聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第4章 見るな!!

1(風)
 見るな。
 頼む。
 見ないでくれ。


 キースの記憶が目覚めたのは、愛優妃との約束通り、三歳の誕生日の時だった。
 四楔周方が直轄していた西方を鉱土の国と等分になるように分離し、風環の国が所領として与えられた日。
 風環宮で出迎えた人々の中に、奴はいた。
「ヨジャ・ブランチカ」
 防衛本能だったんだと思う。
 自分を殺した相手が、目の前にいる。
 自分だけじゃない。母を追い詰め、養父母を殺した男。
 その男が、鋭い目つきといやらしいくらいににやにやと薄い唇を歪ませて、小さなおれを見下ろしていた。
「御存知でしたか。こちらが風環の国宰相のヨジャ・ブランチカ殿です。風環法王様を支える重要な役どころの方ですよ」
 何も知らない侍従長が穏やかに紹介する。が、すでにおれとヨジャは睨みあいを開始していた。
 何故、お前がこんなところに。
 そう言いたいのを必死でこらえてそ知らぬふりを通し、風環法王の生誕と歓迎を祝う晩餐会が終わった後、一人部屋に戻ったおれの元に、予想通り奴はやってきた。
「お連れしたいところがございます」
 にこやかに奴はそう言った。
 三歳のおれは、奴を睨みつける。
 ここでまた殺されてたまるか。
「今日はもう疲れたので、明日にしてください」
「明日は朝から領地の視察などが入っております。これから御案内するところは、貴方に最も関係の深い場所であり、この風環の国の要となる場所です」
 逃さないぞ、とヨジャの目が光った。
 臆したわけじゃない。
「ぼくに最も関係の深い場所?」
「ええ。ああ、それから私だけの前であれば、三歳児を装う必要はございません。昔のように、どうぞ気楽にお話し下さい」
 ヨジャの蛇のような目と視線がかち合い、おれは一度目を閉じた。
「何がある?」
 思いの外、おれの声は低いものとなった。
「やぁ、お帰り」
 ヨジャは途端に嬉しそうに目を輝かせた。
「お前がいるなんて、嬉しくないね。ちっとも。人であるお前なら、とっとと死んでいてもいい年だ。それを、若作りにも程がある。――またおれを殺しに来たのか?」
 薄い唇が三日月のように引き絞られる。
「まさか。それじゃああの時殺した意味がない」
「ただの遺恨か何かじゃなかったのか? お前はエマンダの犬だったからな」
「すべては偶然だと思っているのか? だとしたらおめでたい奴だ。お前は、風の精霊王と契約を結んだ時から、もうこの運命から逃れられなくなっているんだよ」
「……愛優妃様がお前にそこまで話しているとは思わなかった。そうか、おれを殺したのもかの方の命か」
 愛優妃様め。人が悪いにも程がある。全て仕組んでいたうえに、実行役にヨジャを選ぶだなんて。
「崇高なる命はそれだけじゃない。お前が赤ん坊としてあやされている間、作ってやったものがある。来い」
 偉そうに言ってヨジャが深夜に三歳児を連れまわして行った場所が、風環宮の裏に作られた迷宮だった。
 ヨジャは大人の大股で迷いなくさっさと前へと進み、おれはヨジャの持つ灯りに離されまいと小走りで後を追いかける。
 何かここ、嫌な感じがする。
 ヨジャの後について進めば進むほど、背中に冷や水を入れられていくような後ろ寒さを感じる。もしかして、やっぱり殺されるんじゃないだろうか。もしものために短剣一つは懐に忍ばせてきたが、明らかに体格差が大きすぎる。
「おい、あまり人を疑うな。ここでは疑えば疑うほど瘴気は濃くなり、浄化に手間取ることになる。何も考えずに進め」
 言われてみれば、入り口から濃く漂っていた瘴気が粘性を持って人の身体に絡みつきはじめていた。
「この瘴気の多さはどういうことだ? まるで集めてきたみたいにこの迷路だけ濃いのか?」
「そうだ。神界と人界中に漂う瘴気をこの迷宮の上にある風車で吸い込んでいる。ここは神界と人界を穢す瘴気を集めて浄化するための場所として作られた。おれたちが入った入口から瘴気は吸い込まれ、壁や天井の岩壁に吸収されて中央の部屋に集められ、浄化された空気が上から還元される仕組みになっている」
「それはずいぶんと魔力を喰いそうな話だな」
「そうだ。だからそこにお前を使った」
 オレンジ色の灯りの下、ヨジャ・ブランチカはにやりと笑って、中央の部屋の鋼鉄の扉を重々しく開けた。
 中はもちろん真っ暗だったが、なんだか中央に薄明かりが見えるような気もする。
 ヨジャは慣れた足取りでそこに入室し、おれの腕を掴んで室内に引っ張り込むと、三歳児では取っ手にすら手が届かない鋼鉄の扉を閉めた。
「ここの迷路は一方通行なんでな。この部屋からは今の扉ではもう出られない」
 にやあと笑うヨジャに、おれは寒気を覚えた。
 逃げられなくされたと思った。
 ヨジャ・ブランチカが怖いだけじゃない。この室内に、明らかにおれと引き合う何かがある。近づけば近づくほど寒気と鳥肌が止まらなくなるほど、恐ろしいもの。
「行ってみろ」
 ヨジャは扉に背中を預け、おれに顎をしゃくった。
「お前はいいのかよ?」
「おれはもう散々見飽きてる」
 扉の前に居座られては、どうあがいてもここから出してもらえそうにない。ヨジャの言う通り、進むしかない。
 中央の薄明かりの方へとおれは歩き出す。
 恐れながら小さな足でそれに近づいていく。
 薄明りはやがて、目の前に置かれたものから上へと立ち昇っていることが分かった。淡い黄色の、蝶の鱗粉のような光が儚く立ち昇っていく。
 その光の根源には、長い剣を胸に突き立てられた一人の男がいた。
「ひっ」
 思わずおれは悲鳴を上げて後ずさった。
 その男には、確かに見覚えがあった。
 薄い燐光の中で輝く黄金の髪。西方出身者らしい高い鼻梁を持つ端正な顔立ち。しなやかに長く伸びた手足と、引き締まった胴体。
 まるで鏡を見ているようだった。
 着ている衣服も見覚えがある。
 あれは、殺された時におれが着ていた鍛冶用の仕事着だ。
 白かったはずの仕事着は、胸を剣で貫かれた時の血で、胸のあたりから全体的に赤黒く染まっている。
「これは、なんだ」
 息を呑みながら、ようやくの思いでおれは問う。
 恐ろしくてヨジャの方は振り向けない。
 同時に、堪えがたい怒りが湧き上がってくる。
「これは何だと聞いているんだ! 答えろ、ヨジャ・ブランチカ!!」
 足を踏み鳴らして怒鳴ると、ようやくヨジャ・ブランチカはおれの脇までやってきて、昔のおれを見下ろした。
「キルアス・アミルの亡骸だな」
「そんなことを聞いているんじゃない! どういうことだ? どうしておれの身体がここにある?!」
 身を震わせながら尋ねるおれに、ヨジャ・ブランチカは感情のこもらない目を向けた。
「これがお前の契約の代価だ」
「な、んだと……?」
「風の精霊王と契約した代価がこれだ。人の身で早々に契約したから、こうするしかなかった」
「意味が分からない。その身体に何が残っているというんだ?」
「血が。風の精霊王と契約した時の血がまだこの身体には残っている。周方王の剣を媒介に風の精霊王の血とキルアスの血とでお前は契約を成立させただろう。実質、精霊王の魂の一部もお前の魂の一部もこの剣に閉じ込められたままだ。風環法王はまだ魔法石を媒介として己の血で風の精霊王と正式に契約を結んでいない。正式に契約を結ぶことができるまでは、これはこのままだ」
「それは一体、どういう……」
 尋ね返すのは、理解したくないから。
「風環法王。風の精霊王がお前を許すまでは、お前は正式な契約を結ぶこともできなければ、法王としての最大限の力を発揮することもできない。それでも、神界や人界に瘴気を広げるわけにはいかない。この迷宮は、お前の昔の悪業の代価だ。代償を払い終わるまで、お前はこの迷宮を管理しなければならない。この剣を引き抜き、改めて風の精霊王と法王であるお前が契約すれば、人の身でした契約も解消され、法王であるお前の契約となる。常時〈浄化〉の魔法を使いつづける負担がお前にのしかかるわけだが、人の身で支えるよりも神の子の身体の方がまだ食いつぶされなくて済むだろうな」
「……おれは、贄か? 贄にされたのか?」
「贄とは、命を搾り取られる前に最大限の享楽でもてなされるものだ。お前はその条件を飲んだのだろう?」
「くっ。そもそも! そもそもはお前が、エマンダが、母上を殺さなければ!! 父さんと母さんを殺さなければ、こんなことには……!!」
 拳を握りしめ、小さな体を震わせて怒鳴ると、ヨジャはやはり冷めた目でおれを見下ろした。
「キルアス。俺は殺していないよ」
「なっ……嘘だ、嘘ばかり言うな!! 母上のことだって、匿ってもらっているところまで追い詰めに来たじゃないか!」
「あれは、本当に周方王の命で迎えに行ったのだ。草原でお前たちを追いかけた時だって、追っ手からお前たちを逃したい一心だった。お前が慕った二人の夫婦のことも、お前に知らせたかったが間に合わなかった」
「嘘だ! 嘘を吐くな!! お前はおれから大切な人を三人も奪ったくせに、都合のいいことを言うな!!」
「俺が殺したのはお前だけだ、キルアス」
 静かに睨み下ろされて、おれはあらんかぎりの力で奴を睨み返した。
「おれは、お前を許さない。おれの大切なものを全て奪い、おれの命まで奪ったお前を、おれは一生――永遠に許さない」
 ヨジャはしばしおれを睨みつけた後、すっと視線を逸らして呟いた。
「だろうな」
 あまりにもあっさりした一言に、おれは肩透かしを食らった気分になる。
「ならば疑え。お前がそれでいいというなら、一生その燻りを抱きつづけるがいい。だから、油断するな。風環法王、俺はいつでもまた、お前を殺すことができる。出来の悪い法王だったら、神々の命が無くても俺がお前を処分する」
「処、分……?」
「そのための力なら、もう手に入れた。俺はお前が生きている限り、いつまでもお前を監視しつづける。それが嫌なら、お前が俺を殺せ」
 何の力を手に入れたのかまでは奴は言わなかったが、維持されつづけているその若い姿を見れば、何らかの力に手を出したのは火を見るより明らかだった。
「お前、何に手を出した?」
「肉体の寿命を延ばす手段など、いくらでもある」
「お前……そこまでおれが憎いか? 転生してなお苦しめつづけるほどに、おれのことが嫌いか?」
「なぜ俺がお前を憎いと思う? 嫌いだと思う?」
「お前は、エマンダの……」
「犬、か。そこまで忠犬だったつもりはないのだがな。お前がどう思おうとお前の勝手だ。だが、運命はもう変えられない。お前は贄だ。だから、風の精霊王の怒りが溶けるまでこの場所を守り通せ。この神界、ひいてはお前が愛した女のためにな」
