聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第3章 ミノタウロスの迷宮

3(樒)
 目を開けると、そこは暗い洞窟のような場所だった。
 ぴたん、ぽたん、と雫が滴る音が静寂の中に響いている。
 肌には冷たい湿気が絡みつき、地面に接した部分からはじんわりと水が滲みてくるようだった。
 寒い。
 半袖のブラウスだけだったせいで余計にそう思うのかもしれない。
 九月の東京はまだ半袖で十分だったのだ。上にカーディガンもいらない。直に地面に接した腕は、冷たさに感覚が麻痺しかけていた。
 でも、寒いのはそれだけが理由ではなさそうだった。
 目を開けていても、頭の奥がくらくらとする。意識はぼーっとし、何かを考えるべきなのに、取り留めなく「寒い」「暗い」という感覚的なものしか思考回路に流れ込まなくなっている。
 ここは、どこなんだろう。
 どうしてわたしはこんなところにいるんだろう。
 ああ、そうだ。〈渡り〉を使えば一発で元の場所に戻れる。
 元の場所――恋愛に聞く鈴をくれた露天商のお姉さんがいた裏路地。アラビアンな衣装を身に纏った男が……鎖鎌でわたしを、詩音さんを、葵を傷つけた場所。
 嫌だ。
 そんな怖い場所には戻りたくない。
 それなら学校は?
 まだ合唱部のみんなは残っているかな。それだったら、学校にも戻りたくない。私が逃げ出した後で、何を言われているか分かったものじゃない。そんなこと、聞きたくもない。『樒の歌、らしくない』なんて、珠に言われるまでもない。わたしが一番よく分かっている。それもこれも、「Ave Maria」をわたしに独唱させようとした生徒会が悪い。工藤君が悪い。もし会えたら、直接うんと文句言ってやるんだ。
 そうなると、学校にも帰れない。
 じゃあ、家しかない。
 でも家には洋海がいる。
 今、一番顔を合わせたくない相手。部活で遅くなってくれるならいいけど、お母さんがパートに行ってる間二人っきりにでもなってしまったら、とてもやってられない。
 ヴェルドが聖の婚約者に名乗りを上げてから、聖だって心のやり場に困っていた。
 実直にあれだけ熱心にかき口説かれると、龍兄が大好きな聖だって悪い気はしない。だけど、応えられないのだ。本気だと分かるから、だんだんどうしたらいいかわからなくなってくる。迷惑だなんて思っている自分に嫌気もさしてくる。
 なんだ、帰る場所、無いじゃん。
 だったらこのままここにいてもいいのかもしれない。
 寒いし、暗いし、やたらと静かな場所だけど、他にわたしにはいくところがないんだもの。
 やさぐれてふて寝を決め込もうとした時だった。
 目の前を細いたわしのような黒い影がざわざわざわっと蛇行しながら駆け抜けていった。
「ひっ、あ、きゃぁぁぁぁぁぁぁあっっっ」
 今までやる気も生気もなかったのが嘘のように甲高い悲鳴が口から迸り、人生で最速と言えるほどのスピードでばねのように起き上がると、わたしは虫を睨みつけながら後ろに飛び退った。
 が、その足が何か柔らかなものを踏んだような気がして、二度目の悲鳴を上げる。
「うっきゃぁぁぁぁぁっっっ」
 いや。もういやっ。
 冷たく湿った岩壁に思わず抱きつきかけたが、そこにもたくさんの足がある虫がざわめいていそうで、岩肌に触れる直前で身体を離す。
 何ここ。どこここ。本当にどこ? 無理。こんなところ、一分一秒でも長くいたくない。
 もうどこでもいいや。どこでもいいからここから出して!
「〈渡り〉!」
 何のイメージもなく叫んだのが悪かったのだろうか。
 ぎゅっと瞑っていた目を開けても、周りの景色は何も変わってはいなかった。
 冷たく湿った空気と、岩壁に囲まれた暗い空間。ぴたんぽたんと静寂に滴る雫の音。
 まさかの〈渡り〉が使えない事態に、心の奥底から泡のようなものが勢いよく量を増してくるような焦りを感じて、わたしは自分の胸元を掴み、何とか自分を落ち着かせようと腹式呼吸で深呼吸をする。
 ああ、もういっそこの吸い込んだ息で歌ってみる?
