聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第3章 ミノタウロスの迷宮
4(聖)
ヴェルパに初めて出会ったのは、八つか九つくらいの時だったと思う。
愛優妃の生誕を祝う皐優祭のために、今年の開催国である風兄さまのところに来ていた時だった。
いつまでたっても戻ってこない人の誕生を祝って何になるというんだろう。
しかも、今や愛優妃は闇獄界の首魁ともいえる立場にいるというのに。それでも、彼らは信じて待っているというのだろうか。
「あ〜っ、いらいらする!」
小石を蹴飛ばして、石壁にカツンと当った音に満足して、さらに先へと歩きつづける。
薄暗くなりはじめた夕暮れ時、すれ違う人たちは一様に私とは反対方向に歩いていく。皆家に帰るのだ。誰かが待っている家。
だからなんだというの。
誰かが待っているからといって、それがなんだというの。
少し先からはあーん、あーんと泣いている声がする。
あれはきっとまだ、五歳やそこらの子が泣いているのだ。
ぐずれば母親が来てくれると思って。
一度通じた手は、何度でも通ると思っている。
そんなの大きな間違いなのに。
(五歳にもなってまだそんな分別もついていないの?)
「はぁぁ」
ため息を吐く。
何が面白くないのか、自分でもよく分からない。
皐優祭で愛優妃を讃える歌を歌わなければならないことが嫌なのか、歌の歌詞が気にくわないのか。いや、そもそも愛優妃の生誕を祝う祭りがあるということ自体がもう、面白くない。
「愛優妃なんて、とっくにいないのに」
しかも、神界に何度も攻め込んできている闇獄界に、自ら渡ったまま帰ってこないんでしょう? 統仲王だって迎えに行く気もなさそうだし、闇獄軍が境界を侵犯してくれば追い払う程度の対応しかしていない。愛優妃を返せと攻め込む気概すらない。
愛優妃って、一体何なんだろう。
どうして神界の人々は、長らく不在にしている人を無条件に信頼し、尊敬し、祭まで催して讃えることができるんだろう。
広場の泉の側で泣いている子供は、予想通り五歳くらいの男の子だった。身なりからするに、きっとこの辺のおうちの子。富んでもいないが貧しくもない、中流家庭の普通の子。身体だって、栄養失調で痩せすぎてもいなければ食べ過ぎて太りすぎてもいない。きわめて平均的なお家の平均的な子供。
私が一番嫌いなタイプ。
男の子は私が近づいても気づかずに、これみよがしの大きな声で泣きつづけていた。
私はその子の隣に腰を下ろした。
泉へと下りていく段差に腰かけて、折り曲げた膝に頬杖をつく。
男の子はしばらく構わずに泣いていたが、私が何も話しかけないでいると、ちらちらと私の方を窺い、べそを掻きながら涙声で尋ねた。
「お姉さんだぁれ?」
なおも私は目の前の泉だけを見つめて答えずにいると、男の子は手の甲で涙を拭い、嗚咽を引っ込めた。
「お姉さんも迷子なの?」
そこで初めて、私は男の子の方を振り返った。
本当はもっと無視してからにしようと思っていたのに。
「迷子?」
心外な言葉だった。
迷子、とは。
「私が迷っているように見えるの?」
睨みつけると、男の子は驚いたように私を見つめ返した。
「優しくないんだね」
ぽろりと零れ落ちた言葉に、私はまた驚く。
優しくない? 私が?
こうやって隣に座ってあげたのに?