 ヨジャはそう言っておれと、以前のおれとを一瞥し、入ってきた壁とは反対側の壁の扉を開き、その向こうに消えていった。
『お前はエマンダの……』
 その続きを、おれはどうして知ったのだろうか。噂話に聞いて、思いのほか早い頃から知っていたのだと思う。例えば、キルアスがエマンダにお茶に呼ばれ殺されかけた時にヨジャが助けてくれた時には、おれはヨジャがエマンダの何なのかを知っていた。
「おれも母の仇か」
 お前自身も気づいているのだろう? まさかお前が知らないわけはあるまい。
 自分の本当の母親が誰か。
 白い陶器のような肌と白くけぶる金髪、そして気高さを誇る碧い瞳。
 闇に溶け込む髪と目と肌を持つお前とは似ても似つかぬその姿に、疑う者は誰もいなかったというが、知っている者は知っている。お前が周方王に愛されなかった第一皇妃の不義の子だと。
 エマンダは一度もお前を実の子として扱ったことはないし、お前も母と思わず仕えるようにしたのだろうが、時たま、お前のエマンダを見る目がどこか母親の愛を求める子供のように寂しそうだったのを見たことがある。もしかしたら、エマンダこそヨジャが自分の子だと知らずに側に置かれていたのかもしれないが。
 まあ、あの女もそこまで間抜けではないか。
 まったく、憎しみというのはどこまでも連鎖していって、ついにはおれの死後の運命まで狂わせてしまった。
 おれは、もう一度勇気を出して簡素な台に横たえられた昔の自分を見た。
 胸に突き刺された剣からは絶え間なく仄黄色い燐光が天上へと吸い込まれるように立ち上り、流れ出た血が固まった白い衣服は赤黒く染まり、別の衣服のようだった。当時、肩口で結わえていた金髪は、まるでまだこの身体が生きているかのように伸びて台から垂れ落ちはじめている。髭まで伸びて顎を覆っている。
「本当に死んでいるのか?」
 白い顔に血の気はない。
 おそるおそる手が届く高さにあった自分の手に指先を伸ばしてみる。
 冷たい。
 確かにもう、生きている人としての温もりはなくなっていた。
 それでも、髪と髭は伸び、腐りもせず、干からびもせずにここに眠っている姿を見ると、もしかしたらまだ戻れるんじゃないかという気になってくる。
 戻るとしても、剣を抜いてからでなければ痛い思いをするだけだろうが。
 ふと、この身体で起き上がった自分を想像して、炎の顔が思い浮かんだ。
 炎は、ここにキースがいることを知ったらどう思うだろう。
 この迷宮のことを知ったら、どう思うだろう。
「――言えないな」
 ヨジャの言う通りだ。
 この迷宮はおれの悪業の証。
 風の精霊王を唆して契約した人の償いの末路。
 隠すしかない。
 そう思った。
 カインがおれとの本契約に応じてくれる自信はない。
 おれは、二度と彼女に力を貸してくれなんて言う権利はない。
 キースだった時、炎をおれの元に届けたカインは、誰かを助けるための力なら貸してくれると言っていた。これ以上自分の力で誰かが傷つくのはもうまっぴらだとも。
 おれはこれ以上、彼女の意志に反することを彼女に望むことはできない。
 それならば、カインにもここのことは隠しつづけるしかない。
 彼女の囚われた魂の欠片が、まだここにあるのならば尚更、告げるわけにはいかない。神の第七子はすでに生まれてしまった。おれの魂と彼女の魂の一部がここに囚われつづけることで、彼女がおれから自由でいられるのなら、敢えて告げて再びおれに彼女を縛りつけることもない。
 おれは、満足に魔法が使えなくとも、法王として炎の横に立てるだけの強さを手に入れなければならない。そのためには、闇獄界からの侵攻に備えて身体を鍛え、魔法が使えないことを勘ぐる余地もないくらいに武術と知識を磨くしかない。
 結局、おれは人だ。
 人のままだ。
 人のまま、神の時間を生きなければならない。
 目の前に人としての自分の体があっても、もう戻ることは許されない。
 進むしか、ない。

 法王の身でありながら人として生きていくことを決意した三歳の誕生日から、どれくらいの時が過ぎただろう。
 風環法王の身体は魔法はろくに使えなくても成神し、その間、ヨジャ・ブランチカは風環の国の宰相として何食わぬ顔でおれのことを監視しつづけた。幼い頃、おれを食い物にしようとした貴族連中への立ち回りはそれはもう見事で、認めたくはないが何度助けられたかはわからない。それでも、おれは心の底にヨジャ・ブランチカへの殺意を燃やしつづけた。ヨジャ・ブランチカに助けられるのが嫌で、早く奴を遠ざけたくて勉学にも武術の訓練にも勤しんだ。それでいて、余裕が持てるよう裏の情報網を手に入れ、努力していることを悟られないよう、外に出れば笛を吹き、琴を奏で、争いなど嫌いそうな風雅な人物を演じた。
 風の後見役に任じられていたため、小さい頃からちょくちょく風環の国に様子を見に来てくれた炎に対しても、注意深く年相応の子供を演じた。間違えても恋慕の視線など送らないよう、どれだけ苦労したことか。
 それでも彼女に逢えた日は嬉しく、弟としてでもともに時を過ごすことができることに満足しようとすることもあった。
 兄弟間の恋愛は御法度だと定められたのは、大分昔からのことだという。
 その禁を破って統仲王の怒りを買い、公式な場以外での交流を禁じられたのが、長兄である育命法王と長姉の水海法王。それは未だに庶民の間でも神話のようにあるいは昔話のように口の端に上ることもある一大事件だった。
 神の子は、今のところ自分を含め七人しかいない。
 人は人同士で愛し合うのが基本だし、神の子は神の子同士で愛し合うのも仕方がない気はするのだが、いかんせん、人は短命だが神の子の命は永遠だ。仮に神の子同士の間に子が生まれつづけたら、神界は神の血を引く者で溢れかえってしまう。
 それを抑制することが狙いなのかどうかは知らないが、長命種が子孫を残す必要がないのは道理で、それは本能にも組み込まれていてもおかしくないものだった。
 生まれてくる時、愛優妃はおれと炎の仲は不問とすると言っていたが、正義感が強く、法の番人でもある裁きの女神がそれを呑むかどうか、と言われれば、否としか思えなかった。
 炎は、弟の風をそれはもう自分の子のようにかわいがってくれた。
 おれに会いに来た日はすっかり頬が緩み、おれが好きだと言ったお菓子を大量に持ってきたり、小さい頃は遠慮なくその胸に抱きしめてくれたりしたものだった。
 そんな炎に不満を覚えはじめたのは成神する少し前、十二、三歳くらいのことだった。
 いつまで弟扱いをされなければならないんだろう、そんな焦りばかりが募り、風環の国から火炎の国は帰っていく炎を見送る目がきつくなってきたのを、ヨジャ・ブランチカに見咎められた時にはヨジャ・ブランチカをその場で切り捨ててしまいたい衝動に駆られた。
 その頃の炎は、おれにとっては善き姉だったが、国に帰れば毎夜違う恋人と一晩を過ごすと有名だった。その恋人たちの名の中にヨジャ・ブランチカの名が入ってきたのは、おれが成神する少し前からのことだった。
 わざとなのかと直接問いただすわけにもいかず、だからといって職務に隙のないヨジャ・ブランチカを理由もなく罷免するわけにもいかない。姉である炎にそんなことを聞くわけにもいかない。そう苛立つうちに、風環の国に訪れた炎とヨジャ・ブランチカが親しく言葉を交わす様まで見せつけられるようになっていった。
 噂が誠であれ嘘であれ、到底許せるものではなかった。
 もちろん、許す許さないと言える立場にないのは重々承知だが、ヨジャ・ブランチカは明らかにおれに炎との仲を見せつけていた。世の噂でも、いつの間にか恋人はヨジャ・ブランチカだけになったと言われはじめていた。
『俺はお前が生きている限り、いつまでもお前を監視しつづける。それが嫌なら、お前が俺を殺せ』
 成神を迎えたあたりからだったろうか。三歳の誕生日に言われたヨジャ・ブランチカの言葉が頭の中で繰り返されるようになっていき、おれは本気でヨジャ・ブランチカを排除できないか考えはじめていた。
 闇獄界の領域侵犯が頻回になってきたのもこの頃だった。
 瘴気と共に魔物が送り込まれてくるのは主に南楔奈月。炎はもしもに備えて火炎の国に待機していることが多くなり、かわりにおれが炎の元を訪問することが増えていった。そうこうしているうちに戦局は厳しくなっていき、ついに奈月の西側が大規模に闇獄界に侵攻されたとの報が炎の元に届けられた。
 奈月の西側からまっすぐに北上されれば、遮る山脈や湖沼、砂漠などはないため、あっという間に火炎の国の国境を越え、ここゼロービアに辿りついてしまう。
「明朝、五千の兵を率いて奈月に向かう!」
 勇ましく宣言した炎の前に、おれは間髪入れずに進み出た。
「姉上、僕にも初陣の機会をお与えいただけませんか?」
 炎は目だけでぎろりとおれを睨む。
「僕ももう子供ではありません。成神したからには法王としてこの世界にできる限りのことがしたいのです。それに、こんなことは言いたくありませんが、闇獄界は時とともに力を増してきているように見受けられます。今後、闇獄界との戦いが増えないとも限らない。それならば、僕も早めに実戦を経験しておきたいのです」
 ふぅんと炎は軽く聞き流そうとしたが、ふと、おれに視線を戻して言った。
「そうか。成神したのだったか。もう、そんなになるか」
 おれを見ながら、彼女は何か違う者の影を探しているように見えた。
「よい。許す」
 短く言った炎に、おれは深く頭を垂れた。
「ありがとうございます」
 明朝、おれは出来合いの防具を身に着けて、炎の後について奈月へと向かった。
 風環の国に残っていたヨジャ・ブランチカは、おれが出陣したと聞いて、行軍中のところにすっとんできた。
「このように勝手なことをされては困ります。戦争は遊びではないのですよ」
「分かってるよ。だから行くんだ。火炎の国の兵士たちも、火炎法王と風環法王の二人がついているって、朝から士気が高いんだ。それだけでも来た甲斐あったなぁって」
「何を甘いことを。貴方は風環の国の王なのですよ。もう子供でもないというのに、このような勝手が許されると……」
「おれが許したんだよ」
 忠臣のごとく人前だから敬語で丁寧に諌めるヨジャ・ブランチカに、軽く声をかけたのは炎だった。
「そんなに心配ならお前も来い、ヨジャ・ブランチカ」
 からからと笑う炎に、思わずおれもヨジャ・ブランチカも呆気にとられる。
「お前たち二人が助力してくれるなら心強い」
 そう言い残して、炎は勇ましく先頭へと向けて騎獣の玄熾を走らせていった。
「全く、炎にも困ったものですね。ブランチカ殿、炎の言ったことは気にせず、国に戻っていいのですからね」
