聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第4章 見るな!!

5(キース)
「シャルゼスの紹介で、これで剣を鍛えてもらいに来た」
 おれの身長の半分くらいしかないぼんぼんな形(なり)をした子供が、そう言ってその辺に転がっていそうな石ころを差し出したのは、今日はこれから湖にでも出て、釣り糸を垂れながら昼寝でもしようと思っていた午後の昼下がりのことだった。
 浅黒い肌を象牙色のマントで包んで人目を忍ぶような恰好をしているが、一目で金持ちが選ぶようないい生地を使っていると分かる。おれを見上げる色濃いエメラルドをはめ込んだような生き生きとした瞳は、おれが断るなど思っていないのだろう、全幅の信頼と期待に満ち溢れて眩しいくらいに光り輝いていた。
 一目見て、苦労を知らない素直なガキなんだろうなと思った。
 そのガキの口から、久方ぶりにシャルゼスの名を聞いた。
「悪いが、おれは剣は打たない」
 そうでなくても、今から昼寝に行こうとしていたんだ。
 厄介事を押しつけられるのはごめんだ。
 特に、こんな素直そうなガキのお守りなんか絶対にごめんだ。
 関わってなるものか。
 もうこれ以上、昔のおれに戻るようなきっかけなど作られてはたまらない。
 ガキは、少し小首をかしげて、言いつけられたことを鸚鵡返しするように復唱した。
「バラサレタクナカッタラ、オトナシクイウコトヲキケ」
 びくり、とおれの肩は震えた。
 その辺でシャルゼスが見ているのではないかと、思わず入口の外をきょろきょろと見回してしまう。
「これ、どういう意味だ?」
 にこぉっと、素直そうなガキは向日葵のような満面の笑みを浮かべておれを見上げた。
 シャルゼス。
 その名に続いての脅し文句。
 奴は本気だ。
 本気でおれを潰しに来ている。
 たとえ目の前の子のガキが何を言わされたか知らなくても、おれが断れば、きっと後で酷い目に遭わされる。
 いや、今はあの頃よりも体格も成熟したし、力だってついているだろうが、だがしかし、植え付けられたトラウマは大きくなったからといって完全になくなるわけではない。
(ああ〜っ、あいつの高笑いが聞こえるようだ!!!)
 おれがここにいると知っているのなら、おれが二度と剣を打たないと決めていることも知っていようものを、一体何のつもりでおれにこんなガキを寄越したんだ。
 それにしても、ガキが両手に捧げ持ったこの石の塊。
 一つだったものを無理矢理かち割ったかのような荒い断面を持っているこの石は、どうみても剣を打つための鉄を含んでいるようには見えない。
 シャルゼスめ、どういうつもりだ?
 こんな謎かけみたいなことしやがって。
 このガキだって、ただのガキじゃないんだろう?
 腐りきった大人を自認するシャルゼスが、関わっていいような子供じゃないと思うんだが。
 ため息をついて、おれはその石を受け取った。
「打ってくれるのか?」
 ぱぁっとガキの目が輝く。
 嫌になるくらい眩しいガキ。
 シャルゼスなんかに付け入られて、これから真っ黒に染まらなければいいが。
「打てるかどうか、見させてくれ」
 打てるかどうか?
 答えはとうの昔に出ている。
 無理だ。
 こんな石、打てるわけがない。
 そもそも剣なんかに鍛えようとしたって、この大きさの石じゃその辺の小さい果物ナイフくらいにしかならない。
 とはいえ、そんな無理難題をわざわざ持ってこさせたってことは、きっと何か意味があるんだろう。
 ……多分。
 ガキには適当に外で遊んでいるように言いつけて、おれは仕事場の扉を閉める。
 シャルゼス。
 どうして今頃あいつの名前をまた聞かなければならないのか。


「そんなに弱くて母親の仇を討てるのか?」
 養父母に隠れて森で木刀の素振りをしていた時、どこからともなく木立の影から現れた奴は不意におれに襲い掛かり、あっという間におれをこてんぱんにのし、あまつさえ、仰向けに倒れたおれの首元に剣の切っ先を突きつけ、侮辱を含んだ鋭い目で見下ろしながらそう焚きつけたのだ。
 おれは奴を睨みつけながら、唇を噛みしめた。
 こいつはおれを殺す気なんかない。
 おれに、母の仇を討たせるために来たんだ。
 悔しさが込み上げてきた。
 こんな得体のしれない奴に、頼らなければならないなんて、なんて自分は非力なのだろう、と。
 こいつを寄越したのは誰だ?
 父か?
 いや、そんなはずはない。あいつが、おれを顧みるわけがない。
 じゃあ、誰だ?
 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
 捕まえるんだ。
 機会の端っこが今目の前に垂らされているのだから、掴まずにいられるか。
 一人でここで木刀を素振りしていたとて、強くなれるわけがないのだ。
 そう、行き詰っていた時だったのだから。
「おれに……おれに、あいつらを殺すための技を教えてくれ」
 ひょいと男の片眉が跳ね上がり、不思議そうにおれを眺め返した。
「剣を教えてくれ、じゃないんだな。欲張りな」
「剣には道がある。おれに必要なのは、道じゃない。心じゃない。技だ。知識だ。人を殺すのに、道も心もないだろう?」
「ほう……面白い奴だ。いっそお前の方が……向いているだろうに」
「え?」
「いいだろう。俺の知っている限りのことを教えてやる。剣の技も、人を殺すためのあらゆる知識も、周方の情報も、そのうちお前が欲するであろう力のことも」
 男はそれから毎晩、養父母たちが寝静まってからおれに稽古をつけてくれるようになった。稽古、と言えば聞こえはいいが、当初はほぼほぼ一方的な私刑だった。養父母にこんな訓練をしていると悟られないように、顔や手足の衣服から出ているところ以外を、徹底的に集中的に打擲され、あらゆる暗器の標的にされた。差し詰め、見て覚えろ、ということだ。奴は加減を知らない。優しさも持っていない。「弱ければ、そこで死ね」と、立ち上がれないでいるおれにいつも吐き捨てた。それでも身体は覚えていくもので、体術はもちろん、仕込み杖や短剣、鎖玉に鉄絃、撒菱に針、吹き矢、鉄扇に仕込み笛の使い方まで徹底的に仕込まれた。
 仕込まれれば仕込まれるほど、何でこの男はこれほどまでに暗殺術に精通しているのか、とか、余計なことに思いが巡っていくもので、何年かして聞いたところ「おれにも殺したい奴がいたからだ」と、思いの外あっさりと答えが返ってきた。
 養父母が殺されたのは、そんなある日のことだった。
 日中、森に薪を集めに入っていたおれは、夕暮れとともに家に帰ろうとして、家の方角から真っ黒い煙が上がっているのに気がついた。
 嫌な予感がした。
 せり上がる動悸を呑み下しながら走り、家の前に着くと、家は轟々と音を立てて赤い炎に呑みこまれていた。
「父さん! 母さん!」
 叫んだが、到底家の中に入れる状態じゃない。近づくことさえできなかった。
 家は一晩かけて燃え落ち、崩れた屋根の下からは荒々しく倒れたテーブルと散乱した椅子とともに二体の焼死体が折り重なるようにして発見された。
「誰が……! 誰が、こんなこと……!!!」
 一度ならず、二度までもおれから母親を奪うとは。
 誰がこんなことをと叫びながら、心では理解していた。
 エマンダだ。
 あの女が、ついにここまで追いかけてきたのだ。
 養父母は、エマンダの刺客に負われて森に逃げ込んだおれを拾い、我が子のようにかわいがってくれた。エマンダを憎み続けることが苦しくなるくらい、たっぷりの愛情を注いでくれた。正直、シャルゼスが現れなかったら、おれは安穏と幸せの中で復讐心を手放していったかもしれない。
 でも、今なら心の底からあの男に感謝できる。
 殺してやる。
 絶対。
 エマンダを、今度こそ絶対に殺してやる。
「おう、今晩はやけに気合が入ってるじゃないか」
 父母の遺体を埋葬し終えて、夜、森のいつもの場所に現れたおれに、シャルゼスはただならぬものを感じたのだろう。にやりと笑って、ついに暗殺術でも体術でも剣術でもない魔法の力の話を切り出した。
「女の子を一人口説いて来い」
 軽く言い放ったその言葉に、おれは「はぁ?」と低く唸った。
「急いてんじゃねぇよ。まぁ、聞け。この世の中には魔法っつー便利な力がある。火や水、土に風、雷、力、命、そして時。基本八つだ。で、それぞれ最大最高の力を持っているのが神の子供たちである法王様方だ」
「それがおれに何の関わりがある?」
「お前は中央のことに疎いのか? でも、法王が今何人いるかくらい、知ってるだろう?」
「育命法王、水海法王、天龍法王、火炎法王、魔麗法王」
「そうだ。それからいくらか前に、鉱土法王ってのも誕生している」
「それが何の関係がある?」
「法王は、精霊王と契約することで、その精霊の司る力を最大限使うことができる」
「だから?」
「鈍い奴だな」
「まさかおれに法王になれとか言い出すんじゃないだろうな? 知ってるだろうが、おれは周方皇の息子だ。父は周方皇、母は火炎の国出身のしがない踊り子。どこからどうしたって、人だ。神にはなれない」
「そりゃそうだ。生憎お前は統仲王の落とし胤でも、愛優妃の隠し子でもない」
「殺すぞ?」
「やめろ。今のお前に本気で凄まれると無事じゃ済まないことくらい分かってんだよ」
「で? だからなんだ?」
「周方皇は三番目に作られた人の三代目だ。お前は四代目。その辺にうじゃうじゃいる人よりも、勿論俺よりも、お前の体には神に近い血が流れている。四楔の皇達が、城下の人よりも成長が遅く、寿命が長いのもそのせいだ。北の羅流伽、南の奈月、西の周方、東の志賀宮の順で人は男女ペアで作られ、彼らには特別に統仲王と愛優妃の血が与えられている」
「どれだけ神に近い血が流れていようと、所詮人は人だろう?」
「そうだ。だから、代償はでかい。たとえ周方皇の血筋であっても、耐えられるかはわからない。が、おれのような土くれからできた人が契約するよりも、まだお前の体なら耐えられる見込みはある」
 「女の子を一人口説いて来い」と言ったさっきよりも、珍しくシャルゼスは緊張し、高揚し、汗すらかいていた。
「風の精霊王が誕生している。間もなく風の法王も生まれるだろうが、生憎、愛優妃様はまだ妊娠しておられない」
「おれに、風の精霊王と契約して来い、と?」
「彼女はまだ、己が風の精霊王だということを思い出してはいない。だから、今のうちに取り入って、その血をもらってくるんだ。その剣に」
 父から渡された、この周方王の剣に。
「その剣を媒介に、お前の血と彼女の血を以って契約を結ぶんだ。そうすれば、お前に敵う者はいなくなる。天候を操り、空を駆け、瞬く間に仇の首をとれるだろう」
 いよいよもって、おれは首を傾げる。
「お前は本当に、神界の住人か? 風は雲を呼び、身を浮かせ、加速さえしてくれるだろうが、それは人が手にしていい力じゃない」
「そうだ。だから神の力なんだ。特に風は、お前の言った通り天候を左右する。お前は周方だけじゃない、この神界中の人々の命をその手に握ることができる」
 試すような甘言に、おれは苛立ちが募って立ち上がった。
「ふざけるな! おれはあの女の首さえ取れればいい!! あの女と、それから……この剣の元の持ち主と……!!」
「お前は本当に、復讐しか頭にない単細胞だな」
「人の手に余る力など、手に入れても自滅するだけだ」
「そうだ。だから、法王以外が精霊王と契約すれば、あっという間に身体は蝕まれる。長くは生きられないと思え」
「おれはそんな力など……」
「俺がどうしてこんな話をしたか分かるか? お前に必要だからだ。一人周方宮に侵入し、エマンダの首を満足にとるためには、どんなに剣や暗殺術を鍛えても無駄だ。四楔はそもそも闇獄界からの守りの要。大なり小なり魔法を使える奴がうようよいる。そんな奴らに見つかったら、お前は矢を放つ前に、真っ黒こげにされる」
 ぐっとおれは言葉に詰まる。
「それとも何か? 女装でもして侍女のふりして周方宮に入り込み、時間をかけてエマンダに気にいられ、寝首をとれるまで我慢できるか?」
「ふざけるな!! 誰があんな女に取り入ることなんてできるか!!」
「だろ? なら、一晩でけりをつけた方がいい。お前の精神安定のためにも」
 にやりと、満足そうにシャルゼスは笑った。
「最強の力を手に入れて来い」
 翌日から、シャルゼスのおれへの特訓内容が変わった。剣はペンに、暗殺術のステップは舞踏のステップに、仕込み笛は麗しい音色を奏でるための笛になった。ゲロを吐きそうなくらい甘い言葉に満ち溢れた詩集を暗記させられ、女性をリードするためのステップを筋肉が攣るまで、いや、攣っても容赦なく繰り返させる。幸い、ダンスと歌と笛だけは母上に仕込まれていたから苦労はしなかったが、その他神界の政情から闇獄界の立ち位置、神界各国の地政学から法王が中央でなす政治権限の分担、個人的な歴史や趣味のようなゴシップまで、一通り頭に叩き込まれた。
 どうして女一人殺すためにこんな反吐が出そうな情報を頭に詰め込まなきゃならないのか、腹が立って仕方なかったが、「んじゃ行って来い」の一言で西方リントブルム領の舞踏会の招待状を握らされて森を追い出され、渋々その夜会に入り込んだ時、役に立ったのはまさに反吐が出る情報の方だった。
 方々でひそひそと囁かれるあらゆるゴシップに引き攣る笑みを浮かべながら、おれは街で合流させられた紳士に遠縁の息子としてリントブルム伯爵に紹介され、その後ろに一歩下がって控えていた少女にも挨拶をさせられた。
「キース・アルファインです。よろしく」
 さっき会ったばかりの紳士から与えられた遠縁とやらの姓を名乗り、にっこりと笑って握手のために右手を出す。
 少女は、人形のように感情のこもらない灰色がかった緑色の目でおれの顔を見、差し出された手に視線を移した。
 ここまで無表情で愛想がないと、おれがこれから彼女に何をしかけようとしているのか、魂胆を見抜かれているような気がして、正直心中穏やかじゃない。
 が、察したのか、さっき遠縁になったばかりの紳士は、立派な髭を扱きながら朗らかに笑った。
「キース、レディに手を差し出すのなら、握手よりもダンスの申し込みだろう?」
「失礼。私と一曲踊っていただけますか?」
 少女の前に跪き、手を差し出すと、意外にもするりと冷たい陶器のような手が、チリンと鈴の音と共に自分の手の中に降ってきた。
 にっこり微笑んで、おれは彼女をダンスの輪の中に誘い出す。
 見計らったかのように始まったメヌエットが、優雅に広間を丸天井まで埋め尽くす。その下で、決められたステップを踏みながら、おれと彼女はくるくると踊りだす。
 少女は、西方一の美少女と名高いだけあって、美しい顔立ちをしていた。灰色がかった落ち着いた色の金髪も、目元を縁取る長い睫毛も、愁いを帯びた緑の瞳も、珊瑚色の唇も、誰もが人形のように美しいと讃えるだろうと思えた。
 が、彼女には感情が見えなかった。
 目にも、口元にも、頬にも、人らしい感情が現れていないのだ。
 精霊王の器だからなのか?
