聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第5章 泥の花
7(聖)
その部屋の壁には、真っ赤な蓮の花を織り込んだタペストリーがかけられていた。
他には何もない殺風景な部屋だ。積み重ねた石の壁がごつごつと暗い色を晒している。だからこそ、色鮮やかなタペストリーは壁に映えた。
「周方は闇獄界の侵攻から神界の西側を守るための楔です。城砦に洒落気はいらないというのが、昔からの父の言葉です」
ヴェルドは少し恥ずかし気に頭を?いて見せたが、すぐに堂々とした視線で紅蓮の花が描かれたタペストリーを見上げた。
「だからこそ、こういった織物の技術が磨かれたのでしょう。男たちは殺風景でも別に気にもしませんが、女たちはちょっとの工夫でこんなにも部屋が華やぐものを生み出してみせる。でも、同時にこのタペストリーはただ蓮の花を描いたものではないんですよ。蓮の花は泥の濁ったところに根を張り、水上に美しい花を咲かせる。どんなに劣悪な環境であっても花を咲かせる適応力と忍耐強さ、けして汚れたものに染まらない清廉潔白な美しさを兼ね備えた花なんです。だからこうやって、大広間の玉座の背後にこの花を描いたタペストリーがかけられている。周方の国の皇たるもの、いかなる環境に身を置こうとも不浄なものに染まることなく美しく花を咲かせよ、と」
胸を張ってヴェルドはそう言い切ると、くるりと私を振り向いた。
「中庭に行きましょう。ちょうど、今なら咲いている蓮の花を見られるはずです」
すっと当たり前のように差し出された手に、己の手をのせていいものか一瞬逡巡した。
ヴェルドは苦笑して手を引っ込め、歩き出す。
私はそのあとを小走りに追いかける。
「ごめんなさい。嫌なのではなくて、その……」
「お気になさらないでください。ああ、でも階段は少し急ですから気を付けて」
さりげなく横に並んで、躓きそうになったらいつでも助けられるようにと、ヴェルドは私の近くに手を添えた。
決して触れない、絶妙な間を開けて。
どうして預けられないんだろうと、実はまだ私は迷っている。
今日、周方城に来たのは直接ヴェルドに婚約の話を断るためだった。
ヴェルドもそれと察してくれているのだろう。私がいきなり訪ねてもはしゃぐこともなければ、婚約の話を振ってくることもない。それでいて、目に見えて意気消沈するわけでもなく、一番初めに周方王の玉座の間に案内し、周方王の心構えを説いたのだった。
ヴェルドは夫にするには十分な資質の持ち主だ。気立ても品格も地位も、何もかもが申し分ない。何より、この人は私のことが好きだ。惜しみなく愛情を注いでくれる。きっとそれは私が妻になった後も変わらないだろう。より深く愛してくれるに違いない。私が龍兄に望んでやまないほどの愛情を、きっとこの人はなんの屈託もなく当たり前のように私に注いでくれるだろう。この人はきっと、私に人に愛されることを教えてくれる。全身全霊で、私を守ってくれる。こんな人に愛されたら、私はどれだけ幸せになれることだろう。何の憂いも疑いも抱くことなく、愛情の雨を浴びつづけることができたら、こんな私でもいつか、龍兄のことを忘れこの人のことを愛することができるようになるかもしれない。否、きっとこの人のことを愛するようになってしまうだろう。龍兄のことを忘れられないままでも、きっと、罪悪感と後ろめたさに灼き焦がされながら、この人の愛情を無制限に浴びて笑うことができるようになっていることだろう。
考え事をしながら階段を下りていたからか、ヴェルドの予想通り私は足を踏み外してバランスを崩した。慌てて階段の手すりにつかまろうとするも、その前にするりとヴェルドの腕が伸びてきて私の腰を抱きとめた。
「ほら、言わないことはない」
屈託なくヴェルドは笑う。
私はその笑顔を直視できなくて顔を背ける。
嫌いなわけではないの。
多分、好きになってしまいそうだから、それが怖いから、私はその手を取れない。
ふ、とヴェルドの柔らかな雰囲気が緊張をはらんだ。
私のことを抱きとめた腕に、力がこもる。
ぎゅっと抱きなおされる。
