聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第4章 見るな!!

6(聖)
『聖、大きくなったら龍兄のお嫁さんになるのー!』
 もし、丸い水晶の中に時を閉じ込めておけるなら、きっとこの時間を閉じ込めている。
 ベッドに寝転んで天蓋に手を伸ばした先に、幼い日の自分の声を聞く。
 無邪気に笑って龍兄に飛びついて、ぎゅっと抱きしめて、抱きしめ返してもらって。
 温もりも、匂いも、頬を撫でる銀の髪の穂先の感触も、全部全部閉じ込めて、この手の平の中でいつでも思い返すことができればいいのに。
 龍兄は、何と言っていたかしら。
 龍兄のお嫁さんになりたいという私に、龍兄は何と言ってくれていたかしら。
『待ってるよ?』
 ううん、違う。
『早く大きくなって』
 これも違う。
 なんでだろう。
 どうして、少し困ったように笑う顔しか思い浮かばないんだろう。
 私、龍兄にどう思われていたんだろう。
 所詮、幼子の口約束?
 龍兄は、まともに取り合ってくれさえしていなかったのだと、冷静に思い返してみれば、それがずっと龍兄からの答えだったのだと、どうして気づかなかったんだろう。
 伸ばしていた腕から力を抜いただけで、そんな重くもないはずの腕がばすんとベッドに落ちて少し弾んだ。
 天蓋の中心を見つめる。
 気づかなかったんじゃない。
 認めていなかっただけ。
 受け入れていなかっただけ。
 だって龍兄はお兄様だから、私から離れていくはずがないんだもの。
 どこかで、そんな妹の甘えも手伝っていたのも確か。
 それなら、私が本気じゃなかったと思われても、子供の戯言だと思われていても、仕方がなかったのではないかしら。
 子供――私はいつまで子供でいたらいいのだろう。成神もしたのに、いつまでたっても私は末妹のまま。大人の兄さま、姉さまたちに甘え、甘やかされて、心配をかけつづけて。
 今日だってそうだ。
 怒りにまかせて、また〈渡り〉で飛んで行きそうになった。
 小さい頃のように〈渡り〉を気軽に使ってしまうことの恐ろしさを、私はすでに知っているはずで、とっくにどれくらい身体に負担がかかるのか、いきなりその場から消えることによって一体どれくらいの人々に迷惑がかかるのか、ちゃんと学んできたはずだった。
 だから、いつまでも子供だと言われるのね。
 いきなりいなくなって、方々手を尽くして探してくれるのは小さいうち。心配を掛けたくて、わざといなくなって、それでも探しに来てくれるか確かめて。
 そうだ、確かヴェルパに初めて会った時も風兄さまに怒られたっけ。
『聖、嫌なら逃げる前にちゃんと意志を伝えなさい。不機嫌になってその場から消えるなんて、法王であっても人であっても恥ずかしいことだ。さっきの会場で準備に携わってくれた人たち、みんなが聖を心配している。そういう心配のかけ方は、もうやめなさい。成神していないからといって、その辺の子供と聖は同じではないだろう?』
 ああ、私、また同じことしてる。
 成長しないなぁ。
 しかもあの時、私は反省よりも、龍兄が自分の居場所を的確に当ててくれたことを喜んだのだ。
 勿論、風兄さまにはこっぴどく叱られたけれど。
 兄は、上から育兄さま、龍兄、麗兄さま、鉱兄さま、風兄さまと四人いるけれど、面と向かって叱ってくれるのは風兄さまだけかもしれない。鉱兄さまは私を見れば目尻を下げて、統仲王のように今にも食べてしまわんばかりに溺愛してくれる。麗兄さまは冷たく背を向けられてばかりでコミュニケーションといえるものが築けている気がしない。育兄さまは、年が離れていることもあって、いつも冷静というか客観的というか。多分、そんなに積極的に関わろうという気はないのだろう。
『歌を歌おう、聖』
“風は南から吹き 海を渡る
