聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第5章 泥の花

6(樒)
 鈴の音が鳴り響いている。
 何かの兆しを伝えるように明るく、せかすようにかしましく。
 数個じゃ足りない。数十数百という数の鈴が束になって揺れ震えて音を立てている。
 一つとして同じ音はない。一つ一つの鈴の動きが一瞬一瞬で変化していくのに合わせて、触れ合う鈴の場所も無限に変わっていく。
 扉が開く。
 主を迎え入れると、扉は音もなく閉じ、鈴の音は鳴りやむ。
 閉じた扉を背にして、わたしは見覚えのない一人の女性と対峙する。
 ベッドで片膝を立て、暗く影の差した碧い目でこちらを見つめる女性は、ツンと上を向いた鼻がいかにも気位が高そうに見える。灰色に煙る金色のうねりのある髪は顎のあたりで切り揃えられ、ひしゃげたように薄い笑みを浮かべる唇は紫色に少し青みを帯びて見える。
 パッと見て、あまり幸せそうには見えなかった。わたしを見つめる暗い瞳は、いつでも殺せるカエルを手元に置いた蛇のように鋭く、ねちっこく視線だけで全身を縛り上げるかのようだった。
「よくも邪魔をしてくれたわね、ヨジャ」
 口元の笑みが皮肉気に深さを増す。
(ヨジャ……?)
 心の中で首を傾げるわたしとは対照的に、わたしの視界は深々と首を垂れたために浅黒い胸元に近づいた。
「お前だけは私の味方だと思っていたのに」
 身体の持ち主のどくどくと脈打つ大きな心臓の音がわたしにまで動揺と焦りをもたらす。かといって、この身体はわたしの思うままに動かせるわけではなかった。
「申し訳ございません」
 声変わりしかけた子供の声が平静を装って紡ぎだされる。
 下げた頭の後頭部にじっと蛇の視線が絡みつく。
 どれだけ頭を下げつづけていたのか。
「いいわ。来なさい」
 愉悦の混じった声に、身体の持ち主はびくりと肩を震わせた。
「いつまでそうやっているの。顔を上げなさい。そう。いい子だからこちらへ来なさい」
 顔を上げて再び妖艶に笑む女性と目が合うと、再び身体の持ち主の鼓動は早くなった。それでも両足を励まして一歩一歩ベッドに座る女性の元へと歩んでいき、女性がポンポンと叩くベッドの上に、女性に並ぶように腰を掛けた。
 女性はにっこりと微笑むと身体の持ち主の顎をくいっと持ち上げ、あっという間もなく貪るように深く抉るように口づけた。
「悪い子。悪い子にはお仕置きが必要ね」
 チリン、と音がした。女性の手にはいくつもの鈴を連ねた紐が握られていて、女性はその鈴のついた紐を食い込むくらいにきつく身体の持ち主の首に巻きつけた。さすがに言われるがままだった身体の持ち主も、きつさと食い込んでくる苦しさに耐えかねて首を振る。すると、鈴は余計にチリンチリンと音がして女性は満足気に笑った。
「お前など、生まれてこなければよかったのよ。お前などいてはいけないの。この世で生きていることを許されない存在なのよ」
「申し訳……」
 定型となった謝る言葉は、ベッドに押し倒された衝撃で途切れ、チリンチリンとやかましく鈴が鳴った。
 身体が粟立つのが分かった。
「出自の分からぬお前がここで暮らせるのは誰のお陰?」
 身体の持ち主は奥歯をぎりと噛みしめる。のしかかってくる女性から視線をそらし、シーツに刻まれた皺の影を見つめる。
「エマンダ様の、お陰です」
「そう。そうよ。お前が今日まで生きてこられたのは私のお陰なのよ。その私の願いを、お前は知らないわけではないでしょう」
 愉悦に浸りながら責める女性の言葉に、奥歯がさらにギリリと強く擦りあわされた。
「今日はせっかくのチャンスだったのに。お前はどうして騒ぐような真似をしたのかしら?」
 吹きかけられた生暖かい息に身体の持ち主はぎゅっと目をつぶる。
「せっかくキルアスを殺して、あの女を追い出すチャンスだったのに」
 ぐい、と首に尖った爪の先が食い込んできた。
「お前は誰に飼われていると思っているの? お前の主は誰?」
「エマンダ様、です……」
「そうでしょう? お前よりも五つも幼いあの金髪の子供ではないでしょう?」
「ぐっ……はい……」
 声帯を掴みつぶしかねないほどの力を加えられて、身体の持ち主は喘ぐように返事をした。
「ふふふふふ、いいのよ。分かっているなら。でも、本当に分かっているのかしら? 今日はたっぷりその身体に誰が主かを教え込んであげるわ」
 押し殺した残虐な笑い声が驟雨のように上から降り注いできた。
 のしかかる女性をはねのけようと手足をばたつかせるが、その度に鈴の音がうるさく鳴り響く。
「お前は私の飼い猫。今度は噛みつく相手を間違えないように、もっと鈴を増やしてあげる」
 暴れようとしても、身体の持ち主は恐怖に身が竦んで思うように動けないようだった。
「残念なことね。この世界では人を殺すことは許されない。叶うことなら、お前などさっさと闇に葬ってしまっておいたものを」
 この上ない憎悪を吐き出されて、身体の持ち主は抵抗をやめた。
 心の中が空っぽになっていくのが、わたしにまで伝わってきた。


 物悲し気な笛の音が鳴っていた。
 どこかたどたどしい、何か思い出をなぞるようなつたなさを感じる音の運びだった。
 逢綬でないことは、聞けば明らかだった。風兄さまでもない。
 つい今しがたまでいたおぞましい世界の手の跡が、まだ全身に残っているようだった。
 気持ちが悪い。
 込み上げる嘔吐感に口元に手を当てて堪え、どこか吐き出せる場所はないかと身体を起こして辺りを見回す。
 三人くらいは寝られそうな立派な天蓋ベッドの真ん中に、わたしは寝かせられていたようだった。部屋の扉は大分遠い。室内の装飾からして、日本ではない。天蓋ベッドも、開けられたままの扉から見える隣の部屋の立派な応接ソファも、ヨーロッパの王侯貴族の宮殿にでもありそうな趣向を凝らした立派なものだった。