男の子はもうぷい、と前を見てしまっている。
辺りはもう薄暗く、遊んでいる子供はどこにもいない。道を行く大人たちの数もまばらだ。家々の玄関には街灯が灯りはじめ、温かなスープの香りが漂いはじめている。
「帰らないの?」
極力優しさを排除した硬い声で、私は泉を見つめたまま男の子に尋ねる。
「お家が分からない」
不愛想に男の子は答える。
「どうして?」
「……家出してきたから。家を飛び出して、やみくもに走ってたらどこかわからなくなっちゃった」
「その年で家出を試みるなんて、割に骨があるのね」
「怒らないんだ?」
私なんて龍兄会いたさに何度家出したことか。
「私が怒ることなんて何もないわ。私だって何度も家出したことあるもの。でも、どうして家を飛び出してきたの?」
涙が止まったかわりに膝を抱え直した男の子は、頬を膨らませた。
「勉強しろって、母ちゃんがうるさいから」
わたしは思わず頬杖していた手から顎がずり落ちた。このくらいの年から勉強なんてうるさく言う必要があるんだろうか。
「勉強して偉い人になれって。父ちゃんみたいに一生工場であくせく働いても暮らしがよくなるわけじゃないんだからって」
口を尖らせて泉を見つめる横顔は、年の割にちょっと大人びて見えた。
男の子の母親の言葉は、この世界を統べる者に連なる身としてはなかなかに痛い。
神界はその昔、みんなが平等で、貧富の差などなく、幸福に暮らしていける世界だったという。今でもそれを標榜し、闇獄界との違いを強調している。それでも、現実的には富める者は富み、貧しい者はますます貧しくなっていっている。格差は世代を重ねるごとに拡大しながら再生産されていっている。
物々交換では成り立たなくなって、貨幣が生まれてからというもの、神界でさえも不満足、不幸という言葉が一般的に使われるようになってしまった。憎しみも悲しみも存在しないはずの世界に、どんどん負の感情が敷衍していっている。闇獄界からの侵攻が増えたからだとか言っている学者もいるらしいが、きっとそれだけじゃない。世界の大きさは変わらないのに、人が増えすぎたのだ。密度が増えれば摩擦も増える。だからといって、神界当初から拡がりつづけたこの世界を閉じていくことは不可能に近い。統仲王がその気になれば終わらせることは簡単かもしれないけれど。
「偉い人って、そんなにいいの? 今のままの生活じゃだめなの? って言ったら、母ちゃんめちゃくちゃ怒って……だから、飛び出してきた」
すいっと顔を背けた男の子は、勉強しろと言われることに嫌気がさしたわけではないように見えた。
「お父さんが悪く言われたことが嫌だったのね」
はっと、男の子は私を振り返る。
「一所懸命働いているお父さんを、お母さんが悪く言ったのが嫌だったんでしょう? 一所懸命働いているお父さんが偉くない人のように言われたみたいで嫌だったんじゃない?」
男の子は私の顔を見ながら、自分の中の感情を整理していっているようだった。
「そうだよ。だから、面白くなかったんだ。何かあれば母ちゃんは父ちゃんのことを悪く言うから。自分だけが正義だって思ってるみたいなんだもん。僕、そんな母ちゃんが……」
私はすっと自分の口に人差し指をあてて見せた。
「それ以上は心にしまっておきなさい。言ったことを後悔する日が来るかもしれないから」
自分が愛優妃に抱いている思いとは裏腹に法王らしいことを言ってるな、と自分でも思った。
男の子は目を大きく見開いて、頷きながらごっくんと実際に喉を動かした。
「あなた、お母さんのことも大好きなのね」
ためらいがちに男の子は小さく頷く。
「だから、見つけてほしくてあんなに大きな声で泣いていたの」
私の言葉を肯定するように、男の子は恥ずかしそうに俯いた。
いいわね。
そう言いかけた言葉をのみ込み、かわりに歌を押し出した。
『眠れ 眠れ 愛し子たちよ
希望に溢れた明日を夢見て
