聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第5章 泥の花

4(宏希)
 ホアレン湖まで。
 どうして逢綬ではなく、守景に頼んだかって?
 何も知らない人の方がいいと思ったんだ。
 あの場所を思い出の中に浸しておくために、当時のことを知っている逢綬には一緒にいてほしくなかった。逢綬が一緒にいたら、いや、逢綬と二人でホアレン湖に行ったら、まるであの夜のやり直しが始まってしまうような気がしたから。
 守景は呆れながらも〈渡り〉を唱えてくれた。
 彼女の時空を渡る能力は、逢綬で周方から火炎の国と育命の国との間にあるホアレン湖まで飛ぶよりも比較にならないほど速い。それはそうだ。距離という物理的概念を捻じ曲げてしまうのが守景の能力なのだから。
 あまりにも一瞬で目の前に現れた光景に、おれは眩しさに目を眇め、手を額にかざしながらも、目を奪われ、茫然と立ち尽くした。
 森に囲まれた小さな湖。きらきらと光を受けて輝く水面、碧い湖水、囀る鳥たちの声、青く茂る木立と雲一つないまっさらな青い空――白い太陽。
 額にかざしていた手からも力は抜け、おれはその光景に溶け込むように立ち尽くした。
 風がそよぐ。
 頬がひっそりと一筋冷たく乾いていった。
 分からないだろう。誰にも、この気持ちは。
 あれほど毎晩夢に現れた場所だったというのに、確かにこの湖の畔で生活する実体験を伴った夢だったというのに、現実は、これほど違う。
 ただいま。
 おかえり。
 身体が、心が、この景色の中に溶けてしまいそうになる。
 あの夢の続きをここから始められるんじゃないかって、もうキースでもないくせに思えてくる。
 おれも、科野のことは言えないのかもしれない。
 どこかで、キースに戻りたがっていたのかもしれない。
 人生を途中で終わらされたキースに戻って、あの夢の続きを叶えられたなら。
 炎さえいれば、もう何もいらない。永遠にこの湖の畔で、誰に見咎められることもなく炎と他愛ない毎日を送ることができていたなら。おれ一人年を取って、炎だけが若いままで。そんなことすら死ぬ直前まで気づかないほど、おれは溺れて生きることができただろう。
 叶えられない日々を思って流す涙に意味はないと、誰かは言うだろうか。
 でも、これは夢だったんだ。
 おれの夢。キースの夢。風の、夢。
 おれは、戻りたかったんだ。ずっと、この場所に。
 見回すと、歩いて近づけそうな場所に朽ちて崩れた小屋の成れの果てがそのまま残っていた。その小屋近くの湖面には、一面、赤い花が咲いている。紅蓮の花。
 胸をぎゅっと鷲掴まれた気持ちのまま、おれはそろそろとその崩れた廃材が積み重なる場所へと引き寄せられる。一歩進むごとに、胸を掴む力は強さを増し、締め付けられるように苦しくなり、果ては息を止めて、おれはその小屋の前に立った。
「ああ」
 堪えきれなくなった感情が、何とも言えない呻きのような嘆きのような音を立てて喉から口へと流れ出ていく。
 悲しくはなかった。
 喜ばしくもなかった。
 ただ、息をついた。
 胸いっぱいに溜まった感情を吐き出した。
 取り戻せないくらい積み重なった時の流れを見せつけられて、おれは息を吐くしかなかった。諦めるために、踏ん切りをつけるために、溜まりに溜まった過去の記憶を吐き出した。
 仕方のないことだったのだ。
 どだい、おれが幸せになろうなどと思うことが無理なことだったのだ。
 ホアレン湖に投げ込んだはずの周方王の剣は今、おれの魔法石の中にある。
 ほら、捨てても戻ってくるんだ。罪を償え、と。犯した罪は消えないんだぞ、と。
『お前に償いを命じる』
 周方宮でエマンダを殺し、父を殺せずに帰ってきたこの場所で、裁きの女神は言った。
『生きろ』
 と。
『いつか――そう、いつか。お前のような子供が剣を持たなくてもいい世界を作ってやる。その時までお前は生きて、それを見届けろ』
 炎と初めて会った時、おれはまだ子供だった。
 彼女だって、子供だった。そう年の違わない少女だった。
 それなのに彼女は、この世の全ての罪を背負ったかのように、全てを見てきたかのような悲壮な目でこの世界を見つめていた。
『約束だ。いいか、約束だからな!』
 そうだ、約束したんだ。
 一方的に押しつけられた約束だったけれど、それは命令ではなかった。
「おれは、まだ生きてる、ということか」
 約束はまだ続いていると、思っていいのか。
 記憶が戻ってしまった以上、おれの中でキースと風は最早知らない誰かではない。キースの原体験に振り回され、風に与えられた異質な力を振りかざして、おれは生きていかなければならないのだ。
 それは、キースと風が生きていないとどうして言えよう。
 科野もそうか? そうなのか?