 中身が入っていないように見えるのだ。
 だから、どうしても「人形のようだ」という形容詞がついてしまう。
 握った手が驚くほど冷たいのも、人ならざるものを宿しているせいに思えてくる。
 しかし、さすが伯爵令嬢というべきか、ダンスのステップは完璧だったし、それどころか危うくとちりかけたおれをさりげなくフォローしてくれたし、踊り終わった後の所作も綺麗に整っていて、非の打ち所がないほどだった。
 お互いにお辞儀をし終って、一つ間をおいて少女はくるりと背を向ける。
「あ、ねぇ。まだ君の名前を聞いていないんだけど」
 少女は背を向けたまま立ち止まり、ゆっくりと首を傾げる。
「名なら、父が告げていたと思いますが」
 尖りを帯びた声が、振り向きもしないで不思議そうに返ってくる
「君の口から、まだ聞いていない」
 なおも食い下がると、少女はくるりとおれを振り返り、じっとおれの顔を見た。
 何かついていただろうかと不安になるほどじっくりと見つめた後、少女はゆっくりと瞼を伏せ、ドレスの裾をつまんで深く頭を垂れた。
「カインリッヒ・リントブルムと申します」
 小さな声ながらも鈴が触れあうような凛とした響きが、心地よく耳の奥を震わせた。
 余計なことは何一つ言わない彼女は、ゴシップなど全く興味がないようだったし、自ら誰かに話しかけたり親しげに話す友人もいないようだった。そのかわり、人形のような美しさに求婚を考えているのであろう男たちが入れ代わり立ち代わりダンスを申し込みに来る。あんな華奢な人形のような少女が、本当に風の精霊王の力など持っているのだろうか。
「やぁ、はじめまして。君、見ない顔だね。はじめてかい?」
 壁際でぼんやりと彼女を眺めていたおれに、長い黒髪を背中で一つに結んだ柔和なたれ目の男が話しかけてきた。
「ああ」
 今夜の目的を早々に遂げたおれは、彼女以外に誰かと親しくなるつもりなどなかったのだが、目も合わせず適当に返事を返したおれに、たれ目は楽しげに一人で喋り出した。
「僕は藍鐘和。見ればわかるとおり、西の方じゃなく東の方から来たんだけどね。いやぁ、それにしてもリントブルム伯爵令嬢は噂に違わず美しいね。東方美人も霞むくらいだ」
「そうか?」
「そうだとも。この年代であれほど精緻な美しさを持つ令嬢もおるまい。君は恵まれていたね。挨拶をしてその場で本日一番のダンスの相手に選ばれたのだから」
「そうか」
「おや、熱心にかき口説きに来たのかと思ったら、踊り終えた途端に熱は冷めてしまったようだね」
「そんなことはない」
「人形のようだ、って?」
 適当に返事を返していたのに、思いがけずその言葉におれは反応して、奴の顔を正面から見つめてしまった。
 たれ目は、相変わらず味方なのか的なのかわからない柔和な笑みを浮かべておれを見ている。
 少し、年上くらいだろうか。
 名を、藍鐘和と名乗っていただろうか。
 藍鐘和、藍鐘和、藍――東楔(とうせつ)・志賀宮(しがのみや)の皇子の名!!
 はっと気づいて、おれはそいつから目を逸らした。
 こいつはいけない。
 西楔・周方が武をもって世に名を知らしめている一方、東楔・志賀宮は不思議な術を使うという。彼らの家系の者は、目を見ればその者の考えていることを見通し、耳を澄ませば心音からその者の感情を察する。遠くにいる者についても、動向を窺ったり喋っている内容を聞き取ったりすることができるというのだ。
「別に君の心を覗いたりなんかしないよ。いちいちそんなことをしていたら、こっちの身がもたない」
 けらけらとたれ目は笑って、わざとおれの顔を覗き込んできた。
 たれ目の左下には泣きぼくろ。なだらかな鼻梁と滑らかな肌からして、女のような顔立ちだ。
「女装すればさぞかし似合うだろうな、と思ってるだろう?」
「はぁ? そんなこと……」
 挑発されて、思わずおれは藍鐘和の目を見てしまう。
 深い、海のような藍色の瞳が、おれの心の深淵を覗くように――いや、おれの心を吸い込むように見つめてくる。
「お前、読んでるだろう?」
「読まなくても、たいてい初めて会った人はみんな思うんだよ」
 あははと軽やかに笑って、藍鐘和はさらにおれの目を見つめてくる。
「世が世なら」
「あ?」
「いや、なんでもないよ。でも、僕は君に出会えてよかった」
「おれはあんまり感謝する気にはならないけどな」
「そんなことはないさ。ああ、ほら。今日は特別に周方皇も賓客で招かれている。お出ましだ」
 楽しげな藍鐘和とは対照的に、おれはざっと一瞬にして血の気が引いた。
 かしましいファンファーレに続いて、黄金のガウンに身を包んだ周方皇とその後ろからそろいのガウンを纏った皇妃が続いて大広間に入ってくる。
 言葉にならない声を叫びだしそうになり、両手で口元を抑える。
 耳元ではどくどくとありえないほど大きな音で脈が波打ち、全身から脂汗が噴きだす。
 父上。
 そして、エマンダ――!!!
(許さない、許さない、許さない、許さない)
 胸の奥底から呪詛が湧き上がり、胸が、頭が、全身が、呪詛で一杯になる。
 腰に下げた飾りの剣の柄に手が伸びる。
 いっそ、今ここで殺ってしまおうか。
 風の精霊王の力などいらない。ここからあいつらまでの距離なら、一足飛びに駆けていけば、一瞬で首に手が伸びる。
 それだけの鍛錬をおれは今まで森でしてきた。
 たとえここで捕まったところで、エマンダを殺すことさえできたならば、本懐を遂げることさえできたなら、その後自分が殺されたとておれは文句はない。
 そうだ。これはチャンスだ。今ここで、奴らの首を挙げる。シャルゼスだって、周方皇が来ると分かっていたからこの夜会を選んでおれを潜入させたんじゃないのか?
 今だ。今――
「キース、具合でも悪いのかい?」
 剣の柄に掛けたおれの手の上に、やんわりと藍鐘和の手が押しかぶせられていた。
「ほら、手がこんなに震えている」
 たれ目はにこやかに笑っているが、剣を抜こうとしても、藍鐘和の手がかぶせられたおれの手は震えるばかりで、ぴくりとも思う通りの動作をしてはくれない。
 放せ。
 睨みつけてはみたものの、藍鐘和は口元の笑み一つ変えることなく、おれから周方皇の方へと視線を向ける。
「失敗するよ」
 ぼそりと、藍鐘和は言った。
 ぞくりとして、おれは剣の柄を握る手に、これ以上震えないようにぐっと力を込めた。
 失敗するよ。
 それは、明らかな予言だった。
 千里を見通し、風に世を聞くという家系に生まれた彼が見た、少し先の未来。
 おれはきつく瞼を閉じると深く息を吸い込み、食いしばっていた奥歯を緩め、剣の柄を握る手を緩め、全身から力を抜いた。
 それとともに、藍鐘和の手も離れていく。
「ね? 感謝する気になっただろう?」
 ちっと舌打ちをして、おれはふざけるな、と返したが、たれ目は周方皇をもてなすリントブルム伯爵たちを見ながら、意に介した風もなくふふふと軽く笑った。
「お前は一体、東からわざわざ西の果てまで何しに来たんだよ?」
「見ればわかるだろ? 嫁さがしだよ。西のリントブルム伯爵令嬢が美しいっていうから、この世の思い出に一目見ておこうと」
「……嘘くさ」
「本当だよ〜。母上がうるさいんだ。東方将軍になる前に、嫁の一人や二人迎えなくてどうするって。そんなの関係ないだろって思うんだけどね」
「東方将軍? 志賀宮の皇は加減がよくないのか?」
「年だよ。本人はまだぴんぴんしてるけど、さっさと後進に譲って、自分は歴史の研究に精を出したいんだとさ」
「はぁ」
 適当に返事を打ちながら、おれはざっと藍鐘和の全身を観察する。背はひょろりと高いが、東方将軍が務まるとは思えないほどなよやかな体型をしており、手足も長くはあるが、衣類越しにはその下に筋骨隆々と鍛えられた肉体が隠されているとはとても想像できない。だが、さっきおれの手を押さえた時の力は本物だった。一体、このなよやかな体のどこにそんな力が蓄えられているのか。
「そんなに男性にじろじろと見られても嬉しくないんだけどね」
 たれ目は苦笑する。
「そりゃ、武で鳴らす西方将軍に比べれば貧弱な腕だけど、生きてる年数は君より上だからね。体格に恵まれなくても、コツを掴めばいくらでも君くらいになら勝てる」
 ちっと舌打ちしたいのを堪えて、おれはへらへら笑っているたれ目を睨む。
「お前……」
「大丈夫だよ、僕、口は堅いんだ。でないと志賀宮ではやっていけない」
 へらりと笑った藍鐘和の胸元を、おれは引き掴もうとした。
 が、行動を予期していたかのように、藍鐘和はそんなおれの手首を掴み、身を寄せて周りに見えないように捻り上げた。
「まだまだだねぇ」
「放せ」
「騒ぐと目立つよ。キース・アルファイン君」
 偽の名を呼ばれて、なぜかざっと血の気が引いた。
 すべてお見通しだと、たれ目が嗤っている。
「おお、これは志賀宮の……」
 後ろからリントブルム伯爵の上機嫌な声がした。
 たれ目はおれを後ろに押しやると、おれの前にわざとらしく一歩進み出、優雅に一礼する。
「ご無沙汰しております、リントブルム殿。藍鐘和にございます」
「これはこれは、すっかりご立派になられて。お父上はお元気ですかな」
「はい。お蔭様で」
「隣にいらっしゃるのは、アルファイン殿。すっかり仲良くなられたご様子ですな」
「はい、年も近く、気も合うようです」
 上機嫌で答えるたれ目の背中を後ろから蹴飛ばしてやろうかと思ったが、そんな気は次の一言で潰えた。
「周方皇アミル殿下におかれましても、お久しぶりにございます」
 たれ目の口から音楽のように流れ出した名に、おれは全身が強張った。藍鐘和の背後に隠れるような位置のまま、さっと顔を伏せる。
「アミル殿下、ご紹介いたします。こちらの青年が、ベルトラム侯爵の遠縁にあたるキース・アルファイン殿です」
 がくがくと震える拳を握りしめ、できるだけ顔は上げず、更に面を伏せて礼をする。
「キース・アルファインと申します」
 貴方は覚えていないだろうが、貴方の息子です。
 心の中で毒づき、唇を噛みしめる。
 下げた頭の天辺には、あの男の視線が突き刺さっているのが分かった。
 気づかないだろう。気づくわけがない。生きているとさえ、思っているはずがない。いや、もう忘れてしまったに違いない。母上が死んで、第一皇妃エマンダはまた、ただの周方皇妃エマンダに戻った。秩序は元に戻された。
 そう、あんたが馬鹿な気さえ起こさなければ、母上は――!!
