聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第5章 泥の花

5(樒)
 湖は夕日が照り映え、穏やかな波が岸辺には寄ったり離れたりを繰り返していた。
 葵を連れてきた逢綬は、裸足で無邪気に浜辺に足跡を残し、波打ち際で小さな波を楽しんでいる。楽しんでいるといっても、表情に喜びが溢れ出ているわけではない。無表情のまま、ただ無心に引き返す波を追いかけたり、脛まで水に呑み込まれたりしながら、飽きることなく水音を立てているのだ。
 葵は逢綬から降りるなり、わたしには目もくれないで河山君のいる方へと駆けていった。その先では、河山君が崩れた廃材の前で立ち尽くし、静かな風の唸りに泣き声が聞こえた気がした。やがて廃材の中にしゃがみ込み、何かを見つけたようだった。
 葵が河山君に声をかけたのを見届けた後、わたしはまた湖の川面に視線を移した。青い空を移していた湖面は、静かに西日の色味に染まっていく。ばしゃばしゃと逢綬の水遊びの音だけが湖面を、風を揺らす。
 やがて逢綬はどこからともなく金色の笛を取り出し、唇に当てた。
 紡ぎだされる音色は明るく澄んで、聞く者の心を吸い込み溶かしていく。
『風は空と大地の間を環り流れて 清らかなる涼を運ぶ
 澱みを取り除き 吹き清め 新たなる命を運ぶ』
 口ずさんでいたのは、いつだったか風環の国で行われた豊穣祭で歌った歌だ。
『芽生えし命は空へと向けて手足を伸ばし 美しき花を咲かせて微笑みを誘う
 ほころびし口元にそっと口づけて 新たなる命を育もう
 実りし命の種はたわわにしなり 再び大地の糧と還り巡らん
 我らがこの手に恵みいただきしは 数多の命の巡りの一部なり
 感謝せよ 我らが命の糧となりしものは この世の恵み
 風と大地に育まれし実りいただきて いつか我らも命の巡りの中に還らん
 いつかその日が巡り来るまで 有り難き恵の糧をこの身に取り込まん』
 豊穣祭のメインテーマとなる歌は、曲は変わらないけれど、歌詞は開催される国に合わせて毎年変わる。風兄さまの国で開催されたあの時の歌は、風環の国を寿ぎながら紡がれた歌だった。
 ざぁぁぁぁっと、ひときわ強めの風が吹いていく。
 逢綬が、笛から口を離してニコニコとわたしを見ていた。
「ありがとう」
 透き通った声が気持ちよく風を揺らして耳元まで届く。
 わたしは逢綬を仰ぎ見る。
 逢綬は笑っていた。
 満足そうに、にっこりと。
 めったに聞くことのできない逢綬の声。その上、これほどかわいらしい逢綬の笑顔を見たことがあっただろうか。そもそも、聖の時から逢綬の声など聞いたことがあったかどうか。
 なんか、役得な気がする。
 逢綬に笑いかけると、逢綬はもう一度微笑んで、再び笛に唇を当てがった。
 懐かしいメロディが流れ出す。
 愛優妃の子守歌。
 逢綬なりに技巧を凝らしてアレンジを利かせている分、曲に厚みが出て切なさと温もりに溢れている。
『眠れ 眠れ 愛し子たちよ
 希望に溢れた明日を夢見て
 この腕の中で 安らかに』
 夕焼けに馴染む切ないメロディライン。劇的に盛り上がるサビは感情のまま歌っていると涙に喉が詰まる。
 嫌いな歌だったのにな。
 今はもう、生まれ変わってちゃんとお母さんがいるからだろうか。歌おうと思えば歌えるものだ。
