聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第5章 泥の花

3(樒)
 一晩寝て、それはもう、一日の疲労のせいかあんなことがあったのにぐっすりと眠って、朝、お母さんの声に起こされて、洋海と競争するように朝食を食べて駅へ向かって。
 何気ない毎日がそのまま繰り返されている今日。
 昨日のことなど何もなかったかのように、時間は回っていて、駅には普通に人がいて、たくさんの人たちが電車から降り、また乗り込んでいく。揺られながら学園前の駅について、校門をくぐり、何も知らない生徒たちが爽やかに朝の挨拶を交わし、グラウンドでは部活の掛け声が飛び交っている。サッカー部の朝練には夏城君と三井君の姿もあった。教室に着いて席に座る。昨日、風環の国から戻ってきた時と変わらない机と椅子の並びの中に、クラスメイト達が各々集まり、朝の雑談を交わしている。
 そこに、葵の姿はない。
 桔梗の姿もない。
 詩音さんの姿も、ない。
 わたしだけが一人、今に取り残されてしまったかのような孤独感が襲ってくる。
 わたしはここにいていいのだろうか。わたしのいるべき場所はここではないのではないだろうか。どうして私だけ、ここに残されたんだろう。
 朝のホームルームが始まり、何事もなかったかのように片山先生が淡々と進め、今日のお休みは「藤坂と科野と草鈴寺と河山だ」と言う。
 河山君もお休みなんだー、そりゃそうだよね、あんなことがあったら疲れて学校どころじゃないよね、なんて、ぼんやり思っているうちに、午前中の授業は終わり、お昼を食べたかどうか曖昧なままに午後が始まって、終わる。
 桔梗と葵は、いない。詩音さんもいない。河山君も。
「工藤君、昨日はありがとう。それで、詩音さんの具合は?」
 終礼の後、文化祭の打ち合わせのために生徒会室に向かおうとしていた工藤君を無理やり呼び止めて、昨日のお礼とともにわたしは尋ねた。
 工藤君は眼鏡の奥で警戒の光を浮かべながらも、口元はにっこりと笑う。
「大丈夫ですよ。ちょっと眠れば、またすぐに学校に来られるようになります」
 ちょっと眠れば、その言葉に引っ掛かりを感じた。
 昨日、リムジンの中で詩音さんに手を伸ばした時に見えた映像がぱっと思い浮かぶ。
『あなたの歌いたい歌を歌えばいいのよ。そうすればきっと、心は世界に届く』
 詩音さんの両手がわたしの両耳を優しく塞ぎ、心に届けられた言葉。そして、見えた光景。愛優妃が統仲王に託した祈りにも似た願い。
「詩音さん、明日も無理そう?」
 わたしの心の中を探るような工藤君の視線をちくちく感じる。工藤君は少し目を眇め、「そうですねぇ、まだ、かかるかもしれませんね」と棘のある声に含みを持たせて言った。
「まだ、かかる?」
「守景さんの気にすることではありませんよ。それでは」
 冷たく言い切ると、工藤君はさっと背を向けてしまった。その背を、わたしは思わず引き留める。工藤君は怪訝そうに振り返る。
「まだ、何か?」
 急いでいるんだという以上に、これ以上詩音さんのことを探られたくないという気持ちがありありと目に現れている。
「あの、そうじゃないの。そうじゃなくて……」
 言い淀んだのは、それは工藤君に聞くべきことなのか、と思ったから。
 聞くべきこと? どちらかというと、わたしは統仲王に指示を仰ごうとしたのかもしれない。
 葵のこと、どうしたらいい?
 桔梗は帰ってくるのかな。
 ――二人がいないと、わたしは何と不甲斐ないことだろう。自分の次の行動すら、自分で決められない。
「守景さんもお休みになった方がよいのではないですか? 今日一日、上の空でしたよ。では」
 工藤君は嘘くさい営業スマイルを残して、逃げるようにさっさと行ってしまった。
 わたし、どうしたらいい?
 そんなこと、聞けないよ。
 聞かなくてよかった。聞けなくてよかった。
 友達なんだもん。助けに行けばいいじゃない。
 葵は助けを求めているのかな?
 帰りたいって、思っているのかな。
 あのヨジャって怖い人に自分でついて行っちゃったけど、元は炎姉さまの恋人だったっていうし、無理やり連れ帰るようなことになっても、葵の気持ちを無視したことになっちゃうよね。
 葵、何考えてるんだろう。
 なんで、あの人と一緒に行ってしまったんだろう。
「それは、話してみないと分からないんじゃない?」
 廊下に突っ立ったままのわたしに声をかけてきたのは、保健室の斎藤先生だった。
 今日も胸元が広く開いて胸の大きさに目が行ってしまうような服の上から、申し訳程度に白衣を羽織っている。
「わたし、独り言、声出てましたか?」
 恐る恐る尋ねると、斎藤先生はうんうんと頷く。
「それにしても守景さん、昨日のあの疲労困憊の状態から、よく今日学校これたわね。河山君はお休みしたって聞いたけど。夏城君もあなたの弟さんもタフよねぇ。朝練ちゃんと出ちゃって、すっかり元の学生生活に馴染んでいるんだもの」
「朝起きて思ったんです。時間って、回るんだなぁって」
「学生さんやってると、その辺容赦ないのかもね。それで、体調は? 体が重かったりだるかったりはしていない?」
 自分の手足の先を少し動かしてみて、そういえば、そこまで重い疲労感に苛まれていないことに気づいた。〈渡り〉とか〈治癒〉とか、結構魔法使ったんだけどな。洋海のことで心労だって、あったし。確か、工藤君のリムジンに乗った時はもうどうしようもないくらい疲れていたはずだ。でも、車の中で一眠りして起きた後は――そうだ、その後はそこまでひどい疲れは感じていなかった。
 どうしてだろう。
「昨日よりは平気みたいです」
「そう、それはよかったわ。顔色も悪くないし。それなら一つ、頼まれてくれない?」
 斎藤先生は、後ろに隠れるようにして立っていたラシーヌを引っ張り出し、ずいっとわたしに押しつけた。
 ラシーヌは細長い体でよろよろとわたしの方に転がされてくる。
「この人、おうちに送ってきてくれない? 一人じゃ帰れないっていうのよね」
 わたしはちらりとラシーヌを見上げる。
 送れ、というのは、どう考えても神界、の方、だよ、ね?