この腕の中で 安らかに』
龍兄に教えてもらった愛優妃の子守歌。
どうしてこの歌が口から出たのかは分からない。ただ、迷子を慰めるには一番いい気がしたのだ。優しく包み込むように、微睡む子供たちを腕に抱く母親がそこにいるようで。
男の子はぽろぽろと静かに涙をこぼしていた。
口ずさむように歌っただけなのに、それはもったいないほどの称賛だった。
と、街路の奥の方から誰かの名を呼ぶ女性の声が近づいてきた。
「リディー! リディー!」
びくりと隣の男の子の肩が震える。
「お迎えが来たようね」
慌てて男の子は袖で顔を拭い、勢いよく立ち上がった。
その顔にはしょげきっていたさっきまでの様子とは打って変わって、雨上りの空のように綺麗に晴れ渡った誇らしげな笑顔が広がっていた。
自分の気持ちを理解してくれた出会いが嬉しかったのか、母親が期待通り迎えに来てくれたことが嬉しかったのか、あるいはそのどちらもか。
――羨ましい。
「ありがとう、聖様」
浅ましい思いに取りつかれそうになっていた私は、はっと顔を上げた。
「気づいていたの」
「偉い人に一番会いたくなかったんだ。だから、知らないふりをしました。ごめんなさい」
勢いよく男の子は頭を下げる。
「そんな、謝ることなんてない」
敬語になってしまったら、途端に遠く感じるようになってしまった。
私も、迷子だったのだ。同じだと思ったから、きっと端々でこの子が羨ましくなってしまったのだ。
「さよなら、聖様」
男の子は晴れやかに手を振ると、迎えに来た母親に飛び込んでいった。
母親は遠くから私に会釈すると、男の子と手を繋いで今来た道を戻りはじめた。その先で、父親らしき男性も合流し、三人で手を繋いでぽつぽつと街灯の灯る薄暗闇の中へと消えていく。
「さようなら、……幸せな男の子」
あんな家族がいるのなら、まだ神界は幸せな世界なのかもしれない。
例えば今、私がここで大きな声を上げて泣いたら、龍兄はすぐに見つけてくれるだろうか。
愛優妃は、闇獄界から飛んできてくれるだろうか。統仲王は、微笑みながら手を差し出してくれるだろうか。
夢のようなことを考えてしまった、と思った。
考えても詮無いこと。実現などしないこと。思いを馳せただけで、悲しくなってしまう夢。
泣くのは今度は私だった。
ぽろり、と一粒の涙が零れ落ちると、堰を切ったように後から後から止まらずに涙が零れ落ちる。ぽろり、ぽろりと断続的に、涙は頬を濡らす前に生まれては石畳に当たって弾けていく。
『慈愛深き母なる女神よ 我らが悩み苦しむ時も 側にあれ
魂が傷つきし時は その御手を以て 安らぎを与えよ
全てを生み出しし母なるその身に 栄光あれ
我らを作りたもう その御手を以て 永久に我らに御恵みを与えよ』
掠れる声で、私は歌った。
もし、この世にそんな女神がいるのなら、さあ救ってごらんなさい。
貴女の娘一人救えないくせに、何が女神なの?
貴女の与える愛は、私にはまったく何も、届いていないのよ。
怒りが込み上げる。
無力感が込み上げる。
私には、この歌を歌っても何ももたらされるものはない。
「君は愛優妃様が嫌いなの?」
ふと、昇りはじめた月明かりに照らされて長い影が傍らに伸びていた。
「だから、何よ」
私は手早く手の甲で涙を拭う。
その間に、同い年くらいの声の主はすとんとさっきまで男の子が座っていたのとは反対側に腰を下ろした。
「僕はヴェルパ。君は?」
人見知りなどという言葉は知らない笑顔で、その子はするりと私の心の中に入り込んできた。
赤い髪に碧い目、赤銅色の肌。その面差しは、どこかで見たことのあるような不思議な懐かしさを感じた。凛とした顔立ちは炎姉さまのようでもあり、好奇心の奥に優しく見守るような瞳は風兄さまのようでもある。
「何か、迷子みたいだね」
「迷子? 違うわ。私はちゃんと帰り方が分かっているもの!」
「そう? その割にはさっきここで泣いていた男の子と同じ顔をしているけど」
