聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第3章 ミノタウロスの迷宮

5(樒)
 前方に横たわり呻きながら身を捩る影に、わたしとヴェルパは顔を見合わせた。
「敵?」
 迷うようにヴェルパは闇に目を凝らし、掲げていた灯火を前方に向かわせた。
「うう……」
 呻き声は思ったよりも高くかわいらしい。
 ヴェルパと共にそろりそろりと近づくと、眩しげに顔に手をかざしてこちらを見上げたのは、オレンジ色の波打つ豊かな髪を持つ十二歳くらいの勝気そうな美少女だった。
「誰?」
 思わずヴェルパに聞くと、ヴェルパは思い出すように宙を見つめ、やがて少女の前にしゃがみ込んだ。
「風環の国女王、メディーナ様とお見受けいたしますが」
 女王? まだこんなに幼いのに?
 強気なエメラルドグリーンの瞳が、まっすぐにヴェルパとわたしを睨みつける。
「そなたは誰じゃ?」
 幼いのにやけに時代がかった喋り口調だ。
「僕はヴェルパ。こちらは樒」
「そなたら、どうやってこんなところに入り込んだ。ここは、風環王以外が入ることは許されぬ禁足地ぞ」
「こちらの樒はヨジャ・ブランチカという者に人界から連れてこられたのです」
「人界?」
 わたしを見るエメラルドグリーンの瞳がきらりと輝く。
「あ、こんにちは」
 そんな気の抜けた挨拶でいいのかと思いつつ、わたしは笑顔を作り軽く頭を下げる。幼い女王は「ん」と尊大に頷くと、ヴェルパに視線を移す。それを受けて、ヴェルパは飄々と隠すことなく自分の出自を告げた。
「僕は、闇獄界から参りました」
 さすがに幼い女王は目を剥いた。
「闇獄界?」
「はい。愛優妃様の使いで」
「そうだったの?」
 思わず間に入ってしまったわたしに、ヴェルパはあははと笑ってみせる。方便なのか、本当なのかはその笑顔からでは分からない。が、そうだ。聖がはじめてヴェルパに会った時も、ヴェルパは神界の事情をよく知っていたし、愛優妃とも知り合いのようだったから、愛優妃からのお使いで、というのも嘘ではない気がする。
 って、待って。ヴェルパと初めて聖が会った時、聖はまだ成人前じゃなかった? そこから先の神生、育兄さまや海姉さまに比べたら短いものだったけど、普通の人が生きる年数は優に何倍も超えている。それなのに、ヴェルパったらまだ十代後半、二十代手前の見た目って、どういうこと? 聖と会った時は同い年くらいの十二、三歳くらいだと思っていたのに。
 もしかして、ヴェルパも闇獄十二獄主とやらになってしまったんだろうか。それとも闇獄界にも時の実みたいな肉体の成長を止めるものがあるとか、バイオテクノロジーが不老長寿を実現していたりして?
 灯も出してくれたし、個々の事情にも詳しいみたいだから安心しきってついてきちゃったけど、今一番得体が知れないのって、ヴェルパじゃない?
