聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第4章 見るな!!

3(樒)
『お前はめでたいな。そうやって表面上のものしか見ないから、いつまでも浅はかなんだ』
 時は、そこで止まってしまったかのようだった。
 ヨジャ・ブランチカに『今すぐあたしを、ここじゃないどこかに連れて行って!』と叫んだ葵を窘めたわたしに、葵はそう言ったのだ。
『まぁ、そこが可愛かったんだがな』と炎姉さまのように付け足して。
 葵に突き飛ばされたわたしは、夏城君に抱きとめられて怪我もなく済んだけど、その後目の前で葵と河山君が言い合う様も、どこか遠くのことのように眺めていただけだった。
 どこかで思い出していたのかもしれない。非情な女神の姿を前に、重なるはずもない人の姿を。
 炎姉さまみたいだな、と。
 炎姉さまにだって、あんなひどいことを言われたことはなかったけれど、でも、きっとあれは炎姉さまの時からの本心だったんだろう。今はもう妹ではないから、親愛の情よりも煩わしさや小憎たらしさが上回ってあんなことを言ったんだと思う。
 それにしたって――ひどいじゃないか。
 呑みこもうと思った怨嗟が呑みこみきれずに心の中のコップから溢れ出る。
 浅はかだと言うけれど、ヨジャ・ブランチカは敵だ。間違いなくわたしは怪我をさせられたし、葵だって足にけがを負わされた。ヨジャ・ブランチカのわたしたちを見る目は明らかに敵を見る目だった。
 それなのに、なぜ葵はヨジャ・ブランチカに助けを求めるようなことを言ったのか。
 聖の生きた時代には、ヨジャ・ブランチカはすでに神界にはいなかった。その昔、風環の国の初代宰相を務めた人物として歴史の書物に記されていたかもしれないが、名前程度のものだった。功績も何も記されてはいない。それがなぜなのか、疑問を持つ余地もないほど、名すらも聞いただけではなかなかぴんと来ないほど、忘れられた人物だったはずだ。
 その人物が今、何千年もの時を経て生きていて、炎姉さまだった葵に頼られ、対等に話をしている姿は、むしろわたしの方が裏切られたような気分を味わわされた。
「夏城君、ヨジャ・ブランチカって、炎姉さまの何だったの……?」
 思わず後ろの夏城君に聞いてしまってから、わたしはそれを後悔した。
 夏城君は後ろで言いにくそうにわずかに顔を背けている。
 知らないわけではないらしい。でも、何か言いにくい事情があるのだ。
「ごめん、無理しなくていいよ」
 慌てて取り消したわたしに、夏城君は言う。
「龍もよく知っていたわけじゃないんだ。風の後見役だった炎と、風環の国の初代宰相だったあいつと、それなりに親交があったくらいにしか、把握はしていない」
「親交……」
 聖が生まれる前に積み重ねられてきた神界の歴史は膨大で、聖が生まれてから後の時代は、生まれる前の時間に比べたら爪の先程度のものだ。その時間の中で育まれたもの、失われたものを慮らずに、ヨジャ・ブランチカを敵だと言ってしまったのは、知っている人からすれば、それは浅はかだったのかもしれない。
 でも、明らかに今は味方じゃないことは確かだ。
 だから止めたのに。
「もう一つ、教えて。あの風兄さまにそっくりな人は、誰?」
 葵を狂わせたのは、絶対にあの人だ。目の前に河山君がいるのに、ほとんど眼中にないくらいに、炎姉さまになりきってしまっている原因。
 夏城君は今度こそはっきりと顔を逸らす。そして、窺うように洋海の方を見た。
 ヨジャ・ブランチカに突き飛ばされた洋海は、わたしたちから少し離れた場所で茉莉ちゃんに介抱されて体勢を立て直していた。
「風兄さまとは違うんでしょう?」
 そう尋ねた時、ヨジャ・ブランチカが放った鎖鎌の先が、音もなく河山君の背中を捕えていた。
「お兄ちゃん!」
「河山君!」
 茉莉ちゃんとわたしの悲鳴が響くけど、葵は気づいた風もない。風兄さまにそっくりな人の胸に突き刺さった剣をゆっくりと引き抜いていく。河山君は背中のことなど気づいていないかのように、葵の手から完全に抜け切った剣を奪い取る。
 剣を抜かれた遺骸からはどろどろと瘴気が溢れだし、わたしたちの足元にまで押し寄せてくる。
「僕が、教えてあげようか」
 その波に乗るように、後ろから声が聞こえて振り返ると、ヴェルパが苦い笑みを浮かべて立っていた。
「ヴェルパ! どこに行ってたの?」
 長い迷路から、開いたこの部屋の扉を潜った時、ヴェルパの姿は一時的に見あたらなくなっていた。
 そんなヴェルパと初対面の夏城君は、明らかに警戒して剣呑な目をヴェルパに向けている。
「お前は、誰だ?」
「夏城君、この人は怪しい人じゃなく、闇獄界から来た……」