 横目でヨジャ・ブランチカを一瞥して、宿蓮も炎を追いかけて駆けていく。
「そういうわけだ。帰れ帰れ」
「一国の主を一人残して帰れるか」
「ふぅん、なら、一緒に来るか?」
 絶対に断ると思っていたのだ。だからにやりと笑って誘ってやった。
 ヨジャ・ブランチカはしばし考えた後、ため息をつきながらつんと澄まして頷いた。
「火炎法王の命ですからね」
 正直、頷くとは思っていなかったので、内心狼狽えながらなんとか思いとどまらせる理由を並べてみる。
「何を言い訳がましい。本当に風環の国の方は大丈夫なのか? 法王も宰相もいなくなったら……」
「結構頼りにされていたんだな。心配ならお前が戻ればいい」
「冗談だろ。ここまで来ておいて」
「それなら仕方ない。俺も行こう」
「なんでそうなるんだよ」
「炎の命令だ」
 ヨジャ・ブランチカは嬉しそうに、或いはわざとらしく、「炎」とおれの前で呼び捨てにしてみせたのだった。
 じりりとおれの心は灼ける。
 邪魔だな、と心の声が聞こえた。
「心配するな。国ならカインと逢綬に預けてきた」
「それはそれで心配な……」
「お前のしがらみさえなければ、彼女たちはよく働いてくれるんだよ」
 何もかも掌握しきっていたヨジャ・ブランチカ。まさかカインと逢綬まで手懐けているとは思わなかった。
 こいつはおれのものになるはずだったものを悉く奪っていく。人も、物も、立場さえも、 まるで復讐でもしているかのように――いや、これは復讐なのだ。
 おれは長い年月をかけて復讐されているのだ。
 仕えるふりをされながら、いつ寝首をかかれるのかと思いながら生きてきた。身体が小さく子供のふりをしなければならなかった時も過ぎ、肉体的にも精神的にも大人として振舞えるようになってようやく、少し安心した。でも、おれが脅かされていたものは命だけじゃなかったのだ。炎とはあからさまに他から視線をそらすために恋人ごっこをしていただけかもしれない。
「俺に奪われたくなかったら、お前自身で何とかするんだな」
 わざとらしく煽ってきたヨジャ・ブランチカに、おれは返す言葉もなかった。
 ただ、頭の中ではどうやってこいつをおれの神生から排除してやろうか、そればかりを考えていた。幸い、この一団は戦争に行く兵士だ。そう、何があってもおかしくないのだ、今ここで奈月へと向かっている人々は。
 うっそりと暗い考えが鎌首をもたげかけ、おれはそっとそれを押し戻した。
 ここは神界だ。闇獄界じゃない。
 奈月の国境を越え、一つ目の町オルチャに着いたところで、奈月軍を連れて撤退してきた南方将軍オウシャ・アド・ディーンと合流した。
「炎!」
「オウシャ!」
 無二の親友として力強く抱き合い無事を確認しあった二人は、すぐに法王と将軍の立場に戻った。
「火炎法王、この度は御足労をおかけして大変申し訳ございません。侵入時に押し返しきれず、闇獄軍に奈月の半ばまで侵入されたこと、深くお詫び申し上げます」
 跪いたオウシャ・アド・ディーンは炎に深く頭を垂れた。
「南方将軍がここまで撤退してきているということは、コリャもスーエも陥ちたか」
「申し訳ございません」
 コリャは紅洋に面す港町で、スーエはオルチャとコリャの大体中間くらいにある。オルチャとスーエの間にはヨルタ平原が広がっているから、明日はそこが前線になるだろう。
「此度の闇獄軍の動きは、そなたらを追って来ているということで間違いないか? 東西に広がってはいないのか?」
「東西に広がる動きは見せておりません。ただひたすら、我が軍を追いかけて北上してきております。コリャとスーエの民については、逃がせる者は逃がしましたが、町の被害は瘴気が充満しており、まともに調査ができておりません」
「珍しいな。闇獄界が領域拡大以外の目的で動くなど」
 顎に手をあてて炎が首を傾げる。
 確かに珍しい。
 今まで闇獄界が神界に魔物たちを送り込んでくるときは、瘴気をばらまき、闇獄界としての領域を神界にも広げようとしているだけだった。もし、紅洋を渡ってコリャに上陸したのなら、東西に広がりながら瘴気をばらまいた方が効果的だ。コリャの東はすぐにシャクンタラー大樹海が広がっていて、闇獄界の魔物といえど一度入り込めば二度と出てこられなくなるだろうが、西はビスタ川まで遮るものは何もない。それをわざわざ真っ直ぐに北上してくるとは、はじめからゼロービアが目的にも思えてくる。
「して、闇獄軍の将は誰だ?」
「はい、それが名乗る者は小物ばかり。ここまで大規模に軍を動かしているのであれば、それなりの将がいるものと思われますが、未だ名が割れぬのです」
「それもまた変な話だな。オウシャ、相手の目的は分かるか?」
「いえ、わかりません。ただ……」
「ただ、何だ?」
「ゼロービアを目指しているのではないか、と」
 オウシャはおれも考えていたことを遠慮がちに口にした。
「我が都を?」
「ゼロービアについても、その先にはネートの大森林があり、そこを越えればハル湖を迂回して天宮。敵の数からしてそこまで遠大な侵攻計画を遂行するにはやや足りませんが、ゼロービアまでならばあわよくば」
「ふむ。いつもの界境の小競り合いではなく、今回の目的は明確に神界に侵攻の意図がある、と」
「はい」
 頭を垂れたままのオウシャを見下ろして、炎はしばし考え込む。
「今回は異色の事態かもしれぬな。オウシャ、次は挽回しろ」
「はっ」
「よし、軍議を始める。皆を集めろ!」
 炎の一声で火炎軍の将たちが集められ、おれとヨジャもそこに同席した。
 軍議の間、ヨルタ平原には塹壕が築かれ、闇獄兵の動向を探るために斥候が飛ばされる。
 もたらされる情報の中で皆が驚いたのは、今回の闇獄兵は形を為しているのかいないのか分からない魔物だけではなく、その奥には知能を備えているとみられる人型の者も隊列を組んでいるということだった。明らかに何らかの目的を持って侵攻してきているとしか思えない。それなのに、これぞという将の名前が上がらない。巧妙に隠されている様子もないのに、そこに将はおらず、しかし軍は整然と北上してくるのだ。
 相手が分からないのでは、戦略を立てることも難しい。あらゆる事態を想定して手を打っていかなければならなくなる。その分余計に人も物も裂かれてしまうのは手痛いとしか言いようがない。
 開戦は明朝。
 闇獄軍と示し合わせたわけではない。奴らは夜も昼もなく真っ直ぐに北上してきている。このままいけば明朝にはヨルタ平原に奴らが辿りついてしまうのだ。ここで全てに片を付けてしまわなければ、火炎の国とて手痛いことになる。
 念のためだと言って、炎は東の育兄さんのところに伝令を飛ばした。
 軍議が終わると、皆それぞれ野営の天幕へと戻っていった。
 おれとヨジャも与えられた天幕に戻り、早々に床につく。床といっても敷物の上にごろ寝だ。何となく、懐かしさが込み上げてきた。周方の城から母と逃げて旅をする間、天幕すらない木陰で簡単な敷物だけを敷いて母と二人横になった。虫が寄りつかないように、周りには虫除けのミントオイルを吹き付けて。
 懐かしい夢でも見ているようにうとうととしはじめた時だった。隣のヨジャの天幕から人が出ていくような気配がした。
 ふっと眠気が吹き飛んでいく。
 用を足すだけならすぐに戻ってくるだろう。だが、予想通りヨジャはなかなか戻っては来なかった。
 炎のところに行ったのではないか?
 じりじりとした思いに灼き尽くされそうになって、おれも天幕を抜け出した。
 外は真っ暗で、野営の淡い灯りがぽつりぽつりと点在するだけだ。頭上には目が痛くなるような満天の星々。月明かりはない。その星明りを頼りに、炎の天幕へと足を向ける。足音を忍ばせ、できることなら戻ってくるヨジャと鉢合わせなどしたくないと思いながら、わざと炎の天幕の入口と反対側から回り込む。
 天幕の中からは、ひそひそと話し声が聞こえ、やがてヨジャが幕をめくりあげて出てきた。
 息を殺していたおれには気づかず、ヨジャは真っ直ぐに自分の天幕へと帰っていく。
 その姿が見えなくなったのを確認して、おれは炎の天幕の入口の前に立った。
「姉さん、起きてる?」
 潜めた声に、しばらくしてから返事があった。
「どうした?」
「話があるんだ」
「今か?」
「どうしても」
「仕方ない奴だ。入れ」
 呆れてはいたものの、炎に許されたおれは幾重にも重ねて張られた幕を潜りぬけて、炎の居室へとたどり着く。
 炎は鎧こそ身に着けてはいなかったが、いつでも戦闘に出られるように鎖帷子は身に着けたままだ。その傍らの小さなテーブルには赤いワインが注がれたグラスが二つ。一つは飲み干され、うっすらと赤い色が残るばかり。もう一つ、まだワインが残っているグラスを、炎は手に取りゆっくりと口に含む。
 空になったワイングラスを凝視するおれに気付いたのか、炎は苦笑する。
「ついさっきまでヨジャが来ていた。今日はさっさと飲み干すと出て行ってしまったよ」
 寂しそうな影が目元に差しているように見えるのは、室内を照らす炎の揺らぎのせいだろう。そう思いたい。
「何だ、思い詰めた顔をして」
「姉さん!」
「ん、なんだ。大きな声を出すな」
「お願いがあるんだ」
「お願い?」
「明日、僕が闇獄軍の将を討つことができたなら、僕に褒美をくれませんか?」
 しばし、炎は僕の顔を見た後、一笑に付した。
「面白いことを言う。誰ともわからない将を討つ、と? 将などいないかもしれないぞ?」
「あれだけ統率された動きをするのであれば、必ず指示を出している者がいます」
「あの軍の中にはいないかもしれないぞ?」
「探します。必ず、何かで情報は伝えているはずなんです」
「それをうちの間諜たちは見つけられなかったんだがな」
「僕が必ず見つけます。だから、もし僕が将を討てたなら、その時は……」
「何でも好きなものを褒美にやろう。それでいいか?」
 面白いものを見るように炎はおれを見ていた。
 まさかおれが望むものが炎自身だ、などとは思いもよらないのだろう。
 あの顔は、きっと新しい楽器をねだられるか、火炎の国で採れる香料を安く譲ってくれと言い出すか、きっとその程度だと思っている。
 それなら、それでいい。
 功を上げられたなら、おれはもう我慢はしない。ヨジャのことなど忘れてしまうほどに、おれの願いを叶えてもらう。
 おれはゆっくりと頷いた。
「約束ですよ? 何でも、ですからね」
「オレが約束を違えるとでも?」
 可愛いペットでも見るように、炎はおれを眺めてまたワインを口に含んだ。
「いいえ、裁きの女神は約束は違えない。そうでしょう?」
「そうだ。分かっているなら早く寝ろ」
「姉さんも、深酒は明日に響きますよ」
 そう言っておれは炎の手から飲みかけのグラスを奪い、一気に飲み干した。