「A−ve,Mari−a〜」
 おお、早々この調子。
 愛優妃はこんな状況でも絶対助けてくれないって、知ってるけどね。
「gra−tia ple−na〜,」
 冷たく湿った洞窟は喉に適度な潤いをもたらし、どこまで続いているかわからないトンネルは、気持ちいいくらいに遠くまでよく響く。
 いっそ本番もわたしだけこの洞窟から中継してもらえばいいんじゃない?
 いやいや、だめだめ。ここは気持ち悪い虫が暗い中を蠢いているじゃない。とても安心して歌える場所じゃないわ。
 とか言いながら、口は大いに歌詞を口ずさんでいる。
『Do−mi−nus te−cum,benedi−cta tu in mulieribu−s,』
 今度はちゃんと行きたい場所をイメージしよう。
 お家。
 洋海がいてもいなくても、自分の部屋に引きこもっちゃえば関係ない。
 お家に帰ろう。
「〈渡り〉」
 しっかりと家の自分の部屋をイメージして唱えたつもりだったのに、時空の精霊たちはさわりとも動かなかった。というか、ここ、精霊の気配が薄い?
 精霊は万物に宿っているものだと聖の時に教えられたけど、ここの精霊は数が少ないのか、やる気がないのか。
「歌はもう終わり?」
 気が抜けたところに、男の子の声が割り込んできた。
 声だけだ。姿は見えない。
「綺麗な声だね。おまけに素敵な旋律だ。穏やかで敬虔な祈りに満ちた旋律」
 わたしが答えずに、身を固くして辺りを見回していると、ポッと目の前に火の玉が現れた。
「きゃぁっ」
 飛びのいたわたしは、今度こそ洞窟の岩肌にへばりついて全身に湿った冷たさを感じる羽目になった。
「驚かせてごめん。でも、実はさっきからいたんだよ。君、酷い怪我をしたままここに放っておかれていたから、ちょっと薬をつけてみたりしたんだけど、背中、もう痛くない?」
「えっ、あっ、そういえば、わたし、背中……」
 背中に手を伸ばしてみると、ブラウスは切れたままだったが、手が血に濡れることはなく、痛くもなくなっていた。
「痛くない」
「そう、それはよかった」
 火の玉の淡い灯りに照らし出されたのは、赤い髪と碧の瞳、それから赤銅色の肌を持つ南国にいそうな少年だった。嬉しそうに柔らかく微笑んだその面影にどことなく懐かしさを感じるのはなぜだろう。
「僕はヴェルパ。君は?」
 少年はヴェルパと名乗ると、人懐こい笑顔を浮かべてわたしに尋ねてきた。
 わたしはちょっと考えてしまう。
 背中の傷を治してくれた恩人だし、人懐こい笑顔に悪い感じはしないけれど、こんな真っ暗な洞窟の中にいるのって、普通じゃないよね?
「君は用心深いんだね。いいことだ」
 名乗るくらいどうってことないじゃん、と思いながらも決心がつかずにいると、ヴェルパはくつくつと屈託なく笑ってみせた。
「確かに君が用心するべき理由はあるよね。僕なんか闇獄界から来てるし、君に塗った薬も闇獄界で開発された超即効性の塗り薬。あ、人間の身体にも害がないことは確認されているから安心して」
「闇獄界……」
 聞いただけでも害しかなさそうだが、ヴェルパはあっけらかんとしている。
「それから、僕は君の前世での名前を知っている。――聖ちゃん」
 とどめとばかりに告げられた言葉に、わたしはヴェルパをじっと見つめる。
「会ったことがあるの?」
「何回かね。君はまだ小さかったからあまり覚えていないかもしれないけれど」
 わたしは首を傾げる。
 ヴェルパという名の、赤い髪と碧の目と赤銅色の肌を持つ明るく笑う男の子。
 そんな子に出会ったことがあっただろうか。しかも、聖を「聖ちゃん」なんて呼べるような子は、そうそういなかったはずだ。聖の遊び相手に抜擢された子供たちも「聖様」とずっと呼んでいたのだから。
「その時も、君は歌っていたよ。とってもつまらなそうに歌うのに、声だけはとても綺麗でつい聞いてしまうんだ」
「聖が、つまらなそうに歌を歌っていた?」
「愛優妃の賛歌だったから。皐優祭で歌わせられるんだって言ってた」
 火の玉にうすぼんやりと照らし出されていた洞窟内が、不意にどこかの町の広場に置き換わっていた。中央には噴水があって、その周りを二、三段くらいの階段が炎を描いて刻まれている。周囲を取り囲む建物は石造りで二、三階建て程度。夕暮れを過ぎていたためか、行き交う人の数はほとんどなく、広場で遊んでいた子供たちもみんな帰ってしまった後だった。
 私は噴水を取り囲む階段にぺたりと座り込んで、膝の上に頬杖をついて間欠的に吹きあがる噴水を眺めながら、つまらない歌を歌っていた。
『慈愛深き母なる女神よ 我らが悩み苦しむ時も 側にあれ
 魂が傷つきし時は その御手を以て 安らぎを与えよ
 全てを生み出しし母なるその身に 栄光あれ
 我らを作りたもう その御手を以て 永久に我らに御恵みを与えよ』
 一体誰が作ったのかは知らないが、いつの頃からか皐優祭といえばこの歌をみんなで合唱して始めるのだという。
 うん、とてもつまらない歌だ。
 愛優妃が慈愛深い? 母なる女神? いつも側にいてくれる?