 じりじりと距離を取りはじめたわたしに、ヴェルパは呆れた顔をした。
「今更だね、樒ちゃん」
「だって、怪しすぎるんだもん」
「そういうこと、女王陛下の前で言わないの。信頼が一番大事な時なんだから」
「お前たち、元からの知り合いではないのか?」
「さっき初めて会いました!」
「ひどいな。数千年前に何度か会ってるじゃない」
「それは前世の話!」
「でも、僕が君に危害を加えたことはあった?」
 それは、ないけど。
 大抵、困っている時に現れては助けてくれたり、励ましてくれてた気がする。
「まあ、いい。それよりそなたら、何か食べる物は持っておらぬか?」
「えっ」
 いいの? 人界から来た人間と闇獄界から来た人っていう、とっても怪しい二人組なのに? しかも、食べる物って。
 地べたに手をついて辛そうにしていた女王陛下のお腹からはお腹の虫が地鳴りのように響いてきた。
「お腹が空いて、これ以上動けぬのじゃ。何か食べ物を……」
 もちろん、わたしは何も持っていない。考えてみたらこの身一つで連れてこられたから、鞄も人界に置いてきてしまった。お財布とか携帯とか大丈夫かな。
「では、これを」
 ヴェルパはこうなることが分かっていたかのように、背負っていたリュックから飲み物とロールパンの袋を取り出して女王陛下に渡した。
「よく持っていたね」
「冒険に非常食は欠かせないから」
 胸を張って言っているけど、しかしあれって闇獄界の食べ物よね? 信じて食べて大丈夫かしら。
 などというわたしの心配をよそに、女王陛下は礼を言って遠慮なくがつがつとロールパンを三つ平らげてしまった。飲み物のお茶も勢いよく喉に流し込む。
「わぁ、言い飲みっぷり」
 思わずヴェルパが手を叩くほどの飲みっぷりで、最後に淑やかに女王陛下はハンカチで口元を拭う。
「は〜、生き返った。ヴェルパとやら、宮に戻ったら褒美を遣わす。いくらでも食べたいだけ美味しいものを出してやろう」
「ありがとうございます。しかし女王陛下、今、宮に戻れたとしても、本当にそれは可能なのでしょうか?」
 にこやかなヴェルパに、ひと心地着いていた女王陛下は剣呑な目で見返す。
「女王陛下は、なぜこの迷宮に一人で入られたのですか?」
「風環王だけが入れる場所だからな」
「なぜ、いらっしゃる必要があったのでしょう?」
 ヴェルパと女王陛下はしばし見つめ合う。
 その間に、今度はわたしのお腹が鳴った。
 そう言えば、さらわれた時夕方だったっけ。そろそろ夕飯の時間なんだ。
「樒ちゃんも、はい」
 ヴェルパはもうひとセット飲み物とロールパンの袋を取り出した。
「いや、でも……」
「よく見てよ。このペットボトルのパッケージ、コンビニでよく見るでしょ? こっちのパンの袋も」
 闇獄界の食べ物、そう思っていたのに、ヴェルパに言われてよく見てみると、パンの袋には見慣れたおなじみのコンビニのマークがついていて、ペットボトルのパッケージもよくある有名メーカーのお茶だった。
「ここに来る前に人界で仕入れておいたんだよね。人界の食べ物、美味しくて好きなんだ」
 いやいやいやいや。
 闇獄界出身でーすって言ってる割には、人界フード万歳って、どうなっているの、この人。
「思い出してよ、樒ちゃん。僕、両親が神界出身だから、闇獄界の食べ物より神界や人界の食べ物の方が身体に合うんだよ。闇獄界の方がカロリー摂取だけを目的に作られた科学的な味のゼリーとか固形物ばっかりであんまり好きじゃないんだよね。まあ、食材とシェフがいればまともなものは食べれるんだけどさ。その点、人界はいいよね。コンビニ便利だし、夜でもやってるし、美味しい新商品出ちゃうとつい買っちゃわない?」
「そりゃ、買っちゃうけど」
「でしょ? 僕もいつもスイーツとか麺類とかおにぎりとかサンドイッチとか、いっぱい買いこんできちゃうんだよね」
「それ、もう人界住んだら?」
「おばあ様が許してくれたらそうしたいところなんだけど、これが今、なかなか厳しくてね。〈闇渡り〉でおばあ様の目を盗んで来てるんだけど、多分ばれてるんだろうな。今回だって、ちゃんと非常食は準備していくのよって言われたから買い込んで来てたものだし」
「それはばれてるよね」
「うん、だからまあ、これは安全な食料だから。樒ちゃんが食べても大丈夫だよ」
 なんだかうまく言いくるめられた気がするけれど、わたしはヴェルパから非常食セットを受け取ってパンとお茶を口にした。味はそのまま、何もおかしいところはない。
「さて、女王様。先ほどもお伺いいたしましたが、女王様とて、必要がなければこんなところに一人で入っては来ないでしょう? しかも、灯りはどうしました? お腹が空くほど長時間にわたって迷われましたか?」
 ヴェルパは丁寧だけど、逃す隙を与えない言い方で幼い女王を問い詰めていく。
 すいっと美少女女王はわたしたちから顔を背ける。
「この迷宮の外の様子を教えていただけますか?」
 ヴェルパのその言葉を聞いて、ようやくわたしもこの迷宮の外、風環の国に何かがあったのだと悟った。
「そなたらに教えたとて、どうにかなるものか」
「貴女にはどうにかできるのですか?」
 そっぽを向きつづける女王陛下に、ヴェルパは容赦なく切り込む。
「ならば、先にそなたらができることを申せ」
「こちらの樒は時空を渡れます」
「ふん、ここでは無力な能力じゃな」
 む、無力!