「あっ、オレのワイン! 風、お前まだ子供のくせに……!!」
「しっ。大きい声を出したら人が来ますよ。ワインくらいいいじゃありませんか。僕ももう子供じゃないんです。それじゃあ、明朝に」
 空になったグラスを置いて、おれは炎の居室を辞した。
 ワインを流し込んだ喉から胸が熱く焼けている。
 苦くて渋い赤ワイン。法王のくせに、あまり高い等級じゃない。庶民の兵士が隠れて持ってくるようなレベルのアルコールばかり強いあまり質のよくないワインだ。こんなの、ただ酔いつぶれて寝るためだけに飲むワインだ。
 風の身体になってから初めて飲んだワインは、あっという間に睡魔を引きこみ、天幕に戻った時にはおれはすっと寝息を立てていた。大人のふりをしたって、身体はまだ大人に慣れていない子供のようなものだということが悔しくて、夢の中で幾度か足掻いた気がする。
 そうやって浅い眠りを幾度か繰り返すうちに、忍び寄る夜明けの気配に身体を起こした。
 天幕の外は、日中に比べるとぐっと冷え込み、冷たい湿気が肌に纏わりついてくる。上を見上げれば、夜空からぽつぽつと星が消え、一番明るい金色の星だけが東の空に輝いている。その山際はぼんやりと青の色が褪せ、一日が生まれる前、死にゆく夜の残滓が横たわっているかのようだった。
「早いな」
 後ろから声をかけられて振り返ると、すでに朝の支度を整えたヨジャが立っていた。いや、むしろ一晩中活動していたかのように、眠気の欠片も残らない姿だ。
「眠れなかったのか?」
「子供じゃあるまいし」
 馬鹿にするな、とおれは言う。
「目の下に隈ができている。浅くしか眠れなかったんだろう?」
「戦場で深く寝入る奴がいるか」
「しっかり休めていないと、昼間の暑さは堪えるぞ」
「お前に心配されたくないね。そういうお前こそ、一睡もしていないかのような恰好じゃないか」
「休める時はしっかり休んださ」
 それはいつだ、と、昨夜炎の天幕から出てきたヨジャの姿を思い出して口を噤む。
 見ていたなど言いたくもないし、あの安いワインを肴に何をしていたかなど聞きたくもない。
 しかし、それを尋ねたのはヨジャの方だった。
「昨夜、炎と何を話した?」
 面白がっているのがよく分かる目だった。
「姉上のところにご機嫌伺いに行っただけだ」
「怖くなったか? 逃げさせてくれとでも頼みに行ったか?」
「まさか」
「なら、褒美でもねだりに行ったか?」
 おれはじっとヨジャを睨み据える。
「聞いていたのか?」
「用事がなければ行かないだろう? 逃げ出したいにせよ、褒美をくれにせよ、願い事があって行った。ただ話したかった、なんてことは、今のお前には無理な話だ」
「弟が姉と話して何が悪い」
「お前にその気はないだろう? それとも諦めたか? 弟として姉の愛情を享受することに馴らされたか? あるいは他にいい女でもできたか?」
 珍しい、と思った。
 ヨジャがこんなにおれと炎のことに口を出してくるなど、三歳の時に迷宮に連れて行かれた時以来だ。
「お前こそ、何をしに行っていた」
 ついに、おれは口にするまいと言っていたことを口にしてしまった。
 ヨジャはかかったとばかりににやりと薄い唇の端を上げる。
「ワインを飲みに行っていた」
「あの安っすいワインをか」
「飲んだのか」
「あれは体に良くない」
「炎はあれがよく眠れるそうだ」
「……眠れないのか」
「大分昔からな」
「何でお前がそんなことを知っている」
「風環の国に来る前は火炎の国にいた。ちょうどお前を殺した前後あたりだ」
「……物騒なことを言うな」
「その頃彼女は、大切なものを二つ失った。その頃からの誼だ」
「嫌なことを聞かせる」
「それが俺の役目だからだ」
 逸らしていた視線を奴の目に固定する。
 奴は、物憂げに笑っていた。
 見たことのない表情だった。何をするにも斜に構えてにやにやと楽しげに笑っていた奴が、どこか苦しげに笑みを歪ませていた。
「ヨジャ・ブランチカ、お前の主は誰だ?」
「愛優妃様」
 力強く、ヨジャ・ブランチカは言った。
 おれのことを主だなどと思っていないことは分かっていたから、落胆などはしない。しかし、奴のしてきたこと全てが愛優妃様の思惑が導いたことだとしたら、おれは……いや、風として生まれてくるときに契約を持ち出された時点で、おれはあの女神が悪魔に見えた。だから、ヨジャを通して見える彼女の像は、おそらく正しい。
「お前、褒美を得るために何を条件にした? 功を上げることか? 闇獄軍を殲滅することか? それとも」
「闇獄軍の将を討つこと」
 間髪入れず、おれはヨジャの言葉の跡を継いだ。
「どこにいるのか、本当にいるのかも分からないのに?」
「闇獄軍の動きは、明らかに統率されている。必ず指揮をしている者がいる」
「どうやって探す気だ?」
「見つからないなら、全員斃せばいい。そこで背を向けた奴が今回の将だ」
「そうかな。背など向けるかな。闇獄兵を全員斃しただけで終わるかもしれないぞ。そして、その中に将がまぎれている可能性は限りなくゼロに近い」
「夜中、偵察でもしてきたか」
「結果は出なかった。将などどこにもいない」
「そうか。それでも奴らは攻め込んできている。将がいようがいなかろうがここで止める」
「キルアス」
 改まって、ヨジャがしばし呼ぶことのなかった名を呼んだ。
 おれは返事などしない。
「キルアス」
 それなのに、ヨジャはもう一度その名で呼んだ。
 おれは奴を睨みつける。何のつもりだ、と、目で訴える。
 仮にも、炎に聞かれたら。
「炎は弱い女だ。真っ直ぐなだけに脆くて壊れやすい。お前はそれでも彼女の側に居続ける自信はあるか?」
 まるで炎のことを知り尽くしているかのように。嫌な男だ。
「ある」
 どれだけの時をかけておれが今ここに立っているか。
 その間、“炎姉さん”の脆いところを全く見てこなかったわけじゃない。人を裁く度に、罪に罰を与える度に、人知れずどれだけ葛藤しているか、幼い頃からずっと見てきた。炎は誰にも見せたつもりはないだろうけど、おれは子どもの頃から察してきたつもりだ。
 辛いことがあった時には、火炎の国に滞在している小さなおれをよく抱きしめていた。人形か何かと勘違いしているんだろうとは思っていたが、抱きしめ返す己の腕の短さに愕然とした。これじゃあ何も包み込めない。受け止めきれない。どうして自分はこんなに小さいのかと、憤懣やるかたなく、涙すら滲む始末だった。その涙を、炎は自分に向けられたものだと勘違いして、よくおれのことを「優しい子」だと言っていた。
 そんなんじゃないのに。
「何なら、お前自身が彼女の弱点となり得るとしても?」
「……どういう、意味だ」
 ヨジャはようやく勝ち誇ったように笑った。
「いいことを教えてやる、キルアス。炎は、今でもお前のことが好きだよ、キース」
 それは、呪いだった。
 ヨジャ・ブランチカの渾身の呪い。
 おれは、ヨジャ・ブランチカのその言葉に、確かに目の前が一度真っ暗になったのだ。
 何故、そんな気持ちになったのか、おれには分からなか……分かりたくなかった。
「ヨジャ・ブランチカ。キルアスと風、どちらの生の方が長くなったんだろう」
「馬鹿か。人の時で数えるなら、風環法王の時間の方がもうとうに長くなっているだろう」
 おれは広げた自分の手のひらを見、己の手足を観察した。
 まだ小さい。
 まだ、キルアスが殺された時よりも、まだ体は小さい。
「神の子というものは、やる気になれば自在に身体の年齢を操れるのだろう?」
「必要もないのに麗兄さんや鉱兄さんを越えるわけにはいかない」
「それでも、今が十五の姿なら鉱に追いつかない程度に上手くやればいいじゃないか。いつまで子供のふりをしているつもりだ」
 それは確かにそうだが。
「……お前に言われてやるのも癪だ」
「なら、言い方を変えてやる。十五の非力な少年より、もう少しまともに戦える年齢になれ、と言っているんだ。体力も、腕力も、脚力も、何なら知力も多少は違うだろうよ」
 自分の頭をさして言ったヨジャは、くっくっくっくっと笑いをかみ殺しながら去っていく。
「知力は変わらないだろ、知力は」
 背中に向けて呟いてみるが、さて。
 子供のふり、か。
 板につきすぎて、意図的に大人になろうなんてもう思うこともなくなっていた。
 炎を手に入れたいと願いながらも、子供だから無理なんだと、どこかで言い訳していたのかもしれない。
 それは、ヨジャのせいでも誰のせいでもなく。
 曙色を滲ませながら白みはじめた空を見上げ、小さな声で囁いてみる。
「時の精霊たちよ」
 この身体が多少なりとも大きくなれるのであれば。
 彼女を抱きしめるのに腕が足りないと嘆かなくてもいいように、この身に時の重みを加えてほしい。
 願いは即座に天に届き、途端に身体は苛烈な熱に焼かれ、関節や骨はあらゆる場所で軋み、風の音すら聞こえなくなるほど鼓動なのか耳鳴りなのかわからない音で耳がいっぱいになる。あまりの苦しみに奥歯を食いしばり、頭を抱え、眩暈に開けていられなくなった目をぎゅっと閉じて蹲る。
 しばしの苦痛の後、さぁっと風の音が耳に届いた。熱は引き、痛みは和らぎ、おそるおそる目を開けたおれは、ゆっくりと立ち上がる。
「ああ……視界が違う」
 さっきまでの目の高さと、今の目の高さを比べると、腕の半分くらいは高くなっていた。繊細さや華奢さを纏っていたその腕も、子供特有の幼く薄く柔らかかった肉が、より実体を持って厚く太く逞しくなっていた。足も長くなり、腿と脹脛は太く厚く筋肉で覆われている。
 これなら、もう炎にも子供のくせに、なんて言われないだろう。
 ただ、困ったことに着ていた衣服が上下とも短くなってしまっていた。いくら上から甲冑をつけるといっても、これはちょっとあんまりだ。
 閉口するおれに、白い衣服が投げ渡される。
「着替えろ。西の風環法王様がその恰好では軍の士気に関わる」
 面白げに笑いをかみ殺しながら、今度こそ本当にヨジャは軍本部がある天幕へと向かっていった。
「ちっ、何で用意してあるんだよ」
 舌打ちするその音すらも、さっきとは比較にならないほど低くなっている。
 十五など、周方を襲撃した時は十分大人だと思っていたが、今となってみれば声はまだ細く幼く、手足も、おそらく知力も、子供のままだったのだ。そうでなければ、あんな無茶を一人でしようなどと思えるものか。出来ると信じられるものか。実行なんて、してしまえるものか。
 おれは、ずっと幼かったのだ。
 罪業の恐ろしさも知らず、正義感だけで復讐を成し遂げてしまえるほどに。
「はあーっ」
 腕を目一杯広げ、息を吸い込み、手足の指の先まで新しい息がいきわたったのを感じて、ゆっくりと吐き出す。