「十分怪しいじゃないか」
「うう……そうじゃなくて……」
 言葉に詰まったわたしの肩を少し引いて、ヴェルパはわたしと夏城君との間に入り込む。
「貴方が天龍法王ですね。はじめまして。僕、ヴェルパと言います。聖ちゃんの秘密の幼馴染です」
「ちょっ、誤解されるような言い方しないでよ!」
「本当のことでしょ? 君、僕と会った後、僕のことひとっ言も天龍法王に話してくれなかったでしょ?」
 ぎろりと夏城君が睨んでくる。
「えっ、そ、そうだっけ?」
 幼い頃なら、きっと何でもかんでも龍兄にお話ししてしまっていたと思うんだけど……たとえばそう、話せなかったことといえば、天空のルガルダの森のアヤメさんという人のお墓の前で海姉さまに会ったこととか、好奇心では聞けないようなことだけ。
「天龍法王の目が全てを物語っているよ。ひどいよね。君が一人で落ち込んでる時、よく慰めてあげてたのに」
「や、あの、誤解されるような言い方しないで」
「天龍法王一人では面倒見きれないことだってあるよね」
「だからヴェルパ、挑発するような言い方しないでってば!」
「いつか会う機会があったら一言言ってやろうとか一発殴ってやろうとかずっと思ってたから、つい」
「いやいやいやいや」
 笑顔で拳を自分の手のひらに叩きつけているヴェルパを、押しのけて、今度はわたしが夏城君とヴェルパとの間に入り込む。
「どうしたのよ、ヴェルパ! 急に現れたりいなくなったりしたと思ったら、今度は夏城君を挑発して!」
「せっかくの機会だったから」
「機会って何の機会よ!」
「聖ちゃんがいかに天龍法王のことが好きだったか知ってもらう機会」
「や、やめてよ! もう!」
 バシッとヴェルパの腕をはたくと、ヴェルパは笑いながら腕を押さえた。
「痛いなぁ」
「ヴェルパなんか知らない!」
「そういうことは気安く言うもんじゃないよ」
「どうして」
 聞きかけて、いつの間にか自分の周りに瘴気が寄り集まってきていることに気がついた。
「忘れなよ」
「何を?」
「さっき言われたこと。怒ってるんだろう? 許せないと思ってるんだろう?」
 ぞぞぞぞと虫が這うように足元から瘴気がせり上がってくる。
『めでたい』
『浅はかだ』
 葵の声が耳元でこだましだす。
「天龍法王は、きっと何も教えてくれないよ。君は彼にとって大事なお姫様だから。知らない方がいいこともあるって、言うだろ? たとえ教えてくれることがあったとしても、当たり障りないことだけ」
「そんなこと」
 ないよ、と言いかけて、顔を逸らした夏城君を思い出した。
「火炎法王の件は、ちょっと込み入ってるんだ。天龍法王も当事者だったわけじゃない。双子の妹がどういう運命を辿ってきたのか、知っているというだけ。だから余計に、聖が大好きな炎姉さまのことを貶めるようなことは言えない。そう思ったんだよね?」
 ヴェルパはわたしの後ろの夏城君に同意を求めるように小首を傾げてみせた。
 振り返ると、夏城君は唇を真一文字に結んだまま、やっぱり気まずそうにわたしから視線を逸らした。
「樒ちゃん、喜べばいいんだよ。君はちゃんと彼に大切にされている。彼はちゃんと、君を大切にしたいと思っている。過保護なくらいに」
 そう言って、ヴェルパは遺骸の消えた石台と、葵と河山君とを順に見て言った。
 河山君の前では、覚悟を決めたメディーナが〈浄化〉の呪文を復唱している。
「あの石台の上にいたのはね、」
「やめろ!」
 夏城君がヴェルパを声で遮り、わたしを押しのけてヴェルパに掴みかかっていく。
 胸倉を掴まれているのに、ヴェルパは顔色一つ変えない。
「あの石台の上にいたのはね、」
「だからやめろって……!!」
「あれは、僕の父親」
 悲しげに笑って、ヴェルパは見送るように横たわるものが無くなった石台の上を見つめた。
 さすがの夏城君も、思いもよらなかったのかヴェルパの胸元を掴む力が緩む。
 そこから早く抜け出せばいいのに、掴まれたままヴェルパは言った。
「西楔・周方皇の第一王子、キルアス・アミル。ヴェルド・アミルの腹違いの兄にあたる人だよ」
「おい!」
「天龍法王は、それは知ってるよね。だからさっき、ヴェルド・アミルだった人に遠慮したんでしょ?」
「……」
「そしてね、彼は火炎法王の婚約者になるはずの人だったんだ」
 苦く、ヴェルパは言った。
 それが、どれほど辛く苦悩するほどの事実なのか、何も知らないわたしは、それ以上推し量る由もない。
「ヴェルド・アミルの生母であるアイラス姫が羅流伽から周方に輿入れする前、周方皇ドミニク・アミルには二人の皇妃がいた。一人はエマンダ。もう一人は、リセ・サラスティック」
 リセ・サラスティック?