 おれは、おれだ。河山宏希だ。でも、その河山宏希は、キースと風も混じってできている。幸い、主導権は自分にある。彼らは大人しく沈黙を守り、それでいて強烈に影響を与えてきている。おれの人生は河山宏希が生まれた時から始まっていたはずなのに、その前に風環法王の歩んできた道があって、その風環法王の前にキルアス・アミルが歩んできた道があった。それぞれの道は生まれるための暗いトンネルを潜る度に、新しい名前と新しい身体(うつわ)を与えられて更新されてきたが、振り返れば一本、遥か遠くから続く道のりだ。
 その果てに、時の流れに朽ちたこの小屋が存在している。
 深く息を吐き出した。
 混沌としたこの想いを胸の内からきれいさっぱり追い出してしまうために。
 でも、息をすればまた胸は膨らむ。居残った思念を、再び息に混ぜて吐き出す。
 天を仰ぎ、息を止め。
 見上げた空の青が歪んだ。
 留めきれなくなった想いがぼろりと零れる。
 制御を失って嗚咽が込み上げる。
 胸を痛めて唸り声が溢れ出す。
 どんなに天を仰いでも、次から次へと溢れ出す。
 この声は、風に乗って守景がいる場所にも届いているだろうか。
 ここに着いてから、一言も発さぬまま物珍しそうに湖を眺めていた守景。
 聖は知らない。ここがおれにとってどういう場所か。おれと炎にとってどういう場所か。
 来たことすらないはずだ。ただ、地図上に記された湖として覚えていただけだろう。山脈の中腹、深い森の中、こんな場所に訪れる者はまずいない。人里にたどり着くにはこの山を下りていくしかない。聖は、聖刻城から天龍城と風環宮と天宮とを行き来することしか知らなかったはずだ。しかも、今いる場所と目的地とを瞬時に渡る能力を持っている聖にとって、ここは捻じ曲げられた空間の一部に過ぎず、意識にすら上らない場所。知るはずのない場所。
 守景は、ここについてからおれに一切声をかけてこなかった。
 廃材が積み重なるだけになったこの場所に向かった時も、何も言わず、ついてくることもなかった。
 何も知らなくても、おれが行きたがったことで、何かある場所だと察したのかもしれない。
 今だって、離れた場所からこちらではない別の場所を見ている。
 おかげで、おれは存分に泣くことができた。
 泣きたかったのだ。おれは。
 押しつぶされそうなほど青い天空の下でちっぽけな子供に戻って、おうおうと声を上げて、思う存分おれは泣きたかったのだ。
 キースの分まで。風の分まで。おれに連なるこの時間を生きてきた自分のために。
 そして、取り戻せないことを自覚する。
 瞼と喉が痛くなった頃、おれはふらふらと、恐る恐る朽ちた板が積みあがる場所の前で跪いた。
 昔のままならば、ここは鍜治場だったはず。
 炎と一緒になることを夢見て、ひと時指輪を打った場所。
 廃材をどけ、細工台や竈があった場所の土を撫でる。
 ざらざらな土ときめ細やかな灰とがないまぜになった土の中で、ふとごつりとしたものが指に当たった。
「何だ?」
 失望に備えて固くなる心を希望に突き動かされて、指に当たった物の周りの土をかき分ける。
 そんなはずはない。
 炎の胸にはいつも二つの指輪が首から下げられていた。
 白金の、どちらも見覚えのあるものだ。内側に彫ったイニシャルだって確認した。他の男が心を込めて鍛造したその指輪に、口づけだってした。炎にとって、あれはお守りだった。キースに想いを誓った証だった。嫉妬に駆られて外そうとすると、彼女はいつも怒り狂った。彼女にとってキースは絶対で、風の入る余地などどこにもなかった。
 ずっとずっと、永遠にそんな時間が続いていくんだと思っていた。
 最後に彼女を抱いたときだって、その胸には二つの指輪が踊っていたはずだ。忌々しくおれはそれを見、彼女に口づけた。
 その指輪が、どうしてここにある?
 ごろりと、灰と土にまみれて二つの指輪が現れる。
 細かい汚れを拭き取ってみると、予想通り一つには“K→E”、もう一つには“E→K”と刻まれていた。
「なん、で……どうし、て……」
 決して外そうとしなかったのは君じゃないか。
 どうしてこんなところに埋められているんだ。
 ヨジャか? ヨジャが彼女の死後、彼女の遺体からこの二つの指輪を外してここに埋めたのか?