 これが新しいおれの身体。
 この腕なら、おれは炎を守ることができるだろうか。抱きしめることができるだろうか。この身体なら、炎とワインを飲み比べてもすぐに酔いつぶれなくて済むだろうか。
 閉じ込められていた望みがどんどん膨らんでいく。
 身の丈に合わせて。
 ようやく望むことが許された気がしていた。
 自分の天幕で着替えと準備を済ませて軍本部がある天幕へと向かうと、すでに揃っていた一同がおれを二度見していた。一番奥で地図を前に思案していた炎も、顔を上げると驚いたようにおれを見ていた。
 その赤い瞳に浮かんでいたのは、ただの驚き。
 急に背が高く成長した弟を目にして、どうしたのかと思案する目。
 おれはその目をまっすぐに受け止めて、瞼を閉じ礼をとる。
「準備が手間取り、遅くなり申し訳ありません」
「なるほど。本気だということか。面白い。ならば、風環法王、そなたに左翼の兵を預ける。初陣とはいえ、よもや、オレの後ろで功が降ってくるのを待つ気もないだろう?」
 目を輝かせて面白がっている炎に、「昨日の話と違う」と左翼を任されていた宿蓮が口を挟もうとするが、炎はそれを手ぶりだけで制する。
「務めさせていただきます」
「よし。おれと宿蓮は中央から突撃する。オウシャは右翼、風は左翼から回り込んで側面から叩け」
『はっ』
 一同が準備のため、バタバタと天幕から出ていく中、炎はおれを呼びとめた。
 おれは振り返り、炎を見下ろす。
「お前、おれより背が高くなるなんて反則だぞ」
「子供扱いするからですよ」
「昨日のワインのこと、根に持っていたのか」
「成神はしているんですから問題はないでしょう?」
「そんなに一気に身体を成長させて、慣れない身体でコケても知らないぞ?」
「大丈夫ですよ。慣れているので」
 思わずキ−スだった頃を思い出して言ってしまったが、炎はおれが人知れずこっそり身体を成長させて馴染んできたのだと思ったらしい。
「それならいちいち子供のような姿のままでいなくてもよかったろうに」
「なんとなく……機を逸してしまっていただけです」
「そうか。それだけの覚悟を持ってでもほしいものがある、ということか」
 楽しげににやついている炎を、おれは見下ろす。
 いつもは少し見上げるくらいだったこの笑顔を、また見下ろすことができるようになるとは思わなかった。出来ることならこのまま抱きしめてしまいたい。
「勝算はあるのか?」
「いいえ」
「何だ、無いのか。あてくらいあってのことかと思っていたが、違うのか」
 探るように炎はおれを見上げてくる。
「姉さんは、何か気づいているんですか?」
 炎は、少し目を見開く。
「いいや、何も」
 何もないようにさらりと言うが、どこか否定を噛みしめているようにおれには聞こえた。
「じゃあ、気をつけろよ。法王は死ぬことはないらしいが、傷を負えば痛いのは人と同じだからな」
「はい」
 知ってる。
 傷つけば痛いことくらい。傷だらけになれば、それなりに回復まで時間がかかるのだということくらい。
「姉さんもご無事で」
「ああ、ありがとう」
 君がどれだけ傷だらけになりながらここまで生きてきたのかを、おれは知っている。
 だから、少しでも君が傷つかずに生きていくことができるのなら、おれは――
 天幕の外では布陣を整え終えた兵たちが整列していた。
 太陽が山の際から顔を出す少し前、平原の東にあるネートの大森林の木立に身を潜めた左翼の兵たちの前におれは黒鹿毛の馬で乗りつけた。法王には騎獣がいるものだが、生憎おれにこの戦で麒麟の逢綬に乗る資格はない。精霊王との契約すら覚束ないのに、最も血腥い戦場を嫌う逢綬に頼れるわけもない。
 ヨルタ平原の遥か彼方に土煙が上がりだす。
 闇獄兵たちがついにここまで上り詰めてきたのだ。予想通り夜通し走り続けてきたに違いない。闇獄兵たちにとっては眩しい昼間よりも、夜の方が夜目が利いて動きやすいと聞いたこともある。しかも、その体力は無尽蔵だと。
 ざわめきだす背後の兵たちの気配に、おれは声を上げた。
「鎮まれ! 闇獄兵をこれ以上進ませるわけにはいかない。火炎の国に入る前に、何としてでもここで決着をつける。恐れるな。風環法王の名に懸けて、そなたらの命は必ず守る!」
 カイン。君の力で人は傷つけない。だから、せめて、傷を負った彼らを癒す力を貸してくれ。
 応える代わりにざぁっと風がそよいだ。
『勝手な男』
 風が囁いていく。
「ごめん」
 小さく囁く。
『呆れた。あんたは結局血が好きなのよ』
 何も言えない。
『それならせめて、流すのは自分の血だけにしなさい。敵と、自分の血だけに』
 ふいっと気配が宙に霧散していく。そして、温かな風が背後の陣を覆っていくのを感じた。
 風の精霊王の加護。
「ありがとう、カイン」
 小声で祈るように呟き、おれは顔を上げた。
「風」
 横に並んだヨジャが顎をしゃくった先を見ると、中央軍の真ん中から巨大な火炎放射が吹きだすところだった。放たれた炎の舌は、塹壕に埋まった味方兵を踏み台にしてなおも勢い止まらず攻め上がってきた闇獄兵たちを一網打尽に舐めつくす。
 悲鳴と歓声が両軍から湧き上がる。
「派手だな」
「あれくらい派手にやらないと士気が上がらない。前線の兵たちを一掃する上でも効果的だしな」
 炎の〈火炎放射〉を受けてなお突進してくる兵たちを、今度は投石機による岩が襲い、続いて矢の雨が降り注ぐ。それでも闇獄兵たちの勢いは止まらない。まるで何かに意識を乗っ取られ、操られているかのように、恐れる物を知らず矢の雨の中をかいくぐり、前進を続けている。
「彼らに意識はあるんだろうか」
「さあな。意識があろうとなかろうと、生きるためには闘わなければならない。逃げることは許されない。だから、前に進むしかない」
 低い声で半ば自分に言い聞かせるように言ったヨジャは、一目もおれの方を見なかった。真っ直ぐ果ての火炎の国の中央軍と闇獄兵たちの衝突を見つめている。
 時折噴き上がる炎の柱。薙ぎ倒される兵士たち。
 炎が率いる中央の兵は十二分に闇獄兵を引きつけている。
 おれは馬を少し前に出させた。
 頃合いだ。
 左翼と右翼の兵は全て騎兵。タイミングを計って、前進にだけ気をとられている闇獄兵を側面から削り取る。
「出撃!」
 おれの声に鬨の声が続き、おれは先頭に立って駆けだした。間をおかず後ろの兵たちもついてくる。傍らにはヨジャがいる。
 おれたちは、混戦模様の前線の様子を見ながら少しずつ前進していく方形の後部の側面へと突進した。
 炎の〈火炎放射〉のように、風でいくらか薙ぎ払えれば士気も上がろうものだが、おれにその力はない。その代わり、〈慧羅〉と名付けた鋼鉄の絃の両端につけた鋼の紡錘を横薙ぎに投げて一、二列目の足元を薙ぎ払う。戻ってきた紡錘を手に受け止めて、ヨジャの進言通り身体を大きくしておいてよかったと実感する。腕が長くなり腕力も上がった分、戻ってきた紡錘の勢いも増している。
 右翼からもオウシャの軍が攻めたてはじめる。
 中央からだけではなく、左右からも押されはじめた闇獄軍の陣形は、あっという間に歪んでいく。
 その時だった。
 キーン、と耳を塞ぎたくなるような不愉快な高音が鳴り響いた。
 一瞬、兵たちはみな呆気にとられ静寂が戦場に満ちる。
 その虚を突かれた合間に、闇獄兵たちは傷ついている者も応戦中の者も無表情で糸にでも引っ張られるように隊列を組み直し、せっかくばらばらになった兵士たちがまた一塊の方陣を作り上げていく。
「斬りこめ! 隊列を整えさせるな!」
 叫んで、おれは〈慧羅〉を振り投げる。慧羅は戻りかけた兵士たちの足を捕え、もう片方の紡錘が反対側から兵士たちの首をまとめて薙ぎ倒していく。戻ってきた紡錘を手に馬から飛び降り、敵の中に突っ込みざま紡錘で殴り倒し、後ろから襲いかかる兵士の攻撃を両手で張った鋼鉄の絃で受け止め、流して鳩尾に膝を蹴り入れ、よろけて倒れてきたところで敵の重さも使って絃で首を掻き切る。跳ね飛んで頬にかかった血を手の甲で拭いつつ、次の標的を見定める。
『あんたは結局血が好きなのよ』
 カインの言うとおりに違いない。
 この身体でも、未だ血の臭いに高揚する。
 炎との約束だから剣は持たない。それでも、魔法が無くても剣が無くても、法王としての力を示せるくらいの、殺傷能力の高い武器は必要だと思った。師匠に暗殺術を教え込まれていた時に使った暗器の中から、力はないが遠近において使い勝手がよかった絃と、力でねじ伏せられる打撃用の紡錘とを組み合わせて作ったのが〈慧羅〉だった。残念ながら他の法王のようにこの武器は魔法石からはできていないが、磨いた体術と共に使いこめば、遠近攻守ともに優れた力を発揮してくれる。絃と紡錘を受け止めるために、両手には手のひらに鋼鉄を埋め込んだ皮の手袋をはめている。
 自ら窯に籠ってこの慧羅を仕上げたあと、腕試しに付き合わせたヨジャには物騒な武器だと言われたが、褒め言葉だと思っている。
 思った通り、戦場でこれほど使い勝手のいい武器はない。
 闇獄界の兵士たちは、前線に人の形を為していない魔物が、後方には人の形をした兵士たちが並んでいたから、余計にこの武器は、特にも絃の部分が絶大な効力を発した。
「狂戦士、健在だな」
 呆れたように馬上からヨジャがおれを見下ろしていた。
「うるさい。お前も働け」
「敵将は見つかったか?」
 汗一つかいていないヨジャ・ブランチカは、馬上から槍で向かってきた闇獄兵を一突きして転がす。
「まだだ」
「悠長にしていると、突破されるぞ」
「突破される?」
「炎のいる中央が苦戦している」
「は? どうして?」
 おれの問いに答えず、ヨジャ・ブランチカは馬の腹を蹴り、中央へと炎の援護に向かう。
 その間にも、闇獄軍は隊列が崩れそうになるとあの頭が痛くなる高音が鳴り響き、引きずられるようにして怪我人も誰も彼もが方陣の中に引き込まれていくのだ。
 誰も彼も?
 はっと気がついた。
 いつの間にか、おれが率いていたはずの兵士たちが闇獄軍ではなく火炎軍の兵士と同士討ちをはじめていた。その兵士たちも耳障りな高音が鳴ると闇獄軍の一部として方陣の中に吸収されていく。
 後ろを見ると、炎から借りて組織したはずの火炎軍たちは、その数半分にも満たなくなっていた。
 なぜ――
 再び、耳障りな高音が鳴り響く。
 虚を突かれた火炎軍の兵士たちは、しばし放心した後、意識を乗っ取られたように闇獄軍に迎合していく。
 この高音。
 この高音の出所が分かれば。
 辺りを見回すと、もうほとんどの火炎軍が闇獄軍にひっくりかえっていた。しかも、闇獄軍は火炎軍を盾のように前に整列させている。これでは不用意に慧羅を放てないし、突っ込んでいくこともできない。
 どうすればいい?