 愛優妃の腕は聖だけのものじゃない。実子である法王八人だけのものじゃない。神界、人界、闇獄界、全てに差し伸ばされる腕だ。その腕を独り占めすることは許されない。
 それでも、独り占めしたかったのだ。聖はそれでも、お母さんに抱きしめられたかった。その腕の中で、安心して明日を迎える眠りにつきたかった。
 寂しくて、寂しくて、寂しくて。どんなに統仲王が甘やかしてくれても、どんなに龍兄に恋心を募らせても、炎姉さまや風兄さまや鉱兄さまに可愛がられても、パドゥヌにしっかり育てられても、心の中のどこかに満たされない部分が埋められないまま空虚に取り残されていった。赤ちゃんの時の記憶なんてないもの。抱きしめられた確かなぬくもりを、その時だけ特別に覚えていることなんてできない。毎日の積み重ねの中で、何度となく抱擁を繰り返しながら、幾度となくその声を聴きながら、明日を迎えていかなければ意味がないのだ。
 この歌は、そんな寂しさを思い出させる。
 泣くこともできず、我慢するしかない小さい頃の記憶を蘇らせる。
 だから余計、切なくなる。
 うっすら目頭に溜まったものを指の甲で拭っていると、逢綬はまだ笛を吹きつづけていた。調が少し上がり、知らないメロディラインが続く。
『今日という日に別れを告げて
 未だ見ぬ明日に想いを馳せましょう
 空は青く 緑の大地に明るい光が降り注ぎ 吹き渡る風が麦の穂を揺らす』
 歌声の主は、わたしじゃない。
 わたしの横を通り過ぎ、逢綬と視線を見交わせる場所まで行って立ち止まる。
『たなびく雲は流れ せせらぎは穏やかに歌い 鳥は囀る
 両腕を広げ 空を仰げば 眩しい光に目がくらむ
 胸いっぱいに息を吸い込んで
 さあ 明日への架け橋を渡りましょう
 明日もまた 笑顔で過ごせるように 祈りを込めて』
 歌声は優しく夕日に溶け、湖へと滲んでいく。
 葵。
 名を呼び掛けて、口を噤んだ。
 また、あんな冷たい態度を取られたらどうしようもなく辛くなる。
 笛から一度唇を離した逢綬は、再び笛を構えると今度はぎゅっと胸を締めつけるような曲を吹き鳴らしながら、葵とわたしを残して去って行ってしまった。
 葵。
 もう一度呼びかけようとするも、やっぱり声は呑み込まれて出てこない。
「知らない? 愛優妃の子守歌に続きがあるの」
 何事もなかったかのように、くるりと葵は振り向く。
 怒ってはいない。穏やかでどこか憐れむような笑みを浮かべてわたしを見ている。
 わたしは、口を噤んだまま葵を見つめ、少し視線を落として小さく首を振った。
「だよね。龍はすぐ寝ちゃう子だったし、風だって寝つきよさそうだったし」
 わたしは顔を上げ、葵の表情を窺う。
 葵はまっすぐにわたしを見つめ返した。
「あたしは知ってる。あたしは、眠らない子だったの。だから母上は苦労して、子守歌の続きまで作って歌ってくれた。だから、これはあたしだけの歌。愛優妃があたしのためだけに歌ってくれた歌」
 いいでしょう、と言わんばかりに得意気に葵は笑った。
