聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第3章 ミノタウロスの迷宮

2(宏希)
 黒い瘴気が晴れ、夕方の日差しが路地に差し込みはじめても、おれは呆然としたまま立ち尽くしていた。
 さっきまで誰もいなかったのが不思議なほどいつの間にか通りには人が戻り、夕方らしいざわめきが溢れはじめている。
 それでも、科野達が連れ去られた後には生々しい血の跡が残っていた。
「ヨジャ・ブランチカ……!」
 小さく叫んでみたところで、奴のところへ飛んで行けるわけもない。
『また後悔したくないなら、全て取り戻しに来い』
 そうは言われても、一体奴はどこに消えたのか。闇獄界ならお手上げだし、神界だとしても、おれに神界に飛んでいく力などない。
 一人では、何もできない。
 こういう時、誰に相談したら……
 ふと思い浮かんだのは、工藤だった。
 科野が統仲王の生まれ変わりだと言っていたあの生徒会長。
「統仲王なら……」
「呼びましたか?」
 背後から声がして、おれは思わず叫んで飛び退いた。
「く、工藤!?」
 学校帰りだったらしく手には鞄を持っているが、後ろには黒塗りの車が控えている。
「ここですね、詩音が連れ去られたのは。まったく、警察になど連絡する前に僕に連絡してくれればよいものを」
 焦った様子もなければ怒りも不安も感じさせないいつもの学級委員たる調子で工藤は辺りを見回す。そして、血だまりを見つけて、分厚い眼鏡の向こうがやや厳しい表情になった。
「これは誰の血ですか?」
 工藤は振り返らずに尋ねた。
 声にはうすら寒い怒気が漂っている。
「それは、科野のだと思う」
「こっちは?」
「位置的に守景」
「じゃあこっちが」
「草鈴寺」
「はあ」
 工藤はこれ見よがしに深いため息を吐く。
「それで、河山君。僕に御用事とは?」
 もはや殺気を帯びているとしか思えない声でおれを振り返った工藤は、にっこりとすごみのある笑みを見せた。
 嫌なことに、ああ、統仲王だなぁと思う。この自分本位に殺気を人にぶつけてくるあたり、本当に統仲王だ。
「科野達の後を追いたい。でも、行き方が分からない。どこに行ったかもわからない」
 素直にそう告げると、工藤は呆れたように首を振った。
「これをやったのは?」
「ヨジャ・ブランチカ」
 そんな工藤に臆してはいられないと奴の名を口にしたが、思わず声が震えた。
「ふぅん。この大量出血の原因は分かりますか?」
「鎖鎌を持っていたから、多分それだと思う」
「そうですか。三人がやられているのを黙って見ていたわけではないんですね」
 ぎらりと眼鏡の奥の工藤の目が光った。
「そこの喫茶店を出たら科野の悲鳴が聞こえて、駆けつけたらもう三人は……」
「魔法はどうしました? 貴方、風環法王でしょう? ヨジャ・ブランチカの背中に爪痕一つ残せなかったんですか?」
 ぐっとおれは言葉に詰まった。
 背中どころか対面して言葉まで交わしていたというのに、おれは結局恐さに負けて救いの風さえ呼べなかった。
「まぁ、貴方、偽物ですもんね。使い物にならなくても仕方ありませんね」
 傷ついているところに塩を塗りこむようなことを言われて、俯いていたおれは思わず顔を上げる。
「魔法石を持たない法王なんて、ねぇ?」
 工藤は口元に嘲りの笑みを浮かべていた。
「科野さんの後を追いたい。それは結構。でも、その次が続かないということは、御自分でもわかっているのでしょう? 思うように魔法も使えない自分が一人で行ったところで助けられるかどうかわからない、と」
 おれは言い返したい気持ちをぐっとこらえて口を引き結ぶ。
「貴方は昔から賢いところが利点でしたからね。ああ、すみません。今は同じクラスメイトなのに、つい上から目線になってしまって。でも、だから僕は愛優妃に言ったんですよ。取引なんかしてないで、さっさと風の精霊王との契約を無効化してしまえばよかったのに、と」