 目で聞くと、ラシーヌはすまなそうに目を伏せた。
「いや、さすがに、昨日の今日で、それは……」
「映画の撮影スタッフさんだっけ? ライト当てる担当の。もう、お財布も身分証明書も何にも持ってないのよ、この人。ほんと、着の身着のままっていうか。ここに来た時の荷物もどこに置いたか忘れたって言ってるし。あり得ないんだけど、守景さんなら送ってくれるんじゃないかって言うから」
 今度はじろりとラシーヌを見上げる。
 昨日の今日で、また神界に〈渡り〉を使え、と。
 いくらそこまで疲れていないからとはいえ、さすがに世界を飛び越えるのは、人界の中で移動して歩くのとは訳が違う。
 それに、わたしとこの人と二人で、っていうこと?
 夏城君や洋海に相談した方がいいんじゃないかしら。
 迷っていると、斎藤先生はポンっとわたしの肩に手を置いた。
「行けば、守景さんの話したい人にも会えるんじゃない? ね?」
 斎藤先生に話を振られたラシーヌは、少し唇を噛んで視線を落とした。
 ラシーヌは、斎藤先生にどこまで話したんだろう。まさか神界という世界があって、そこで迷宮はクリアしたけど人質に逃げられました、なんてゲームの世界のような話をしたんだろうか。
 まさか、ね。
 したとしても、大人の斎藤先生がそんなこと頭から信じるとは思えない。
「それじゃ、頼んだわよ〜」
 斎藤先生は、わたしにラシーヌを押しつけるだけ押しつけて、軽やかに去って行ってしまった。
わたしはじっとりとした目でラシーヌを見上げる。
「すみません」
 小さな声が落ちてくる。
「今までずっと保健室に?」
 ラシーヌはこれまた小さく頷く。
「ご飯も買ってきていただきましたし、着替えもいただきました。斎藤先生には何から何まで……」
 お世話になったと言っている割には、どこか怯えている感じがするのは気のせいだろうか。
「全部、言ったの?」
「いえいえ、まさか。ただ、守景さんなら家を知っている、とは言いました」
「……普通、その辺で鈴買っただけの女子高生が店員さんのお家、知ってるわけないよね?」
「メディーナを取り戻さねばならないのです。どうか、お力を貸してください」
 高い背を垂直に折り曲げてラシーヌはわたしに深々と頭を下げる。
「ちょ、ちょっと、顔上げてよ」
 廊下を通り過ぎる生徒たちが怪訝な顔でわたしたちを見ながら通り過ぎていく。
「分かった。分かったから。連れていくから」
「ありがとうございます!!」
 ぱぁっと顔を輝かせて、いかにもひ弱そうな枯れ枝のようなラシーヌの腕がわたしの両手を掴んでぶんぶんと上下に振った。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ。分かったから、ね」
 周りを見回して、あはは、と愛想笑いをして、わたしはラシーヌの手を解く。
「どこに送ればいいの?」
 ひそっと耳に囁くと、ラシーヌは意を決したように固い声で答えた。
「西楔・周方に」
 ラシーヌと校内の哲学の道の人気の少ない場所で待ち合わせ、教室に荷物を取りに戻り、念のため、洋海に『周方に行ってくる』と短くメッセージを送っておく。心配しないでね、とつけなくても、きっと心配しまくることだろう。でも、洋海一人では周方には来られない。だから、きっとわたしが戻らなかったら、工藤君に伝えてくれるはずだ。
 わたし、やっぱり助けてもらおうと思っているのかな。甘えているのかな。甘えすぎかな。
「樒、どこ行くの? 今日の練習は?」
 昇降口で靴を履き替えていると、珠に心配そうに呼び止められてどきりとする。
「ごめん、今日休む!」
 手を合わせて謝ると、珠はずかずかと前まで歩いてきて、拝んだ形のわたしの両手を自分の両手で挟み込んだ。
「昨日も逃げたじゃん。今日も逃げる気?」
 まっすぐに投げかけられた言葉に、どきりとする。
「逃げてなんて」
「逃げてるでしょ! ほら、視線泳いだ! さ、行くよ、部活」
 ずるずると引きずり出そうとした珠の手を、わたしは緩く振り切る。
「ごめん。本当に今から約束あるんだ」
 珠はじぃっとわたしを見据える。
「喧嘩したの?」
 心配そうな声。
「最近藤坂さん、学校来てないけどどうしたの?」
「ちょ、長期のお休みだって」
「科野さん、今日お休みだけど、どうしたの?」
「りょ、旅行?」
「草鈴寺さんは?」
「風邪? みたいな?」
 わたしの交友関係を知り尽くしている珠は、わたしの表情から真実を読み取ろうとするかのように、目を細める。
「怪しい」
「怪しくなんてないよ。うん、怪しくない、怪しくない」
「怪しまれてもしょうがないってことは、樒が一番よくわかってるでしょ?」
 笑ってごまかしてさっさとここから去ろうとしたのに、珠はよりにもよってこういう時に、一番いやな言い方でズバリと核心を衝いてくる。
「樒も、三人がどこに行ったか分からないんだ?」
 わたしは黙り込むしかない。
