聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第4章 見るな!!
2(宏希)
「見るな!!」
見るな。見ないでくれ。
願いは叶わず、茉莉は中央の部屋の扉を開けて中に飛び込んでいった。
部屋の半ばまで転がり込んだところで、茉莉ははたと立ち止まる。
おれは、ゆっくりと重い身体を引きずるようにして一歩、中へと踏み込んだ。
「茉莉」
歩みを止めた茉莉の背中に呼びかけるが、おれの声は茉莉の背中を素通りして床に落ちていった。
ぺたりと茉莉はその場に座り込む。
おれは動こうとしない足を無理矢理動かし、つんのめりながら茉莉の側まで辿りつく。
そして、中央に安置されたキルアスの亡骸の前で、膝を立てて直立したまま動かない科野の背中を見つけた。
「科野……」
おれの声が届いたのか、科野の肩が小さく震える。
後ろからは、夏城と守景弟が入ってきて、思わず息を呑む気配がしていた。
何もかも終わりだ。
逃げ出したくなるのを拳を握って耐える。
いや、逃げ出したっていいんじゃないか?
だってもう、ここはおれの――
足が後退しようとした時だった。
耳障りな高音が頭上高く響き、胸の中から空っぽの魔法石が引っ張り出されてきた。
魔法石は、キルアスの亡骸の元へ音もなく引き寄せられていく。
思わずおれはそれを追いかけ、キルアスの亡骸の前で科野と並ぶ羽目になった。
空っぽの魔法石は、キルアスの胸に突き立てられた周方王の剣から立ち上る淡い黄色の燐光の中でゆっくりと回っている。
眠るキルアスの亡骸は、いたって綺麗だった。
髪と髭は伸び放題伸びているかと思いきや、風が死んだ後も誰かが手入れしてくれていたらしく、髭はきれいに剃られ、金色の髪は石壇の上から僅かに零れるくらいの長さで切り揃えられている。顔色こそ白いとはいえ、死人のそれとは違う。磁器で作られた人形のような無機質な色と肌の滑らかさだ。
おれは、そっと科野を横目で覗き見た。
科野は茫然とキルアスの顔を見つめていた。
何が何だかわからないという顔で。
「これは、なんだ……?」
おれが横にいることを分かっていて、科野はおれに尋ねた。
ヨジャからはまだ何も聞いていないのだろうか。
ああ、それよりも怪我は?
確か、ヨジャ・ブランチカに連れ去られていったとき足を怪我していたはずだ。
科野の顔から視線を外し、後ろに伸ばされた足を見ると、とりあえず肌に斬られた痕跡は残っていなかった。
「科野、怪我は……」
「これは、何だと聞いているんだ!」
おれの声を掻き消すほどの大音声で科野は怒鳴り、石壇に両手を力いっぱい振り下ろした。当然、直後には硬い石に手を振り下ろした痛みで顔をしかめる。
炎のようだ、と思った。
怒り方、命じ方が炎そっくりだった。
いや、もしかしたら今は炎に乗っ取られているのかもしれない。
キースを前に、炎に戻ってしまったのかもしれない。
「手、痛かっただろ」
そっと科野の手に手を伸ばすと、科野はおれから顔を背けながらも大人しくおれの手の中に自分の手を預けた。おれはその手をそっとさする。
「お前は……キースじゃなかったのか?」
風になってから一度もキースと呼んだことなどなかったくせに、今更そんなことをこの女(ひと)は言う。
「眠っているように見えるかもしれないけれど、死んでるんだよ。目を開けることは決してない」
振り返った科野は、光の消えた真っ暗な目でおれを見た。
「二度も、オレを絶望させるのか?」
二度――ホアレン湖でヨジャ・ブランチカに殺されて死んだ時と、今と?
「生きていたところで、君だってもう炎じゃない」
ぐっと科野は唇を噛んで怯んだ。
「そんなこと、関係――」
「科野! こいつはもう死んでる。とうの昔に死んでるんだ!」
「じゃあ、お前は何だ? これは何だ? キースは……あたしのキースはどこにいる?」
重症だ。
『あたしのキース』ときたもんだ。
「キースは死んでいる。見ればわかるだろう。人が、心臓に剣を突き立てられたまま生きられるわけがない。そんなの、鼓動を聞くまでもないだろ」
はっとした顔をして、科野は剣の刃がこちらを向いているにもかかわらず、キルアスの上に覆いかぶさるとその胸元に耳をあてた。
「な? 何も聞こえないだろう?」
「そんなはずはない。キースは生きてる。キースは……この剣を抜いて治癒を施せば……」
科野は憑りつかれたようにキルアスの胸に突き刺さる周方王の剣に手を伸ばした。
その手が触れる前に、おれは後ろから抱きしめて引き戻す。
「や、めろ! 放せ! 治癒で駄目なら、そうだ、樒を呼べ! 蘇生を! いや、育兄貴でもいい! ようやく、ようやく見つけたんだ! キース! あたしの……キルアス……!」
最後の呟くような声に、おれの腕は思わず緩んだ。
もがきながら逃れ出た科野は、再び石壇に膝をかけ、周方王の剣に手を伸ばす。
その手を掴み止めたのは、茉莉だった。
「だめです。これを引き抜いては」
怒りと悲しみで泣きだしそうになりながらも、茉莉は科野の手首をしっかりと掴み、科野を睨みつけていた。
「放せ! 邪魔をするな! あたしは、あたしはようやく……」
「ようやく、何ですか。何を見つけたんですか? これは、ただの亡骸です。この世界の歯車の一つに組み込まれた、ただの道具なんです」
「茉莉、お前……」
知っているのか? 気づいているのか?
