聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第6章 夢の代価

4(樒)
 河山君が葵を抱きしめて、会場中が、おそらく深い意味も分かっていないのだろうけれど、わぁっと歓声で沸き返った。観客たちは指笛まで鳴らして祝福を惜しまない。思わず、わたしまでぱちぱちと拍手をしてしまう。だけど、腕を回しているのは河山君だけだった。葵は抱きしめ返すのかと思いきや、河山君の肩に手をのせて何事かを耳元に囁いて離れた。熱気に包まれていた会場も肩透かしを食らったような微妙な沈黙が落ちる。
 そんな会場の空気に臆することなく、葵はヨジャ・ブランチカのいる席へと戻った。
「何を意固地になってるんだろう」
 思わず呟くと、メディーナも「ほんに」と呆れたように頷いた。
「葵さんは河山さんに本気で西方将軍になってほしいのかな」
「えっ」
 驚いて身を乗り出して洋海を覗き込んだのは、わたしではなくメディーナ。
「ま、火炎法王は元は周方皇と娶せる予定だったんじゃないかって話もあるくらいだし」
「しかし、今生で西方将軍になってしまったら、今の生活が立ち行かなくなるだろう? 河山殿の望みはそこではあるまい」
「人としての生を全うさせてやりたい、とか?」
「今更じゃない、そんなの。わたしたちはもう、神界ではなく人界で人間として生きているんだから、改めてやり直しなんてそんな回りくどいことしなくても」
 ヨジャの隣の席にかけた葵は、負けちゃった、とばかりにヨジャと親しげに喋っている。ヨジャは恋人でも見るように葵を見つめながら、葵の言葉に頷いている。片や、振られた河山君は、がっくりと肩を落としてリングから降りようとした。が、すぐに審判がそれを手で制する。
「今から決勝戦を始めます」
 場内アナウンスが鮮やかに次の試合の宣言をする。しかも、決勝。
「決勝にはまだ早くない? トーナメント表、まだまだ先があったよね?」
「今回の挑戦者は、クロフクメン選手の先ほどの試合を見てヨジャ・ブランチカ様をはじめとして全員辞退しました。ですので、これより周方皇であり現在の西方将軍、ラシード・カールーン殿とクロフクメン選手による決勝戦を始めます!」
 クロフクメンを葵に剥ぎ取られてなおクロフクメンと呼ばれ続ける河山君は、さらにがっくりと肩を下ろし嫌そうな顔を露わにした。
 まあ、そうだよね。葵を迎えに来て、戦いたくもなかったろうに葵と戦って葵に勝ったのに葵に振られるし、クロフクメン剥ぎ取られてなおもクロフクメンて観衆の面前で呼ばれちゃ、ね。
 河山君を同情の目で見ているわたしの横で、メディーナは何やらこぶしを握り、口をぎゅっと引き締めてリングに釘付けになっていた。
 リングの中央に押し戻された河山君。そして、周方皇兼西方将軍ラシード・カールーンの名が呼ばれると、すり鉢状の闘技場に歓声が溢れかえった。なかなかの支持率だ。それもそうだろう。もう七年も西方将軍は彼で変わっていないというのだから。
 リング上に現れたのは、西方最強の武将の名にふさわしく周囲を圧倒する堂々たる体躯に銀色に輝く甲冑を纏い、槍と斧と鉤とを組み合わせたハルバートを手に栗毛の馬に乗った、まさに中世の騎士を彷彿とさせる大柄な男性だった。残念ながら、顔は中世の鉄仮面のごとき兜に覆われて見えない。
「なんでリングに馬?」
「ハルバートで勝負でもしたいんじゃないの?」
「そんなやりたい放題あり?」
 ひそひそとわたしと洋海が言っていると、現西方将軍はひらりと馬から飛び降りリングにドスンと着地した。おぉーっと観客たちが安定のどよめきを漏らす。洋海は何を思ったか少し首を傾げる。
「どうしたの?」
「んー、随分バランス悪そうだなぁと思って。見た目からして重そうなのに、着地の時にあまり膝曲げて衝撃和らげようとしてなかったなぁって」
 洋海に言われて見つづけていると、確かに、なんとなく動きが嘘くさいというか、あまり関節を意識していないような気もする。甲冑に着られている、というか、ロボットみたいだ。
 そうこうするうちに試合が始まった。
 馬上の槍試合ではなく、ここはクロフクメンこと河山君に合わせてくれるらしい。まずは剣とハルバートの打ち合いから。間合いは圧倒的に河山君が不利なんだけど、様子見なのか探りあっているのか、それほど激しくなく、私でも目で追えるくらいの速さで演武のようだ。