 一度試して〈渡り〉が使えなかったことは実証されてしまっているから、返す言葉がない。
「僕は、愛優妃様のお使いで来ました」
「さっきも言っておったな」
「はい。ですから、きっと何かできるかと思いますよ」
 女王陛下は疑わしげな眼でにっこり微笑んでいるヴェルパを見上げる。
「もしそれが本当だとしても、そなたにできることはない。わらわが行かなければだめなのじゃ」
「どちらまで行かれます?」
「……中心部まで」
「では、一つご提案がございます。お一人で中心部まで向かわれるよりも、僕たちも一緒に行けば、多少なりとも貴女の御身をお守りすることができるかと思います。まだ食糧もございますし」
 ヴェルパがリュックを揺すって見せると、現金な女王陛下はごっくんと喉を上下させた。
「それに、僕たちが向かう先も中心部なんですよ」
 ヴェルパににっこりと微笑みかけられて、女王陛下の肚は決まったらしい。
「ならば、勝手にせい」
 言い捨てて、とっとと自分は真っ暗な方へと歩き出す。
「はい、そうさせていただきます」
 ヴェルパは気を悪くした様子もなく、先を行く女王陛下のために灯りをもう一つ先行させた。
 手ぶらで歩きだした女王陛下は、ふとわたしたちの方を振り返る。
「早く来い。わらわが先を歩いたのでは意味がないではないか」
「失礼いたしました」
 傲慢な女王陛下の言いぶりにも気を悪くした様子もなく、にこにこしながらヴェルパはわたしの手を引いて女王陛下の前に出て歩き出す。
「ヴェ、ヴェルパ」
 わたしが繋いだ手を気にすると、ヴェルパは「ああ、ごめん」とさらりと手を離した。
 もう、少しドキドキしてしまったじゃない。
 聖の時からわたしのことを知っているというヴェルパは、大してわたしのことを意識していないのだろうけれど、こっちは聖としてというよりも守景樒として生きてきているんだから、慣れないことをされると困る。好きとかそういうわけじゃないけど、何となくこっちは意識してしまうんだから。
「さっき〈渡り〉使おうとした時は、さらっと樒ちゃんの方から繋いできたから平気なのかと思って。その後だって……」
「!! さっきは詩音さんに早く合流したくて精一杯だったから!!」
「なんだ、お主初心じゃの」
 何とか心臓の音を宥めていると、後ろから尊大な女王陛下の声がした。
 第三者がいるってだけで、どうしてこんなに緊張しなきゃいけないのよ。
「初心って!! そんなんじゃないですよーだっ」
「そうかの。慣れてはおらぬじゃろう。わらわは平気だぞ? のう、ヴェルパ、手をこれへ」
 そう言って差し出した女王陛下の手を、ヴェルパは慣れた風に手を差し伸べて受ける。
「これくらい、レディのたしなみじゃ」
「ほう」
 世界が違うんですよ、世界が!!