「これを外してはいけません。これを外したら、神界も人界も闇獄界に呑まれます。貴女は、二度も同じ苦しみを味わいたいのですか?」
おれには意味の分からないことだったが、科野は確かにはっと目を見開いたのだ。
「でも……」
「もう一度言います。これを引き抜いたところで貴女の最愛の人は戻ってはきません。分かっているのでしょう? 魂のない抜け殻を愛しても、何も返ってはきませんよ」
茉莉に言い含められて、科野はがくりとうなだれる。
「じゃあ、これは何なんだ。どうしてこんなところに……これは正真正銘、キースなんだろう?」
科野が見たのはおれの方だった。
おれは意を決しながらもおずおずと頷いた。
「この場所は……この迷宮は、神界や人界に溜まった瘴気を浄化するための場所なんだ。地上に三つの風車が並んでいるのは、ここで浄化した空気を地上に流し、瘴気で汚れた空気を対流によって吸い寄せるため。そして、これが、浄化するための魔法を維持するためのもの」
さっき守景弟に突っ込まれて言いよどんだのは、おれ自身が常時〈浄化〉の魔法を使っているわけではないから。このキルアスの亡骸に周方王の剣によって留められたキルアスと風の精霊王カインリッヒとの契約の欠片が、その任務を遂行しつづけている。
「宏希、あんたがさっき契約を躊躇した理由が分かったわ。あんた、これをわたしに見せたくなかったのね」
鋭く言い放たれて、おれはただ頷き返すしかない。
「見縊んじゃないわよ。こんなの……さっきまですーっかり忘れてたけど、知ってたわ」
はんっと胸まで張られて、おれは愕然と茉莉を見返す。
「カインは知っていた。気づいていた。直接見に来たことはなかったけれど、自分の魂の欠片が足りてない上に、常時うっすらと力が抜けだしていく感覚はあったから、あんたとの契約が継続になっているせいだって、気づいてた。自分の魂の断片だもの、どこにあるかくらい大体の見当はついていたのよ。確かめなかったのは、……死んだキルアスの顔を見たくなかったから」
憐れむように科野を見たのは、もしかして、カインも一人でこの亡骸と向き合っていたら科野と同じようになっていたかもしれないから、か。
自惚れてるつもりはないけれど、茉莉ですら、キルアスの顔を正面から見ようとはせず、見ても痛々しいものを見るように顔を伏せている。
「でも、確かにさっきあのまま契約をしてしまわなくてよかった。また不完全な契約になってしまうところだったもの」
キルアスの胸の上に立ち昇る燐光の中でゆっくりと回る魔法石を見上げて、茉莉が言った。
「宏希、あんたと完全な契約をするには、この剣を抜いてキルアスとの契約を一度完全に終了させる必要がある。でも、今この状態でこの剣を抜いたら、ここの浄化システムは崩れてしまう」
「分かってる」
「じゃあ、どうする?」
「契約しなおすまで別の媒体で置き換えて維持するしかないだろう」
「契約しなおした後も、あんたにかかる負担は相当のものよ? 人の身体ですらなく、人間の身体で支えきれるかしら?」
「やるしかないんだろう? おれにしか、できないんだろう?」
「そうね。あんたにしかできない仕事。そうと決まったら、別の媒体を探さなきゃ」
茉莉が背後に視線を巡らせた時だった。
「はい!! その役目、わらわが引き受けようぞ!!」
勢いよく手を挙げて扉から転がりこんできた少女がいた。
「メディーナ……!」
今までずっと無言で圧力だけかけてきていたくせに、目の前を通り過ぎていく少女を見てはじめてヨジャの表情が変わっていた。舌打ちしながら慌ててその細い腕を掴もうとし、すり抜けられる。
メディーナと呼ばれた少女は、力強い意志を緑色の目に宿した十歳くらいの少女だった。
少女は真っ直ぐおれを見上げ、じっと吟味するように見つめる。
おれは目を逸らすわけにもいかず、彼女の瞳を受け止める。
正義感に満ちた目だった。あらゆる邪悪なものを退けてきたという揺るぎない自信の元に輝く瞳。そして、お前はどうなのかと勇み尋ねてくる素直さがある。
どこかで見たことのあるような目だった。
小さくして大人たちから玉座を守らねばならなかった風の目と、似ていたのかもしれない。つけ入る隙を与えない、そんな目と態度。
「我が名はメディーナ・シュクライン。風環王である」