 それでも、観客席は謎のどよめきが起こりはじめる。
「西方将軍がゆっくり打ち合い始めたぞ」
「おお、言われてみれば、初めて見るな」
「そういえば、西方将軍て周方皇なんだよな? おれ、顔見たことないぞ」
「確かに! いつもあの鉄仮面と鎧つけてるもんな。即位式だって、おれらは立ち入れなかったしな」
 観客たちはざわざわと話をしだしたと思うと、俄かにどこからか手拍子とともに「クロフクメン」コールが起きはじめた。
「今の西方将軍って、本当に強いのかな」
「クロフクメンの強さは本物だぞ」
「クロフクメンが西方将軍になってくれたら、神界も安泰なんじゃないか。ほら、この間も鉱土の国が闇獄界に攻め込まれていただろう」
「ああ、鏡様だけでなく錬様もおいでになって収めたとか」
「鉱土法王の生まれ変わりって奴もいたって話だぜ?」
「本当か」
「おう」
「ならなおさら、その時に肝心の西方将軍は何してたんだって話だよな」
「そうだそうだ」
 鉱土法王の生まれ変わりとか、そんな噂まで流れちゃってるんだ。
 思わず肩をそびやかし、噂話から意識を逸らす。
 河山君はまだ余裕を残しながら、自分よりも大柄な甲冑男の刃先を捌いている。時々懐に飛び込んで甲冑の節目を剣先で狙うが、甲冑男もそこは危なげなくかわす。
「なんであんなハンデ背負って戦ってるんだろ」
 膝の上に頬杖をついて見下ろしている元西方将軍経験者は、上から目線で意味の分からないコメントを呟く。
「ハンデ? どっちが?」
「もちろん、現西方将軍。あの甲冑、合ってないよ」
「合ってない?」
「大きすぎ、って意味」
 洋海が言った瞬間、リング上では河山君が剣だけでなく足払いで現西方将軍に尻餅をつかせたところだった。現西方将軍は尻餅をついた拍子に、さらに河山君に左足を剣で払われて、膝から下を覆っていたプレートがばらばらに弾け飛ぶ。
「ほらね。足が大地踏みしめてない感じだったもん」
 訳知り顔に洋海は言うが、大地踏みしめてないどころか、脛当がばらばらになったそこには足一本残っていなかった。
 観客たちがどよめく。
 河山君は容赦なく、片足を失って起き上がれないでいる現西方将軍の右手の小手を弾く。
「やめてたもれ」
 膝の上で指先を握り合わせたメディーナが小さく震えながら、真っ青になって試合を見守っていた。
「お願いじゃ。もう、やめてたもれ」
 メディーナの小さな悲鳴など届くわけのないリング上では、小手ごと右手も失った現西方将軍が金属塊のごとくリングにごろりと転がったままになっていた。
 さらに河山君は頭にかぶった冑を遠慮なく首から弾き飛ばす。
 さすがに会場中から悲鳴が上がったが、血しぶきは上がらず、首も飛ばず、空の冑だけがコンコロコロと軽い音を立ててリングの石板に跳ね、転がっていく。
「どういうことでしょう。もしかして、中身は西方将軍の偽物だったのでしょうか」
 場内アナウンスが煽るようなことを言う。
「負けるつもりがないなら、出て来いよ、そこから」
 静まり返った会場に、河山君の声が静かに響く。
 左足と右手、さらには首まで失ったはずの現西方将軍の鉄の塊はしばし無言だったが、やがてごろりと残った胴当ての前半分が扉のようにガチャガチャ、キィと音を立てて上に押し上げられ、中から一人の女性が出てきた。
「女?!」
 観客たちは、出てきたその姿に驚きの声を漏らす。
 よいしょとばかりに億劫そうに出てきたのは、西方最強の武将の名にふさわしい筋骨たくましい美丈夫ではなく、腰まである長い黒髪を一つに結び、柳のように細くしなやかな体つきをした女性?だった。というか、あれ、あの人どこかで見たことある。
「ラシーヌ?」
 昨日どうしても神界に戻りたいとわざわざこの闘技場を指定してわたしに連れてこさせたラシーヌ。
「まさか、ラシーヌが周方皇で、西方将軍?」
 思わずわたしと洋海はメディーナを見たが、メディーナはぎゅっと目をつぶって何やら見ないようにしている。
「メディーナ?」
「わ、妾は知らぬ」
 いやいや、試合が始まる前からなんだか緊張してたし、風環の国の女王が西方将軍も周方皇も知らないということはないでしょう。そうつっこみたかったが、メディーナは未だ手を白くなるほど握り合わせ、薄目を開けてちらちらとリングの様子を窺っている。