 いや……彼女の遺体は天宮の地下に安置されたんだ。あの場所には統仲王と法王しか入れない。いくら闇獄中に獄主の一人であっても、力では入れる場所じゃない。
 じゃあ、安置される前に奪った?
 いや、待て。あの第三次神闇戦争の時には、とうにヨジャ・ブランチカは神界にはいなかった。闇獄中に獄主として再びおれに見えたのは、――闇獄界の入り口でのことだった。
 じゃあ、誰が。
「見つけたんだね」
 思いがけない声が、肩越しに降り落ちてきた。
 振り返ると、守景がじっとおれの手の中の指輪を見ていた。
「なんで、知って……」
「炎姉さまに頼まれて、連れてきた」
 その時の情景が重なって見えているかのように、守景はぼんやりとした目で呟いた。
 おれはもう一度掌の上に乗せた二つの指輪に視線を落とし、守景を見上げる。
「どういうこと?」
「けじめをつけたいから、って、言ってた」
「いつ」
 尋ねる声が少し震えた。
「もう、終わりにするんだって。今度こそ終わりにするんだって、ずっと、言い聞かせるように唱えてた」
「だから、いつ!?」
 声を荒げたおれに、守景はびくりと肩を震わせて、憐れむようにおれを見た。
「第三次神闇戦争が始まって少しした頃。亡くなる直前。聖はもうほとんど起き上がれなくなっていたけど、どうしても頼むって言われて。玄熾じゃダメなんだって。何も知らない人の方がいいって。玄熾にも宿蓮にも知られたくないって、言ってた」
 炎が、亡くなる直前に?
 聖がもうベッドから起き上がれないほど、病が悪化していたのは覚えている。見舞いに行くのも辛くなるくらい痩せ衰えて、見るからに土気色の皮だけがどうにか骨に張りついているような有様だった。左右で色の違う髪もてんでばらばらに抜け落ちて、見るも無残な姿で、滅多に開かなくなった瞼も、開けば左右色の違う美しい瞳は熱に浮かされて潤み、充血して赤く腫れあがっていた。そんな聖の姿を目の当たりにして、炎はもう見舞いには行きたくないと、泣きながらぼやいていた。
 その炎が、最後の最後に聖に無理をさせてここに来た?
「けじめって、なんのけじめだよ……」
 手のひらの中の指輪を握りしめる。
 君は、逃げたかったのか? 捕まえてほしかったのか?
 どっちだ!
 終わりにするって、なんだよ。どういう意味だよ。
 どうして君は、死んだんだ!!
「ブルーストーンに行きたいって言ってた。生まれ変わったら――法王が、そんなことできるわけないのに、もし生まれ変わることができたら、ブルーストーンがいいって。もう一度そこで、初めからやり直したいんだって」
 茫然とおれは守景を見上げていた。
 守景は、ちょっと泣きそうな顔で口元に微かな笑みを浮かべた。
「これは賭けなんだって、言ってた。自分がまっさらになって生まれ直すチャンスなんだって。そこでまた、風兄さまに、大好きな人に巡り逢えたら嬉しいって」
「賭け? チャンス? 何を言ってるんだ。自分から死にに行ったくせに。おれが到着するのも待たず、勝手に攻め込んで、何が……何が生まれ変わったらだ! また出会える可能性なんてこれっぽちもなかったのに、おれをあんな言葉で縛りつけて!! 勝手だ!! なんて勝手なんだ!!!」
「息苦しかったんだよ。私たちに“死”という概念はなかったんだもの。どこまで行っても成長しない身体、変わらない姉弟付合い、次々とステージをクリアして輝きながら成長して瞬く間にいなくなってしまう人たちに囲まれて、自分一人、どんどんおいていかれるような気がしたんだよ。きっと」
「それは、神の傲慢だ! そんなの、神様のエゴじゃないか! おれたち人を言葉一つで縛り上げて、好きな時に好きなように動くように仕向けて、自分は勝手に自分のしたいようにしているんじゃないか。おれは、おれは……神様のおもちゃじゃない!!」
 愛優妃も、統仲王も、炎も、皆おれを言葉で縛り、命を、人生を、運命を悪戯に操ってきたじゃないか。
『あたしを、探して』
「ああ、探したさ。一人取り残されて、君の転生を信じて探し回ったさ。でも、君はどこにもいなかった。神界のどこにも! ひとりぼっちの人のおれに、神の時間は長すぎる!!」
 指輪を握った拳を灰の上に叩きつけた。
 細かい粒子がふわりと舞い上がる。拳には残念なくらい、叩きつけた感触が残らない。
「炎姉さまね、首にかけていたチェーンから指輪を外してそこに埋めるときね、とてもワクワクしていたの。すごく、嬉しそうだった。埋め終わって立ち上がった時には、とてもすっきりした顔をしていたよ。そして、ありがとうって言ってた。支えだったんだよ。あの二つの指輪は。炎姉さまの心の支えだったの」