「ふむ。大儀である」
 感情のこもらない声が、コロンと石ころでも放るように転がり落ちてきた。
 ぐわりと身体中から漏れだしそうになった殺気を、必死で奥歯でかみ殺す。
 何が大儀である、だ。
 何が――
 堪えきれずに顔を上げた時、おれが見たのは奴の背中だった。
 すでにリントブルムに付き添われて、次の要人へと向けて歩き出している、奴のやたら背筋の伸びた後姿。
 おれの存在など、歯牙にもかからないと、その背中は言っているようだった。
 お前のことなど知らぬ。お前など大した価値もない。お前など……生まれてきたかどうかも忘れた。
 おれの価値は、その程度か!!
 周方皇の皇子など、その程度の存在か。
 女がいれば、いくらでも産ませられる。子など、その程度の存在か!!
「キース」
 冷水のようなたれ目の声に密やかに穿たれて、おれははっと我に返る。
「ねぇ、見て。周方の皇妃の隣。ずっとついてまわっている青年がいる。お気に入りかなぁ」
 促されるつもりなどなかったのに、おれはたれ目の言う方を見て、息を呑んだ。
 視界に入れないようにしていたエマンダの一歩後ろには、成長して背が伸びたヨジャ・ブランチカがいた。子供のあどけなさはすっかり消え失せ、精悍に引き締まった顔で辺りに害をなす者がいないか目を配っている。
 おれは奴に気づかれる前に顔を背けた。
「帰ったら?」
 冷たい水を送り込むように、たれ目は続ける。
「無理だよ。そんなに動揺して感情駄々漏れにしてるようじゃ」
 何が!?
 何が。
 今晩の夜会を乗り切れない。それだけじゃない、この後のことまで含めて言ってるのか?
「怒りは本番までとっておくものだよ。ね? 我慢して我慢して、堪えきれなくなっても、笑ってここは過ごさなきゃ」
 藍鐘和は雑談するように微笑みながら、おれの耳に囁いていた。
「君のここでの目的は、違うだろう? 君はここでは氷のお姫様の心を蕩かすことに専念した方がいい。シャルゼスに、そう言われなかったかい?」
 シャルゼス、その名を対に出されて、おれはもう閉口するしかない。
「君と彼女の接点は、まさか夜会だけかい? そうだ、明日から僕は視察という形でこの西方所領を見て回るんだけど、視察にはリントブルム伯爵と彼女も同行するんだ。君も一緒においで。夜になれば毎晩この屋敷に帰ってくるのだから、彼女の部屋に忍んで行って、歌でも笛でも贈ればいい。案外、そのくらいした方が氷のお人形さんの心も溶けるかもしれない」
 藍鐘和は、楽しげにおれを見つめていた。その目に映っているのは、今目の前にいるおれじゃない。未来のおれだ。
「人の心を動かしたいなら、時間が必要だ。一目で恋に落ちることもあるけれど、目を覚まさせるところから必要なこともある。それでも、今ここで事を起こすよりもよほど、本懐を遂げられる確率は高くなるし、時間的にも短縮できる。何より、そんなつまらないことをしようとしたら、僕がここで君を取り押さえるけどね」
 さっきまでたれ目に掴まれていた手首がじくりと疼いた。
 今のおれに勝ち目はあるか?
 奴の目と手から逃れ、せめてあの女の首に、胸に一突き――手首が痛んだ――無理だ。あの女の後ろには、成長したヨジャ・ブランチカがいる。相変わらずあの女の腰巾着のようにぴったりと寄り添うマザコンが。
「いいよ。やってやるよ。お前の言う通り、時間をかけて口説き落とせばいいんだろう? 彼女の意志でおれに力を貸したいと言わせれば」
 焚きつけられてやろうじゃないか。言われたとおり、毎晩でも通って歌でも笛でも贈ってやる。視察の同行でもなんでも付き合ってやる。
「その代わり、お前は……」
 絶対喋るなよ。
 そう言おうとした途端、たれ目は絞め殺さんばかりにおれを抱きしめた。
「よしきた。僕は全力で君の秘密を愛そう」
 耳元で甘く囁かれ、あまりの悪寒に気が遠くなる。
 周囲では乙女たちの好奇心丸出しの悲鳴が上がる。
 なんなんだ、こいつは。
 本当に、調子が狂う。
 夜会の翌日、出会ったばかりで意気投合して一夜にして藍鐘和の“ご学友”になっていたおれは、早速西方所領の視察に同行させられていた。
 三頭立ての馬車には、おれとたれ目とリントブルム伯爵、それからカインリッヒ嬢。
 リントブルム伯爵は誠実な人柄で、藍鐘和だけでなくぽっと出のご学友のおれにも侮ることなく、藍鐘和と同様に丁寧に接してくれた。西方の地政学についても精通しており、山地の少ない西側の平原では主に小麦が栽培され主食となっていること、西海から吹く風が平原を渡り、その風を主力に風車が小麦を脱穀する際の主な動力源となっていることや、各所領の領主の人柄と主な産出資源、経済の流通状況に至るまで事細かに現地を見ながら説明してくれた。
「ここは、いずれ統仲王様と愛優妃様の間に次の御子が生まれた時には、その方が治める地になるんですよ」
 豊かな農耕資源と晴天に恵まれやすい温暖な気候。神界の食糧庫とも言われるこの地は、まさに恵まれた土地だった。
 リントブルム伯爵をはじめ、西方を治める領主たちは、いつかこの地を法王に返す時のために、この地を大切に慈しんでいるのだと言う。
 この世界を治める二柱の神の間には、いくらか前に第六子である鉱土法王が生まれたばかりだ。鉱土法王はこの西方の南側を所領とすることを約束されている。そこは、こことは違って灼熱の砂漠と険しい山脈が連なる地。点在するオアシスに大なり小なり街ができ、商隊の宿場町として栄えていたり、鉱山でもある山脈にへばりつくように鉱夫たちの町ができている。その地にまだ鉱土法王が赴任していないうちから、次の子供の話だなんて、気の長いことだ。代々守り続けてきたこの地の本当の主に、生きて見えられるわけでもないだろうに、彼らは誇らしげに、風渡り地平の果てまで穂が揺れる小麦畑を見渡している。
 父であるリントブルム伯爵が話をしている間、カインリッヒ嬢は表情一つ変えず、無表情のまま小麦畑の遥か彼方を眺めている。
 彼女に風の精霊王の記憶があったとして、いや、なかったとしても、彼女はここで真の契約者を待っているのだ。そう思うと、己のたかが復讐という野望が卑小なものに思えてきた。
「美しい場所ですね。懐かしくなるような、心の奥が少ししんみりして、帰りたくなるような」
 話しかけると、彼女はゆっくりと首をめぐらせ、おれを見た。
 灰緑色の目には、やはり何の感情も映っていない。それなのに、珊瑚色の唇は思いがけず僅かばかりの言葉を漏らした。
「貴方の故郷はどんなところですか?」
 おれは、言葉を失う。よもや、彼女間でおれの出自を知っているわけではあるまい。それなのに、その声はまるで試しているかのように聞こえた。
 おれはそっと目を閉じる。
 ぽかぽかの日差しの中で、母上が笑っている。辺り一面に広がるクローバーの上に座り込んで、蓮華の花冠を作り、母上に渡した日の記憶だ。母上も小さなおれの頭の上に蓮華の花冠を載せ、おれはそれを被ったまま少しの傾斜を駆けて、街を見下ろす高台に立った。白い石造りの家や建物が並び立つその街が、いつかおれが治める場所になるのだと思った。
 ――帰りましょう。
 たんぽぽの綿毛を吹きながら、母上に手を繋がれて帰る道すがら、見上げた空の優しい色合い。柔らかく浮かぶ白い雲。夕日に染まる白亜の宮殿。
「暖かい日の光が差し込む原っぱがありました。天気のいい日はそこによく、母とピクニックに行きました。蓮華の花冠を作ったり、歌を歌ったり、笛を吹いたり、踊りを踊ったり」
 目を開けると、カインリッヒ嬢はじっと探るようにおれを見つめていた。
 まるで、失くした記憶をおれの中に探すように。熱も必死さもないのに、見つめずにはいられないと言った様子で。
「いつか、聞かせてください」
 え? と驚く間もなく、彼女はリントブルム伯爵に呼ばれておれの前からいなくなってしまった。続けておれもたれ目に呼ばれて馬車へと戻る。
 その後、馬車でも晩餐でもおれと彼女が直接会話する機会はなかったが、おれはたれ目に焚きつけられたとおり、思い切ってその晩、彼女の部屋の窓下に行ってみた。固く閉ざされ厚手のカーテンに遮られた窓の向こうからは、光一筋漏れてはこない。もう寝ているのだろうか。時間的には、それでもおかしくはない時間だ。
 おれは安心したような、少しがっかりしたような気分のまま木の幹に寄りかかり、笛に唇を当てた。
 眠りの妨げにならない曲を。
 穏やかな波の上に乗っているような、母親の腕に抱っこされて揺らされているような、聞いているうちに次第に眠くなってくる子守唄を一曲吹いて、その晩おれはその場を立ち去った。
 それから、毎晩毎晩、人が寝静まった頃を見計らって、おれは彼女の部屋の下で笛を吹くようになった。子守唄だけではなく、穏やかな曲を中心に、明日また健やかに目覚められるように祈りを込めて。
 翌朝も、翌々朝も、おれと会っても彼女はしばらくは何も言わなかった。それでも、次第にちらちらと視線を感じることは増え、ある晩、少し窓が開いた。暑かったからなのかもしれない。そう思ったものの、次の晩もまた、窓は少し開いていた。おれの笛の音が止むと、窓は静かに閉められる。そのくせ、やはり朝になると何も話しかけてはこない。おれが挨拶をしても、型通りの挨拶が返ってくるだけだ。
 ひと月あまり経ったころ、彼女は窓から少し顔をのぞかせるようになった。でも、目が合うとすぐに中に引っ込んでしまう。それでも窓は少しあけられていて、おれは彼女が聞きたいと言った笛を吹きつづけた。そのうち、目が合っても中に引っ込むことはなくなり、ある晩、おれが木の下に着くと、彼女はバルコニーに出て月を眺めていた。
「綺麗な月ですね」
 声をかけると、彼女はおれを一瞥し、すっとまた月を見上げた。
 おれは構わず笛を吹く。
 月の光に溶け込むような、透き通った音色が夜空に立ち昇っていく。
 母上から教えてもらったレパートリーにはない、即興で吹いた曲だった。
 吹き終えた後、余韻を楽しんでいると、上から微かに声がした。
「きれい」
 はっと上を見上げると、彼女は幸せそうにおれを見下ろしていた。
「ねぇ、もっと吹いて」
 鈴が鳴る声で言って、彼女は微笑む。
 おれは返事をする代わりに次の曲を吹いた。
 さっきとは少し趣向を変えて、ただ美しいだけではなく切なさの混じる調べを奏でる。
 彼女はただ月を見上げている。
 続けて、いつもの子守歌を吹いた。
 彼女はちょっと不満げにおれを見下ろし、吹き終ると「ありがとう」と言って中に入って行った。
 それから、彼女は毎晩バルコニーでおれを待つようになった。
 藍鐘和が東の自国へ帰った後も、おれはリントブルム伯爵付きの領主見習いとして館に残ることを許され、昼間はリントブルム伯爵に付いて領地経営を学び、夜は彼女のために笛を吹きつづけた。決して小さいとは言えない笛の音が、毎夜娘の部屋近くから聞こえてくるというのに、リントブルム伯爵はおれに何も言わなかった。それどころか、最近娘の表情が明るくなったとか、よく笑うようになったとか、上機嫌ですらあった。屋敷に仕える者たちの間ではいろいろな噂が立っていたようだが、表だっておれに何か言う者はおらず、リントブルム伯爵が黙認していることから、そのうちおれがカインリッヒ嬢の婿として迎えられるのだろうと踏んで、おれにおもねる者まで出てくる始末だった。
 もちろん、おれの望みはリントブルム伯爵家の婿に入ることじゃない。彼女の持つ力を得るために必要だというのであれば、と考えなかったこともないが、しかし、人が良く、毎日熱心におれを教え導いてくれるリントブルム伯爵の名に泥を塗るわけにもいかない。そうなる前に、彼女の中に眠る力とやらをいただいてしまわなければならない。
 バルコニーに出ておれを待つようになった彼女は、次第に喋る言葉が増えていった。
「いつまでもそんなところで吹いていないで、こちらに上がってくればいいのに」
 招かれるまま、木を伝っておれは彼女の部屋のバルコニーにまで降りたつようになった。
「次は月の光を吹いて」
「今日は歌って」
「踊りましょう」
 冷たい陶器でできた人形だと思っていた彼女の表情は、今や月の光に照らされてくるくると笑ったり拗ねたり赤くなったり、驚くほどよく変わるようになっていた。
 親しみと信頼のこもった目で見られる度、おれは内心抉られるような想いをするようになっていった。
 たまらずに、聞いたこともある。
「おれを信じていいの?」
「だって、貴方の音楽には嘘がないもの」
 おれは、決して自分から彼女に触れなかった。抱きしめようとも思わなかったし、口づけようとも思わなかった。ダンスを求められて手や腰に触れても、息がかかるほど顔が近くに寄ることがあっても、決して彼女にはそれ以上触れなかった。
 もしかしたら、彼女も分かっていたのかもしれない。
 だから、おれの音楽には嘘がない、なんて言ったんだ。
 おれの言葉は、昼も夜も嘘だらけだったから。
 彼女がおれに向けて微笑む度に、おれはこんな茶番、早く終らせたくてたまらなくなっていた。いっそ力なんていらないから、ここから立ち去ってしまおうか。幸い、西方の事情には詳しくなれた。下男でも厩番でもなんでもいい、周方宮にさえ入り込んでしまえば、エマンダの首を狙う機会はいくらでもあるんじゃないか?