私は、必死に抵抗した。手足を動かしたわけではない。口で拒んだわけではない。抱きしめられて身体が融けそうになる感覚を必死に押し留めていた。
この人は私を幸せにしてくれる。
直感で選び取りそうになってしまう未来を、必死で追いやった。
そしてふと、思ったのだ。
そこまでして拒む意味があるのだろうか、と。
龍兄を好きでいても幸せになれないのは自明の理。龍兄様は風兄さまが炎姉さまを愛するようには私を愛してくれない。私はあくまで目下の妹。それでも龍兄がいいと思っていた。その覚悟を風兄さまに語ったはずだった。風兄さまも応援してくれると言ってくれた。きっと私は生きている限り満たされない思いのまま龍兄の背中を眺めつづけることになる。手を伸ばすこともできなくなって、子供のようにお嫁さんにしてとせがむこともできなくなって、ただ心の中で燻る思いを持て余し、永遠に絶望しながら生きていくことになる。それでも好きなのだと、追いかけつづけたいのだと、私は思っていたのだ。
本当だろうか。
私は本当に龍兄が好きなのだろうか。
私が縋りたいものは一体何なのか。
――縋りたい。
嘲笑が漏れそうになって、ぐっと唇を引き締めて呑み込んだ。
私の龍兄への想いはその程度。愛なんかじゃない。執着だ。愛優妃からもらえなかった母親の愛情を埋めてもらうために龍兄に無償の愛を要求している。もう、そんな年ではなくなっていても、龍兄の言葉が、視線が私に向けられるのならもう何でもいいと思っていた。冷たくても、拒むものであっても、それすらも喜びであると。
嘘だ。
嘘なんだ、そんなものは。
求めたって仕方がない。龍兄は私に何もくれない。何も、だ。そうすることで私を突き放そうとしているのだから当たり前だ。それでも私が龍兄に縋りたいと思うのは、小さい頃許された甘えを未だに欲しているから。龍兄が幼い私にくれた妹への愛情をもっともっとと欲しているから。
流されてしまえばいい。
ヴェルドなら間違いはない。
風兄さまだってそう思って統仲王に口添えしてくれたのだろう。龍兄が何も言わないのも、ヴェルドなら納得しているからだろう。ううん、もう私のことなんか何も興味がないのかもしれないけど。統仲王だって認めたというのだから、間違いはないのだ。
私は幸せになれる。
きっと、本当の幸せを知ることになる。
龍兄によってではなく、ヴェルドによって。
身体から力を抜くと、面白いくらいにヴェルドの腕が、胸が身体に馴染んだ。溢れる想いが堰き止めるものを失って縦横無尽に私の中に入り込んでくる。
あったかい。
きっとこの腕の中はこの後もずっと温かく私を迎え入れてくれる。
こんなに幸せなことはあるだろうか。
この腕は信じられる。
何があっても裏切らないと、信じることができる。
だから――私も裏切ってはいけないのだ。
「っ、あっ、ぁっ……」
零れ出る嗚咽が本格的な泣き声になってしまわないように、私は自分の肩口に出口元を塞いだ。
「聖様にとって、天龍法王がどれほど大事な方かは分かっているつもりです。あの方を忘れてほしいだなんて言いません。好きなままでいいんです。見つめていても、追いかけていても、それでいいんです。聖様が望むなら、私は貴女に指一本触れません。唇が欲しいとも望みません。こうやってどさくさに紛れて抱きしめることだって、もうしません。好きなように生きてくださっていいんです」
「そんな都合のいいこと、望めない。私は貴方を、裏切りたくはない」
ヴェルドは私を抱きしめる腕を緩めると、困ったように笑った。
「それは最大の振られ言葉ですね」
ごめんなさいでもなく、嫌いだからでもなく、裏切りたくないからだなんて、それこそなんと都合のいい。
自分でも呆れるほどひどい言葉だと思った。
これではヴェルドも諦めきれまい。想いを引きずりながらも、一定の距離を保ちながら私のことを見守っていくしかなくなってしまう。聖刻法王としての私を。
「裏切りたくないだなんて言われたら、俺はもう、貴女に何も言えなくなる」
本当に途方に暮れた顔で、ヴェルドは私を見つめ返した。
「ごめんなさい。でも、私……」