「じゃあ、どうして埋め戻したりなんかしたんだ」
「過去に縋りつかなくてもいい支えが見つかったからだよ」
「それが、死か? ブルーストーンか? 転生か?」
「貴方だよ。貴方との未来。希望」
 守景はそう言い置くと、またおれから離れていった。
 おれは、しばらく手の中の二つの指輪を眺めていた。
 木材で組み立てた小屋はこの通り崩れ去って久しいというのに、灰の中にあったこの指輪は、いまだ光を失ってはいない。磨いて大事にしてくれていたのだろう。その姿を風は見たことはなかったけれど。
 手のひらから二つの指輪を灰と砂の上に転がす。
 指先で押しむように灰をかけ、砂をかけ、埋め戻す。
 炎は封印したのだ。
 ここに、長く続いてきた火炎法王の神生を。
 記憶も想いもこの指輪に託して埋めたのだ。
 まっさらになって生まれ変わるために。
「じゃあ、今の君はなんなんだ」
 科野のやっていることが分からない。ヨジャについて行ったり、炎になりきっていたり、おれを庇ったり、突き放したり。
「見つけたんだ」
 デジャヴュするようなセリフが再び背後から降ってきた。
 その声は、守景のものよりも幾分低くて、艶やかさを纏いながら嘲笑っていた。
 おれはその声を背中で受けながら、振り向こうか振り向くまいか迷った。
 もし、後ろにいるのが炎だったら。
 そう思うといたたまれない気がした。
 もし、後ろにいるのが科野だったら。
 どんな顔をすればいいのか分からなかった。
 得体の知れない化け物が後ろにいるようで怖かったのかもしれない。同時に、どうしようもない愛おしさが込み上げてきた。多分、きっとそれは、キースとか風が抱いた想い。自分じゃない。自分じゃこんな、恐ろしいものを愛おしいなんて思えない。
「いつか、見つけてほしかったのかも。二度と来ることはできないと思っていたのに、願いって叶うものなんだね」
 あっさりと、さらりと、願いが叶ったなんて言うな。
 おれは、ゆるゆると立ち上がる。まだ振り返る覚悟もできていないのに、これ以上灰の中に沈めた指輪に手を伸ばしてしまわないように、できるだけ物理的距離をとる。
 指輪、もしまだ手に握りしめたままだったら、おれは振り返って君の手を取ってしまっていただろうから。
 一度もこの手で嵌めてやることができなかった指輪。
 風の手じゃだめだった。
 キースの手じゃなきゃ、だめだった。
 そのうち風は自分がキースであることも棚に上げて、キースを妬んでいたほどだったのだから。そんな手で、彼女の指に他の男の名が刻まれた指輪など嵌めてやれるわけがなかった。
 じゃあ、今のおれは?
 くるりと振り向く。
 炎のような火炎の国の衣装を纏った科野がいた。
 表情は、笑っている。にこにこと上機嫌でおれを見ている。
 どっちだろう。炎か。科野か。
「どっちでもよくない? 炎でも、科野葵でも。だめ?」
 苦く、探るように科野は笑む。
 おれの苦悩を見透かして、そんな意地の悪いことを言う。
「どうして、ここに?」
 おれはまともに答えられなくて、別のことを尋ねる。
「逢綬が行こうって言うから」
 悪びれもせず答えた科野の視線の先には、遠くで守景と並んでぼんやり湖を眺める逢綬の姿があった。あまりにものほほんとしているので、科野をこんなところに連れてきたことに舌打ちも出てこない。
「気づいてる? あたしたちがここで同じ時を過ごすのって、あの夜以来なんだよ」
 科野はおれの手を取り、湖の岸辺へと駆け出す。
 柔らかで温かな手。ついさっき、闘技場であっさり一人倒したとは思えないほど嫋やかな手。人間の、女の子の手。
 炎とは違う。炎の手はもっと大きい。指先が細く長くて、握る力はもっと強くて、今の科野の手に比べたら、ちょっと骨ばってごつさがある。なんて言ったら炎は怒るだろうけど、男のようなごつさというわけではなく、ただひたすら科野の日本人の少女の手がまだ幼く、何物にも汚されていない無垢さを宿していると言えばいいのだろうか。
 おれは、科野の示唆するあの夜の意味を思い出し、顔が赤く火照っていくのを恥じて斜めに俯きながら、科野の横で湖の岸辺に立った。
 夕暮れに朱に染まる湖面。その手前は深緑色の大きな皿のような蓮の葉が所狭しとひしめき合い、その隙間を縫って水中から湖上へと花茎が伸び、重たげに紅の蕾をもたげている。悩み立ち止まる人のように俯いた蕾は、黄昏の闇に巻かれながら幽霊のように不気味な黒い影を落とす。湖上には淫らに広げられた紅蓮の花びらが夜の世界へと誘おうとする。
 その不気味な世界へと、科野は足を踏み入れる。