 まずはこの耳障りな高音をこれ以上鳴り響かないようにしなければ。
「苦戦してるわね」
 慧羅を手に、どこに攻撃を仕掛けたらよいかわからず立ち往生してしまったおれの頭上から、さっき風に乗せて声を送ってきただけのカインが声が降ってきた。
「風環の国にいたんじゃ……」
 麒麟の姿となった逢綬の上に腰かけたカインは、不機嫌なことこの上なかったが、律儀におれの前まで降りてきて布袋に包まれた細長いもの――おれの横笛を差し出した。
「忘れ物」
「戦場で笛なんか吹いてる場合じゃ……あ……もしかして……?」
 おれは布袋から黄金色の笛を取り出し、唇を当てる。
 適当に奏でた旋律は、一本調子の耳障りな音を掻き乱す。
 気のせいか、闇獄軍も火炎軍も放っていた殺気が緩んだ気がする。
「乗りなさい」
 逢綬に腰かけていたカインが、自分の隣をぽんぽんと叩く。
「いいのか?」
「駄目だったら言わないわよ。さ、早く!」
 カインの声に押されるようにおれは逢綬の上に転がり込み、逢綬はさっとその場を飛び立つ。間髪を入れずにさっきまで呆けていたはずの火炎軍が逢綬のいた場所に殺到していた。
 おれは逢綬の上で座り直し、慧羅は肩に掛けたまま横笛に口を当てる。
 そんなおれの姿を近くで見ていたカインは、頬杖をつきながらけったいなものでも見るような目でおれを見ている。
「どこまで通用するかしらね。法王様ごっこ」
「どこまででも、通用させるしかないだろう。けど、恩に着るよ。加護も、笛のことも」
「私は火炎法王の軍が、あんたがいたずらに将になったがために手痛い損害を受けるのを見ていられなかっただけ」
「うん、ありがとう。十分だ」
 せっかく礼を言っているのに、カインは胡散臭そうにおれを見てくる。
「欲深なくせに、清貧そうなふりしちゃって」
「あはは」
 すべてお見通しであろうカインには、笑ってごまかすしかない。
 一番欲しいものを手に入れるために、おれは今ここにいるんだから。
 そう、できることなら風環法王として風の精霊王と契約を結べたら、これ以上ないくらいありがたい。だけど、それはしないと決めて生きてきたんだ。
 契約のことは、おれから申し出たことも、カインから申し出たこともない。
 なのに、カインと逢綬はおれが風環宮に来た時からそれとなく周りに現れるようになり、いつの間にか宮に住みつくようになってしまった。周りからは早々におれが風の精霊王と契約したと見做されているらしい。あの迷宮がある限り、そんな事実はないのに。
「年齢を引き上げたの、あの人のため?」
 こちらなど見ず、眼下をそれとなく見下ろしながらカインは呟いた。
「……うん」
「その姿、言われたくないかもしれないけれど、誰かが先に言う前に先に言っといてあげる」
「え?」
「キルアスそっくりよ。出陣する前に、ちゃんと鏡見た?」
「……見てない」
 あちゃー、と心の中で呻き声が上がる。
 今朝がた、天幕に入った時の炎の反応。
 見開いた目に浮かんだ驚き。それは、単に子供だった弟が成長したから、だけではなかったのかもしれない、などと思うのは自惚れだろうか。
『いいことを教えてやる、キルアス。炎は、今でもお前のことが好きだよ、キース』
 ヨジャの声までが頭の中で繰り返される。
「顔だけじゃなく、血まみれのその姿まで、ほんとそっくり。嫌になっちゃう。逢綬の大切な毛皮に血がこびりつくから、さっさと笛吹いてあの耳障りな音消して、みんなを正気に戻して勝って帰ってきなさいよ」
 ぶっきらぼうに投げ出された言葉の中に、おれに向けられた優しさを感じて、おれはカインの横顔を見つめる。
「帰っていいの?」
「どうせ法王なんて殺したって死なないんでしょ。あんた、他に行くところもないじゃない。火炎の国に転がり込むってなら別だけど。あんたなんてさっさと振られてぼろ雑巾みたいによれよれになって戻ってくればいいのよ。ほら、早くしてよ。中央軍、突破されるわよ」
 失恋確定と言わんばかりの苛烈な言葉の割に冷静なカインの声に眼下を見下ろすと、確かに炎の率いていたはずの軍がほぼいなくなり、紅い甲冑を身に纏った火炎軍は炎に刃を向けて襲いかかっていた。炎も自軍が相手では下手に手を出せない。
 火炎軍の中で闇獄軍に寝返らされていないのは、炎、宿蓮、オウシャ、そして、ヨジャ。もはや一般兵たちはみな方陣の中に取り込まれていた。
 そして、再び耳障りな音がこの空中まで大気を震わせてくる。
 その音で、オウシャががくりと膝をついた。何かと戦うように頭を抱え、己を抑え込もうと葛藤している。しかし、女だてらに握られた大剣の切っ先は、背中を預け合っていたはずの炎に向けられていく。
「カイン。カインや逢綬はこの音、平気なの?」
「平気じゃないわよ。耳元で蚊が飛んでるみたいで不快よ。でも、そうね。宿蓮もそうでしょうけど、あんなの、私たちが屈するほどのものでもない。あれは、人にしか効かない音よ」
「人にしか……そうか」
 おれが見下ろす先、炎を庇いながら応戦するヨジャ・ブランチカの姿があった。
 あれは、確かに人だったはずの生き物だ。だが、さっきおれと別れた時も、あの音を意にも介さず駆けていった。
 あれはもう、すでに、人ではないものになってしまっていたのだ。
 そんなこと、この年月を経てなお変わらぬ姿を保っている時に気づいていたはずだ。ただ、時の実でももらったのかと思っていた。神界の将でもなく、おれが生まれる前、誰か法王に仕えていたわけでもないはずだが、愛優妃様から、あるいは炎から、もらっていた可能性はあると思っていた。
 二番目の人の女性として生まれながら南方将軍として生きてきたオウシャでさえ、心乱される音なのだ。ならば、疑う余地は十分にある。
 おれは横笛に唇を押し当て、息を吹き込んだ。
 奏でられる旋律は明るいものを目指したつもりだったが、随所に切なさが混じる。それでも、さっきのように雑音でさえも耳障りな高音を乱せたのだ。旋律は次第に耳障りな高音すらも取り込み、風に乗って遍く平原に響き渡っていく。
 やがて、紅い甲冑を身に纏った火炎軍の兵士たちに変化が起きた。操り人形のように意識をのぞかれていたその手足に、表情に意志が戻ってくる。彼らはおそるおそる自らの背後に居並ぶ闇獄兵たちを振り返り、しばしの恐慌の後、彼らに剣を向け始めた。自らの意識を取り戻したのは火炎軍だけではなかった。人の形をした闇獄軍の中にも恐慌に陥り、周りの闇獄兵たちに斬りつけ出す者が現れはじめたのだ。あれは、もしかしたら先にやられた奈月の兵だった者たちかもしれない。
 なおもおれは笛を吹きつづけ、眼下で炎は火力に任せて闇獄兵たちを焼き払っていく。
 そこから先の決着は早かった。
 日が高く昇るころには、闇獄軍は壊滅し、火炎軍は勝利の声をあげていた。
「おまけよ」
 そう言って、カインは勝利を叫ぶ火炎軍全体に治癒の魔法をかける。
「何だ。私が来るまでもなかったね」
 ふと気がつくと、長兄の育兄さんが毛艶のいい狼となった?伽に乗って傍らに浮かんでいた。
「育兄さん」
「相変わらず、お前の笛の音は素晴らしいね。肩に掛かっているその禍々しい物の持ち主とは思えないほどだ」
 血まみれの慧羅をちらりと見ながら、育兄さんは溜息をついた。
 おれは、少しこの人が苦手だ。
 理由は簡単。全ての命の輪廻転生を司るこの育命法王であれば、おれの魂の変遷が歪んでいることくらいお見通しのはずだからだ。それでも何も言わないのが、逆にこちらの猜疑心を掻き立ててくる。味方にもならなそうだが、敵には絶対したくないタイプだ。
 まさに、触らぬ神に祟りなし。
「褒め言葉だと受け取っておきます」
 苦笑して返すと、育兄さんはまだじっとおれのことを見ていた。
「因果なものだな。母上も酷なことをなさる」
「え……?」
「いや、なんでもない。だが、まだ本当の決着はついていないんだろう?」
 育兄さんも、気づいている。
「はい。まだ、将の首を挙げておりません」
 見下ろす視線の先に、炎と勝利を分かち合うヨジャ・ブランチカがいる。
「おーい、風! 早く降りて来い! 帰るぞ!」
 炎が勢いよく手を振っている。
「あ、育兄貴も! 御足労いただき、ありがとうございます!」
 育兄さんは炎の声に小さく頷いただけだった。その代わり、おれに低く囁く。
「分かっているな」
「……はい。僕の手の者ですので、僕が引導を渡します」
 どうしてこんな戦いを仕掛けたかなんかわからない。今まで通り大人しくしていればよかったものを。そうすれば、小さな気がかりも有耶無耶にしてしまえただろうに。
 カインは何も言わずに逢綬の高度を下げさせ、おれを炎たちの前に下ろした。
「ああ、カインと逢綬も来てくれたのか! おかげで助かったよ」
 カインたちに明るく声をかけている炎の横をすり抜けて、おれは慧羅の絃を張ってヨジャ・ブランチカに飛びかかった。
「ヨジャ・ブランチカ!!」
 その長身を蹴り倒し、馬乗りになってヨジャ・ブランチカの首に鋼の絃をあてる。
 背後で炎たちの空気が変わったことを察するが、やめるつもりはない。
「戦いは終わりましたよ。貴方の笛の音で火炎の国の兵士たちはみな正気に返ったというのに、今度は貴方が正気を失いましたか?」
 上下する喉仏が微かに絃に触れるが、ヨジャは構わず喋りつづけた。
「皆さん、驚いていますよ。さあ、私の上から降りてください。初陣でまだ気が立っているのだとしても、もう終わったのです」
「なんでだ! どうしてだ! どうしてお前なんだ!!」
「何を言っているのです」
「どうしてお前が、闇獄軍の将なんだ!!」
 見下ろしたヨジャ・ブランチカは、至近距離から真っ直ぐにおれの視線を受けると、にやりと薄い唇を酷薄そうに歪めた。
 ピィィィィィィン――と、あの耳障りな音が響き渡る。
 すると、倒したはずの闇獄兵たちがずるずると起き上がりはじめた。
「やめろ! やめるんだ、ヨジャ・ブランチカ!!」
「どうして。見たかったのでしょう? この私が、此度の闇獄軍の将である証拠を」
 周りで起き上がりはじめた闇獄兵たちを、火炎軍の兵士たちが歓声を上げながら再び倒しに走り回る。
「お前……本当に、お前が……」
 分かっていたはずなのに、冗談でも本人からそう言われるとどうしたらいいかわからなくなる。言葉を失っている間に、おれは押さえつけていたはずのヨジャ・ブランチカに思い切り頭突きを喰らわされて逃げ出されてしまっていた。
「甘いんだよ、お前は。一度疑った者を、いつまでも信じつづけようとしてどうする。裏切られて傷つくな。裏切った方は、微塵も悪いとは思っていないのだから」
 ヨジャ・ブランチカはおれに剣の切っ先を向けて構える。
 脳震盪に眩暈を起こしながら何とか立ち上がったおれも、慧羅を構える。
「嘘を……嘘を吐くな! お前はヨジャ・ブランチカだ。ヨジャ・ブランチカは、おれの……」
 おれの、何だ。
 おれを殺した男。
 三歳で風環宮に来たおれに、迷宮のあれを見せた男。
 まんまと風環宮の宰相なんぞに納まって、陰に日向に幼い風環法王をそれらしく補佐してきた男。
 主は愛優妃様だと言っていた。
 しかも、炎の愛人。
 友だと思ったことはない。
 遠い周方宮での日、エマンダの毒殺からおれを救ってくれた日があったとしても、あいつはエマンダの犬だった。信じてなるものか。信じて――
「どうして、信じさせてくれなかったんだ」
 ぽつりと零れ落ちたその言葉が、おれの真実だったのだと思う。
「どうして、壊さなきゃならなかった!!」
 このままで良かったじゃないか。たとえ闇獄界に身を落としていようと、何もこんな簡単に正体を露わにするような真似、しなくてもよかったじゃないか。
 しかもおれは、こいつの首に自分の欲望を懸けたんだ。
「簡単だ。お前が大人になったからだよ」
 斬りかかってくるヨジャに、おれは慧羅を投げた。慧羅の絃はヨジャの剣を絡め取り、紡錘の重さでその手から?ぎ取る。丸腰になったその手には、今度は禍々しさを湛えた二本の鎖鎌が現れていた。
「我は〈猜疑〉の闇獄主、ヨジャ・ブランチカ。風環法王、お手合わせ願う」
 飛んできた鎖鎌は凶悪なことこの上なかった。
 おれは剣に巻きついていた慧羅を回収しながら、左右から挟み込むように飛んできた鎖鎌から身をかわす。
「お前、獲物まで似てるとはどういうことだ!」
「おれの方が先だ。お前がそれを作ってるのを見て、こっちが嫌な気分になった」
「ほざけ。先って、いつからだ! いつからお前は……」
 投げた慧羅を掴まれ、ヨジャに引き寄せられる。その耳元に、ヨジャは囁く。
「お前の母親が死んだ後からだよ」
 あの平原で。
 レフェトを出て間もないあの何もない平原で。
「リセ様を助けようとして、おれも斬られた」
 ヨジャの黒い瞳が信じてくれと言わんばかりに見つめてくる。
「嘘だ! じゃあどうしてお前は生きている!?」
 母上は……母上はどこだ!