「それでも貴女が欲しいのだという気持ちを、貴女になら理解していただけると思っていた。その上で、聖様が都合よく私を扱うならそれでも良いと」
「ちっとも諦めていないのね」
「聖様の言葉一つで諦めきれるものならば、初めから貴女に声などかけますまい」
「……ああ、そうね」
笑うしかなかった。
ヴェルドの心の中はきっと私への想いが混沌と渦巻いていて、その中から一輪、茎をのばして紅蓮の花が咲いている。その花は、根を張る混沌が深ければ深いほど、きっと鮮やかに色づいて見えるのだろう。
私も同じだ。
私の中の嵐のような心の渦の中からも、花は咲いている。その花を愛でつづけたいがためだけに、私は、心の中の嵐を手放せないでいるのだ。
「裏切られてもいいのです。聖様はきっとそのことで罪悪感を抱きつづける。どんな感情であれ、俺への気持ちを抱きつづける。貴女を傷つけつづける感情であっても、それすらおれは望んでしまう」
一切の希望を与えないためには、無視しつづけることがいいのだろう。そんなものが存在しなかったかのように、ヴェルドの存在を私の中から消してしまえばいい。
龍兄のように。
でも、私はそこまで冷酷になれない。いや、そこまで恨まれる勇気はない。
いい子でいたいのだ。いつまでも、どこまでも。
だから、この先もどんどんヴェルドを傷つけつづけていってしまう。
「やめましょう」
私は言った。
私は、ヴェルドを裏切りたくないと思った。今後もずっと抱きつづける罪悪感と自分の幸せとを天秤にかけたわけではない。今のヴェルドを受け入れてしまったら、私はきっと、ヴェルドの愛に応えたいと思うようになるだろう。できるだけいい妻を演じて、できるだけ夫であるヴェルドに尽くし、もし恵まれるのならば子供たちにとって良き母親であろうと、するでしょう。私の中ではちりちりと龍兄への想いが燻ぶっているかもしれないけれど、いずれそれすらも過去の消し炭と化して風化していくかもしれない。龍兄への想いを忘れてしまうことは惜しいことでもあるけれど、きっと気づいた時には龍兄のことを考える間もないほどありふれた幸せにどっぷりと浸っていることだろう。
私は、幸せになれる。
でも、ヴェルドは?
「私は、ヴェルドにも幸せになってほしい。私はきっと、貴方と結婚したらとても幸せになれるでしょう。貴方ほどわかりやすく愛情を注いでくれる人はいないもの。何より、私はヴェルドが決して裏切らないと知っている。貴方の愛情に満たされて、私は幸せになる」
「それならば……!!」
私の両腕に触れたヴェルドの手を、少しずつ解いていく。
「でも、ヴェルドは幸せにならない」
「そんなことはありません! 貴女が幸せだと思ってくださるのなら、私だって」
「ヴェルドは、私がどれだけ龍兄を好きか知っている。どれだけ龍兄に執着しているか知っている。貴方が心の中に私への想いを糧に紅蓮の花を咲かせているように、私も龍兄への想いを糧に紅蓮の花を咲かせている。私も、龍兄にならどんなに都合よく扱われたっていいと思っている。だから、私にはヴェルドの気持ちが分かる。貴方がどれだけ捨て身でそんなことを言ったのかも、分かっている。だからこそ、その先も予測できるのよ。私が例えば龍兄への想いを忘れてヴェルドのことだけをひたすらに愛するようになったとしても、きっと貴方は信じてくれないだろう、と」
「……そんな」
「どこかで、ヴェルドは私がまだ龍兄のことを想っていると強く信じつづけることでしょう。だって、今それほどの覚悟で私に話をしてくれたのだもの。きっといつまでも、貴方は私の中に龍兄がいると思いつづける。どんなに私が龍兄のことは忘れた、ヴェルドだけよと言っても、貴方には信じられないでしょう?」
「そんな日が、本当に来ると?」
「来るわ。ヴェルドに抱きしめられて、私はヴェルドとなら幸せになれるんじゃないかって、とても強く思った。揺らいだのよ、この私が!」
「それなら」
「でも!! でも、そうすると、私は一生、貴方を手に入れられなくなってしまう」
ヴェルドはもう、泣きそうだった。途方に暮れてもうどうにもならないとばかりの表情で、私を見ていた。
