聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第3章 ミノタウロスの迷宮

6(宏希)
 真っ暗な湿った黴臭い空間。
 この臭いには覚えがあった。
 あまり好きな臭いじゃない。否が応でも、一番嫌いな場所を思い出すから。
 黴臭い洞窟なんて、いくらでもこの世には存在しているだろう。でも、ここはそれだけじゃない。ただ暗いだけじゃなく、吸い寄せられた瘴気が集まる場所だ。
 工藤が開いた扉で人界から送り込まれて早々に黒い靄が手や体に巻きつきはじめている。
 本来ならば、吸い寄せられてきた瘴気はこのごつごつした壁や天井に吸収され、中央の部屋で浄化されてまた世界に戻されているはずだった。が、上で回っているはずの風車の重低音が響いてきていない。壁や天井に即座に吸い込まれていくはずの瘴気が実体を伴ってしまっている。
 明らかにこの場所には異変が起きている。
 それにしても、どうしてこんなところに。
 ヨジャ・ブランチカや科野たちが、本当にこんなところにいるのか?
 それとも、工藤の罠か。
 スマホの灯りを手にした夏城や守景弟たちが辺りを見回して首を傾げている。
「ここ、どこでしょうね」
「どこかの洞窟だろうが、こう暗いと見当もつかないな」
 それはそうだろう。彼らはこれの存在を知らない。分かるはずがない。
 おれはちらりと茉莉の方を見る。
 茉莉も辺りを見回してはいたが、その表情は厳しい。
「宏希」
 やがて茉莉に名を呼ばれて、おれは冷や汗混じりに唾を飲み込む。
「ここ、どこ?」
 至極当然のように問われて、おれはむしろ拍子抜けする。同じ疑問を持った夏城と守景弟も茉莉とともにおれを見ている。
 さあ、どうする?
 正直に答えるか?
 それとも、はぐらかすか。
 茉莉は本当に分かっていないんだろうか。分かっていて、わざと知らないふりをして聞いてきているのか。
 もし分かっていて聞いてきているのなら、わざと違うことを言えば怪しまれるだろう。ますます信頼を失うかもしれない。はぐらかすなら、おれも知らないふりをするのが一番いい。
 だけど、本当に何故、こんなところに出てしまったんだろう。
 何の用があってヨジャ・ブランチカはこんなところに科野を連れてきたのだろう。しかもあんな怪我を負わせておいて、ここでは満足に治療もできない。
「宏希」
「ああ、ごめん。ここは……心当たりはあるけど、こう暗くて狭いとまだ確信が持てないんだ」
「河山が心当たりがあるっていうなら、風環の国ってことでいいのか?」
「うん、そうだね。そうだと思う」
 嘘は、ついていない。風車の回る音がしていない。それだけで確信するための要素は一つなくなる。
「おれの予想が正しければ、ここは迷路になっている。中央には部屋が一つあって、もし、科野たちがいるとしたらそこだと思う」
 そう、できれば夏城や守景弟には辿りついてほしくない場所だ。科野にだって……科野だからこそ、一番見られたくない場所だ。できることならその部屋に辿りつく前に科野達と合流していち早く迷路を戻って外に出たい。
 この場所のことを知っているのは、統仲王と愛優妃以外には、風環法王と闇獄界に出征する前に血晶石を託していった当時の風環の国の宰相職の系譜の者、それから、ヨジャ・ブランチカだけだ。しかも、この中で実際に中に入ったことがあるのは、おそらくヨジャ・ブランチカだけ。
 風環の国は、表向きは広大な平野を生かした小麦や果物の生産地で、神界の食糧庫などと呼ばれていた。でも、統仲王と愛優妃から本当に命じられた役割は、神界と人界に滞留した瘴気を集め、浄化して大気を循環させること。