 キースと風の精霊王との契約を無効化する――おれの魂を破壊することを勧めていたのか、統仲王は。
「カインリッヒは貴方のことが大嫌いでしたからね。私利私欲であんな乙女心を弄ぶようなことをされたら、一生かけても恨み続けるでしょう。到底彼女の怒りは解けない。それなら、魂を乗り換えて契約させ直させるしかないじゃないですか。こちらも力のない法王などいらなかったのだから。まったく、愛優妃の甘さにも困ったものです」
 工藤はわざとらしくため息までついてみせる。
「それなら今からでもそうしたらどうだ? それで真の風の法王が誕生するなら……」
 売り言葉に買い言葉。
 まさにそんな感じで何の覚悟もなく言い返した時だった。
 工藤は幅広の白銀の剣の切っ先をおれの喉元に突き付けていた。
「いいんですか? 二度と科野さんには会えなくなりますよ? 妹さんにも、弟さんにも、お母さんにもお父さんにも、二度と会えなくなりますよ? 覚悟はできていますか? 言い遺したことは?」
 工藤の放つ殺気は本物だった。目もしっかり据わっていて、本気だと伝わってくる。
 生唾を飲みこんだだけで、喉仏を裂かれてしまいそうだった。
 いや、すでに首筋に生暖かいものが流れ落ちていくのが分かった。
「きっとまた、後悔しますよ?」
 すぅっと工藤の剣の切っ先が下へと流れていく。
 後悔。
 ヨジャにも言われた。あいつに何が分かると思いながらも、やけにその言葉は胸に刺さっていた。
 剣の切っ先は制服のシャツの胸の合間も切り裂いて、ぴたりと心臓のあたりに狙いを定めて止められる。
「後悔しようにも、魂が消滅してしまえばもう遅いんですけど、ね」
 剣の持ち方を両手で突き刺す形に持ち替えた工藤は、身を沈めてぐっと剣を握る手に力を込めた。
「どうしたら!」
 振り絞ったおれの声はやたら大きく裏返って震えていた。
 虫でも見るかのように工藤がおれを見る。
 おれはそんな工藤から目を逸らさないように見下ろす。
「どうしたら、……おれは真の法王になれる?」
 工藤はおれから目を逸らし、心臓にあてがった剣の切っ先を見つめる。
「そんなことも分からないまま、貴方は人にしては気の遠くなるような年月を法王のふりして過ごしてきたんですか? その間、真の法王には一度もなろうと思わなかったのですか?」
 言葉が詰まりそうになるのを堪えて、苦い記憶の断片ごと口から外に転がし落とす。
「おれは、人だったから! 人であることをやめたら……炎を愛せなくなると思った。同じ法王になってしまったら……姉弟になってしまったら……越えられなくなる、と……」
「これだから人というものは。綺麗ごとのように言っていますが、貴方は人という立場に逃げ込んでいただけでしょう? それで与えられた責務も果たそうとせず、炎や皆の前では都合よく法王という立場を弄んでいただけです。私はね、八人の兄妹中、中途半端にへらへらと笑っている貴方が一番大嫌いだったんですよ。人の記憶を残して法王になりたい? 私たちから風の精霊王との契約者を奪っておきながら、浅はかなことこの上ない。本来であればその罪業、無と帰して償うべきところ」
 工藤は剣を一度引くと、おれに向けて勢いをつけて突き刺してきた。
 おれは意を決してその剣の刃を両手で握る。
 痛みよりも熱さが勝る手のひらが、やがて血でぬめっていく。
「工藤、おれを殺したら、科野達のこと助けてくれる?」
 剣を胸に押し込もうとする工藤の手が止まる。
「そういう、覚悟もない癖に都合のいいことを言ってかっこつけようとするところも、大嫌いでした、よ」
 勢いを込めて腹を蹴り倒されて、おれは無様に道路に転がる。
 工藤は身を捩ろうとするおれの腹に足をのせ、耳のすぐ脇に剣の切っ先を勢いよく突き立てた。白銀の剣からはぴしぴしと青白い雷光が迸っている。