「双子なのにね、龍とは全然似てないの。肌の色も髪の色も瞳の色も性別さえも違ったけれど、それでも双子だからって周りからは一緒くたにされてた。同じじゃないってわかってくれていたのは母上だけ。おっぱいだって龍はあまり吸わなかったけど、あたしは龍の分までたくさん吸って、小さい頃は龍よりも体が大きいくらいだった。好奇心も龍の五倍はあった。どんどん家の外に出て行きたがったし、いろんな世界を見たいと願った。母上はいつだって苦労していた。お転婆なあたしをどう手綱を取っていいか、きっと悩んでいたと思う。でもそんなことはおくびにも出さないで、毎日毎朝『おはよう、炎! 今日もよく眠れた?』って言ってくれるの。あたしが毎朝目覚めることを心待ちにしてくれていたの」
 不意に葵の目は暗く翳り、口を噤み、わたしを見た。
「母上はきっと、あたしだけじゃなく、姉弟一人一人にその子にしか見せない思い出をくれている。龍にだって、あたしが知らない思い出を与えていると思う。長男の育兄さまなんて初めての子供だもの。きっと特に特別だったと思うわ。海姉さまだって初めての女の子だし、女同士で共通点なんか見つけて親友のようにやっていたのかも。麗はああ見えてとっても甘えっ子。わがままぶりがそれをよく表しているでしょう。いつまでもお世話してくれる人がいないとだめなのよ、あの子。鉱のあたりからは少しずつ寂しい思いをさせてきたかもしれないわね。神界という世界ができあがって、法王の制度が完成していたから、割と小さい頃に母上とは引き離されて一国一城の主にされた。風は――むしろ母上の方が寂しそうだった。あの子は早くに自立してしまったから、いつまでも母親ぶっていられなくなったのよ。ちょっと、かわいそうだった。幼いうちに子を手放すというのがどれだけ辛いか、その頃には分かるようになっていたから。でも、仕方ない。その頃には母上は、母であることよりも愛優妃であることを選んでいたから」
 葵は一気にそう語ると、一息置いてわたしにこう、呼びかけた。
「ねぇ、聖」
 と。
 わざとだと、思った。
 わざと、葵はわたしのことを「聖」と呼んだ。
 わたしは、応えなかった。
 わたしは聖じゃない、と言いたかったわけじゃない。単に、これは応えなくていい呼びかけだと思ったから。
 葵は少し苦笑した。
「あたしは貴女が可愛かった。可愛くて可愛くて、目に入れてもいたくないくらい可愛かった。だって、初めての妹だもの。やんちゃで何考えているかわからない弟たちとは違う。本当はあたしが育てたかったくらい、貴女が欲しいと思った。でも、龍に預けてよかったと思ってる。あたしが貴女を引き取ってしまったら、きっと代わりにしてしまっただろうから。それに、本当に心から慈しめるか自信がなかったから」
「それは、ヴェ……」
 ヴェルパの代わりということ?
 そう尋ねようとして、あたしと葵との間に罅が入るのが見えた。
 気持ちのつながりとか、仲、という意味じゃない。本当に視界に罅が入ったのだ。
 葵の手に朱雀蓮が握られていた。朱雀蓮の穂先は今さっき宙を切り裂いてきたかのように揺れている。
「可愛い末の妹さん。貴女は幸せだったのよ。みんなに守られて、慈しまれて。それもわからないくらい自分だけが不幸だと思っていたみたいだけど、貴女はとても恵まれていたのよ」
 朱雀蓮の穂先が飛んでくる。
 わたしは茫然と近づいてくる炎の先を視界に入れたまま固まっていた。
 葵が、わたしに朱雀蓮を向けた? どうして?
 どうして、葵がそんなこと言うの? 聖は幸せだったって? 恵まれていたって?