 嘘でしょ。
 それは愛優妃じゃない。
 理想化された姿にも程がある。
 聖が生まれてからは、神界にすらほとんどいなかったくせに、一体何の恩恵を与えてくれるというのか。
「そうそう、その顔。そのぶーたれた顔がかわいくてね。つい声をかけちゃったんだ」
『君は愛優妃様が嫌いなの?』
 そう、ストレートに聞いてきた男の子が、いつだったか確かにいた。
 あれは風環の国で皐優祭が開催されることになっていた年。
 間もなく本番だからと教え込まれた愛優妃の賛歌を歌うことが、どうしても、どうしても、嫌で仕方なかった。私の知っている愛優妃とは違う理想化された姿を歌ことは、意に反して面白くないだけではなく、慈愛深き女神としての愛優妃を認めてしまうようで、心の底から面白くなかった。
 なんとなく、今学校で歌わせられている「Ave Maria」にも同じような気持ちを抱いていた。
 選ばれた女性。祝福された女性。恵まれた女性。
 そして彼女は、子供だけの母親ではなくなった。
 全ての罪深い者たちの心の支えとなった彼女に、愛優妃を重ねていた。
「転生しても、わだかまりって溶けないもの?」
 わたしは唇を尖らせたまま、ヴェルパを見上げた。
 ヴェルパは面白そうにくつくつと笑っている。
「溶けないんだねぇ」
「別に今はわたしのお母さんじゃないし、聖が勝手に恨んでいるだけでしょ」
「でも、君は法王だから、連綿と記憶とともに感情も受け継いでしまっている。聖母というものに、今でも拒否反応を起こしているんだね」
 真っ直ぐに言い当てられて、わたしはヴェルパから目を逸らす。
「さて、聖刻法王。君の今の名前は? 教えてくれないなら、ずっと聖ちゃんって呼んじゃうよ」
「それは……」
 わたしの名前じゃないもの。
「樒。守景樒」
 しぶしぶ自分の名前を押し出すと、ヴェルパはすっきりしたように笑った。
「樒ちゃんね。それじゃあ、樒ちゃん、ここから出るために少し移動しようか」
「そうだ! ここはどこなの? わたし、ヨジャっていう人にやられて捕まって……しかもここ、〈渡り〉が使えないの!」
 うんうんと、ヴェルパはずっと見てきたように頷いている。
「ヨジャ・ブランチカが適当にここに君を置いてったんだよね。きっともう一人の子もどこかに置いていかれていると思うけど。ここはね、外からは入れるけれど、中からは出られない場所なんだ」
 わたしは首を傾げる。
「なぞなぞ?」
「違うよ。本当にそういう場所なんだ。〈渡り〉で入ってくることはできるけれど、〈渡り〉で外に出ることはできない。そういう場所」
「時空が切り離されているっていうこと?」
「そんな大がかりな仕掛けではないよ。内側に魔法を反射させるバリアが張られているようなものかな」
「そういえば、ヴェルパはどうやってここに入ってきたの? 入り口から歩いてきたの?」
「まさか。わざわざ入口から入らなくても、闇を通って入ることは簡単だったよ」
「どうしてわざわざ?」
「君に逢いに」
 え、と見上げると、ヴェルパは照れもせずににこにこ笑っていた。
「まあ、それだけじゃないんだけれど」
 言葉を濁した後、ヴェルパはすっと表情を引きしめた。
「他にもちょっとね、会いたい人がいて」
 わたしに向けていたどこかとろけそうな優しい表情とは打って変わって、眼光は鋭く口元には挑戦的な笑みが浮かんでいる。
「その人もここにいるの?」
「そう。ずっともう長い間、ここにいたはずなんだ。でも、会いに行く決心がなかなかつかなくて」
 さっきまでの強気な笑みが崩れて泣きそうにヴェルパは笑う。
「ここは?」
 ヴェルパに唯一のアリアドネの糸を見出して、わたしは用心深く再度彼に問う。
 ヴェルパは切り替えるように一つ頷いて答えた。
「ここは、ミノタウロスの迷宮」
「ミノタウロスの迷宮? それってギリシアにあったっていう?」