 現西方将軍、というか、ラシーヌは、河山君が待ってあげているのをいいことに、猫のようにゆっくりと背伸びをし、首やら手首やら足首を回しはじめる。
「どういうことだぁ!」
 ガラの悪そうな声のヤジが飛びはじめる。
「西方将軍が女だったなんて聞いてないぞ!」
「なんなんだ。ありゃぁ」
 蜂の巣をつついたような騒ぎとはまさにこのこと。終いには、本当に本物なのか問う声まで上がりはじめる。
 横では何か決意を固めた表情のメディーナがすっくと席から立ちあがっていた。
「メディーナ? どこへ?」
「すまぬ。ちょっと行ってくる」
 メディーナはそう言うと、すり鉢状の闘技場の観客席の階段を一人でとことこと下りていく。その先には、いつの間にかヨジャ・ブランチカが待ち構えていて、観客席とリングとを隔てる塀から軽々とメディーナを抱き上げてリング下の芝生におろした。そのままメディーナが行きたい方へと、手を取ったまま執事のように導く。
 メディーナは自分の目線くらいの高さがあるリングの直下まで来ると、ぐるりと闘技場中を見回した。心得たように、ヨジャ・ブランチカが朗々とその名を呼びあげる。
「風環の国の女王、メディーナ・シュクライン様である」
 ヨジャ・ブランチカの声に、会場中が水を打ったように静かになった。
「皆の者よ、聞け。リング上にいるこの者は、確かに周方皇であり西方将軍を兼任するラシード・カールーンである。風環の国の女王メディーナ・シュクラインの名において、保証しよう」
 少女の宣言に、会場中はまたざわざわと言葉の真偽について話し出す。
「妾からはこれ以上話すことはない。試合を続けよ」
 会場はまだざわめいていたが、凛とした声に審判が我に返ったように進行のアナウンスをする。メディーナはこちらに戻ってくるのかと思いきや、大人しくそのままヨジャ・ブランチカに連れられ、わたしたちの対面にある貴賓席へと座った。
「助けられたな」
 河山君がリング上のラシーヌに声をかけている。
 ラシーヌは少し肩を落とし、ため息をついているようだった。
「僭越ながら、周方皇であり現西方将軍であらせられるラシード・カールーン様にお伺いいたします」
 場内アナウンスの審判が、恐る恐る口を開く。
「なぜ、そのような大きな甲冑をお召しになっていたのですか?」
 そうだそうだ、と客たちは合の手を入れる。
 ラシーヌは、もうすっかり開き直ったようで、準備体操とばかりにぴょんぴょんと跳ねていたが、落ちていた自分のハルバートを拾い上げて、ブンと音が鳴るほど力強く空を切って見せた。
「そりゃ勿論、こんな女みたいな細さじゃ舐められるでしょう? だからって身長は今更これ以上伸ばせないし、むやみやたらと筋肉つけると怒られるし」
 誰に怒られるのかというと、あとでメディーナに聞いたところによると、ラシーヌもといラシードには上に六人のお姉さんたちがいて、ラシードは長男ながら七人目の妹として育てられたのだそうだ。それはもう、周方で一番怖い人たちだそうで、逆らうことは許されなかったらしい。
 でも、風環宮にいた時は、ヨジャ・ブランチカにやられ放題でそれほど強くも見えなかったけど。
 本当にこの人が西方将軍で大丈夫? なんて、おせっかいな懸念が持ち上がってきてしまう。
「そういえば、周方皇の剣は河山君が持っていて、西方将軍の剣は洋海が持ってるんでしょう? 今の西方将軍はその辺、もう別なものが伝わってるのかな」
「だろうねぇ。白虎だって、結局はおれについてきちゃってるし」
 洋海は自分の掌を見て、ハルバートをくるりと回して構えたラシードに目を移す。
「いいんじゃない? 自分に合った獲物が一番だし、白虎も周方皇の剣も、結局は持ち主の使い勝手がいいように変容するんだから」
 リング上では間合いの短い剣を持った河山君と長い柄を持つハルバートを構えるラシードとがじっと睨み合っている。不思議なことに、大柄な甲冑で対峙していた時よりも、今の貧弱と言えば貧弱な姿のラシードの方が、気迫も気合も漲っていて本気で強そうに見える。一方で、ハルバートの間合いを乗り越えて懐に飛び込んでいかないと剣が届かない河山君の方が不利に見えてくる。
「なるほど。あれが、今の周方皇であり、七年も運よく西方将軍の座を守っている男か」