 躊躇いなく、ざぶりと足を湖の中へと落とす。
「科野!」
 あっという間もなく、科野の胸までが泥水の中に浸かった。
「ほんと、どろどろするー! 足元、持ってかれそう。――ね、蓮の花が泥の中に咲くって、ほんとだったんだ」
 地に膝をついて繋いでいた手を引き、陸に引き上げようとする前に、科野は前を向いたまま無邪気に感嘆の声を上げ、おれを振り返った。
 赤い瞳が、おれを捉えた。
 夕暮れの光が、きっと科野の茶色の目を赤く染めてしまったに違いない。
 魅入られた一瞬、科野の腕がおれの首の後ろに巻きつき、引き寄せると同時にがぶりとかぶりつくように唇が吸いついた。いや、科野は容赦なくおれの唇を噛み切っていた。痛いと呻く声すら呑み込み、己の身を仰向けに水に沈めながら、科野は泥の中におれを引きずり込む。
 息する間もなく、水飛沫を上げておれは上半身から湖の中に落ち、水中で仰向けの科野の身体を押し倒すように泥の中に沈んでいく。水中で舞い上がる泥はあっという間に視界を奪い、科野の唇の感触と柔らかな腕の感触だけがそこにある確かなものとして伝わるだけになっていった。唇の隙間からはこぽこぽと音を立てて、どちらのものとも知れない空気が漏れ出で、水上へと立ち上がっていく。こんなの、すぐに息が続かなくなっても仕方がないのに、科野は苦しげな様子もなくひたすらキスに集中している。唇に作った小さな傷を舐め、唇で唇をくすぐり、舌を押し入れ、絡める。流れるように自然に、当たり前のように科野はキスをする。おれの首に回した腕と唇以外は死んでしまったかのように水に揺蕩わせながら。
 温んだ泥水の中、科野の唇の温度だけがやけに現実的だった。
 冷たかったわけじゃない。唇を重ねれば重ねるほど、揉まれて唇は熱く腫れぼったくなっていく。なのに、なぜかおれは何も感じなかった。
 義務感?
 実験?
 何かを、誰かを取り戻そうとするかのような、必死なキス。
 儀礼的な、熱のこもらない――もっと言ってしまえば、彼女自身、望んでいるとは思えないキス。
 おれはようやく彼女を抱きしめ、水上へと浮上を試みた。
 立とうと思えば立てる深さだ。身体を水面に水平に浮かせ、科野を抱えて浮き上がる。
 ようやく水面に顔を出した時、おれは必至で酸素を吸い込んだ。
 科野もぜーぜーと息を吐き、咳込みながらも、水面から完全に顔を出そうとしなかった。
 髪も肌も、泥まみれになってしまっている。ぬかるんだ泥に刺さるように立っているのだから、きっと足は靴も中ももっとドロドロだ。
 呼吸が落ち着いてくると、科野は水に浮かんだままぼんやりと空を見上げていた。
「何も感じなかった」
 ぽつりと彼女が漏らした一言に、おれはようやく彼女が確認したかったのだと悟る。
 確認――
 宵闇に染まりはじめた空を見上げる彼女の目から、涙が流れ落ちていった。
「あたし、河山のこと、好きじゃないのかなぁ」
 苦悩に満ちたその声は、明らかに科野葵本人のものだった。
 おれは静かに彼女を見下ろし、ようやく静かに泣く彼女はおれを見上げる。
 葛藤していたのは、科野も同じだったんだ。
 炎になりきってみたり、炎の振りをしてみたり、――きっと、彼女は炎の残した気持ちを大事にしてあげようと思ったのだ。だから、苦しんだ。おれのこと、何とも思っていないのに好きにならなきゃいけないから、愛さなきゃいけないから、努力して、努力して努力して、もしかしたら自分は炎になったんだと思い込もうとしてまで、炎の想いを遂げさせようとしていたのだ。
「科野」
 おれはようやく、ここ数日のうちではじめて科野葵のことを思って名を呼んだ。
 炎かもしれない科野ではなく、科野葵という女の子の名前を。
「炎が、かわいそうだ」
 涙声になりながら、科野が言う。
「炎は、あたしに未来を託したのに、あたしは、それを、叶えて……やれない」
 こんな振られ方って、あるだろうか。
 目の前で、好きな女の子に好きになりたいけど好きになれない、なんて苦しい告白されるなんて、酷い話だ。
 君が探してって言うから、永い永い時を越えてせっかく探し当てたのに。
 どれだけ遥か長い道のりだったか、君は分かっているんだろうか。
 本当に君にたどり着くかもわからない道をひたすら歩み続けてきたおれの気持ちを、君は本当に分かると言えるんだろうか。
 君を追いかけると決めたのは僕。
 君を探し続けると決めたのは僕。
 そう決めて、その通りの道を歩んできた。
 そして、君にたどり着いた。
 ゴールだと思った君の中に、君はもういなかった。
 そういうことで、いいのか?