 帆を張る男たちは 太陽に日焼けた腕に縄をかけ 海鳥たちの鳴き声に口笛を鳴らす“
 風兄さまと一緒に歌っていると、まるで目の前に水海の国の港が見えてくるようだった。
“秋月昇りて 御影に沈む 都の尖塔
 静けき夜に夜気は沈みて
 織りなす綾は 庭を染める“
 これは秋の歌。ちょっと暗くて、あまり好きじゃない。
“御光ありて 空の下
 讃える我らは 汝が民“
 これは統仲王の誕生日に歌われる歌。
 力と光に溢れた賛歌。
 疲れている時には向いていない。
 こんな時に心に効くのは……
“眠れ 眠れ 愛し子たちよ
 希望に溢れた明日を夢見て
 この腕の中で 安らかに“
 龍兄がいつも歌ってくれた子守歌。
 風兄さまも知っていて、風環の国に滞在していて眠れない時にはよく歌ってくれた。
 優しい歌声は、龍兄も風兄さまも似ている。どちらの歌声でも、私はとんっと眠りの世界に落ちていける。目を閉じると真っ暗闇。そこに、世界が広がる。穏やかな光に満ち溢れた、明日、私が過ごすことになる世界。
 風兄さまは歌いながら、時に竪琴を奏でたり、私の歌に合わせて笛を吹いてくれる。一番楽しいのは、風兄さまが竪琴をつま弾きながら、主旋律を歌う私の声に合わせて別の旋律を歌いだすとき。一人で歌うよりも下の支えがある分安心感があって、絡まる和音の妙に痺れながら解き放たれる時を待つような昂揚感がある。歌い終わると互いに顔を見合わせて、両掌をパンッと合わせて笑いあう。
 子供(わたし)をあやすのが一番上手だったのは、誰あろう、風兄さまだった。
 白詰草の花咲く草原で木漏れ日の中、花冠を作って聖の頭の上に乗せてくれたりして、花冠の作り方を教えてくれたのも風兄さまだった。
 子供が子供らしくいられる場所を作ってくれていた気がする。
 妹として、思う存分甘えられるのも。
 龍兄には、いつしか「拒まれるかもしれない」という不安が先立つようになってしまっていた。銀のマントに覆われた背中を見る度に、胸が苦しくなって発作を起こすほどに、深く深く、傷を残していった。
 でも、風兄さまにはそんな不安は欠片も感じない。両手を広げていつでも受け止めてくれると思える安心感がある。溺愛とはまた違う、ちゃんと叱ってくれるからこそ、安心して我が儘も言えるし、生きていくうえで、ここまではよくてここからはだめなんだという線をちゃんと教えてもらった気がする。だから、甘えすぎても大丈夫。風兄さまはちゃんと修正してくれるから。そうやって、大事に大事に、育ててくれてきたのがよく分かるからこそ、ショックだった。
 ヴェルドとの結婚を統仲王に勧めたのが、風兄さまだっただなんて。
「聖」
 三度のノックの後、扉越しに風兄さまは私の名を呼んだ。
 私は答えない。
 今、一番会いたくないのは、風兄さまだ。
 ――パドゥヌがいたら、どう言ってくれただろうか。
 どう諫めてくれただろうか。
『そろそろ、ご自分で考えなさいませ』
 苦笑いするパドゥヌが見えるようだ。
 生まれた時から私にその乳を与え、育ててくれた乳母のパドゥヌ。そのパドゥヌがいてくれたら、と、ついつい思わずにはいられない。
 生きていたらきっと、まだまだ甘えたがりで困りますね、と思っているに違いない。あまり龍兄と風兄さまを困らせますな、と言ってくれるに違いない。
 困らせている……んだよね。
 私のこの気持ちは。
 特に龍兄には、とっても迷惑なんだよね?
 それなら、どうしてはっきり言ってくれないんだろう。迷惑だ、って。背を向けてばかりじゃなくて、はっきり言ってくれればいいのに。
 どのタイミングで?
 私が告白したわけでもないのに、いきなり言えるはずもないよね。
 告白なんて、考えたこともなかったけど。小さい頃からずっと好き好き言ってきて、風兄さまだって炎姉様だって、みんなみんな知っている。私が龍兄を大好きだってこと。龍兄もきっとわかっているよね?