 それは、他の七人の兄妹でも公には知らないこと。長兄の育兄さん辺りは知っていたかもしれないし、天宮で政務にあたるマルナートあたりならそういうものがあるくらい聞いていたかもしれないが、清浄な世界を謳い、闇獄界を敵視しているからには、大っぴらにはできない施設ではある。
「迷路? あ、わかった。迷路って、片手を壁について進めば迷わない言いますよね。じゃ、さっそく進みましょう」
 守景弟はあっけらかんと壁に片手をつける。
「その壁、こういう暗いところに生息する虫とかも結構へばりついていたりするから気を付けて」
「え? うっ、ぎゃぁぁぁっ」
 言った側から何かに触れてしまったらしい。
 守景弟は飛び上がって手をはたいている。
 言わんこっちゃない。
「それ以外に、どうやって進めばいい? 場所の見当がついているのなら、進み方も分かっているんだろう?」
 さすが、どこでも冷静な夏城は違う。
「一つは風車が回る重低音が大きくなっていく方向に進む。もう一つは、瘴気が薄くなっていく方に進む」
「風車って、あの風環宮の裏山に三機建ってた大きなやつ?」
 虫を払い終えた守景弟が変わらない明るさで間に入ってくる。
 おれは目を逸らしながら小さく頷く。
「ということは、ここはその裏山の地下ということか」
 それ以上はあまり問い詰めてほしくないんだけど、仕方なくおれはまた小さく頷く。
「多分」
「宏希、あんたさっきから多分とか、そうだと思うとか、ほんっと、煮え切らない男ね! ほんとは確信してるんでしょ? 今更知らないふりしようったって、意味なんかないわよ。あんた、葵先輩たちの命とこの迷路の機密事項と、どっちが大切なのよ」
 ばしっと茉莉に背中をはたかれて、おれは思わず咳き込む。
「どっちって……」
 考え込んでしまったおれに、三人の冷たい視線が注がれる。
「科野達の命の方が大切だよ、勿論」
 言ってはみたものの、自分でもなんだか言葉が薄っぺらい。
「この迷路の進み方だけど、さっき言った二つのうち、風車の重低音は今は使えないみたいだ。風車が回っている音がしていない」
 取り繕うように、おれは当たりの瘴気の濃度を見ながら歩き出す。
「そうなれば、もう一つの方法は瘴気の薄くなっていく方へ歩いていくこと。ただ、これもどうやらいつもよりも瘴気が濃いみたいだし、風車が動いていないなら遅かれ早かれここは瘴気が充満して薄いも濃いもなくなるだろう」
「天気予報みたいなこと言ってる場合じゃないでしょ。それじゃあ結局迷っちゃうじゃない」
「うん、だからあとは勘で進む」
 笑顔で提案してみたが、これまた三人からの冷たい視線を浴びた。
「ほんっとに役に立たないわね」
「おれ、河山さん見る目変わりそう」
 茉莉と守景弟が容赦ない言葉をかけてくるが、夏城に至っては最早ノーコメントだ。
 ここでなんだかんだ言い争っていても仕方がない。割り切っておれは第三の選択肢、勘に任せて歩き出す。と言っても、方向的には瘴気が薄くなっている方へ、だ。
 この第三の選択肢の勘は、実は多分きっとおそらく、一番正しく早い道順を導いてくれる。本当のところ、この迷宮を進むにあたっておれには案内など必要ない。迷路がすべて頭に入っているからではなくて、何か特別な目印が見えるわけでもないが、ただ、引き合うのだ。
 それに任せて進めばいい。
 引き合う力は、風環法王の時に何度かここを訪れた時と変わらない強さでおれに道を示していた。
 迷いなく歩き出したおれの後に続いて、茉莉と守景弟とがやけに意気投合しながらついてくる。夏城も無言でついてくる。
「河山さん、さっきの話の続きですけど」