「同じ顔?」
「寂しそうな顔。自分を認めてほしそうな、誰かに抱きしめてもらわないと、不安で不安で仕方なさそうな顔」
「そんなこと……!!」
「君は誰を待っているの?」
ぐっと痛いところを突かれて、私は口を噤む。
「誰も」
待ってなどいない。
本当に来てほしい人たちは、絶対に来ない。だから、期待などしない。見つけてほしいなど、これっぽっちも思ってはいない。
私は、誰も待ってはいない。
「じゃあ、どうしてこんなところまで出てきたの? ――聖ちゃん」
私はまだ名乗っていないのに、人懐こく名を呼ばれて(しかもちゃん付け!)、思わず逸らしていた顔を上げてしまう。
「風環法王のところに療養で滞在しているんでしょう? そんな薄着でふらふらと出てきたら、また熱を出すよ」
「う、うるさい! そんなこと、わかって……っくしゅん」
「ほら、言わんこっちゃない」
全てをお見通しらしい少年は、自分が羽織っていた上着をほぼ寝巻同然で飛び出してきた私の肩に着せ掛けた。
ふわりと柔らかな体温の温かさが冷えた身体を包み込む。
「貴方は、誰? どうして私のことを知っているの?」
「名前ならヴェルパ」
「名前を聞いているんじゃないわ。何者かを聞いているのよ?」
私に言葉で噛みつかれたヴェルパは困ったように肩を上げて見せた。
「ただの……うーん、旅行者? 異邦人? 何者って言われても、僕は僕だし」
おどけたような言い方に、なんだかこちらの毒気も抜かれていくようだった。
「それなら、どこから来たの? 南の方? 炎姉さまの国かしら?」
「ああ、やっぱり火炎の国の人に似てる?」
嬉しそうにヴェルパは碧い目を輝かせる。
「そうね。肌の色や、大きな目やはっきりした目鼻立ちとか」
「そっかぁ。へへ」
ヴェルパは照れながら鼻を人差し指で擦る。
「何がそんなに嬉しいのよ」
「うん、嬉しいんだ」
大きな碧い瞳をきらきらと輝かせて、ヴェルパは深呼吸しながらぐっと背伸びした。
「僕、闇獄界から来たんだ」
背伸びしたまま月を見上げたヴェルパは、予想だにしなかったことをさらりと告げた。
「闇、獄界?」
「そう。僕も迷子じゃないけど、家出みたいなもの。どうしても父と母に会ってみたくて、こっそり闇獄界を抜け出してきちゃったんだ」
何を言っているのだろうか。
闇獄界から神界って、家出なんて理由でこんな年端もいかない少年がこっそり入り込んでくることができるものだろうか。いや、そんなことがあったら、もっと争いは絶えなくなるだろうし、瘴気だって濃くなるに違いない。
瘴気……纏ってないな、この子。
「お父さんとお母さんは神界にいるの?」
「そう聞いてる。僕はおばあ様に育てられたんだけど、どうしても一度、二人に会ってみたくて」
闇獄界で祖母に育てられたって、どういうことなんだろう。闇獄界には魔物のようなものしかいないんだと思っていたけれど、こんな人と同じ格好のものもいるんだ。
「ご両親は神界の人なの? それとも、闇獄界から神界に入り込んでいる……」
「神界の人だよ。おばあ様も元は神界の人。事情があって闇獄界に来たんだって。僕は生まれて間もなく死んじゃったんだけど、時空の歪に落ちて闇獄界のおばあ様に拾われたの」
「死んじゃったの? でも、生きてるの?」
「心肺蘇生っていう方法が闇獄界にはあって、それで息を吹き返したみたい。向こうは魔法が普及していない代わりに、科学技術が進歩しているんだ。魔物のような生き物がいる辺境の区域もあるけれど、科学技術の恩恵にあずかって暮らしている人々は、神界の人たちと姿かたちも何も変わらないよ」
「そう、なの」
なんだか意外だ。闇獄界の人たちはみんな悪い者たちで、残虐な考え方をしていて魔物のように醜悪な姿をしたものばかりだと思っていた。
「それで、ご両親には会えたの?」
「ううん、まだこれから。ついさっき来たばかりだから」