 今も変わりなく、私は貴方の後ろ姿ばかり追いかけているのに――もう、どれくらいまともに話していないんだろう。
 それなのに、どうして私は、こんなにも龍兄のことばかり考えているんだろう。
 私、本当に龍兄のこと好きなのかな。
 どうしてこんなに好きなんだろう。
 龍兄の、どこが、何が好きなんだろう。
 まったく相手にもされていないのに。
「聖」
 もう一度、静かな風兄さまの声が聞こえてくる。
 私は諦めて、扉の鍵を開け、少し扉を開く。
 廊下から漏れてくる明かりが、真っ暗な部屋に薄く差し込む。
 顔を上げないままの私の頭上に、もう一度風兄さまの声が降ってきた。
「聖」
 いたわし気な声。
 そんなに心配するくらいなら、はじめから余計なことしなければよかったのに。
 ドアノブを握る手に力が入る。
「入ってもいいかい?」
 私は無言でベッドに戻り、ごろりと身を転がした。
 風兄さまは苦笑しながら部屋の中に入ってくると、そっと扉の近くの明かりだけを灯した。
「ずいぶんなやさぐれ様だね」
「やっ、やさぐれっ?!」
 あまりの言われように私はベッドから跳ね起きる。
「お、元気じゃん。何より、何より」
「何が何よりよ! それより、どういうことよ! どうして勝手にヴェルドとのこと、進めてるのよ! しかも統仲王に勧めただなんて!!!」
「統仲王から、誰かいい相手はいないかって聞かれたから」
 風兄さまはさらりと私がふて寝しているベッドの脇に腰掛ける。
「だから、するっとヴェルドの名前を出したっていうの? ヴェルドだって大きな迷惑だったでしょうに!?」
「そうでもないのは、聖もわかっていると思うけど?」
「ぐっ……でも、は、……恥をかくことになるわ」
「聖に振られて?」
「そうよ。私は誰のもとにも嫁がない。私は、誰も好きにならない」
「龍兄さん以外?」
「そうよ。って、兄様!! 誘導するのはやめて! 私、怒っているのよ? とってもとっても、風兄さまには腹を立てているの。本当なら顔だって見たくないくらい!」
「そう。それは残念だ」
 静かに言うと、風兄さまはあっという間もないほどに私の上にまたがり、両手を捉え、すっと息遣いがわかるほど顔を近づけた。
「なっ、何をするの!」
 必死に顔をそむけても、風兄さまの顔は視界に入ってくる。
「いやがらせ」
「こっ、子供じみたことはやめてくれない?!」
「子供じみたことをしているのは、聖だよ。これが龍兄さんだったら喜んだくせに」
 風兄さまがぱっと両手を離して身を起こした瞬間、私も身を起こして風兄さまの頬を平手で打った。
 小気味いい音が寝台の天蓋にこだまする。
「痛った……」
「馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿っ! 風兄さまなんか嫌い! 大嫌い! こんな馬鹿なことする人だとは思わなかった!! 見損なったわ! ほんと大嫌い! もう出て行って!!」
 張られた頬を押さえていた風兄さまは、冷めた目で私を見下ろし、追い打ちをかけるように溜息をついた。
「だめだ……全っ然、その気になれなかった……」
「っ、馬鹿!! もう嫌っ! 炎姉さまに言いつけてやる!! 炎姉さまからたっぷりお灸を据えられればいいんだわ!!」
「それは困る。炎に見放されたら僕も生きていけないからね」
 薄暗闇の中で、ぽつりと風兄さまは言った。
 私の目の前なのに、はっきりと「炎姉さん」じゃなく、「炎」、と。
「……狡いわ」
 言っちゃいけないのはわかってた。
 誰も確認したことなんてないし、誰も口に出したことはないことだ。
 でも、言わずにはいられなかった。
「どうして風兄さまと炎姉さまはいいのに、私は駄目なのよぅ……」
 胸の中で渦巻いていた嵐が、涙になって両目から溢れだす。
 風兄さまは静かに私に手を伸ばし、髪を一房掬い上げる。
「やめた方がいいよ。幸せにはなれない」
「どうして? 両想いなんでしょ? 好きな時に傍にいられるんでしょ? キスも抱擁も、好きなだけできるんでしょう?」