 ニヤリと洋海の口元に楽し気な笑みが浮かんでいる。
「ラシードはクロフクメンに勝てるかな」
 ぶっと洋海が笑い声を吹き出す。
「言っちゃ悪いけど、クロフクメンは最強だよ。一人で城一つ落とした人だよ? 神闇戦争での経験値も段違い。元は狂戦士なんてあだ名されてた人だし、平和ボケした西方将軍に勝ち目があるわけないじゃないか。昨日だってズタボロだったし」
 洋海は、一度そこで言葉を切ってから、上から目線でリングを見下ろす。
「と、言えればよかったんだけどねぇ」
 先に攻め込んだのは間合いの短い河山君。分かっているとばかりにラシードはハルバートをブンと振り回し、間合いに入れない。一歩退いた河山君に、ラシードはハルバートの先端の槍とその下につけられた刃とで突きと斬撃を組み合わせながら繰り出していく。突きを躱し、斬撃を身を捩って躱す河山君がやっと剣を繰り出しても、刃の反対側に取り付けられた鉤で引っ掛けて捻じ伏せてしまう。それをラシードは女性のような細腕で滑らかにこなしていく。
「筋力が足りない分、柄の長さで補っているんだよ。柄が長い分間合いが取れるし、斬撃に重さを込められる。相手の攻撃も鉤で受け止めて、てこの原理でひっくり返せる。勿論、筋力が足りないと言ってもそれなりに重いだろうから、大の男だって扱うには相当な訓練がいるだろうけど」
 ようやく河山君がラシードの間合いのうちに入ったかと思っても、ラシードはハルバートの石突をリングに突いて、棒高跳びのようにひらりと飛び躱してしまう。
 おお~っと観客たちは感嘆の声を漏らす。
 間合いを詰めるために必然と動きが多くなっている河山君には、次第に疲労の色が見えはじめる。
「はりぼての甲冑なんて必要なかったみたいだね」
「本当に」
 そう感心した時だった。ラシードが勢いよく河山君にハルバートを繰り出す。河山君は飛び上がってその刃の上に一瞬片足で着地し、重さに沈んだ瞬間をとらえてラシードの頭上に飛び上がり、落下様剣の切っ先をラシードの脳天に向ける。ハルバートの上下動に翻弄されたラシードは避けることができない。
 客席に悲鳴とも歓声ともつかない声が溢れた。
 わたしは思わず両手で顔を覆う。が、すぐに悲鳴は歓声に統一された。
 ラシードがハルバートを手放し、頭上からの河山君の剣を両手で挟み込み、捻じ伏せたのだ。剣の流れを変えられて体勢を崩した河山君も剣を手放し、代わりにラシードの胴に蹴りを入れる。吹き飛ぶラシードに、さらに河山君は投げ出されたハルバートを拾い上げてやり投げのごとく投げつける。
「えげつな」
 実戦優先の河山君の戦い方に横で洋海が青くなっているが、観客たちは見ごたえのある試合にラシードと書かれた札を握りしめて熱くなっている。
 ハルバートは吹き飛ばされてリングの端に何とかとどまったラシードのすぐ脇に突き刺さる。
 ラシードは息を整えながらハルバートを引き抜き、再び構える。
 その間に河山君はもう剣を手に間合いを詰めに走り出している。けれど、先に走り出したところで剣の方がハルバートよりも短いのだから不利には違いない。と、その時、ラシードの周りに一陣の風が巻き起こった。ごうっと音を立てて渦巻く風を凌ぐために、ラシードはハルバートを引っ込めざるを得なくなる。だが、次の瞬間、しゃがんでリングに手をついたラシードの前にリングの石板が剥がれて防壁を為すように積みあがった。渦巻く風は断ち切られ、ラシードは再び棒高跳びの要領で己が築いた石板の防壁を飛び越えて、ハルバートの切っ先を空中でブンと音が鳴るほど振りおろしながら河山君の頭上目掛けて飛び降りる。
 さすがに大上段から振り下ろされた刃を受け止める気は河山君には毛頭なく、斜め後ろに飛び退って躱し、ハルバートの刃がリングに食い込んだところでハルバートの柄を横から蹴飛ばし、凪ぎ飛ばされるように転がったラシードの首元に剣の切っ先を突き付ける。
 両者ともに肩で息をしている状態だった。
 殺さないという条件が、なかなか決着がつかなかった理由だろうか。
「勝者……クロフクメン!」
 唖然、茫然とした会場に、少しの間を開けて実況の人が河山君の勝利を告げた。
「よって、優勝はクロフクメン!」
