聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第5章 泥の花

1(風)
 十月も下旬となると、天宮といえども冷え込みが増してくる。それでも、秋の午後の日差しはまだ白いレースカーテン越しに優しく部屋の中に降り注いでいた。
そんな窓辺でゆらゆらと揺れる椅子に身をもたせてうとうととしていたこの世の女神は、おれの来訪に気づいてそっと金色の長い睫毛で縁取られた瞼を開いた。まるで黄金の夢から覚めるように、ゆっくりと意識を取り戻していく様は、絵画のように美しかった。そして、南東の深海で最も美しいといわれる海よりもなお青く深い瞳がおれに向けられて、薔薇色の唇がほころぶ。
「いらっしゃい、風」
 柔らかく穏やかな声が胸の奥に染み入り、じんわりと広がる。
 八人目の子を宿し、臨月に入った愛優妃様は、今は世の男たちを虜にする女神というよりも、母性に満ちた一人の母親だった。
「ご無沙汰しております。……愛優妃様」
 閉めた扉の前で、おれは膝をついて一礼した。
「やぁねぇ、かしこまっちゃって。風ったら、なかなか会いに来てくれないんだもの。お母さんだって、たまには寂しくなることだってあるのよ? もう、定例会で天宮に来てるっていうから、ついつい呼び出しちゃったじゃないの」
「お寂しいだなんて、またまた。いつまでたっても統仲王様と仲睦まじくていらっしゃるくせに」
「やだ、何言ってるのよぅ。可愛くないわねぇ。ほら、いつまでもそこに蹲ってないで、こちらにおいでなさいな」
 たすたすと愛優妃様は自分の隣の椅子のクッションを叩いてみせる。
 こういうところは可憐な少女のようだなぁ、などと思いながら、おれは言われたとおり、愛優妃様の隣の椅子に座る。
 穏やかさの中に激情を隠し持った長女の海は、長年の達観がもたらすのか海の底で密やかに水面を見上げているかのような嫋やかさを持っている。次女の炎は、その名に恥じず燃え盛る炎のように快活で明朗さが取り柄の一本気な男勝り。その二人の姉妹を生んだ母親は、時に男性を魅惑する美しさを見せ、時に母親の優しさを見せ、そして、いつもどこか、子供っぽい少女のような、いつまでもときめきを追いかけているような眩しさを持っている。
 そのきらきらとした青い目で、無邪気にニコニコと眺められると、母であれ女神であれ、居心地が悪くなってくる。
「あの、何か御用でしょうか」
「ほら、それ! 御用でしょうか、じゃないでしょう? 母親が息子に会いたくて、それ以上の用事なんてある?」
「はぁ」
「もう、これだから思春期の息子は嫌なのよね。スキンシップは嫌がるし、母親ってだけで毛虫でも見るような目で見るんだから」
「いやいやいいや、おれ、とうに思春期終わってますよ?」
「だって、まだ身体は十六、七でしょう? 思春期じゃない。生意気盛りじゃない」
「え〜……」
「ああ、やっぱり記憶なんて消したまんまにしておけばよかった。そしたら、いつまでも可愛い風でいてくれたのに」
 椅子の肘掛けに肘をついて顎のあたりを支えながら、愛優妃様は盛大に膨れっ面をして窓の外に視線を落とした。
 もしかしたら統仲王をはじめ、世の男どもは、こんな仕草にも可愛さやキュンなどという状態に陥るのかもしれないが、残念ながらおれは生きた心地がしなかった。
 この距離なら、十分に愛優妃様の手はおれの額に届く。その雪のように白い手を額にあてられたら、女神の心次第では、おれのキルアスとしての記憶は消されてしまう可能性がある。
 そもそもおれは、あなたのことを母親だと思ったことはほとんどないというのに、それをわかっていて母子ごっこを仕掛けてくるのだからたちが悪い。
 約束通り、女神は風が三歳の誕生日、キルアスの記憶を呼び戻してくれた。
 おれは自分がここにいる意味を思い出し、小さい体に悪戦苦闘しながらも、第七子風として人ながら法王の兄弟たちに混じって、悟られぬよう注意深く成長してきたつもりだった。