 どこかで聞いたことがあるような……。
「おい、やめろ。これ以上はやめてやれ」
 絞り出すように夏城君が言う。
「これくらい、家系図を紐解けば出てくることでしょう? それとも、その辺もなかったことになってるのかな、神界では」
「守景に話してどうなる! 今更変えられるわけでもないんだぞ!」
「時を司る法王だから、そうだね、もしかしたら過去を変えてと頼めば、なんとかできちゃうのかもしれないけど。生憎、僕はそんなことは望んでない。そんなことしたら、僕が生まれてこなくなってしまうから」
「ヴェルパが?」
「そう。まぁ、もしかしたらそれはそれでうまくいったのかもしれないけれど、もう一つの未来なんて想像したところで、違えられるわけじゃないからね。そういうわけで、僕は別に樒ちゃんにどうこうしてほしいわけじゃない。ただ、知っておいてほしかっただけだ。僕という存在を覚えていてもらうために」
「それはどういう……」
「急かさないでよ。昔話なんだから。そう――もともとは、皇妃はエマンダ一人だけだったんだけど、二人の間には子ができず、もともとあまり夫婦仲もよくはなかった。エマンダの方が年上っていう負い目もあったのかな。そんなある日、火炎の国に招かれた周方王は、踊り子のリセ・サラスティックに一目惚れする。彼は、無理矢理彼女をかき口説いて第二皇妃として周方に迎え入れたんだけど、まぁ、当たり前だよね、プライドの高いエマンダの怒りを買った。夫婦仲こそ冷え切っていても、彼女は唯一無二の周方皇妃だということに誇りを持って耐えてきたのに、第一、と番号を振られたんだ。それは面白くないよね。それだけじゃない、リセ・サラスティックは輿入れしてすぐに身籠り、第一皇子を産んだんだ。それがあの人、キルアス・アミル。エマンダの怒りと嫉妬は頂点に達したのは言うまでもなくて、彼女はリセ・サラスティックだけじゃなく、第一皇子だったキルアスの命まで奪おうと画策しはじめた」
「かくさく……」
「毒を盛ったり、刺客を放ったり、それはもう、ここは神界かってくらいありとあらゆる手段で親子を殺しにかかったんだよ」
「王朝の後宮ドラマみたいだね……」
「後宮なんてどこも似たようなものなんだよ」
 わたしの一言に、ヴェルパは軽く吐き捨てて苦笑する。
「そして、ついに耐え切れなくなったリセ・サラスティックは、第一皇子を連れて周方の国を逃げ出した。だけど、途中でエマンダの刺客にリセ・サラスティックは殺され、逃げのびた第一皇子は、気のいい鍛冶屋の夫婦に拾われて育てられた。それなのに、その鍛冶屋の夫婦もエマンダに殺されて、復讐心を抑えきれなくなった彼は、周方宮を一人で襲撃し、エマンダを殺した。あの剣はその時に使われた周方王の剣。彼ら親子が周方宮から逃げ出すときに、周方王ドミニク・アミルが一人息子に渡したもの」
 メディーナの〈浄化〉の呪文が成功して、足元からは瘴気が消えていたが、今度は河山君がメディーナの血晶石を剣で突き割っていた。
「そして彼は鍛冶屋夫妻と暮らした湖の畔に戻り、穏やかな余生を送っているところで、湖に大怪我をして流れてきた火炎法王を拾い、看病した。結果的に二人は恋に落ち、そこで命を授かったのが、僕」
 そこまで喋って、ヴェルパは満足そうに頷いていた。
 わたしは頭の中がこんがらかって、上手く整理できなくなっていた。
 つまり、ヴェルパは周方王の系譜で、炎姉さまの……息子?!
「嘘! 炎姉さまは息子がいるなんて一言も……!!」
「そりゃそうだよ。だって、二人とも知らないもん、僕のこと」
「え?」
「僕は生まれてすぐに死んで、谷底に落っこちて、おばあ様に拾われて闇獄界で息を吹き返したんだ」
「……そのおばあ様っていうのは、愛優妃?」
「そう。だから僕は、あなた達の甥っ子にあたるわけ」
 聖よりも年上の、甥っ子?