 ベッドの下に自分の靴が並べられているのを見つけて、これ幸いと履いてベッドから立ち上がる。よろける足元を励ましてトイレを探す。胸にわだかまったものを吐いてしまわないことには、どうにも忘れられそうになかった。寝室に隣接する小部屋にようやく浴室とセットになったトイレを見つけて、思う存分さっきの夢を吐き出す。
 吐き出したからといって簡単に忘れられるわけではないけれど、記憶の中から早くこのおぞましさが出て行ってくれればいいと願いながら、胃の中が空っぽに鳴まで吐き尽くした。
 大分気分がましになってくると、隣の洗面台で手に水を掬って口の中をゆすぐ。
「少しはすっきりしたか?」
 口の中の苦みが薄まって、ようやく深く息を吐いたところで、後ろから低い声がかけられた。
 洗面台の鏡に映るのは、ヨジャ・ブランチカだった。
 ぎょっとして、わたしは口元を拭う動きが止まる。
「何を見た?」
 聞かれて、思わずさっきの光景がフラッシュバックしそうになって首を振る。
「何も」
「そんなわけはないだろう」
 ヨジャ・ブランチカは中に入ってくると、容赦なくわたしの手首を掴み、さっきの天蓋ベッドまで引きずり、ベッドの上に投げ倒した。十分なスプリングに身体が何度か弾むが、それも途中で両肩を上から押さえつけられて止められた。
 上から漆黒の目が射貫くように貫いてくる。
「痛い。放して!」
 逃げ出さなきゃ。でないと、さっき見た夢の続きが始まってしまう。
 だけど、もがこうとしても肩はがっつり抑えられているし、足だって何だかんだで抑え込まれている。お腹をよじってみたところで動ける範囲は限られている。
「時を司る者というのも難儀だな。時に、見たくもないものを見せられてしまうのだから」
「わざと見せたの?」
「何をだ?」
「さっきの……」
 そう言いかけて、また気持ち悪さが込み上げてくる。
「おれは何も見せてはいない。おれに時を司る力はないからな。おれは、ただ笛を吹いていただけだ」
「ああ……」
 あの物悲しい笛の音に触発されたのか。他人の記憶なんて盗み見る趣味はない。それでも、何かの拍子に影響を受けて、見たくもないものを見てしまった、と。
 聖の時、人ごみに行くとよく眩暈がして気持ち悪くなった。人に酔ったんだなと龍兄は言っていたけど、本当は違う。ふとした瞬間に何かに触れてしまうと、“強い人”の記憶が流れ込んでくることがあるのだ。大勢の人がいる場所だとなおさら、たくさんの記憶が良いものも悪いものも混在して流れ込んできて、自分がぐらぐらと揺らいでくるのだ。心を硬くガードしていないと、それらは不意打ちで襲い掛かってくる。
「貴方も笛を吹くのね。逢綬だけかと思ってた」
「見様見真似でな」
「逢綬に習ったの?」
「逢綬は人に教えたりなどしない。あれは常に孤独だ。一人でいることを良しとする。誰かに積極的に関わることなど皆無だ」
 ホアレン湖の湖畔でのセッションは、本当に奇跡的なものだったわけだ。
「じゃあ、誰に?」
「言っただろう。見様見真似だと」
「誰の?」
「風環法王。いや、リセ様かな」
 ヨジャ・ブランチカは口元を歪めて笑った。皮肉気なその口元は、さっき夢で見た蛇のような女性にそっくりだった。
 そうだ。「エマンダ様」と、身体の持ち主は呼んでいた。その昔いた周方皇の二人の皇妃のうちの一人だとヴェルパが言っていたのは、あの人のことではないだろうか。そして、今ヨジャ・ブランチカが口にしたもう一人の名前、「リセ」はもう一人の皇妃の名前。エマンダに子供とともに追い出された第二皇妃の名前。
「好きだったの?」
 思いがけずそんな言葉が零れ出た。
 ヨジャ・ブランチカは驚いたようにわたしを見下ろした。
 その目に映るのはわたしではなく、地中海を思わせる明るく強い日差しの下で、横笛を吹きながら風のようにくるくると舞い踊る黒髪の女性。海風が長い黒髪を吹き流し、雲一つない青い空に海鳥が飛んでいく。きらきらとした輝きに縁取られた一瞬が、永遠にヨジャ・ブランチカの中で生きつづけていた。
 それは、憧れの眼差し。
 ひたむきにその女性を見つめる目は、たとえ夢で身体を共有していなくてもどんなものだったか想像がついた。
 強い日差しを讃えるような力強い輝きに満ちた笛の音色。舞い踊る度にシャンシャンと華やかに鳴る手と足首につけられた複数の鈴。風をはらんで膨らむ腕にかけられた衣。すぐ近くで草原に座って見ていた金髪の幼子に向けられる無償の笑顔。
 あの笑顔が自分にも向けられたら――
 ぎゅっとこちらの胸まで締めつけられた。
 否。本当に首元を掴まれていた。
「そこまでにしておけ」
 苦しさに咳き込んで身悶えると、ヨジャ・ブランチカはあっさりとわたしの胸元から手を離した。
 呼吸を整えながら、わたしは考える。
 同じ鈴でも随分と音色が違うものだ。エマンダの使った鈴は、人を支配する鈴。人界にばらまかれたのと同じ鈴だ。対して、エキゾチックな舞姫が身に着けていた鈴は、見る者聴く者の心を明るく照らす。
 そう見えたのは、ヨジャ・ブランチカがあの舞姫に心を許していたからだろうか。
「わたしをここに連れてきて、どうするつもり? 葵じゃなくてよかったの?」
 話す余地があるんじゃないかと思ったのは、残虐な一面と大切な思い出との間で揺れ動く心を見たような気がしたからだった。しかし、ヨジャ・ブランチカは憐みのこもった目でわたしの顎から首筋、平らな胸元からちょっとぽっちゃりしたお腹まで視線を辿らせ、呆れたようにため息をついてベッドから降り、近くのソファに自暴自棄に身を投げ出した。
「ちょっ、なっ、どういう意味よ!!」
 思わず跳ね起きたわたしに、ヨジャ・ブランチカはやはり憐みのこもった視線だけを投げてよこす。
 いや、別に怖かったから解放してもらって助かったし、その方がもちろん良かったんだけど、でも今の視線とため息はあまりに失礼なのでは???