 女神は笑って見ていたのかもしれないが。
「それは、勿体ないことをしましたね。きっとおれでなければ、従順で純粋な少年になっていたでしょうね」
「でしょう? 育が小さかった時のことなんて大昔過ぎてなんだか記憶の彼方だし、今の育から想像するのも酷だし。龍はね、可愛かったのよ? お母様、お母様〜って、いつでもスカートの裾を握ってついてきて。それこそ従順で純粋な子だったわ。どうしてあんな無表情な子になっちゃったのかしら。麗だってわがままだったけど可愛かったし、鉱もね、とっても甘えん坊さんだったのよ?」
 笑っちゃいけないとは思いつつ、龍兄さんが母親のスカートの裾を握って、後ろをついて歩いている姿を想像して、ついつい口元が緩んでしまった。
「それなのに、あなたったら、日向のような金髪に海のようなとろける碧い瞳を持つ天使のような可愛さだったのに、記憶を返した途端に急に他人になっちゃったんだもの。私の天真爛漫な風を返してほしいくらいだわ。でなきゃ、三つと言わず、成神までそのまま大事に手元で育てればよかった」
「はいはい」
 なお、ここまでのくだりは過去何十、何百回と繰り返されてきた挨拶の一部である。他人だの、風を返してだの言われるのも、今に始まったことじゃない。あながち冗談にも聞こえないのは、愛優妃様は結構本気で言ってるからなんだと思う。まぁ、きっとそれは血を分ける前の他人であるキルアスとしてのおれを尊重してくれているからだろう、と勝手に解釈しているのだが。
 ただし、龍兄さんのくだりだけは、どうしても我慢できずにいつも笑いを漏らしてしまう。
「で、その他人のおれに、何の御用でしょうか?」
「んもうっ」
 いよいよ愛優妃様は拗ねてそっぽを向いてしまう。
 これもまた既定路線。
 おれは、不躾にならない程度に大きく膨れた愛優妃様の腹に視線を移した。
「お腹、大きくなりましたね」
「ええ――もうすぐなの。十一月の半ばには生まれるはずよ」
 まるで日付まで分かっているかのように答えた愛優妃様の声は、さっきまでと打って変わって暗いものだった。
「私は、この子が生まれてくるのが、少し怖いの」
 深く息を吐きながら、愛優妃様はご自分の腹を愛しげに、あるいはおそるおそるそっと、片手で撫でた。
 その手に反応するように、ぽかっと少し内側からお腹が動いたように見えた。
 いつもなら「見て見て! 見た? 動いたわよ!」と喜びそうなものなのに、伏せた黄金の睫毛の向こうでは憂いを帯びた視線が腹に注がれたままだった。
「どうしてです?」
 珍しいな、と思いながら、問い返す。
 愛優妃様は、すぅっと息を吸い込むと、吐き出す息にのせて暗い予感を吐き出した。
「この子が産まれてしまったら、全てが始まってしまうから」
 まるで、本当に生まれてきてほしくないみたいに。
「それは、どういう……」
 愛優妃様は、普段ならおれが天宮に来ていても、そうそう自室にまで呼んだりはしない。
 統仲王様を中心として、各国の情報交換する定例会に来ても、定例会が終わった後は長女である海姉さんと二人連れ立ってお茶をしに行ってしまうし、そもそも本来はいい大人の子供たちに対して、公共の場で面と向かって子ども扱いすることは少ない。
 愛優妃様がわざわざ人払いをした自室におれを呼び出すのは、子ども扱いをしたい時。
 ごくごくたまに、元気かとか、キルアスだったことがばれていないかとかを冗談めかして聞いてくる。そういうところは、他人他人と言いつつも、自分の腹から生まれた子供として心配してくれているのだと思う。それからあとは、炎を心配して様子を聞きたい時。炎のことは炎に直接聞けばいいのに、と思ってしまうが、不思議なことに、愛優妃様と炎が二人きりで連れ立っておしゃべりしている姿を、おれは今まで一度も見たことがなかった。事情は首を突っ込んで聞いてみたことはない。