 そのまま忘れていていいのに、守景弟が気を利かせて話の穂を継いできた。
「風環宮の裏の三機の大きな風車。あれって、風環の国らしい象徴みたいなものだと思っていたんですが、地下にこういう迷宮があるってことは、ただの象徴じゃなかったっていうことですよね。一体ここは何なんですか」
 まあ、何も知らなければ至極当然の疑問だ。
「神界と人界の空気清浄器、とでもいえばいいのかな。闇獄界が侵攻してきたり、時空の歪から漏れだした瘴気をこの迷宮に吸い寄せて、浄化してまた外に循環させている」
「それって、けっこう大がかりなシステムじゃないですか」
「そうだね」
「浄化って、常時魔法を使ってる状態ってことですか?」
 守景弟、西方将軍だっただけあって、聞いてくることが的確過ぎて嫌になる。
「そうだね。そんなような、ちょっと違うような」
 そうだねとだけ言っておけばいいのに、うっかりこの先のことを考えていたら余計なことまで口走っていた。
「違う?」
 こういう時ばかり目敏い夏城が本当に憎い。
「いや、違わないか。うん、違わない。ごめんごめん」
「どっちなんですか!」
 笑いながらも明らかに苛立ちながら守景弟がつっこんでくる。
 本当、工藤め、どうしてこんな中途半端な場所に扉を開いたんだ。
 どうせなら科野達がいるところに直接開いてくれればいい、もの、を……いや、いっそどこかで巻いてしまおうか。工藤だってその猶予を与えるために、こんな中途半端なところにおれたちを届けたんじゃないのか? 茉莉は仕方ないとしても、守景弟と夏城は明らかに余計だ。ああ、でも、科野達をあのヨジャ・ブランチカから助け出さなければならないというのなら、おれ一人の力では明らかに足りない。科野だけならまだしも、守景と草鈴寺もいるというのなら、なおさら。
「宏希、あんたの周り、さっきからだんだん真っ黒になってきてるけど?」
 茉莉に指摘されて、おれは纏わりついてきている瘴気を手で払った。
「そう言う茉莉だって、結構真っ黒くなってきているじゃないか」
 どろどろと茉莉の周りには液状化しかけた瘴気が渦巻いている。
 おれの瘴気が濃くなったというよりは、茉莉の周りの瘴気が濃くなっておれの方まで濃く見えているんじゃないだろうか。
「そんな、これはわたしのじゃないわ」
 珍しく茉莉の声に焦りが滲む。
 様子がおかしい。そう思った直後だった、歩いていた茉莉の足は止まり、急にお腹のあたりを押さえて身体を二つに折り曲げ呻きだした。
「茉莉!?」
「河山、浄化だ! 早く!」
 夏城に促されるが、おれはこんな時なのにどこかで躊躇していた。おれに魔法が使えるのか? 駅では、おれにも途方もない疲労感はあったけど、結局守景の力があったから〈浄化〉がうまくいったに違いないのだ。
 そうこうしているうちに、茉莉は口から黒い大きな塊を吐きだした。それは一頭の狐のような形を為して、おれ達に対峙する。
「茉莉、ごめん」
 何がごめんなのかは言わないまま、おれは〈浄化〉の呪文を唱える。
『清廉なる風の精霊よ
 悪意で満たされし この地の大気を
 その息吹もて 吹き浄めよ』
「〈浄化〉」
 風が茉莉の周りを取り巻き、更に寄り集まってきた瘴気を溶かしていく。
 駅の時よりも微弱な力だ。だが、風の精霊たちは確実に茉莉を元気づけ、耳元に何事かを囁いている。
 茉莉はそれを歯を食いしばって聞いていた。
「情けない」
 茉莉のどすの利いたその声を聞いて、おれはさらに思ったのだ。科野だけじゃない、茉莉こそ、あの部屋に入れてはいけない、と。
 おれと茉莉の後ろでは、すばしっこい狐型の魔物を相手に夏城と守景弟が得意の獲物で戦っていた。時に夏城の蒼龍が淡青色の稲妻を散らし、守景弟の白虎が力に物を言わせて斬りかかる。