「私は、欲深いの。貴方に全てを委ねて思う存分愛されて、でもそのうち、これほど愛されているのに、愛しているのに、貴方の信用が、心が全部手に入らないと気づいてしまったら、私はどうしたらいいの? 私はヴェルドを幸せにできないのよ。結局永遠に中途半端に不幸にしつづけてしまう。ヴェルドには、一番幸せになってほしいのに」
碧眼からするりと流れ出したヴェルドの涙を拭おうと、自然と手がヴェルドの頬に伸びていた。ヴェルドはその手を取って、しばらく強く、頬にあてがった。火照るヴェルドの頬が熱くて火傷しそうなほどなのに、ヴェルドは私の手を冷たくて気持ちいいと言った。
「統仲王には私からお話をします」
やがて私の告げた言葉に、ヴェルドは一つ肩を震わせて頷いた。
「それでも、聖様のことを好きでいてもいいですか」
「……ええ」
一つ間を開けて私は頷いた。
好きでいることさえ許されないなんて、辛すぎる。でも、私の肯定の返事が、またヴェルドを苦しめることになるだろうことは、容易に想像できた。それでも、想いを抱えたまま生きていっても、いつか、さっきの私のように気持ちが揺らぐ時が来るかもしれない。
ヴェルドは、私の額に自分の額を押し当てて、しばらく静かに泣いた。
私は目を閉じて、ヴェルドの熱を感じていた。
後悔は、している。
これは私が幸せになるチャンスだった。私はみすみすそれを、自らの手で断ち切った。いや、どこかでヴェルドが私を好きな限り、またこんな機会が訪れるのではないかという浅ましい打算が働いていたのかもしれない。でも、私はもう、頷くことはできない。
「幸せになって、ヴェルド」
それがヴェルドにとってどれだけ傷つく言葉であるかどうかも分かった上で、私は彼にそう囁いた。
中庭の蓮の花は見ずに、私は天宮へと飛んだ。
周方よりも少し湿度の高い天宮の中庭にある蓮池の前で、統仲王は私を待っていた。
そこには白い蓮の花が咲いていた。何物にも染まらない真っ白い蓮の花が幾重にも花びらを重ねて天を仰いでいた。
「泣いたのかい?」
腕を伸ばして抱きしめようとする父親の腕を振り払って距離をとる。
統仲王はいつも私を溺愛する。末っ子だからとか、愛優妃がいなかった分だとか、いろいろ言っているけど、理由なんかそっちのけで私のことを愛してくれる。大事にしてくれているのが分かる。でも、統仲王はこの世界の主神だ。法王たちの父親業ばかりにかまけてはいられない。神界の全ての生きとし生けるものの父としての責務がある。だから、私は天宮の父のもとで育てられることはなく、龍兄に乳母のパドゥヌとともに預けられたのだ。それを恨む気は特にない。たまに出てきてうざったいくらいに父親面してくるのがイラっとするけれど、それだってもう、慣れた。
今回のことも、統仲王にとっては父親面の延長線上だ。
ちょっと暇ができて娘のことが心配になったのだろう。いつまでも龍兄を追いかけていることに父親として嫉妬しているというのもあるのかもしれないし、早く引き離さなければならないと思っているのかもしれない。
「ヴェルドに、婚約の件についてお断りを申し上げてきました」
「どっちかというと、聖の方が振られた顔に見えるけどねぇ」
「泣いたのは私ではありません」
「優しい人だねぇ」
きっぱりと私が言うと、統仲王は惜しそうにヴェルドのことを言った。
「はい、本当に。私にはもったいない方です」
「そんなことはないだろう。聖には誰が夫となっても勿体ないと私は思うよ」
「またそんな親のひいき目全開で馬鹿なことを言って」
「親のことを馬鹿とか言うものじゃないよ」
「では、阿呆なこととでも言えば?」
「そういう問題じゃないだろう。親に対する尊敬というものはないのか?」
統仲王はあくまで笑って言っている。尊敬しないと許さないぞというほどの強制力はこの言葉にはない。それは、予め統仲王が私にある程度は尊敬されていると思ってくれているからだ。統仲王がそう思ってくれていると、私も思っているからこそ、軽口は成立し、私は笑って済ますことができる。
統仲王もけらけらと笑っていたが、ふと表情を引き締めて私を見据えた。
