聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第5章 泥の花
2(宏希)
ここが、夢にまで見たブルーストーンなのだと、どうして今まで気づかなかったんだろう。
夢の地であっても、現実は容赦なく追いかけてきて、しかも、全てを投げうってここに来たのかと思いきや、記憶も因縁もそのまま引き継いできているとは、一体どういうことだろう。
それもこれも、おれが彼女を追いかける、と、探しつづけると約束したからなのだが、かといって、もう法王であることはやめられるはずだった。
まさか、改めて、というか、ようやく風の精霊王と正式に契約を結びかわし、今度こそ本物の風環法王になろうとは、誰が予想したことか。
しかも、キルアスの身体を媒介に行っていた瘴気の浄化機能をこの身体に持ってきたからか、やたら眠いしやたら身体が重い。
やっぱり人間の身体で無理をするんじゃなかったなぁなんて思ったところで、今更この役目を引き受けてくれる人が他にいるわけでもない。
「電話がつながらない?」
「さっきから家にかけているんですが、留守番電話にしかならなくて」
「携帯は?」
「そちらも電源が入っていないか電波の入らないところに、って」
保健室の斎藤先生の気の強い声に押されて、弱々しく受け答えしている片山の声が聞こえてきた。
薄いベージュ色のカーテンの向こう、蛍光灯の明かりがうっすらと透けて見える。
疲労感は地球の重力が十倍になったんじゃないかというくらいずっしりと体にのしかかってくる。しかし、意識を失う前に傷を負ったはずの背中は、びっくりするくらい痛くなかった。そう思いいたってから、自分があおむけで白いシーツのかけられたベッドに寝かせられていたことに気づく。
茉莉はどこだろう。
試みに仕切られたカーテンを軽くめくってみると、青白い顔をした茉莉が隣のベッドで眠っていた。もう片側のカーテンをめくってみると、こちらには風環の国の女王を名乗り、一時的におれの業の肩代わりをしてくれた少女を取り戻そうとしていた顔の彫の深いどことなく中性的な雰囲気の青年(?)が一人、目を覚ましてぼーっと白い天井を見上げていた。
目を覚ましたばかりなのか、さっきからずっとその調子で放心しているのか。おれが見ていることにも気づかず、ぼんやりとしている。
気づかれても面倒なので、おれはさっさとつまんでいたカーテンの端を離し、カーテン向こうの斎藤先生と片山の会話に耳を傾ける。
「困ったわね。連絡が取れないなんて。一晩寝かせておいてもいいけれど、こんな状態になっていると知ったらご心配なさるでしょうに」
「そうですね。また時間をおいてかけてみたいと思います。ですから、斎藤先生は今日はもう。いろいろとお約束もおありでしょう」
「やだ、そういうプライベートに踏み込もうとするのって心外ですわ。どうせ、私には約束も何もないわよ。片山先生こそ、よろしいのかしら? お帰りにならなくて」
「家に帰っても寝るだけですから」
「あまり家に帰らないで、美術準備室で実は暮らしてるって、本当?」
「あー、そういうプライベートに踏み込むのは云々っておっしゃったのは斎藤先生じゃないですか」
「心配してるのよ〜、校医として。ちゃんとまともなご飯は食べているのかしら〜? いつも顔色そんなに良くないものね。きっと菓子パンとカップ麺で生きてるんでしょう?」
「袋麺も大事な味方です」
「まあ。どうせなら、冷蔵庫に常備しておけるハムとか、冷凍ブロッコリーとか用意して、いくらかでも炭水化物だけからの食事から脱するようにしないと」
「そうですねぇ。田舎のおふくろにもさんざん言われてるんですけどねぇ」
「私の方が年下なのに、お母さん扱い?」
「いやいや。これは失礼いたしました。斎藤先生しっかりしてらっしゃるから、私の方が気後れしてしまって」
「やだぁ、本当かしらぁ。そう言いながら片山先生ったら抜け目がないから、怖いのよねぇ。ね、それで、本当は教室で何があったんです?」
カーテンを開けて顔を出すタイミングも逸するほどのラリーの後、斎藤先生は好奇心に鋭くなった声で片山先生に尋ねた。
「さっき説明したとおりのことですよ。文化祭の演劇の練習中に照明でちょっと事故ったんです」
「2−Aって、確か喫茶店やるんじゃなかったかしら?」
「映研の方の練習ですよ」
「ああ、科野さんと河山君が主役をしているっていう。それなら映研のメンバー、あの騒々しい左右田君あたりも一緒に保健室に飛び込んできてもおかしくはないのにね」
「自主練です。自主練」
「自主練に照明の技師も付き合ったの?」
「照明の技師だって自主練したいんです。雰囲気つかむために」
「そう。それなら、科野さんはどこに行ったのかしら?」
まるで実際にあった出来事を見てきたかのように滑らかに回答していた片山が、一瞬うっと言葉に詰まる。
「そこは、ほら、自主練なので」
おれからは片山の後頭部しか見えないが、明らかに視線を泳がせているのがわかった。斎藤先生は呆れたように片山先生を見た後、すっと、カーテンの隙間から覗いているおれに気づいて正面から見据えてきた。
ひゅっと息を呑み込んで、おれはカーテンの端を握り合わせ、ベッドに倒れこむ。
寝たふりでもしておこうか。そんな浅はかな小細工をする前に、斎藤先生は勢いよくカーテンを左右に開けた。
「元気そうね」
斎藤先生は、まるで獲物でも見つけたような爛々とした目でおれを見て、真っ赤な唇でにぃっと笑った。
おれは首を振る。
「元気なんてとんでもない。疲れて死にそうです」
「ほんとよねぇ。いったいどんな大怪我したのかしら?」
ぐっとおれは言葉を呑み込む。
そういえば、と背中に手を回す。
背中は血で濡れてもいなければ、剣で切り裂かれてもいなかった。
何もなかったかのように、元のシャツの手触りがそこにある。
「背中を怪我したのね。大丈夫よ。背中は切れてない。古い傷は残っているみたいだけど、真新しい傷はないわ」
にっこりと斎藤先生は微笑んだ。
それはもう、全てお見通しなのだと言わんばかりに、妖艶に。
ったく、保健室で色気を振りまいてどうする。しかもこんな高校生相手に。
これだから――これだから……?