「何も知らないくせに」
 つい、心の声が口からこぼれだしていた。
「〈隔壁〉」
 心のまま、わたしは葵と自分との間に次元を断絶させて作った壁を拵える。
 朱雀蓮は見えない壁に穂先を呑み込まれ、葵の手元に戻ることも叶わず短く断ち切られた状態で、残った部分を大地に垂れた。
 葵はすぐに朱雀蓮を回収し、わたしに向かって駆けてくる。このまま〈隔壁〉に突っ込まれては、葵まで消滅してしまう。
「〈結界〉」
 〈隔壁〉ごと〈結界〉で覆いなおす。
 葵は構わずに突進し、〈結界〉に朱雀蓮を剣のように固めて両手で突き刺した。
 〈結界〉は揺らがない。罅一つ入らない。朱雀蓮の先はめり込むこともなく〈結界〉に弾かれ、葵は突き刺した勢いをそのまま返されて後ろにたたらを踏み尻もちをつく。
 悔しそうに顔を歪めているかと思いきや、葵は苦笑いしていた。
「聖さえいたら」
 〈結界〉に包まれるわたしを見上げ、葵は朱雀蓮を杖に立ち上がった。
「聖さえいたら、神界はまだ続いていたかもしれない。第三次神闇戦争だって、負けることはなかったかもしれない。聖さえ生きていたら、闇獄界を止めることができたかもしれない」
 わたしは壁と結界で隔てたまま葵を見下ろす。
「葵らしくないよ。過去のことを言ったって、もう戻れないんだよ。やり直しなんてできない。それに、聖は第三次神闇戦争の頃にはもう、立ち上がることもできなかったよ」
「やり直すんだよ。今からでも、まだやり直せる。あたしは炎で、貴女は聖なのだから。あたしたちは永遠の魂を持つ神の眷属。死ぬことはない」
 対峙する葵の全身を、この神界に全く似つかわしくない漆黒の瘴気が溢れ取り巻いた。
「葵?!」
「誰にも愛されていなかったのは、あたし。あたしは、誰にも愛されていない。小さい頃から、ずっとずっと。龍ばかりが愛されてきた。だから、あたしは人界の野に放たれ、大地を焼き尽くし、闇獄界を作ることに利用された。母上さえも、あたしを道具として扱った。あたしは神の子の風上にも置けないただの道具。闇獄界を作るために魂を削られた、ただの道具。それでも死ぬことは許されない。この身には神の血が流れ、この魂は神にふさわしい永遠を宿しているのだから。だったらせめて、あの子供と約束したようにあの子供が剣を持たなくてもいい世界を作りたかった。これ以上、自分のようにつらい思いをしなくてもいい人が増えないように、皆が皆、笑顔で過ごしていくことができるように。あたしは、そんな世界を作りたいと思った。」
漆黒の瘴気が絡みついた朱雀蓮が〈結界〉に衝撃を与え、時空を揺るがす。
 葵だと思ってどこかで手加減していた分、〈結界〉が綻びるのは早かった。朱雀蓮の先よりも早く漆黒の瘴気が綻びた隙間から流れ込み、〈隔壁〉の両側から回り込んでわたしに襲い掛かる。
「科野、何やってるんだ!」
 河山君の怒号が葵の背中の方から飛んでくる。その間にも葵から伸びた瘴気が足に胴に絡みつき、腕をがんじがらめにしていく。
「〈木枯らし〉」
 河山君の声に背後に一瞥を投げ、呆れたように葵はわたしを見て言った。
「ほらね、何をやったって、いつだって、貴女のところには救いの手が差し伸べられる」
 風がごうと唸りを上げ、わたしの身体に絡みついた瘴気を払っていく。
 息が荒くなってへたり込んだわたしの前に、葵から庇うように河山君が割り込んだ。
「河山、あたしのこと、やっぱり好きじゃないんだ」
 自嘲するように、それでいてまだ試すように葵は言った。
「悪いことまで許すことが愛だとは思わない」
「愛。愛? 愛! 好きかどうかわからないって言ってたくせに、愛?!」
 葵はヒステリックに叫ぶ。
 河山君は、どうしたらいいかわからないというように、少したじろいだ。
「ほら、呆れてる。こんな手のかかる女、何考えてるかわからないような女、もうほっときなさいよ。お互い、もう楽になったっていいじゃない!」