 そんな思いを見透かしたわけでもないだろうに、誠実なリントブルム伯爵は、ついにおれにカインリッヒの婿にならないかと打診してきた。ゆくゆくはリントブルム伯爵に、と。
 おれだってリントブルム伯爵は好きだ。穏やかで賢く、誠実で、早くに亡くなった妻を今でも深く愛していて、娘のことだって大切に慈しんでいて、あんな人になれたらと憧れすらする。そんな人から、娘の婿にならないかと言われて、嬉しくないわけはない。
 同時に、それだけはできない、と心が重く沈んだ。
「少し、考えさせてください」
 そう答えて、その考える猶予だけで、結果を出してしまわなければならないと思った。
「今晩の音色は、ずいぶんと悲観的ね」
 いつものようにバルコニーには上らず、木の根元で笛を奏でていたおれに、彼女は手摺の縁に頬杖を突きながらそう声をかけた。
「こちらに上がっては来ないの?」
 その晩は、はじめて腰に剣を佩いていた。周方宮を出る時に、父から渡された周方皇の剣。あの時は引きずるしかなかった剣が、いまは収まりよく腰に吊り下がっている。
 おれが彼女を見上げ、目が合うと、彼女はほんのり頬を上気させ、微笑んだ。
 月灯りを遮る木の下にいるというのに、やたら眩しそうに。
 ――契約に必要なのは、一滴の血だけだ。
 シャルゼスの言葉が耳元で蘇る。
 ――彼女の血を、この剣に一滴含ませ、己の血と混ぜ合わせる。それで、契約完了だ。風の精霊王の力はお前のものとなる。
 力。彼女に眠る力。
 本当にそれは必要か?
 今の彼女なら、おれが欲しいと言えば、血の一滴くらい何も言わずに与えてくれるかもしれない。
 本当に、それでいいのか?
 たかが血の一滴。
 それであれば、彼女の同意などなくても実は簡単に手に入る。おれがこの剣で彼女を傷つければ、それで終わりだ。
 この半年の茶番が馬鹿らしく思えるほどに、契約など本当は簡単にできる。
 でも、シャルゼスはそうは言わなかった。
 ――女の子を一人口説いて来い。
 それはすなわち、奪ってはいけない、相手に与えるという意志があって初めて、成立する性質のものだからじゃないのか?
「いらっしゃいなさいな」
 明るく彼女は手招く。チリン、と鈴の音を立てて。
 出会った頃の人形のような彼女が、嘘のような表情だ。
 今は、ちゃんと生きている。時の流れにおいていかれることなく、彼女もちゃんと意志を持って自分の時を生きている。
 おれは手招きに応じて木伝いに彼女の部屋のバルコニーに降り立った。
 彼女の前に膝をついて礼をし、差し出された手に唇を近づけ、挨拶をする。
 満足そうな彼女の顔を見上げ、一度顔を伏せてから立ち上がる。
「今夜は言って下さらないのね。こんなに綺麗な満月なのに」
 そうだ、いつもなら「満ち足りた月の光よりもあなたの方が美しい」とか、どこかの詩文で暗唱させられた一文を囁いていたものだが、今夜はそんな余裕もなくなっていた。
 というか、そんなことをいくら言われても気に留めた風もなかったくせに、案外ちゃんと聞いていたのか。
 この半年間の己の愚行がほとほと嫌になる。
 が、彼女はおれの様子がおかしいことに、違う理由があると勘違いしたようだった。
「お父様からお話があったのでしょう?」
 気遣わしげに、でも、期待を込めた目で彼女はおれを見ていた。
「貴方はお嫌かしら。その、この家の婿に入るというのは……」
 自分の夫に、と言わないあたりが、何ともいじらしい。
「私は、貴方ならよいと思っているのよ? お父様も気に入っていらっしゃるし、この半年、お父様の片腕になろうかという勢いで領地経営について学ばれ、めきめきと力をつけられたでしょう? 貴方の政治的な発想力も、手腕も、いずれこの西の地においては貴重なものとなるでしょう」
 目を輝かせて語る彼女の声はやや上ずってはいたものの、昼間のおれをよく観察し、冷静に将来性を見定めた結果なのだということがよく分かった。
 彼女もまた、目が覚めたのだ。
 この半年の間に。
「だから――」
「カイン、頼みがある」
 言い募った彼女の声を封じるように、剣の柄を握り、おれはついにその一言を搾りだした。
「ある悲願を達成するために、この剣に君の血が欲しい」
 すーっと、彼女の顔から血の気が引いていくのが見えた。
 幻滅された。なんて、好きでもないくせにどこかがっかりしている自分がいた。
 彼女の視線は、目の前に突き出した剣の柄に吸い寄せられていた。
 そして、彼女はおれを見る。
 灰緑色の目が、不安げにおれの心中を探ってくる。
「キルアス様」
 その一言に、おれの中で今まで抑えつけていた全てのものがふっとばされていった。
 藍鐘和にも見抜かれ、今更狼狽するようなことではないはずなのに、まさかこの少女にも見抜かれているとは思わなかった。
 しかし、なぜ?
「貴方が望まれるのなら。私の血でお役に立てるのなら」
 彼女はおれの突き出した周方王の剣を半分、すらりと抜き、躊躇いなく手首をあてがった。刃零れなく、手を近づけただけでひりひりとするほど磨き上げたその剣の刃に、つるりと真紅の血が伝い流れる。
 止める間もなかった。
「これで、よろしいですか?」
 痛みをこらえながら微笑む彼女の腕を掴み引き寄せ、その傷口におれは唇をあてる。
 口の中に錆びくさい、馴染の味が広がった。精霊王でも綺麗な女の子でも、血の味は同じだった。思いがけず深く切ってしまったのか、軽く吸っただけでは血は止まらない。
 おれは慌てて上衣の裾を裂き、彼女の手首の上をきつく縛り上げた。
「なんてこと……」
「貴方が、周方に帰るために必要だというのなら。父の話も、私の気持ちも、全てお忘れください」
「なんで……!!」
 それはもう、怒りに近い感情だった。怪我をさせた上に、血を失って蒼白になってきた彼女に、ぶつけてはいけないもの。分かっていたのに、どうしようもなかった。
 だってもう、これじゃあ“取り返しがつかない”。
 望んでいたはずのこととは裏腹な言葉が脳裏を過る。
「お忘れですか? それともご存じなかったのでしょうか。私は、カインリッヒ・リントブルムは、周方の皇子に嫁ぐはずの者だったのですよ」
 彼女の優しい声に、幼い子供たちのくすぐったいような笑い声が重なる。
「クローバーの野原で花冠を作ったり、歌ったり、踊ったり。リセ様が歌い、貴方は笛を吹いていた。高台から眺める周方の白い街並みが、夕日に反射してそれはそれは綺麗でした」
「なぜ、それを」
 『貴方の故郷はどんなところですか?』と、視察の時に聞かれた時、そこまで詳しくは喋らなかったはずだ。いつもの懐かしい風景。そこにいるのは母上とおれ。
 ――今日は可愛いお客様が来ているのよ。張り切って、いいもの見せましょうね。
 あの時だ。
 エマンダのお茶会に招じ入れられる少し前。
 いつものピクニックに、もう一人ついてきたことがあった。
 野花咲く小さな丘の上でおれは笛を奏で、母上は舞を舞った。しゃらしゃらと鈴の音を響かせながら。頬を上気させてたくさんの拍手をくれたその子は、母上からいくつか鈴を貰い受け、手足につけてぴょんぴょん跳ねて、音とリズムを楽しんでいた。見ていたらおれも楽しくなってきて、その子が踊りやすいように陽気な曲を奏でてやった。
 あれが、あの時の子が、この少女?
「毎晩、笛でいろんな曲を吹いてくださいましたね。その時に、あの時の曲も入っていた。陽気で軽やかで、つい跳ねて踊りたくなるような。目の前に、リセ様もおいでになるかのようでした」
 やめろ。母上の名なんて出さないでくれ。
「そんな、曲なんていくらでも吹ける奴はいるだろう?!」
「指使いです」
 くすくすとカインリッヒは笑う。
「小さかった時に覚えたからでしょうか。高音のレを鳴らすときに、普通ならば人差し指と薬指で塞いで鳴らすところを、貴方は親指と中指とで別の穴を塞いで鳴らしているんです。別の穴を塞いでいるので、他の方のレよりも若干高音になるのです。でも、そのレだからこそ、リセ様のつけられている鈴の音とも調和する。旅の楽団の運指だそうですね。小さい子でも奏でられるように、と研究された……」
「旅芸人一座なら、誰だって使えるってことだろう?!」
「いいえ。あの舞曲をその運指で吹けるのはキルアス様だけでした。今まで、夜会に招かれた楽士たちの誰も、その運指であの舞曲を吹ける方はおりませんでした。難しいのだそうですよ?」
 まるで、いなくなった婚約者を探しつづけていたかのようじゃないか。
「馬鹿じゃ……ないのか……? まさかこの十年近く、そうやってキルアスを探していたのか?」
「馬鹿とはなんです! ほら、今だってリセ様から頂いた鈴をお守り代わりに、こうやってずっと肌身離さず……」
 血が流れ続けている腕には、一つの小さな鈴が巻き付いていた。
 見覚えのある紋様が刻まれた金の鈴。
 おれは、無言で彼女の腕からその鈴を引きちぎり、床に投げ捨てた。
「何を……!!」
 蒼白になっていた彼女の頬に、一瞬にして朱が昇りつめた。
 彼女は、おれのことが好きだった。
 何なら、キルアス皇子の時代から、ずっと幼いながらも恋焦がれてきた。はじめて夜会で出会った時のあの人形のような表情も、もしかしたらキルアスがいなくなってからのことかもしれない。それからずっと、表情には出さずにおれのことを探しつづけて、笛の楽曲や運指からおれを探し当てたって?