さあ、分かるか? と言わんばかりに胸を張り、メディーナはおれを見つめる。
シュクライン――風が法王としてこの国を治めていた頃、ヨジャの後に宰相の職を預けた一族だ。実直で信頼に足る男たちを代々輩出してくれる血統で、風が闇獄界に行く前にもしものときのために、と統仲王から言われて血晶石を預けたのもこの一族だった。
その証に、メディーナは握っていた手の平をおれの前で開き、血晶石を現した。
「この血晶石はもともと風環の国の役目を人の身で背負うためのもの。長い間、我々は役目も果たさず、この方に背負わせてきてしまった。じゃが、それも今日で終わりだ。今からは、この風環王メディーナ・シュクラインが背負ってみせよう」
どうじゃ、とメディーナは凄みながら迫ってくる。
おれは、メディーナの手の上の血晶石を見つめた。
透明なビー玉のような塊の中に、二筋、紅い線が入っている。風の血と、カインの血。
統仲王の命で作ったとはいえ、そもそも契約が成立していない二人の血が混ざっただけの石だ。風環王が役目を果たせずに来たと嘆くまでもない。この血晶石に力などない。
それに、こんなに小さな少女にこの世界の浄化役はあまりに酷だ。
「そなた、わらわを見縊っておるな? わらわとて、十二年しか生きてはおらぬが、幼き頃からこの迷宮を遊び場に暮らしてきたのじゃ。当然、その方のこともヨジャ・ブランチカから聞き及んでおる。その上で、これはわらわの願いじゃ。引き受けさせてはくれぬか?」
おれは、どういうことだ、とヨジャ・ブランチカを見る。
ヨジャ・ブランチカは溜息をつきながらこちらへと歩んでくる。それに気づいたメディーナが、屹とヨジャ・ブランチカを振り返りざま睨んだ。
「ヨジャ。そなた、わらわを置いてこんなところで何を遊んでおる」
「お言葉ですが、仕事です」
「風環の国の宰相を務めたり、闇獄十二獄主と名乗ってこそこそ裏で糸を引いたり、そなたも忙しいのぅ。じゃが、お主の気苦労もここまでじゃ。わらわのためを思って、この者を新たな人柱としようとここに連れてきたのかもしれぬが、わらわにはわらわの役目がある。それを教えたのは、誰であろうそなたであろう、ヨジャ・ブランチカ」
淀みなく言い放たれた少女の言葉にヨジャ・ブランチカは鼻白み、おれはおれで、人柱として連れてこられたと聞かされて、改めてヨジャ・ブランチカを唖然として見つめる。
「この者の力が弱まり、瘴気を浄化する力も弱まってきてしまった。取り替えるならば、今だろう。さあ、風環法王、風の精霊王、わらわが媒介となれるよう、魔法をかけてたもれ」
緑の瞳が早くしろとばかりに不満げにおれを睨み上げてくる。
おれはちらりと茉莉と視線を交わし、少女王の手の中にある血晶石をつまみ上げた。
何の魔力も持たない、風の血とカインの血を閉じ込めただけのガラス玉。
だけど、そうだな。今はもう、風の肉体とカインの肉体がないのだから、血の一滴だけでも残っていたのは幸いかもしれない。
いや、この子にとっては災いにしかならないかもしれないが。
「メディーナ・シュクライン。君の血をこの血晶石に」
血を媒介に、この血晶石に少女王の持つ全てのものを結び付けた上で、彼女に〈浄化〉を唱えてもらう。そうすれば、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
少女王はおれの言葉に神妙に頷き、懐から護身用に持っていたのであろう短剣を取り出した。
「おやめください、メディーナ様」
低くひび割れた女のような声が割入ってくるのと、少女王の手から鎖鎌の鎌によって短剣が払い落とされたのは、ほぼ同時のことだった。
声の持ち主と思われる女は、少女王の手から払い落とされた短剣を遠くへと蹴り飛ばし、少女王の肩を抱いておれと茉莉の前から遠ざける。
「何をする、ラシーヌ!」
奥の方で守景や科野が「あっ」と言っているが、それはきっとラシーヌと呼ばれた女が、守景と科野と草鈴寺が連れ去られる時に一緒にヨジャ・ブランチカについていった髪の長い異国風の女だったからだろう。
「貴女が犠牲になる必要などございません」
「何を言う、ラシーヌ。放せ!」
「放しません」
「誰かが為さねばならぬことなのだ。わらわはただそれを果たしに来ただけじゃ。ヨジャだけじゃなかったの。そなたも見かけぬと思ったら、ヨジャの腰巾着になってわらわの邪魔をするか?」