はっとして、おれはベッドの上でさらに後ろに飛び退った。
「どうしたの?」
余裕気な笑みはそのままに、保健室の先生はずいとベッドの上に乗り込んでくる。
そう、それは保健室の先生のはずだった。
4月から木沢先生の代わりに来た、斎藤璃世先生。
璃世――リセ――いや、嘘だろう?
口も開けずにいるおれの唇に、その人はそっと冷たい人差し指を当てた。
にっこりと、それはもう、草原の陽だまりの中で歌いながらくるくると踊っていた時のように無邪気に、それでいて包み込むような優しい眼差しでおれを見つめて。
なんで、気づかなかったんだろう。
こんなに近くにいたのに?
見た目なんて、そのまんまじゃないか。
この間もミスター岩城の人気投票でおれに入れておいたとかきゃぴきゃぴと言い寄って、どうでもいいことで気を引こうとしてるのかと思いきや、茉莉のことだって気にかけてくれて。
――母上。
おれは、その言葉を呑み込むために、きつく唇を噛みしめた。
おそらく白くなっているであろうその唇を見て、その人は憐れそうに目を細めた。
何度目だろう。
目の前にその人がいるのに、そう呼べずに口を噤まなければならないのは。
――貴女、闇獄主でしょう。なんでこんなところで保健室の先生なんかやってるんですか。
込み上げてくるツッコミを何十回と高速で飲み下す。
周方皇第二皇妃リセ・サラスティック。
闇獄中に獄主の一人、〈欲望〉のリセ・サラスティック。
炎を、一度は大怪我をさせて一時的にしろ記憶喪失にし、ついには第二次神闇戦争で炎と対峙して、直接手を下したわけではないにしろ死に追いやった人物。
敵将を、間違っても風環法王が母と呼ぶわけにはいかなかった。
だから、戦場で炎について彼女に相まみえた時、おれは「母上」と呼ぶ代わりに叫びだしそうになった。
なぜ? どうして? 母上は死んだはずだ。死んだはずの母上が、どうして闇獄界(そっち)側で闇獄兵たちを指揮しているの?
優しかったはずの母上が? 戦いなんてちっとも似合わない母上が?
なんで。どうして!!
その人が、戦場で「リセ・サラスティック」と名乗るまで、おれは目の前に対峙するやたら妖艶な空気を纏うその女が母親だったなどと思いもしなかったのだ。
名を告げられて初めて、好戦的に炎を見つめるその顔に、母だった人の面影を見出した。
同姓同名なんて都合のいいことが言える名でもないことは分かっていた。
他人の空似だと言い聞かせたりもした。だって、母はあの草原でエマンダの兵に殺されたんだ。生きているわけがない。しかも、人の時間にしたらとうに数世代分の時間は経過している。ただの人が、同じ若さのまま目の前に現れることができるはずがない。
闇獄主だから。
時が止まってしまって、あの時の若さのままおれの目の前にいるんだ。
そう気づいて、さらに愕然とした。
あの時は戦場だった。
あまり長く思考に囚われているわけにもいかない場所だった。
今は――今は……口元にあてがわれている形のいい人差し指が物語っている。
喋るな、と。
母などと呼ぶな、と。
ならどうして、正体を明かしたんですか。
分からないままにしておいてくれればよかったのに。
貴女の使うまやかしなりなんなりで、その姿をベールに包んだままにしておいてくれればよかったのに。
しかも、こんな近くにいるなんて!!