 ラシードの札を握りしめた大部分の観客たちが、一瞬ののちに悲鳴を上げ、一斉に札を宙に放り投げた。会場中はあっという間に阿鼻叫喚で埋め尽くされた。絶対に今年も勝つだろうと思って購入した掛札が外れたのだ。一時は面白がってクロフクメンを応援したかもしれないが、最後にはいつものように長年その座を守り続ける西方将軍が勝つに違いないと信じていたはずだ。阿鼻叫喚の悲鳴は、賭けが外れた失望とともにあっという間に不平不満の声へと変わっていく。
「やっぱりはりぼての強さだったんだ」
「顔すら見せなかった奴に神界を預けられるか」
「おれの金返せ!」
「偽物の強さに用はない!」
 観客たちの声はどんどん大きさを増し、すり鉢状の闘技場全体を席巻しはじめる。
「十分強かったと思うけどね。守りに秀でた土属性の魔法まで使えるなんて、まさに戦うために周方皇に生まれてきたようなもんじゃないか」
 洋海は感嘆の声を漏らしながらも、周りの反応に眉を顰める。わたしはあまりのうるささに耳を押さえた。
 おかしい。そう思ったのは洋海も同じだっただろう。
 ここは神界なのに、集まった観客たちはいつの間にか自分の損得でラシードを詰り、勝者を讃えようという西方将軍決定戦の清々しいほどの醍醐味から離れてしまっていた。
 空気は澱み、黒く渦巻きだす。
 そう、見た目にも黒い瘴気がすり鉢状の観客席から立ち上がり、渦となって巡りはじめる。
 リン。
 どこからともなく鈴の音が鳴った。
 耳を閉じていても聞こえる音に、全身が総毛立つ。
 リン リン リン リン
 鈴の音は増え、迫るように近づいてくる。
 気づけば周りの観客たちの頭上に鈴が現れ、操るように鈴の音をかき鳴らしはじめていた。
 冷静さを失った観客たちは、一斉に負けたラシードのいるリングへと雪崩を打って駆け下りていく。
 洋海も耳を押さえて鈴の音を聞かないようにしていることを確かめて、〈結界〉を張る。
「姉ちゃん、いったん人界に戻ろう!」
「分かってるけど、ここをこのまま放っておくわけにもいかないでしょ!」
 結界を張って少しはましになったとは言うものの、周りの喧騒に負けないようについつい声が大きくなる。
「神界は神界。おれらはおれらじゃだめなの? これ以上巻き込まれてたっていいこと何もないよ」
「そりゃそうだけど、でも、洋海だって白虎ついてきちゃってるんでしょ? それってまだ西方将軍の役目を解かれてないってことじゃないの? 自分だって言ってたじゃない、統仲王まで転生してきているのはおかしいって」
 自分で言っておいてなんだけど、ダイレクトに自分にもその言葉は跳ね返ってくる。
「でも、おれクロフクメンに負けたし」
 そっぽを向いて口を尖らせる洋海を叱咤していると、リングの方から集結しようとする人々を弾き飛ばすほどの激しい衝撃波が襲ってきた。
 悲鳴を上げてリングや地面、座席に打ち付けられる人たちに構わず、衝撃波は二度、三度と襲ってくる。その衝撃波の中心では、河山君がラシードを結界の中に匿い、仁王立ちになって四方八方に衝撃波を放っていた。衝撃波は人々だけでなく、立ち込めかけた正気をも弾き飛ばし、霧散させていく。
「わたしも協力しなきゃ」
『清き場所を住処とする時空の精霊たちよ
 穢れし闇を払い 光さす清浄な空間を取り戻せ』
「〈浄化〉」
 すり鉢状の底のリング全体から光の柱がいくつも天へと貫き抜ける。人々から醸し出された瘴気は鈴ごとその柱の渦に引っ張り込まれ、清められていく。しかし、いつまでたっても瘴気は消える気配がない。それどころかますます量は膨れ上がり、浄化の柱が黒く淀みはじめている。
「姉ちゃん、あれ……!」
 洋海が指さした方を見ると、リングをまたいで反対側のヨジャ・ブランチカの脇に大きな黒い穴が開いていた。そこからは黒い炎が溢れ出、黒い火の粉が瘴気となって神界の風に巻き上げられ、流されて広がっていく。黒い炎が噴き出す穴の横では、葵が神妙な顔で黒い炎を見つめ、中に手を差し入れている。
「葵!」
 届くはずがないと思っていたのに、葵はわたしの声にびくりと肩を震わせ、こちらを見上げた。 ――怯えたように。見られてはいけないものを見られたかのように。
 それでも、葵はわたしの声を振り切って黒い炎の中に両手を差し入れ、中から漆黒の炎を引っ張り出す。
 なんでそんなこと……してるの? できるの? なんで?