 その様子を見て、茉莉はもう一度呟いた。
「情けない」
 と。
 茉莉は、知らないのだ。おれがキースだった時以上に魔力が弱くなっていることに。
 風環法王の身体だった時はまだもう少しましだったかもしれない。魔法を使う場所も神界の範囲内がほとんどだったから。だから闇獄界に行った途端にさっさと殺されてしまったんだけど。まあ、それは置いておくとして、風環法王は、実践の際はキースの時に培った暗器と体術を駆使して何とかそれなりに強く見えるように戦っていた。が、今のおれに至ってはただの人だ。テニス部でいくらか身体は鍛えていると言っても、到底風環法王のような鍛え上げられた肉体ではないし、暗器なんて現代日本で一介の高校生が扱いを練習できるような場所はない。たとえ風やキースの時の感覚を思い出したところで、風の時ほどそれを身体に馴染ませる時間はない。
 そう考えると、ばんばん蒼龍や白虎を使いこなしている夏城や守景弟は、一体何に基づいて動けているのか知りたいところだが、聞いたところで本人たちも分かるわけじゃないだろう。
 駅でヨジャと対峙した時は、茉莉が側にいた。それもあって、おれは〈浄化〉や〈結界〉を使うことができたんだと思う。
 そんな実績があって、今もまた同じ条件だったというのに、おれは躊躇した。
 それは、茉莉が瘴気に冒されてしまっていたから。でも、それも駅の時と同じだ。
「あんたはわたしのことを信じていないのね」
 茉莉はおれを睨みつけて言った。
 その通りだと思った。
 契約も不完全で、しかもずっと嫌われてきたのだ。嫌われるようなことをした自覚もある。宏希になってからだって、人生の半分以上、茉莉はおれをずっと毛嫌いしていた。
「信じていないのはそっちも同じなんじゃないのか?」
 瘴気にあてられてあんな凶暴な狐の魔物なんか生み出して。
 その原因が何か、聞くまでもない。
 おれへの不信感。
 扉を潜ってもなお、茉莉は葛藤していたに違いない。
 本当におれに力を貸してもいいものか。
 また、いいように使い倒されて終わるんじゃないか。
 本当に、おれのことを信用していいのか、と。
 問い返した瞬間、おれの周りにも色濃い瘴気が突風とともに纏わりついてきた。
 その瘴気は、べたべたとしたいくつもの生暖かい手でおれの身体を撫でまわし、不快感を与えながら囁いていく。
『信じても、また傷つくだけよ』
 と。
 信じてもらえないことは分かっている。だけど、信じてほしいがために手を差し出して、その手を蔑ろにされたら――誠心誠意と言っておきながら、心に受ける傷を思うと、勇気は出ない。
『契約は、中央の部屋に辿りついてしまってからでもいいじゃない。今ここで契約を成立させてしまったら、あれを見た後の彼女は、絶対に貴方のことを拒む。後悔に苛まれて、また貴方は深く恨まれるわ』
 それくらいなら、今までだって中途半端な契約の状態で何とかしてきたんだ。工藤から魔法石はもらったが、彼女が拒めばそれで終わりだ。
『茉莉は本当にカインかしら』
 声は、至極まっとうなことを言ってるように聞こえる。
 そうだ。確かに、それを茉莉に直接確認してからでなければ、何も始まらない。
 でも、そんなことを聞いてみろ。「宏希、頭おかしくなったの?」とかぐっさりと言われたら、おれはしばらくは立ち直れないような気がする。
 〈浄化〉をしたばかりだというのに、茉莉の身体には再び瘴気が巻きつきはじめている。
 茉莉が本当にカインかどうか。
 カインがおれのことを信じられるか?
 おれがカインのことを信じられるか?