「お言葉ですが、貴女の小さな身体ではまだ無理です」
「無理だろうがなんだろうが、今しかないんだ! わらわはこの時のために生きてきたのじゃ。いつかこの方の呪いを解いて差し上げようと、そればかりを胸に秘めてきたのじゃ。邪魔立てするでない!」
少女王は懸命に異国風の女の腕を振り切ろうとしているが、女の腕はそう簡単には解けそうもない。
そうこうしているうちに、おれの目の前にも危険な邪気をはらんだ風が横切って行った。
「余計なことは考えず、お前がさっさと代行すればいいだろう?」
おれの顔の前を横切って戻っていった鎖鎌を受け止めて、ヨジャ・ブランチカがぎらついた目でおれを見ながら一歩一歩歩み寄ってくる。
「代行?」
「そうだ。今度はお前がその身を以って〈浄化〉の媒体となれ!」
再び目の前を掠めていく鎖鎌を一歩退いて避けたが、足の踵がキルアスの亡骸を乗せた石壇の縁にあたり、おれはバランスを崩してよろけた。間髪を入れずヨジャがおれの頭を狙って鎖鎌を投げ飛ばす。
「っ!」
よろけたおれは石壇に尻餅をつき、キルアスの腹のあたりにのけぞるように倒れ込んだ。
温もりは感じず、それなのに奇妙な柔らかさがあるのが気持ち悪い。なのに、おれはキルアスの胸に突き立てられた剣から立ち上る黄色い燐光にしばし見惚れ、天井を仰いでいた。
暗闇しかないドーム型の天井のゆく果て、黄色い燐光は闇に呑みこまれ、ふっと明るい外へと飛び出していく。外の明るさの中ではこの淡い燐光の美しさも、空中を翻る光の存在にすら気がつかないだろう。風に翻り、僅かにきらきらと輝くだけ。その燐光が神界や人界を旅するうちに黒く染まり、再びここに吸い寄せられてくる。
「そうだな。人間の身体(うつわ)のお前だけでは心もとないから、いっそこいつとまとめて封じなおしてくれる」
はっときづくと、ヨジャがおれの上に乗りかかり、二本の鎌の切っ先を振り下ろしていた。
思わず目を瞑ったおれの鼻先で、鎌を叩き散らすような甲高い音が響いた。
「河山!」
名を呼ばれた直後、おれは石壇の上から引きずりおろされる。
「何ぼぅっとしてるんだ!」
喝を入れてきたのは、さっきまでキルアスを見て乱心していた科野だった。
おれは科野の目をじっと見つめる。
怒り、苛立ち、焦り。
戦闘モードに切り替わった“彼女”に相応しい感情が浮かんでいる。
せっかく助けてもらったのに、さてどちらだろう、なんて思う自分は、なんて意地悪なんだろう。
河山、と呼んでくれたから、科野の方でいいんだろうか。
確かめるように見つめていると、科野は悔しそうに視線を逸らせた。
「いつまでも無視しないでもらおうか」
おれと科野の間に嘲りを含んだ声が割って入り、おれの首根っこはいとも簡単にヨジャ・ブランチカに掴み上げられた。
「ぐっ、苦し……」
襟ぐりを掴まれて、前の方で首が締まりはじめる。
「せっかく助けてもらったのに、無駄にしたな」
ヨジャ・ブランチカの薄い唇が三日月の形に歪む。
おれは首がこれ以上締まらないように両手でシャツと首の間を掴んで空間を残しつつ、途切れ途切れに男に尋ねる。
「お前の、主は、誰、だ?」
ヨジャ・ブランチカはにぃと笑う。
「前にも聞いたことがあったな」
「これは、あの方の、望みか?」
キルアスから風へ。それは、形式上、愛優妃の望みでおれは命を継がれた。そのためにキルアスを殺したのが、この男だった。この男は、愛優妃の命なら何でもする。たとえば、裏切ったふりをしておれの前から姿を消すことでさえ。
「信じたいのか? 俺を」
ヨジャ・ブランチカの薄い唇に嘲りが浮かび、黒い瞳には憐みが浮かんでいる。
「俺がお前を助けたいと思っているように見えるか?」
ぐっと歯を食いしばり、おれはヨジャ・ブランチカを睨みつける。
「お前の、やることには意味が、ある」
「そうだ。早急に片づけなければならない問題が、これだ!」
ヨジャ・ブランチカはおれの腹を蹴り、おれは再びキルアスの身体の上に投げ出された。
ヨジャ・ブランチカは両手に鎌を握り、おれの上にのしかかる。
「ひとつ教えておいてやろう。俺の主は誰か、と聞いたな。闇獄十二獄主の主は、闇獄界の盟主、愛優妃様だ。愛優妃様は、神界と人界の瘴気が増えていることを懸念しておられた。だから、俺はここに来た」