「西方将軍ヴェルド・アミルとの婚約の話は白紙に戻そう。聖がそんな顔をするのなら、これ以上進めることはできないからね」
「ありがとうございます」
私は深々と頭を下げる。
「しかし、だからと言って、龍とのことを認めることはない」
はっと私は顔を上げる。
「いいえ。龍兄とは何もございません。ご覧になればお分かりになるでしょう。私は龍兄には嫌われております。女性として……相手にすらされておりません。血を分けた妹とも思ってもらえているかどうか」
言っていて自分で悲しくなって、思わず言葉が詰まった。
龍兄の背中は、いつも私への全否定だ。
今度こそ私が泣きそうだという時なのに、統仲王は手を伸ばすこともなければ優しい言葉をかけることもない。冷めた目で私を見ている。
「許されないことだと、肝に銘じることだ」
冷たい一言が改めて私の胸を貫いた。
言いたい言葉をぐっと飲みこむ。唇を噛みしめて、飲み下そうともがく。それでも喉は勝手に音を鳴らしていた。
「ならば、どうすれば許されるのですか」
意外なことを聞いてきたとでも言いそうな顔で統仲王は私を見下ろす。
「どのような条件を満たせば、許されますか!」
「まるで許されている存在がいるかのような口ぶりだな」
風兄さまと炎姉さまのことを暗喩してしまっていたことには気づいていたが、後には引けない。
しかし、統仲王は私が次の言葉を発する前にしっかりと、この世の理を維持する者として私に釘を刺したのだった。
「例外はない」
と。
私はそれ以上顔を上げることもできず、その言葉に打ち震えていた。
それを見かねたわけでは恐らくなく、統仲王は次の瞬間には池に咲く白い蓮の花を指さして無邪気に言った。
「ごらん、聖。あそこに双頭の蓮の花が咲いているよ。珍しいね」
私は顔を上げ、のろのろと統仲王の指さす方向を眺めた。
蓮は一つの茎に一つの花。それなのに、統仲王の指さす方には一つの茎から二つの蓮の花が天を譲り合いながら花開いていた。
「一茎一花が常識という思い込みは、時にたくさんのものを傷つけるものだね。あの花たちはどちらが先に咲いていたのか、どちらが後から咲いていたのかなど関係ない。どちらも同じくらい美しく咲いている。優劣をつけようなどということ自体が過ちだとは思わないかい」
心の中の泥を啜って、龍兄への想いが赤く花開いている。いつか同じ茎から、ヴェルドへの想いが花開く。
「でも、人の心は他の人には見えないものなのです。自分ですら、正しく見ることができるかはわかりません」
「永遠という時間をかけて縛られたと苦しむか、お互いを理解するための時間と考えてゆっくりと育んでいくかは当人たち次第。聖。お前はまだ、幼かったのかもしれないね」
統仲王はそう言って、ゆっくりと私の頭を撫でた。
私はその手を振り払いはせず、撫でられるがままに任せていた。
ほっとするような、情けないような、いろんな気持ちがせめぎあい渦巻あって、私は声を殺して泣いていた。
「人の心には誰しも泥が沈んでいる。その泥は勿論、他人からは見えない。だから、自分がどれだけ折り合いをつけてその泥を飲み下していくかが、大人になるということなんだよ」
身体はとうに大人になっていた。成神の儀を終えてもう幾年も経つ。幼い頃のように長い髪を風に揺らし無邪気に走り回っていた時とも違う。
髪――
左は愛優妃を受け継いで金色。右は統仲王を受け継いで漆黒。中央は栗色。
三つ編みにすれば左右で違う色のおさげが揺れる。
『あなたを妻に――』
掬い取った髪に口づけたヴェルドの姿が蘇る。
その晩、聖刻城に戻った私は、自室で短剣を手に取り、腰ほどまである長かった髪を三つ編みにしたその根元で切りとった。
すっと頭が軽くなった。
こんなにも軽くなるものなのかと、手の中にまだある毛束と鏡の中の髪の短い自分とを見比べて驚いた。
悪くない、と思う。
短い髪の自分も悪くない。
横から落ちてくる髪に表情を隠したくなる時もあったけれど、今は短すぎて表情はどこからでも丸見えだ。だからこそ、私は装わなければならない。
法王としての私を。
神の娘としての私を。