 葵に引っ張り出された漆黒の炎は瘴気を食らいながらあっという間にリング上の人々を呑み込み、わたしの張った結界もべろりと舐めあげながら呑み込む。
「姉ちゃん、〈浄化〉はストップだ。やっぱりここは一度人界に戻ろう!」
 暗闇の中で洋海がわたしの手を掴み、叫ぶ。
「だめだよ……このままじゃ、風環の国が……神界が……」
 葵の呼んだ炎で焼き尽くされてしまう。
『時空を司りし精霊たちよ
 猛り狂う黒き炎を包み込め
 この世界との間に一線を引き
 この枠の中に凝り集めよ』
「〈凝縮〉」
 急いで目の前の空間に引いた丸い枠の中に黒い瘴気と炎がものすごい勢いで吸い込まれていく。しかし、集めても集めても、なかなか瘴気と炎は勢いを失わない。それどころか瘴気を含んでどす黒く淀んだ球体は重圧がどんどんいや増し、手が支えきれなくなっていく。
「姉ちゃん!」
 下がっていくわたしの腕を洋海が下から持ち上げる。
 わたしの全身からはいやな脂汗が噴き出る。
 ようやく頭上が晴れ、最後の炎の尾が漆黒の球体の中に呑み込まれた瞬間、ずんと重みが増して、わたしは否応なく膝をついた。肩で息をし、手元に出来上がってしまった暗黒物質の高エネルギー体をどうしようかと思った瞬間だった。
 震えるわたしの手ごと、漆黒の球体が地に落ちた。
 音がしたかは定かではない。
 しかし、辺りには黒ではなく白い閃光が一瞬にして溢れかえった。


 目の前で光が破裂して、真っ暗になった。
 投げ出された私は、闇の中にいた。
 闇は、方向感覚を麻痺させる。前後左右上下。今、頭に血が上っているのか、それすらもわからなくなる。
 普段、どれほど視覚からの情報に頼って肉体を維持していたのかがよくわかる。
 帝空神様なら、そんなことなかったのかな。
『ずっとお前の傍にいるよ』
 そう言ってくれたのに、目に見えないと本当にいるのか不安になる。どんなに目を凝らして探しても、自分の目が見えなくなってしまったかのように全ては黒で、何も見えない。
『そんな時は、いっそ目を閉じてしまった方がお互いの気配を感じられるというものだ』
 そう言われた気がして、私は目を閉じた。
 こうも暗いと、目を閉じたのかすらわからなくなってくる。そもそも私には瞼というものがあっただろうか。目というものがあっただろうか。涙は? 皮膚は? 鼻は、口は?