「どうしたら真の法王になれるかって? 他の法王たちがどうやって精霊王の力を手にしたか、貴方でも知っているでしょう?」
「……契約?」
 血の味がする口を必死に動かして、おれは呻くように答える。
「ええ、そうです。中途半端ながら、人の身で貴方もしたことです」
 工藤の眼鏡の奥の瞳が、統仲王と同じ金色に変じていた。猛禽類のような目で睨まれても、ここで目を逸らすわけにはいかない。逸らしたらきっと、今度こそやられる。
 その砂漠のような金の瞳の奥に、まだリントヴルム伯爵嬢と呼ばれていた頃のカインリッヒの横顔が映し出されていた。頬を赤らめて見つめているその先にいるのは、キース。彼女は思いを寄せる相手に言われるがままに手首を切ってその血を周方王の剣に吸わせた。そして、キースも周方王の剣に己の手首から血を与える。
「人のできることなど、所詮この程度です。契約の憑代に魔法石ではなく剣を使うとは。己の愚かさを思い出しましたか? キルアス・アミル」
 彼女の恋心を知っていて、キースは彼女を唆した。
 いや、おれは、自分が風の精霊王とも知らないただの伯爵令嬢だった彼女に近づいて、彼女が自分に心を寄せるように笛を吹いて曲を送り、偽りの愛を囁いた。それもこれも、師匠から風の精霊王と血の契約を結べば強力な力が得られると教えられたから。エマンダに、周方城の奴らに復讐したい一心で、おれは純粋な彼女の心をその気もないのに弄び、唆し、――後で知ったことだが、彼女の魂をおれの魂ごと周方王の剣に縛りつけた。
「思い出しましたか? 人としても生きるに値しない罪を犯した昔のことを。貴方のような人が神界に存在できたことが、今でも奇跡だと思いますよ」
 奥歯を噛みしめて、おれは工藤の罵倒に耐える。
「それを知りつつ炎が貴方をきちんと裁かなかったのは、どうしてでしょうね。裁くにも値しないと思ったのか――それは分かりませんが、貴方は炎に一度救われているでしょう? あの子は貴方の代わりに自分が剣を持ち炎を操り、神界を変えようとしたのですから。炎がどこまでも戦おうとするのは、貴方との約束のためではありませんか?」
 彼女は、おれのことを覚えていたんだろうか。
 結局、おれはそれを確認することもできないまま二度死んでしまった。
「でも、貴方はもうただ守られるだけの子供ではありませんよね? 貴方は炎を守る力を手に入れられる。守る力は、癒すだけでは足りないのは分かっていますね? たとえ誰かを傷つけることになっても、行使するだけの強い意志が貴方には必要なのですよ」
 砂金の瞳の向こうには、紅蓮の咲き乱れる湖が映っている。
 キースが晩年を過ごし、エンと暮らしたあの湖。
「神様はすべてお見通し、か。怖いな、そこまで全て知った上でおれを受け入れていたのか」
「愛優妃がそうしろと言うのでね」
「奥さんには尻に敷かれ、とんだじゃじゃ馬でも愛娘は可愛い、か。父親だねぇ」
 正直、統仲王がそんなに炎を愛しているなんて思っていなかった。聖のことは分かりやすいくらいに溺愛して見せていたが、おれが炎と親密になろうと、陰で何をしようと、統仲王が嫉妬することもなければ邪魔に入ることもなかった。むしろ、統仲王が炎について執着を見せたのはこれが初めてじゃないだろうか。
「ねぇ、河山君。今生、貴方にそこまで背負わせるのは酷だと思っているのであまり言う気もなかったのですが、炎には大きな傷があります。貴方も薄々気づいているでしょう?」
「ホアレン湖に流れ着いた時、か」
「それだけではないのですがね。でも、それだけのものを、我々は炎に背負わせました。その代わり、役目を果たしたら、炎が望むものは何でも与えようと思っていました。それがせめてもの償いであり、彼女の慰めになると信じて」
 苦いものを口に含んでいるかのように工藤の口調は慎重になり、目は探るようにおれを見てくる。
 逆に、おれの方が心が鋭く研ぎ澄まされていく。
 炎に何を背負わせた?