どこから見ても、誰から見ても疑いないように完璧な私を、装わなければならない。
泣くわけにはいかなかった。
私が泣くわけにはいかない。
顔を上げて、前を向いて、しっかりと腹を据えて、歯を食いしばって、口元には笑みを浮かべていよう。
誰からも心配されないように。
私は傷ついていない。私は平気。私は、――誰も待ってはいない。
全ての期待を捨て去れば、裏切られることはなくなる。裏切られたと思わなければ、傷つくこともなくなる。疑うこともなくなる。
私は私の前に続く道だけを見て、一歩一歩歩めばいい。
自分だけの足で。自分だけの力で。
龍兄の背中は、もう見ない。もう追いかけない。私の道はそこにはつながってはいない。
それでもいつか、と願う心を押し殺して、切り取った髪の毛をごみ箱に捨てた。
翌朝、起こしに来た侍女たちが悲鳴を上げたのは言うまでもない。
「気にしないで。ちょっとした気分転換だから」
にっこりと笑ってみせる。
騒動を聞きつけて朝早くから駆け込んできた緋桜が、一目私を見るなり目を丸くしていた。
「聖、あんたそれ……」
目は驚いていたのに、声は呆れている。
「ヴェルド様に振られたの?」
「えっ?」
思いがけないことを言われて、私は戸惑う。
「ヴェルド様への当てつけ?」
さらに緋桜に言葉を重ねられて、さぁぁぁぁっと血の気が引いた。
「世間一般には、そう見えるかな……」
「そう見える以外の何に見えるっていうの」
近づいてきた緋桜は、遠慮なく犬でも撫でるようにぐしゃぐしゃぐしゃと私の頭を両手でかき回した。
「そうでなくても豊穣祭が近いっていうのに、あんたその頭で大衆の前で歌う気?」
「……い、今からでもあの髪をつけ毛に!!」
ごみ箱に散乱した髪の毛を拾い集めようとしたところで、緋桜は盛大にため息をついた。
「はさみ貸して。毛先、もう少しきれいにしてあげる」
上目遣いに見上げると、仕方ないなという顔で緋桜は見下ろしてくる。
おずおずとはさみを差し出すと、緋桜は器用に毛先を整えてくれた。
鏡の中に映る自分は、昨日までのどこか夢心地な自分とは違っている気がした。
「うん、結構似合ってるんじゃない? 大人っぽい」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
頷きながら、緋桜はささっと床に散らばった髪を掃除して、私を後ろから抱きしめた。
「馬鹿な子。後悔するくらいなら、少しくらい強欲になればよかったのに」
肩から回された緋桜の手にそっと触れる。
「私、幸せなんだなぁって思ったの。こんなに真面目な人に想ってもらえて、申し分ないくらい幸せな女なんだなぁって。でも、私、幸せになるのが怖かった。ヴェルドが本気だって思ったからこそ、不義理はできないって……私は、ヴェルドを幸せにできない。私だけが幸せになることなんて、できない」
「あんたが幸せに笑ってるのがヴェルド様の幸せでしょう」
「私は……ヴェルドを信じ切れなかったの。ヴェルドを好きになるのが怖くて。本当に好きになってしまっても、きっとヴェルドは信じてくれないって……」
「ヴェルド様はそんなに心の狭い男じゃないわよ」
「うん、でも、私は……」
緋桜はぎゅっと私の頭を抱きしめた。腕の中で、私は何も見えなくなった。
「聖は、龍様への想いを断ち切ろうとしたのね」
しばらくしてから、緋桜の言葉がことりと腑に落ちて、私は小さく頷いた。
これは、交わることのない道を歩みつづける覚悟を示すものだった。
同じ時を永遠に生きていかなければならないという呪いの中で、どこまでも龍兄の道と平行に続く自分の道を、踏み外さぬよう歩いて行かなければならないという覚悟。
よそ見をしてはいけないのだ。脇目も振らず、自分の道だけを見据えていなければいけない。永遠に続く道のどこかで、龍兄の道と交差する日が来るかもしれないだなんて想いは、捨てなければならない。
道は、交差してはいけないのだから。
それでも、背中は見えつづける。同じ時空にいる限り、ちらちらとその銀色の外套が翻るさまが見え、陽光に溶け込みそうな銀の髪が風にさらわれるのを見ることになる。落ち着いた硬質な声が静まり返った広間に響くのを聞くことになる。誰かがその名を呼ぶ声を聞くことになる。