「冗談じゃない!!」
 野原で生き生きと鈴をつけて踊り跳ねる、小さな女の子の残影を掻き消すように、おれは叫んだ。
 びくりと、彼女は震える。
 何か別のシナリオを期待していたかもしれないが、おれはそれに応えるわけにはいかない。
「どうりでチリンチリンとうるさいわけだ。こんな縁起でもないもの、さっさと捨ててしまえばよかったものを。あの女に疑われたら、どうするつもりだったんだ」
 たとえこの先おれが失敗しても、彼女にまで累を及ばせるわけにはいかない。
「それは……まさか、たかが鈴くらいで……」
 彼女はただの被害者だ。何も知らず、おれから力を引き出された被害者。
 けして、おれの復讐に加担したなどと思われてはいけない。
「おれは捨てた。母に関するものはこの笛以外、全部捨てた。鈴も、衣服も、記憶も想い出も、名前さえも……!! おれは捨てたというのに、どうしてあんたはまだそんなもの、のうのうと持っているんだ!」
 怯む彼女を、おれは睨みつけた。
「キルアスなんて奴はとうにいない。あの男の血が流れているこの身体だって、忌々しいくらいだ。それでも生きてここまで来たのは、あの男が憎いからだ。あの女が許せないからだ。おれと母を追い出した周方に、母を殺した周方に、復讐してやるためだ。この世界の司法などあてにはならない。綺麗な世界であるために、後ろ暗いところは隠そうとするのがこの世界だ。罪を罪として、同等の刑を以って罰するべきなのに、母を殺したあの女は、今も皇妃として近隣の夜会にまで上機嫌で顔を出していやがる。母を助けなかった父も、相変わらず皇と呼ばれ敬われている。嘘だろう、そんな世界。でたらめだ。だからせめておれは、たとえ罪人と謗られようと、己がこの手で母上の仇を討つためにここに来たんだ。だから――罪人となるのは、おれ一人でいい」
 おれは、剣の刃に薄く腕を沿わせた。
 するりと冷たい殺気が皮膚の上を走って、赤い血が滲み出る。
 瞬間、剣からは黄色い光が溢れだした。
 全身には思いがけないほどの重圧がのしかかって潰されそうになる。バルコニーの床に這いつくばって、何とか立ち上がろうとしても、あっという間に身体中に疲労感が充満し、痺れて力が入らなくなる。
 これが、人の身で精霊王と契約しようとした代償。
 確かに、こんな状態で長く生きられるわけがない。それ以前に、体内で暴れ狂う力に身体が内から食い破られそうだ。
 早鐘のような心臓の鼓動に脂汗を滲ませながら、おれは周方王の剣を杖に立ち上がろうと試みるが、それすらなかなかうまくいかない。
 目の前では、発光と共に倒れた彼女が、黄色い光に包まれたまま静かに目を開け、ゆっくりと起き上がっていた。
「人の子よ、我が心、弄んだな?」
 珊瑚色の唇を怪我を負った手首にあてがい、今までにない低い声で彼女は言った。
「人の身で我と契約しようなどと、愚かな。その身、今すぐに滅んでも知らぬぞ」
「これで滅ぶなら、それまでだ」
 喉を行き来する息が荒々しく太く短くなっていく。身体は鉛のように重くなり、身を焼き尽くすような熱さに苛まれている。
 それとは別に、頭には高速で風の理が滝のように流れ込んできていた。なぜ風は吹くのか。そんな原理から始まって、風の精霊たちを動かすための言霊に至るまで、あまりの情報量に頭の中が焼き切れそうになる。
「我は、これから生まれてくる風の法王に使えるために生まれてきたというに……人の子よ、誰に唆された?」
 息を切らしながら立ち上がったおれに、風の精霊王はとても残念そうな目を向けていた。
「おれが害したいと思っているのは、周方皇と周方皇妃エマンダ。それ以外の奴の命を勝手に脅かすことは許さない」
 はっきりと告げたおれに、風の精霊王は鼻白む。
「私に命令すると言うのか? 人の身で? そんな馬鹿な。許されるはずがない」
 身体の中で荒ぶっていた力が、次第にこなれて落ち着いていく。油断すればすぐに食い荒らされそうだが、気さえ抜かなければこのまま抑え込めそうだ。
「契約は成立した。安心しろ。あんたが言う通り、人の身で風の精霊王と契約した代償は大きそうだ。そんなに長く生きてもいられないだろうから、次の法王が誕生する頃には、おれは死んで契約なんて無効になってるさ」
 剣を支えに何とか立ち上がったおれを、彼女は悲しげに見つめていた。
「私に近づいたのはこの力が欲しかったから?」
 声が元のカインに戻っていた。
「そうだよ」
 すげなくおれは言い返す。
「復讐なんてして、何になるの? その後は? 貴方が周方に帰ることができるのなら、この力貸してあげてもいい。正々堂々とキルアス・アミルだと名乗って、周方の正門から帰るために、身を守るために必要だというのなら。ううん、それだけじゃない。必要なら、父に後ろ盾を頼んでもいい。天宮の統仲王様に理由を話して、仲介してもらうことだって……」
「いらない」
「どうして」
「言ったはずだ。キルアスなんて名前はとうに捨てた、と。死んだ者の名を名乗って、今更どうする? 亡霊の帰還だなんて、笑える。キルアス・アミルなんてとうにいない。だから、君を次の皇妃にすることもできない」
 血を失いすぎて青ざめていた顔が、更にざっと蝋のように白く色を失った。
 本当のところ、リントブルム家の状況も十年前とは違っている。当時は伯爵の妻、つまり彼女の母親も生きていて、伯爵家を継ぐ男児が期待されていた。が、妻は亡くなり、カインはたった一人の後継者になってしまった。伯爵には再婚する意思はない。だから、カインが周方の皇妃に取り立てられる可能性は限りなく低い。リントブルム伯爵がおれを婿に、と言ったように、彼女はもう、この領地から逃れられない。だからこそ、幼い頃からの夢に希望を託したのかもしれないが。
「貴方がしたいのは、ただ周方皇と皇妃を殺すだけ?」
「そうだよ。その後のことなんて、どうでもいい。なりたい奴が周方王になればいいし、皇妃になればいい。どうせ、人の身で精霊王と契約したら長くはないんだろう? あいつらの首さえ取れれば、おれはそれでいい」
 悲しみと怒りがないまぜになった顔で、カインはおれを睨みつけた。
「復讐をしたいだけなら、この力は貸せない」
「もう契約は完了している」
 どんっとおれは剣の先でバルコニーの床を突く。
「私の力は、人を殺すためにあるものじゃない。人を守るために授けられた力なの。だから、この力で誰かを傷つけるなんて許さない」
 今度は怯むことなく、カインは言い募り、おれの手から剣を奪い取ろうとした。
 さすがに日頃令嬢暮らしをしている少女に、あっさりと剣を奪われるわけにはいかない。
 さっとおれは彼女の目の前から剣を自分の背後に隠す。
 カインは躍起になっておれの背後から剣を奪い取ろうとするが、後ろに回り込めるほどすばしっこいわけではなく、常におれの前から抱きつくような恰好で腕を伸ばしてくる。
 いっそ、抱きしめてしまえれば彼女の溜飲も下がったかもしれないが、それは、できない。
 身を捩って彼女の動きを躱しながら、つと、おれは彼女の左手を掴み上げた。
 左手首に巻いた布は、未だ血が流れ出つづけているせいだろう、赤黒く染まって重く垂れ、上に持ち上げるとぱたぱたと血が滴った。
「放して!」
「どうして切った?」
「は?」
「どうして、簡単に差し出した? 傷が残るかもしれないのに」
 カインは、ぐっと唇を噛みしめ、涙すらも堪えたように見えた。その目に、再び怒りが灯る。
「貴方がそれを聞くの? 望んだ貴方が!? 信っじられないっ」
「君は、自分が風の精霊王だとは知らずに切ったんだろう?」
「そうよ。……願掛けか、誓いだと思ったのよ! あるいはいっそ……」
「死ぬ気だった?」
 ぐっとカインは言葉を呑みこむ。
 図星か。
 こんなに深く切らなくてもいいものを、わざと、か。
「笑うなら笑えばいいわ!! でも、私は周方の皇妃になりたくてこんなことをしたわけじゃない。だから、父の言ったことも私のことも忘れて、とはじめに言ったのよ!」
 そうかな。
 忘れてほしくないから、切ったんじゃないのか?
 ずっと心に残るように。忘れられないように。おれの心に少しでも傷痕を残そうとしたんじゃないのか?
 それくらい、死ぬほど好きだった? おれのことが?
 まさかだろう。
 幼少の頃から婚約者と教えられてその気になって、その婚約者が姿を消した後も探しつづけて、結局、時の流れに取り残されて他の物事が見えなくなっていただけだ。
「馬鹿な奴」
 心の底から、鉄の塊のように転がり出たおれの一言に、カインの顔からは表情が抜け落ちた。
 何もおれに伝わっていないんだ、と悟った、絶望の表情だった。
 おれは何も言わずに、カインの左腕を見る。
『風よ そよげ
 傷つきし場所に
 温かな息吹を吹き込め』
 試みに、簡単に〈治癒〉の呪文を唱えてみる。
 そよそよと辺りの大気が揺れ、ぬくもりのある風がカインの左腕に集まっていく。傷口の周りで黄色い燐光が飛び交い、零れていた赤い血は止まり、傷口が塞がりだす。
「許さない」
 顔を伏せたまま、地の底を這うような声でカインは言った。
 伏せた顔から、幾滴か透明な雫が零れ落ちていた。
「復讐なんて、絶対に……!!」
 泣きながら顔を上げた彼女は、そのまま後ろにぐらりと傾いだ。
 慌てておれは抱きとめる。
 カインは気絶していた。
 そうでなくても顔色が悪かったというのに、疲れ果てて憔悴の色も濃く、目の下には早々に隈ができている。
 対するおれは、〈治癒〉の魔法を使ったばかりというのに対して身体には影響が出ていなかった。どれだけの負荷がかかるかと思っていたのだが。
 こんなものなのか?
 これくらいなら、剣を揮うよりも軽い。
 助かった、とどこかで思いながら、おれはカインを抱き上げ、初めて彼女の部屋に窓から入り込んだ。
 年頃の少女らしい家具やレースのタペストリーが飾られた部屋の、窓際すぐのところにあったベッドに彼女を寝かせる。
「ごめん」
 おれは彼女の頬を拭い、そっと額を合わせて、彼女の部屋を後にした。
 その足で、おれはリントブルム伯爵領を出て、周方に向かった。
 何日かかけて周方の都手前の森まで辿り着くと、どこでどう嗅ぎつけたのか、シャルゼスが木立に紛れておれを待っていた。
「よう、ずいぶん彼女に嫌われたもんだな」
 いつもと変わらず、飄々とシャルゼスは皮肉気な笑みを口元に浮かべている。
「お蔭様で」
 おれは奴を無視して前を通り過ぎようとした。
 おそらく、聞いてもこれ以上ろくなことはない。
「守護獣って、知ってるか?」
 待てよ、という代わりに、シャルゼスは腕を組んで木の幹に寄りかかったままそう言った。
 おれはカインと契約した時に流れ込んできた大量の情報を閲覧してみるが、それらしき言葉は見つからない。
「精霊獣、ならわかるか?」
 言いかえられた単語で再び確認すると、うっすらと人ではない四足の首の長い獣の姿が現れた。
 シャルゼスは、今度は真っ直ぐ自分を見たおれの目を見て、おれが精霊王と契約したことを確信したのだろう。
「お前、本当に契約しちまったんだな」
「自分から勧めておいて、それはないだろ」
「そりゃそうだがよ、人の身で契約に耐えられるとは、正直おれも半信半疑だった」
「……あんた、おれが死ぬかもしれないようなこと勧めといて、その言い方はないだろ」
「いや、悪ぃ、悪ぃ」
「まあ、長くは生きられなそうな気はしてるけどな」
「慕ってくれる神界一の美少女も、これ見よがしに傷つけたしな。あれは傷が深いぞ〜。手首の傷よりも、ずっとな」
 人の傷を抉ってからかってくるシャルゼスに、これ以上付き合ってやる筋合いはない。
「守護獣って何だよ」
「精霊獣の、神界に降ってからの呼び名だよ」
 おれは少し頭を傾げて、精霊獣の定義を搾りだす。
「精霊界において、精霊王に継いで二番目に力を有する者。精霊王が不慮の出来事で不在となった際には、次の精霊王となるべき存在。姿は獣態」
「そう。精霊獣は精霊王の命に従う存在。その精霊王が法王と契約を結べば、精霊獣は神界に降り、守護獣となって法王を守る。法王を守ることが、精霊王を守ることになるからだ」
「おれは法王じゃないけどな」
「本来、守護獣の名は精霊王から法王に明かされる。だから、お前はまだ風の守護獣の名を知らない。知りたくはないか?」
 子供のようにシャルゼスは挑発してくる。
 おれは少し考えて、乗ってやることにした。
 守護獣なんて、いなくても変わりはない。カインをあんな目に遭わせて契約したのだから、これ以上関わりあう者は少ない方がいい。だが、シャルゼスは教えたいのだ。俺に守護獣の名を教えたい。その代わり、きっと何か条件を出してくるはずだ。それが、奴の頼みたいこと。もしかしたら弱点になりうるかもしれない。
「何が望みだ? ふらりと現れて、おれに剣から舞踏まで指南して、今日は仕上げに来たんだろ? シャルゼス。おれに、周方で何をさせたい?」
 シャルゼスはおれの視線を正面から受け取った後、すいっと木立の合間から見える青空を見上げた。そして、またおれに視線を戻す。いつものふざけた飲んだくれのような目ではなく、見られたこちらが身を正したくなるような真剣な目だった。