 甥姪なんて、鉱兄さまのところの二人だけだと思っていた。
「さあ、信じる? それとも、信じない?」
 肩の荷を下ろしたように、楽しげにヴェルパは問うた。
 わたしは夏城君と顔を見合わせる。
 一度浄化されたはずの瘴気が、今までにない勢いで濃度を増しはじめる。
「これは……」
「信じるな、守景。こいつは闇獄界から来たんだろう?!」
「天龍法王、貴方は知っているはずだ。どこまでが真実で、信じられない部分はただ、貴方が知らないだけだということを」
「お前、何が目的だ?!」
 掴んでいた胸倉ごとヴェルパを突き飛ばした夏城君は、わたしを庇うように前に立つ。
 よろけながらも体勢を立て直したヴェルパは、なおも告げる。
「樒ちゃん、ヨジャ・ブランチカはね、火炎法王の元恋人だよ」
 それは、ヴェルパが炎姉さまの子供だという話よりも、より衝撃的な話だった。
 聖は、仲睦まじい炎姉さまと風兄さましか知らない。二人はずっと昔から恋人同士なんだと思っていた。あの石台の上に眠っていた人の話を聞いた時にあまり衝撃を受けなかったのは、風兄さまに似ているからだったのかもしれないし、よく知らない人だからかもしれないけど、ヨジャ・ブランチカが、と言われると、どうしていいかわからなくなる。
 葵に、この後どう顔を合わせたらいいかわからなくなりそうだ。
「実態があったかどうかはさておき、ね」
「実態って……」
 思わずよからぬ方を想像しかけて、顔から火が出そうになる。
「少なくとも、火炎法王にとっては一番辛い時期に側にいてくれた人、だよ」
 ヴェルパは葵を見つめ、ヨジャ・ブランチカを一目視界に収めると、記憶するように静かに目を閉じた。
 炎姉さまにとって、一番辛い時期に側にいてくれた人。
 だから、葵はヨジャ・ブランチカに甘えてあんなことを言ったのか。
 敵だと言ったわたしを浅はかだと嗤ったのか。
 確かに、わたしは何も分かってはいない。何も知らなかったし、そんな背景があるなんてことも考えもしなかった。
 それでも、葵は炎姉さまの延長ではないはずだ。
 今までだってそうだったし、ここに来て、急に炎姉さまのように振舞いはじめるなんておかしい。
「もしかしたら、彼女はまだ、彼を失った悲しみから立ち直れていないのかもね」
 何もなくなった石台の上をそっと見つめてヴェルパは呟き、わたしに笑いかけた。
「じゃあね、樒ちゃん。また会おうね」
「ヴェルパ、また一人でどこ行くのよ!」
「主がいなくなったんだ。この迷宮はもう用済みだ。崩れる前に樒ちゃんたちも逃げて」
「崩れる!?」
 淡い黄色の光が部屋中を満たしたかと思うと、中心では河山君が〈浄化〉を唱え、意識を失って倒れようとしているところだった。
 足元からは地響きが始まり、部屋中に重低音の震動が鳴り響きだす。
 壁や天井からはぱらぱらと小石が落ちはじめた。
「ヴェルパ!」
 叫んだ時、ヴェルパはもうそこにはいなかった。
 目的を果たしたのだろう。
 ヴェルパは、父親の最期に立ち会いに来たのだ。そして、それを愛優妃に報告しに帰った。新たに、河山君がその身を以って〈浄化〉の役目を引き受けたことも付け加えるつもりだろう。もしかしたら、まだここの外に出て、この迷宮の崩壊まで見届けてから帰るつもりかもしれないけれど。
「外に出よう」
 冷静な夏城君の声に、わたしは我に返る。
「うん。でも、出方が分からないよ?」
「この部屋に辿りつくまで一方通行だったんだ。出る時もきっと一方通行だ」
「そっか! あっちの壁に抜けられればいいんだね!」
「ただ、その向こうの迷路までクリアしてる暇はなさそうだな」
 上から落ちてくる小石は次第に大きいものになっていく。
 わたしは自分と夏城君の周りに〈障壁〉を張り、頭上を守る。
「洋海! こっち!」
 さらに、河山君と契約を結び、さらに〈浄化〉という継続的な魔法で疲れたのだろう、意識を失った茉莉ちゃんを抱えた洋海を障壁の中に呼び込む。
「茉莉ちゃんは、大丈夫なの?」
「疲れてるだけだと思う」
「そう。ならよかった。怪我もないよね」
「ないと思う」
「うん」
 一つ頷いて、今度は倒れた河山君の方を見ると、葵が河山君を抱き上げ、その顔を見つめていた。
「葵」
 わたしの声にも、葵は顔を上げない。
「ごめん。わたし、何も知らなくて」
 びくりと、葵の肩は小さく慄いた。
 おそるおそる葵はわたしを見上げる。
「何を視たの?」
「何も視てないよ」
「夏城、あんたが喋ったの?」
 凄味のある葵の声に、横で夏城君が首を振った。
「そう、意外に樒にはお喋りなのかとも思ったけれど。じゃあ、誰が?」
 わたしは「ヴェルパ」と言おうとしたが、夏城君が腕で遮った。
「言うな」
「でも……きっと彼はわたしに認識してほしかったんじゃない。一番知ってほしかったのは……」