 一番星を見上げて、苦笑に歪んだ自分の唇を空に隠した。
 彼女に見られないように。
 あれだけ、今の科野が科野なのか、炎なのか、と言っていたくせに、今の心の中の呟きは完全に風だった。
 キルアスでもなく、風。
 毒されているのはおれの方だ。
 君を探し出し、愛し続けること自体に疑問すらなかった。
 この世界で初めて君と出会った日、おれは確かに君に心を懸けた。
 風もキルアスも関係なく、河山宏希が君に恋をしたんだ。
 だから、迷うことなんてなかった。
 おれは科野が好き。その科野がたまたまキルアスと風が探し求める炎だった。
 なんてラッキーな話なんだろう。
 なんのぶれもなく、河山宏希というおれ自身がとうにキルアスであり風だったかもしれないのに。
 おれは、もう一度、湖面に浮かぶ科野葵を見下ろした。
 科野はおれを見上げた。
 逃がさない、と言えば本望だろうか。
 亡霊のようにおれの中にはびこる過去の記憶の主たち。
 炎は、きっと喜ぶ。
 どんなに科野が逃げようとしても、おれが追いつづければ、炎の望みは満たされる。
 たとえ、ここにいなくても。
 じゃあ、おれは今ここにいる意味があるんだろうか。
 キルアスと風が望むのは、生まれ変わった炎との未来。
 たとえ今、目の前の彼女に炎の心がもう残っていなくても、彼女が元炎だったというのなら、彼らはゴールに辿り着いたことになるのではないか。
「おれは、好きだよ。――科野葵が」
 さっきのキスには何も感じなかったけど。
 必死に縋り付いてくるキスは、甘くもなければ酸っぱくもない。ただ、石を食んでいるも同じだった。
 科野の瞳孔がやや開く。
 驚いたようにおれを見つめ、瞬く。
 おれは腕を伸ばし、科野の上半身を水中から掬い上げた。
 頬や首筋に張りついた泥まみれの髪を目にかからないように撫でるように避けてやる。
 そして、胸に抱きしめた。
 人形のような彼女を、そっとガラス細工を胸に抱くように抱き寄せ、肩に頬を乗せる。
 おれはきっと、囚われたままだ。
 彼女が好きだと言ってくれなければ、炎の願いもキルアスと風の執念も晴れることはない。
 この気持ちが過去の記憶から作られたものだとしても、おれは彼らの想いを昇華してやらなければならない。
 幸い、おれはこの少女が好きなのだ。
 中等部の時の淡い思い出が心を支える。
 そんな些細な、日常の記憶の中に埋まってしまいそうな理由まで見出して己を鼓舞しなければならないほど、おれはこの永い永い迷路の中で彷徨いつづけ、出られる時を待っていたのだ。
「あたしは……あたしは、安心する。この腕の中」
「いいよ。それで」
「嘘つきだね」
 肩に顔を埋め、こぼれ出てくる涙が熱く滲んできた。
 ああ、出られないな。そう思った。
 迷路の出口が遠ざかっていく。
「滑稽だよ」
 重ねて科野が言う。
「好きでもないのに、好きなんて言わないでよ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ。分かるよ、それくらい」
 ため息をつきそうになる。
「そうかな」
「そうだよ」
 言い切られて、おれは息を吐く代わりに吸い込んだ。
 でもその分、吐き出す息は重くなる。
 まるで掛け違えたボタンがどこまでも続いていくかのようだ。
 一度断ち切らなければ終わらない。何も始められない。
「なら、やめようか」
「……え」
「もうこんなこと、やめよう。帰ろう、人界に。幹也さんも心配してる」
 幹也さんの名前を出しただけで、科野の肩が軽くそびやかされた。
「神界でのこと、全部もう口に出さないで、必要なこと以外一切口を利かないで。保育園のお迎えで一緒になっても何も話さないで。今まで築き上げてきたもの、一切合切全部かなぐり捨てて終わらせてしまおう?」
 科野は茫然とおれを見る。そんなことできるわけないと、目で訴えてくる。
「できるよ。やるんだよ。お互いがもう、何もかも関係がなくなるまで、全てなかったことにしてしまうんだ。人界に戻って、ただのクラスメイトに戻って、炎も風もキルアスも、そんなことおくびにも出さずに、思い出すことすらしないようにして過ごせば、いつか彼らもいなくなる。何なら――君が望むなら、おれが君の前からいなくなる」
「そんなこと……」
 戸惑う科野の顎に指を添え、上を向かせる。
「望んでよ。『あたしの前からいなくなって』って、言ってみてよ」
 泣き出しそうなほどに目を瞠らせ、科野はおれの真意を探ろうとおれを見つめる。
「そんなの、望んでいない。望めない……」
「なら、君の望みを教えて」
 諦めたように科野の目が絶望に沈む。
 横にだらんと伸ばされたままだった手が持ち上げられ、おれの腕に添えられる。
 そして彼女は懇願する。
 苦し気に。
「そばにいて」
 と。
 おれは、笑い出したいのを堪えて……いや、堪えきれずに、笑った。乾いた哄笑が口の端から漏れ出でていた。
 結局何も変えられない。
 このままじゃ、結局何も変わらない。
 なし崩し的に彼女はおれに縋っただけだ。恋愛感情はなくても、友情に近い想いはあったのだろう。それすらもすべてなかったことにしろと言われて、彼女は思いきることができなかった。現状を変える勇気がなくて、おれの腕に手を伸ばした。
 そばにいて?