「復讐するのは構わない。だが、皇に関しては――もし殺せないと思ったのならば、更生の余地があるとお前が判断したならば、一つ、皇に生き残る条件を課してほしい」
 何を言い出すのかと思えば、皇の命乞いとは。
 これ以上聞いてやる義理もないと、おれは不信感も露わな目でシャルゼスを睨みつける。
「おれが殺せないと思っているのか? あいつを生かしておくと思っているのか? 更生の余地? はっ、そんなものあるわけがない」
「だろうな。だから、万が一だ。殺す価値もないと思えば、それでもいい。もし万が一、周方皇が生き残ることがあったら、の話だ」
 珍しく、シャルゼスは苦々しく吐き捨てた。
 どうやら、本心と使命との間で葛藤しているらしい。
 こんなシャルゼスを見るのは初めてだ。面白い。
「条件というのは?」
 おれに促されて、シャルゼスは苦く笑った。
「皇が妃を失って一人でいるわけにもいくまい。もし三度妃を娶る気があるのなら、」
 シャルゼスはそこで一度言葉を切って目を瞑り、深く息を吐き出した。
「北楔・羅流伽の姫アイラスを妃に迎え、終生大事にするように、と」
 歯ぎしりが聞こえるようだった。
 ギリギリと、歯噛みする音が聞こえるようだった。
 こいつがそんなこと望んでないのは一目瞭然だった。
 本当は妃になどやりたくない。その思いが、『終生大事にするように』という、それまでの誰かからの伝言のような言葉の中にあって、唯一自分の感情を曝け出した言葉に凝縮されていた。
「それは、あんたが自分で懇願したらどうだ?」
「そうだな。だが、アイラスの周方王への輿入れは必要なことだ」
 自嘲気味に頷いたシャルゼスは、しかし、ここで安易に私欲に走るつもりはないらしかった。誰かから受けた命を果たすため、おれのエマンダと周方王への復讐心が途絶えないように焚きつけつづけ、あらゆる技を仕込んできたのだ。要は、エマンダを“円満に”排除するために。
 哀れな女。
 皇に必要とされず、歴史にも必要とされなかった女。
「必要――おれを育てたのもそのためか。長い布石だったな。ご苦労なこった。ここでおれが皇を殺したら、全てがパァだろ?」
「それならそれで……いい」
「言えよ、その方がいいって」
 シャルゼスは苦悩を振り払うように首を振った。
「任せる。お前の決めたいように決めればいい」
「最後まで嫌な奴だな。恨みを晴らすために皇を殺せばあんたが喜び、あんたへの嫌がらせにあいつを生かせば、おれの思いが中途半端になる」
 シャルゼスは、喉の奥でかみ殺しながら満足そうに嗤った。
 どこまでも人の悪い、悪い大人の典型みたいな笑い方だった。
「風の守護獣の名は“逢綬”。名を呼べば、すぐにでもお前の元に飛んでくるだろう。守護獣は便利だぞ。この森から周方宮まで、夜闇に紛れて一っ飛びで着くことができる」
「ふぅん、それは便利そうだ。一度は呼んで挨拶しないとな」
「そうだそうだ。これまた可愛い女の子だぞ。精霊王の時のように、わざと機嫌を損ねたりしないようにな」
 わざとって――本当に全て、ずっと近くで見ていたかのようだな。
「シャルゼス、あんた、一体何者だったんだ?」
 おれの問いに、シャルゼスはうっすら目を細め、懐かしむように笑った。
「教えられることは全て教えた。お前は本当に優秀な弟子だったよ。成功を祈る」
 自分のことは何一つ答えず、シャルゼスはトントンと二回おれの肩を軽く叩いて、森の中へとあっという間に消えていった。
 それからおれは時間をかけて周方宮の行事や皇や皇妃の予定を確認し、饗宴も何もなく皇と皇妃が揃っている夜を選び、皆が寝静まった頃合いを見計らって、逢綬を呼んだ。
 麒麟と呼ばれる龍の頭と馬の身体を持つ逢綬という名の守護獣は、少し年上の少女の姿ではじめ現れた。
 色素の薄い金髪を腰のあたりで風に揺らし、飾り気のない生成り色のワンピースを一枚纏っただけのすらりと背の高い少女は、感情が宿っているとは到底思えない無関心の目でおれを見ていた。
 人形の時のカインよりも、彼女の方がよほど得体が知れない。秘めたものを押し殺しての無表情ではなく、彼女の場合はその中身が真に虚ろなのではないかと思わせるほど、気配も存在感も薄かった。
 それとも、やはり人であるおれに命じられて来ざるを得なかったことに立腹しているのだろうか。それにしては、彼女の目は値踏みする気配もない。諦めという目でもない。はじめから期待も希望も何もない、自我というものすらあるかどうか危うい感じがした。
 シャルゼスが機嫌を損ねるなと言っていたが、そもそも機嫌自体があるのかどうか。
「ご命令を」
 空気に溶けてしまいそうなくらいか細い声で、彼女はおれが自分の名を名乗る前にそう言った。
「おれは……」
「キルアス・アミル。我が王と契約せし者」
 なるほど、風の精霊の二番手ともなれば、これまた全てお見通しというわけか。
「おれを、周方宮まで連れて行ってほしい」
「承知」
 どうせ今晩だけの付き合いだ。余計な交流など必要ない。
 腹を括って端的に用件を伝えると、逢綬はあっという間に麒麟の獣態に姿を変えた。
 その背にさっと乗ると、逢綬は風を切る速さで宙へと駆け上がり、おれが乗り方も分からず燃える鬣を掴んで振り落とされないように必死で試行錯誤しているうちに、周方宮の上空に辿りついていた。
 八年ぶりの周方宮は、相変わらず深月の闇夜にも真白く浮かび上がっていた。
 宮の周囲は見廻りの兵が持つ灯火が、そこかしこでちらちらと絶え間なく移動していく。
 きっと、遥か昔から繰り返されてきた一夜に今夜もなるはずだと、この宮にいる者たちは皆そう思っているに違いない。皇も、皇妃も、衛兵も侍女も下働きの者たちも、皆。
 ふぅっとおれは息を吐きだし、静かに潮風の香りのする夜気を腹の底まで吸い込んだ。
『風よ 吹け
 北より強く 南より強く
 怒涛の如く吹き荒れて
 雲を呼び 雷を鳴らせ
 降りしきる雨の音すら掻き消すほどに
 疾く 力強く 吹き荒れよ』
「〈嵐〉」
 ざあぁっと一陣の風が頬を掠めていったと思った瞬間、周方宮の周りには南北から吹き込む風が渦を巻きはじめ、暗雲が湧き上がり、黄金の稲妻が上に下に、左に右に縦横無尽に駆け巡りはじめた。そして、白亜の壁と緑の屋根が真白く霞むほどの雨が叩きつけはじめる。
 急な嵐に慌てふためく衛兵たち。
 そうだ。お前たちはそこで天候の異変に驚いていればいい。
 雨の音が、雷の音が、風の音が、これから始まるすべての音を掻き消してくれる。
「一番左端の三階のバルコニーに降ろしてくれ」
 そこは、皇妃の寝室がある部屋のバルコニーだ。
 雨風が打ちつける中、逢綬は無言でおれをそこに降ろす。
「終わるまで雲の上で待っていてくれ。もし、夜明けになっても呼ばれなければ、帰っていい」
 頷くことさえせずに、逢綬は渦巻き立ちこめる暗雲の向こうへと瞬時に飛び去ってしまった。
 気にすることはない。
 おれは、カインも逢綬も道具にするつもりでこの契約を結んだんだ。彼女たちの心を踏みにじって契約を結んだくせに、心が欲しいなどばかげている。
 彼女たちは、復讐を成し遂げるためのただの道具。
 今夜が終われば、彼女たちとの関係も終わる。もう二度と、彼女たちの名を呼ぶこともない。早々におれが死ねば、彼女たちは解放され、正しい主に迎えられることになるだろう。
 だから、次に呼ぶとしたら逢綬の名だけ。生きてこの宮を出ることになった時だけ。
 本懐を遂げるためには、彼女たちの力は使わない。
 ぐっと父からもらった剣の柄を握りしめ、おれは窓脇の壁に張りつき、中を窺う。
 カーテンは閉めきられていたが、この大嵐の音が鳴り響いているというのに、中から灯が漏れる様子もない。まさか寝ているのだろうか。いや、それなら好都合だ。
「おい、あそこに影が!」
 勘のいい衛兵が下から大声でおれを指差す。
 この突然の雷雨の中でよくこちらを見上げる余裕があったものだ。が、相手をしている場合ではない。おれは剣の柄で窓ガラスを叩き割り、錠を外してカーテン沿いに室内に滑り込んだ。
 案の定、室内は真っ暗だった。部屋の中央には天蓋付きの寝台が据え置かれていたが、窓が割られ風が吹き込んでカーテンを大きく揺らしているというのに、起き上がる気配もない。
 いないのか?
 出かけている? それとも別の部屋に寝所を変えたか?
 事前に調べたところでは、今も昔も変わらずこの部屋で寝起きしているとのことだったが。
 壁を伝って寝台に近づき、窓から吹き込んできた風に吹き上げられた帳の隙間を潜って中に入り込む。
 やはり、いない。
 寝台の上はもぬけの殻だ。
 というより、まだ床に入った形跡がない。部屋にも人の気配が感じられない。
 であれば、どこかに出かけているのか? どこに? まさか、皇の部屋か?
 いや、そんなわけはない。彼らの夫婦関係は冷え切っている。それは今も昔も変わらず、事前の調査でも確認していたことだ。
 じゃあ、エマンダはどこだ?
 探すか? いや、先に周方皇だ。ここで時間を無駄にするわけにはいかない。
 幸い、と言おうか、皇妃の部屋には皇の部屋に繋がる通路がある。母がおれを連れて逃げる時、父がこの剣を持って母の部屋に忍んで来られたのは、その通路があったからだ。昔からの皇妃だったエマンダのこの寝室にも、同じ通路はあるはずだ。
 エマンダの部屋は、母の部屋とは皇の部屋を挟んで対極の位置にあることからして、母の部屋にあった通路の場所と反対の壁を探ればいい。
 壁伝いに移動しながら壁に触れ、動くところはないか確認していく。思しき場所には天井から床まで届くタペストリーが下げられていたが、この後ろにはなく、残るは重たげな書棚だけ。まるで皇の渡りを拒んでいるかのような重厚感のある書棚に手を掛けると、思いの外軽くそれは壁に沿って横に動いた。露わになった壁には、扉が一枚。
 と、突然部屋の外からノックの音がした。
「エマンダ様、失礼いたします」
 聞き覚えのある滑らかな青年の声。
 まずい、ヨジャ・ブランチカだ。
 ガラスの割れる音を聞きつけて来たのか。
 おれは目の前の引き戸になっている扉に手を掛け、一気に開く。
 同時に、廊下に面した扉も開き、爛々と灯火を持った衛兵たちが喚声を上げながら雪崩れ込んできた。
 思わず振り返ってしまったために、目が白く眩む。そこに成長したヨジャ・ブランチカが一気に切り込んでくる。
 おれは奥歯を食いしばりながら、抜き放った剣でその一撃を受けた。
 おれよりも背の高い奴からの上段からの一撃は、びりびりと手を痺れさせる。
「侵入者はお前か」
 冷たく吐き捨てるようなその声は、明らかにおれをキルアスと知ってのものだった。
「生きているだろうとは思っていたが、まさかこんなに堂々と再会する日がこようとは」
「喜んでいるようには聞こえないぞ」
「当たり前だ。大人しくリントブルム侯爵家の婿になっていればいいものを」
 リントブルム侯爵の名を出されて、おれは途端にカッと体中の血が沸騰した。
 力で押し切り、さらに切り込む。が、予測していたとばかりにヨジャ・ブランチカはおれの剣を受け流し、遊ぶように技を仕掛けてくる。余裕を見せつけるためか、服ごと浅く切りつけ、手足に切り傷を量産していく。
「キース・アルファイン、だったか。リントブルム伯爵嬢に近づき、まんまといい仲になったとか。伯爵の位では不満だったか?」
「違う!!」
 嘲笑うヨジャ・ブランチカに一撃を浴びせる。
「地位などいらない。おれが欲しいのは……」
 暗い口を開けたままの秘密の通路に気付いた衛兵たちが中に入るかどうか考えあぐねて、ヨジャ・ブランチカを振り返る。
 その衛兵たちに向けて、おれは鎖のついた錘を袖から出して、錘の遠心力でぐるりと衛兵たちを薙ぎ倒す。
「よそ見していていいのか?」
 嗤うヨジャ・ブランチカの足を払い、体勢を崩している間に、おれは扉の向こう側へと駆けこむ。
 閉めようとした扉を、一足飛びに駆けてきたヨジャ・ブランチカがこじ開けようとする。
 ここで押し問答している場合じゃない。
 おれはヨジャ・ブランチカを一度下から睨み上げると、思い切り額に頭突きを喰らわせた。咄嗟のことに防ぎきれずによろめくヨジャ・ブランチカの腹を、思い切り遠くまで蹴り飛ばす。
 勢いよく扉を閉め、迷う間もなくおれは一目散に駆けだした。すぐに追いつかれることは目に見えている。だからこそ、少しでも距離を稼がなければならない。
 走りながら蒔菱を背後にばらまき、いくらかでも時間稼ぎになるように図る。
 真っ暗闇の石の回廊は、途中階段の上り下りを経て、場外へと抜け出す道の分岐点を通り過ぎて、ようやく一つの扉の前に辿りつく。これより先に進めば、おそらく今度は第二皇妃の部屋に繋がるはずだ。背後からは蒔菱を踏んだのであろう衛兵たちの悲鳴が聞こえてくる。
 音を立てないように注意深く扉を少し横に滑らせる。
 室内は、煌々と明かりに照らされていた。
 眩しさに目を細め、徐々に慣れるのを待ちながら、中の気配を窺う。
 林立する複数の人の気配。しかも張りつめた気配は、明らかに異常だ。
 まさか、もうここにも侵入者に備えて衛兵が辿りついていたのか? だとすれば、前と後ろ、挟まれて進退が窮まる。今のうちに城外への脱出路まで戻るか?