 そういえば、何の匂いもしない。何の味もしない。何の感触もない。
 この肉体が浮遊しているのか、どこかに横たわっているのかすらわからない。
 そう思った瞬間、突如私は意識が垂直に猛スピードで落下していくのを感じた。全ての内臓がぎゅっと縮こまり、慣性の法則に逆らえずに上に置いてきぼりにされた数瞬前の自分の意識に引きずられながら、情けなくも生きている、と感じる。
 もはや肉体が何も感じなくなっていたとしても、私はその肉体に閉じ込められたわけではない。その肉体の中ですら、意識は自由に空間を超越できる。
 大丈夫。私は、生きている。
 そう強く言い聞かせた途端、涙が溢れ出たような気がした。
 だが、頬は濡れない。溢れ出た涙は都度、空間へと吸い込まれて行っているかのようだった。
『許しておくれ。お前を一人にしてしまうこと』
 粉々に壊れていく帝空神様が、申し訳なさそうに私に手を伸ばす様が蘇った。
 その指先さえも、私が触れる前に粉々に砕け散った。同時に、世界のどこかも粉々に砕け散っていた。
 その欠片の中に、昔を見る。
『帝空神様は、なぜ私を創られたのですか?』
 とても他愛のない一日の一こま。私はどこでそんなことを何の衒いもなく口にしたのだろう。
 帝空神様は驚くことなく、優しく私を見つめておっしゃった。
『一人は寂しいからだよ』
 とてもいとおしそうに私を見つめて、私の頭の後ろに両手を伸ばして軽く引き寄せると、そっと額をあてがった。
 思ったよりもひんやりとした額だった。月のように熱のない額。存在は確かにそこに有るのに、肉体を持たず霞のように煙っているような。私から手を伸ばしても、きっと触れることはできないだろうと思わせられるような。
『お前はあったかいね』
 帝空神様は微笑んだ。
 その微笑はとても美しくて、私は、とても愛されていると、胸の奥にすとんとその事実が落ちていった。
 だから、私も帝空神様を愛した。だから、というわけでもないか。私は生まれた時から帝空神様をお慕いするようにできていたのだ。帝空神様は私を愛し、私は帝空神様をお慕いした。
 慕う、というのは、愛することとは違う。
 愛することができるのは、平等の高さにいる者だけだ。
 私は常に帝空神様を見上げ、憧れ、助けになりたいと思いつづけていた。
 同じ高さに立てる存在だとは、己のことを思ってはいなかった。同時に、どこかで同じ高さに立ってはいけないと己を自制していたのかもしれない。
 この方は敬うべき存在。手を伸ばして触れられるような、そんな簡単な存在ではないのだ。
 帝空神様。
 帝空神様。
 呼ぶときには必ず敬いの念が込められる。
 帝空神様は、優しくそれを受けとめる。
 敬いと、そして、甘えと。
 子が親に甘えるように、私は帝空神様に甘えた。その腕にぶら下がるように、甘えつづけた。
 だから決して、対等になどなるはずがないのだ。
 それを、帝空神様がいつからかどこか寂しく思っていたなど、どうして私にわかるだろう。
 そして私は、いつからか帝空神様と対等になりたいなどと心が捻じれていったなど、どうして貴方が知りようがあるだろう。
 愛は、対等でないと与え合えない。
 一方が望みすぎてもだめだし、一方が受け取らな過ぎても成り立たない。
『サラは、僕のこと愛してるって言うんです』
 そして、疑っても、愛は受け取ることができない。
『婚約までして、明日はもう結婚式じゃない。何をいまさら悩むことがあるの、シモン』
 その青年は、いま世界で一番幸せなはずの男だった。幼い頃からの片想いを実らせて、ようやく美しい伴侶を手に入れようとしている。それなのに、私のところへ来てうだうだと暗い顔をしつづける。
『それでもサラは、信仰に生きると言うんです。僕は、彼女の望みを聞いてしまった』
『信じているから、サラも貴方に本当の望みを明かすことができたのでしょう』
『帝空神様のために死にたい、と言ったんです』
 この世の絶望を集めたような顔でシモンは言った。
 その瞳は、どこか私を責めるようでもあった。
 シモンの片想いの相手は、幼馴染の修道女見習いの少女だった。小さい頃から修道院で育てられたサラは、出入り業者だった父親に連れられてきたシモンとも修道院の中で出会った。シモンは一目惚れし、何度も何度もかき口説き、修道女になることが夢だと言っていたサラをついには修道院の外に連れ出し、婚約し、明日は結婚式というところまで漕ぎつけていた。
 シモンにプロポーズされたサラが、どれほど幸せそうに笑っていたか、私はすぐに思い出すことができた。サラはシモンを愛している。そうでなければどうして、修道女になる夢を捨ててシモンの妻になる道を選べよう。