 そんな都合のいいことがどうして言える?
 あたしを探して。そんな言葉でおれの残りの人生も来世も縛り付けて、そんな君の今の望みは、愛せないけどそばにいて?
 ふざけるな。
 そう言えたら、どんなに良かっただろう。
 でも、おれの望みも君と同じだから。
 出会いなおすことができたなら、どんなにかよかっただろう。
 何もかも忘れて、前世のしがらみも何も思い出すことなく、もう一度初めて君と出会えたなら。その時ようやく、答えが分かる。君は、おれを好きなのか。おれは、君を好きなのか。
 そんなこと、一生問答しながら一緒にいるなんて、時間を無駄にしているとしか思えない。
「いっそ、守景に記憶を消してもらおうか」
 おれは囁く。遠くの湖畔でおれたちの方を見ないようにと気を使って背を向けてくれている守景を見つけて。
 科野も遠く、守景の背中を見つめる。
「それができたら、どんなにいいか」
 ようやく聞き出せた本音。
 こうやってたくさんの言葉を重ねながら、砂の中から金の欠片を探すように君の本当の気持ちを見つけ出していくなんて、気が遠くなる。
 それでも、その一言に愛おしさが込み上げた自分がいた。
 科野の顎を指で上向かせ、軽く唇をついばむ。
 目を開けて探るように見ると、科野は驚いたようにおれを見返した。
 その驚きを宥めもせず、おれはもう一度彼女に口づける。頬と頭を包み込むように手を添え、さっきよりも少し長く。
 硬直した彼女の唇が微かに震える。何かを言おうと口を開きかけたのではない。それは、唇を離して目を見れば明らかだった。
 潤んだ目がおれを見ていた。
 それで十分だった。
「ねぇ、もう一回」
「現金な」
 呆れて言いながら、おれは再び彼女に口づける。柔らかな彼女の唇はおれを受け入れ、中へと誘う。さっき、水中で交わしたキスと同じ流れで、今度はおれが舌を絡める。
 十分に彼女の唇を貪った後、おれと彼女は深く息を吐き出した。
「どうする?」
「……保留」
 少し息の上がった科野は恨めし気におれを見て、苦く声を押し出した。
「忘れたくないの。忘れたいけど、忘れたくない」
「分かるよ。彼らがいたから、今おれたちはここにいる」
「河山を、逃がしたくもない」
 もどかしげに、科野はおれを見つめる。
「キスがうまいから?」
「ばか。そうじゃなくて」
「そうじゃなくて、何?」
「そばにいてほしいの。でも、これ以上貴方をあたしの言葉で縛りつけたくもない」
 おれはすぅっと目を眇めて彼女を見つめる。
「それは、おれの人生に責任持てないから?」
「これ以上、あなたの運命に干渉したくない。あたしに囚われた貴方を見ていたくない」
「傲慢だね。これほど歪めて君に辿り着かせたくせに」
「……後悔、した……」
 ぽろりと科野の目から涙が零れ落ちた。
「『あたしを探して』なんて、言わなきゃよかったって、すごく、後悔した」
「酷いな。囚われた方の気持ちも知らずに、勝手に後悔するなよ」
「後悔くらい、させて。反省くらい、させてよ」
「で、その反省の結果は?」
 彼女は目を閉じ、勢いをつけておれのほっぺたにキスをした。
「なに、それ」
 名残が消えないように頬に手をあてつつ呆れて言うと、彼女はふいっとそっぽを向いた。
「保留。」
「なにそれ」
 おれはもう一度繰り返す。
「ヨジャを」
「ふーん、ここで別の男の話?」
「男のくせに妬かないでよ」
「妬いてるんじゃないよ。単に道理のなさを嘆いただけだ」
「道理も何もないでしょ」
「あるさ」
「もう、いいから! 聞いてよ」
「ヨジャの話なんて聞きたくないね。人の遺体に剣ぶっ刺して空気清浄機作るような奴の話なんて、聞きたかないね」
「ぷっ、なにそれ」
「事実だろ。まぁいいよ。で、ヨジャがなんだよ」