 だが、慣れた目に飛び込んできたのは、寝台のある奥の方で誰かを取り囲む衛兵たちの背中だった。
「退位を、陛下。御譲位くださいませ」
 毒を吐くような女の声が、衛兵たちの向こう側から聞こえた。
 あれは、間違いない。エマンダだ。
 ぞくりと肩から全身に向けて震えが走った。見つけた、とばかりに高揚感が胸にせり上がってきて、おれは打ち震える。
 エマンダが、来ている。
 しかも、退位を、だと? 譲位を、だと?
 何を言ってるんだ、あの女。
「今宵は、どうしても陛下が頷いて下さらないので、加勢を呼んできてしまいましたわ。皆、貴方の退位を望んでおります」
 悦に入るような女の声に、衛兵たちは持っていた剣の柄でダンッと床を叩いた。
 どうなっている?
 城内城下の皇の評判は、近年頗る落ちてきているとは聞いていたが、皇妃が皇に退位を迫っているなんて話は聞こえてこなかったぞ。
 しかも、皇妃に子が生まれた話も聞いていない。誰を後につけるつもりであんなことを言ってるんだ?
「ご心配なさいますな。貴方が一言私に皇位を譲る、とおっしゃっていただければ、それでよろしいんですのよ? 何も問題はございませんでしょう。私とて、貴方の従姉。三番目に生まれた人の血は継いでおりますわ」
 まさか、皇位を自分に譲れ、とは。
 呆れてものも言えない。一体どうして今頃、そんなものに欲を出したのか。
「やらぬ。周方皇は西方将軍が務まらねばならぬ。そなたには無理だ」
「問題はございませんわ。西方将軍を決める宴を開きます。他の楔と同様に。そこで勝ち抜いた者を西方将軍に据えますわ」
「そうやってヨジャ・ブランチカに勝ちあがらせ、いずれは皇の座も譲るつもりであろう?」
 なん、だと?
 どうしてそこでヨジャ・ブランチカが出てくる?
「さあ、誰が勝つかは強さが証明してくださいますわ」
「そなた、私が西方将軍であることを忘れておるのか?」
「ええ、ですから、聞き分けのない皇様のために、周方の精鋭を連れてきたのです」
「周方の精鋭、なおかつそなたの言葉に賛同する者たちだけ、な。ダルニコワ、お前もか」
 呆れた皇の声など意に介した風もなく、エマンダの傍らにいた体格はいいものの一人だけ武装していない男が頷く。
「陛下には大変お世話になりましたが、ここまでにございます」
 これみよがしに皇の溜息が聞こえてくる。
「エマンダを唆したのはそなたか」
「唆すなど! 私は自分の意志で望んだのです。女としての幸せが得られない以上、他に我が手で掴める望みなどこれくらい」
 甲高い声でヒステリックに叫んだエマンダを、ダルニコワが慰めるように落ち着ける。
 ダルニコワ――褐色の肌を持つ周方皇の片腕。宰相。昔から、それこそおれが生まれるずっと前から周方にいた男だ。そもそもいつからいたのかというと、エマンダの輿入れの時からだとか。もともとエマンダの家に仕えていたのを、エマンダが周方皇と結婚した時に共に来たのだとか。それでも、エマンダが皇妃になった後はそれなりに周方皇に従順に職務を遂行してきたはずだが。
「嘘を吐くな。そなたは欲しいものはすべて手に入れているではないか」
「いいえ。いいえ、いいえ。私は、何も手に入れていない!」
 皇の呆れた声に、エマンダは激昂していた。
「ならば、離縁すればよいか。あとはどこへなりとも好きなように行くがいい」
「いいえ! 私が欲しいのは、周方皇の玉座。貴方のいない世界」
 虫唾が走るほど陶酔に満ちた上機嫌な声に続いて、「殺しなさい」と低い声が聞こえた。
 集まった兵士たちは、声を上げながらベッドに半身を起こしただけの国の主へと斬りかかっていく。
 そんな……殺させてなるものか。あいつの首をとるのはおれだ!
 おれは背負っていた弓を構え、衛兵たちの輪から退いてきたエマンダの背中を扉の隙間から狙う。
 ぱっと矢から手を離そうとした瞬間、矢を番えた手ごと何者かに掴まれた。
「余裕だな」
 上から見下ろしてきたのは、額から血を流しながらもそれ以外ほとんど傷を受けていないヨジャ・ブランチカだった。
「放せ!」
「放すわけがないだろう。さっきのお返しだ」
 ヨジャはおれを扉に押しやるように覆いかぶさり、逃げられないようにしておれの腹を膝で蹴り上げた。
「ぐっ……はっ」
 腹の中身という中身がせり上がってくるのを見透かしたように、更にヨジャ・ブランチカは何度も何度も膝で蹴り上げてくる。
 目の前で白い星が瞬き、腹から骨へと拡がる痛みは頂点を越える。込み上げてきた液体を吐き捨て、おれは足を一振りして蹴り上げようと伸びてきたヨジャ・ブランチカの足を絡め取り、身体を傾けて捻り上げ、ヨジャ・ブランチカを仰のかせる。体勢を崩して壁に押しつけていた両手の力が緩んだ隙に、おれは奴の手の間から抜け出し、皇の部屋の中へ転がり込んだ。
 皇の寝所の周りでは派手な血飛沫がいくつも噴き上げていた。
 周方皇の血ではない。全て、エマンダの命で皇を殺そうと剣を向けた兵士たちの血潮だった。皇はベッドから出ることもなく、斬りかかってきた相手を片手で斬り伏せていた。
 ダルニコワに庇われるように後退してくるエマンダが、おれの気配に気づいて振り返る。
 周方の兵士でもなんでもない闖入者であるおれの姿に、エマンダは虚を突かれたような表情になった。が、すぐにしたりと笑う。
「これはよいところへ。まとめて始末してくれる」
 悪女が花を咲かせる如く嫣然と微笑んだエマンダが次に見たのは、おれの背後。
「逃がさん」
 振り返った時にはヨジャ・ブランチカの巨体がぬっとおれを真上から見下ろしていた。直後、目の前に現れたのは剣の切っ先。横に転がって避けたものの、腹を踏みつけられて再び首元めがけて剣先が落下してくる。おれは剣の先を両手で握り受け止める。革の手袋はあっという間に熱く熱を持ち、擦り切れて焼き切れる痛みが襲ってくる。
「くっ」
 腹に力を込め、曲げた両足で腹の上に乗せられたヨジャ・ブランチカの足を横薙ぎに払う。体勢を崩して緩んだ隙に転がり出て、よろめいているヨジャ・ブランチカの腹めがけて姿勢を低くして剣を短く持ち替えて突進する。生々しい弾力が剣の切っ先を一度拒絶した後、拒みきれずにずぶずぶと受け入れていく。
 上半身を屈めてヨジャ・ブランチカの懐に入ったおれの上に、奴の上半身が重なる。予想以上の重みに呻きながら、おれは剣を引き抜き、ヨジャ・ブランチカを遠くに蹴飛ばした。
(二度と起きてくるな!)
 心の中で毒づきながら、エマンダの方に向き直る。
 エマンダは今にも悲鳴を上げそうなほど蒼白になって震えていた。
 しかし、それはおれに睨みつけられているからではない。視線はおれを飛び越して、おれに蹴り飛ばされて壁にぶつかってものびたままのヨジャ・ブランチカに注がれていた。
 立ち尽くしたエマンダの前に、今度はおれから庇うようにダルニコワが一歩踏み出す。が、エマンダの前に出きる前に、ダルニコワは前のめりに倒れていった。背中からは派手に血飛沫が上がる。
 倒れたダルニコワの後ろでは、周方皇がつまらなそうに剣についた血を振り落としていた。
 エマンダは歯を食いしばりおれをにちらりと見た後、後ろの皇の気配を探るように視線を移しながら全身を震わせはじめた。
「後ろから斬るなんて」
「戦場では当たり前だ。隙を見せるのが悪い」
「私のことも後ろから斬り伏せるおつもりですの?」
 震えながらも気丈に時間を稼ごうとするエマンダに、周方皇は付き合いきれないとばかりに溜息をついた。おれのことは、決して見ようともしない。その辺にいる野良犬と同じだとでも思っているのだろう。めんどくさそうに首を振ると、あろうことか血塗れの寝巻のまま血塗れの寝台に戻った。
「ふっ、あははははっ、ははは……あははははははっ」
 エマンダは立ち尽くしたまま天井を見上げ、嗤いだした。
「そう。そうなのよ。貴方さえいなければ、私はもっと幸せになれたのに!!」
 ぞわっと肩がせり上がった。体中の筋肉という筋肉が緊張して、バクバクと心臓の音が聞こえだす。
 今だ。今、やるんだ。
 首も胸もがら空きな今なら、あいつを確実に殺せる。
 剣の柄を握り直し、エマンダを睨みつけたまま体勢を整える。
 昂る脈に、落ち着けと意識して呼吸を繰り返す。
 と、エマンダがおれを見下ろした。
「邪魔な子。いつも大切な時に出てきて全てを台無しにしていくんだから。貴方なんて、生まれてこなければよかったのに」
 おれは、瞬発的に飛び出していた。
 エマンダの胸を狙って突きを繰り出す。
 が、エマンダは今までの震えが嘘のようにひらりとおれの剣先を躱し、腿に隠していた短剣を抜いておれに斬りかかってきた。
「毒なんて盛ってないで、はじめからこうしていればよかった」
 短剣のきっさきは腕を掠ったものの、おれの動きを止めるには至らない。
「エマンダー!!」
 カッと雷光が閃き、室内が白く照らし出される。
 おれは剣を振り上げ、エマンダの首めがけて振り下ろした。
 生温かい血飛沫が顔に手に強かに降りかかり、じわじわと服を濡らしていく。
 幼い頃、見上げては踏み潰されそうだと思っていた大柄の女は、今はおれと同じか少し小さいくらいの身体を床に投げ出し、広がる血溜の中で、それでも短剣を支えに身を起こそうともがいていた。
 おれは傍らにしゃがみ込み、血まみれの胸元を引き上げる。
「お前、など……」
 憎悪がうねり狂った目でエマンダはおれを睨みつけ、呪うようにそれだけ言うと、血泡を吹いてこと切れた。
 こんな貧相な顔の女だったか、とおれは女を見下ろす。
 魂が入らなくなれば、見た目も変わるものなのかもしれない。
 女の胸元を掴んでいた手から力を抜くと、血溜の中に女は沈んでいった。
(呆気ない)
 十五年間おれを苛みつづけてきた女の最期にしては、あまりに呆気ない。
 こんな死に方でおれを満足させられると思っているのか?