「どうやって?」
「〈闇渡り〉っていう方法があるんだ。これは魔法だから、誰でも使えるものではないけれどね」
「ああ、だからこっちの世界が暗くなってきたところで渡ってきたのね」
「そういうこと」
「ご両親はこの辺に住んでいるの?」
「んー、一人はこの辺に住んでいるんだけど、もう一人もよく来ているみたいだから、きっとこっちにいるかなって」
「ずいぶん、大雑把ね。そんなので本当に会えるの? そんなに長い間、こちらにいるわけにもいかないのでしょう?」
「うん。でも、聖ちゃんに会えたから、きっと間もなく僕も父さんと母さんに会えると思うんだ」
「私に会えたから?」
ヴェルパは確信するように微笑んだ。
変な子。
闇獄界にいるのに、やたらこちらの情報に詳しいし、それなのに、大切なところはえいやと飛び降りるようにその場の流れに任せてしまっているし。
なにより、闇獄界から来たというのに、どこにも暗いところがない。瘴気など寄る隙もない。むしろ私の方がめそめそとしていて、瘴気をばらまいていそうだ。
「聖ー!」
不意に遠くから聞こえてきた私の名を呼ぶ声に、私は肩をそびやかした。
「来たね、お迎え」
にやにやとヴェルパは笑う。
「からかわないでよ」
「からかってないよ。いいなって思って」
「いいなって……」
それはさっき、私が言えなかった言葉。
困惑していると、今度は別のもう一人が私を呼ぶ声が聞こえた。
「二人一緒だね。仲良しだなぁ」
「別に、お父さんとお母さんってわけじゃないわよ? あの二人は私の姉と兄」
「うん、知ってる」
満足そうにヴェルパは頷いた。
「ねぇ、もう一度聞いていい? ヴェルパ、貴方は一体、誰?」
月灯りの下で、碧い瞳が挑戦を受けるように強く輝いた。
「聖ちゃん、お兄さんとお姉さんのこと、好き?」
「それはもちろん、大好きよ!」
「じゃあ、どうして家出なんかしてきたの? 皐優祭のリハーサルの途中だったんじゃないの? 不機嫌になったかと思ったら〈渡り〉で突然消えたら、いくら法王と呼ばれるお兄さんとお姉さんでも、慌てると思うよ?」
淡々とした台詞は、しかし私がここに渡ってくる直前のことを正確に言い当てていた。
「皐優祭が……嫌だったのよ。愛優妃なんか大嫌い。私、愛優妃から恩恵享けたことなんかないもの。それなのに、どうしてあんな歌、歌わなきゃならないの、って」
「愛優妃様も、君に会いたいと思っているよ、きっと。君に会って、ぎゅっと抱きしめて、頭を撫でて、おでこと頬にキスをして、もう一度抱きしめて。聖のことを遠くにいても愛してるって、元気に生きていってほしいって、願ってると思うよ」
「そんな、知った風なこと……!」
「おばあ様がいつも、僕にそう言ってくれるから。だから、もし君に会えたら、伝えてあげたいなって思って」
にこにこと裏表のない目に見つめられて、私は次にぶつけてやろうと思っていた言葉を取り落してしまっていた。
「貴方のおばあ様って……」
「聖ちゃん、また会おうね」
近づいてくる声から逃れるように、するりとヴェルパの姿は闇に溶け込んでいた。
「聖!」
「風兄さま! 炎姉さま!」
「この、ばか聖!」
振り返ると、風兄さまがほっとした顔で立っていて、炎姉さまは怒鳴りながら私を抱きしめた。
「ごめんなさい、私」
心配かけるつもりなんて……あったのかもしれない。
みんなが愛優妃、愛優妃っていうから、私は面白くないんだって、私のことももっと見てほしくて、心配、かけたかったんだ。
だから今、炎姉さまは怒っているし、風兄さまだって皐優祭の準備の途中でいなくなった私を怒っているだろうに、迎えに来てくれて嬉しいと思っている。してやったりと思っている。
さっきまでここで泣いていた五歳くらいの男の子と、やっていることは同じだ。
抗っても愛してくれるか、確かめたかったんだ。
私のこと、好き? 大好き? 愛してる?