 だから、今回も何か心配事があって呼び出されたのだろうと思っていたが、愛優妃様の表情は今までになく深刻なものだった。
「きっと、この子には寂しい思いをさせてしまうわ。風、貴方には生まれる前から大変な苦労を掛けてしまって申し訳ないけど、この子を本当の妹だと思ってかわいがってちょうだい」
 生まれる前から大変な苦労、だなんて、それはキルアスが歩んできた人生(みち)。愛優妃様の配慮の及ぶ範囲では……あるのかもしれないけれど、それでもおれが選んで辿ってきた道だ。謝られるようなことは何もない。
 それより、妹。
 お腹に視線が釘付けになったままのおれの手を、愛優妃様は両の手で優しく包み込んで、懇願するようにおれの顔を覗き込み、「お願い」と付け加える。
「本当の妹だなんて。僭越ながら、僕は今じゃ兄さんたちも姉さんも本当の姉弟のように思ってしまっているんですよ」
「僭越なんて思わなくていいのよ。貴方は統仲王とこの愛優妃から肉体を授かった者。他の法王たちと同じく、この腹から生まれた者。貴方だって法王なのだから」
 愛優妃様は、嘘を言わない。心から思っていることだけを口にする。この身体が統仲王様と愛優妃様の間にできたことは確かだし、法王と呼ばれる者が二人の神の血を受けた肉体を持って愛優妃様の腹から生まれた者だというのなら、今のおれは間違いなく物理的には二人の子供であり、法王だった。
 だからこそ、意識したくない部分まで苦い想いが込み上げる。
「それはむしろ釘を刺されているように聞こえます」
「炎のことは姉だと思っていないのでしょう? さっきの言い方からして」
 兄さんたちと姉さん。
 愛優妃様にしては珍しく人の悪い顔をして、意地悪なことを口にしてきた。
 おれが困るとわかっているくせに。
「思いたくなど、ありません」
「そうね。でも、もうあなたは人には戻れない。それも分かっておいてもらわないと。私たちから器(肉体)を授かった時点で、貴方はもう人であることを捨てたのよ」
「炎に出会わせてそう導いたくせに」
「ええ、だから、私のことは恨んでいいわ。いくらでも恨んでちょうだい。炎とのことだって、何も言わない。だけど、この子だけは……」
 拗ねてほしいのかと思いきや、本題はやはりこれから生まれる妹のことらしい。
「おれは、上の兄姉たちを恨んだり嫌ったりしたことはありませんよ。それこそ、なんて人らしい神様たちなのだろうと思ってしまったくらいです。神の子でも完璧ではない。感情に振り回されることもあるし、後悔することもある。人を愛することもある」
「風。貴方は、約束とはいえ、私が貴方に記憶を返したことを恨んでる? 今からでも消してほしいと思っている?」
 それは、今からでも炎とただの姉弟に戻りたいか、と?
 人であったことを忘れて、ただの風環法王として生きていきたいか、と?
 ――それは、ない。
「いいえ。もうここまで生きてしまったんです。おれだってもう、――キルアスなのか、風なのか、自分でもよく分からなくなっている。確かなのは、炎の側にいたいという気持ちだけ。記憶なんかわざわざ消されなくたって、これほど悠久の時に放り投げられてしまっては、忘れていくことの方が多くなっていく。それでも、きっとこの気持ちは残るでしょう。おれが自分が何者かわからなくなっても」
 愛優妃様は小さく溜息をついた。
「人に、この時間の長さは酷なことね」
「ええ。――愛優妃様、貴女がおれに生まれてくる妹のことを託すなんて、ただ戯れに言っているわけじゃないのでしょう? それは、おれのためですか?」
 ようやく、愛優妃様はほっとしたように表情を緩め、お腹に手をあてながら優しく膨らんだ腹を見つめた。
「この子にとって、きっと兄と心から慕えるのは貴方だけになるから。最後まで、いいお兄ちゃんをやってほしいの」