「時が来れば自分で話すだろう。あいつだって、まだ心の準備ができてるわけじゃないように見えた。余計なことはするな」
 そうまで言われてしまうと、わたしは口を噤むしかない。
「葵、帰ろう?」
 代わりの言葉を、わたしは何とか見つけて、葵に笑いかけた。
 葵を拒むつもりはないのだという気持ちを込めて。
「ここはもう崩れるって。だから、人界に帰ろう?」
 これまで通り、友達を続けられると信じて。
 葵は、挑むようにじっとわたしを見つめた。
 どちらかというと、それは親愛の情ではなく敵意に近いものだった。わたしの心を拒もうと、内にいる誰かと激しく戦っている目。
 やがて、葵は気を失っている河山君の身体をその場に横たえて立ち上がった。
「葵?」
「あたしは、帰らない。友達ごっこはもうおしまい。姉妹ごっこもおしまい」
 一歩、メディーナを抱きかかえたヨジャ・ブランチカの方へと、葵は進む。
 そのヨジャ・ブランチカの足元では、あの鈴のお守りを売っていたラシーヌが取り縋ってメディーナを返してくれと懇願し、足蹴にされてこちらに転がってきたところだった。
 葵はラシーヌをちらりと見下ろし、手を貸すわけでもなく横を通り過ぎてヨジャの前へと進む。
「葵! どうして? どうしてそっちなの?!」
 思わずわたしは〈障壁〉から飛び出して葵を追ったが、目の前に大きな天井の断片が落ちてきて、夏城君にラシーヌ共々引き戻される。
 その間に、葵はヨジャ・ブランチカと一言二言、何か言葉を交わしたようだった。
「葵!!」
 崩れ落ちる土煙の向こうで、葵は小さく口元に笑みを浮かべて、唇を動かした。
「ばいばい、樒」
 音は、迷宮の崩落と地響きの音で掻き消されて全く聞こえなかったけど、その一瞬だけ、いつもの葵が戻ってきたように見えた。
「だめ! 葵、行っちゃだめ!!!」
 わたしの叫びもむなしく、葵はヨジャの後について土煙の向こうへと消えていく。
「守景、逃げるぞ!」
 河山君を背負った夏城君に腕を引かれて、放心していたわたしは我に返る。
「守景、ここが崩れ始めている今なら、〈渡り〉が使えるかもしれない」
「わかった、やってみる!」
 できることなら、一回で人界まで戻れますように。
「〈渡り〉!」
 障壁に包まれた空間を切り離し、人界の学校まで移動するイメージを膨らませる。
 次に目を開けたとき、目の前には見慣れた教室の机やいす、黒板が並んでいた。
 夕方らしく、人のいないがらんとしたその空間に、ばらばらに投げ出されてはいたけど、夏城君と河山君、洋海と茉莉ちゃんの姿を確認してほっとする。
 ついでに、連れてきてしまったラシーヌも無事だ。
 気が緩んだのだろう。
 わたしはふぅっとその場にへたり込んだ。
「あ、え? おい! お前ら、こんなとこで何やってるんだ?!」
 どれくらいぼーっとしていたのかはわからないけど、驚いた声を上げた人影が、慌てて教室内に入ってくる。
「片山、先生……?」
 ぼさぼさの栗毛にうだつの上がらなそうな顔をした、学園の教師陣の中では若手の担任教師の顔に、わたしはなんだか完全に緊張状態がほぐれるのを感じていた。
「守景、何があった? あ、そっちにいるのは河山と夏城か。って、河山、大出血してないか?!」
 さーっと片山先生の表情が青くなっていくのを見て、わたしは慌てて河山君のところに駆け寄った。
「先生! ちょっと目ぇつぶってて!! それから耳も塞いで!!」
「お、おう!」
 言われたとおり、素直に目を閉じ耳を塞いだ片山先生を確認して、わたしは河山君と向き合う。
 血は、さっきヨジャ・ブランチカに鎖鎌で斬られたところから、どくどくと溢れるように出続けていた。これでよく、契約を結び、〈浄化〉の魔法まで使ったものだ。顔色ももう相当悪い。
「遅くなってごめん」
 目を閉じたまま、荒く息をする河山君に声をかけてから、わたしは集中する。
『万物に流れる時よ 時空を回帰する者たちよ
 この者 過去に傷を負いし者なり
 この者 現在 痛みに安堵奪われし者なり
 汝ら憐れと思わば 時を遡りて
 傷無き過去を今に引き寄せん』
 ぐっと、意識を持っていかれるような揺らぎが訪れて、目の前が真っ白になった。
 暗くなりはじめた教室に、白く眩い光が満ち溢れ、河山君の周りを包み込む。その光もやがて河山君の中に収束し、虚無の中に引きずり込まれるようなわたしの感覚も消失する。何とか意識を保ったものの、どっと押し寄せる疲労感に、わたしは身体を支えていることができなかった。
「大丈夫か、守景。無理、しすぎだ」
 苛立った低い声が上から降ってきて、わたしはまたしても夏城君に抱きとめられる。
 慣れてしまったのだろうか。眠りを誘うように、その腕はやけに居心地良く安堵感に満ちていた。
 絶対にわたしを守ってくれる腕。
 それは、愛情豊かに育てられた子供が親に抱くような、無類の信頼と同じものだった。