 おれはエマンダの傍らに転がっていた短剣を手に取り、エマンダの背に振り下ろしてやろうと勢い良く振り上げた。
 何度だって、穴だらけになるまでこの剣で突いてやる。
 そう思ったのに、手は急に鉛で固められたかのように重くなり、振り上げたまま動かせなくなった。
 分かっていた。
 何回突いたって、気が晴れることはない。
 母上は戻ってこない。
 周方宮(ここ)での日々が取り戻せるわけではない。
 この女はもう痛みを感じない。この女はもう死んでいる。この女はもう、おれを殺そうと魔の手を伸ばしてくることはない。死んだ養父母が生き返ってくれるわけでもない。
 おれはもう、この女を殺してしまった。
 深く息を吐き出し、短剣を後ろに放り投げる。
 ガランガランと床の上で短剣が転がる音がする。
 同時に、おれは己の喉元に冷たい気配を感じた。
「何をしに来た」
 上から冷たく慈悲のない声が降ってきた。
 ああ、そうだった。
 まだこいつがいたんだ。
 おれは後ろに飛び退り、剣を構える。
 周方皇に隙はない。が、ここで臆するわけにはいかなかった。
「お前を、殺しに来た」
 一息に間合いを縮め、エマンダの血が滴る剣の切っ先を周方皇の首元に突きつける。
 周方皇はおれの剣を、切っ先から柄に彫られた紋章までまじまじと見ていた。
「そうか。なら、殺れ」
 拍子抜けするほどあっさりと周方皇は自らの剣を放り投げ、大人しく目を閉じた。
「っふっざけるな」
 調子が狂う。
 ちらり、とシャルゼスが言ってた言葉が脳裏を過る。忘れたつもりだったのに。
『北楔・羅流伽の姫アイラスを妃に迎えるように、と』
 いや、流されてなるものか。
「お前さえいなければ……!! お前さえ、勝手なことをしなければ、母上は、おれは、父さんは、母さんは……!!」
 おれはそいつの胸倉を掴み寄せ、その顔を拳で殴りつけた。
「なんとか言え!! 逃げるな!!!」
 だが、そいつはちらりと薄目を開けておれを見ると、また眠るように目を閉じた。
「起きろ! ふざけんなっ! あんたのせいで、一体何人死んだと思ってるんだ!」
「死人の数を数えることに意味があるのか?」
 ため息交じりにそいつはそう言い、おれの拳が再び顔に炸裂する前に素手で受け止めた。
「どいつもこいつも……」
 ちらりと血溜の中で息絶えているエマンダを見下ろす。
「その剣、使わぬなら返してもらおうか」
 がっしりと、そいつは剣を握るおれの手首を掴むと、驚くほどの怪力で締め上げ、おれは堪えきれずに剣を取り落す。落ちた剣を、そいつは足の爪先一つで拾い上げる。
 気づいた時には、再びおれの首元に剣の切っ先があてがわれていた。
 剣はするすると首筋を下りていく。
 灼けるような熱さも何も感じない代わりに、どこからともなく吹きこんできた風に濡れたところが冷たく凍えていく。
 ふと、おれもエマンダの亡骸を見た。
「あんた、エマンダには何をした」
 何故そんなことを聞く? 理解できない、とばかりに、無表情の視線がおれを見下ろしてくる。
「何も」
「何もしないで、どうして殺されかけてるんだよ」
「そうか? 私は何もしなかった。エマンダを娶って二十年になるか。私は彼女に何もしなかった」
 何の感情もなく、そいつは記録でも読み上げるように続けた。
「子を産むために宿下がりした時も、何も言わなかった」
「子?」
 思わずおれは問い返す。馬鹿な。周方皇とエマンダとの間にそんなものがいたら、今頃おれと母上はこんな目には遭っていなかったはずだ。いや、その一人を守るために排除されたかもしれないが、そもそも母上があいつに目をかけられることもなかったかもしれない。
 ふっと、そいつは口元に嘲るような笑みを浮かべた。
「言うたであろう。私はそこの女に何もしなかった、と」
「じゃあ、その子供は誰の?」
 どうでもいいことのはずなのに、思わずおれは聞き返してしまう。
「知らぬ。輿入れした時には身籠っていた」
「馬鹿な。知ってて結婚したのか?」
「エマンダが妻になることは、私が生まれた時から定められていたこと。しかし、そこの女はそうでもあるまい。年上だからな。想う者と想いを遂げてからここに来たのであろう」
 意味が分からない。
「どうしてそこまで分かってて結婚したんだよ!?」
 お互い、不幸になるって分かっていたはずじゃないのか?
「形式だ」
 そいつは冷たく切り捨てるように言った。
「私は周方王であり、私が産まれた時点で、エマンダは周方の皇妃になると定められていた。だからそのようになれば、誰も文句は言わない。たとえ、子が生まれなかったとしても」
 無表情でそいつはおれを見下ろす。
 おれは、そいつの得体の知れなさに吐き気が込み上げてきた。
 それは、配慮か? それとも、復讐か?
 型に収めようとした者たちへの、声なき反抗。全てを不幸にすることで、全てが失敗だったのだと言いたかっただけじゃないのか?
「そこの女は初めて会った時、触れるなと言った。だから私は指一本、この女に触れたことはない。ダンスすら踊ったこともない」
 くつくつと男は嗤いだす。今まで胸の奥に秘めてきた鬱屈した想いを吐き出すように、忍びやかに噛みしめながら。
 おれは、唖然としていた。
 おれと母上は、エマンダの嫉妬のためにここを追われたのではなかったか?
 おれが今ここにいるのは、エマンダに母上を、養父母を殺されたからではなかったか?
 エマンダはたかが踊り子でありながら周方皇を誑かし、唯一無二の皇妃だった自分を第一皇妃に落とし、第二皇妃として迎えられた上に、皇の第一子を産んだ母上が気に入らなかったのではなかったか?
 いや、きっとそれはその通りなのだろう。
 面白くない。エマンダはずっとそう思いつづけていたはずなのだから。
 ああ、だけどそうか。この男さえ生まれなければ、エマンダは人生を狂わされることはなかったと思っていたのだ。添い遂げたい者と添い遂げて、人並みの幸せというものを噛みしめていたはずなのだ。
「産まれた子供はどうした」
「知らぬ」
「知らないはずはないだろう!?」
 おれの怒声に怯むことなく、そいつはすっとおれを見下ろした。
「自分の子でない者に、割く時間などない」
 思わずおれは唇を噛みしめた。
 さっき皇が放り投げた剣を指で引き寄せ、柄を握りしめる。
 まずは、一撃。
 あっさりと剣で弾き返されて、衝撃が重く跳ね返ってくる。
「まだまだぁっ」
 二撃。三撃。四撃。
 そいつは柳のように捉えどころなく全て受け流す。まるで子供の遊びに付き合ってやっているように、片手で。しかも、けして自分からは仕掛けてこない。
「くそっ」
 焦るな。おれは剣だけじゃない。こちらから打ちかかって流されたところを、反対側から蹴り込む。しかし、それも寸でのところで交わされ、間合いをとられる。
 構うものか。
 いくらでも打ち込んでやる。
 間合いをとられれば、その分踏みこんで切り込む。躱されればまた踏み込んで突きこむ。
 周方皇は他愛ないとばかりに無表情でおれの剣を受け流し、時に躱しつづける。
 だが、そうやって後退していった結果、奴はついに寝台にぶつかった。
 寝台に仰向けに倒れた奴に向かって、おれは最大限引き攣った笑みを浮かべて、両手に持ち替えた剣を振り上げた。


「できたぞ」
 仕事場の扉を開けると、ガキは湖を覗き込んで水と手遊びしているところだった。
「あ、俺様の剣!」
 ぱぁっと顔を輝かせてガキは振り返ったものの、しゃがみこんでいたせいか、まだ子供で頭がでかいせいか、ぐらりと体が湖の方に傾いだ。
 おれは咄嗟に駆けつけ、剣の切っ先でガキの首根っこを吊り上げ、仕事場がある小屋の方に放り投げた。
 ぐしゃりと無様に墜落するかと思いきや、ガキは空中でくるくると受け身をとり、スタット両手を大地に水平に伸ばして綺麗に着地を決めた。
 なんかむかつく。
 自分で着地を決めた自分に悦に入っているのが、こっちにも伝わってくる。
 子供だからといって、大層な自信だ。
 それから、無邪気に走り寄ってきて、きらきらした目でおれを見上げる。
「助けてくれて、ありがとうな」
 ぺこっと小さくお辞儀までされると、おれとしてはそれ以上心の中とはいえ、毒づきようがなくなってくる。
「へぇ、これが俺様の剣かぁ」
 ため息でもつこうかと思う間もなく、ガキはおれの手から剣をとり、日の光に透かしてみたり、切っ先や持ち手の部分をじっくり検分したりしはじめていた。
 剣は、形を崩すことなく一番見栄えのする剣の形で状態を保っていた。
 ほっと、おれは一息つく。
 やはり、剣はだめだ。
 剣の形をしているものを手にしているというだけで、気持ちが荒ぶってくる。
 今だって、さっさとガキが剣をとってくれていなかったら、うっかり何をしていたかわからない。
 なんて、うっかりもなにも、やらないけれど。
 それくらいの自制心は培ってきたつもりだけれど。
 それでも、己の顔を映し出すほど磨き上げられた刀身と、研ぎあげられた刃は、見ると心が狂わされそうになる。
 刀身に自分の顔を映し出して、次々に笑顔やらきりっとした顔やらを作って悦に入っているガキには、全くそういう心配はなさそうだったが。
 名は、おそらく鉱土法王。
 最近、シャルゼスが仕えはじめたと風の噂に聞いた神様の六番目の子供だ。
 どうして陰と毒しかないシャルゼスが、この能天気なガキに仕えようと思ったのかは知らないが、あいつもこれくらい明るい子供の方が毒気も抜けていいのかもしれない。
「よろしいですか? これは今は剣の形をとっていますが、貴方様の御心次第で如何様な形にもなります。剣にも弓にも、盾にでも」
 子供のおもちゃじゃないんだぞ、と一言言ってやりたかったが、一応神様の子だろうということで遠慮する。
 ガキが持ってきた、ただのその辺の石ころは、おれが仕事場に入って扉を閉めるなり、ばらばらと砂となって崩れ、一振りの剣に再構成された。驚いておれが手を伸ばそうとすると、再び砂となって崩れ、今度は弓に、盾に、自在に姿を変え、最後に一人の少女の姿となった。
 まさに神の系譜に連なる者が持つにふさわしい神具だ。
 そしてこれは、その少女からの伝言だった。
「願わくは、人を守るためにお使いくださいませ」
 少女からの伝言に、ガキは神妙な顔で頷いた。
 正義の味方みたいな、まっすぐお天道様の下を歩いていける者だけができる真剣な表情。
 こいつは決して、復讐のためになんか剣を揮ったりしないのだろう。
 いや、そもそも復讐するなんていう状況に追い込まれることなんかないだろうが。それでも、相手を殺そうとするのではなく、生かすためにこの剣を揮うのだろう。
「あれ、そういえば、剣なんて打たないってはじめ言ってなかったっけ?」
 即席で作った革の鞘に剣を納め、帰り支度を済ませたガキは、帰り際、振り返って余計なことを言った。
 早く帰れ。おれの昼寝の時間。釣りの時間。――いや、もう夕暮れだけど。
「よかったのか? 済まなかったな。無理強いをして」
 わざわざ駆け戻ってきて、心配そうにおれの顔を見上げる。
 おれはちょっと空を見上げて考える。
 本当は剣なんて打っていないんだけど……ここはシャルゼスに口裏を合わせておいてやった方がいいのだろう。
「今回だけは、特別秘密です」
 にっこり笑って口元に人差し指をあててみせる。
 それだけで、生来騙されやすそうな神様の息子は大いに安心したらしい。
「ありがとう!!」
 満足げに笑って、ガキはその後何度も振り返っては手を振りながら帰っていった。
 おれは、夕日に朱に染まりはじめたホアレン湖を眺めた。
 あの湖のどこかに、あの剣がある。
 別に今更水草をかき分けてでも探そうなどとは思わないが、それでも、剣は形を見るだけでも、その重さを感じるだけでも、心によくない。
 余計なことを思い出してしまった。
 深く息を吐きだして、余計な思いも吐き出してしまう。
 頭の中を空にして、もう一度ガキが帰って行った方を眺める。
 赤々と日が落ちる方角。
 あの果てでは、今、次代の周方皇が生まれ、祝賀に湧いているのだという。


 剣の切っ先は、皇の首の皮一枚をひっかいて寝台に突き刺さっていた。
「どうした」
 挑発する男の声に、おれは奴が寝台に放した周方皇の剣を取り返し、もう一度振り上げた。
 剣は、今度はさっきとは反対側の首の脇に突き刺さる。
「殺せないのか?」
「……」
 殺さないんじゃない。殺せないと、読まれている。
「あんたはきっと、誰も幸せになんかできない」
 寝台に突き刺さったままの剣の柄を握りしめて、おれは腹の底から絞り出すように呻いた。
「だから、これ以上もう、誰も不幸にするな」
 唇を噛みしめても、堪えきれない悔しさが目から溢れていた。
 零れ落ちたそれを頬に受けても、男は表情一つ変えなかった。
「そんなに死にたいなら、殺してなんかやらない。あんた、本当はあんたが一番死にたかったんだろう?」
 殺せなかっただけだ。
 親子らしいことなんか何一つなかった。唯一、この周方皇の剣だけが、特別だった。
 なのに、『自分の子でない者に、割く時間などない』なんてのたまいやがって。
「あんたに、神様からの罰がある」
 言おうか言うまいか迷って、おれはそれらしい嘘と共にそれを告げた。
「北楔・羅流伽の姫を娶れ」
 正しくは、アイラス姫だ。が、おれは名までは縛らなかった。縛らなくとも、羅流伽には、今、姫は一人しかいなかったのだが。
「っくそっ!!」
 悔しさに震え、力任せに握っていた剣をもう一度寝台に突き刺す。
 布団に込められていた羽が舞い散る。
 外は稲光がここぞとばかりに舞い踊り、轟音を鳴らしつづけている。窓には雨が容赦なく叩きつけられていた。
 おれは寝台から飛び降りると、雨滴のついた窓を一枚開けた。
 ごうっと音を立てて全てを破壊しつくしてしまいそうな凶暴な風が吹き込み、カーテンから寝台の帳までを吹き荒らす。
「持って行け」
 寝台に起き上がった男が、剣を床に滑らせた。
 周方皇の剣。
 振り向いたおれは、ふと、この剣をもらった時に見た、恐ろしい顔をしたあの男のことを思い出した。
 今は、恐ろしいとは思わない。
 表情がないのはただ疲れているからとも思えてしまうほど、今は何の覇気も持っていなかった。
 おれは無言でその剣を拾い、鞘に収め、男に背を向けてバルコニーに出た。
 そこには、呼ばれる前に逢綬が迎えに来ていた。