「どうだろ。両想いなのかなぁ……それに、好きな時に好きなだけ好きなことができるわけでもないし、一応、これでも周りの視線くらいは気にしているんだよ?」
「でも!! 好きな人とキスできるのは幸せなことじゃないの? 好きな人に抱きしめられると、この上なく幸せな気分になれるんじゃないの? 好きな人と両想いだって思えば、とても勇気づけられるものではないの?」
「両想いだって思えれば、自分を認めてもらえた気にはなれるだろうね」
「なによ、それ」
「僕はね、聖、一度も両想いだなんて思ったことがないんだよ。いつも、僕ばかりが好きで追いかけて、ずっと片想いしているようなものだ」
 私の髪に視線を落とす風兄さまは、苦く笑ったようだった。
「炎姉さまは風兄さまのこと、好きよ。絶対!」
「そうかな。喧嘩もするよ? もういいって思うことだってある。でもね、一番辛いのは、誰にも祝福してもらえないことだよ」
 風兄さまは、掬い取った私の髪に軽く唇を寄せた。
「幸せにしたい、幸せにしてあげたいって思うのに、駄目なんだ。キスをして、抱きしめて、好きだと囁いて、どれだけ長いこと一緒にいても、そこまでなんだ。僕たちは、誰にも認めてはもらえない」
「お互いが好きだと認めていれば、それでいいんじゃないの?」
「僕もはじめ、そう思った。でもね、欲望っていうのは奥が深くて、一つ叶えば次が欲しくなる。その次が叶えば、また新しい望みが増えていく。僕は炎にウェディングドレスを着させてあげることはできないし、子供の顔を見せてあげることもできない。僕たち二人だけの家族から、新しく始めることができないんだ。ずっとこのまま、永遠に窒息しそうな世界の中で同じことばかりを繰り返して、同じことばかりに囚われて悩みつづけなければいけない。だから、聖。叶えたい望みがあるのなら、何と引き換えにするのかをよく考えなければいけないよ」
 茫然とする私に、風兄さまはそっと笑いかけた。
「聖は小さい頃から龍兄さん一筋だったね。今も、龍兄さんのこと、好き?」
 私は、頷くこともできずに視線を落として沈黙してしまった。
「私、龍兄のお嫁さんになるって、ずっと決めてたの」
「うん」
「龍兄のこと、大好きで……眠れないときに子守唄をうたってくれたり、抱きしめてくれたり、雷が怖いときは一緒に寝てくれたり、あの大きな掌で頭を撫でられるのが、とっても大好きだったの」
「うん」
「でもね。でも……大きくなってから、いつの間にか、私、龍兄の後ろ姿しか覚えていないの。追いかけても、追いかけても、振り向いてもらえないの。ようやくお話しできると思っても、みんながいるところで儀礼的な挨拶ばっかりで、私……どうして龍兄のこと、好きなんだろう……」
「うん」
 私が、ずっと一人で好きだ好きだと叫んでいるだけだ。
 道化のように。
 龍兄だって、察しの悪い妹だとほとほと嫌になっているだろう。
「龍兄さんの気持ちは、龍兄さんに聞いてみないとわからないけれど、少なくとも、聖のことを嫌っているわけではないと思うよ」
「そうかな」
「大事な妹が、少しくらいブラコンが過ぎて小さい頃の戯言をそのまま口走っていても、かわいいと思わないわけがないと思うよ」
「今、さらっとひどいこと言ったわね」
「龍兄さんだって、僕がそう望むように、聖には幸せになってほしいと思っているはずだ」
 頬を膨らませた私を、風兄さまは笑いながら静かに抱き寄せた。
 私は大人しく風兄さまの胸に身を寄せる。
 ドクン、ドクン、と波立つことなく規則正しい心臓の音が聞こえてくる。
 小さい頃、龍兄に抱きしめてもらっていた時も、こんな音が聞こえてきていたっけ。
 その人が確かに生きている、音。
 このまま頭を撫でられていると、うとうとと眠りの世界に引きずり込まれてしまいそうになる。
「ねぇ、ヴェルドとの結婚の話は、龍兄は知っているの?」
「知ってるよ。聖の後見役である龍兄さんにもお伺いを立てた上で、統仲王に勧めたから」