「ギリシアではなく、風環の国だけれどね。でも、構造も目的も、ミノタウロスの迷宮と表現した方が人界で育った樒ちゃんには分かりやすいかと思って」
「つまり、ここは迷路のどこか途中? 中心には怖い化け物がいるの?」
「怖い化け物」
 ヴェルパはそう呟いて苦笑した。
「元は怖かったのかもしれないけれど、そうだね。ここは迷路のどこか途中で、中心には隠された秘密がある」
「ヴェルパはその隠された秘密に会いに行くのね」
「そう。そのつもり。でも、樒ちゃんのこともちゃんと外に送ってからにするつもりだよ」
「出口が分かるの?」
「ううん。言っただろ、ここは迷路だって。ここの法則にのっとって進んでいくしかない。ただ、入れるからには外に出る方法も必ずあるはずなんだ」
「……はず?」
「そう、はず」
「この迷宮の地図を持っているとか?」
「そんなのは作った人か作らせた人じゃないと。しかも、相当大昔からあるから、紙で設計図が残されているなんて思わない方がいい」
 わたしは思わずじっとヴェルパを見つめてしまった。
「言っただろ、君に逢いに来た、って。残念ながら助けに来たって言えるほどの準備はしてない」
 あっけらかんと言ってのけたヴェルパに、わたしはアリアドネの糸だと思ったことを撤回したくなった。
「でも、一人で迷うよりも二人で迷った方が楽しいだろ? 一人だとほんと、嫌になるよ、ここの暗い道」
「それはそうかもしれないけれど……ねぇ、わたしがいる場所が分かったなら、あの男――ヨジャ・ブランチカに連れられてた他の二人の場所も分からない? 外に出られなくても、〈渡り〉で二人のところに行けない?」
「あんな怪我をするくらい恐い目に遭ったのに、まだ他の二人を助けに行こうっていうの?」
「それは……だって……わたしだけ先に帰るわけには……」
 ヴェルパに言葉に、目の前で笑い狂うヨジャ・ブランチカの姿が思い出されて、治ったはずの背中の傷が疼いたような気がした。
「僕は彼とはやりあえるほどの力はないから、守ってあげられないよ。しかも、いざという時〈渡り〉は使えない」
「外に出ようとしなければいいんでしょ? 中で逃げればいい」
「すぐに追い詰められると思うな。しかも、彼は君にはあまり興味がない。さっき助かったのはある意味奇跡で、次に会ったらあっさり殺されるかもしれない」
「興味がない? 殺される……?」
 淡々と事実を突きつけられたことで、かえってその言葉が重みを増して聞こえた。
「ヨジャ・ブランチカが興味があるのは、風環法王と火炎法王だけだよ。時空を操る聖刻法王は、闇獄主たちにとっては生け捕りしろって命令が出てるくらい貴重な存在だけど、君がここに置いて行かれたってことは、彼はそんなこと微塵も意に介してなかったってことだよね」
 生け捕りって何? 生け捕りって。一体誰がそんな物騒な命令を出しているのよ。
 そう聞きたいのをいったん堪えて、とりあえず話を先に進めるための質問をする。
「わたしはどうしてここに置いて行かれたの?」
「いらなかったからじゃない? 火炎法王とともに連れては来てみたものの、興味が湧かなかった」
 それはそれでショックだ。
「詩音さんは?」
「彼女もどこかに捨てられてると思うな。さっき、そんな気配がしてた」
 じゃあこんな厄介な場所に連れてこないでくれ、と叫びたかったが、ヴェルパに言ってもしょうがない。
「それなら、まずは詩音さんと合流する。詩音さんも怪我してたもの。早く見つけて治癒してあげないと」
 そう思ったら、早く〈渡り〉で迷路の中を渡れないか試してみたくなった。
「行こう、ヴェルパ」
 わたしが差し出した手を、ヴェルパは困惑気味にとる。その手を握り、わたしは詩音さんの姿を思い浮かべて唱える。
「〈渡り〉」
 すぅっと身体が時空に溶け込むような感覚がした。
 いける!