 桔梗の行方は頑として知れない。メールに返信も何もない。葵は、ヨジャ・ブランチカとメディーナと共にどこかに消えていった。おそらくその先は西楔・周方。詩音さんは、きっと工藤君のお屋敷で眠ったままだ。
「約束って? 会いに行くの?」
 わたしは珠から視線を外し、首を捻って顔を斜め下に伏せる。
 葵と会う約束をしたわけじゃない。葵がいるかもしれない場所に送ってほしいという人と会う約束をしただけだ。
 珠はじぃ〜っとわたしの伏せた顔をわざわざ下から覗き込んだのち、バンっとわたしの両腕を気合を入れるようにはたいた。
「わかった。行っといで。ちゃんと仲直りしといで。で、すっきりしたら、練習頑張ろう」
 きょとんと、わたしは珠を見返した。
 どうしてそこまで分かるんだろう。顔に書いてでもいたんだろうか。
「樒のことはお見通しよ! さ、行った行った!」
 バシバシ背中を押すように叩かれて、わたしは昇降口から外に押し出される。
「樒、無事に戻ってくるんだよ!」
 明るく言い残すと、珠は手を振って走り去っていった。
 無事に、か。
 ヨジャ・ブランチカに見つからなければそれも可能かもしれないけれど、見つからずに葵と会えるだろうか。
 また会うのは、正直怖い。しかも、今度は一人で。ラシーヌはメディーナを迎えに行きたいはずだから、葵のところまでは付き合ってはくれないだろう。周方に入ったら、そこで解散だ。ラシーヌさえ送ってしまえば、わたしは葵に会わずに帰ることだってできる。本当はそれが一番安全なんだ。ヨジャ・ブランチカに遭う危険もない。でも――
「仲直り、か」
 できるだろうか、仲直り。
 浅はかだって、思われていたのに。
 迷い考えながら歩いていると、あっという間に待ち合わせの哲学の小道に着いていた。
 ラシーヌは先に着いていて、身を隠していたのか竹藪の中から紗のショールを頭にかぶった異国の女露天商の姿で出てきた。こうやって見ると、やはり男性だという方が信じられなくなってくる。
「周方の、どこに行けばいい?」
 周方と言っても、城もあれば街もある。その周辺には、豊かな麦畑とオレンジやレモンの柑橘畑が広がる。
「闘技場に」
 ラシーヌの言葉に、わたしは首を傾げる。
「闘技場?」
「城から西に行った白海が見える高台にある闘技場。そこに向かってください」
 ?が鳴く港町を眼下に見下ろす高台に作られた闘技場が、ぱっと目の前に蘇った。
 一年に一度、西楔・周方を守る西方将軍を決める戦いを行う闘技場。
 毎年そこで優勝し、力を示した者だけが西方将軍と呼ばれて尊崇を集める。
 ヴェルドも、周方皇の息子ではあったけれど、西方将軍になったのはその闘技場で優勝し、その後も難なく勝ちつづけてきたからだ。
「入口の前でいいので」
 請われて、わたしはラシーヌを連れて西楔・周方の闘技場へと飛んだ。
 「〈渡り〉」と唱えた瞬間、ぐらりと平衡感覚が歪んだ気がしたが、すぐに目の前に広がる景色も、感じる風の匂いも日本のものとは比べ物にならないくらい変わっていた。
 頬を撫でる乾いた風は微かに柑橘と海の塩の香りをはらみ、降り注ぐ日差しはきらきらと明るく輝き、崖下に打ち寄せる波は空よりも深く青く波頭は頭上の雲のよりも白い。眩いばかりの夏の世界に呼応するように、熱気に溢れた歓声が円筒形の闘技場の中から湧き溢れてくる。
「あの声は?」
「年に一度西方将軍を選ぶ大会があるのはご存じでしょう?」
「ええ、まぁ。……まだやってるの?」
「今日はまだ予選です。昔はそう日をかけずに剣など武術のみのトーナメントだったと聞きますが、今は武術で予選を勝ち残った者が明日の本選に出場します。本選も第一回戦は武術と魔法による実技、第二回戦は戦略・戦術を競う盤上での勝負となります。現役の周方皇も本選から参加します」
 ふ、複雑になってる……。
「法王様方がいなくなられて、神界も人だけの世界になりました。武術だけではなく、魔法も頭脳も使えないととても将軍など任せられないのです」
「な、なるほど……」
 ハードルまで上がってる。
 法王も統仲王もいなくなって、神という存在を失った後も神界は存在していて、人は自分たちで身を守るための工夫をしてきた、ということか。
「今でも年に一回開催しているの?」
「はい。まぁ、闇獄界が攻めてくる時代でもありませんでしたから、今はどちらかというとお祭りの要素が強いんです。ちょっと腕に自信がある者や、記念にと、遊び半分で出る輩も多いんですよ。何せ、優勝者には賞金も出ますし、望むものがなんでも与えられる、なんて特典もありますから。もちろん、そういう人たちは本気で西方将軍なんて目指していませんからね。うっかり予選を通ってしまうとその後がかえって大変だったりします」
 闘技場からの歓声を聞きながら、ラシーヌは苦笑する。
「過去には本当に将軍になってしまった人もいるみたいですが、大概は続きません」
「そのための一年更新……。むしろ、毎年将軍が変わったら大変じゃない?」
 って、同じような質問を前にもしたことがあった気がするなぁ。その時の回答は――