おれは、その人を睨みつけた。
その人は、嬉しそうに笑って言った。
「まあ、反抗期!!」
本物の母親のように、成長を喜んでいるかのように、泣きそうになった顔をクシャっと笑顔の中に閉じ込めて、笑いながらベッドから飛び降りた。
おれは、もう一度呑み込む。
母上、という言葉を。
「斎藤先生、こう言っちゃなんですけど、生徒襲わないでくださいよ?」
開いたカーテンの合間から見ていた片山先生が、呆れた顔で妙なことを言ってくる。
「大丈夫よぅ。河山君、ちっとも色香には反応しないのよ。どちらかというと、虫けらでも見るような目で見てくるんだもの。襲ったりしないわよぉ」
そりゃそうだ。母親になど反応してたまるものか。
これだ。保健室やその前の廊下やなんかで声をかけられる度に抱いていた気持ち悪さは。
無意識でも、ないないって自己防衛してたんだ。
溜息をついて、おれはベッドから降り、茉莉の寝ているベッドの周りを囲むカーテンを開けた。
「茉莉、帰るぞ」
声をかけ、揺すってみるが目を開ける気配はない。
「茉莉さんも命を削るような限界でも潜ってきたみたいに、とっても疲れてるみたいよ。ちょっとやそっとでは起きないと思うわ」
「そう、ですか。それじゃあ、おれ、連れて帰ります」
「ああ、それならおれが車で送っていくよ」
片山先生のさりげない申し出に、しかしおれとははう――じゃない、保健室の斎藤先生は「え?」と片山先生を振り返った。
「なになに? そんなに驚かなくても」
「片山先生って、免許持ってるんですか? 車も?」
「当たり前だろう? でなきゃこんなこと言いださないって」
へらへらと笑う片山先生の車は、確かに学校の裏にある職員用駐車場に停められていた。
真っ青な高級スポーツカー。
茉莉をおぶってついてきたおれは、片山先生が車のキーボタンを押しただけで扉を翼のように上に広げはじめたその車に目が釘付けになった。
あいにく、もう一人のラシーヌのことがあるからと保健室に残ってしまったが、斎藤先生にも見せてやりたかった。そして驚く顔が見たかった。
美術準備室に住んでるんじゃないかとさえ言われているうだつの上がらなそうな地味な片山先生が、青の高級スポーツカー。
何かの間違いではないだろうか。もしくは誰かから借りている、とか。
「いやぁ、どうっしてもこの車のかっこよさに憧れてさぁ。維持費とか色々かかるから、住んでるところは貧乏アパートなんだけど、逆に目立っちゃってあんまり駐車場にも置いとけないし。学校の駐車場があって助かったよ」
低くなっている運転席への座り方も、キーの回し方も、なかなか堂に入っている。
どうやら本当に持ち主らしい。
「さ、乗って乗って」
多少はしゃいでいるようにも見えるのは、車を使えることが嬉しくてたまらないからだろう。子供みたいな喜び方だ。
おれは先に茉莉を後部座席の奥に寝かせ、自分は助手席に座った。
いつも乗るような車とはまた違う滑らかなレザーと、沈み込みすぎず、かといって反発が強すぎるわけでもなく包み込んでくるかのような座席が、疲労も忘れるほどの驚きをもたらしてくる。
「どうだ、いい座り心地だろう?」
「はい。やっぱり違いますね。気を抜いたらあっという間に眠ってしまいそうです」
「寝てていいぞ。あ、その前にカーナビに住所入れといてくれ」
言われたとおり、住所を入力する。
車はスポーツカーらしく低いエンジン音を心臓のように鳴らしながら、滑らかに動きはじめた。
ドッドッドッドッ ドッドッドッドッ
重低音が茉莉を起こしやしないかと心配になったが、茉莉はぐっすりと寝入り、起きる気配もない。しかも、片山先生の運転は、超が付くほど安全運転だった。ハンドルを握ると人が変わる人がいるとかよく聞くが、先生についてはそんなことはなく、見た目通りの温厚な運転だ。しかも、どちらかというと普段が頼りなさげだっただけに、運転で見せる確かなスキルは車に乗っているのかどうかわからなくなるほど滑らかなハンドル捌きで信頼に値するものだった。
車はスポーツカーなのに、制限速度をしっかり守って走れるというのは、ある意味自制心の塊と言えるのではないだろうか。
「先生、この車乗ってて飛ばしたくならないんですか?」
「そりゃあね、このエンジン音聞きながらハンドル握ればうずうずするものはあるけれど、そういうのはちゃんと走れるところで発散するものだから」
「発散してるんですか?」
「もちろん。そうしょっちゅう行けるわけでもないけどね。ちゃんとコースが決まってて、入場料を払って、車の性能目いっぱい発揮して飛ばすんだ。飛べるんじゃないかってくらいスピードが出ると、慣性の法則なのかふわっとすることもあるんだよ」
「それ、真正のスピード狂じゃないですか」
「たまぁにだよ。年に一、二回。その時だけはいろんなこと忘れてすっきりしようって行くんだ。普段はそんなにスピード出したいとも思わないし、このアップダウンの激しい街中を走るのには、適したスピードというのがあるからね。しかも、外国産の車って修理が大変なんだ。部品一つとっても輸入したりすることもあるから、そうそう乱暴な運転はできないよ」
大人らしくもっともなことを言いながらも、このスポーツカーのことを語る片山先生はいつもより饒舌だ。
「この助手席って、休みの日はどんな女の人が乗ってるの?」
「女の人? ないない。いないって。趣味で走りに行くんなら一人の方が気楽だし、待たせてると思うと気も咎めるし。おれは今はこの車だけでお金のやりくりは精一杯なの」
片山泰晴。性別・男性、三十六歳。独身。結婚歴なし。私立高校の美術教師。2年A組の担任。
見た目、元は爽やかそうなのに童顔で、いつも困ったように笑ってる顔が定番だからか、第一印象は頼りなさそう。婚活をしているわけでもなさそうだし、そもそも女性に興味があるのかすらも謎。だからと言って男性に興味があるようにも見えず、いつも美術準備室にこもっていて、授業や授業の準備、美術部の部活時間以外は、何か絵を描いていると専らの噂。何度となく品評会にも出展し、それなりの成績を収めているらしい。一部にはパトロンがいるという噂まで面白おかしく語られたことがあるが、基本的に地味で質素ないでたちからは、到底金回りの良さは想像できない。