疑問を許さない確固たる強い意志を秘めた目でヨジャ・ブランチカはおれを見下ろして、鎖鎌を振り上げる。
「増え続ける瘴気を今更どうこうすることはできない。神界にも人界にも人が増えすぎた。浄化が追いつかなければ闇獄界が版図を広げるだけ。今の神界なら、黙っていたって闇獄界の一部に浸食されていく。それは人界とて同じ」
「お前たちは、闇獄界の利権を一番に優先しているんじゃないのか? 今の話じゃ、まるで……」
「愛優妃様の御心は、神界にいた時と何一つ変わってはおられぬ!」
全ては神界と、自らが作った箱庭の平和のため。
ヨジャ・ブランチカは振り上げた鎌を渾身の力を込めて振り下ろした。
おれは、いいかな、と思ってしまった。
それなら仕方ないかと、思ってしまった。
闇獄界のためではなく、神界、人界のためだというなら、この身がその役に立つというのなら――それは、おそらくおれの意志なんかじゃなくキルアスの、そして風の意志に攫われた結果だったのかもしれないけれど。
「ふざけるな!!!」
ヨジャ・ブランチカが夏城や守景弟、守景、それに茉莉に、後ろから腰に腕を回されておれから引き剥がされるのと同時に、科野がおれに馬乗りになって真上からおれを怒鳴りつけていた。
「ふざけるな! 河山宏希! あたしをここにおいて、一人逝くつもりか!!」
炎だった。
「お前は絶対に、あたしよりも先に死なないんじゃなかったのか!?」
そんな約束をした。
ようやく炎を自分のものにしたとき、そう言って口説いた。
約束は果たされ、おれは彼女を腕の中で看取り、おれは一人闇獄界で客死した。
本望だった。
これで長かった軛から解放されるのだと思うと、心は軽やかだった。
身体が感じる痛みよりも、先に逝った炎を、ようやく胸を張って追いかけることができると、希望に満ち溢れていた。
そうやって、巡り会えた今生。彼女はおれを見てはいない。
河山宏希の意志で、ヨジャの刃に甘んじようとしたと思われた。風の時代にした約束を持ち出された。彼女に見えているのは、おれではなく、風でもなく、キルアスただ一人。
「なんてことだ」
おれは呟いた。
彼女の頬に手を伸ばし、怒りに燃える目から溢れる涙を拭う。
「おれには科野しか見えないのに」
目の前にいるのは、キルアスの亡骸に触発されて過去返りしてしまった炎だけだった。
昔の夢を見ても、科野は「風様かっこいい」と、そればかりだった。
おれのことはちっとも眼中になかった。
おれは風の付属品ぐらいにしか思われていなかったんだ。いや、付属品ならまだいい。きっと、風の魂が入っている入れ物ぐらいにしか思われていなかったんだ。
それは、そうかもしれない。
おれは、父親の事件の後東京に引っ越してきて、科野葵に救われた。彼女の何気ない一言に、心の全てを持っていかれた。けして炎だから彼女を好きになったんじゃない。彼女を好きになったら、たまたま彼女が炎の記憶を持っていた。
だけど、彼女の心の中には、初めてで出会った時の情けない姿のおれのことなど、欠片も残っていないに違いない。残っていてほしくなどないけれど、でも、彼女の心に少しでも何かを残すことができていたらよかったのに。
「君には、おれが見えないんだ」
科野は怒りに燃える目はそのままに、怪訝そうにおれを見下ろす。
「お前は、風じゃないのか?」
ほら。
そうやって、酷いことを平気で聞く。
「違うよ。おれは、河山宏希だ。君は、科野葵じゃないの?」
科野は、おれの目を見つめながら黙り込む。まるで、自分とは違う境遇であることを訝しんでいるかのように。
「炎、その身体は科野葵のものだ。科野は、なんて言ってるの? 科野にも、やっぱり風しか見えていないの?」
「あたしは……科野葵だ。間違いなく、十七年生きてきた科野葵だ。炎とは、別ものじゃない。同じ、一つの魂なんだ。記憶だって、連綿と受け継いできている。あたしは、科野葵であり、火炎法王」
おれはこの時、科野と自分がずいぶんと違う立ち位置にいることを思い知った。
彼女は科野葵であり、炎、のつもりなのだ。
いや、つもりなどと言えばまた激昂されるだろうが、科野と炎は一つだと言いたいのだ。
だけど、おれがそうではないように、彼女についても、おれにはそうは見えない。