「その方がいいんですよ。毎年力を維持し、誇示できる者こそが将軍の器。そうでなければ、とても西の楔は守れません」
 そうそう。そう言われたんだ。この武術大会を見に連れてこられた時。あれは、炎姉さまに。
『毎年変わったら大変じゃないかって? バカだな、毎年力を維持し、誇示できる者こそ将軍の器。そうでなければとても西の楔は預けられまい』
 あの時は、ヴェルドが初めて西方将軍になった大会だった。
 自分の父であり周方皇でありながら西方将軍も兼任していたドミニク・アミルに、トーナメントで勝ち上がって最後に挑み、見事に勝利したのだ。新たに誕生した若き将軍に、観客たちは歓喜し、その勇猛を讃えた。そして、負けた父皇のドミニクは、清々しいほどにすっきりとした顔でヴェルドに西方将軍の座を譲ったのだった。あの時、ドミニクはもうそれなりにいい年になっていたはずだ。将軍職ということで時の実で肉体年齢はそれなりに維持していたかもしれないけれど、人に永遠は難しい。あれからそう時を置かずして(と言っても年単位だけれど)、ドミニクはこの世を去ったはずだ。聖がまだ、とても小さい頃の話。
「今の西方将軍は何年目?」
「えっ?! 今のは確か、えっと……」
 ラシーヌは慌てながら指折り数えだす。折られた指の数は一、二、三、四、五、六、七本。
「結構長く務まっているのね」
「はは……平和でしたからね。名ばかりもいいところです」
「この前の鉱土の国と風環の国と、闇獄主たちがはびこっているっていうのに、今の西方将軍は何をやっているのかしらね。周方皇もよ。鉱土の国の騒乱の時、ちっとも出てこなかったじゃない」
「はは、そう、です、ね」
 ラシーヌが空笑いをしながら目を逸らした時だった。闘技場からは一層大きな歓声が上がった。
「今年の本命の登場のようです」
 出入り自由の闘技場の中に入っていくラシーヌの後を追って、わたしもすぐ帰ればいいのに中に入ってしまった。
 むせかえる熱気と汗の臭い。ついでに言うと、すごく男臭い。すり鉢状にせりあがった客席にはびっしりと観客がひしめき、熱気に浮かされるように手に白い紙きれを持って立ち上がり、声援を送っている。パッと見た感じ男性の方が多いようだが、女性もそこそこいるようだ。
「みんなが手に持っているのは?」
「札ですね」
「札?」
「優勝者を予想して賭けているんですよ」
「賭けてる?! 西方将軍の優勝者を?!」
 そんな風習は聖の時にはなかった。純粋に出場者を応援し、強い者が将軍の座に就く瞬間を見守るのが習わしだった。
「当時の宰相の発案です。結構前からやっているんですよ。外れたお金は優勝者への賞金になるとともに、周方の金庫に入り、公共事業に使われます。これが結構いい収益源になっているんです。伝説の西方将軍、ヴェルド・アミル様の時代はそうそう将軍なんて変わりませんでしたが、人の世になってからはコロコロ変わりますからね。寿命も違いますし。まぁ、最近、同じ人が毎年勝ってしまうから収益が上がらないとあの人には怒られましたが」
「あの人って、ヨジャ・ブランチカ?」
「ええ。元は周方の出身だそうで、昔から周方、風環の国と行き来しながら交互に宰相をやったりしてきたんです。あの人も神代からの生き残りで、錬様のように昔からこの西方を支えてくださった人なんですよ」
 わたしは思わずラシーヌを穴が開くほど見つめてしまった。
「あなた、わたしたちをさらってきた時、ヨジャ・ブランチカと一緒にいたよね? 元は仲間?」
「仲間、なんてあの人は思ってくれていませんよ。私はただの駒です。それに、私も生ける化石のような方と肩を並べて仲間などとは、とても言えませんしね」
 ヨジャ・ブランチカを語るラシーヌの穏やかな様子に、わたしは首を傾げる。
 信頼、だろうか。
 ラシーヌはあのヨジャ・ブランチカを信頼している。昨日、鈴を回収しようとしたときは、ヨジャ・ブランチカが来る前にと焦ってはいたけれど、よくないことと分かっていて手を貸そうとしたのは何か理由があったからなのだろう。例えばメディーナに関することとか。
 そう、昨日であった風環王と名乗る少女メディーナもそうだった。ヨジャ・ブランチカを敵と恐れるのではなく、信頼できる者だったからこそその挙動に驚き、悲しみ、止めようとしたのではなかったのか。
「ヨジャ・ブランチカは、悪い人なんじゃないの?」
 困惑するわたしを、ラシーヌは憐れむように見つめた。
「あの方はこの国の功労者です。だから、ほら、こんなにも支持されている」
 闘技場の四角い碁盤の目状の白く分厚い石板のリングを見下ろすラシーヌの視線の先にいたのは、さっきから続く特別大きな歓声を浴びるヨジャ・ブランチカの姿だった。
 わたしは自分の目を疑い、何度か目をこすってはラシーヌとリング上のヨジャ・ブランチカとを見比べる。
 ヨジャ・ブランチカは頭には白いターバンを巻き、袖のゆったりとした裾の長い白い衣装を纏い、白い石板状のリングの上に立っている。対戦相手は予選だからと安心しきって出てきたとしか思えないどこからどう見ても普通の二十代男性だった。一応手には剣を構えているが、相手が悪かったとすでに観念しているのか、すっかり腰が引けてしまっている。