わたしは、それでももう揺らされてはいけないのだ。
どんなに心の奥底で泥のような想いが吹き溢れようと、水面だけは平穏に保ちつづけなければならない。何事もなかったかのように、笑顔を咲かせていなければならない。
数日後、ヴェルドとの婚約を断ったこと聞いた風兄さまが駆けつけてきた。
そして、私の肩口を見て唖然と息を?んだ。
聖刻城の正面入り口で出迎えた私を、玄関のエントランスに入る間もなく、文字通り玄関の扉の前で風兄さまは言葉を失って立ち尽くしていた。
「そこまで思いつめさせるとは……思わなかった――ごめん、聖」
ようやく絞り出した言葉は、蒼白な顔に相応しく掠れて震えていた。
「やだ、どうしたの、風兄さまったら、そんなに青ざめちゃって。風兄さまのせいじゃないのよ。気分転換よ、気分転換。あ、ヴェルドへの当てつけでもないからね。どう、似合う? 大人っぽくなった?」
短くなった毛先を指先で触れて見せ、くるりと回る。
それでも風兄さまはほっと安堵する様子もなくひたすらおろおろとしていた。
「ああ、思わなかった、だなんて無責任な言い方だった。思いつめるだろうことも悩むだろうことも分かっていた、だけど……龍兄さんには会ったのかい?」
「いいえ? それよりも、こんなところで立ち話もなんだから中へ入って」
くるりと風兄さまに背を向け、私は玄関ホールを抜けて応接間へと風兄さまを案内する。
城の者たちに会釈されながら、風兄さまは恐縮しながらついてくる。
こんな時なのに、緋桜はいない。
いや、いいんだ。緋桜に甘えるわけにはいかない。
部屋に通して、侍女がお茶を運んできて出て行った後も、テーブル越しに向かい合って座った私と風兄さまの間には重苦しい沈黙だけが落ちていた。風兄さまは珍しく深刻な表情で俯いたまま私と目を合わせようとしない。
「風兄さま? お茶が冷めてしまうわよ?」
お茶にも手を伸ばそうとしない風兄さまに、ようやく私は声をかける。
「もう、やだ。どうして風兄さまがそんなにショック受けてるの。本当にこれはただの気分転換なのよ? だって、私、ずっと髪を伸ばしてきていたでしょう? でも、なんか子供っぽいなって。すっぱり切ってみたら、ほら、ちょっとは大人っぽく見えるようになったでしょう? 緋桜にも好評なのよ。聖は童顔だからそれくらいの方が箔がつくかもねって」
努めて明るく喋っているのに、風兄さまの表情はどんどん暗くなっていく。そして、ようやく地の底から呻くような声が聞こえた。
「どうして龍兄さんに会わなかった?」
怒っているわけではない。が、深く悲しんでいるのは分かる。
風兄さまが悲しむようなことなんて何もないのに。
私はカップをソーサーに置いてすっと胸を張る。
「私の選択を誰かのせいにしたくなかったの」
口元に笑みを乗せ、盛大に自身を鼓舞する。
「私、すっきりしたかったのよ。髪が長いと、どうしたって龍兄のお嫁さんになりたいって言っていた聖のままになってしまうもの。時の長さの分だけ髪が伸びて、想いばかり蓄積してしまうでしょう? もう、いい加減自分が鬱陶しくなっちゃって。だから切ったの。すっきりしたわ。髪が短いと、こんなに頭って軽くなるものなのね。肩もこらないし、髪を洗ってもとっても乾くのが早いのよ。ほんと、もっと早く切っておけばよかった」
軽く頭を振って見せると、ようやくおずおずと顔を上げた風兄さまが憐みの顔で私を見ていた。
「見た目からよ、見た目から。見た目から大人になることにしたの。入れ物が大人なら、心も自然と大人になれるんじゃないかと思って」
「そんな甘くないよ」
苦く風兄さまが嗤った。
「何年生きたって、自分は自分のままだよ。心なんて大人にならない。周りが大人としての対応を求めるから、仕方なく見える範囲で応えられるようになるだけだ」
「それなら、なおさら好都合じゃない? 私は法王の中で末っ子だし、一番若いけど、もう幼い聖からは抜け出したいのよ。周りがそうやって甘やかすからいつまでたっても大人になれないんだわ」