どうしても、科野が炎に呑まれているように見える。言ってしまえば、炎が無理矢理科野を演じているように見える。
その身体、欲しさに。
いつからか、といえば、きっとさっきキルアスの亡骸を見てしまった時にスイッチが入ってしまったのだろう。それだけ強い衝撃を、彼女は受けたのだ。
前世から連綿と受け継がれてきた記憶の波の中に、科野は呑みこまれてしまったのだ。
科野は、炎よりも意志が弱い、ということだろうか。
普通に学校生活を送っている時の彼女は、聡明で、懐深く頼れるリーダー気質で根暗いところがなく、どちらかというと何事にも拘泥しないさばけた性格に見えた。執着のないタイプ。それが災いしたのかもしれない。炎は裁きの女神でありながら情が深く、ああ見えて執着するタイプだ。欲しいものがあるのとないのとでは、強さが違う。
おれは、これからずっと彼女の中でちらつく炎の影に怯えて過ごさなければならないんだろうか。
「科野、目を覚ませ。お前は炎じゃない。今生でまで、炎である必要はない」
ありきたりな言葉が、科野の心を目覚めさせるわけはない。分かってはいるけど、炎を不快にさせるには十分だった。
「おれの中には、キースも風ももういない。あるのは記憶だけだ。感情は……」
「なら、なぜ今身体を投げ出した。なぜ生きることを諦めた。なぜ、愛優妃の思惑に沿おうとした? そうしようとしたのは、キルアスと風の罪悪感があったからじゃないのか?!」
嫌なことをずばりと言いあてられて、おれは口ごもる。
「嘘を吐くな、河山。お前の中にも、二人はいる」
怪しく微笑んで、科野はおれに上から顔を近づけ、唇を寄せた。
甘い花の香りが鼻孔をくすぐり、押し当てられた唇からくすぐったさが伝わったかと思うと、僅かな快感に変わっていく。思わず少し開いた口の隙間から、さらに舌が押し入れられる。
いやになるくらい、それは何度も繰り返した二人のキスだった。
思い出して、と言わんばかりに、彼女は昔のキスをトレースする。
おれは、極力己を殺してキスを受け入れないようにした。
これ以上感じ入ってしまっては、風に、キルアスに、また自分を持って行ってしまわれかねないと思ったから。
なかなか唇を離そうとしない科野の肩を、おれは意志の力を総動員して押し返す。
「戻らないよ、おれは」
痺れの抜けない唇を無理矢理動かして、自分のためにも釘をさす。
「科野じゃなきゃ、おれはいらない」
さっと科野の顔色が青ざめていった。
ショックから放心して目は焦点を失い、天井を仰いだかと思うと、彼女は軽蔑するようにおれを睨み下ろした。
「そう。あたしはもう、いらないのね」
すっと科野はおれの上から降りると、夏城たちとやりあっていたヨジャ・ブランチカの方へ歩いていった。
「科野!」
おれの呼びかけにはもはや反応一つ返しははせず、夏城と守景弟二人がかりでやり込められそうになったヨジャ・ブランチカの傍らに立つ。
「ヨジャ・ブランチカ。貴方、言ったわよね。いつかあたしを、ここから連れ出してくれるって。連れ出してよ! 今すぐあたしを、ここじゃないどこかに連れて行って!」
「あ、葵……?」
ヒステリックに叫んだ科野に、守景が驚いて駆け寄る。
「どうしたの、葵! 何言ってるの? この人、敵だよ?」
あまりにも純真にそう信じているが故の守景の言葉に、科野は少し肩を揺らして笑った。
「お前はめでたいな。そうやって表面上のものしか見ないから、いつまでも浅はかなんだ。まぁ、そこが可愛かったんだがな」
そう言って、科野は守景を突き飛ばす。
夏城に抱きとめられた守景は、茫然と科野を見上げる。
その隙に、ヨジャ・ブランチカは守景弟を跳ねのけて科野の脇に立つ。
「あたし、いらない。もう、何もいらない。ここにいたって、何の意味もないもの。ねぇ、ヨジャ・ブランチカ、いつまでもこんなところにいたって、仕方がないわ。早く、やること終わらせて出ていきましょう」
「子供のような我が儘をおっしゃいますな」
「ああ、貴方はお仕事中、だったんだものね。じゃあ、早く終れるように、あたしが協力してあげる」
くすくすと笑いながら、科野は再び踵を返して歩き出す。
向かった先は、メディーナとラシーヌと呼ばれていた女のところだった。