「ま、参りましたぁっ!」
 試合開始の合図もまだの内から、対戦相手の若い男性はリングから転がるように逃げ落ちた。それを見て、ヨジャ・ブランチカは遠目にも分かりやすくオーバーアクションで腰に両手を当て、肩を落としてため息をつく。
「ヨジャ・ブランチカ様の不戦勝です!!」
 審判の声も恐れるところはなく、意気揚々としている。
 まさか彼が闇獄中に獄主の一人だなんて、この闘技場の誰も思っていないのだ。
 不戦勝を告げられたヨジャ・ブランチカは、不意にきりっと入口付近に立っていたわたしたちの方を見据えた。正確には、ラシーヌを見据え、指をさした。
 会場中の視線が一気にリング上からこちらへと流れてくる。
 ラシーヌはささっと頭にかぶったショールで顔まで覆い隠した。
「それでは、私はこれで。お送りいただき、ありがとうございました」
 そそくさとお辞儀をすると、ラシーヌは闘技場の外へと小走りに抜け出していった。
 追いかけようかとも思ったが、その姿はあっという間に見えなくなる。
 リング上は、ヨジャ・ブランチカが退場し、次の試合に向けて選手たちが双方から入場してくる。今度は見た感じ同等くらいの二人が向かい合っている。
 なら、もういいか、と思った時だった。
 ちょうどこの入場口の対角線上に、屋根のついた立派な貴賓席が用意されていたのだが、そこに二人、少女と幼女が退屈そうにリング状の試合を観戦していることに気が付いた。
「葵」
 思わずわたしは呟く。
 小さな声で呟いたつもりだったし、この大歓声の中、とても試合用の巨大なリングを越えてわたしの声が葵に届いたとは思えない。きっと、葵も直感だったのだろう。
 葵と視線が合った。
 すぐに逸らすかに思われたのに、思いの外わたしと葵は見つめ合っていた。
 葵は、昨日来ていた制服を脱ぎ捨てて周方の人々が身に着けているギリシア風の衣装に着替えている。炎姉さまの衣装でないだけよかったかもしれない。
 隣の幼女はメディーナだ。同じく昨日のフランス貴族のような衣装からギリシア風の衣装に衣替えし、子供らしからぬ無表情でリング上の試合を見下ろしていた。
 その貴賓席に、ついさっきまでリング上にいたヨジャ・ブランチカが現れ、遠目にもにこやかに二人の女性に相対していた。
 なんか、すごく違和感。
 ここではヨジャ・ブランチカは英雄(ヒーロー)のような存在だ。誰もあの人が敵方の闇獄界の主要な将軍だなどと、思っていない。ラシーヌのさっきの言葉が正しいのなら、誰からも疑われないほど、この周方と風環の国に尽くしてきたということになる。
 何を考えているんだろう。
 葵はヨジャ・ブランチカが貴賓席に入ってくると、何事もなかったかのように穏やかにヨジャ・ブランチカに話しかけている。まるで昔からの友人と会話しているように、気の置けない様子が伝わってくる。
 さっきは、どうしてヨジャ・ブランチカはさっきリング上に立っていたのだろう。これは西方将軍を決める年に一度の大会のはずだ。その大会に出場している、ということは、西方将軍にでもなろうということなのだろうか。あの実力だ。今までなろうと思えばいつでもなれたに違いない。それを、わざわざ今回こんな目立つような真似をして、そこまでして……葵の気を引きたいのか、メディーナの気を引きたいのか。それとも、ただの茶番なのか。
 首を貸してげているわたしの前に、ひらりと一枚、誰かが持っていたであろう賭けの札が舞い落ちてきた。拾い上げてみると、そこには知っているような知らないような名前が神界の文字で書かれていた。
 ラシード・カールーン。
「お、お嬢ちゃんは手堅いね。今の西方将軍に賭けるなんて」
 通りかかったおじさんがわたしの手元を覗き込んで笑った。
「今の西方将軍……?」
「なぁにとぼけてるんだい。しっかり賭けてるじゃないか。当代の周方皇様で、柳のように細い体をしているくせに剣技に秀で、頭脳戦でも真価を発揮して、七年前、十七歳にして西方将軍に就いたんじゃないか。以来、七年もその座を守り続けているなんて、ほんと大したもんだよ。ま、今までだったら一番の安牌っちゃ、安牌だっただろうな」
「今は違うんですか?」
「今年はほら、ヨジャ・ブランチカ様がついにこの大会にお出になっただろう? その理由というのも、周方皇様が実は行方不明になっているからだっていうじゃないか。まあ、この七年、大した戦があるわけでもなかったから、周方皇様としても西方将軍としてもおれたちの前に出てくる機会なんて、年始の挨拶とこの大会ぐらいだったからな。今までこういう場に出てきていたのも、本当に本人だったのかも怪しいって話だ」
 はっはっはっはっはっと笑いながら、ヨジャ・ブランチカと書かれた札を持ったおじさんは客席の中に混ざりこんでいってしまった。
 周方皇であり西方将軍でもある人が、行方不明?