 同時に、サラにとって、信仰は息を吸うのと同じくらい自然なことであり、帝空神様に精神的に仕える修道女という夢は追うのをやめたとしても、帝空神様のために生きること、死ぬことというのは、シモンの妻になることとは別に、当たり前のこととして思い抱いているものだった。
『帝空神様だって、自分のために誰かに死んでほしいなんて思ってはいませんよ。サラだって、貴方が実直に愛してくれるから、自分のもう一つの想いを語ったのでしょう』
 そう、サラの信仰心は、シモンへの愛とは別のもう一つの想いだ。
 誰か一人を慕いつづけるのと、誰かをひたむきに愛するのは、時として対象が違えることもある。サラは人だ。神と愛し合う立場にはない。私と同じく、慕い、敬い、信じるだけ。でも、シモンとサラは二人とも人同士だ。互いに見つめあい、愛し合うことができる。
 しかし、シモンは不服気に私から顔を背けた。
『貴女は、誰かを愛したことがありますか? 愛されたことは? 貴女はきっと知らないのです。愛がどれだけ自分を不安にさせるのか。愛がどれだけ自分をみすぼらしくするのか。愛がどれだけ不満にさせるのか。愛がどれだけ、猜疑心に変わって人を振り回すのか』
『人が神に嫉妬するのですか』
『僕は、サラに僕だけを見てほしい。僕だけを愛してほしい。僕だけのものでいてほしい』
『サラは物ではありませんよ。人には様々な考えや感情があるでしょう。貴方がサラに自分だけを見てほしいと希うのは、ただの自己満足です。シモン、貴方こそ、サラをきちんと見てあげてはどうですか?』
 両ひざの上でそれぞれ握られていた拳が小さく震えていた。
『僕は、小さい頃からずっとサラを見てきた。ずっと、ずっと。サラも、いつか僕のように僕だけを見るようになってほしいと願ってきた。頬を染めて好きだと返された時も、口づけを返された時も、腕の中で愛してると言われた時も、サラはちゃんと僕を見つめてくれていたのに、それは全部……嘘だったんだ』
『嘘ではないでしょう。信仰は神を愛するものではなく慕うものです。サラは帝空神様に敬慕の念を、シモンに愛情を、それぞれ持っているのですよ』
 〈猜疑〉という歪が、神の庭に出入りする青年をもこれほど蝕んでいるとは思わなかった。しかし、それ以上に私はこのことを深く考えてはいなかった。
 何かに気づいていたとして、手遅れだったのだろうけれど。
『さあシモン、明日はついに待ち望んだサラとの結婚式ですよ。貴方が見るべきは、サラとともに見る未来です』
 シモンの肩を叩いて、立ち上がらせる。
 私は、ほとほと人の感情の機微に疎かったのかもしれない。
 神のために死にたいと言った女と、どうしてこの先共に生きる未来を見ることができるだろうか。
 それが、シモンの想いだったというのに。
 頭から、私は人の信仰心を神にとっては不要なものと笑い飛ばし、死というものを知らないがために、死という言葉に込められた強い想いを理解できずにいたのだ。
『そうですね』
 シモンは愛想笑いを浮かべて私の元を辞していった。
 楽観的だった私は、明日の結婚式で美男美女が婚礼衣装に身を包み、皆に祝福されて幸せに笑う姿しか思い浮かべることができなかった。
 私こそ、疑いをその身に刻むべきだったのだ。
 帝空神様を失ってしまう前に、あの世の全てを疑ってかかるべきだった。人も、帝空神様すらも、誰一人真実を私に告げたものはいない。――シモンを除いて。私は鈍感が過ぎたのだ。何事もなく過ぎ去っていく毎日を愛しいと思うがあまり、全てにおいて何も見ようとしなかったのだ。目を閉じてみたいものだけを思い描いていれば、そこは安全な神の庭、私を傷つける者は誰もいない。私と帝空神様しかいないこの場所が脅かされることなど決してない。揺るぎなくそう信じていたがゆえに、私はたくさんのことを見落としていた。
 次こそは、目を見開いていなければならない。全てを疑っておかなければならない。疑うことは、警戒すること。己の身を守ること。
『次は、お前の創った世界で、必ず――』
 世界など、創りたくはない。創造主になどなって、信仰心の揺らぎから破滅などしたくはない。しかし、帝空神様が望まれたのだ。私の創った世界で、また逢いたい、と。
 帝空神様と違い、私は自分の肉体を持っている。
 私なら、物質で世界を創造し支配することができる。信仰心などなくても、私は私がここにいるだけで世界を存続させることができるのだ。
 ――世界など創って何になる?
 人は、裏切る。人は、傷つけあう。人は……それでも貴方が私に逢いたいと最期に望んでくれたから、私は貴方の望みを叶えたい。