 小さな聖が龍兄の腕の中で安心して呼吸ができたように、わたしの居場所はここなのだと信じさせてくれる温もり。
 この温もりに安堵したら、眠ってしまいそうだ。
「これは……見事だな」
 ぽつりと間近で片山先生の声が聞こえた。
「守景が治したのか?」
 しげしげとうつぶせのまま倒れている河山君の背中を見下ろして、片山先生は呟くように尋ねる。
 白い光で何が起こったかわからなかったかもしれないが、白い制服のシャツが切れて大出血していた背中が、シャツだけでも着替えたように真新しくなっているのを見れば、誰だって何が起こったか聞きたくなるはずだ。
 まずい。上手い答えが思い浮かばない。
 一気に眠気が醒めたわたしに、片山先生は相変わらず頼りないながらもどこかほっとする微笑を浮かべて頭を掻いた。
「すごいなぁ。守景は魔術師だなぁ」
 もしここに桔梗と葵がいたら、確実につっこんでくれたと思うんだけど、残念ながら二人はいない。
 何故か冷めた空気が漂って、片山先生は辺りを見回して苦笑した。
 目が覚めた洋海が茉莉ちゃんに寄り添っている。ラシーヌは苦い顔で顔を背ける。
「なんだかみんな、疲れた顔してるな。もう下校時間も過ぎてるから、帰れる人は帰って。お家の人も心配するから。河山は……少し保健室で休ませてからの方がよさそうだな」
 ふぅっと一つ息を吐いて、片山先生は河山君の前に跪き、そっと背中を撫でる。シャツの上からでは見えなくなってしまった傷が治っているかを確認したのだろう。そして、柳のような頼りない身体のどこにそんな力があるのだろう、「よっこらしょ」とは言っていたものの、軽々と河山君を背負いあげてしまった。
「ん? その様子だと、まだこっちに慣れていないようだな。それならみんな、落ち着くまで保健室で休んでいくといい。ここは、きっともうじき騒がしくなるから」
「え?」
 驚いたわたしに、片山先生は軽く片目をつぶって見せた。
「さっきの白い光、きっと校舎の外まで漏れてるよ。職員室に残ってる先生たちが様子見に来る前に、さ、早く移動しよう」
 他の先生たちが来るかもしれないと聞いて、わたしたちは思わず肩をそびやかし、片山先生に続いて慌てて教室を出た。眠ったままの茉莉ちゃんは洋海が何も言わずに背負っている。
 おまけにラシーヌまでくっついてきた。
「ちょっと、宝石商のお姉さん、あなたまでなんで……」
 突っかかったわたしを一瞥したものの、ラシーヌは幽霊のように虚ろな目で先だけを見て重い足取りでついてくる。
「ほっとけ」
 夏城君に言われて、わたしはラシーヌには構わないことにした。
 足早に廊下を駆け抜けて、まだ灯がついていた保健室に、片山先生に続いて雪崩れ込む。
「あら、まぁ!」
 今まさに帰ろうと白衣を脱ぎかけていた保健室の先生が驚くのも無理はない。
「どうしたの、あなたたち。片山先生、これは一体……」
「ベッド、二つお借りしますね」
 柔和な声の割には有無を言わせない強い言い方で、片山先生は空いていたベッドに河山君をうつぶせに寝かせ、洋海も隣のベッドに茉莉ちゃんを下ろした。
「あなた達も顔色が優れないわね。そこのソファに座って、少し休みなさい」
 脱ぎかけた白衣に袖を通しなおした齊藤先生は、眉根をやや険しく寄せてわたしたちに指示すると、聴診器を手にとって、まず河山君の腕から脈をとりはじめた。
 表情は芳しくない。
 中東系を思わせる多少気の強そうな目鼻立ちのくっきりした美しい横顔は、愁いを帯びて河山君の顔を見下ろしていた。
「脈が速いのに血圧は低い。まるで、大出血でもした後みたいね」
 齊藤先生がぎろりと見たのは、片山先生の方だ。
「背中でも刺されたのかしら」
 まるで見ていたように言ってから、齊藤先生の手が河山君の背中を優しく撫で、首を傾げる。
「うつぶせに寝かせたから、背中に傷があるものだと思ったけれど」
「少し、休ませてもらえますか。ここは私が見ていますから」
 齊藤先生の詰問を躱すように、片山先生は申し訳なさそうな笑みを浮かべて弱々しくお願いする。
「見縊らないでください。ここの主は私よ。付き添いが必要な患者を前に、帰れるわけないじゃない!」
「すみません」
 齊藤先生にぴしゃりと言われて、片山先生は肩をすくめ、頭を下げる。
(なんか、だんだん申し訳なくなってきた……)
「あの、これには……」
 深い訳が、とか意味の分からない言い訳を並べようとしたわたしを、片山先生は目で制した。
 おや? と思うほど鋭い先生の視線に、意図を理解する前に口が閉じていく。
 齊藤先生はわたしが言いかけたことには深追いせず、今度は茉莉ちゃんの脈を診ている。
「この子の方は疲労ね。何か酷いストレスでもかかったのかしら」
 またしても、見ていたのにわざと鎌をかけるような口調で齊藤先生は呟き、片山先生の方を窺うが、先生はへらへらと笑ってるだけで、口を割ろうとしない。