 河山君は思案するように言葉を探す。
「さっきは科野だと思ったんだけどな」
「わ、わたしも葵だと思ってた」
 思わず河山君の独り言だったかもしれない言葉に反応してしまって、しまったと口を押さえる。
「いいよ、気にしないで。こんな炎、おれは見たことあるんだ。守景、聖にとって、炎はいいお姉さんだった?」
 何か特別なエピソードを思い出すまでもない。
「とっても! 聖は炎姉さまが大好きだった!」
 河山君の前にいる葵にも伝わればいいと、わたしは少し声を張る。ちなみに、わたしはこんなヒステリックな炎姉さまを見たことはない。
「それなら炎はうまく“炎姉さま”をやれていたということだな。うまく、いやちゃんと、か」
 河山君はくすくすと笑って、葵と向き合うと、未だ漆黒の瘴気を噴き出しつづけている葵に向かって歩を進めはじめた。
「その瘴気は何? 何の毒に冒されてるの? 嫉妬? いや、違うか。君はずっと試すようなことばかりしているから。ヨジャにもらったの? ――〈猜疑〉」
 答えるように葵からさらに瘴気が噴き出す。
「ヨジャもひどいね。君のことは特別愛しているんだと思っていたのに。結局、ヨジャは君を駒に使ったのか」
 葵の表情がピクリと動き、顔がぐしゃりと歪む。
「いつから? いつから、そんなことに?」
 重ねてわたしが問うと、ちりんと音がした。
 鈴の音。
「うそ。葵、河山君からもらった鈴は、鳴りだしそうになった時にしっかり踏みつぶしていたのに」
 思わず言ってしまってから、「あ。」と口を押えるも、河山君がとてつもなく微妙な表情でわたしを振り返っている。
「あ、いや、ごめん、えっとあれは、露天商のお姉さんっていうか、ラシーヌに鈴のこと問いただしに行ったときに、いきなり鈴が鳴り出して。葵の鈴も鳴り出して、葵、茉莉ちゃんから鈴を壊せばいいって聞いたって言って……」
「はぁ。その時は正常だったわけだ。おれからもらった鈴、踏みつぶせるくらいには」
 やばい、怒ってる怒ってる。
 でも、あの時はそれしか方法がなかったし、鈴を壊せたからひとまずあそこではヨジャに対抗しようという気にもなったんだけど。
 鈴の音は幾重にも増えていく。
 わたしは耳を両手で塞ぎ、河山君もまた、耳を塞ぐ。
 鈴の澄んだ音が間隔を狭めながら鳴り響き、ついに葵を取り巻く瘴気の中に五つの鈴が浮かび上がった。
「いつの間にこんなに……」
「あいつといる時間は長かったんだ。これくらい仕掛けられていたって、驚くに値しない」
 冷静を装って言っているけど、河山君は結構怒っているようだ。葵が自分があげた鈴を壊していたことに対して、ではなく、おそらく風環宮の裏の迷宮から葵を連れて行ったヨジャ・ブランチカに対して。
「守景、〈浄化〉頼めるか?」
「分かった!」
「おれはその間、科野の攻撃を防ぐ」
 鈴の音に踊らされるように朱雀蓮をしごいて飛び出してきた葵に、河山君はさっき試合でも使っていた本物の剣で立ち向かう。対峙するなり、葵の朱雀蓮が河山君の剣の切っ先に絡みつき勢いよく剣を搦めとろうとするが、河山君は剣の角度を変えて力をいなし、朱雀蓮から剣の自由を取り戻す。
 その間、わたしは二人の攻防を見守りながらも呪文を唱える。
『清き場所を住処とする時空の精霊たちよ
 穢れし闇を払い 光射す清浄な空間を取り戻せ』
「〈浄化〉」
 時空の精霊たちは一斉に葵を取り囲む瘴気へと流れ向かい、黒く染まった瘴気を一度その身に取り込み、浄化して吐き出していく。しかし、葵から噴き出す瘴気の量は尋常ではなく、〈浄化〉がすぐに終わらないため、どんどんわたしの体力も奪われていく。
 呪文が短い割に、体に負担のかかる結構な大技だ。
 あっという間に冷や汗が脂汗に代わり、眩暈を起こして座り込む。
 おかしい。たいていはこんなに浄化に力を持っていかれることはないのに。まるで葵の内部に消えない獄炎でも燻っているかのようだ。
 まさかね。