「貴女は、おれには無理難題ばかり吹っかけますね。いいお兄ちゃんでいてほしい、じゃなく、いいお兄ちゃんをやってほしい、だなんて」
「貴方の演技力を見込んでのことよ」
 自信に満ちた声で言い切ると、愛優妃様はおれをキラキラした目で見つめた。
「本当に貴女は人が悪い」
「だって、未だに姉弟たちを慕わしく思うことを僭越だと思っているのでしょう? この子には悟られないでね。生まれつき、貴方が本当の兄なのだと思わせてあげてちょうだい。きっと、一人ぼっちだと思うことが多い神生になるわ。貴方だけは最後まで、この子の肉親でいてちょうだい」
 肉親。本当の、兄に。
 そうやっておれにこの妹のことを託す、ということは、少なくとも愛優妃様はいつかこの子の傍からいなくなるつもりだ、ということになる。
「愛優妃様、貴女は、どこへ行かれるつもりですか?」
「私は……この子を産んだら、闇獄界へ行きます」
 闇獄界。
 足を踏み入れたことはないが、おれがキルアスだった時からすでに何度も神界に侵攻を企て、その度に戦争や小競り合いになっている負の世界。神界とは対を為す暗闇の世界だ。
「それほどまでに、闇獄界は厄介な場所になってきているのですか? この世界の女神が光を背負って赴かねばならないほどに」
「……そうね。だけど、私は……」
 愛優妃はそう言って、臨月を迎え、はちきれんばかりに膨らんだ腹を一撫でした。
「怖いのよ」
 ぽつりと腹に視線を落とし、この世の美と美の粋をかき集めた女神は呟いた。
「生まれる前からそれほど愛しているのに?」
「私はちゃんとこの子を愛せているかしら?」
「そう見えますけど? 貴女が愛せないものなどあるのですか?」
「……そうね。愛そうと、努力しているだけかもしれない。この世の全ては私の心には余るもの。似てると思うのよ、私、貴方と」
「何をおっしゃるのです」
「私は貴方が羨ましい。私も本当に慈しみたい人だけ側において、その人とだけ関わって生きていきたい。でも、私は愛優妃だから。この世界の女神になろうとしたのだから、これくらいの犠牲は贖罪にもならない」
「貴女が怖いのは、生まれてくるその子ですか。――愛優妃様、貴女は未来が見えるのですか? それとも、母としての勘?」
「何が……?」
「さっき、生まれてくる子はおれの妹になると言いました。神ならば、生まれる前から生まれてくる子の性別もわかるものですか? おれのこの器(にく)は何年もその腹に閉じ込めていたくせに。いや、おれを拾うためにわざと残していたのですよね? この身体は」
 愛優妃様は、諦観したようにおれを見た。
 まるで、全ては決まっていることなのだと言いたげに。
「この子が生まれたら、歌を教えてあげてちょうだい。子守唄から、人を愛する歌まで。貴方が知り得る限りの歌を教えてあげてちょうだい。私はこの子に歌ってあげられないから。私の分まで、お願いよ」
「おれに、女神の代行業までさせる気ですか?」
「私はこの子を……きっと、いつか愛せなくなる。いいえ、今からもう、生まれてくるのが恐ろしくてならないの」
「それはもう、愛していないのと同じでは? 愛そうと努力することは愛することとは別ですよね?」
「そうね。だから、私はこの子を置いていくの」
 決然と、愛優妃様は言った。
「何が、生まれるんですか? 今度は」
 愛優妃はまじまじとおれを見た。
 おそらく、この兄弟はおれの時点で異物が入り込みはじめている。
 純粋にただの血兄弟ではなくなってきている。
「統仲王は大丈夫だというの。でも、私は、恐くてたまらない。いっそ、ここで腹を切り裂いて殺してしまった方がいいんじゃないかとさえ思っているの」
 そう言って、愛優妃様はじっと暗い目でおれを見る。
「やりませんよ、おれは」
「そう、だから、ね。私は逃げるのよ。きっと、この子が流れてもまた次に妊娠したら、いつまでもこの子は生まれてこようとするでしょうから。罰を受ける覚悟もなく、誰かを殺めることがこんなにも恐ろしいことになるとは思わなかった」