「天龍法王もどういう趣味をしているのか」
「いや、ちょっと、龍兄は関係ないでしょ! わたし聖じゃないし! 聖より胸だってあるわよ!」
 はっ、しまった。言わなくてもいいどうでもいいことまで口走ってしまったじゃない。
「というか、龍兄のこと、知ってるの?」
 ちらりとヨジャ・ブランチカは興味なさげにわたしを見やり、ふぅーっと息を吐き出しながら天井を見上げた。
「火炎の国で宰相を務めた後、風環の国でも宰相の地位を預かった。直接話すことなどほとんどなかったがな」
「炎姉さまと風兄さまに仕えていたの?」
「仕えていた? さぁ、それはどうかなぁ。私の主は常に一人だけだった」
「愛優妃?」
「さぁ?」
 ヨジャ・ブランチカは肩を竦めて苦く笑う。
「その人が仕えよ、お守りせよと言われたから、私はその命に従っただけ」
 愛優妃じゃ、ないのかな。
 闇獄中に獄主の一人だというのに、愛優妃に忠誠を誓っている人ばかりじゃないんだ。
「わたしをここに連れてきたのも、その人の命令?」
 ヨジャ・ブランチカは呑み込まれそうなほど黒い瞳でわたしを見つめた後、軽く首を振った。
「ちょっと、さっきからいろいろと失礼なんじゃない?」
「自分が人質として連れてこられたこともわからないのか? 私は別に今すぐお前の首にこの鎌の切っ先を食い込ませてやってもいいのだぞ」
 はっと気づくと、首元に鎖鎌の鋭い切っ先が触れんばかりの位置で寸止めされていた。
 ごくりと生唾を飲み込み、ヨジャ・ブランチカを見返す。
 己の感情すら呑み込ませた黒い瞳で、ヨジャ・ブランチカはわたしを睨みつけ、わたしが軽く両手を上げてみせると、これ見よがしにジャラジャラと鎖の音を立てて鎌の切っ先を仕舞いこんだ。
「人質は生かしておくから価値があるんじゃないの?」
「逆だ。価値があるから生かしておくのだ」
「じゃあ、わたしは価値のある人質ということ?」
「忘れているようだから一つ忠告してやろう。ここは風環宮の迷宮と違って、いつでも自分で逃げ出せるぞ。時空を駆けることのできるお前なら、いつでもな」
「えっ、本当?! ――〈渡り〉!」
 答えを待つまでもなく即実践してみると、あっさりとわたしは自分の部屋に戻っていた。
 窓の閉まったこじんまりとした自室は、妙に静けさに沈んでいた。まるで自分の部屋ではないみたいだ。
 息苦しさを覚えて窓を開けようと一歩踏み出した途端、リン、と足元で音がした。
 その音で、ぐるりと景色は一変し、再びヨジャ・ブランチカの前に戻ってくる。
「その鈴がついている限り、いつでもどこでもおれの前に引き戻されるがな」
 つまらなそうにヨジャ・ブランチカはわたしの右足首に結び付けられた鈴を指さした。
「いつの間に……でも、こんなのとっちゃえばいいんでしょ? 結び目なんてすぐに解いてしまうんだから!」
 しゃがみ込んで鈴を結びつける紐の結び目を探す。が、ない。
 結び目など一つもなく、細い針金のような糸は滑らかな円を描いてわたしの足首に嵌っていた。
 いやいや、焦っちゃだめだ。これくらい細いんだから、力づくで引っ張れば――うん、足首の方が引きちぎられそうだ。それなら、何度か曲げて劣化させてしまえばいい――。
「その気の遠くなりそうな作業を、私の前でいつまで続けるつもりだ?」
 最早呆れるという感情以外抱けないらしいヨジャ・ブランチカは、面倒くさそうにわたしを見下ろしていた。
「それを取りたければ、私を倒すしかない。私がこの世からいなくなれば、それは外れる」
「呪いみたいだね」
「その通り。呪いだ」
 そう嘯くと、ヨジャ・ブランチカはついっと指先で空を切った。その瞬間、背後のベッドにどさりと音がした。
「痛ったぁ」
 その声は、葵。頭を押さえながら気だるげに起き上がる。
「葵!」
「……樒?」
 葵はわたしを一瞥した後、ヨジャ・ブランチカの方に視線を動かした。
「ご苦労なことだね。樒なんて連れてきたって何の役にも立ちやしないのに」
「ちょっと、葵、その言い方はないんじゃない?!」
 ベッドから降りようと動かした足首では、やはりリンリンと鈴の音が小綺麗な音を立てる。
「さっき、連れてきたのが炎の方でなくてよかったのか聞いたな? こういうことだ。その鈴がついていれば、いつでも呼び戻せる」
 余裕気に嘯くヨジャ・ブランチカに向かって、葵はわたしの横を通り過ぎ一直線に向かっていくと、ソファに縁に膝をかけ、馬乗りになるような格好でヨジャ・ブランチカの両肩を抑え込んだ。
「あたしはお前の駒か?!」
 肩を掴む指が白むほど力を込めて、葵はヨジャ・ブランチカに真正面から問いただす。
 神界であるにも関わらず、葵からはさっきホアレン湖で放出していたのと同じ量の瘴気が溢れ出し、あっという間に部屋の空気を汚染していく。
「いいえ。大切なお姫様ですよ」
 薄い唇を僅かに歪ませてヨジャ・ブランチカは答える。だが、そんな嘘くさい答えを葵が信じるわけがない。
「嘘!」
「本当です」
「何を以って証を立てる?」
「必要ですか? それは」
「必要だ。これからもあたしを姫扱いしたいなら、信じられる証拠を出して!」
 ヒステリックに叫ぶ葵に、ヨジャ・ブランチカはいささか嫌気の差した顔をした。
「お好きなものをどうぞ」
 どこでも傷つけていいとばかりに、ヨジャ・ブランチカは目を閉じ、両手を投げ出して身体から力を抜く。葵の足首ではリンと鈴の音が鳴る。奴隷と同じ足輪をはめられているというのに、随分葵には肝要だ。いや、本心はさっき一瞬見せた嫌気の差した表情の方だろうか。葵から噴き出す瘴気は濃度をいや増し、葵は掴んでいたヨジャ・ブランチカの両肩を勢いよくソファの背もたれに叩きつけると、くるりとヨジャ・ブランチカに背を向けてこちらを振り向いた。
 葵は、確かにヨジャ・ブランチカの駒だった。