 そう言ってやりたかったが、小六くらいの小娘にいちいち張り合ってかかずらわってはいられない。
「樒ちゃんもムキにならないで」
「なってない!」
 一言返して、わたしは彼らの先をずんずんと歩いていく。
「人界は遅れておるのかの?」
「文化の発達というよりも、国の文化的側面が強いと思いますよ」
「そうか。人界は神界よりも進んでいると聞いていたからの」
「どこも同じ文化とは限りませんよ。だからといって人界が遅れているわけではないことは、先ほどの食べ物からもお判りでしょう?」
「そうじゃな。あの袋はなかなかに便利じゃな。水筒も蓋がきっちりしまって、手に持ちやすい」
「そういうさりげなく気を利かせる技術が進んでいる国なんですよ。彼女の国は」
「そうか。そなたは何でも知っておるようじゃな。手はもうよい、疲れるじゃろう」
 背後でヴェルパと女王様が手と手を解消している。
「して、そこの人間。そなた、人界から来たのに時空を渡れるとはどういうことじゃ? なぜ、どうやってこの国に来た?」
 尊大に女王様は尋ねてくるが、いちいち気を悪くしていてはこの先が持たない。こういうキャラなんだと割り切ってしまった方が早い。
「わたしはヨジャ・ブランチカに人界で襲われてここまで連れてこられたのよ。意識を失っている途中で、今来た道のところに捨てられていたの」
「ほう、ヨジャに。あやつはいらぬものはさっさと捨てる奴だからの」
「え、女王様、ヨジャを知っているの?」
 後ろを振り返ると、当然とばかりにふんぞり返っている小生意気な美少女がいた。
「ヨジャ・ブランチカは風環の国の宰相じゃ。わらわも小さい頃に両親を亡くしてから、あやつのお蔭でここまで女王を務めてこれた」
「え……えー……? それ、本当にわたしの知っているヨジャ・ブランチカ?」
「この迷宮に入れたということは、同一人物じゃろうのう」
「え、だって、あの人、わたしや詩音さんや葵に……」
 思い出そうとしただけでも寒気が走る。これ以上は思い出しちゃいけないと記憶にストップがかかる。
「ヨジャ・ブランチカは代々風環王に仕えてきた宰相じゃ。年もとらぬが、古から生きていればそのような者もいるという。神界では驚くこともない。もう一人、逢綬とともに、よく風環の国を支えてきてくれた」
 あまりの人物像のギャップに、わたしはヴェルパを見るが、ヴェルパは特に驚いている様子はなく、むしろそうそうと頷いている。
 ん? 逢綬って、風兄さまの守護獣だった逢綬?
「そうか。ヨジャがそなたを連れてきたか。ならば信頼にも値しよう」
「いや、どうしてそうなるの?」
「ヨジャはいらないものは持ってこない。あやつのやることにはいつも何かしらの意味がある。そなたも何かに使うつもりで連れてきたのじゃろう。置いて行かれた場所からして、わらわに出会わせたかったのかもしれぬな」
 出会ったところで、いまのところお役に立てる見込みはないんだけれど。
「ヨジャめ、最近城を留守にしてばかりいると思ったら、陰でこそこそと人界に出入りしておったか。まったく、わらわに何の相談もなく勝手に何をしておるのやら」
 どうやら女王陛下のヨジャ・ブランチカへの信頼はこと篤いらしい。どう考えても人界での鎖鎌を振り回し、構わず怪我を負わせるヨジャ・ブランチカの振る舞いは常軌を逸していたのだが。
「ふむ、ヨジャ・ブランチカがそなたをこの迷宮に置いていったということは、あやつもここにいるということだな」
「おそらく」
「よい、ならばあやつも、かの部屋に用があるのだろう」
「ヨジャ・ブランチカも中央の部屋にいるの?」
「そこ以外、この迷宮の要を為すところはないからの」
 それを聞いたら、急に先へ進む足が重くなった気がした。やっぱり、できることなら二度とあいつとは顔を合わせたくない。本能的に恐怖を植え込まれている。背中がさっきからぞわぞわし続けている。
「わらわが五歳で両親を亡くし、女王に立った後、この迷宮を中央の部屋まで案内し、この風環の国が担う役目を教えてくれたのは、ヨジャであった」
「五歳で?」
「国内を視察してまわっている際に事故での。あっけないものじゃ。わらわはまだ幼く、勉学に励むようにと王宮に残されておったのじゃ」
 五歳で勉学に励むって、やっぱり国の王様になる子供たちは英才教育はじめるのが早いな。