 おれは深くは問い詰めなかった。
 この人も、ただの光の塊じゃない。希望の塊じゃない。愛の塊じゃない。
 そりゃそうか。愛は、育てもすれば壊しもする。両極端の最も強い感情。
「触れてもいいですか?」
 おれは愛優妃様の側に膝をつき、膨らんだ腹に手を伸ばして、そっと耳をあてた。
 鼓動が聞こえてきた。とても速い律動。早くここから飛び出したいと言わんばかりの、生きようとする鼓動。
 この世で最も美しい神たちの間に生まれる子供だ。きっと愛らしく、美しい子が生まれるに違いない。
「誓いましょう。たとえ母である愛優妃様が貴女を見捨てても、たとえ父である統仲王様が貴女を疎かにしても、たとえ兄姉たちが貴女を軽んじても、おれは最後まで貴女の兄として、貴女に接しましょう。最後などという時が来るのかはわかりませんが。貴女は正真正銘、神の子。その兄に人がなろうというのだから、大事にしますよ」
「ありがとう。――風」
「では、僕はこれで」
 泣いている愛優妃様を一人にして、おれはその部屋を出た。
 おれはまだ、風に戻りきれてはいなかった。
 託されたものの重みをずっしりと感じながら、長い回廊を経て、外へ出た。
 風が吹く。
「逢綬、早いな」
 迎えに来た麒麟の背に乗り、空高く舞い上がる。
 満月の夜だった。
 妹が生まれたのはそれから間もなくのことだった。
 愛優妃様は、言葉通り、闇獄界へと旅立った。
 おそらくもう、あまり戻っては来ないのだということは、きっとおれと統仲王だけが知っていた。
 生まれた妹は海姉さんによって「聖」と名付けられ、後見には龍兄さんが立てられた。
 天龍城で育てられることになった末妹とは、愛優妃様が言うほど深い姉弟関係が築かれるとは思わなかったのだが、彼女が成長してほどなく、おれは愛優妃様の予見していたことを悟る。
 確かに、天龍法王は彼女にとって兄ではなくなってしまっていた。
 聖刻の国の隣国にいるはずの育兄さんは天宮で統仲王の片腕として政務に励むので忙しい。極北に住む麗兄さんは引きこもり。砂漠の鉱土法王は馬鹿みたいに末妹を溺愛しているが、生涯の伴侶を得てしまった。
 なら、おれはどうかって?
 おれは、相変わらず炎と仲睦まじく、それでいてどうにも煮え切らない毎日を過ごしていた。
 弟のふりをしながら、恋人をするのは、なかなか難しい。
 こんな小芝居、とうに周りにばれているだろうに、兄弟連中はさておき、統仲王様さえ何も言わない。それが、愛優妃様とおれの間で交わされた約束だからだろうが、約束を交わしたとうの愛優妃様は当初の予想通り滅多に神界にいることはなくなった。統仲王様までその約束に縛られる理由はなかろうに、統仲王様は最後までおれと炎との仲を見て見ぬふりをした。
 その昔、育兄さんと海姉さんが過ちを起こした際には激怒したと有名なのに。
 愛優妃様とは対照的に、いや、愛優妃様の分までなのか、聖を溺愛するあまり、後見の龍兄さんを邪険に扱いさえしているのに。
 むしろ、お墨付きを頂いているようなものだった。
 炎は、それについては複雑だったに違いない。
 自分は愛されていないのではないかと、ぽつりと零したことがある。
 彼女がおれに出会わされた理由を知っているおれとしては、何とも言えなかった。
 彼女は、実の父と母に生餌にされたようなものなのだから。
 けれど、おれは炎が好きだった。騙されて今ここにいるのだとしても、炎を求めてやまないこの気持ちがたとえ仕組まれて作り上げられたものだとしても、おれは人だ。神のみ心に逆らえるわけがない。
 そう言い聞かせ、時に姉弟であることを棚に上げ、元は人であったことに逃げることができたのは、炎に比べれば幸いなことだったのかもしれない。
 それでも、この世界は狭く、長く、苦しい。