 ヨジャ・ブランチカが忠誠を誓っているように見せるほど、疑念が強く煽られるらしい。焚きつけられた疑念は猜疑の瘴気となって葵から噴き出す。
 葵はツカツカと歩いてわたしの前まで戻ってくる。
「面白い?」
 挑発ですらないその言葉は最早不機嫌をそのまま撒き散らしているだけだった。
 一体どこを刺激すればあの葵がこんなになってしまうのだろうか。河山君は何か思い当たるところがあるみたいだったけど、わたしには踏み込めない領域だ。
 そう、聖だったら踏み込めない領域だっただろう。聖が生まれるずっとずっと前に起因する何かなのだろうから。しかも、敬うべき姉さまのことに妹がそこまで口出しができるかと思いとどまったことだろう。だけど、今は違う。葵は友達だ。かけがえのない友人だ。少なくともわたしは、ずっとそう思ってきた。一緒に笑って、くだらない話も、楽しいことも、露店に恋が叶う鈴があると聞けばそんな他愛ない話で盛り上がれる大切な親友だ。
 まるで片思いみたいだ。親友だなんて、思っているのはわたしの方だけだったのかもしれない。桔梗にしたってそうだ。学校で親しくしていたって、知らない時間の方が多い。
 不意に、わたしからもゆらりと薄い煙のような瘴気が伸びだした。
 鈴をつけられたせいだろうか。ちょっとした疑念とも呼べない気持ちが、まるで大袈裟に形にされている気がする。形で見せつけられると、自分は葵の気持ちを疑っているのかと、そう思いはじめる自分が嫌になりはじめる。
 葵も自分と同じ気持ちだったらいい。わたしが葵のことを好きなのと同じくらい、葵もわたしのことを好きでいてくれたら嬉しい。恋とは違うけど、大事な人だと思えば思うほど、期待してしまう。同じ分だけの見返りを。
 それは本当に相手のことが大事なのかな?
 相手が大事なら、それでいいじゃない。自分が大事にして、それで満足できれば。
 ううん、そんな一方通行な想いだけじゃだめなの。嫌なの。
 兄弟でも、家族でもないのに?
 目の前にいるのは、炎姉さまじゃない。
 葵だ。
 でも、友人でも想いが通じ合えれば、その方が心強いじゃない。
「葵」
 葵と呼ばれて、葵はいらりと目元を眇める。
「わたしね、聖じゃない。葵は覚えてない? わたしが中等部から岩城に入学した時、一番初めに声かけてくれたのが葵だったんだよ」
 葵は怪訝な目でわたしを見返したまま、何も言葉を発さない。
「葵がいてくれたから桔梗にも会えたんだよ。葵がいて、桔梗がいて、わたし毎日が楽しかった。毎日お弁当一緒に食べられる友達がいるっていいよね。一人じゃないって、とっても心強いことだったんだと思う。だから、葵も今、一人じゃないんだよ。――わたしが、いるよ」
 必要としてくれていないかもしれない。
 そんな疑念が浮かんだけれど、慌てて手で掻き消した。揺らめいた黒い煙を手で掻き消した。黒い煙はすいっと宙に霧散していく。
 消えてくれたことに安堵する。
 大丈夫。わたしはまだ、自分を信じられる。
「あたしは、聖がいると思って声をかけた。一目見て、聖だって分かったから、桔梗と声をかけに行った」
 何も感情の浮かんでいない目で葵はあたしを見返していた。
「嘘」
 言わされているんだと思った。人形のように、何かに操られて言わされているんだって。
「今生も、なんと頼りなさそうな姿だと思ったのを覚えている。守ってやらねばと、……思った」
「それは、炎姉さまが見ていたのならそう思ったのでしょう? 葵は? 葵はどうしてわたしに声をかけてくれたの?」
 葵は一度口を開きかけ、ゆっくりと閉じる。
「樒はどうして受け入れたんだ?」
「そんなの決まってるじゃない。毎回授業の合間に声かけられていたら、いくら人見知りでも心解けてきちゃうよ」
 目の前にありありと当時のことが思い浮かんで、思わず笑みが浮かぶ。
「面白かったんだ。固い殻に閉じこもってるいかにも人見知りな外部の子が、ちょっとずつ笑顔を見せてくれるのが。その笑顔がまたかわいいし、一方で、だんだん強かなところも見えるようになったりして」
「え〜、そんなに強かだった?」
「思ったより弱くなかった。というか、全然かわいくなかった」
「はい?」
「生意気だし、長女気取りだし、変なところしっかりしてるし、たまにこっちがやり込められるし」
「ちょ、ちょっと葵、その言い方は……」
「楽しかった」
 ぽつりと落とされた言葉に、わたしは反射的に葵の両手を握って取り上げた。
「葵! 終わりじゃないよ。楽しいのは、まだまだこれからも続くんだよ!」
 はっとしたように葵はわたしを見る。
「終わらせることなんてない! いいじゃない、楽しくて。苦しいことは過去に置いてきたって、いいじゃない。わたしたちはわたしたちの道を歩むんだよ!」
「よくない。まだ何も終わってない。あたしは、何も終わらせることができずに死んでしまったんだ! だから、今生でこそ決着をつけないと……いけないんだ……」
「何と決着をつけるの? わたしも手伝うよ。何なら時の精霊の力バンバン使ってさっさと終わりにしちゃおうよ」
 葵は驚いたようにわたしを見る。
「それは、ダメだろ」
「どうして? いいんだよ? 辛いなら、その記憶消してあげる」
 両手で葵の頬を掴んで、わたしは言い募る。
 わたしならできる。できてしまうんだ。やっていいかどうかは別として。
「……便利だな」
「便利だよ」
「どれくらい身体に負担がかかるか、分かってるのか?」
「聖よりはましなんじゃない? わたし、健康だけが取り柄のようなものだし」
「樒は風邪ひかないもんな」
「暗にバカは風邪ひかないって言うの、やめてくれない?」
「言ってない、言ってない」
「言ったじゃん」
「風邪ひかないなって言っただけだろ。いいじゃないか。事実だし。鼻水出てるなーと思っても、一晩寝れば回復して学校来てるし。ほんと、ばかみたいに頑丈だよな」
「バカバカ言わないでよ」