ラシーヌは素早くメディーナを自分の背後に庇うが、科野は意にも介さずラシーヌを朱雀蓮で打ち据えた。その鞭捌きときたら、往年の炎を思わせるほど素早い。
顔と胸を庇ったラシーヌの両腕からは血が流れ、皮膚が火傷して膨れ上がる。
「ラシーヌ!」
悲鳴を上げてラシーヌの腕に縋るメディーナを、科野は無造作に両腕で肩に担ぎ上げ、キルアスの眠る石壇の上に投げ込んだ。メディーナは目にも明らかなほどがたがたと震えながらちらりとキルアスの顔を見、科野を見上げる。
「やめろ! やめるんだ、科野!」
後ろから羽交い絞めにしようとしたおれを、科野はいとも簡単に払いのける。
「科野! 何をする気だ!」
冷たく湿った石畳の上に転がりながらも、なんとか体勢を整えたおれは、科野の背に向かって叫ぶ。少しでもその手が止まればいいと念じながら。
しかし、科野はちらりとおれを振り返り、一瞥しただけでメディーナと相対した。
「この子が代わりになればいいんでしょ?」
その声は冷たく、部屋の中に鋭利に響いた。
メディーナは慄き、後ずさる。
「炎!」
ヨジャ・ブランチカさえも焦りの滲んだ声を上げ、科野の方へと手を伸ばす。
科野は構わずに、キルアスの胸に突き立つ周方王の剣に手を掛けた。
「こんなもの、さっさとへし折っておけばよかった」
「やめろ、科野! やめろーーーっ!!!」
おれが再び科野を後ろから抱きしめた時、科野はすでにキルアスの胸から周方王の剣を抜きかけていた。
きらきらと輝く淡い燐光が、最期の輝きとばかりに明るさを増す。
「やめろ!」
「風、なぜお前が止める? これほど哀れな仕置きもないだろうに。愛優妃も酷なことをする」
「科野!」
「それもこれも、オレがあの時お前を裁き切らなかったからだな」
苦く笑った科野の横顔を見た瞬間、おれの腕から力が抜けた。
まさか、後悔しているとは思わなった。
裁きの女神は、言を違えない。
故に、一度下した決定は、覆すことができない。
「キルアス。いつかお前のような子供が剣を持たなくてもいい世界を、オレが作ってやると約束したな。なのに、オレは未だ約束を果たすこともできずに、お前に無体を強いたな」
ずるずると、キルアスの胸から剣が抜かれていく。
淡い黄色の燐光は上に舞い上がり、そして、剣の切っ先から導かれるように真っ黒な瘴気が溢れだしはじめた。瘴気はどろどろとキルアスの胸から石壇を伝ってゆっくり床へと流れ落ちる。
「やめろーーーーっっっ」
叫んで、おれは科野の手の上から周方王の剣を握り、キルアスの胸へと戻そうと力をかけた。だけど、そこにはもう、暗い穴しか残っていなかった。穴は内側から瘴気に浸食され、身体を呑みこんでいく。
「無駄だ。この身体ではもう、〈浄化〉は使いつづけられない。こんなにも澱んでしまっていたのだから――」
「科野、やめろ。やめてくれ。お願いだから、もう……」
「遅かれ早かれ、清浄な空気の代わりにここから瘴気が溢れだしていたはずだ」
胸から腹と首を蝕みはじめた暗い穴を見下ろしながら、科野は言う。
おれは、科野の手から力が抜けたのを見計らって剣を奪い取り、もう一度胸があったはずの場所に突き立てた。
死肉の腐りかけた柔らかさも、澱んだ瘴気の弾力もなく、剣の切っ先は石壇に当たって強い衝撃だけが手に伝わり戻ってくる。
それでも、おれは何度も何度もそこに剣を突き立てた。
剣は何にもめり込まず、石に弾き返される。それなら、とまだ肉体の残っている腿に、首に突き立てるが、その側から新たに暗い穴が開いて剣は石に弾かれる。
その剣に、小さな手が伸ばされた。
白い指先が、すぅーっと刃を上から下になぞっていく。
「メディーナ!!」
ラシーヌが悲鳴を上げた。
おれは、さっきまで震えていた少女王を見た。
少女王は、凜とした表情でおれを見上げた。
「〈浄化〉の呪文を教えてたも」
己の血を血晶石の上に垂らしながら、少女王は拒むことを許さない口調でおれに言った。
おれは、口を開いた。
「やめろ、やめてくれ、風環法王!!」
叫んで飛び込んできたのは、ラシーヌ。
彼女はメディーナを庇うように抱きしめ、振り返っておれを睨みつける。
しかし、抱きしめられたメディーナはラシーヌの肩口から「早くしろ」と目でおれに訴える。
「すぐに解放する」
おれの言葉に、メディーナは頷く。
『清廉なる風の精霊よ』
「清廉なる風の精霊よ」