 でも、年始の挨拶と年に一度のこの試合には必ず参加していた、と。
 わたしはじっと手の中の札に書かれた名前を見た。
 まさか、ね。
 ラシーヌとラシード。名前が似てるだけよ。だって、あの見た目が女性でちょっとおどおどしているラシーヌが、周方皇ならまだしも、西方将軍は無理がある。
 うん、ないない。
 首を振って、手元の札はどこかその辺に置いて帰ろうと思った時だった。
 再び闘技場がわぁっと湧いた。
 貴賓席から駆け下り、ひらりと観客席と闘技場を隔てる塀を飛び降りたのは、剣を手にした葵だった。
「え゛」
 意気揚々とした顔を上げ、葵は堂々とリングに上がる。
「いやいやいやいや」
 思わず独り言ちていることにも気づかないほど、わたしは全力で首を振り、手を振り、目の前の光景を否定していた。
 対する葵の相手は、いかにもこういう大会に出てきそうな大柄の腕っぷしばかりは強そうな男。葵のことなんて、片手で捻り潰してしまえそうだ。
 そんな大男を前にしても、葵は臆するどころか好戦的な笑みを浮かべ、楽しそうに男を見上げている。
 剣道部の桔梗ならともかく、葵は竹刀も持ったことがないはずだ。真剣なんて扱えるはずもない。せめて炎姉さまが使っていた朱雀蓮を揮うくらいだろう。声が届くなら、「やめなよ〜」と言ってるところだ。
 が、審判の「はじめ」の声の後に続いて、葵は身を低くして剣を構え、弾丸のように男に突っ込んだ。どう調理してくれようとばかりに愉悦に歪んだ笑みを浮かべていた大男は、その表情のままバタンと後ろに倒れる。
 刺したわけではない。剣の柄でお腹を衝いたのだろう。
 一瞬のことに呆気にとられていた観衆たちは、手を叩いたり、口笛を吹きならし、貴賓席からの乱入者の勝利を祝う。
 わたしは茫然と、塀を乗り越えて貴賓席に戻っていく葵を見る。
 炎姉さまは、剣を使えただろうか。
 炎姉さまの得意な武器は朱雀連をはじめとした鞭。だけど、剣を全く扱えないわけではないはずだ。聖は体が弱くて身を守る程度の武術・剣術の稽古しか受けなかったけれど、炎姉さまくらいなら普通に使えてもおかしくはないのだ。
 だからと言って、体を鍛えているわけでもない葵に同じように使いこなせるとは思えないのだけれど。
 リング上では喝采がやまない中、次の挑戦者たちが上がっている。
 二十代前後の青年と、十代後半の少年――あれ、黒いベールで頭と顔を覆っているけど、どこかで見たことがあるような――ラシーヌではない。ラシーヌならもう少し女性っぽいしなやかな体つきをしているはずだ。
 二十代の青年の方は、剣を扱いなれているように見える。対する十代後半の少年の方は、手に持った剣を持て余し気味に眺めたり少し振ってみたりしている。
 開始の合図とともに、青年は一見不慣れそうな少年に型通りに斬りかかる。少年はそれを身を躱して避けて横から青年に打ちかかる。青年はそれを剣で受け、跳ね返し、少年の頭上に振りかぶる。そのがら空きになった胴に、少年は当たり前のように剣の柄を打ち込むが、一歩飛び退って青年はそれを避け、互いにじりじりと睨み合う。青年の方は、見た感じ毎日剣に触れなれているように見えた。格好もどこかの将校か何かのようだ。やる気も技術もあるように見える。対する少年の方は、古びて錆びた剣を手にしているかのように動きにキレはなく、やる気もそこまで感じられない。どこかいやいや出ているかのようにすら見える。
 それでも、勝ったのは少年の方だった。
 次の一撃で、少年はそれまでの錆付いた動きから、一瞬現役の将軍のような素早さとキレを見せ、きれいに青年将校の剣を薙ぎ払い、打ち負かした。
 会場には驚きの声とブーイングが上がる。
 勝った少年はそれ以上リングに興味はないらしく、さっさとリングを降りて行ってしまった。
 わたしは、その彼が向かった方へと走ってみる。
 観客たちはまだリングの試合に熱中しており、闘技場の外はさっきと同様、人もまばらだ。円筒形の周囲をぐるりと回って、さっきの少年が出てきそうなところまで走り出る。
「河山君!」
 迷いなく、わたしは出てきた黒いベールの少年に声をかけた。
 闘技場から出てどこへ向かおうとしていたのだろう。彼は、わたしの声に足を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「来てたの」
 頭から首まで目の部分を残して巻き付けていた黒いショールの口元を少し下げ、河山君が困ったように微笑んだ。
「ラシーヌさんがどうしても送ってほしいっていうから。保健室の斎藤先生も送ってあげてって言われて断れなくて」
「え、斎藤先生まで?」
 河山君はぎくりとした表情で聞き返す。
「あ、大丈夫、大丈夫。家を知ってるって聞いたからっていう程度の話で、まさか世界越えてくるとか思ってないと思うから」
 バレてないから大丈夫、とひらひらと手を振って見せると、河山君は余計に怪訝そうな顔になった。
「そう、か。それで、ラシーヌは?」
「行くところがあるみたいで、中でヨジャ・ブランチカの試合を見た後、どこかに行っちゃった。メディーナを助けたいって言ってたけど」
「ふぅん、そうなんだ」