「言ってないって。いいな、羨ましいなって思っただけだよ」
「それ言ったら、葵だって風邪ひかないじゃない。怪我もしないし。運動神経もいいし数学は得意だし、わたしなんかよりも何十倍も頑丈そう」
「あ、樒今あたしのことディスっただろ。褒めてるようで、ディスっただろ?」
「褒めただけですよーだ。誉め言葉くらい素直に受け取ってくれたっていいんじゃない?」
「人を素直じゃないみたいに」
「素直じゃないでしょ。何一人で背負いこんでんのよ。言ったでしょ。わたしは聖じゃない。庇護されるだけの炎姉さまの妹じゃない。守景樒なの。葵のこと、友達だと思ってるんだよ。対等だと思ってるの。平等だと思ってるの。年だって同じじゃない。同じ学年じゃない。勝手にお姉さんぶらないでよ」
「ふぅん。友達? 対等? 平等? 同い年? あたしがお姉さんぶってるって?」
「そうだよ。この間、桔梗にはいつも守ってもらってばっかりでいいなって言われたけど、別に頼んでないから。わたしだって自分で自分の身くらい守れるもん。――いや、嘘。ここに来るまで、何回助けてって思ったか知れないや。自分で自分の身くらい守れなかったことだって何回もあったわ。桔梗の言う通りだった。結局、いろんな人に助けてもらえたから、今ここにいるの。葵の言う通りだよ。浅はかだったの、わたし。表面しか見ないで強がっていたし、表面しか見ないで、敵だって思ってた」
 わたしはくるりとヨジャ・ブランチカを振り返る。ヨジャ・ブランチカはソファの肘起きに頬杖をついて、わたしと葵とのやり取りをつまらない映画でも眺めるように見ていたが、わたしと目が合って、スゥっと警戒心が蘇ったようだった。
「自分を殺そうとした人間のことを、敵じゃないかもしれないと思えるとは、なんとめでたい子供かな」
 薄い唇を歪めて笑う。
「殺そうと思えば殺せたんじゃない? 足元なんて狙ってないで、ここかここ、狙えばよかったのよ」
 わたしは挑発するように胸と首を手で指し示す。
「葵のことだってそう。別に炎姉さまの精神を呼び戻して混乱させるようなことしてないで、この鈴使っていくらでも操ればいいじゃない」
 葵の足首に現れた鈴を指さして言うと、鈴は嗤うようにチリンと鳴った。
「混乱させた方が、たくさんの疑念が生まれるだろう? 人は思考するから疑うんだ。思考して、希望を持ち、相手に期待するからこそ、何か一つでも信頼を欠く事象に気が付いてしまえば、猜疑心が止まらなくなる。相手に期待すればするほど、小さな綻びは大きな欠落を生み出す。さっき、お前は炎様のことを友達だと言ったが、本当にそう思っているのか? 都合のいいことを言って、私から、この場から、自分を助けてほしいだけではないのか?」
 背後で葵の気配が変わったのが分かった。
 ヨジャ・ブランチカからは、葵の表情が一変するのがよく見えたことだろう。
「頭ごなしに操ってしまったら、それこそただの駒になってしまう。私はそんなものはいらないんだよ」
 満足気に笑ったヨジャ・ブランチカのその一言を契機に、葵はわたしからパッと飛びのいた。
「今、助けてほしいって思ってるのは葵だよね?」
 わたしはヨジャ・ブランチカに背を向け、二メートルほど離れてしまった葵と向き合う。
 わたしは葵に両手を差し出す。そして、一歩、二歩と前に歩み出る。じりじりと、葵が逃げたそうに後ろを気にしはじめる。
「記憶、消してあげる。炎姉さまの記憶、消してあげる。だから、戻ってきていいんだよ、葵」
 葵ははっとした表情になった後、その気持ちを押し込めるように唇を噛みしめた。
『時の精霊たちよ 全てをその身に刻みし時の精霊よ
 我が声聞きて 我が願いを叶えよ
 今 我が前に 苦き記憶の虜となりて 苦しみの渦に呑み込まれし者あり
 我 望む
 かの者に刻まれし苦き記憶 削り去り 渦中より救い出せ
 全て 忘却の彼方に葬り去れ』
「〈消去〉」
 わたしは本気だった。本気で葵の中の炎姉さまの記憶を消そうとしていた。炎姉さまに会えなくなるかもしれない、なんて、どうしてそんなことが浮かんだのかは分からないけど、そもそもわたしが出会ったのは葵だ。炎姉さまじゃない。葵と前世の思い出話をしたって仕方ないじゃない。そんなこともあったねって笑いあったところで、それは別の人物たちのお話だ。
 葵がいなくなってしまうくらいなら、ない方がいいんだ。
 呪文を唱え終わって精霊たちに命じた直後、ぐらりと魂ごと持っていかれるような大きな眩暈がわたしを襲った。わたしはぐらりと天井を仰ぎ、葵は、悲鳴を上げた。
 炎姉さまがいなくなってしまう。
 そんな悲鳴では、なかった。
 明らかにわたしの背後で起きたことに衝撃を受けていた。
 大きな眩暈の後、命を脅かされていると分かるくらいの悪寒が背中から全身に何度も走り抜けはじめた。
 わたしは、立っていることができずに膝をついた。
「樒!」
 さらに倒れ掛かった上半身を支えたのは葵だった。
「余計なことをされては困ります」
 頭上から聞こえてくるのは愉悦に浸るヨジャ・ブランチカの声と、赤く血まみれになった鎌をつなぐ鎖がよれる音。
 わたしの身体はがくがくと唇が震えだす。わたしを支えた葵の肩がすぐ近くにあるのに白くかすみだす。
 寒気が酷い。
 背中が燃えるように熱い。
「助けて……誰か、助けて……」
 カチカチとなる歯の隙間から、懇願が流れ出る。
 痛い。痛い痛い痛い。
 背中が痛い。熱い。全身が、寒い。
「樒、ごめん!」
 狭まりゆく灰色の枠の中で、泣きそうな葵の顔が見えた。その葵の腕がわたしの背中に回され、直後、傷口をあぶる痛みにわたしは絶叫してのけぞった。
 意識が途切れる。
 途切れて、また繋がれる。
 葵がわたしを抱きしめている。
「樒、河山のところへ飛んで」
 随分、無茶を言う。
 記憶を消そうとして失敗し、背中に大怪我を負ったうえで〈渡り〉を使え、と?