 今度はいける!
 そう思ったのに、着地した場所は相変わらず真っ暗な闇の中だった。
 これでは移動できたのかできていないのか分からない。
 気を利かせてヴェルパがまた小さな灯火を浮かべる。
「場所、さっきと変わっていないみたいだね」
 周りを見渡したヴェルパは、冷静に絶望的な言葉を繰り出した。
「そんな……」
「外に出るだけじゃなく、時空間を歪めること自体ができないのかも。樒ちゃんには不利でしかない場所だね」
「どうしてそんな、誂えたように……」
「それは……ここが時空を乱されたら困る場所、だからじゃないかな。樒ちゃんに悪意があるんじゃなく、正当な目的を保護するためにそうなっているのかも」
「正当な目的?」
「しょうがない、大人しく歩いてゴールを目指そうか。知ってる? 迷路って、片手をずっと壁につけて進んでいけば迷わないらしいよ」
 ヴェルパは自分の言葉通り、片手を塗れた岩肌に添え、もう片方の手をわたしに差し出した。
 わたしはおずおずとその手を握る。
 考えてみれば、わたしより年上の男の子の手なのだ。勿論私よりも大きくてしっかりしているけど、どこかまだ、華奢な感じがした。その手に導かれるまま、わたしはヴェルパと共に歩きだした。
「樒ちゃんは、風環の国の存在意義を知ってる?」
「風環の国の存在意義?」
「法王たちが治める八つの国は、天宮を取り囲むように領地を八等分にされてるよね。それはもちろん闇獄界から天宮を守るためでもあるんだけれど、それは四楔にも言えること。法王の国には法王にしかできない役割を果たすための場所がある」
 ふと思い出したのは、育兄さまの国だった。
「育命の国には輪生環がある。亡くなった魂の記憶を浄化する憶年樹の森があって、その奥に新しい生へと送り出すための輪生環がある」
「そう。それと同じように、風環の国が担う大きな役割がある」
 わたしは少し首を傾げる。
 風環の国は気候が療養に丁度良くて、何度も足を運んで滞在してきた。その度に見える景色は、いつもそれほど変わらない。風に靡く草原があって、川が流れ、山や谷には吹き渡る風を使った風車がたくさん立ち並び、小麦粉を挽いている。神界の食糧庫と呼んでも差し支えないくらい、風環の国は小麦粉をはじめとする穀物の産地で、それもこれも温暖な風が通年を通して適度な潤いと穏やかな気候を約束しているからだ。
「神界の食糧庫と呼ばれていたのは知ってるわ」
「そうだね。確かに穀物の生産量はトップだし、大地の豊かさは他国が羨むくらいだ。だけど、それとは別の裏の顔があるんだよ」
「裏?」
「神界の空気清浄器」
 ヴェルパの言葉に、わたしは深く首を傾げた。
「空気清浄器?」
「そう」
 ヴェルパは足元のちょっとした段差を気遣いながら、わたしの手を引いて薄明りを頼りにどんどん進んでいく。もはや同じ場所を幾度もぐるぐる回っていても、進んでいても後退していても、わたしにはわからない。
「風環の国ができた頃、闇獄界もまた版図を広げようと必死だった。歪を見つけては神界に侵攻し、瘴気を撒き散らし、魔物を差し向ける。この瘴気というのが厄介でね。ここにも充満しているし、僕もそれを渡ってきたからなんだかんだ言える立場じゃないんだけれど、瘴気を吸いすぎると、人はネガティブになる。ネガティブな感情が積もり積もると、見た目もえげつない魔物が具現化する。生み出された魔物は、人を襲い、新たな悲しみや恐怖をもたらす。瘴気が溜まりに溜まっている闇獄界は常にそんな感じなんだけど、神界は時空の歪や戦争で魔物たちが瘴気を撒き散らしていっても浄化できるように巨大な浄化装置を風環の国に作ったんだ。それがこの、ミノタウロスの迷宮」
 ヴェルパが淡々と語った話は、何度も風環の国には滞在していたというのに、聖も知らない思いがけない話だった。当然、風兄さまは聖にそんな話をしたことはない。