「風環王は代々、この迷宮の存在を知りつつも、中まで案内された者はいなかったと聞く。皆、あまりのおぞましさに入り口で動けなくなったそうじゃ。腰抜けどもじゃのう。わらわはたまたま、その両親の不在中にこの迷宮に入り込んでしまっての。子供だったから怖いものも知らず、最後の部屋まで辿りついてしまったのじゃ。両親の死後にこの迷宮の役割を教えられた後、わらわはもう一度中央の部屋まで案内するようヨジャに命じた。ヨジャは迷うことなく中央の部屋まで辿りついて見せたから、おそらく、幾度となくあの場には足を運んでいるのじゃろう」
「その中央の部屋には一体何があるの?」
 わたしの問いに、女王陛下はしばし虚空を見つめた後呟いた。
「空気清浄器の動力部、かの」
 さっき、ヴェルパが話していた仮説通りだ。
 この迷宮の真ん中にはミノタウロスがいる。そのミノタウロスが女王陛下が言うところの動力部なのだ。
「女王陛下はその動力部に当たるものを見たことはあるのですか?」
 すかさず問うたヴェルパに、女王陛下はすっと視線を逸らせてそっけなく答える。
「どうじゃろうの」
「それは、人だったのではありませんか?」
 さらに切り込んだヴェルパに、女王陛下は訝しげな視線を向ける。
「ヴェルパとやら。そなたの目的はそれに会いに行くことか?」
「……はい」
「会ってどうする?」
「どういう状態なのかは、分かっているつもりです」
「……そうか。縁の者か?」
 ヴェルパはしばし目を閉じた後、静かに「はい」と答えた。
 女王陛下は「そうか」とだけ呟いた。
 わたしは完全に蚊帳の外だったのだが、ここで解説を求めるほど無粋じゃない。
 分からないままの方がいいこともあるものだ。
 というか、あの風兄さまが何だか恐ろしい秘密を抱えていたんじゃないか、なんて、今更知りたくもない、というのが本音のところだ。
「この迷宮は、わらわは何度か入ったことがあっての。ヨジャの案内が無くてもそれなりに中央部には辿りつく自信があったのじゃが、今回は、ちと勝手が違っての」
 そう言って女王陛下は真っ暗ながらヴェルパの薄明かりに照らし出されたごつごつした岩の天井と壁を見回した。
「風環宮の背後の山には巨大な風車が三機設えられている。神界や人界の空気はその風車が回ることで入れ替えられていた」
「えっ、あの風車って風環の国の象徴っていうだけじゃなかったの?」
 風環宮の裏山(というにはいささか標高はあるが)にある三機の真白い巨大な風車は、聖もよく覚えている。いつも風を受けて緩やかに羽を回転させていて、風兄様曰く、風の強さを見るもので、ほとんどこの国の象徴のために建てたようなもの、だと言っていたのに。
 風環の国で風の流れが止まることはない。風車は永遠に回りつづけるものだと聞いていた。
「何なら、風環宮の後ろの山も迷宮を作るにあたって人工的に作られたものじゃ。風環の国はどこを見ても平原が続いているのに、こんなところにだけぽっかりと山があるなんておかしいじゃろう」
 あ、なんだろう。風兄さまがだんだん信じられない人になってきた気がする。
 聖だって妹だけど法王だったのに、何も知らないのは聖だけだったんだろうか。
「いつもならその風車が絶え間なく回っていたのじゃが、ここ一年くらいで動きが鈍くなってきたと思ったら、ついに止まってしまったのじゃ」
「風環の国から風が消えたってこと?」
「完全には消えてはおらぬ。風環の国に吹いてくる風は止まってはおらぬ。が、風環の国から発される風が止まってしまったのじゃ。あの風車は浄化した大気を風環の国のみならず、神界中、ひいては人界にまで届ける役割を果たしておる。同時に、この迷宮は、瘴気に汚れた空気を吸い寄せる役割を持っている。風環の国は今、この神界の中で一番大気が汚れておる。風環の国中、宮殿の中まで瘴気が濃く漂い、人々は自分も含め、あらゆることに疑念を抱き、ばかげたことでも相手を疑い、諍いが絶えなくなった。そのせいでより簡単に魔物が生まれて人を襲いはじめてしまった。ヴェルパが最初に指摘したとおり、とてもすぐには美味なるものを提供してやれる環境にはない」
 猜疑心を育てる瘴気、か。
 この迷宮に入ってから、ヴェルパを疑っていたり、ヴェルパのくれた食べ物を疑っていたり、――わたしもこれ以上は余計なことを考えないように気をつけなきゃ。
 でも、本当に信じてしまっていいの?