「葵も、一緒に……」
「ごめんね。あたし治癒は使えないから、火で傷口を塞ぐくらいしか応急処置できないんだ。だから、行って」
 耳元で囁いて、葵はわたしの足首に現れていた鈴のワイヤーを一瞬で溶かし切った。
「早く!」
 葵の悲鳴に耳朶を打たれ、わたしは〈渡り〉と唱えた。
「ごめん、葵」
 泣きそうな顔を無理やりゆがめて笑顔を作った葵の表情が、目裏に焼き付いた。
 気は失わなかった。
 一瞬でわたしは河山君の前に落ちていた。
「守景!?」
 河山君の驚いた声が聞こえる。
 額や背中や脇から嫌な気配を纏った脂汗が噴き出しているのが分かる。
「何、聖刻法王じゃと?」
 聞き覚えのある甲高い少女の声も聞こえる。
「助け、て」
 もうろうとする意識を励まして、わたしはそれだけを何とか口にする。
 床に倒れたわたしの身体を、河山君が抱き起した。
「怪我?! 誰に……あいつか!!」
 一瞬でヨジャ・ブランチカという回答に達したのだろう河山君の腕が、強くわなないた。
「葵、連れてこれなかった。ごめん。でも、葵が、助けて、くれたの……鈴のワイヤー切ってくれて、河山君のところへ、行けって……」
「分かった。あとでゆっくり聞くから、今は何も言わないで。目を閉じて、身体から力を抜いて」
 言われたとおり、目を閉じるが、身体から力を抜いてしまったら魂まで抜けきってしまいそうで、なかなかこわばりを解くことができない。
 そんなわたしの頭を、河山君はそっと撫でた。
「大丈夫。必ず助けるから。守景さんも、――科野も」
 風兄さまのことを思い出した。
 上手に花冠を作れた時、頭を撫でて褒めてくれた。
 聖刻城から風環宮へ療養で滞在していた時、龍兄もいなくて眠れない夜、よく枕元に座って頭を何度も優しくゆっくりと撫でてくれた。
『大丈夫。何も怖くないよ。安心してお眠り』
 大丈夫。と、風兄さまは必ず言ってくれた。龍兄は決して言わない言葉。未来に確定事項はない。だから、無責任に大丈夫などと口にはできないのだと、頭の固い龍兄は言っていた。
 気休めでもいいから言ってほしかったのに、龍兄は頑なに聖には「大丈夫」と言ってくれなかった。振られ続けてたんだなぁ、私。
 でも、風兄さまの「大丈夫」は、気休めなんかじゃない。風兄さまはいつも必ず何とかしてくれる。聖のことを守ってくれる。だから、聖も安心して風兄さまには甘えられる。
「〈治癒〉」
 僅かな間であっても気が遠くなるほど長く感じた詠唱を経て、河山君が魔法の名を力強く言い放つと、ほわりと身体に係る重圧が軽くなった。身体の周りを温かな風がゆっくりと巡回し、手足のつま先から、髪の毛の先から包み込むように温かなものが入り込んでくる。
 ようやくわたしは体のこわばりを解いた。いや、強張りの方が溶けていったと言った方が正確かもしれない。
 大丈夫。
 今なら意識を手放しても、またこの身体に戻ってこられるだろう。
 脂汗が噴き出す感覚がなくなり、悪寒による震えが止まり、寒さが軽減されていく。ゆっくりと、身体がほぐされていく。命の呼吸を吹き込まれるように、身体の中を温かなエネルギーが巡っていき、すとん、と、浮ついていた何かが身体の奥底に収まって、わたしはパッと目を開けた。
「もう大丈夫そうだね」
 ほっとしたように口にした河山君の額には、さらりと汗が浮かんでいた。
「助かった、の?」
 疑問符はついていたが、答えは自分の感覚の方がよく分かっていた。
 助かったのだ。
 身体が軽い。痛みが退いている。身体の内から悪い炎が燃え立つような火照りも感じない。冷や汗もかいていない。
 抜けたんだ。死の境地から。
 わたしは一つ大きく息を吸い込んで、背中に痛みが走らないことを確認し、盛大に吐き出す。
 息をしている。
 生きている。
 そのとても単純なことに、安堵と喜びを覚える。
「あやつがやったのか」
 気づくと、苦い表情でメディーナがわたしを覗き込んでいた。
 つくづく、子供らしくない表情だと思う。これは大人がする表情だ。親しい誰かに罰を与えなければならないと、感情と理性とを切り離そうとするような表情。
 あやつとは、必然、ヨジャ・ブランチカだ。
 わたしは頷こうとしたものの、彼女の表情を直視できなくて視線を逸らすにとどめた。
 それを見てメディーナは深くため息を吐く。
「申し訳ない。臣下の過ちは主君の過ちである。わらわがしっかりと目を光らせていないばかりに、樒殿を傷つけることとなってしまった。樒殿だけではないな。葵殿もじゃ。かように迷惑をかけて申し訳ない」
 わたしの手を取り、メディーナは深々と首を垂れた。
「頭を上げて、メディーナ。河山君のおかげで助かったし。メディーナが謝ることでは……」
「いや、わらわの責任じゃ。わらわが力及ばぬばかりに、あやつには昔から無理ばかりさせてきた。じゃが、あやつは昔から無用なことはせぬ男じゃ。何より、風環の国にならぬことは何一つしなかった。じゃから……じゃが……」 
 わたしはメディーナの小さな肩に手を伸ばした。
 亡くした両親の代わりに小さい頃から育ててきたのが、風環の国の宰相であるヨジャ・ブランチカだと言っていた。信じたい気持ちの方が強いのだろう。だが、結果を目の前にその気持ちが揺らいでいる。
 まだ小さいのに。
「そなた、わらわがまだ小さいのに可哀そうだと思っておるだろう」
 見透かされてどきりとする。
「よいのじゃ。年が足りないのは昔から分かっておる。それでも、なさねばならぬことはなさねばならぬのじゃ」
 苦く笑っていた表情に、己を励ますように力強さが宿っていく。
「なさねばならぬことって?」
 わたしの問いに、メディーナは河山君を振り返った。
「先日、迷宮で樒殿に出会った日、本来ならわらわが風環王としてこの国の、ひいては神界、人界の空気を浄化すべく己が身を捧げるはずであった。しかし、ヨジャに阻まれてしもうた。結果、人間の身である河山殿に大きな負担をかけている」
「そのことならもう考えなくていいと言ったはずだ。おれは風の精霊王と契約して、ようやく風環法王としての役目を果たすことができるようになったんだ。メディーナだって、もう血晶石を持っていないんだから、神の身でもないのに〈浄化〉を使いつづけるなんてどだい無理な話だ」