 ホアレン湖に流れ着いた時の炎は、廃人同然だった。それほどまでに心身を耗弱させるような何を背負わせたというんだ? しかもそれだけではない、と。
 風が生まれる前のことを、おれは炎に尋ねることはしなかった。ホアレン湖のことも、口の端にも乗せなかった。思い出させてしまったら、キースのことまで思い出すんじゃないかと思って。おれとキース、どっちが好きなの? そんなこと、聞きたくもなかった。自分に嫉妬なんて、馬鹿らしいだろう?
 役目を果たしたら、炎が望むものは何でも与えようと思っていた。
 それは、つまりそれだけ重い役目を彼女に押しつけたということだ。心が空っぽになってしまうような、夜な夜な恐怖に泣き叫んで飛び起きるような役目を、優しい彼女に押しつけたということだ。
「おれは、炎が望んでくれたから生かされたの?」
 すぅっと工藤の砂金の瞳が眇められた。
「そうですね」
 ああ、今嘘を吐いたな、と分かるような、心のこもっていない適当な返事だった。
 炎は確かにおれを望んでくれたのかもしれない。キースとしてのおれを。それを受けて、統仲王も愛優妃もおれを受け入れ、炎との仲を見て見ぬふりをし通した。
 でも、おそらく、それだけではない。
 統仲王は、愛優妃は、おれを殺せなかった。
 契約で縛りつけ合ってしまったなら、愛優妃が言った通り乱暴におれの魂を破壊してカインの魂だけ生かして次の契約に結べばよかった。でも、本当はそれもできなかった。
 媒介しているものが魔法石ではなく周方王の剣だったからなのか、それとも、風環法王となるべき真の魂のありかが問題だったのか。
「今生でも炎のために尽くせなんて言う気はありません。全てが終わったら、好きにすればよろしい。ただ、それまでは、炎には貴方が必要です」
 全てが終わったら?
 それまでは、炎にはおれが必要?
 科野には、ではなく、炎にはキースまたは風が必要。
 おれは意味を探るために工藤の目をじっと見つめたが、未来は映し出してはくれなかった。
 なんだかとても厄介なことに巻き込まれようとしているのは確かなようだった。
 下手をすると、キースが風環法王として迎え入れられた時以上に。
 もしかしたら、ここで殺されて無に帰せしめられていた方が幸せだったと思えるような未来が待っているのかもしれない。
 それでも、おれは。
「統仲王、魔法石をくれ。聖の幾度目かの生誕祭の時、統仲王は聖に誕生日プレゼントだと言って魔法石を渡していたが、おれには生まれてこの方それがなかった」
「風環法王には必要ありませんでしたからね」
「でも、転生して人界に来てしまったら、それは引き継げない。だからおれは、こんなにも弱い」
「風環法王はだましだまし法王をやってみせてこられましたが、転生して神の血も受けない、しかも人間の身体になってしまっては、そうそう力も使えるわけがありませんね」
「だから、契約をし直す」
「カインの怒りは解けていないと思いますが」
「誰かを助けたいと願った時には、力を貸してくれた」
「守るために誰かを傷つけるのは、許してくれるでしょうかね」
「誠心誠意、許しを請うしかないだろう」
 真面目に言ったつもりなのだが、工藤は苦笑したようだった。
「風の精霊王がどこにいるか分かっているのですか?」
「……」
 ふっと浮かんだのは茉莉の顔だった。
 昨日の地下鉄のことといい、そう、東京に来る前、アパートで父親に襲われた時も、風の精霊が助けてくれた。
『やっぱりいつだって同じじゃない! あんたはわたしを裏切る。いつもそう! いいように使い倒して、はいそれでおしまい。使い捨てることに微塵の罪悪感もないんだ!』
 まさかという思いと、申し訳なさとやりきれなさと。
 それでも、当たってみるしかない。
「いいでしょう。貴方に契約の器を授けましょう」
 工藤はそう言うと、おれの顔の横から白銀の剣を引き抜き、おれを踏みつけたままおれの胸めがけて振り下ろした。
「お兄ちゃん!」
「工藤!」
「工藤さん!?」
 ちらと視界の隅に入ったのは、茉莉だった。
 それから、夏城と守景弟。
 おれは工藤を見上げて思わずにやりと口元に笑みを浮かべた。
 工藤も挑むように凄味のある笑みを浮かべている。
 統仲王の白銀の剣〈陰神〉は深々とおれの胸を貫き、辺りに白銀の光を撒き散らした。