 ヴェルパは本物? 闇獄界ならいくらでも偽物を作ることができるんじゃない? 四月にも似たような魔物がいたし。
 この女王陛下だって果たして本物だろうか。小さい姿で安心させようとしているんじゃない? しかも、さっきから内部事情をぺらぺらと喋りすぎ……
「樒ちゃん、気を付けて。瘴気に取りつかれているよ」
 ヴェルパの言葉に、はっとわたしは我に返った。
 わたしの周りには濃くなった瘴気が纏わりついてきていて、慌ててそれを振り払う。
 瘴気は生き物のように身を翻し、壁へと吸い込まれていった。
「無用な疑念は抱かぬことじゃ。かろうじてこの迷宮の壁や天井は当初の目的を果たしておるようじゃが、風車が止まったということは、中央の部屋に安置された動力源の力が失われかけているということじゃ。そもそも、風車が動いていればこの迷宮は常に風車が回る重低音が響いておったのじゃ。その音が大きくなる方へと進めば、おのずと中央の部屋に辿りつけた。その音が聞こえなくなっていたがために、わらわも道に迷うてしまったのじゃ」
「風車が止まったり、この迷宮の機能が落ちているってことは、風兄さまの〈浄化〉の魔法を維持する力が弱まっているっていうことよね? 河山君なら昨日も普通に学校に登校していたし、駅の時も普通に魔法を使っていたような気がするんだけど」
 わたしの言葉に、ヴェルパと女王陛下が顔を見合わせていた時だった。
 再び瘴気は濃さを増し、わたしと女王陛下の周りを取り囲みだした。
「いけない!」
 ヴェルパはすぐにわたしと女王陛下を瘴気の中から引っ張り出したが、瘴気が渦巻き出ているのはまさにわたしと女王陛下の身体からだった。
「うそ、わたし、今は特に疑ったりしていないのに!」
「わらわとて、別にヨジャを疑ったりなど……!!」
 そう言った女王陛下の身体から、さらに濃い瘴気が溢れだす。
「また……!」
「また?」
 聞き返すと、女王陛下はさっと顔色を変えた。
「さっき倒れて身を捩りながら呻いていた時も、空腹が理由なんかじゃない。何かを生み出しましたね? お腹が空いたのはその後でしょう?」
 ヴェルパの言葉に、女王陛下は睨みつけるだけで反論が出てこない。
「な、何かって何?!」
「魔物だよ。樒ちゃん、〈浄化〉の魔法を」
「え、魔法は使えないんじゃなかったの?」
「空間を移動する魔法はね。でも、〈浄化〉ならここの主もずっと使っているし、聖刻法王である君の魔法なら相性も悪くないはずだ。同一箇所で完結する魔法なら使えるはずだよ」
 わたしがまごまごとしている間にも、女王陛下はどんどん濃い瘴気に呑まれていく。
「わ、わらわは、別に寂しいなどと思ったことはない! ヨジャなどいなくても、わらわ一人でも立派にこの国を治めきってみせる。ああ、小さいからといってどいつもこいつも……いい顔をして玉座を奪い取ろうとしておるのじゃろう!」
 すでに女王陛下の目はうつろに別なものを見ている。わたしたちには見えないもの、わたしたちには聞こえないもの。耳元に渦巻く濃い瘴気が、きっと何かを囁いているのだ。
 そういうわたしの耳にも、「本当にこの人たちを信用していいのか?」「今の話、風環法王が聖に話さなかったなら、作り話かもしれないよ?」「さっきヴェルパからもらって食べたパンやお茶だって、パッケージだけコンビニのを使って、本当は闇獄界で造った毒が仕込まれているかもしれないよ」「ねぇ、本当に闇獄界から来たという人の話を簡単に信じていいの? しかも愛優妃の使いだなんて、疑わしいにも程がある」などとごちゃごちゃと複数の声が聞こえはじめた。
「あああ〜っ、もうっ」
 わたしは手で両耳を塞ぎ、大きな声で唸った。
「消えろ!!」
 うるさい声たちを一喝すると、すぱんと纏わりついていた瘴気が消えた。
「さすが聖刻法王、一喝だけで瘴気を消すなんて」
「どうしてヴェルパは瘴気に捕らわれていないのよ?」
 軽く手を叩いているヴェルパに、わたしは恨めし気に尋ねる。
「疑わなければならないことなんて、僕にはここでは一つもないからだよ」
「それは、全てを知っているってこと? ここにあるもののことも、風環宮の役割も、この迷宮のことも、これから起こることも」