 それよりも今優先すべきは、浄化してもまた増殖を始める負の連鎖を断つこと。
『そんなこと、貴方にできるのかしら?』
 さっきからこの声は本当にうるさい。
 しかも声がカインの声に聞こえるのだから、余計に厄介だ。
「茉莉! しっかりしろ、茉莉!」
「私は、約束した。貴方が心から誰かを助けたいと思った時だけは、力を貸す、と」
 耳元でカインの声が聞こえたと思ったら、今度は茉莉の口からカインの言葉が聞こえてきた。
「どうして信じてくれないのよ!?」
 茉莉に掴みかかられて、おれは頭の中が真っ白になった。
 怒りを吐きだしたからなのか、茉莉に纏わりついていた瘴気が弾け飛ぶ。
「私と契約したのは貴方でしょう?! 貴方が私の力を欲しがったのでしょう?! だったら、最後まで責任取りなさいよ!!」
「っ! 自分の力で誰かが傷つくのはもうまっぴらってって言ったのは、カインだろう!?」
「それは、貴方があんな力の使い方したからでしょう!? でもその後、貴方改心したじゃない! 私は、貴方としか契約できなかったのよ! どうして私のこと使ってくれなかったのよ!!」
「どうして使ってくれなかったのかって、もうおれなんかに力を使わせたくないんだと思っていたからに決まっているだろ! おれだって、これ以上カインの気持ちを踏みにじるようなことはしたくなかったんだ!」
 目の前にいるのが茉莉だということも忘れておれが叫ぶと、茉莉は目を大きく見開いておれを見上げた。その目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。
「貴方は、どうしてそんなに優しいのよ」
 途方に暮れたようにおれを見るその目は、いつもの茉莉の目ではなかった。
「貴方は、いつも嘘ばっかり! 私に歌を贈ってきたときだって、月夜にバルコニーに忍んできたときだって、私の血がこの剣に必要だと言ったときだって、いつも熱心にかき口説いてその気にさせて、ひとっつも心なんて籠っていなかったくせに、私ばかりその気にさせて……でも、私は貴方のその優しさが好きだったのよ。大好きだったのよ。貴方が贈ってくれた歌も今だってまだ覚えている。貴方の月の光のような優しい歌声も、今でもずっと大切に胸にしまってる。私を伯爵嬢としてでなくただの女性として扱ってくれたこともすごく嬉しかった。私だって、初心な少女なりに熱心にかき口説いてくる貴方が怪しいと思わなかったわけじゃないのよ。でも、周りが怪しいっていう度に、私はそんなはずはないって、貴方の信義誠実を私が明かしてみせるって、意地になっちゃったのよ。それでも、ね、私、ちゃんと気づいていたのよ。貴方が誠実だって、私だけが知っていた。貴方は熱心に私に逢いに来た、月のように君は綺麗だって言いながらも、一度も私に好きだ、愛してるって言ったことがなかったんだもの。キスはおろか、私に触れようとしたことすらなかった。貴方が私に気がないことは、私が一番よく分かっていたの。それでも貴方のことが大好きで、騙されてもいいって、手首を切ったんだわ」
 一気にまくしたてたカインは、肩で息をしていた。
 改めて聞かされると、本当にいっそこの場で殺してほしくなるようなことばっかり囁いていたんだと思う。それでも、確かに好きだ、愛してるとは一度も口には出さなかった。風環の国などまだない頃で、周方から与えられた西の所領を治めるリントヴルム伯爵の娘として生きていた彼女は、月の光にも透けるような白い肌と奥ゆかしい灰緑色の瞳、背中で揺れる艶やかな榛色の髪を持つ美少女として、当時から西だけではなく天宮にまでその名が聞こえるほど名高かった。
 綺麗なお人形のようだ。
 暗殺術や剣術を仕込んでくれた師匠に唆されて、西方の領主たちを集めて催されたリントヴルム家での夜会に、初めて潜り込んで彼女を見た時、噂通り綺麗な少女だと思った。そして、ずいぶんと賢そうだ、と思った。感情がない置物のように見えたのだ。だから、一筋縄ではいかないだろうなと思って、むしろ馬鹿みたいに毎晩彼女の部屋の窓辺に通って、歌を贈り続けた。それが功を奏したのか、彼女の元に通えば通うほど、彼女の表情は柔らかくなっていき、月の光の下でも頬が上気しているのが分かるようになった頃、おれは本題を切り出した。