 それはそうだ。
 片山先生は何も知らないのだから。
「全く、兄妹揃って眠ったまま運び込まれるなんて、何をしていたんだか。――あなた達も! 何か危険なことに巻き込まれていたんじゃないの?」
 額に青筋を浮かべながら、齊藤先生はソファに座ったわたしたちの前にやってきて、先にわたしの腕の脈をとる。
「貴女も相当疲れてる。今、本当は眠くて眠くて仕方ないでしょう? いいからこっちのベッドで休みなさい」
 齊藤先生に、開いている三つ目のベッドを指差されて、有無を言わせず、行け、と目で命じられる。
 おずおずと立ち上がっている間に、齊藤先生は夏城君、洋海、そして生徒ではないけれどラシーヌの脈までとって、苛立ちも露わに言い放つ。
「あなた達は体力バカね。日頃からサッカーやって鍛えているからでしょうけど、それでも今晩はしっかり休まなきゃだめ」
 夏城君と洋海がびしりと言われているのを聞いて、わたしは思わず忍び笑いを漏らす。
「守景……」
「姉ちゃん、笑いごとじゃないって」
「わかってるけど……!」
 笑いをかみ殺しても、どうしても肩が震えてしまう。
 呆れた二人の視線を背中に浴びながらベッドに腰掛けたところで、齊藤先生がラシーヌをしげしげと見つめていることに気がついた。
「貴方は……」
 この学園の生徒じゃないわね、などと続くと思いきや、齊藤先生は意外なことを口にした。
「言ってもいい?」
 齊藤先生の問いかけに、 はっと顔を上げたラシーヌは、諦めたようにうなだれながら頷いた。
「女装、上手ね」
 その一言に、わたしも夏城君も洋海も、思わずラシーヌを凝視した。
 片山先生はさらりと視線を流しただけだ。まるでわかっていたかのように、驚きが薄い。
「貴方も体力ばか。でも、最近よく眠れてなかったんじゃない? 身体はしっかり鍛えられているのに、精神的に脆くなっていた。怖い誰かに弱みでも握られていたんじゃない? 違う?」
 ラシーヌはさらに一段低く頭を落とす。
 齊藤先生は、ラシーヌに身体はしっかり鍛えられているのにって言ったけど、パンツスタイルではあるものの、顔立ちも所作も女性らしさの漂うその姿からは、とても男性だとは思えない。
「貴方も、一晩くらい何もかも忘れてちゃんと眠ったほうがいいわ」
「……忘れることなんて……できません」
 ラシーヌの口から漏れ出た思いの外低い呻きに、齊藤先生の言葉があっさりと裏づけられる。
(今までの声は裏声だったんだろうか……)
 わたしたちの動揺をよそに、齊藤先生は口答えしたラシーヌを厳しい目で見下ろし、目に見えるか否かという速さでラシーヌの首元に手刀を繰り出し、あっさり眠りこませてしまった。
「せ、先生?!」
 思わずわたしたちは異口同音、齊藤先生を見つめる。
「しょうがないでしょう。この人、心配がなくなるまで寝ないつもりなの、目に見えていたんだもの。薬出すなら病院に行かなきゃならないけど、救急ってほどでもないし。一晩、ここで寝ていけばいいのよ。それでいいでしょう、片山先生?」
「ええ、お手数かけてすみません」
 頭を掻いてへらへらと笑う片山先生に、齊藤先生は最早溜息をつく気もないらしい。
「それで、何があったのかしら? さっきの白い光と、何か関係があるのかしら?」
 ちらりとわたしに視線を流されて、わたしは息を呑む。
 夏城君と洋海に「喋るなよ」と目で釘を刺されて、わたしは小さくこくこくと頷く。
「文化祭の準備で、ちょっと……」
 愛想よく洋海が齊藤先生の視線を引き受ける。
「さっきの光は、照明をちょっと失敗してしまったんです。それであまりにも眩しくて、みんな……ね」
 洋海に言われて、わたしはこくこくこくこくと何度も頷く。
「疲労がたまるほど、気合を入れて準備していたのね。一人は貧血になるくらい。もう一人は忘れることなんかできない心の傷まで負って」
「は、い……」
 言いにくそうに返した洋海は無視して、齊藤先生は心配そうに河山君に視線を落とし、深くため息をついた。
「あのね、言っておくけど、何か事件に巻き込まれたり、事故があったというなら、私は通報しなければならない立場なの。学校の保健医として、あなた達青少年のことを守らなければならないの。隠し事をしても、すぐに分かるのよ?」
 ざらりとわたしと洋海、夏城君を見回した後、最後に片山先生を脅しつけるように、齊藤先生は妖艶に微笑んだ。
「ちなみに、私がさっき眠らせたその人は誰かしら?」
「外部から呼んだ照明の技術者です」
 きっぱりと言い切った洋海を、齊藤先生は目を眇めて見つめる。
「そう」
 まるで信じる気などない目をしているが、これ以上聞いても仕方がないと思ったのだろう。
「他にはもう、残っていないのね?」
「はい」
 念のためといったように確認して、齊藤先生は診察用の椅子に深く腰を下ろした。