「そうじゃったのぅ。そなたが剣で突き割ったのだそうだものなぁ」
 恨めし気なメディーナに河山君はちょっと言い淀む。
「そうでもしなければ、おれの魔法石の方に風の流れを移せなかったからだよ。それに、血晶石などなくても、おれがいれば……」
「河山殿は、死んだらまた、先々代のようにその身ごと風環宮の裏の迷宮にでも封じられるおつもりか?」
 メディーナの真っ直ぐな視線に、河山君はぐっと言葉に詰まった。
「血晶石は必要じゃ。それがなければ、河山殿が亡くなった後、また同じ悲劇が起きよう。わらわはもう、あのような人柱は見たくないのじゃ」
「それなら、風環王が血晶石を持つということも人柱と同じじゃないか」
「風環王はそれが務め。神界の八つの国を法王様から預かった我々王家は、法王様の帰還までその代わりを果たすのが歴代の役目」
「それなら、おれがいるのだから……」
「河山殿は人間じゃ。法王ではない。人界で人間として生まれたのじゃから、人間としての生を全うするのが務め。今生はたまたま人間として転生して、風環法王の記憶とそれにまつわるいざこざに巻き込まれてしまったにすぎぬ。本来ならば、記憶を消し、人界に帰さなければならないところ」
 記憶を消し、と言いながらメディーナはわたしをちらりと見る。
「ここは神界じゃ。神界の掟は神界に生まれた者が守り繋いでいくもの。河山殿に押しつけて終わりにできる話ではない」
「君に押しつけたくなかったから、ヨジャはあの時君を助けようとしたし、今だってここに閉じ込めているんだろう?」 
 河山君の言葉を聞いて、わたしはようやくぐるりと自分が今いる場所を見回した。
 豪奢な部屋だった。
 ベルサイユ宮殿のような目もくらむような黄金の装飾と青や赤が鮮やかな壁、白い大理石の床とふかふかの絨毯。部屋の隅っこには、窓の外を眺める逢綬の姿があった。
「ここは?」
「周方宮よ。風環宮の迷宮で気を失っている間にヨジャに連れてこられて、ここに閉じ込められている。つまらないから、逢綬に頼んで河山殿を連れてきてもらったのだ」
「……呼び出せるなら、出られるんじゃ……?」
 メディーナは、無言で窓辺まで行くと勢いよく出窓に飛び乗り、外に飛び降りようとした。
「ちょっ……」
 慌てて止める間もなく、メディーナは見えない壁に阻まれてゴロンと後ろに転がってくる。
「痛たたたた」
「大丈夫?」
 引き留めようと伸ばした手で転がってきたメディーナを受け止めると、メディーナは天井を見上げて盛大に笑いはじめた。笑って、笑って、ずるりと涙を流し落としていた。
「わらわは守られておるのじゃよ。いつまでたっても、どんなことになっても、わらわはあやつに守られておるのじゃ。あやつはのぅ、わらわに見られとうないのじゃ。己の為すことを、わらわに見られとうなくて、この部屋に閉じ込めたのじゃ。風環宮からわざわざ西の外れの周方宮に連れ出して、西方将軍の選考会の歓声ばかり聞こえてくるこの部屋にな」
 暗に選考会を見たいのに見せてもらえない僻みが見え隠れしている。
 昼間、闘技場の予選会で不戦勝となったヨジャ・ブランチカの真白い姿が目裏に蘇る。闘技場に集まった人々の歓声からは、絶大な信頼を勝ち得ているのがよく分かった。
「今の西方将軍はヨジャ・ブランチカではないんだよね? ヨジャ・ブランチカだったら、今日の昼の予選に出ているわけがないし。――今の西方将軍はヨジャ・ブランチカよりも強いの?」
 床に打った腰と背中を撫でながら、メディーナは困ったように考え込んだ。
「ヨジャが西方将軍の選考会に出場したのは、わらわが知る限りでは今回が初めてじゃ。それまでは宰相としての任務に集中したいなどと言って、周りからどんなに出場を打診されても決してうんとは言わなんだ。ヨジャが西方将軍も務めてくれれば、これほど安心なこともなかろうにとわらわも思っていたのじゃがの」
「それでも、今の西方将軍って七年間は同じ人が務めているのでしょう?その人も相当強いのでは?」
 メディーナは今度こそはっきりと首を横に振った。
「あやつは弱い。へっぴり腰の泣き虫じゃからの。うっかり一度優勝してしまったのだろうが、毎年義務感で選考会にしか出てこぬ。公式の祭典や何かの時ですら、ずっと姿をくらましたままじゃ」
 ふんっと今度は鼻息も荒く憤慨している。
「知り合い?」
「知り合いも何も、あやつはわらわの許婚じゃ。いつもヨジャの衣の裾の陰に隠れてなよなよしおって、わらわはあやつが一番好かん! 周方のことも西方の軍事のことも何でもかんでもヨジャに任せおって。ヨジャは今は風環の国の宰相じゃぞ? 周方の面倒まで見ている場合ではないというに!! ――して、ラシーヌは無事か?」
 怒り心頭でまくし立てた後、メディーナはふと呟くように尋ねた。
「え? ああ、うん。人界に一緒についてきちゃったから、昼に闘技場まで送ってきたよ。そのあと一人でどこかに行ってしまったけど」
「そうか。律儀なことじゃ。傷はもうよいのかえ?」
 傷? ああ、そういえば、メディーナを庇って葵の朱雀蓮を受けていた。メディーナが覚えているのはその後くらいまでなのだろう。人界に来た後、保健室で斎藤先生に手刀で気絶させられて眠り込まされていたなんて、とても言えない。
「多分」
 当たり障りない回答を口にすると、メディーナはついさっきまであれほど怒っていたにもかかわらず、安心したようにほっと息を吐いた。
「ラシーヌとはどういう関係なの? 風環宮の迷宮でも必死にメディーナのことを庇おうとしていたけど」
 メディーナはぐっとカエルでも呑み込んだような顔になった。
「べ、別に妾はあんな奴の心配などしておらん。大事な時に邪魔しおって」
 むせて咳き込み、ごまかすように咳払いに変える様を見て、ますます子供らしくないと思うと同時に、ちょっとかわいいなと思った。
「ふぅん。河山君呼ぶよりもラシーヌを呼んだ方がよかったんじゃない?」
 からかうように言うと、メディーナはまじめにむっとした顔でわたしを睨んだ。
「よいのじゃ。大事な時に邪魔したくない」
 大事な時に邪魔?
