を確認する前に、自分で扉を閉じてしまう。これ以上傷つかないために。
前を向いて、流れてきた涙を手の甲で拭って、心配そうな風兄さまと炎姉さまに改めてお礼を言って、そうだ、上を見上げればまだヴェルドが心配そうにこちらを見下ろしていた。
「ヴェルドもありがとう」
軽く手を振って安心させると、ほっとしたように手を振り返してヴェルドは窓辺から消えた。
「風兄さま、炎姉さま、心配かけてごめんね。もう大丈夫だから、戻って着替えたらすぐに会場に行くね」
目が赤いことを心配されたくなくて、さっさと二人の前を通り過ぎてしまうつもりだったけれど、炎姉さまはすかさず私の額に手を当てて顔をしかめた。すかさず、私は炎姉さまの口を封じるように微笑む。
「心配しないで。これくらい平熱よ。だからお願い。歌わせて」
炎姉さまは風兄さまと顔を見合わせる。
私は幸せなのよ。だから、今すぐ歌いたい。あの人が聞いてくれるというのなら、今すぐさっきの青い鳥のように美しい声で囀りたい。ギリギリのバランスで組み立てたこの心が崩れてしまう前に。
風兄さまは仕方がないというようにため息を吐いた。
「早く着替えておいで。着いたらすぐに本番だろうから」
「はい」
部屋に戻ると、心配した澍煒が口をへの字に曲げたまま着替えを手伝ってくれた。
窓の外からは、もう青い鳥は見えなかった。
その代わり、私は会場で龍兄を探した。
きっといるはず。
舞台の真ん中に立って、ひしめき合う静寂の中にたった一人の人の姿を探していた。
見つかる前に、風兄さまが笛で繊細に前奏を奏でだす。打ち壊すことなく逢綬がヴァイオリンの響きを乗せる。笛とヴァイオリンの音が優しく絡み合って、歌声を呼び寄せる。
見つけた。
すり鉢状の一番上の立ち見の人たちの中に混じって、龍兄は私の真正面に立っていた。
来てくれた。
私の歌を聞きに、来てくれた。
身体が震えた。
それだけで十分。
逃げずに私の前にいてくれる。それだけで十分。
なのに、今度は最後まで聞いてくれるかしら、などという他愛もない感情が湧いてくる。
本当、この想いは貪欲。尽きることを知らない。
だからこそ今は、豊穣の恵みとともにこの想いを司るこの世の母なる神に感謝を捧げよう。
第一声が口から滑り出す。声が兄さまたちの笛と弦の音と絡み合い、溶けあう。
そう、この感じ。身体ごと溶けてしまえばいい。
音色に導かれ、祈りを音にしながら歌を紡ぐ。
観客たちが息も呑んで聞き入っているのが分かる。次第に彼らの祈りも受け取って、私の歌は一人のものではなくなっていく。
空へ。
この果てに女神はいないと知っているけど、今は、そこに恵み深き女神がいるのだと信じて心から両手を捧げられた。
祈りは歌となり空へ導かれ、余韻をはらんだ静寂が落ちてくる。
ふと、青い鳥が頭上高くを飛んでいるのが見えた。
チチチ。
そう。お前は自由でいいね。生も死も与えられ、翼も与えられて不自由を知らない。
目を閉じ、再び開けた時には正面遠くにいるはずの龍兄を探した。
龍兄はいた。確かに私を見ていた。蒼氷色の瞳と視線がぶつかるのを感じた。
ありがとう、龍兄。
極上の笑みを浮かべ、深々とお辞儀する。
瞬間、くらりと目が回ったが、意地で踏みとどまる。
上半身を起こして、もう一度お辞儀をし、風兄さまたちと成功の余韻に浸った視線を交わし合いながら、舞台袖に向かう。
眩しいばかりだった舞台から真っ暗な舞台袖に入った瞬間、私は前のめりに崩れ落ちた。
結局、まともな豊穣祭を行えたのはその年が最後だった気がする。早晩、神界は第三次神闇戦争の闇に巻き込まれていくことになる。
私は炎姉さまが気合を入れて打ち上げた花火を見損ね、数日と数晩熱にうなされた。
でも、不思議と見る夢は悪夢ではなく、ほっとするような小さい頃の優しいものだった。
目が覚めた時、枕元には鳥かごが置いてあった。