が、この青い高級スポーツカー。
これ、私立高校の美術教師の給料で買えるものだろうか。
ローンを組んだとしても、本人も言ってたけど、維持費は目が飛び出るほどだという。
それとも、美術室にこもって絵を描く以外に趣味のない三十六歳独身男性には、スポーツカー一台お買い上げできるくらいの経済力が備わっているものなのだろうか。
なんにしろ、片山泰晴という美術教師には、変人というレッテルが加わったのである。
「それって、女の人がお金かかるって知ってる人の発言ですよね」
「そうか? んー、まあそうかもな」
「え?」
「若い頃はその辺の不良よりも不良らしいヤンキーやってたから、奴らのけばけばしい化粧やパーマに一体どれくらいの額がつぎ込まれてるのかぐらいは知ってるな」
思わず運転席の片山先生の横顔を見て、いやいや冗談だろう、と苦笑いする。
「冗談が過ぎますよ」
「ほんとほんと。湘南一のワルと言えばこのおれのことだったんだから」
「その年で悪ぶろうとして昔の武勇伝持ち出すの、ダサいですよ」
「年齢のことは言うな」
「でも、元ワルで独身ならバイクの方に行きそうですけどね」
「ハーレクイン乗ってたけど、車の方が欲しくなって手放したんだよなぁ」
「なんですと? どんだけ金回りいいんですか。私立高校の美術教師のお財布だけじゃやっていけないでしょ」
「だから、若い頃色々あったんだって」
へらへらっと笑って言っているが、普段のほほんとしている分、昔はワルだったなんて言われても、とても本当とは思えない。
「カツアゲ?」
「あはは、そんなんじゃないよ。人質とられて、慰謝料代わりに多額のお金押し付けられただけ」
「だから、冗談に聞こえませんって」
まだそんなことを言うか、とおれは片山先生を見たが、思いの外、先生はどこか悲しそうな顔をしていた。
「河山、大切な人がいるなら、何があったって手を離しちゃだめだぞ。逃げられるのも一瞬だし、愛想尽かされるのも一瞬だし、運命に切り離されるのも一瞬なんだから。大人になると、ああ、あの時って思うことが増えていくけど、決して戻れたりはしないんだよな。そして、たとえ戻れたとしても違う選択肢を選べていたかと言われると、そうでもなかったりして。それでも、どうしてもこれだけはやっておけばよかった、やらなければよかった、ってことは、一つくらいは出てくるものなんだ。特に、人に関しては。どんなにお金があったって、助手席に好きな人の一人も乗せられないなんて、カッコ悪いだろう? 今更どうすることもできないけれど、他に乗せたい人ができるとも限らないんだから」
科野が見ているのは、おれか、風か。はたまた、キースか。
おれは、引き留めるべきだった。
行かせるべきではなかった。
彼女は何度かおれの名を呼んでくれた。
なのにおれは――
『お前は、風じゃないのか』
拒絶したのは彼女だ。
おれの名を呼びながら、おれではないものを探し求めていた。
『科野じゃなきゃ、おれはいらない』
拒絶したのは、おれだ。
科野と呼びながら、そのすべてを受け止める気構えが全くなかった。
おれは科野だけでよかった。炎の記憶を持っていたとしても、人格まで彼女である必要はなかった。昔こんなことがあったね、今生は幸せになろうね。そう言いあえればそれでいいと思っていた。
なのに、科野は炎もひっくるめて科野葵だという。
ずっと炎と共存してきたという。炎の、感情と。
炎と科野葵はすでに分けがたく、おれが科野葵を求めるのなら、おれは科野の中でもずっと生き続けてきたおれの知らない炎をも受け入れなければならない。
おれが彼女を拒絶したのは、嫌いになったからではない。
受け止めきれなかったんだ。
おれの中で風とキースは昔の記憶の断片だ。彼らの人格と今のおれの人格とは独立していて、とうに彼らの人格はおれの中にはない。
ない、と思っているが、彼らの記憶がおれの感情や人格を形作るのに不干渉だったわけでもない。前世の記憶がない人たちよりも、明らかに影響されているところはある。
科野を追い求めてしまうのだって、彼女が彼らの愛すべきファム・ファタルだったからだと、認めなければならない要素は多分にある。
それでも、おれは彼らに己を明け渡しはしなかった。炎を探すというミッションを彼らから引き継いではいたが、それとは別に、おれは彼女に恋をしたのだ。
おれが求めていた彼女は、科野葵。炎じゃない。
――炎を探すというミッションを引き継いでいたのに?
それはつまり、炎を愛しつづけるというミッションだったというのに?
「先生はまだ、その昔助手席に乗せたいと思ったその人のことが好きなんですか?」
「そうだねぇ。いつか、またそんな日が来たらいいなと思うくらいには、好きだねぇ」
しみじみと、昔を回顧する老人のように噛みしめるように先生は言った。
「まだ、その人のこと待ってるの?」
「そうだねぇ」
「でも、その人だって時間がたてば変わってしまうでしょう? 戻ってきたときに、違う人になっていたらどうするの?」
「一緒にいられなかった時間が彼女を変えるのは当たり前だよ。でも、その分、彼女はおれの知らない部分が増えていて、おれにはどこが変わったのか探索する楽しみができる」
「それが受け入れがたいものだったとしたら?」
「例えば彼女がもう自分を愛していないといったとしても、彼女が愛してくれないからと言っておれが彼女を愛せなくなる理由にはならない。彼女がもう一度隣に座ってくれたのなら、まだすべてが終わったことにはならない。――そうだな。やり直そうなんて思わない方がいい。時間なんて積み重ねていくしかないんだ。積み重ねたものが多少崩れてしまったとしても、また新しく時間を積み重ねていくしかない。どういう風に積み重ねていくかは、これからの自分がコントロールできる。その時間の積み重ねの結果、受け入れることができないということになれば、その時は、手放すだけだ」
何度となく自問自答を繰り返して悟りの境地にたどり着いてしまった僧のように、片山先生はしみじみと語った。もはやそれは自分に言い聞かせているのでもなく、決めたこととして話しているかのようだった。
おれは、やり直そうとしていたんだろうか。
科野葵を求めながら?