「それより、今日はもう遅い。樒殿もこの部屋で休むがいいぞ。人界に帰っても構わぬが、疲れているであろう? 〈渡り〉はそう何度も使うものではないと聞いている。あちらにゲストルームがある故、ゆっくり休めるじゃろう。逢綬、すまぬが河山殿を送って差し上げろ」
 メディーナに言われて、逢綬は窓辺からするりと降りて河山君の横に立った。
「河山君は出られるの?」
「出られぬのは妾だけじゃ」
 苦笑いしたメディーナはそっと河山君に近づくと、背伸びをして神妙な顔で耳元に何かを囁いた。
「わかったよ」
 河山君は愛らしいものを見るように優しく微笑む。
 メディーナは少し顔を赤らめ、顔を伏せた。
「え、なになに?」
「じゃあ守景、またな」
 軽く手を振った河山君を、麒麟に変じた逢綬が背に乗せてさっと窓から夜闇の中に飛び出していった。
「妾ももう寝る。子供の身体は夜が早くて困る」
 ふぁぁぁぁと大仰にあくびをしながら背伸びをして、メディーナは奥の寝室へと向かおうとする。
「待って」
「なんじゃ?」
「ヨジャ・ブランチカは一体何を考えているの?」
「それは妾が聞きたい。頼りになる宰相が闇獄十二獄主だなどと、笑えない話だ。しかも西方将軍を決める大会にまで出おって。妾はのぅ、あやつがいなくなることだけは避けたいのじゃ。父も母もいないが、今まで通りヨジャが傍で補佐をしてくれて、妾が大人になるまでしっかりと見届けてほしかった。見よ、この身体を。妾はまだ小さいのじゃ。大人になるまでにはまだまだ時間が必要じゃ。ほんに、口惜しいのぅ」
 くるりと自分の小さな体を見下ろして、メディーナは独り言ちるように最後は呟いた。
『聖、早く大人になるから。だから、行かないで』
 いつも背中を追いかけてばっかりだった聖は分かる。
 見上げるばかりの背中がどれほど遠いものか、庇われてばかりで見上げる背中がどれほど切ないものか、身体が小さいばかりに子供としか思ってもらえないことがどれだけ悔しいことか。
「子供のままじゃ対等になれないものね」
 パッとメディーナは顔を上げた。
「あやつは神代から生きてきていると聞いておる。そんなに長くこの世を生きてきたのであれば、さぞたくさんの美姫たちを見ていることじゃろう。そんなヨジャからすれば、妾なぞ取るに足りぬ子供に違いない。長い人生の中でかすかにすれ違った程度の存在にすぎぬであろう。見てもらえるなど思ってはおらぬ。じゃからせめて、親代わりでもいいから傍にいてほしい。忘れてほしくないのじゃ、妾のことを」
 メディーナは、ヨジャ・ブランチカよりも自分の方が先に老いて死ぬと思っていた。それはまだまだ先。もっと先までゆっくりと進むはずだった。それなのに今、ヨジャ・ブランチカは――
「生き急いでいると思うの?」
 メディーナは頷かなかった。頷かずに考えている。
「そなたたちが現れたからじゃ。きっと、そなたたちが現れたから、時代は変わろうとしているのじゃ。少し前、魔麗の国でも王族の子供たちが人界に赴いていたな。先日は鉱土の国で諍いが起きていた。その全てに闇獄主が関わり、そなたら法王の転生が関わっていたというではないか。いつか我が風環の国にも来るのではないかと思っておった。来るなら、絶対にあの迷宮の主の元に集うのであろうと、思っておった」
 ぽろり、とメディーナは笑った顔をわたしに向けながら一粒の涙を零し落とした。
「あの迷宮の主は、妾の初恋じゃ。初めて迷宮の中に入った時、中央まで血晶石に導かれるようにして辿り着いて見た、石壇の上に捧げられた主は、この世で最も美しいものに見えた。静謐な空間で時を止められて眠るその姿は、この世で最も貴いものに思えた。ヨジャはのぅ、迷宮の主様を直視しようとしなかったのじゃよ。見惚れる妾を憐みの目で見ていたが、同時にけして主様をしっかり見ようとはしなかった。妾を見ながら視界の端に入れているだけじゃった。何かあるのじゃろうとずっと思っていたが、まさか風環法王の前世とは思わなんだ」
 くっくっくっと、メディーナは笑いを押し殺す。
「闇獄十二獄主の〈欺瞞〉は魔麗法王に倒され、〈怨恨〉は鉱土法王に倒された。ヨジャがここにきて〈猜疑〉を名乗ったというのなら、それを倒すのはきっと河山殿なのじゃろうのぅ」
「メディーナ」
「そして、ヨジャはそれを望んでいる。あやつはきっと、風環法王に倒されるために今の今まで長い時間を生きてきたのじゃ。その身に猜疑心を寄り集め、燻ぶらせ、飼い馴らしながらな」
「そんな……」
「あやつはヒールには向いておらん。下手くそすぎて見ていられぬ。じゃから、こうやって隔離したのかもしれないがのぅ。あやつも見られたくはないのじゃろう。己らしくない姿を」
 己らしくない姿。
「妾はもう休む。そなたも好きにするといい」
 そう言うと、メディーナはぱたんと寝室の扉を閉めてしまった。
「おやすみなさい」
 わたしは閉じられた扉に向かって小さく呟く。