「片山先生、河山君のお家に電話してください。本当は病院に搬送した方が理由は立つのでしょうけれど、傷もないみたいだし、ただ眠っているというなら、ここで目が覚めるまで休んでもらって構いませんし、もし親御さんが迎えにいらっしゃると言うなら、そのように」
「わかりました」
「それから、守景さん、疲れて眠いところごめんなさい。この人のことを寝かせてあげなければならなくなったから……」
「はい、帰ります。弟も一緒なので、大丈夫です」
 頷いて、わたしはベッドから飛び降り、洋海の横に少し隠れるように並んだ。
「そう。それなら安心ね。気を付けて帰ってね」
「はい」
 わたしと洋海は、これ以上余計な詮索をされないよう、素直に返事をした。
「ああ、でも一度教室に戻るのかしら? 照明を使うような準備をしていたなら、片付けも必要よね?」
「照明の調節だけだったので、それはもう片付けました。な?」
 片山先生に言われるがままに、わたしたちは頷く。
「そう。ああ、それから、この人の名前を教えてくれる? 荷物は?」
 ラシーヌを指されて、わたしたちは固まる。
「名前はラシーヌさん。荷物は、ないみたいです」
「いつも財布一つだけだから。な?」
 わたしに続けて、今度は夏城君が補足してくれて、わたしと洋海は頷く側に回る。
 齊藤先生は、これ以上の無駄を避けて、話半分に聞いておくことにしたらしい。めんどくさげに頷いた。
「わかったわ。責任は片山先生が取ってくれる、そういうことでいいわね?」
「え、おれ?」
 戸惑った片山先生をよそに、わたしたちは申し訳ないけど元気よく同意の返事をし、そそくさと保健室を後にした。
 窓の外は夕闇に包まれはじめている。
「そういえば、わたしの鞄、どこだろう」
 さっき保健室で、齊藤先生にラシーヌの荷物は、と聞かれた時から思い出そうとしていたんだけど、ヨジャ・ブランチカに強制連行されたあたりから、鞄をどうしていたか記憶がない。お財布もスマホも入っていたんだけどな。もしかして、あの占い屋のあった路地裏に行けば、まだ荷物、残ってるだろうか。
 わたしの分だけじゃなく、葵の分とか……
「あっ、詩音さん! そうだ、詩音さん……!! 迷宮においてきちゃった……」
 結局探し出せないまま、自分だけおめおめと人界に戻ってきてしまった。
「どうしよう。今から神界戻る? でも……」
 身体はもう鉛のように重い。
 これ以上魔法を使えば、そのまま眠りこけてしまうかもしれない。
 だけど、詩音さんをそのままにはできない。
「姉ちゃん、まさか今からまた神界に行くつもりか? だめだぞ。もう顔色も相当悪いし、足だってふらついてるんだから」
「でも詩音さんが……」
「草鈴寺のことなら、工藤が迎えに行ってるはずだ」
「え?」
「ここに来る前、工藤に集められて神界に行ったんだ。工藤は草鈴寺を探すと言っていた。まさか、統仲王が失敗なんてしないだろ」
 どこか焚きつけるように言ったのは、工藤君がそこにいることに気づいていたからだろうか。
 教室には戻らず、昇降口からそのまま外に出たわたしたちの前に、工藤君はいた。
「三人とも、御無事で何よりです。守景さん、荷物なら僕が預かっています。科野さんの分も預かっていますから、安心してください」
「工藤君、詩音さんは?!」
 勢い込んで聞いたわたしに、工藤君はすっと後ろの黒いリムジンを振り返った。
「もちろん、無事です。今は疲れて眠っていますが」
 少し苦い笑みだったのは、気のせいだろうか。
「それならよかった。わたし、助けに行くつもりだったんだけど……」
「詩音は少し別の場所にいたんです。ですから、守景さんが気に病むことはないんですよ」
「そう、だったの。――気遣ってくれて、ありがとう」
 少し別の場所というのがどこを指すのか、尋ねても仕方がなさそうだったので、わたしはお礼だけして、黒子のように工藤君の後ろに控えたボディガードみたいな人から、自分の鞄を受け取った。
「送りましょうか? 夏城君も」
 工藤君に問いかけられて、わたしは工藤君を振り返る。
「いや、おれはいいよ。そんなに遠くないから。守景たちは送ってもらった方がいいんじゃないか?」
 夏城君の言葉に、わたしは洋海を見ると、洋海は目を輝かせて黒いリムジンを見つめていた。
(乗りたいのか)
「それじゃあ、お言葉に甘えてもいいかな。少し、遠いかもしれないけれど」
「ええ、勿論です。お疲れでしょうから、中で仮眠をとっていただいて結構ですよ。着いたら声を掛けますから」
「わぁい、やったぁ」
 疲れているはずなのに、急に元気になった洋海はわくわくした調子で子供っぽく小さなガッツポーズをした。
「こら、洋海。大人しくしてるんだよ?」
「わかってるって」
 ちっとも小言が利いていない洋海とともに、わたしは夏城君にお別れして、工藤君の車に乗り込んだ。