「!! ひどい……! それって、龍兄も私がヴェルドと結婚してもいいと思っているってことでしょう?」
 思わず顔を上げた私に、風兄さまは予想通りとばかりに背中をトントンと軽くたたく。
「幸せになってほしいからだよ。龍兄さんじゃ、聖にウェディングドレスを着させてあげられない。統仲王にも、僕たち兄弟にも、祝福してはもらえない。龍兄さんは、ちゃんとわかってるんだよ。幸せは、片想いしつづけることじゃない。鉱兄さんの結婚式を覚えているだろう? 鉱兄さんの、あの晴れやかで誇りに満ちた姿、僕は正直羨ましくて仕方なかったよ。隣のサヨリさんも、これ以上ないくらい綺麗で幸せそうだった。僕が歯噛みしたくなるくらい。正直、あの時僕は炎の顔を見られなかったし、何度心の中で謝ったか知れない。もし、僕が余計なことをしなければ……」
 言いかけて途中で、風兄さまははっとしたように口を噤んだ。
「それでも僕は……手に入れずにはいられなかったのだけど……。聖は、その覚悟がある?」
 私は、答えられなかった。
 風兄さまが、これほど自分をさらけ出して私を諫めてくれる意味を思うと、簡単には頷くことができなかった。
「いい子だね、聖」
 風兄さまは私の頭を撫でた。
「聖、言ったよね。『私の幸せは私が決めるわ』って。その通りだと思うよ。誰のせいにもしない選択を、聖にはしてほしいと思ってる」
「それは……私が断ってもいいということ?」
「ヴェルドは悲しむと思うけどね。ああ、いや、むしろいつまでも待ちますって言うかもしれないけど。聖が覚悟をもってその道を選ぶのであれば、彼も納得してくれると思うよ」
「納得……」
「ヴェルドにとっては、聖は憧れの存在だ。聖にとっての龍兄さんと同じだよ。だから、聖が納得できる答えを見つけることができれば、ヴェルドも潔く身を引けるだろうし、もし、この先に聖がヴェルドを伴侶としてもよいと思える時が来たのであれば、そう伝えてあげればいい」
 龍兄は、私のことをどう思っているのだろう。
「兄さま。あのね、分かっているのよ? 龍兄がヴェルドと私との結婚に否やと言わなかったというのであれば、もうそれが答えだと、分かっているの。でも、私……」
「聖が納得するためには、龍兄さんから直接話を聞いた方がいいかもしれないね」
 私は静かに頷いた。
 龍兄のことが、今でも好きなのかよくわからなくなっていることにすら気づかないまま、好きだ好きだと想い定めて執着していたことも含めて、ちゃんと龍兄とお話ししなければいけないと思った。
「ありがとう、風兄さま」
 ベッドから降りて行った風兄さまに、私はどこかすっきりした気持ちでお礼を伝えることができていた。
「いえいえ、どういたしまして」
 振り返った風兄さまに、私はちょっとだけ意地の悪い笑みを浮かべる。
「炎姉さまには内緒にしておいてあげるわ」
 ひぅっと、寿命が縮まりそうなほど鋭く息をのむ音がして、風兄さまは咳き込んだ。
「そこ、大事! もし告げ口されたら、妹に何やってるんだって、殺されかねないから!」
「へぇ〜。風兄さまと私、もしかして炎姉さまにとっては私の方が可愛いのかしら?」
「そりゃそうでしょ! たった一人の妹なんだから!!」
「ねぇ、もし私が好きでもない人にあんなことされたら、どうする?」
 咳き込んで慌てていた風兄さまは、ふと真顔に戻って、ベッドの近くまで戻ってきて、私の顔を覗き込んだ。
「絶対に許さない。二度と転生できないように、魂までぐちゃぐちゃに壊してやる。もし逃げたとしても、神界の果てでも、闇獄界の果てでも追いかけて行って、必ず代償は払わせる」
 それは、いつになく真剣な表情で、鋭利な刃物でも首筋に突き立てられているかのように冷え冷えとする声だった。
「育兄さまは、いい顔はしないかもね」
「そうかな。もしそいつの魂が冥界に彷徨いこんだとしても、あの人むしろ嬉々としてその人の魂を差し出すと思うよ」
 にっこりと笑った風兄さまは、どちらかというと育兄さまに有無を言わせず魂を引き渡させそうだと思った。