 そう叫びたい言葉まではどうにか飲みこむ。
「〈猜疑〉の獄炎を呑みこむことに成功したからだよ。俺は誰も信じてはいない。そう、誰も」
「何のためにそんなことを……」
「生きたかったからさ。お前もそうだろう? キルアス」
 炎の前で昔の名を囁かれて、おれは身体中の血が沸騰していく。
 おれは力に任せて手を掴むヨジャの腕を捻り、足元を蹴り薙いで体勢を傾かせたところで投げ落とす。すかさずヨジャはおれの足首を握って転倒させ、自分は跳ね起きておれの上に馬乗りになるが、おれはその腹を蹴り上げてひっくり返す。
 お互いに主導権を握ろうとするが、なかなかうまくいかない。しかし、何度か取っ組み合いながらうまく慧羅の近くに転がったおれは、再び慧羅に手をのばして引き寄せた。その隙にヨジャは鎖鎌に手を伸ばし、おれの渾身の一撃を二枚重ねた鎖鎌で相殺し、跳ね返したその刃で慧羅の鋼鉄の絃まで切断した。その勢いで多少仰け反ってがら空きになった懐に、おれは風にそよぎかけた慧羅の絃の端を咥えて飛び込み、鋼鉄の絃をヨジャ・ブランチカの首元に押し当てる。
 柔らかく肉に潜っていく感触の後、派手に血が噴きだした。
「っ!!」
 ヨジャ・ブランチカは至近距離から血走った白目をぎょろつかせながらおれを睨みつけ、長い足でおれを蹴り飛ばした。おれは数メートル飛ばされて、受け身はとったものの一、二度大地に打ちつけられる。すぐに体勢を整えて立ち上がり、ヨジャ・ブランチカと対峙するも、ヨジャ・ブランチカの喉元からは手で押さえているにもかかわらず激しい血飛沫が噴きだしつづけ、立っていることも覚束ないのか二、三歩ふらついた後、がくりと大地に膝をついた。
 思わず、おれは駆け寄る。
「ヨジャ!!」
「……馬鹿か」
 空気の漏れる音ともに、ヨジャ・ブランチカはおれを呆れたように見た後、雲一つない碧空を見上げて呟いた。
「ああ、子供のお守りも楽じゃない」
「なっ、それってどういう……!」
「信じるな。疑え。己が身を守りたければ、疑いつづけろ」
 困惑するおれを一目見てにやりと笑ったヨジャの身体は、手足の先から瘴気に包まれ霧散していく。
 消える。消えてしまう。
 身体さえ残さずに?
「あ……嫌だ。逝くな。逝くな、ヨジャ・ブランチカ!!」
 深く息を吐き出していたヨジャ・ブランチカはすでにおれなど見ていなかった。その視線の先にいたのは、炎。
「火炎法王。お慕い、申しあげておりました。私は……貴女の願いを叶えて、差し上げたかった……」
 その一言に弾かれたように炎は飛んでくる。しかし、その炎の手に触れることなく、ヨジャ・ブランチカの身体は瘴気に呑みこまれ、その瘴気すらも消え去っていった。
 上空では全てを見届けた育兄さんが言葉もなく東の空へと帰っていく。
 炎は、茫然としたままヨジャが消えた大地を見下ろしていた。
 ヨジャの名を呼ぶでもなく、啜り泣くわけでもない。だけど、火炎法王という立場と炎という私人の立場の間で揺れ動いているのがおれにはよく分かった。
 そんな少女のような顔で悲しまないでほしい。
 ヨジャなんかに、そんなに心を傾けないでほしい。
 ヨジャに伸ばしかけた炎のその手に触れたくても、今のおれにはその資格さえない。
 将の首は挙げたが、一生、もう二度とこの手に触れさせてもらえることはないかもしれない。
「風環法王、お見事です。よくやりました」
 場の空気を建て直したのは、冷静な宿蓮の声だった。
 炎ははっとしたように我に返り、顔を上げる。
「そう、だな。よくやった、風」
 たどたどしく乾いた声で上辺ばかりで誉めて、その実、炎の言葉は虚ろだった。ぽっかりと空いてしまった心の穴にまだ対処できていないようだった。
 それでも、彼女は己を奮い立たせ、拳を握り、立ち上がる。
 周りでは、一度は立ち上がりかけた闇獄兵も、ヨジャがいなくなって再び大地に臥せっていた。
「喜べ、我が軍の勝利だ!」
 炎の言葉に、今度こそ悦びの歓声が沸き上がる。
 それを、炎はどこか別の世界のことのように眺めていた。
 おれはかける言葉も見つけられず、炎から離れようと背を向ける。
「風」
 低く、感情のこもらない炎の声がおれの名を呼ぶ。
 無言でおれは振り向いた。
「遺体を荼毘に付す。付き合ってくれるか」
「――はい」
 動くことのできる火炎軍の兵士たちは、上官の命令で戦場に散らばる遺体をひとところに集めてくる。闇獄軍だった魔物も人の形をしたものも、遺品を回収された火炎軍の兵士たちも、共にひとところに集められ、隙間なく丁寧に並べられていく。
「ここでは暑すぎるから、全員、その姿のまま家族の元に帰してやることはできないんだ」
 並べ終えられた遺体を見回し、炎は呟くように言う。
 遺体は損傷が激しく誰のものかわからないものから、綺麗に眠っているだけのように見えるものまである。綺麗なものは帰そうと思えば帰せるのかもしれないが、彼女の言う通り、この暑さではすぐに遺体は崩れ、伝染病の温床となりかねない。それに、これはこれで、裁きの女神である彼女らしい公平さの表れともいえる。
『古から絶えることなく燃えつづける聖なる炎よ
 ここに傷つき倒れ 永久の眠りにつきし者あり
 その聖らかなる炎をもって
 二度と 眠り妨げられることなきよう
 かの者たちの亡骸を浄め焼き尽くし
 その身を天に帰せしめよ』
「〈浄火〉」
 ごうっと高熱の風が吹き上げ、冷徹なほどに青い炎が天を衝く。
 視界に納まらないほどの数多の遺体が、一瞬にして灰一つ残さずに消えていた。
 後に残るのは真っ黒に灼き焦げた大地と燻る臭いだけ。
「カイン」
 傍らのカインに目を向けると、カインは小さく頷き風を起こした。
 涼やかな風が灼き焦げた大地の臭いを祓い浄め、霧散させていく。
「帰るぞ」
 炎の一言で、おれたちはオルチャの本陣へと戻った。
 本陣ではオルチャの民や奈月から逃げてきた民たちが祝勝会の準備をしてくれており、炎からの勝利宣言と労いの後、あっという間に野営地は酒と音楽と美味い食べ物で、疲れも忘れて兵士たちが羽目を外しはじめた。
 カインと逢綬は炎の言葉を聞いた後、ほとんど料理や飲み物に手を付けないまま一足早く風環の国に帰っていった。
 ヨジャ・ブランチカはもう戻らない。早々に宰相の後任を選ばなければならないから、と。
 おれは風環の国に帰るのに、一晩だけ猶予をもらった。
 カインにしては、珍しく小言も嫌味もなく「そうね」と言っただけだった。
 カインと逢綬を見送って祝勝会の会場に戻ると、早々に炎の姿は見当たらなくなっていた。こういう席では飲めや歌えやと朝まで付き合うのが火炎法王だと聞いていたのだが、今日はそんな気にはなれないのだろう。
 それはそうだ。
 愛人が弟に殺されたのだから。
 喧騒が続く宴会用の天幕を出て、おれは炎の天幕へと向かう。
 夜空は、今朝がた見たような死にかけの藍ではなく、満天の星々と共に青く輝いていた。
 炎の天幕の周りには誰もいなかった。
 宿蓮さえも、今は炎のことをそっとしておいてやっているに違いない。
 炎の元を訪ねてどうするのかと、おれはまだ自分でも心を決めかねていた。
 将の首を挙げて、堂々と望みのものを願い出るつもりだった。
 しかし、今となっては、炎のことを考えると強引に押し通す術はない。
「姉さん」
 中にいるかもわからないまま、おれは厚く幾重にも重ねられた革幕の入口の前で声をかけた。
「姉さん、いる?」
 返事はない。
 少し迷った末、おれは幕を持ち上げ、中に入った。
 迷路のように重ねられた革幕を何度も持ち上げ、ようやく蝋燭一本だけの灯りに照らし出された炎の部屋に辿りつく。
 しつらえられたテーブルには、二つのワイングラス。
 ともに赤いワインがなみなみと注がれている。
 その二つのワイングラスを、長椅子にもたれて座る炎は表情の抜け落ちた顔でぼんやりと見つめていた。
「炎姉さん」
 おれの呼びかけに、ゆっくりと顔を上げ、一目おれの顔を見て視線を逸らす。
「出ていけ」
 至極当然の言葉だと思った。
 でも、おれは炎の向かい側の椅子に座る。
「その席に座るな。今、お前の顔は見たくない」
 炎は、頑なにワイングラスの紅い水平線を眺めている。
 その目は、まだ泣き腫らしてもいなければ、涙すら流してはいなかった。
「泣かないの?」
 ワイングラスを見つめる炎の目が、一瞬揺れる。
「泣いてどうする。ヨジャが還ってくるのか?」
「還ってくるなら泣くの?」
「……泣いたって、誰も還っては来なかった。泣いて人が還ってくるのなら、いくらでも泣いてやる」
 魂が抜けたようでいて、張りつめていくその表情は、ヨジャだけではなくもっと昔に失った大切な者のことにまで思いを馳せているようだった。
 ヨジャが言っていた、炎が失った大切な二つのもの、か。
 その一つはここにいるかもしれないのに。
 いっそ告げてみようか?