炎を探して?
もう一度、あの最後の別れの後の続きを。幸せを。ブルーストーンでの夢の続きを。
それじゃあ、おれは風と変わらない。
今までの十七年間が無駄になってしまう。
おれも変わった。
彼女も変わった。
だから、これからもう一度積み重ねていくのか、手放すのかを考えなくてはならない。
おれはそれを考えられるくらい、科野葵を知っているだろうか。
「怖くないですか? 今まで当然手の中にあったと思っていたものが、実は違うものだったり、実は何もなかったことに気づいてしまったら」
おれは科野と付き合っているわけじゃない。正式に告白して付き合ったりしているわけじゃない。ただ、なんとなくお互い意識しているんじゃないかと、想いを手探りしていた段階だった。おれにとって彼女は言葉を取り戻すきっかけを与えてくれた人だった。けど、彼女にとって、おれは? きっと、おれは風の延長上にしか過ぎない。おれが彼女に何か影響を与えたことなんてないのだから。
なんとなく手に入っていたと思っていたとしたら、それはおれが風だったから彼女の心を集めていると思えていただけなんだろう。風じゃないといいながら、おれは風だった。科野葵を見ているといいながら、おれは彼女と炎との関係に気づいてすらいなかった。
結局、今までの何年かは何だったんだろうと思う。
何もかもが嘘だったように手のひらから零れ落ちていくようだ。
おれは結局何も見つけていない。
この手にはまだ何もつかめていない。
それが分かっただけだ。
そして今、もう一度掴みに行くべきなのか、迷っている。
「怖いよ。でも、逃げると不安はもっと大きくなる。どうでもいいものならほっとけばいいんだけどね。どうでもよくないものほど、向き合わないと飲み込まれてしまいそうになる。逃げ切れるものではないんだ。だから、河山。迷っているなら会いに行け。一人で脳内会議やってたって、しょせん導き出されるのは自分が見たい結果だったり、最も恐れる結果だったりするだけだ。相手の気持ちなんて、相手じゃなきゃわからない。それを確認しないことには、前になんて進めないんじゃないのか?」
確かに、自分一人で考えていたって科野の本当の気持ちはわからない。まあ、拒絶されたようなものではあるけれど。もっとちゃんと話せれば、自分の中でも折り合いがついていくのかもしれない。
「ああ、そうだ。先生。ごめん。弟を保育園に迎えに行かなくちゃ。遅くなって連絡もしていなかったから怒られるだろうけど。その辺で適当におろしてください。あとは電車で行くんで、茉莉のことだけお願いします」
心が落ち着いてくると、途端に現実を思い出しはじめる。
延長保育の連絡もしていないし、ああ、スマホには保育園から何回も連絡が入ってる。
「いいよいいよ。保育園、どこ? ついでに寄って行こう!」
スポーツカーで保育園のお迎えというのも憚られそうなところだが、久々にハンドルを握ったらしい片山先生はノリノリだった。疲労も激しいし、おれは先生に甘えることにして保育園まで連れて行ってもらうことにする。
「そういえば、お母さん、電話でなかったんだけど。電源入ってないって。家も留守番電話で」
ああ、そういえば目が覚めたあたりで、そんなやり取りを斎藤先生としていたっけ。
「そうなんです。今、ちょっと入院中で。といっても、文化祭には間に合うように退院するって言ってるんですけどね。ちょっとした手術も無事に終わりましたし」
「えっ、そうだったのか。大変だったな。でも、手術、無事に終わったならよかったな」
驚き慌てていたものの、すぐに片山先生は運転への集中を取り戻す。
「はい。病院にいるから電源入っていない時もあって。多分それで出られなかったんだと思います。家にも誰もいないし」
「そうか。それで、弟さんのお迎え、河山が行ってたんだな」
「妹と交代で行ってたんですが、今日はどっちもこの調子で」
「巻き込まれてきたというわけだ」
「はい」
巻き込まれてきたという表現に、どれだけ事態を予測し把握しているのか探ることはやめにする。ここまでかなり胡散臭い工程を踏んできただろうに、保健室にまで運び込み、おそらくいろいろ知っていそうな斎藤先生の詮索に知らぬ存ぜぬでしらを切りとおした人だ。お互い、探りあわないことが幸せということもある。
カーナビの案内とおれの案内でうまく細い路地を抜けながら、閑静な住宅街の一角にある保育園にたどり着く。先生は門から少し離れたところで車を停めてくれ、おれはドアが完全に開ききるのも待つことができずに飛び降りて、急いで保育園の門を潜る。
「すみません、遅くなって」
帰る準備を済ませてくれていた保育士の先生に頭を下げ、いつもと変わらない、いや、迎えが遅くなって不安で泣きべそをかいていた直緒をぎゅっと胸に抱きしめた。
「ごめんな、遅くなって」
直緒は無言で首を振る。そして。
「宝也君もいたから、だいじょうぶ」
小さくかすれるような声で、付け足した。
「宝也君も?」
聞き返すと、ちょうど門の方からバタバタと足音が飛び込んできた。
「宝也! 宝也はいますか!?」
バリっとした張りのある青年の声に、保育士の先生ははっと立ち上がり、奥の方からもう一人、科野の弟の手を引いて出てきた。
おれは後ろを振り向き、声の主を確認する。