チチチ、と中で青い鳥が鳴いていた。
龍兄だ。
直感的にそう思って澍煒に尋ねたのに、澍煒は育兄さまからだと答えた。
「育兄さまが? どうして?」
「聖のステージの上を飛んでいたから、きっと聖の元に行きたかったんだろうって。それから、豊穣祭を成功させた立役者へのご褒美」
にぃっと澍煒が笑う。
嘘だ、と思った。
いや、その答えはほとんど真実なのだ。でも、もっとそれ以前のことが含まれていない。
私は檻に閉じ込められた青い鳥に顔を近づけた。
チチチ、と青い鳥はかわいらしく鳴く。でも、その声は閉じ込められているせいか、心なしか悲しげに聞こえる。
そうだよね。閉じ込められるのは嫌だよね。
指を檻の中に差し入れると、青い鳥は私の指を軽くつついた。
あの時は手を伸ばしても行ってしまったのにね。こんなにも簡単に側におけるだなんて。
「あなたのお陰で、あまり怖い夢は見なかったよ」
緑の葉をつまんで差し出すと、青い鳥は疑うことなくくちばしで葉を挟み、小さくしながら食べはじめた。
『飛べない青い鳥は、自由を求め、青空を乞う』
歌を口ずさみながら、何気なく葉を貪る青い鳥のくちばしに触れた。
大空を飛ぶ鳥が見た眼下の街や森。豊穣祭を見に集まった数多の観衆たち。歌う私の姿。そして、手を伸ばし、呼び寄せる育兄さまの姿。操られるように、青い鳥は自ら檻の中へと入っていく。
「私を慰めてくれてありがとう」
澍煒が私から目を離して別なことに夢中になっている間に、私は鳥かごを持って窓辺に歩み寄った。
青空は少し、豊穣祭の時よりも暗くなっている気がした。
冬が来る。
「ねぇ、寒い外と、自由のない中。どっちがいい?」
ピィ。
青い鳥は籠の中でせめても青空を近くに見ようと窓際に移動した。
「そう。そうだよね。外がいいよね」
鳥の命は、人よりも短い。時の実で繋ぐわけにもいかない。永遠を、痛いほど刻みつけられるだろう。
私は窓を開けた。思いの外冷たい風が吹き込んでくる。
「聖! 何して!」
驚いた澍煒が慌てて駆け寄ってくる。
私は青い鳥を閉じ込めた籠の檻を開けた。
青い鳥は一度私を振り返ったようだった。
「お行き」
ピィ。
鋭く鳴いて、青い鳥は籠から一歩踏み出し、翼を広げた。ぐるりと室内を一回りした後、もう一度ピィと鳴いて窓から外へ飛び立っていく。
「バイバイ」
小さく手を振っていると、澍煒がバンっといささか乱暴に窓を閉めた。
「聖、あんたって子は! せっかく育様が下さったものを逃がしてしまうなんて!」
「いいの。空を飛んでるのを見るのが好きだったから」
「でも、聖は青い鳥が欲しかったんでしょう? だから、この間捕まえようとしてそこの窓から落ちたんでしょう?」
「私はまだまだ生きるけど、あの子の時間は私と同じじゃない。見送るなんて嫌よ。失うなんて嫌。それくらいなら、早く手放してしまった方がいい」
「あんたはそうやって、大事なものほど自分から遠ざけようとする。死ぬはずもない神の娘が、死ぬ準備なんてしないでよ!」
「縁起でもない。言ったでしょう? 生きるからよ。生きるために手放したの。大事なものほど自分から遠ざけようとしているって? そうかもね。大事なものにはみんな時間が流れてるんだもの。私とは違う時間が。独りぼっちにされるのは嫌なの」
空になった鳥かごを見て、私はほっとするとともに、やはりどこか残念な気持ちになっていた。もう少し、手元に置いていてもよかっただろうか。けれど、これ以上長く引き留めていたら、冬に追いつかれてしまうだろう。
そんな私を、澍煒はぎゅっと両腕で抱きしめた。
「あたしがいる。あたしがあんたの側にずっといてあげるから」
私は澍煒を軽く抱きしめ返した。
「ありがとう」
澍煒はその言葉を忠実に守ってくれるだろう。
澍煒がいてくれるならいいじゃない。そう思う声に、少し寂しさが混じる。
何も変わらず永遠に続いていく未来に何の意味があるの?