「そんなこと、言わないでよ。妹はいつまでたったってかわいいに決まってるだろう」
「なら、私に可愛い妹なんて求めないで。いつまでも大人になれなくなっちゃう」
「それは、無理。妹は妹だから」
ちょっと怒ったように風兄さまは私を見つめる。
「僕は、どうやって聖に償ったらいい?」
「償う?」
「ヴェルドとの結婚を統仲王に勧めたのは僕だ。言い出したのは僕なんだよ。僕には責任がある」
「龍兄を好きならそれでもいいと言ってくれたのも風兄さまだわ」
「そうだけど……」
「風兄さまが責任を感じることなんて何もない。風兄さまが私の幸せを案じてくれたのはとてもよく分かっているから。ヴェルドを勧めてくれたことにも感謝しているわ。あれほど私のことを愛してくれる人もいない。有り難いことだと思うわ。――むしろ、応えられなくて申し訳なかったと思っているわ。ああ、それって大人になりきれなかったってことかしら」
風兄さまはゆっくりと首を振った。
「自分の気持ちに嘘をついてまでする結婚に何の意味がある? 聖が幸せでないというのなら、それは望むところではない。ただ……」
「ただ?」
「……いささか性急すぎたのではないかと。もう少しゆっくりヴェルドと親交を深めてもよかっただろうし、龍兄さんに確かめてからでも」
「何を?」
ぐっと風兄さまは喉を詰まらせたように口を噤んだ。
私は笑顔を崩さない。不揃いな積み木を積み重ねて何とかバランスをとっているというのに、口角を上げていなければ全てぐだぐだに崩れ落ちてしまいそうだった。
「もしかして、龍兄が止めるとでも思ってた? そんなわけないでしょう。龍兄は止めない。何なら、否定も肯定もしない。きっと『そうか』とかって一言言って終わりよ」
ひくりと風兄さまの口の端が歪む。
「ほらね、きっと風兄さまもそう言われたんでしょう? 私が言ったって同じよ。いいえ、返事が返ってくるだけ風兄さまの方がましかも。龍兄はね、どうでもいいのよ、私のことなんて。幼い頃は後見人だったかもしれないけれど、今はもう私は幼くなんかないもの。龍兄がいなくても自分一人で生きていけるわ。龍兄の言葉に、態度に、一喜一憂させられて期待しながら生きるのはもうやめたの。私の判断の物差しは龍兄じゃない。私自身であるべきだから」
胸に手をあてて力説する私を、風兄さまは黙って聞いていた。
まるで自分自身に言い聞かせているみたいだと、思ったに違いない。
構わない。その通りだから。
それでも、そのことに気が付かなければ、私は一生永遠に浮き沈みする自分の心に翻弄されつづけるところだった。
私は席を立ち、向かいの風兄さまの前に跪いてその手を取る。
「感謝しているのよ。ヴェルドとのことは、私自身のことを顧みるいい機会になった。ヴェルドには申し訳ないことをしてしまったけれど、私はまず、自分自身で立つところから始めなければならなかったのよ。そうでなければ、私は誰にも応えることができないところだった」
「聖」
手を重ねてなお、風兄さまは心配そうに私の顔を見つめた。
「子供のまま結婚なんてできないから」
にっこりと私は笑った。
風兄さまには大人の笑みに見えただろうか。
精一杯の強がりではあったけれど、間違えていないと思う。
統仲王の言ったとおり、私はまだ、幼すぎたのだ。
その幼さに縋っていてよいと自分を許していたけれど、それももう終わりにしたのだ。
そうでなければ、ヴェルドに申し訳が立たない。
風兄さまはそっと私を抱きしめた。
「僕にできることがあったら何でも言って」
「それなら、決まってるじゃない。ずっと、私の大好きな風兄さまでいてちょうだい」
「……うん、分かった」
「ありがとう、風兄さま。大好き」
ぎゅっと抱きしめ返して、私は風兄さまの肩に顔を埋めた。
ほっとする。
この人は、この兄さまだけは、きっとずっといつまでも私の味方だ。何があっても、私の兄としてそこにいてくれるだろう。
(龍兄もそうだったらよかったのに)
ふとそんな思いが頭をもたげたが、封じるまでもなかった。
私が龍兄に恋などしなければ、きっと龍兄もこうやって傍にいてくれただろうに。
それだけだ。