愛してるなら、心配してくれるよね? どこにいても探し出してくれるよね?
本当は、龍兄に来てほしかった、なんて、言えない。
小さい頃、私を一番に見つけるのは龍兄だった。風環の国で、みんなのところを飛び出してこの泉に来た時も、一番に見つけてくれたのは龍兄だった。
今は、うんと遠くに住んでいるのだもの。来てくれるわけがない。そもそも、私が皐優祭が嫌で姿を消したなんてこと、知りもしないだろう。
満足しなきゃ。
風兄さまと炎姉さまが来てくれたんだもの。
私は確かに愛されている。私を愛してくれる人がいる。
大丈夫。
私はひとりぼっちじゃない。
「ばか聖。心配かけやがって。どれだけ探したと思ってるんだ。〈渡り〉で消えられたら、こっちは探す術がないことくらい分かっているだろう?」
「皐優祭の会場近くに隠れるくらいならまだしも、こんなところまで来ているとは思わなかったよ」
「ごめんなさい、心配かけてしまって。それから、探してくれて、ありがとう」
私に愛を実感させてくれてありがとう、とは言えなかった。そんなこと、誰にも言えない。見透かされてしまっても、固く口を噤んでいる他はない。
顔を上げると、炎姉さまと風兄さまは顔を見合わせていた。
「どうしたの?」
「いや、本当にいた、と思って」
炎姉さまは私を抱きしめ直しながら、緊張を解くように深く息を吐き出した。
「どういうこと?」
「龍兄さんが、風環の国で聖がいなくなったなら、きっとこのトレモの泉にいるって言うから」
「え?」
「風! お前、余計なことを」
「だって、聖だって……」
風兄さまはそこで言葉を切ると、炎姉さまの腕の中から私を引き取り、肩に手を置いて同じ目線の高さで私の顔を覗き込んだ。
「聖、嫌なら逃げる前にちゃんと意志を伝えなさい。不機嫌になってその場から消えるなんて、法王であっても人であっても恥ずかしいことだ。さっきの会場で準備に携わってくれた人たち、みんなが聖を心配している。そういう心配のかけ方は、もうやめなさい。成神していないからといって、その辺の子供と聖は同じではないだろう?」
ぎゅっと心臓を掴まれるような痛切な言葉だった。
さっきの子とどこかよく似た碧い瞳は、珍しく燃えるように怒っていた。
「ごめん、なさい」
震える声を押し出すと、風兄さまは目を閉じ、軽く息を吐いた。
「僕たち兄弟が何人いても、愛優妃の代わりにはなれないだろうけど、聖のことを心から想う人はちゃんとここにいるから」
「そうだぞ。いい子でなくてもいいが、時と場合はちゃんと選べ。どれだけ風が心配して走り回ったことか。果ては龍にまで連絡飛ばして……あ、龍が来ないからってまた臍を曲げるんじゃないぞ? 龍だって、心配してたんだからな。ただ……」
「いつも自分が迎えに来ると思うな、って?」
ぐっと炎姉さまが言葉を詰まらせているあたり、きっと当たりだったのだろう。
「いいの。私がここにいるって覚えてくれていただけでも、私は嬉しい」
「聖!」
思い出を胸にしまおうとした私の頬を、風兄さまは勢いよく両手で挟んだ。
「僕の言いたいことが伝わらなかった? 人を試すようなことは、もうやめなさいって、そう言ったんだよ?」
バチンと挟まれた両頬が、じんじんと熱くなってくる。
見抜かれていた。その恥ずかしさが急に込み上げてきて、私は泣いた。