「汝にこれを授けよう。これなるは風の魔法石。汝の魂を封じ、風の精霊王の魂を封じるもの。これを媒介とし、血と血で契約を結び、魂を繋げ」
 白銀の光は蛍火のような淡い黄色い光へと移り変わると、おれの胸の上で一点に凝縮し、弾けた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 宏希! 起きなさいよ、ばか宏希!」
 ぱしんと頬を張られた気がして、おれは目を開けた。
 もうあの眩しい光はどこにもその残滓を残してはいなかった。
 真上には泣きべそをかいている茉莉。その横には守景弟と、反対側には夏城が心配そうにおれを覗き込んでいた。その後ろでは立ったまま腕を組んで明後日の方を見ている工藤がいる。
 身体に痛みはない。
 怠いどころかやけにすっきりとしている。
 さっき茉莉にはたかれたほっぺたを除いて。
「茉莉」
 おれは泣いて鼻を赤くした茉莉の頬に手を伸ばした。
「ごめん、心配かけて」
「もう、ばかっ。触らないでよ!」
 バシッと叩き落とされるかと思ったが、茉莉はおれの手を両手で握りしめ、額に当ててほっと深くため息をついていた。
「言ってることとやってることが逆だぞ」
「うるさい! 黙っててよ。ほんとに、殺されちゃったかと……思ったんだから」
 途中で言い淀んだのは、すぐ側に工藤がいたからだろう。
「無事でよかったよ」
 ぼそりと頷いたのは夏城。
「ほんと、工藤さんが河山さんのこと足蹴にしているところみたら、こっちが生きた心地しなかった。手に物騒なもの持ってたし」
 うんうんと頷いているのは守景弟。
「心配かけて悪かったよ。それで、三人ともどうしてここに?」
 うっすらと回答は予期しながら、おれは茉莉、夏城、守景弟を見回し、最後にちらりと工藤を見た。
 夏城も守景弟も、茉莉も、併せて工藤を見る。
「工藤に呼ばれた」
「工藤先輩に呼ばれた」
「工藤さんに呼ばれた」
 三人とも異口同音に工藤に用件を尋ねるように声を揃えた。
 それまで明後日の方を向いていた工藤は、にっこりと微笑んで振り返った。
「河山君が助けてほしいというので、皆さんにもご協力いただきたいと思いまして」
「なっ、んだよ、それ!」
 勢いよく起き上がると、くらりと貧血のような眩暈に襲われた。
「違うんですか?」
 そう言いながら、工藤は血溜の残る場所に手を伸ばし、大きく空間を切り取るような動きをして見せた。空間が歪むような鈍い波動が広がったかと思うと、そこには人一人通れそうなくらいの虹色の扉が現れていた。
「科野さんの血の跡を辿って開きました」
「……工藤、お前本当に統仲王だったんだな」
「いまさら何言ってるんですか、夏城君」
「いつも高みの見物ばかりだっただろ、今まで」
「仕方ありません。今回は詩音まで連れて行かれてしまいましたから」
 達観した顔で工藤は言っているが、あれはかなり怒っている。
 夏城は夏城で、守景弟と顔を見合わせる。
「守景もか? 誰にだ?」
「ヨジャ・ブランチカ。闇獄十二獄主の一人〈猜疑〉の名を冠する男です」
 そう言って工藤はおれを見た。
「闇獄十二獄主? あいつが? いつから……」
 思わず絶句したおれから、工藤はすっと視線を外す。まるで、おれにそれを問う権利などないかのように。
『ひどい男だ。俺は約束を守っただけなのに、逆恨んでお前は俺を殺した』
 ヨジャの言葉が耳の奥で響く。
 違う、とおれは言おうとした。でも、声は出なかった。ヨジャは「真実だけが音となる」と言った。
 おれは、どうしてそこが思い出せないのだろう。
 いや、考えてみれば今まで見てきた夢は全て自分に都合のいい甘い夢ばかりだった。風と炎が睦みあっている夢ばかり。己がキースだという過去を背負いながら、罪悪感と共に自分は認められているんだと酔いしれていた。キースの過去そのものを見たのは昨日の朝が初めてで、それから怒涛のようにキースの過去が暴かれて。
 ヨジャ・ブランチカのことさえ、昨日地下鉄の入口で襲われた時も思い出せやしなかった。キースが幼い頃から側にいて、産みの母を殺し、育ての父母まで殺した相手だというのに。ああ、それからキース自身も。
 キースを殺すことが、ヨジャにとっては約束を果たすことだったのか?