神が倦むのは刺激が足りないから。
病に苦しみ、病に怯え、熱に震える身体に病を恐れ、己が運命を悲しんでいても、それは慣れてしまえば刺激にはなりえない。もはや病は私の日常だ。
やっぱり、この身体の檻から逃げ出さないことには、私は幸せにはなれない。
誰か、私をこの身体から連れ出して。
叶えてくれるのは死だけだと知っているから、生きるためにと口では言いながら実が伴っていなかったのだろう。
その晩、私は久しぶりに龍兄の元へ飛んだ。
夜もだいぶ更けているというのに、龍兄はまだ書斎でたくさんの資料に目を通していた。
龍兄は、私の気配に気づくとゆっくりと静かに顔を上げた。まるで私が来るのを分かっていたかのように。
「こんばんは」
私は、努めて明るくという気もなく、普通に声をかけた。
龍兄の目と、しっかりと目が合う。
「具合はもういいのか」
咎めるでもなく、心配しすぎているわけでもなく、無言で書類に視線を戻すでもなく、部屋から出ていくでもなく、龍兄も、これまた普通に妹の体調を心配してきた。
「おかげさまで」
私は優雅に一礼してみせる。
「そうか」
龍兄らしい、そっけない一言。それにいちいち傷ついているわけにはいかない。再び書類に目を落としだした龍兄に、私は明るく尋ねる。
「歌、聞きに来てくれてありがとう。どうだった?」
まっすぐな聞き方に揺れ動かされることなく、書類から一瞬だけ顔を上げて龍兄は答える。
「よかった」
予想はしていたけど、そっけない。
「もう、それだけ?」
軽く怒りながら、机の上に腰掛ける。
「こら、机の上に座るな」
出て行けとは、言わないんだね。
「ちっちゃい頃は、この机も見上げるくらい大きかったのに、今は簡単に座れるようになっちゃった」
「自慢することじゃないだろう。書類が崩れるから降りろ」
私は近くにあった書類を一枚手に取る。
傷害事件の裁判に関する判例だった。
負の感情は存在しないはずの神界で、自分のエゴのために人を傷つけたり命を奪ったりする例が、近年如実に民衆の中にも増えてきている。他愛ない痴情のもつれやいざこざで、身体に傷を負ったり殺されたり。窃盗も増えているのだという。裁くのは炎姉さまだけど、判例を蓄積し、犯罪を抑制するために法を具現化するのは龍兄の仕事だ。龍兄の机の上には、幸せになりたくて自分を抑えられなくなった人たちのたくさんの罪が積み重なっていた。
「青い鳥ね、逃がしてあげたの」
育兄さまからだと言われて贈られたはずの青い鳥の話に、龍兄は一瞬虚を突かれたような顔をした。
私はふふふと笑って、不幸が記載された紙きれを資料の山の上に戻す。
「青い鳥を追いかけようとしたら窓から落ちて、でも、そのおかげで私は龍兄に助けてもらえた。あらためて、助けてくれてありがとう」
にっこり笑うと、龍兄は呆れた顔で私を見返した。
「豊穣祭でも、ちゃんと私の歌を最後まで聞いてくれた。私、龍兄が聞いててくれると思ったら、すごく勇気が出たの。青い鳥がくれた巡り会わせに心から感謝したわ」
「豊穣祭で感謝するのは青い鳥じゃないだろう」
「愛優妃にも、少しは感謝する気になったわ。彼女が愛情を司る女神だというのなら、これは彼女がくれた機会なのかもしれないと思って」
「おめでたいな」
「何よ、その言い方。でも、龍兄ならそう言うと思った」
私は机から飛び降りて、椅子に座る龍兄の側に回り込んだ。
「ねぇ、お願いがあるの」
その言葉を口にするのは、多少の勇気が必要だった。
「私、歌い終わった後すぐに倒れてしまったでしょう? だから、花火もダンスパーティーもお預けになってしまっているの。それでね、豊穣祭がうまくいったご褒美に、育兄さまは青い鳥をくれたでしょ? 炎姉さまは後で花火を見せてくれるって。龍兄からも何かご褒美、欲しいなって」
龍兄はしばし資料に目を通すふりをしていたけれど、やがて息を吐いて資料を机の上に戻し、私を見上げた。
「小さい頃にダンスを教えた時は、まだ小さくて手が届かなかったな」
そう言って龍兄は立ち上がり、私に手を差し出した。
「もう一度、教えて」
私は差し出された手に自分の手を乗せる。
「音楽はないがな」
すっと、龍兄は迷いなく初めのステップとともに私を導き出した。
一、二、三。一、二、三。
ワルツだ。
音楽がなくても、その曲が聞こえてくるようだった。