「炎も、きっとただではおかないと思うよ。裁きの女神だって、罪の重さはよくわかっているはずだ。鉱兄さんだって、キレると何するかわからないし、海姉さんだって、ねぇ? ニコニコしたまま、その後どうするか。まぁ、麗兄さんは少しめんどくさがるかもしれないけど」
「ふふっ、うん、想像がつく」
「でも、麗兄さんだって、カルーラか誰かに申しつけて後ろから手を回すことくらいすると思うよ」
「聖可愛さ、っていうよりは、法王の面子守るため、とか言って」
「そうそう。なんだかんだ言って可愛いくせに、素直じゃないから」
「素直じゃないのは、その通りだと思う」
「ね? 統仲王だって、そいつの魂一握りで握りつぶすことくらいするだろうし。うわ、こう考えてくると、さっきのこと、本っ当に誰にも言わないでね? ちょっと脅すためとはいえ、絶対あの人たち聞き入れてくれないよ。このままだと僕、ずたずたに切り裂かれて殺されそう」
 青ざめてぶるぶる震えだす風兄さまの姿に、私は思わず笑ってしまった。
「でも、誰が一番怖いかって、龍兄さんだよね。聖の結婚の話持って行ったとき、ものっっっすごく、機嫌悪くなったもん。殺されそうだから、出直そうかと思ったくらい。下手な相手の名前上げたら、その場で〈蒼竜〉に斬り殺されてたと思う。あ〜、くわばら、くわばら」
「ヴェルドだから、龍兄はうんと言ったの?」
「ん〜、うんと言ったというかなんというか……その辺も含めて、直接本人に聞いてみたら? 結婚のことだもの。後見役に相談して面子を立ててあげないと。ね?」
 風兄さまにウインクされて、私は思わず大きく頷いた。
 後見役に、結婚のお伺いを立てに行く。
 それなら、龍兄だって二人きりで面会してくれるはずだ。
「聖、忘れないで。僕たちはね、聖のことが大事なんだよ。末っ子だし、妹だし、特にね。甘やかさずにはいられないんだ。そして、一番幸せを願わずにはいられない。正直言うとね、龍兄、龍兄って言ってる聖は、幸せそうには見えないんだ。可哀そうに、見えてしまうんだ。だから、一度立ち止まって、ちゃんと見極めた方がいいと思う。何が自分の幸せかを。その上で、聖がそれでも龍兄さんを好きだというのなら、他の誰をも伴侶とする気がないというのなら、……僕は聖を応援するよ」
 頭を軽く抱きしめられて囁かれた最後の一言に、私の目からは涙が一粒、零れ落ちた。
「ありがとう、風兄さま。大好き」
 先の見えない道の先を歩く風兄さまがくれた一言は、どこかで私の心の救いとなった。
 でも、私は龍兄には会わなかった。会いたいと手紙も書かなかった。ヴェルドとの結婚の件を相談したいとの手紙も書かなかった。
 冷静になって考えてみたのだ。
 もし会えたとしても、手紙で尋ねたとしても、龍兄はヴェルドとの結婚を認めたとしか言わないだろう。もう一言つけ足してくれたとしても、幸せになれと、言われてしまうだろう。
 龍兄が私とヴェルドの結婚を望んでいるからと言って、私は龍兄の望み通りヴェルドに応えることができるだろうか。否。私にはできない。仮にヴェルドと結婚したとしても、私は龍兄がそう望んだから結婚したのだと、心の中でずっと唱えつづけるだろう。さっき風兄さまにされたように、ヴェルドが夫として妻を求めてきたとして、私は心を石のように固く強張らせ、真っ直ぐにヴェルドを見つめることはできないだろう。
 龍兄のために。龍兄のせいで。龍兄がそう言ったから。
 私はきっと、生涯言い訳をしつづける。
 それでは一生、ひたむきに私を乞うてくれるヴェルドに向き合うことなどできない。私は逃げ続けたままになってしまう。自分に言い訳をする理由を与えてしまう。
 だから、私は龍兄には尋ねられなかった。
 ――嘘だ。
 私は、龍兄から他の誰かと結婚しろと言われたくなかったのだ。
 他の誰かと幸せになれと、きっぱりと面と向かって言われて、この想いを断ち切られたくなかったのだ。
 魂ごと断ち切られるようなそんな恐ろしい思いをするくらいなら、たゆとうような兄妹の情の中に甘えていたかったのだ。