「気づいているよ。僕も、龍兄さんも、炎姉さんも。みんな、気づいている。母親がいない寂しさを、そうやって紛らわしているんだって、もっと愛を実感させてほしくてやってるんだって、みんな気づいている。それでも、今までは小さかったから龍兄さんは付き合ってあげていた。僕たちだって、可哀想だって思って聖の壮大なかくれんぼに付き合ってきた。だけどね、今回のことはあまりに分別がない。僕たち兄弟や宮殿の人たちに迷惑をかけただけじゃない。聖を探すために、皐優祭のリハーサルはストップしてしまったんだ。出番を待っていて、結局リハーサルできずに帰らなきゃならなかった人もいたよ。聖の態度の悪さに、不満を漏らす人もいた。愛優妃はね、彼らにとっては女神なんだ。信仰の対象だ。それを穢すようなことを娘がしたら、彼らにとって聖は敵になる。子供だから、で済まされる年ではなくなっているんだよ。聖ももう自分の立場を弁えなさい。法王であり、年相応の振る舞いができるように」
風兄さまの容赦ない言葉は、私の全身から力を抜き取っていってしまった。
へたり込んだ私を、それでも引き立たせ、風兄さまはずるずると引きずって歩きだした。
「どこに行くの?」
「皐優祭の会場だよ。まだ残って聖を探してくれている人たちがいるんだ。その人たちにだけでも謝りなさい」
炎姉さまは何度か引き留めようとしてくれたけれど、風兄さまは聞かなかった。
私は結局、皐優祭の会場まで徒歩で戻り、残って私を探してくれている人たちに深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
人々はほっとした笑顔で拍手で迎え入れてくれた。
私は、恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。それでも、風兄さまは最後まで私の傍らに立ち、最後には炎姉さまと共に一緒に頭を下げてくれた。
逃げる隙を、与えてはくれなかった。
それは、とてもありがたいことなのだと、私はぼんやりと思った。
きっと、親の愛というのはこういうものなんじゃないのかと。
逃げたくなるようなことをしたときでも、見捨てずに側で支えてくれる、一緒に前を向けるよう導いてくれる。
「風兄さま、ありがとう」
風環宮について長い一日が終わろうという時、私は玄関で深々と風兄さまに頭を下げた。
風兄さまは無言で私を抱きしめると、頭を撫でて、おでこと頬にキスをして、もう一度抱きしめた。
それは、ヴェルパが言っていた愛優妃の愛情表現と同じものだった。
「愛優妃はいつも、そうするの?」
風兄さまは驚いたように私を見返す。
「そうだね。小さい頃、何かあった時はいつもこうやって抱きしめてくれた」
「ああ、おれもやってもらったことがある」
「そう、なんだ……」
ふ、と、鼻孔の周りに薔薇の香りが漂った気がした。
高い柵を巡らせたベビーベッドから私を抱き上げ、ぎゅっと胸に抱き、守りのしるしを与えるように額にキスをし、頬に愛情を注ぎ、もう一度抱きしめる。
『ごめんなさいね、聖。あなたとずっと一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい。その分までずっと、祈っているから。聖、貴女に幸いがありますように』
すーっと頬を涙が流れ落ちて、流れた後が一筋冷たくなっていった。
偽造した記憶かもしれない。でも、柔らかな春の日差しが窓から降り注ぐ一室で、きっと私はあの人に抱きしめられていた。祝福を授けられていた。
「私、明日は歌うわ。今度は歌えると思うの、きっと。炎姉さまも、今日一日、本当にありがとう」
炎姉さまは、風兄さまごと私を抱きしめた。
「もう、心配かけるんじゃないぞ」
「はい」
明日は歌える。
愛優妃を信奉する人たちの熱意には負けるかもしれないけれど、あの薔薇の香りと温もりが本物なら、彼女は私にとって全く何も知らない人ではないのだ。
思ったよりも、強い人なんじゃないかと思った。
きっと、強いから誰からも愛されるのだと。