 ようやく人が話を聞く気になったところで、科野はふと口を噤んだ。
「ねぇ、西方将軍になる気はある?」
 探るような目をしながら突飛なことを聞いてくる。
「ないよ」
 即座におれは言い返す。
「なんだよ、ヨジャの話じゃないのかよ」
「キルアスの人生、取り戻してみない?」
 うきうきと目を輝かせながら、科野はとんでもないことを口走った。
「周方皇子、キルアス・アミル。いずれ、周方皇となり、西方将軍となるはずだった人。なんなら、火炎法王の婿候補でもあった」
 おれは静かに科野を見下ろし、釘を刺す。
「人間の身体で、しかも部活でテニスをしてるくらいで剣の訓練も体作りも何もしていない人間が、西方将軍? 冗談だろ」
「今日、強かったよ。かっこよかったよ」
 ちゃんとおれの試合見てたんだ、と思う一方で、冗談じゃないと思う。
「おれは河山宏希の人生を生きるので必死だよ」
「うん。だから、亡霊の願いを叶えてあげて」
 おれは科野の目を見つめる。もうすっかり茶色の光彩に戻った瞳は、生き生きと笑っていた。
 亡霊の、願い?
 誰だ、亡霊って。
 キルアスか?
 キルアスが望んだこと、あったか?
 いや、そりゃあ小さい頃は周方の皇子として将来は父の跡を継ぎ周方皇になって、西方将軍としてもこの地を守るんだと、単純に純粋に教育されて心に思い定めていたものだったけれど、そんな夢、周方宮を出た日にとうに捨てた。母を殺され、周方には、不甲斐ない父には、侮蔑しか残らなかった。
「明日、楽しみにしてる」
 するりと科野は陸に上がり、おれに手を伸ばす。
 おれはその手を取り、陸に上がる。
 泥だらけの身体が気持ち悪い。
 そんなおれの手を引いて、科野は清流の流れ込む場所へと連れていく。
 はるかに高い山脈から流れ落ちてきた清流が混じりあう場所は、入るとさっきまでの泥のぬめりが一度で流され清められるかのような勢いと清冽な冷たさがあった。
 泥を落としあいながら、幾度となくキスをする。
 最後に清流から陸に上がって、軽く風を呼んで乾かして。
 そんな気はないらしいと悟りつつ、念のため聞いてみる。
「人界に帰らないか?」
 科野は首を振った。
「あれほど憧れていたブルーストーンだぞ?」
 人界を、炎が好んでいた言葉に置き換える。
 科野は笑って言った。
「明日、河山と戦えるの楽しみにしてる。あたし、容赦しないから」
「科野!」
「この大会の優勝者の賞品、何か知ってる?」
「西方将軍の座?」
「それは賞品じゃなく義務。そうじゃなくてね、望みが一つ、叶えられるんだって」
「そりゃまたうさんくさい。なんでも叶うわけじゃないんだろ?」
「どうなんだろうね。でも、ヨジャが優勝したら、ヨジャはきっと積年の望みを叶えようとする。河山の意思に関係なく。だから、勝って? 優勝して、あたしを連れ帰って?」
 悪戯っぽく笑った科野を、おれは呆れた目で見返した。
「またそうやって言葉で縛る」
「好きでしょう? 縛られるの」
「誤解されるような言い方しないでもらおうか」
「えー、誤解って何? なんの妄想? やだ、河山ったらそういう趣味だったのね。悪いけど、あたし、そういう趣味ないから、ごめんなさい。別の人見つけて」
「勝手に妄想膨らませて人のこと振るな」
「やだ、振ってないって。安心して帰るために、協力してって言ってるの」
「本当に?」
「本当に。賭けてもいい」
「何を?」
「あたしを」
 トンっと胸を叩いて科野は自信満々におれを見た。
「賭けじゃ、科野の気持ち手に入らないだろ」
 科野はにっこりと天女のように微笑んだ。
 今日一番、穏やかな笑みだった。
「あたし、樒のところ行ってくるね」
 科野は、さっきとは反対側の頬にキスを残して走り去っていった。