 どこまでも、おれたちは血のつながった姉弟なのだという事実が付きまとい、それを知る者たちが絶えることは決してない。
 息苦しくなるも道理だ。
 先に、息苦しさを覚えていたのは、炎の方だった。
「ねぇ、この星、何か知ってる?」
 統仲王様の秘密の部屋におれを招じ入れ、炎はその部屋の中央に浮く宝石のように青く透明な球体を指して言った。
「ブルーストーン。新しく創生した人界(箱庭)に、唯一あたしたちと同じ人の形をした生き物が住んでいるの。気候もここと同じように作られていて、極寒の氷原も、灼熱の砂漠も、潤いのオアシスも、小麦の実る平原も熱帯雨林も、湿原も、蓮の花の咲く湖も……何でもあるの」
「まさに神界の箱庭だね。神様のやることは違うや」
 うっかりそう口走ってしまってから慌てて口を噤むが、炎は一瞬不思議そうにおれを見ただけだった。
「いつか、あたしここに還りたい。風、その時は一緒に行ってくれる?」
 その言葉の意味を、本当のところおれは半分くらいしか分かっていなかった。
 きっと彼女もこの世界の閉塞感にもう窒息しそうになっていて、おれたちのことなんか誰も知らない新しい世界でやり直したいと思っているのだと、素直にそう思っていた。
 還りたいなんて言ったのも、幼い頃のまだ荒野ばかりだった神界を思い出して郷愁を感じてのことだろう。
 彼女がまるで行ったことがあるかのようにブルーストーンのことを語っているということなど、その時のおれはちっとも気づきはしなかった。
 それで、良かったのだけれど。
「ああ、いつか一緒に行こう。ブルーストーンに」
 触れあわせ、絡めあわせた指先。
 珍しく彼女の指先は冷たくて、おれは遠慮なくその細く長く優雅な指先を口に含んだ。
 くすぐったそうに彼女は顔をしかめる。
「おれは、炎さえいればいい」
 彼女を抱き上げて、おれはその秘密の部屋を後にした。
 いくらなんでも、統仲王様の秘密の部屋でこれ以上仲良くするわけにはいかない。
 炎の身長は女性にしては高い方だったが、こうやって抱き上げてしまうとすっぽりと腕に収まってしまう。長い腕を首に絡ませ、足は楽しげに揺らしながら、炎はおれの胸に顔を埋める。
「誰かに見つかったら、なんて言い訳しよっか」
 くつくつと笑いながら炎は言う。
 さすがに統仲王様と愛優妃様公認とはいえ、侍従やら侍女やらに出くわしたら気まずいことに違いはない。まぁ、噂の種くらいにはなってるのかもしれないけど、なんか仲いいよねというのと、見ちゃった、というのは信憑性が違ってくる。
「うーん、炎姉さんが具合悪くしちゃって〜、とか」
「ベタだな」
「下手な理由なんてつけない方が最もらしいじゃん。辿り着くところ、同じだし」
 天宮には客室と同様に法王それぞれの専用部屋が用意されていて、天宮でパーティーがあった時や会議で遅くなった時など、自由に使うことができる。聖なんかは〈渡り〉を使えばすぐに聖刻城に帰ることはできるが、それ以外の法王たちの場合、騎獣の負担も考えると、そんなに急いで帰ることもないから、幾日か宿泊していこう、ということになる。
 まぁ、引きこもりの麗兄さんは禦霊を酷使してすっ飛んで帰るタイプだし、結婚してからの鉱兄さんも愛妻と子供たち会いたさに天宮で油を売ることは少なくなった気がする。どちらかというと、鉱兄さんのところは、家族で天宮に滞在しにきたりもしているから、浮気などしている暇もないに違いない。幼いころ、石を持ってきて剣を打ってくれと頼みに来たあの一本気な男の子が浮気するタイプとも思えないけど。
 愛優妃様が天宮からいなくなって、海姉さんが長く滞在することもなくなった。育兄さんは仕事柄どっちが本当の家かわからないくらい天宮にいるらしいけど。龍兄さんも、聖と距離を置くようになってから、天宮にもめったに長居することはない。
 気がつけば、兄弟たちが天宮に滞在する時間は、昔に比べてだいぶ短くなってしまったに違いない。