 おれはそれを逆恨んで、ヨジャを殺した。
 “おれ”は風。
 風が、ヨジャを殺した、ということだ。
 じゃあ、何故あいつは生きている?
 あの頃と変わらない姿かたちで、おれの前に現れることができた?
 キルアスの時から数えれば、とうに何度も転生していたっていいはずだ。そもそも、風の時代にヨジャが生きていることさえおかしいのだ。
 ――時の実。
 法王に仕えたり、四楔の将軍となったりして、功が認められた者に与えられる老化を止めるための実。
 あいつは、どこかでそれを手に入れている。
 そうでなければ、少なくとも風に殺されるまで生きてはいない。
 それとも、風に殺された時点ですでに闇獄主になっていたのか。
「工藤先輩、その血、葵先輩の血だって言いましたよね?」
「ええ」
「宏希、あんた、指くわえて見てたの?」
 茉莉に睨まれて、おれは思わず視線を逸らす。
「ヨジャって、昨日のアレ?」
 さらに問い詰められて、おれは小さく頷く。
「茉莉、その……」
「わたしが行って何ができるかわからないけど、葵先輩がピンチだっていうなら、この馬鹿兄の尻叩いてでも連れて行かないと。宏希、今度は逃げんじゃないわよ?」
「ひっ」
 誠心誠意許しを請うどころか、話さえもはぐらかされた上に悲鳴しか上げられなかった。
 おまけに、ぎろりと茉莉はおれを睨みつける。ここで余計なことを言うなとでもいうように。
「それで、工藤さん、この扉どこに繋がっているんですか?」
 守景弟が虹色の扉に腕を差し込んで上下させながら足踏みしている。早く姉を助けに行きたくて仕方がないのだろう。
「科野さんが連れ去られた場所に繋がっているはずです」
「ふぅん」
 守景弟はそれ以上尋ねようとはせず、ためらうことなく虹色の扉の向こうに滑り込んだ。
 続いて何も言わずに夏城も消えていく。
「さ、宏希、行くよ!」
 茉莉に手を引っ張られてずるずると立ち上がらせられて、虹色の扉の前まで連れて行かれる。
「工藤」
「僕は最後にこの扉やその辺の諸々綺麗にしてから行きますから」
 いつもの生徒会長スマイルで工藤は答える
「そうじゃなくて。工藤、お前ならこんな回りくどいことしなくても、一人で……」
「貴方、愛優妃に昔言われたことはありませんでしたか? 人は神にはなれない。人の身体では精霊王との契約の重みに耐えきれず、遅かれ早かれ壊れていたはずだ、と」
「それは……」
「同じですよ。この身体など、所詮人間の身体。しかも、さっきあんな無理をした上にこんな扉まで。出血大サービスですよ、ほんと。もしも僕が途中で皆さんについていけなくなっても、詩音にはよろしく伝えておいてくださいね。これで後で責められたらたまりませんから」
「そういえば、工藤と草鈴寺って、どういう関係なの? 名前で呼んでいるってことは、親しいんだろう?」
 工藤は眼鏡をつと上げて、呟くように言った。
「ただの叔母と甥ですよ」
「えっ、叔母と、甥?」
「ええ、それだけです。さ、早く行ってください。この扉を維持するのは結構大変なんです」
 工藤に言われ、おれは茉莉に引っ張り込まれるようにして虹色の扉の向こうに足を踏み入れた。