「これから起こることについては、いくつかの選択肢を検討しているくらいだよ。でも、どの事象が起こっても大勢に影響はない」
 胸を張って言ってるけど、ヴェルパは〈浄化〉を唱える気はなさそうだ。
 仕方がないのでわたしがかわりに女王陛下のために〈浄化〉を唱える。
 浄化する範囲を彼女の周りに指定して、言葉に念を込めて解き放つ。
 女王陛下の周りの瘴気がマイナスからプラスに反転して弾け消えていく。
 だが、これで安心している場合ではなかった。
 迷路の道の先から、今度こそ犬のような狼のような唸り声が聞こえてきたのだ。
 ヴェルパの灯した明かりの下、犬のような尖った牙としなやかな身体を持つ黒灰色の狼によく似た俊敏そうな四足の動物が現れる。
「女王陛下が先ほどお生みになったのは、あれですか?」
「生む、などと言うな。あんなもの、汚らわしい」
「闇獄界ではよくあることですよ。愛優妃様でさえも悲しみのために流される涙からは、あれよりももっと強力な魔物が生まれます」
「愛優妃でも?!」
「ええ、愛優妃様でも。人は生きている限り、正の感情だけでは生きられません。摩擦もあるでしょうし、心が離れていくこともあるでしょう。怒りも悲しみも、経験してこそ人としての一生。本来、綺麗な世界だけでは、人は生きられないのです。愛優妃様はいつもそうおっしゃっているよ。だから、綺麗なものでどろどろしたものを覆い隠して、自分は笑っていなければならない、そんなシーンが増えれば増えるほど、愛優妃様の生み出す魔物の数は増えていく。それは愛優妃様だけでなく、生きとし生ける者すべてに共通すること。神界でそれが抑えられていたのは、やはりここの存在が大きい」
 ヴェルパは火の玉の灯りで狼のような黒い影を威嚇しつつ、女王陛下とわたしを背後に匿う。
「樒ちゃん、僕があれに火の玉を投げつけるから、弱ったところを浄化しちゃって」
「もう、浄化って簡単に言わないでよ。どれくらい消耗するか……」
「ここでは前に進むならそれが一番早い」
 そう言うや否や、ヴェルパはわたしたちの前に泳いでいた火の玉を狼に向けて放った。ごうっと音を立てて狼は赤い炎に包まれる。炎の色はすぐにバーナーの火のように青く変わり、苦しむ狼の唸り声が狭い回廊中に響いて、思わず怯みそうになる。
「早く!」
 あのまま焼き切れてしまうんじゃないの? そう思いながらも、ヴェルパに急かされてわたしは〈浄化〉を唱える。
 白い光が青い炎と混ざり合い、狼の形をした黒い影を白く分解していく。
 耳に残るような断末魔を上げて、黒い影は消滅し、青い炎は消え、白い光は霧散する。
 ぎしりと心臓に軋みが走った気がした。
 なんだか覚えのある痛みだ。
 聖だった時、無理をするとよく心臓を掴まれたような痛みが襲ってきていた。
 まさか、ね。
 同じ身体じゃないのに。
 どちらかと言うと、今のこの人間の身体の方が作りとしては弱いんだから、あまりバンバン魔法を使うわけにはいかない。
「大丈夫?」
 新たに出した灯球に照らし出されながら、ヴェルパが心配そうにわたしを覗き込んでいる。
「無理はできないわ」
 ため息交じりにわたしは答える。
「あの、……その、すまなかった。手数をかけた」
 すっかりおとなしくなった女王陛下が頭を下げる。
「しかも、聖刻法王だったとは……知らぬとはいえ、無礼のほどお許し願いたい」
 わたしは女王陛下の下げた頭を見下ろしながら、小さいな〜なんて思っていた。
 身長、わたしもそれほど高くはないけれど、この子はまだ百四十かそこらだろう。
 一所懸命、大人たちを見上げながら、見下されないように肩肘張って生きてきたに違いない。
「前世で法王ってついてたからって、今も偉いわけじゃないよ。法王なんて人より長く生きてるだけだし。というか、相手が誰だろうと、礼節は尽くすのが人ってものじゃない?」
 女王陛下はぽかんとした顔でわたしを見上げている。
「肩書によって態度を変えるなんておかしいでしょ」
 なんて、胸張って人に説教できるくらい自分ができてるかって言われると自信がないんだけど、我ながらちょっといいこと言ったんじゃない?