 葵の頭上でシャンシャンと鳴り響く五つの鈴に目を移し、葵は操られているだけだと思いなおす。
 それなら、どうしたら葵の意識を取り戻せるだろうか。
 河山君と葵の攻防は苛烈を極めていく。葵は全く手加減をする気配もなく朱雀蓮を揮い、河山君は瘴気に溺れそうになりながらも剣で朱雀蓮を振り払う。
 わたしは改めて河山君の周りに結界を張り巡らせる。瘴気が河山君の呼吸を妨げないようにするためと、葵の朱雀連から守るために。
 戦いやすくなったのか、河山君は一気に葵の懐まで飛び込んでいく。
 金属と金属がぶつかり合う重い音が鳴り響く。
 河山君の剣と葵の朱雀連のグリップとがぶつかり合う音だった。
「これが、君の作りたかった世の中か?」
 間近で顔を向け合い、睨み合いながら河山君は葵に訴えかける。
「これが、君が目指していた世界なのか?!」
 その言葉の意味を、わたしは知らない。
 だけど、確かに葵の目は見開かれ、一瞬河山君に押し切られかけるほど手元が緩んだ。
 ただの鏡のように平板になった葵の目に河山君が映り、葵は小さく口を開く。
「違う」
 掠れた声が押し出される。
「違う、違う、違う! あたしは、あたしは駒なんかじゃない! 誰にだって使われてなるものか! あたしは……!」
 葵の頭上の鈴は耳を塞ぎたくなるほどに自ら揺れて鳴り響き、葵の意識を攪乱しようとしていたが、わたしがふと思いついて〈隔離〉と唱えると、五つの鈴は葵の頭上からきれいさっぱり消え去って、僅かに歪んだ空間もすぐに平常に戻った。葵はふと正気に返った顔になり、「ごめん」と呟くと、河山君の腕の中に倒れこんだ。
 瘴気は溢れ出しつづけている。
 すぐに人界に連れて帰りたいところだけど、このまま連れ帰ったら、汚染されやすい人界の方があっという間に瘴気を拡散してしまう。
「どうしてこんなに……」
 わたしは思わずつぶやいてしまったけれど、河山君はただ苦い顔をして見ているだけだ。
「何か知ってるの?」
 おずおずと河山君に尋ねても、河山君は首を横に振るだけだった。
「本当に?」
 思わず深入りするような聞き方をしてしまったわたしに、河山君は苦笑した顔を向ける。
「確かなことは、おれは何も言えない」
 膝の上に葵を抱きかかえたまま、河山君はどこか悲しそうにそう答えた。
「それはそうだろうな。決して彼女はお前には語るまい」
 別な声が暮れなずんだ夜空を切り裂くように、ピリリとした殺意とともに割り込んできた。
「ヨジャ・ブランチカ……と、逢綬?」
 ヨジャ・ブランチカの隣一歩後ろには、横笛を手にしたままの逢綬が付き従うように控えている。
「逢綬が呼んできたの?」
 まさかと思いながら尋ねるも、逢綬からの返事はない。ヨジャ・ブランチカとは違い、ぼんやりとした表情のまま凪いだ湖面の彼方を眺めている。
「鈴をどこにやった? 聖刻法王」
 思いがけずわたしの方に飛んできたヨジャ・ブランチカの声に、ぞくりと背中が震えた。
 抗しえない恐怖が背中から覆いこむように這いずり回りはじめる。
「どこになんて、わたしも知らないわ!」
 絞りだした声が震えた。
 ヨジャ・ブランチカは呆れるようにわたしを見下ろし、ため息をつく。
「飛ばした場所がわからないということが、どれだけ危険なことか分からないわけがないだろう?」
 それはもちろん、分かっている。でも。
「それを貴方が言うの?」
 震える声を励まして、わたしはびしっと言う。
 しかし、ヨジャ・ブランチカは呆れた表情を取り繕いもしなかった。もはやどちらが悪役かわからない。
「まあいい。鈴の音など、取るに足らない」
 薄い唇が、三日月のように弧を描いて嘲りを含んだ笑みとなり、慄く間にわたしはヨジャ・ブランチカに腕を掴まれていた。
「土産があれば、それでいい」
 真っ黒い瘴気がヨジャ・ブランチカごとわたしをぐるりと巻き込み、わたしの足はふわりと大地から離れていた。