 人気のないフロアに足を踏み入れて、今日はどちらの部屋に帰ろうかと思いつつ、炎を抱きかかえているのだからと、炎の部屋に滑り込んだ。
 ここまで誰にも会わずに戻ってこれるとは、よほどついているのか、実は天宮の人々が気を利かせてくれているのか。
 部屋の奥まで進み、炎をベッドに横たえる。そのまま覆いかぶさり、思う存分唇を奪う。荒くなった息を感じながら、服を脱がせ、天鵞絨のような肌に唇を這わせる。
 炎の首には、相変わらず大昔に作った二人分の指輪がかけられている。これだけ時間がたてば古ぼけてしまいそうなものだけど、時々、丹念に磨いてくれているのがわかる。
 だけど、最近のおれは、それを見てもあまり嬉しくはない。
 炎は決しておれをキースとは呼ばない。
 首にはキースから贈られるはずだった指輪がかけてある。
 おれは――キルアスの続きをやっているつもりだったけれど、あっという間に風環法王の時間の方が長くなり、「風」という名の方に馴染むようになってきていた。
 おれは、炎に何もあげられないのか。
 指輪一つ、贈ることもかなわない。
 あげられるのは、たくさんのキスと、溶けて消えてしまいそうになるほど濃密な時間。
 それだけ。
 何も形で残してあげることができない。
 それに……もうずいぶん長いこと炎と睦みあってきたけど、炎は一度も妊娠しなかった。流産も死産もなく、この何千年間に一度も、身籠らなかったのだ。
 流産や死産なんて悲しいこと、もしかしたら炎が密かにおれに隠しているのかと疑った時もあったが、一度として長期に渡っておれを拒むことはなく、思い切って聞いても、ただ首を振られるだけだった。
「生理がね、来ないの」
 その時の炎は、心配しないで、と何とか笑おうとしているのに、失敗して崩れた微笑になっていた。
「大事な人をいっぺんに失ってから、来なくなっちゃったの」
 まるで他人事みたいに、視線も合わせずそう言っていた炎。
 その大事な人は、キースなんだろうと思っていたが、目の前におれがいても悲しみは癒えないのか、と――きっとその頃から、炎の首に下げられた指輪が疎ましくなっていったんだと思う。
 だからその夜、おれは炎の首にかけられた指輪を通したネックレスに手をかけた。
 炎が快楽に溺れているうちに外してしまおうと思った。
 留め金を外し、するりと炎の首元から流し落とす。
 すると、ふ、と炎は潤んだ眼を開けて、おれを睨みつけながら、流れ落ちていく指輪と鎖を手で掬い取っていた。
「やめて。つけて」
 自由の利かない状態で精一杯の抵抗を見せる彼女の言葉は、短く非難に満ちていた。
「いやだ」
 おれは静かに言った。
 途端に、平手が頬に飛んでくる。
 大人しく叩かれたものの、痛くないわけがない。少し身を捩った隙に、炎はおれの下から這い出していた。
 怒気もあらわに、ネックレスをつけなおす。
「どうして……おれじゃ、駄目なの?」
 そんなこと、言うつもりもなかったのに、思わず口から出てしまった言葉に、自分で絶望した。
 自分で自分に嫉妬するなんて、こんな馬鹿げたことがあってたまるか。
 口元を押さえ、ネックレスをつけた彼女から視線を逸らす。
 彼女は彼女で、片手で頭を抱えていた。
「そういうわけじゃ、ない」
 苦く、呟く。
「でも、これは、大事なものなんだ」
「じゃあ、おれから指輪を贈ったら、それを代わりにつけてくれる?」
「違う。そういうんじゃなくて……」
 炎は、ついには両手で顔を覆いだす。
 おれはおれで、指輪すらももらってもらえないのか、とまた失望する。
「願掛けだ」
 どれくらい二人の間に沈黙が横たわってしまったのか、思い出すのも嫌なほど無言で二人で向き合った末、炎は泣きそうな声で呟いた。
「願掛け?」
 おれの問いに、炎は両腕で顔を覆って、おれの視線を完全に遮断する。
「子供が……無事に生まれたら、外そうと思ってた」
 ……子供?