迎えに来たのは科野の二番目の兄、幹也さん。岩城学園中等部、高等部と生徒会長を歴任し、今は大学部の二年生になっているはずだ。
幹也さんはおれたちには目もくれず、靴を履いて出てきたばかりの小さな天使に駆け寄り、抱きしめる。
「遅くなってごめんな。こんな時間になっちまって、本当にごめん」
抱きしめられている宝也君は、ぱっちりした目で直緒とおれを見た後、ふわっと微笑んだ。
「直緒君もいたから、だいじょうぶ」
そこで幹也さんはようやく宝也君を抱きしめる腕を緩め、ゆっくりとおれたちの方を振り返った。
般若のごとき形相で。
「ひっ」
思わずおれは悲鳴を漏らし、直緒の手を握っていた手に力を込める。
直緒はぽかんとおれを見上げる。
「お兄ちゃん、何かしたの?」
ふるふる、と首を振る。
何かした、わけでは……何もできなかった、というのが、正解のような。
顔を引きつらせながら、おれは思わず半歩後ずさる。
幹也さんはメンズモデルも務められるであろう長い脚で一歩二歩とおれに詰め寄る。
口角だけを持ち上げ、愛想笑いを作っているように見えるが、目は烈火のごとき地獄の炎を宿している。
「久しぶりだね、河山君」
中高と同じ学校で、科野ともそれなりに話をする仲だったおれのことを、この人が知らないわけはない。挨拶くらいは交わしていたものだ。あとは、科野が家でどうこの人におれのことを話していたかによるわけだが、心証はお世辞にもいいとは言い難いようだ。
「ご無沙汰しています、科野先輩」
それ以上に、なぜか本能的に震えそうになるのを堪えながら、おれは声を低くして小さく頭を下げた。
頭のてっぺんに、幹也さんの冷徹な視線が突き刺さってくる。
「今日はうちの妹が迎えに来るはずだったんだが、文化祭の練習があるから少し遅くなると連絡があってね。それでも、まさかこんな時間まで来ていないとは思わなくて、慌てて迎えに来たんだよ」
おれは怖くて顔を上げられない。
幹也さんが科野を溺愛していることは、中等部時代から有名な話だ。
科野もまた、この二番目の兄を一番頼みにしているのは、雑談の端々からも伝わってくる。
「河山君が来ているなら、葵が一緒でもおかしくないと思うんだけど。だってそうだろう? 演劇の練習、一緒にやってるんだろう?」
口元は笑んでいるのに、唇からはどすの利いた声が葬送曲を奏でているかのように重苦しく絡みついてくる。
「いえ、今日は練習は休みで……」
「葵が嘘をついたとでも?」
「いや、そういうわけではなく……」
幹也さんはわざと下からぎろりとおれのことを見上げてきた。
うっと、おれは反射的に顔を上げる。
「守景たちと路地裏に……」
高平さんの喫茶店を出て、科野の悲鳴が聞こえて駆けつけてみたら、科野と守景と草鈴寺がヨジャ・ブランチカランチカに連れ去られるところだった。
それが、こっちの世界で最後に見かけたこと。
――チリン。
鈴の音が鳴った。
そうだ。確かあの路地は、茉莉が鈴をもらった露店が出ていた場所。
――チリン、チリン、チリン、チリン。
警鐘を鳴らすように鈴の音は重層的に重なり合い、大きくなっていく。
「あ、あ……」
驚いていたのは、直緒と宝也君を連れてきてくれた保育士の先生だった。薄ピンク色のエプロンの胸のところには、金色の鈴。その鈴が、動いてもいないのに勝手に振動して音を立てている。
幹也さんは動じることなくぎろりと保育士の胸元に浮き上がった鈴を見た。
「どういうこと?」
冷静に聞いてきているが、残念ながらこっちは冷静ではいられない。
どうしてこんなところでも鈴が勝手に鳴り出すか、なんて。
「こっちが聞きたいですよ!」
幹也さんはつかつかと保育士の先生の前まで歩み寄ると、その胸元に浮き上がりはじめた鈴に無造作に手を伸ばし、握りつぶした。保育士の先生は、鈴の怪現象を前にあわあわと蒼白になったり、幹也さんが手を伸ばしてきたことで頬を赤く染めたり、忙しく顔色を変えていたが、鈴を握りつぶされたことで一目で落胆の表情を浮かべた。
「なんてことを」
あの鈴が茉莉が持っていたものと同じものならば、おそらく乙女らしい願いをかけてつけていたはずだ。それを握りつぶされて、さすがの保育士の先生もかっと頬を染めている。その頬を、すかさず幹也さんは片手で覆うように包み込んだ。
「申し訳ありません。迎えが遅くなり、先生の帰る時間まで遅くしてしまったのに、大切な鈴のお守りまで壊してしまって。お詫びに、今度おいしいスイーツを差し入れますから。どうか、許していただけませんか?」
礼儀正しい紳士然とした幹也さんのすまなそうな微笑に、保育士の先生の頬は怒気から毒気が抜かれて、羞恥心の赤に代わっていく。
「それなら」
怒りの矛先を収めた保育士の先生は、ふわふわとした表情ながらも正気に戻っていく。
「遅くまで煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。宝也、行こうか。河山君も」
にっこりと目で「逃げるなよ」と釘を刺されて、おれは直緒の手をぎゅっと握りしめる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
気の抜けたような声で、直緒が励ましてくるが、幹也さんの後について保育園の門を出るまで、おれは生きた心地がしなかった。が、恐怖の本番はここからだった。