透明感あふれる少女の声がおれの呪文を復唱する。
『悪意で満たされし この地の大気を
その息吹もて 吹き浄めよ』
「やめろ、やめてくれ! メディーナ、貴女が犠牲になる必要など……!」
「悪意で満たされし この地の大気を
その息吹もて 吹き浄めよ」
「メディーナ!!」
「〈浄化〉」
最後の一言はおれが告げる間でもなく、彼女自身が唱えた。
瞬間、彼女とラシーヌの間から光が溢れだし、ラシーヌは弾き飛ばされた。
メディーナが両手に握る血晶石から放たれる光は部屋いっぱいに広がっていき、キルアスの身体から流れ出た瘴気すらも全て洗い流し、残っていたキルアスの身体全てを覆い、全てを浄化し尽した。
ふぅっとメディーナは光の中で意識を失い、倒れていく。その身体を、ヨジャ・ブランチカが支えた。
おれは、ヨジャ・ブランチカを睨み据える。
「余計なことをしなければよかったな」
苦虫を噛み潰した顔のヨジャ・ブランチカに、おれは身体中から脂汗が噴きだし、意識がぐらつきだすのを感じながら笑ってやった。
周方王の剣を支えに立っているのも、ようやくになってきていた。
「お兄ちゃん!!」
「茉莉、早く来い!」
悲鳴を上げた茉莉を、振り返らずに呼びつける。
背後から深く鎖鎌を突き刺されたというのに、これ以上身体を捻るなんてどだい無理な話だ。
刺されたのは、科野の苦く笑った横顔を見た時。
後ろから科野を抱きしめ、がら空きになっている背中をヨジャ・ブランチカにやられた。
おれがキルアスの身体に周方王の剣を突き立てようと動いたことで鎌は落ち、血が失われていた。
「お兄ちゃん! 背中、今治すから!!」
「それよりも契約だ。――風の精霊王、おれの力になってくれるか?」
おれは、茉莉の前に、キルアスが横たわっていた石壇の上に落ちた色も光も失った魔法石を差し出した。
茉莉はびくりとしてそれを見つめ、おれを見た。
「嫌か?」
迷いを振り払うように、茉莉は首を振った。
「ごめんな」
「謝らないで! これは、わたしの決めたことだから」
「ありがとう」
すぅっと周方王の剣の刃に小指の先を沿わせ、魔法石の上におれの血を滴らせる。
続いて、茉莉も同じく周方王の剣の刃に小指を沿わせ、魔法石の上に自分の血を重ねた。
『我が風の精霊王の御魂を以って
我 この者と契約せん
我 この者に我が力を与え
いついかなる時もこの者を守らん
されば 我が風の眷属にあるものよ 聞け
この者の言葉は 我が言葉なり
従いて この者をよく助けよ』
瞬間、おれは体も意識も吸い込まれるような錯覚に陥った。
全てを天上に掬い上げられ、おれたちの手の届かないところで混ぜ合わされ、何かに繋がれたかと思うと、そこから地上へと急激に引きずりおろされた。
はっと目を開けると、茉莉も同じ体験をしたのだろう。驚いたようにおれを見ていた。
「大丈夫か?」
「うん。お兄ちゃんは?」
「うん、大丈夫」
おれと茉莉の間では、ようやく力を込められた風環法王の魔法石が明るく輝いていた。
「これが、おれの魔法石……」
手を伸ばすと、魔法石はふわりと宙に浮き、おれの元に吸い寄せられてきた。そのままおれの心臓のある場所に戻るかと思いきや、魔法石は周方王の剣身に自身を重ね、融け込んでしまった。
「え……!?」
途端、眩い光が剣の切っ先から持ち手まで全てを覆い尽くし、一気に光輝いたかと思うと、溢れんばかりの力を制御しきったように剣の周りに収束した。
剣からは今まで感じたことのない温かな力が流れ込んでくる。
これが、契約の力。
「さあ、早くしろ!」
苛立つヨジャ・ブランチカの声に我に返ると、メディーナはヨジャ・ブランチカの腕の中ですでに蒼白になっていた。
おれは、握りしめるメディーナの両手から血晶石を取り出し、石壇の上に置いて剣で突き割った。割れた欠片は剣へと吸収されていく。
そして、おれはその剣の持ち手を逆手に替えて、一息吸い込んだ後、一気に己の胸に突き立てた。
「ぐっ……」
衝撃に耐え、おれは口を開く。
『清廉なる風の精霊よ
悪意で満たされし この世界の大気を
この身を糧に その息吹もて 吹き浄めよ』
「〈浄化〉」
全ての闇が襲い来て激しい悪寒に見舞われたかと思うと、柔らかな黄色い光に包まれて、まるで、春の菜の花畑の中を行くようなそんな光景の中に、おれは落ちていった。