『ある悲願を達成するために、この剣に君の血が欲しい』
 彼女は自分が風の精霊王だということも思い出さぬままに、おれの言う通り手首を切って、その血を周方王の剣に与えてくれた。
 彼女が自分の正体に気付いたのは、手首を切って倒れて、契約が完了してからだった。
「私は、貴方に私を見てほしかったんだわ。貴方が私を見てくれるなら、何でもした。でも、貴方の心は私には一度も向けられなかった。貴方は、私をはじめから風の精霊王としか見てくれていなかった。そんな貴方に、どうして私の力を使ってなんて言える? しかも、貴方が初めて私の力を使った時、貴方は心の底から後悔していた。貴方がことを成し遂げるまでの間、私は眠りにつき、夢の中で貴方の気持ちを共に味わっていた。貴方が母親や養父母のためにどれだけ時間をかけて準備をしてきたかも知っている。子供時代の十年間を、心を絶やさずにどれだけずっとその大切な人たちのことを思ってきたのかも知っている。やっぱり貴方は優しい人だったのだと、私は嬉しくなったけれど、でも、同時に私には貴方を止める術が残っていなくて、貴方に復讐を成し遂げさせてしまったことによって、結果的に私の力は貴方を深く傷つけてしまった。貴方は気づこうともしていなかったけれど、もう私の力などいらないと思ったでしょう? 一番苦しく、やるせない思いをして生き残ってしまって。私では、貴方を救うことが叶わなかった」
 茉莉は悔しそうに顔を歪め、震える拳を握っていた。
 おれは茫然と茉莉を見つめる。
「私は、私の力で貴方に一番傷ついてほしくなかったの。だから、貴方が傷つかないために私の力が必要なら、私は貴方にこの力を使ってほしい!」
 差し出された茉莉の左手首には、あの時切った痕が痣として浮かび上がっていた。
 まさか。そんな、まさか、だ。茉莉の手首にあんな痕はなかった。小さい頃から一緒に暮らしてきた妹なんだ。あんな大きな痣が手首に出ていたら気づかないわけがない。
 おれは、また巻き込むのか?
 この子を。カインを。茉莉を。
 また、巻き込むのか?
 力は、欲しい。
 だけど、おれは……
「逃げるな! 宏希!」
 私は本音をぶちまけてやったぞ、と言わんばかりに、茉莉が及び腰になりそうになったおれの心を引き戻した。
「私は、風環法王になったらそれはそれでいつか音を上げて私に契約を求めてくるだろうと思っていた。でも、貴方はそれをしなかった。どんな窮地に陥っても、愛する人を失うことになっても、自分の命が失われるその瞬間まで、貴方は私の名を呼ばなかった。私が……どれだけ悔しかったことか! どれだけ、私がまた貴方に名を呼ばれるのを心待ちにしていたか……! 自分でも馬鹿だと思うくらい、貴方に呼んでほしかったのに、貴方を守りたかったのに、貴方は頑なにはじめの誓いを守り通した。だから! だから私は決めていたの。今生、貴方が本当に力を欲した時には、貴方に私の力をあげるって。意地になってそっぽ向いたり、貴方のことを避けつづけたり、知らないふりをしたり、そんなこと、もう絶対今生ではしないって、心に固く決めて貴方の側に生まれてきたの」
 ぐっと、心が揺さぶられていた。
 視界が揺らぐほどに、真摯な彼女の言葉に打たれて、泣きたくなるような、それでいて身を切られるような想いが込み上げてきて、おれは、彼女の前に跪いた。
「許してくれ」
 口から零れ落ちる。
 その言葉を、ずっと伝えたかったのだと、おれは、己の声を聞いてようやく悟った。
 聞いてくれるはずがない。謝罪など、己が許されたいがために、己が楽になるためにするようなものだと、どこかで決めつけて、ずっと言えずに来た。
 でも、おれはその言葉を一番に彼女に伝えたかったんだ。
「申し訳なかった。おれは君の心を、弄んだ。己の目的のために、そんな傷まで負わせて。何も君に応えられることなどなかったのに、君からは一番大切なものを奪ってしまった。今だって、茉莉、お前にこんなことを言わせてしまって、本当に、申し訳ない」
 地面に這いつくばるように頭を下げたおれに、茉莉は言った。
「ようやく、聞けた。貴方の心の声」
 頭に茉莉の手が触れる。