 ちらりと闘技場の中の方を気にかけるように視線を巡らせたものの、河山君はさして興味がなさそうにまた視線をこちらに戻した。
「それより、河山君、今日お休みしていたのはこっちに来てたから? どうやって来たの?」
「ああ、ちょっと、ね」
 言いにくそうにしながら、左腰に差した剣の柄を落ち着きなく触っている。
「びっくりしたよ。河山君が剣、使えるなんて。その前の葵も使ってたけど。風兄さまが剣持っているところなんて、聖見たことなかったし、炎姉さまだっていつも朱雀蓮だったから剣使えるのが意外で」
 へらへらと喋っていると、河山君はあたりを憚るように見まわし、「しーっ」と口元に指をあてた。
「ちょっと、いい?」
 再び口元を黒いショールで覆い隠した河山君は、さっき私とラシーヌが降り立った会場から少し離れた海のよく見える場所へとわたしを連れて行った。そこには、すでに一人先客がいて、黄金色のフルートに唇をあてがい、白海の煌めきに溶け込むような美しい音色を奏でていた。
「逢綬」
 河山君が声をかけると、風兄さまの守護獣だった麒麟の逢綬が、フルートから唇を離し、夢から覚めるようにゆっくりと目を開けた。それでも、彼女の周りにはまださっきまで奏でていた音楽の残響が揺蕩っているようだ。
 逢綬は、わたしを見るとぺこりと頭を下げた。色素の薄い金髪がさらさらと潮風に吹かれ、たなびく。
「今朝、逢綬に連れてきてもらったんだ」
 ようやく、河山君はさっき言いにくそうにしていた答えを口にする。
 なるほど、守護獣なら世界を渡ることもできる……のかも?
 疑問が付いたのは、きっとみんながみんな時空を渡れるわけではないはずだから。たとえば、守護獣でも転生していれば身体(うつわ)が異なってしまっている時点で、元の能力の発現には制限がかかることの方が多い。逢綬は、その姿からして、神代のまま生き続けてきた姿だ。
「逢綬は風とカインが死んだ後も、神代が終わった後も、ずっと風環の国で――昨日のあの迷宮で、ずっとあの場所を守ってきてくれたんだ」
 河山君の言葉に、逢綬は特に表情一つ変えず、微かに顎を引き、頷いた。
 そうそう。風兄さまの守護獣の逢綬、確かこういう人だった。自分からは滅多に喋ることはなく、金色の髪や青い目の色も白い肌も、ひときわ色素が薄くて、そのせいではないのだろうけれど、あまりそこにいるという存在感を感じさせない、ひっそりとした存在だった。感情がありのままよく見え、何事にも積極的なカインのかわりに、影のように、いつもガンガン動き回るカインの一歩後ろで静かに寄り添っていた。
「でも、その後、あいつ――ヨジャ・ブランチカが神界に現れ、今はヨジャ・ブランチカに協力しているんだそうだ」
「えぇっ?!」
 淡々と言った河山君と、再びこくんと表情一つ変えずに頷く逢綬に、わたしは思わず呻き返す。
 河山君は若干頭が痛そうに額のあたりを抑えた。
「い、いいの? ここで普通にお話ししてて」
「それは、まぁ、問題ない。と思う」
 ひそひそと聞くと、河山君も困ったようにひそひそと返す。逢綬は一人、ぼんやりと海の向こうを見つめていた。
「正確には、ヨジャ・ブランチカに招待された。西方将軍を決定するこの大会に出て、優勝したら科野を返してくれるというから」
 逢綬は、河山君の言葉に、また一つ小さく頷いた。
 多分きっと、人界に迎えに来た逢綬が河山君にそう告げて連れてきたのだろう。
「……本当に返してくれると思う?」
 思わずそう聞き返してしまったのは、昨日の別れ際や、さっき試合に飛び出してきた葵の様子から、ヨジャ・ブランチカが返すか否かの決定権を持っているようには見えなかったからだ。
「見ただろ、科野までこの大会の予選に参加していたの。おまけにヨジャ・ブランチカまで。おれに勝てると思うか?」
 捨て鉢なことを言って河山君は首を振り、ため息をつく。
 なんだからしくない、と思ってしまったのは、いつも爽やかに整った微笑を振りまき、影一つ見せないアイドルみたいな人だと思っていたからだろうか。
「葵は完全に楽しんでたよね」
「だろ? 意を決して逢綬の手を取って来てみたものの、囚われのお姫様どころか、今や挑戦者の一人だ」
 もう一度情けなくため息をついて見せた後、河山君は苦笑した。
「御姫様には助けてもらう意思はないらしい。守景も、ラシーヌを送るだけじゃなく、科野に会いに来たんじゃないのか?」
「う、うん」
 迷いながら来て見て、さっきの葵の試合ぶりを見てさらに迷いは深くなってしまった。
 会えたところで、もう相手にはしてもらえないんじゃないだろうか。下手をしたら、わたしのことなど知らないと言われるかもしれない。それは、さすがにちょっと耐え難い。
「おれは、さっきの試合に勝ったから、今日の予選はクリアなんだ。明日の本選で、くじ運次第では科野と対戦になるかもしれない。そうしたら、直接話す機会が得られる」
「前向きだね」
「そうでも思わなきゃ、やってられないさ。でも、きっと話しかけたところで言葉で返事が返ってくるかというと、剣には剣で返ってくるんじゃないかって気がしてる」
 河山君と葵の試合の様子を想像して、わたしはちょっと笑いを漏らし、頷いた。
「そうだね。問答無用って感じ」
 うんうんと河山君まで頷き、ふと真顔に返って河山君は尋ねた。