「それで? 葵はどこ?」
門を出て数歩進んだ街路灯の下で、幹也さんはにっこりと微笑んでおれの足を止めさせた。
おれは口を真一文字に結んだまま、幹也さんを見返す。
「樒ちゃんたちと路地裏にいたって? それで? その後は? なんでそんなところ、君が見かけてるの?」
神界に連れていかれた、なんて、口が裂けても言えない。
「見かけただけ、です」
目をそらしきれずにうつむいて、奥歯を噛みしめ、嘘を噛みしめる。
ギリギリと、心の奥まで軋むような音だった。
リーン、リーンと、さっき幹也さんが保育士さんの鈴を握りつぶしたというのに、また鈴の音が聞こえてくる。まるで嘘発見器のように、嘘を暴くために鳴り出しているようだ。
音の出どころは、すぐ側。
おれは急いでしゃがみ込み、直緒の登園カバンを確認すると、青い鈴がつけられていた。
後ろでは、幹也さんも宝也君の登園カバンから緑の鈴を見つけている。
「直緒、これどうしたんだ?」
「これ? もらったんだよ? さつき先生から。おねがいごとが叶うんだって」
さつき先生というのは、さっき金色の鈴をつけていた担任の先生のことだ。
「ぼくね、ママが早く良くなって帰ってきますようにって、お願いしたの」
もはや恋愛成就でもなんでもなくなっているあたりが謎なんだが、まさかこんな保育園児にまで広がっているとは思わなかった。もしかしたら、この保育園に通っている子供たちもみんな、何かしらのお願いを掛けて鈴を持ち歩いているんだろうか。だとしたら、この保育園だけで済むだろうか? ラシーヌが鈴を売っていた露店は、ここから何駅か離れたところにあるが、しょせん露店だ。警察で許可を得ているかどうかは知らないが、やろうと思えば道端のどこでだって商品を広げることはできる。噂を聞きつけた女性たちは、見つければ買い求めるだろう。中には、もしかしたら、周りにいる人たちも願いが叶うようにと、たくさんの鈴を託された人がいるのかもしれない。
リーン、リーン。
少しずつ、鈴が鳴る間隔が狭まっていく。
まずい。早く取り上げないと、また先日駅であったように操られてしまう。まさか直緒や宝也君をどうこうすることはできない。
「直緒、ママなら来週には退院してくるって張り切っているから大丈夫だよ。お願いはきっと叶うから。だから、今はお兄ちゃんにこの鈴を渡してくれないか?」
直緒の純真な目が少し大きめに開き、じっとおれを見てくる。
「うそ!」
いつもよりも甲高い声で、一言直緒はそう叫んだ。
思いがけぬ直緒の反抗に、おれは内心ちょっとうろたえる。
「だめだよ。お兄ちゃんだって、これは渡せない。だってお兄ちゃん、ぼくのおねがい、壊してしまうつもりでしょう?」
直緒の声が途中から低くくぐもり、口元があり得ないほどに歪んだ笑みを作った。
純真な天使のようだった目に、大人の蔑みの光が浮かんでいる。
「直緒?」
直緒の中に、違うモノがいる!
思わずおれは飛び退り、時を同じくして宝也君にも同じことが起こっていたらしく、飛びのいた幹也さんと背中を合わせることとなった。
「直緒君、どうしたの?」
顔を見なくても苦笑いしているのが見えるようだ。
「宝也君こそどうしたんですか」
答えは同じだ。
間隔を狭めながら高鳴っていく鈴の音に、狂わされている。
直緒のカバンに結び付けられていた紐は解け、青い鈴は直緒の頭上へと勝手に浮き上がりはじめている。
直緒から距離をとっている場合じゃない。おれは一歩踏み込み、青い鈴に手を伸ばす。
だが、鈴は風にでも乗せられたようにふわりとおれの手をすり抜け、はるか上空へと急上昇した。流れ星が尾を引くように、宵の闇にも分かるほど黒い瘴気を撒き散らして。
「河山ー、どうしたー?」
青いスポーツカーの扉が開いて、折り悪く片山先生が降りてくる。
「先生、来ないで!」
おれが叫ぶのと同時に、黒い瘴気はごうっと音を立てて上空から地上へと落ちてきた。
「〈結界〉!」
幹也さんがいるのも構わず、おれは頭を両腕で覆って思わずそう唱えていた。
淡い燐光がおれと幹也さんの周りを取り囲み、ドーム状に瘴気が頭上から流れ落ちていく。
同じく頭を腕でかばっていた幹也さんは、そっと腕を下ろしながら頭上を見上げ、おれを見た。
おれはすっと視線を逸らす。
言い訳なんて考えている場合じゃない。どうやって直緒と宝也君を助けるかだ。
「宝也も入れてくれればよかったのに」
何と言われるかと思っていたら、幹也さんはぼんやりとそんなことを呟いた。
「中に入れたらこの中まで瘴気だらけになりますよ」
「まあ、そうだけどね。でも、結界って中の人を守ることしかできないから、外に何か影響与えるには、いずれにしろ出なきゃならないよね」
「そう、ですけど」
幹也さんは驚くどころか、すでに順応していた。
「河山君さ、〈浄化〉は使えないの?」
RPGの選択肢を聞くような気軽さで聞いてくる。
「それは……」
茉莉はまだ眠ったままだ。そうでなくてもついさっきまでひどい戦いの中にいて、神界の空気を浄化するための魔法をかけなおしたところだ。この上さらに今、〈浄化〉なんて使えない。
そんな迷いを読んだかのように、結界ドームの真っ暗な向こう側から、頬を往復びんたするような声が聞こえてきた。
「宏希!! 生きてる!? わたしは大丈夫だから、早く〈浄化〉しちゃって!」