「ここが迷路状になっているのは、この道そのものが長い長い浄化管となっているからなんだ。人間の腸みたいなものだよ。だから、入り口ほど瘴気は濃くて、奥に行くほど空気は浄化されて瘴気は薄くなっていく。気持ちが楽になっていく方へ進めば、間違いはない」
「それを頼りに歩いていたの?」
「そう。他に目星になる物もないからね」
 言われてみれば確かに、ヴェルパが出した小さな火の玉の灯りが少しずつではあるけれど徐々に明るさを増しているように見える。
「もしここが人間の腸のようなもので、奥に進めば進むほど瘴気が薄くなるというのなら、この壁や天井、床から吸取られた瘴気はどこで処理されているの?」
 四方を囲む岩壁がだんだん生き物に見えそうになってくる。指で触れても相変わらず冷たくうっすらと濡れた岩の感触しかしないのだけれど。
「さっき僕はここをミノタウロスの迷宮に例えたけど、中心にはきっとミノタウロスがいる。誰も、愛優妃でさえも教えてくれなかったけど、僕はようやく彼の居場所を探し当てたんだ。あとは確かめるだけ」
「そのミノタウロスが、人間ではなく、瘴気を食べている?」
「食べて糧にできているのならいいんだろうけどね。聖刻法王が使う魔法の中に、時空の浄化の魔法はある?」
「まあ、あるけれど」
「それはどういった仕組みのもの?」
「一定の空間の中にある瘴気を浄化している……はず」
 〈浄化〉を使う時のことを思い出しながら、ちょっと自信なくわたしは答える。
「一定の空間の中にある瘴気を、例えばどこか別の闇獄界の空間に移してしまうということも可能だよね」
「それも可能だけど、闇獄界に瘴気を送って空になった空間を埋めるものを代わりに持ってこなきゃいけなくなるかも。闇獄界にはそれは期待できないから、やるとしたら神界や人界のどこかに瘴気を追いやって、そこの綺麗な空間と交換することになる」
「〈浄化〉の魔法ってさ、瘴気と呼ばれているものの性質を反転させることだから、すごく力を使うと思うんだよね。しかも、聖刻法王がそれをやる時には、さっき樒ちゃんが言ったような空間を交換するという物質的なアプローチではなく、負の感情の塊を正の感情の塊に転換させるっていう精神的なアプローチになると思うんだ。〈浄化〉使うと、すごく疲れない?」
「わかる! すごく疲れる!」
「八人の法王たちは、概ね統仲王が統べる物質的なアプローチとしての精霊の使役を行っている。だけど、瘴気とか闇獄界の魔物にとって本当に恐ろしいのは、愛優妃が統べる精神的なアプローチによる性質を転換させる魔法だと思うんだ。低級の魔物は物質的なアプローチで倒せるけど、高位になるほどそれだけでは立ちいかなくなる。――樒ちゃん、愛優妃って聞いただけで無愛想にならないの」
「そ、そんなつもりは」
 ないけど、愛優妃の方が優秀みたいで、ちょっともやっとしただけだ。
「まあ、ちょっと脱線しちゃったけど、この迷路の中心にいる化け物は、おそらく常に〈浄化〉の魔法を使っている状態じゃないかと思ってるんだ。そうでなければ、長年、神界や人界の大気が幾度かの大戦を経てもなお、綺麗に保たれつづけることができるわけがないんだ」
「それって、法王でも厳しいんじゃない? たとえ法王の身体でもずっと魔法を、しかも〈浄化〉の魔法を使いつづけるなんて、程度の強弱はつけるにしても、途切れなくなんて無理だよ」
 考えただけでもそれは恐ろしい。どんなに〈浄化〉の魔法のレベルを低く設定したとしても、常に体力と気力を奪われつづけることになるわけでしょ?
 しかも、風環の国にそれがあるというのなら、動かしているのは風兄さまだったはずだ。風兄さまはそんな疲れている様子、おくびにも出したことはない。
「そう、無理なんだ。普通の法王には」
「普通の法王?」
 ヴェルパが噛みしめるように頷いた時、前方で呻き声と身を捩るように動く影が見えた。