「ああ、彼女は今そう言う世界で生きてるから」
「ちょっと、ヴェルパ! まぜっかえすようなこと言わないでよ」
「肩肘張ってでも玉座を死守しなきゃならない女王陛下とは、違うから」
「ちょっと!」
「それでも、人は頭ごなしに抑えつけられるよりも丁重に扱われる方が好きなものですよ」
 にこにこと微笑みかけているヴェルパに、女王陛下はほっとしたように息を吐いた。
「そうだな。心に留めておこう」
 あれ、おかしいな。いいこと言ったのは私の方だったはずなのに、ヴェルパにおいしいところ持っていかれた気がする。
「それから、一つ頼みがあるのだが、女王陛下はやめてもらえぬか」
「お気に召しませんでしたか?」
「肩書で態度を変えるなと申すからには、肩書で人を呼ぶのもいかがなものかと、僭越ながら思うての。肩書き云々の前に、法王様にそのように認識されたままだというのも心苦しい。法王様は、わらわたち神界の民にとっては神じゃ。今でこそその姿も魂も神話に残るのみとなっているが、いつか復活を遂げて神界が危機に陥った時には救ってくださるとの予言もまことしやかに伝えられている」
「えっ、何それ!」
「樒ちゃん、ただの噂話だよ」
「いや、噂話などではない。現に今もこうしてこの国を、世界を救いに来てくださっているではないか」
 それは貴女のところの宰相とやらに強制的に連れてこられたからであって、世界を救いに行こう、オー! ていうノリで来たわけではないんだけど。あまり期待されても、特にわたしは攻撃力のある魔法を使えるわけでもないから困るんだけど。
「だからどうか、わらわのことはメディーナとお呼び下され」
 わたしの困惑をよそにメディーナは姿勢を正すと、王侯らしく気品に溢れた一礼を取って見せた。
「わかった。メディーナ。ね、樒ちゃんも」
「うん」
 ヴェルパに促されて返事をすると、メディーナはほっとしたように少し幼い表情で微笑んだ。
 これが彼女の本当の表情、かな。
「さあ、それでは参ろうぞ!」
 急に生き生きしはじめたのは、わたしたちの素性が分かって少し安心したからだろうか。纏わりついていた瘴気も、今は彼女の周りには現れてはいない。
 むしろ、わたしの周りにうっすらとまたもやが広がりはじめていて、わたしはそれを手で打ち払った。
「でも、中央の部屋に辿りつけたとして、どうするつもりだったの? あんな大きな風車を動かして、この世界の瘴気を浄化しつづけるような動力源の代わりになるものがないと、どうにもできないんじゃない?」
 歩きながら、わたしは先を行くメディーナに問う。
「それは……これは、本来ならばもうわらわたち風環王の仕事だったのじゃ。それを、永いこと肩代わりさせてしもうた。だから、これからはわらわが背負いに行くのじゃ」
 その声に悲壮感は全くなくて、むしろ役目を全うできることに悦びすら感じているようだった。あるいは、そう思うことで自分を鼓舞していたのかもしれない。
 わたしはヴェルパを盗み見たが、ヴェルパは視線を合わせてはくれなかった。