 思わずひっくり返った声で問い直しそうになる前に、炎は呻くように口早に言った。
「馬鹿な女だと思うだろう? 子供が欲しいだなんて。それも、貴方は禁忌の相手だというのに、どうしても、止められなかった。諦めきれなかった。今度こそ、無事に産むことができたら、あたしもあの子も救われるんじゃないかって。ここでは絶対に産めないし、育てられないけど、ブルーストーンなら、あたしたちのことを誰も知らない新しい世界なら、きっと何の気兼ねもなく、あたしたち、家族になれる。それに――好きな人の子供を産みたいと思うのは、女としての本能なんだ」
 堰を切ったように、わぁっと炎は泣き出した。
 おれは、茫然と泣き崩れた炎を見下ろしていた。
 すぐに手を差し伸べて上げられれば良かったんだと思う。抱きしめてあげればよかったんだと思う。わかるよ、とか、ありがとうとか、何か、優しい言葉をかけてあげられれば良かったんだと思う。
 でも、おれの中では、さっき炎が言った言葉の中の「あの子」がどうしても気になってしまっていて、同時に、さっき統仲王様の部屋で見た青い星は、彼女にとってかけがえのない希望の場所だったのだと気が付いた。
 ようやくおれの感情の処理が追いついた頃には、炎はほとんど泣き止んでいた。
 そろそろと炎の肩に手を伸ばす。
「ごめんなさい。今日はもう、一人にして」
 その言葉に、一人にしてあげるべきかと一瞬迷ったが、おれはそのまま彼女に近づき、抱き寄せてシーツでくるみこんだ。
「いつか、ブルーストーンに行こう」
「いつか……」
「いつがいい?」
「……今すぐ」
「このまま?」
「そう」
「どうやって?」
 炎はうつむいたまま、しばし考え込んでいた。
「扉がある」
「扉?」
「人界への扉。そこをくぐれば、そこはもう、人界だ」
 まるで扉から行き来したことがあるかのように。
「扉がだめなら、聖に頼もうか」
「一緒に来る、っていうかもよ?」
「それならそれで、楽しいかもしれない」
「うん、そうだね」
 いつか、ブルーストーンに行こう。
 その呪文は、いつしか二人の希望になった。
 いつか。いつか。
 いつかなんて、決断して引き寄せなければ来ることなどないのに、おれたちは夢の中に安住してしまったのかもしれない。
「ねぇ、嫌だったら答えなくていいよ。あの子って、誰?」
 炎の首に下げられた二つの指輪を弄びながら、おれは問うた。
 炎は嫌がらずにおれに指輪を触らせている。
「成神の儀の時、あたし、妊娠していたの。火炎法王であることを忘れて、ただのエンとして幸せに暮らさせてくれた人との子供。でも、貴方も成神の儀を経たならわかるでしょう? あれは、体の細胞という細胞がすべて新しいものに組み変わるような大掛かりなもの。幾日も高熱にうなされて、繭の中でドロドロに一度自分が解けて、再構成されていって……死産だったの。それはそうよね。あんな状態で生き残れるわけがない。成神の儀が終わって目が覚めたら、お腹がぺったんこになってた。しかも、あの子がどうなったか誰も教えてくれないの。恐る恐る宿蓮に聞いたら、亡くなっていました、って、それだけ。確かにこの中にいたのに、あたしはあの子のお墓の場所も教えてもらえなかった。でもね、必死になってあちこち問い詰めて、探して、ようやく土の中から掻き出して……ホアレン湖の近くだったの。それから無意識に、あの家に向かったわ。顔向けなんかできなかったけど、逢いたくて。だけど、貴方はいなくて、かわりに鍜治場に指輪が二つ残されていて……あたしは……また、あの崖から飛び降りたの」
 「貴方」と彼女が言ったことに、おれは勿論気づいていた。
 「あの崖」はホアレン湖にそそぐ川の上流に位置する、切り立った山脈の一部。炎が大怪我をして流れてきた川の上流にある高低差がかなりある渓谷。
 おれは彼女を抱きしめた。
 今夜はこうやって抱きしめたまま眠ろうと思った。
「一番辛い時に、傍にいてあげられなくてごめん」
 彼女は頷くでも首を振るでもなく、ただシーツにくるまって、また静かに泣きはじめた。