 キースだと。
 そうしたら彼女は、またおれを見てくれるだろうか。
 それなのに、口からはキースの思いとは裏腹な言葉が流れていた。
「泣けばいいよ。自分のために。誰も還ってこなくても、泣けばいい。いつまでも悲しみを引きずっていたって、それこそ誰も還ってこない」
 炎は、はじめて強い怨念を込めておれを睨みつけた。
 ああ、それが君の本心。
「謝らないよ、僕は」
 心の声を代弁する紅蓮の瞳を受け止めて、おれは言い返す。
 しばらく睨みあい、やがて炎の方が先に目を閉じた。
「知っていた、と言ったら、どうする?」
 ワイングラスに手を伸ばし、炎は軽くクラスを指で弾いた。
 質のいいガラスを使っているのだろう。玲瓏な音色がすっと部屋の空気を切っていく。
「ヨジャが、闇獄主であることを?」
 問い返すと、炎は小さく頷いた。
「だから今朝、言い淀んだのか」
「……お前はいつから気づいていた?」
「上空で笛を吹こうとした時に。あの耳障りな高音は、人にしか効かないものだとカインが教えてくれた。南方将軍であるオウシャですら正気を保てなかったというのに、ただの人であるヨジャ・ブランチカは飄々と闇獄兵を屠っていた」
「そうか。なら、あいつも自らとち狂ったふりでもすればよかったのだな」
 ワイングラスを弾き飽きた炎は、今度はグラスの柄に指をかけ、今度は紅い水面を弄びはじめる。
「ヨジャが叶えようとした姉さんの願いって、何だったの?」
 とろりとろりと揺らぐワインの水面の動きが鈍くなる。
「あたしは……」
 赤い水面を見つめ、炎は呟く。
 多分おれは、風になってから初めて炎が「オレ」ではなく「あたし」と言ったところを聞いたのだと思う。
 炎は何度か口を開こうとしたものの、それよりも早く、目から涙が零れ落ちてきた。
「あたしのせいだ……あたしが、馬鹿なことを言ったから……」
 今までため込んでいた分、ぼろぼろと炎の目から涙が溢れだす。
 おれは椅子から立って炎の長椅子に移り、炎の目元に手を伸ばした。
「触るな!」
 ぴしゃりと手を払われて、おれは熱く痛む手と炎とを見比べる。
「もういい、出ていけ。早く!」
「いやだ」
 おれの明確な拒否に、炎がおれを睨みつける。
「炎を泣かせたままにはしておけない」
 両手で炎の顔を挟みこみ、親指で目元の涙を拭う。
「お前……」
 炎は驚いていた。
 それはそうだろう。おれはまだ、炎の弟なのだから。
「やめろ。放せ!」
 炎はおれの手を振りほどき、両肩を突っぱねた。
 おれは少し肩をのけぞらせただけだった。
「姉さんの望み、おれでは叶えられない?」
 自分の手の甲で涙を拭っていた炎は、また驚きの表情でおれを見るが、すぐに顔を背ける。
「お前では無理だ」
「ヨジャが闇獄主だったから、叶えられたかもしれない願いだったの?」
「……そうだ」
「闇獄界に、行きたかったとか?」
 冗談のつもりで言ったのに、炎はまた張りつめた目でおれを見つめ、はらはらと涙を零した。
「人界でも、闇獄界でもどちらでもよかった。あたしは……あの火炎宮から連れ出してもらえるのなら、どこでも、よかった……」
 そこにいたのは、ホアレン湖で共に暮らしたエンだった。
 法王の重責に傷つき、逃れたいともがくエンだった。
 おれは、涙に濡れた炎の手を掬い上げ、その甲に口づける。
 濡れた甲は、塩辛くも甘かった。
 ゆっくりと顔を上げると、炎は唇を噛みしめておれを拒絶しようとしていた。
「あまりオレを……甘やかすな」
「どうして?」
「お前など、……嫌いだからだ!」
「うん。ヨジャのことは、好きだった?」
 返事はない。
 これは相当好きだったのだろうと思ったのだが、炎は唇をかみしめたまま俯いてしまった。
「オレは、あいつに何一つ応えてやらなかった。あいつが甘やかすから、あたしはつけあがって、望むだけ望んで、キス一つ……返してやらなかった」
 言い募ると、炎は深くため息をついた。
「これは懺悔だ。あいつの心がどこにあったのか、オレにも分からない。ただ、あいつは……兄よりも兄らしく、オレを甘やかしてくれたよ」
 ふと、思ったのだ。
 ヨジャが炎に近づいた理由は何だったのか、と。
 キルアスを殺す前後あたりから火炎の国にいたと言っていた。おれを殺すときなど、いかにも、火炎の国の傭兵のような出で立ちで現れ、剣を差し出した。
 ヨジャは、おれのために炎に近づいたのではないか、などというのは考えすぎか?
 キースを失って途方に暮れたであろう炎を支えたのはヨジャだったのだと、思うのはあながち間違ってはいないと思う。
 慕っていたと、最期にヨジャは炎に言っていた。
 どこか演技のようだと思わなくもなかったのは、普段あいつが人前でそんなことを言うような奴ではないから。たとえ最期の瞬間だとしても、本音は胸に秘したまま逝くようなタイプだと思っていたから。
 思えば、夜明け前からあいつはおれを久方ぶりにキルアスと呼んだり、炎のことを託すように話したり、身体の成長を促したり――おかしかったのだ。
「あいつは……望んでいなかったかもしれない。炎が幸せなら、それでいいと思っていたのかもしれない」
「そんなのは……欺瞞だ。救われたいがための言い訳だ」
「そうかもしれない。だけど……」
 おれはそっと炎を抱き寄せた。
「逃げ出せない籠の中の鳥は、籠の中で精いっぱい生きるしかないんだよ」
 呆気にとられている炎の顎に手を添え、唇を重ねる。
 柔らかな感触と甘やかな香りは、昔の少女の時のまま。
 キスの間、目を開けたままだった炎は、おれが唇を離すと静かに見つめ返してきた。
「そう言えばお前、敵将の首を挙げたら欲しいものがあると言っていたな」
「ええ」
「それが、これか」
 静かに、噛みしめるように、探るように、見極めるように。
 炎は、おれを見つめる。
「はい」
 おれは、物怖じすることなく答えた。
「お前は、何なんだ。母上の腹の中で、十月十日経っても生まれず、ようやく生まれたと思っても、何とも可愛げのない子供だった」
「ひどいな。これでも精一杯子供をやってきたのに」
「それが、可愛げがないと言うんだ。皆が皆、うまく騙されているとでも思っているのか?」
「姉さんには結構可愛がってもらっていたと思ってたんだけど」
「そういう風に人をくったところが、お前には昔からあった。上手に隠していたつもりかもしれないが」
「ねぇ、お説教は聞きたくないんだけど」
 額を押し当てる。
 炎の方が、少し熱い気がした。
「嫌なら、拒んで」
 鼻の頭が触れ、唇を啄む。
 拒まれないのをいいことに、更に口の中に舌を忍ばせる。積極的に応えてくれるわけではないが、突き飛ばされたりはしなかった。
 キースがいなくなった後、噂に名高い火炎法王は火炎宮に後宮まで作り、あちこちの男に手を出していたという。これくらい、慣れているのかもしれない。
 表情一つ変えずに見下ろしてくる炎の表情を確かめながら、頤に唇を滑らせ、首筋を辿る。幾連にもかけられた派手で大振りなネックレスを飛び越えて、滑らかな胸元へ。
 はたと、気がついた。
 他の派手なネックレスに隠されるようにして、胸の合間にまで届く一本の細いチェーンが紛れ込んでいることに。
 気づかぬふりをして胸を覆うチューブトップを外すと、豊満な胸の合間には細いチェーンに通された白銀色の指輪が二つ現れた。
「どうした」
 動きを止めたおれに、炎は静かに問う。
「これは……」
「皆、それを見て手を止める。だが、オレは外す気はない」
 勝ち誇ったように炎は嗤った。
 歪んでいる、と思った。
 後宮に何人もの男を引きこんでおいて、これを見せびらかしていたのか。
 馬鹿な女だと、思った。
 こんなものにいつまでも縛られて。
 作らなきゃよかった。
 こんなもの。
 遺してこなければ、よかった。
 炎の心の声が聞こえるようだ。
 オレは誰のものにもならないのだ、と。
 キース、お前のもの以外、誰の妻にもなるつもりはないのだ、と。
 そういうことか、なあ、炎?
 おれは、胸の合間に輝く指輪に口づけた。
「な……にをする……」
 勝ち誇っていたはずの炎の表情が歪む。
 それはそうだ。
 絶対不可侵のお守りに、キース以外の男が触れたのだから。
 望めないと分かっていても、召された男たちは火炎法王に愛されたいと願ったに違いない。一番に愛されたいと。しかし、その野心が強ければ強いほど、この指輪を見せつけられた時の失望感は大きかったはずだ。
 ヨジャの言う通りだ。
 炎は未だにキースのことが好きなのだ、と。
 指輪を手に取り、内側の文字を確認する。
 一つは“K→E”。もう一つは“E→K”。
 間違いない。おれが炎と交換するために作った指輪だ。
 渡す前に殺されたというのに、どうして炎がこれを持っているのか。
「ヨジャか」
 思わず呟いた言葉に炎が反応する。
「どうして……」
 おれは問いには答えず、キースが炎のために作った指輪を片方ずつ口に含んでみせた。
「長かっただろう? 誰も愛せなかったんじゃないのか?」
 もう一度頭を抱き寄せて囁くおれに、炎は何も言わない。
「もう、いい。待たなくていい。もう、悲しまなくていい。約束するよ。おれは君より早く逝ったりはしない」
「馬鹿な」
「炎、許して。おれは君を傷つけてばかりだ」
 返事など、聞きたくはない。
 唇を塞ぎ、もう一度丹念に口づける。
「お前は、狡い」
 唇を離した間隙を縫って、炎が不満と不安を口にする。
「こんなこと、許されるはずがない」
「そうだね」
「ならば、もう……」
 炎は、またぼろぼろと涙をこぼしだした。
 おれはその涙を丁寧に吸い取っていく。
「やめない。君が本当に拒むまで、やめない」
 おれの胸を押し戻そうとしていた炎の手から力が抜けていった。
「先は永いぞ。一度会えなくなったら、それまでだ」
「知ってる」
「もう二度と会えなくなっても……」
「炎は、二と度おれと会えなくなったら、嫌?」
 見つめ合い、また炎は視線を逸らす。
「いや、だ」
 小さく消え入るような声で、炎は言った。
「だってお前は弟で、オレがずっと後見を務めてきた弟で……どうして、お前なんだ」
「夢を見たんだ。女神におれはその夢を叶えてくれと願い、女神はそれを叶えた」
「何を引き替えにした?」
 もし、おれの言う女神が比喩ではなく、愛優妃のことだと炎が気づいていたのなら、きっと炎も何かを引き替えに望みを叶えられたのだろう。
 例えば、傷つき絶命寸前の重傷を負ってホアレン湖に流れ着いてくるような。
「うーん、いろいろ。時間も制約も多かったけれど、ようやくここまで来た」
 耳たぶを甘噛みしながら、とぼけた調子でおれは答える。
 返事はない。
 だから、おれは彼女の肩を抱きしめて、長らく言えずにいたことを耳元に囁いた。
「逢いたかった、エン。ずっと君に、逢いたかった」
 炎の肩が震える。
「キスをして」
 やがて、静かに命じられるがままに、おれは炎にキスをした。
「こう?」
「うん」
 二度、三度キスを重ねて、長椅子に押し倒す。
 炎の潤んだ紅蓮の瞳が真っ直ぐにおれを見上げていた。
 そこに映るおれの姿は、十七歳のキースそのものだった。
 彼女をホアレン湖で拾ったときよりも、五歳ほど若い。
『母上も酷なことをする』
 育兄さんの言う通りだ。
 これじゃあ炎は、逃れられない。
 十五歳の姿の時でも、薄々似ていると思われていたかもしれない。幼さのせいにして、見なかったことにされてきたのかもしれない。
 まあ、もうそんなことはどうでもいいのだけれど。
 覚悟を決めた炎の腕が、おれの背中にしがみついてきた。
「風」
 そして彼女は、けしておれをキースとは呼ばなかった。