「なぁ、守景。守景は気づいてたか?」
「何に?」
「科野が、自分は炎だって言うんだ」
「え……」
「自分は生まれた時から炎だった、って」
 わたしは、中等部で葵と桔梗と出会ってからのことを思い返してみる。
 わたし自身が聖のことを思い出したのはつい最近のことだ。一緒に共生してきた記憶などない。葵だって、小学校の時からずっと普通の、運動神経のいい姉御肌の女の子だと思って付き合ってきた。思い返しても、炎姉さまらしいところなんて――ない、と思おうとして、ふと何かが引っ掛かった。
 炎姉さまは、運動神経がよくて頼れる姉御肌で、勝ち気で明るくて前向きで、かっこいい。
 それは、葵にも同じく言えることだ。バスケやってる時も、困っているときに助けてくれた時も、葵はいつだってかっこよかった。
 その姿が炎姉さまと重ならないか、と聞かれると、雰囲気も表情もとてもよく重なるような気がしてくる。
 と同時に、どうしても葵は葵だ、と思えるようなところもある。身体が違うのだから顔も体つきも見た目が違うのは当たり前だけど、そうだな、たとえば、葵には炎姉さまのような達観した大人っぽさはない。同い年の友人だと思って接してきたからこそ、ずっと同じ土俵で触れ合ってきた。年齢相応のやきもちも、羨望も、葵は表すのをためらわなかった。
「言われてみれば、炎姉さまらしいところもちらほらあるけれど、でも、葵はずっと同い年の友人だったよ。少なくとも、わたしにとっては」
 昨日、工藤君のリムジンでうとうとと眠ってしまった時に見た夢のことを思い出す。詩音さんが夢に現れて、わたしたちが見ている葵は、葵の一面でしかないと言っていた。家族には、わたしたちとは違う葵が見えているのだろうし、と。
「炎姉さまであるところも含めて、葵だったのかな」
 ぽつりと呟くと、河山君は複雑そうな表情で頷いた。
「おれは、きっかけがあって、それから風の記憶とかを思い出したタイプだから、生まれながらに記憶を持っているとどうなるかっていうのがいまいち理解できないんだ」
「わたしもだよ。わたしだって、つい最近まで何も知らなかった」
「おれは、自分は風じゃない。河山宏希だと思ってる」
「うん」
「河山宏希として、風の記憶を覗き見ることはあっても、風の人格で生きてるわけじゃない」
「うん」
「でも、科野は違うんだ。科野葵のある一面は炎なんだ。それが本当なら……」
 河山君は、剣の柄を手が白くなるほどきつく握りしめて言葉を途切れさせた。
「明日、戦ってみればいいよ。そしたら何かわかるかもしれないし」
 手前みそな慰めの言葉なんて言ったって仕方ないことくらいわかってる。でも、本人のいないところでああだこうだと言っていたって仕方ないこともある。
 それは、もはや自分に言い聞かせているようなものだ。
 河山君は風兄さまじゃない。その状態で、炎姉さままで受け止めきれるかと聞かれたら、きっと厳しいに違いない。
「守景は、夏城が龍のままだって言われたら、ときめく?」
 苦笑している河山君に尋ねられて、わたしはちょっと想像してみる。
「……あんまり、違和感ないかも……むしろ、それでも全然オッケーっていうか……」
 思った通りのことを口にすると、我慢しきれなくなった河山君に盛大に笑われてしまった。
「女の子って、そういうものなのかもしれないね。科野も、いつも朝見た夢の風様はかっこよかったって言ってたし」
「風様?」
「そう、風様って、もはやアイドルだよね」
 もうどうしようもないとばかりに笑っている河山君を見ながら、わたしは小首を傾げた。
「炎姉さまは、絶対に『風様』なんて言わないよね」
 ぴたりと河山君の乾いた笑いが止まる。
「それ、葵だよ。葵だから、憧れの風様が夢に出てきてかっこよかった、ラッキーって言ったんだよ」
「……ということは」
「まだわからないけど、たとえ葵の一部が炎姉さまだとして、完全に同化してるってわけじゃないんじゃないの? しかも、昨日、元恋人の亡骸前にして炎姉さまの記憶と感情に強く揺さぶられたんだとしたら、それでスイッチ入っちゃったってことも……」
 河山君に言いつつ、これは自分にも言ってることだ。
 葵に浅はかだと言われたことが、ショックだった。炎姉さまの言葉だったとして、自分が聖だと思っていれば、姉妹の延長でその言葉も受け入れることはできたかもしれない。だけど、どうしてショックだったかって言われると、今まで葵がわたしをそんな上から見下ろすように見ていたなんて、全然感じたことがなかったからだ。
 毎日、学校での日常を共にしながら、友人関係を続けていれば、相手が自分を見下しているかどうかくらい分かるものだ。でも、葵はいつだって同じ目線だった。いつだって、顔を突き合わせて笑いあえる高さだった。姉が妹を見るのとは、それは全然異なる視点だ。
「とりあえず、明日だな」
「うん、明日だね」
「それで、守景、一つ頼みがあるんだけど」
 パンっと両手を合わせて拝まれて、わたしはきっとこれはラシーヌと同じ頼みだな、と思った。
「どちらまで」
 ほんっとに、タクシーじゃないっていうの! と言いたいところを我慢して聞いてみると、案の定、場所の名前が返ってきた。
「ホアレン湖まで」