ゆっくりとしたメヌエットよりも、少し大人で華やかなワルツ。
はじめは小さい時のように手と手を取り合いながらステップを確かめるだけのものから、不意に龍兄の手が私の背に回され身体が密着する格好になる。それでも顔色一つ変えずに龍兄はステップを踏みながらわたしを前後左右に導き、くるりと回す。
「息は上がってないか?」
龍兄が囁く。
結局、私はこの身体のせいでいつも周りの人たちを心配させてばかりだ。
「大丈夫」
身体を動かしていると、寝台の上で鬱々としているよりも心が元気になってくる気がする。ステップを踏めば踏むほど、心も体も羽が生えたように軽くなっていく。
一瞬、鳥になれたような気がした。
確かに、私は龍兄の腕の中で鳥のように飛べた気がした。
それはステップの軽やかさや龍兄に抱え上げられてくるくると回ったからかもしれないし、すっかり子供心に戻って楽しさに心が弾んだからかもしれない。
一曲を踊り終えた時、さすがに私は肩で息をしていた。でも、吸う息もおいしい。決して苦しいわけではないのだ。
「ありがとう、龍兄。わがままに、付き合ってくれて」
息を整えながら、私は心から感謝を伝える。これ以上、もう望みなど沸き起こっては来ないくらい、とても満たされていた。
「上手くなったな。練習したのか?」
「本当? ありがとう。練習なんて、小さい頃に龍兄に教えてもらったくらいだよ。龍兄が上手に導いてくれたから、うまく踊れただけ」
「それが分かっているなら、上達したということだ」
「うわぁ、龍兄ひどーい」
片手はまだ繋いだまま、私はけらけらと笑った。
でも、龍兄は笑ってはいなかった。小難しい顔で私の顔を見つめている。
「どうしたの? 具合なら大丈夫だよ。楽しいと、体調も悪くならないみたい。なんて」
笑う私を、龍兄は繋いだままの手でぐいと引き寄せた。
「龍、兄?」
思わず呆気に取られて、私は龍兄の胸の中で目を見開く。
「青い鳥など、追わなくていい。そんなに幸せになりたいのなら――俺とブルーストーンへ行くか?」
何を言われているのか、よくわからなかった。
龍兄が、何か夢みたいなことを口走っている。
これは、夢だったんだろうか。ちゃんと起きて、龍兄のところへ来たつもりだったけど、私はいつの間にか眠ってしまって、また自分に都合のいい夢を見てしまっているのだろうか。
「龍兄、私……」
戸惑っていても、目の前に青い鳥が飛んで来たら捕まえなければいけない。それはきっと一度だけの機会。青い鳥のご機嫌次第では、すぐに手の届かないところへ行ってしまう。
私は龍兄の手を握り返した。
「うん、行く」
夢でもいい。現実ならなおいい。この後、やっぱり冗談だと言われたって、いい。
私の返事に嘘はない。
「なら、約束だ。全てが終わったら、ブルーストーンへ行こう。そこで新しく、始めよう」
何を、と問わなくても、思い描くままでよかった。全てが終わったらの全てが何を意味するのか、聞かなくても何かうすぼんやりとした不安のようなものを感じていた。
龍兄は、私の前髪を掻き上げ、そっと額にキスを落とした。
信じて、いいの?
問うことはできなかった。信じるしかなかった。信じたかった。
だって、人は信じたいものを信じる。見たいものだけを見る。自分が幸せになるために。幸せであるために。
それは失う怖さと背中合わせだったけど、額へのキスは、約束の証だった。小さい頃から、眠る前に、何かを約束した時に、龍兄は額にキスを落としてくれた。まるで祝福のように。
「どうして? 今まであんなに私を避けていたのに、どうして?」
キスの安心感もあったのだろう。つい、本音が零れだしていた。
その問いが口から零れだした時には、私は風環宮に与えられた自室の寝台の上にいた。
〈渡り〉は使っていない。問を口にすることで頭がいっぱいだったのだ。
「おやすみ、聖。良い夢を」
枕元で、確かに龍兄はそう言って私の頭を撫で、姿を消した。
私は狐につままれたような気持ちで、消えた場所に残された香りに手を伸ばし、何も掴めずに手を引っ込めた。
その後も、龍兄の私への態度は変わらなかった。相変わらず避けられているし、目も合わせようとはしてくれない。公の場で会話することなど一度もなかった。夢だったのかもしれない。そう思う方が楽だと感じるようになってきた頃、闇獄軍が北から押し寄せてきた。