 ほんわりと温かなものが流れ込んでくる。
 その流れは心も体も弛緩させ、溶かし込んでしまうような温かさがあった。
 工藤に魔法石を押し込まれた胸の中央からは淡く黄みを帯びた光が溢れだしはじめる。
『我が風の精霊王の御霊を以って
 我 この者と契約せん
 我 この者に我が力を与え
 いついかなる時もこの者を守らん
 されば 我が風の眷属にあるものよ 聞け
 この者の言葉は 我が言葉なり
 従いて この者をよく助けよ』
 胸の中心から痛みもなく黄色く輝く魔法石が現れる。
 茉莉は本気だった。
 だからこそ、確認せざるを得なかった。
「茉莉、本当にいいのか?」
 ようやくそこで、茉莉はカインではなく、茉莉らしく笑った。
「責任を取れ、なんて言わないわ。兄妹なんだから、逃げられようもないしね。これは、わたしが決めたこと。そのかわり、しっかり働いてよね、お兄ちゃん」
 バシッと腕をはたかれてぐらつくおれを笑いながら、茉莉は守景弟に手を振る。
「守景先輩、白虎、貸してくれませんかー?」
 瘴気から生み出された茉莉の狐はすでに退治されていて、夏城と守景弟は邪魔をしないように壁際で待機していたらしい。そこから守景弟は躊躇いつつも茉莉の前に白虎を差し出した。
 白く輝く西方将軍だけが持つことを許される剣。
 その研ぎ澄まされた刃を、茉莉は恐れることなく左手首の痣の部分にあてがおうとした。
 その瞬間だった。
「中途半端な契約はやめてもらおう」
 渋みの利いた男の声が響き渡ったかと思うと、狭い通路の中いっぱいに立っていられないほどの風が吹き込んできた。風は闇を連れ、再び周りの瘴気が粘っこく踊りだす。
 その通路の奥で、ヨジャ・ブランチカは腕組みをしておれを睨みつけていた。
「相も変わらず酷い奴だな。また慕う者を何も言わずに騙すつもりだったか」
 向かいで茉莉がびくりと肩を震わせたのが分かった。
「どういう意味だ! 科野達はどこへ連れて行った!?」
「どういう意味もこういう意味もない。ここで精霊王と契約したところで、中途半端にしかならないことは、お前もよく分かっているだろう?」
 おれが歯を食いしばって睨みつけていると、ヨジャ・ブランチカは呆れたように笑った。
「お前はここがどこかわかっているのだろう?」
「風環宮の背後にある迷宮だ」
「そうだ。その役割もよく分かっている。さっき仲間に説明していたものな。だが、はぐらかしたことがあっただろう?」
 全部聞いていたのか。
 一体どこで、どうやって、なんて、聞きだしたところで仕方がない。この迷宮は、そもそもはこいつが作ったものだ。ここはこいつの身体や精神の一部だと言っても過言じゃない。魔力を費やして時空魔法を制御し、瘴気が外に漏れないように一方通行にしたのも、こいつだ。
「そうそう、火炎法王に逢いたいのだったな。彼女なら、あの部屋でお前のことを待っている」
 ヨジャ・ブランチカは酷薄な笑みを浮かべたかと思うと、さっと手を後ろに引いた。その手の動きに合わせて、一斉に瘴気が退く。
 そこに現れたのは、岩壁に取り付けられた一つの扉だった。
 おれは、さーっと自分の血の気の引く音を聞いた。
 工藤め、どれだけ遠いところに扉を開いたのかと思いきや、こんなに近くに繋げていたのか。
「宏希? あの向こうに何があるの?」
 一度信じると決めたはずなのに、再び心を揺らがされた茉莉が茫然と尋ねてくる。
「答えられないか。それは、分かっているから答えられないのだろう? 彼女の魂を半分絡め取ったままの仮契約の証が、まだそこにあるから」
 にたぁとヨジャ・ブランチカは笑った。
 その直後、茉莉は弾かれたように扉に向かっていった。
 ヨジャ・ブランチカはもちろん、己の横をすり抜けていった茉莉の邪魔はしない。
「茉莉!」
 おれは慌てて茉莉の後を追う。
 茉莉が扉の取っ手に手をかける。
 鍵なんてそんな面倒なものはこの扉にはついていない。ただ、重い鋼鉄でできているだけだ。
 必要のないものはこの中央の部屋まで辿りつくことはできないから。
 茉莉は煩わしげに取っ手を回し、勢い良く体当たりして重い鋼鉄の扉を押し開ける。
「見るな!!」
 おれは茉莉の前に回り込もうとしたが、時はすでに遅かった。