茉莉まで起きて車から出てきてしまったらしい。
大丈夫だって口では言っているが、おれだって蓄積された疲労感は半端ない。ここでさらに茉莉に無理をさせるなんて……。
「グダグダ考えてないで早くやりなさい! ったく、決断力のない男ね!」
雷のような怒声に鞭打たれて、おれはうっと口ごもる。
「人の身体(うつわ)とはいえ、正式に契約を結んだんだろう? それなら、彼女を信じてあげることだ。精霊王の力は、君が思っているよりも強大だ。何しろ、大気はこの世の至る所に存在している。その全てに宿る精霊たちを統べるのが風の精霊王なのだから、こんな一点局所的な大気を浄化することくらい、息をするよりもたやすい」
全てを見通しているかのような静かな声と、値踏みするかのような冷静な視線は幹也さんのものだった。
なんなんだ、この人。
いや、考えるのは後だ。
幹也さんの言う通りなら、精霊王の力を信じてもいいはずだ。
忙しなく鳴る鈴の音が、一瞬止んだ。
その隙に、おれは口早に唱える。
『清廉なる風の精霊よ
悪意で満たされし この地の大気を
その息吹もて 吹き浄めよ』
「〈浄化〉」
結界の外の大気が一斉にざわめき、大きく揺れたかと思うと、ざぁぁぁっと黒い瘴気が透明な大気に代わっていく。
最も濃く取り巻いていた直緒と宝也の周りの瘴気も、旋回する風に取り払われ、霧散していく。
ふっと意識を失って倒れていく直緒を茉莉が、宝也君を片山先生が抱き留める。
ほっと息をつくと同時に結界が解け、おれはがくがくと力が抜けるままに道路に膝をついた。
その横を幹也さんはすり抜け、直緒と宝也の横に落ちた青い鈴と緑の鈴を、無言で革靴の底で踏み潰した。
それを見てももはや茉莉は何も言わない。
「おねえちゃん……」
途中から涙声になっていた直緒は、茉莉にしがみついて泣きはじめた。
片山先生から幹也さんの手に移された宝也君も一緒に泣き出す。
おれはよろよろと茉莉の側に行き、茉莉の顔色を確かめる。
「大丈夫か、茉莉」
「あー、よしよし」と直緒をあやしていた茉莉は、一瞬の間ののち、ぎろりとおれを振り返った。
「わたしよりも直緒の方を心配しなさいよ」
「直緒のことも心配してるよ。でも、瘴気も残っていないようだし」
「当ったり前でしょう」
直緒を抱きしめながら、茉莉は胸を張る。
「ありがとう。帰ったらゆっくり休もうな」
ポンと茉莉の頭を撫でると、いつもは手を振り払ってくるのに、今はおとなしくポンポンされている。
「茉莉?」
茉莉は直緒を抱きしめながらまた眠ってしまったようだった。
「疲れているんだね。さ、もう帰ろう」
片山先生が軽く茉莉を抱き上げ、おれは直緒を抱き上げる。
「幹也さん、あの」
宝也君を抱きかかえた幹也さんは、やはり値踏みするような目でおれを見下ろした。
この視線、前にも感じたことがあるかも。科野と話しているときによく向けられた気がしたけれど。嫉妬? じゃない。そもそも幹也さんは科野のお兄さんなんだし。どちらかというと、泣かせたら承知しないぞという脅しの視線。
「科野のことは、迎えに行くつもりです。だから、少し時間をください」
一度、ちゃんと話さなきゃいけない。そうしないと、どうにもこうにも先に進めなくなる。おれの気持ちも、この先の人生も。
幹也さんは、一度空を見上げたようだったが、やがて小さく息を吐きだした。
「文化祭には間に合うんだろうね? 葵は女の子役で主人公だって、とっても喜んでいたんだよ」
そうだ。科野は昔からいつも文化祭で演劇をやることになると男役ばかりだったと言っていた。たとえ男装していたとしても、女役が嬉しいのだと。
あれは、まぎれもなく科野葵の感想だろう。
炎とは別の、科野葵としての人生の一端。
そう切り分けてはいけないのだろうか。やはり炎は昔から彼女に影響を及ぼし続けていたんだろうか。
「幹也さん、科野は……葵さんは、小さい頃からずっと変わらずあんな感じでしたか?」
科野の二番目の兄は、怪訝そうに片眉を上げた。
「途中から大人びたり、何か変わってしまったりすることはありませんでしたか?」
ずっと炎と一緒にいたのだと科野は言っていた。それなら、幹也さんは何かに気が付いていたはずだ。
「わが妹ながら、葵のいいところはね、裏表がないところなんだよ」
すぅっと目を細めて、幹也さんはそう言った。
裏表がない、ということは、ずっと一貫性があるということ。
とはいえ、その一貫性が何に基づいて貫かれてきたものなのかはまた別の話だろう。
何か、隠している?
さっき、茉莉のことも風の精霊王と見抜いて話を振っていた。それなら、この人もまた、関係者だ。しかも炎の側にいてシスコンと言われるほどに妹を甘やかして――
「あ゛」
思わずおれはカエルが潰れたような声を出していた。
あの人を値踏みするような視線。
よく風の時に浴びていた気がする。
炎と話しているときなどは、特に。
これ以上は、確認することも恐ろしいので、おれは一礼して幹也さんの前から踵を返し、片山先生の車に逃げ込んだ。
幹也さんは特に呼び止めることはせず、片山先生はまた機嫌よく車を走らせはじめた。
片山先生がさっきの異常現象について質問してくることはなかった。
質問しようとしたのかもしれないけれど、おれももう、目を開けていることができなかったから。