聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第3章 ミノタウロスの迷宮

1(キース)
 平穏な日々というのは、時間の感覚を狂わせていくもので、森の鳥たちが鳴き交わしている声が聞こえれば、尚更平和にうつつを抜かしていくようになるものだ。
 ぼんやりと、湖の岸辺近くの大石に座り込んで、もうじき花開くであろう蓮の大きな葉の間を漣うって静かにゆっくりと打ち寄せる波を眺める。
 今日は客もなく、長閑な一日になるはずだった。
 山の麓の村人たちの鎌や包丁の打ち直しも一通り終わって届けてやり、かわりに干し肉をもらって帰った日の翌日、珍しく注文が途絶えた初夏の午後のことだった。
 おれの心はもう、十五の頃のように復讐に燃え盛ってはいなかった。
 エマンダを殺して本懐を遂げ、父の剣はこの湖に沈んだままだ。今頃錆びついて、打ち直しても使い物にならなくなっていることだろう。
 そうだといい、と、いつも湖を眺める度に思っていた。
 そして、あの少女のことを、少し思い出す。
 裁きを司る烈火のごとき心を持った、美しい女神のことを。
『いつか――そう、いつか。お前のような子供が剣を持たなくてもいい世界を作ってやる。その時までお前は生きて、それを見届けろ』
 彼女がおれに与えた罰を、今日も甘受している
 一体どれくらいの時を生き続ければ、彼女の理想とする世界を見ることが叶うのだろう。
 彼女の理想が果たされるのが先か、周方王の血を引いているがため、神界の一般民よりも少しばかり歩みの遅い時を持つおれの寿命が尽きるのが先か。
 世界は変わらず、朝と昼と夜を繰り返しつづけ、青空に鳥たちは黒い影を残して飛んでいく。
 それにしても、今日はいつもよりも鳥たちの泣き声が少し騒がしいかもしれない。
 天変地異でも起こる前触れか。愛優妃様の第七子も臨月が過ぎてもまだ生まれないというし。
 そう言えば、数か月前、闇獄界との戦争に出兵するから剣を打ちなおしてほしいと、やたら使い込んだ剣を持ってきた男がいた。それも一人じゃなく、何人か。
『剣は打っていない』
 たった一言で断り切れるなら、男たちもわざわざこんな隠者が住むような森の奥まで剣の打ち直しを依頼には来ない。
『あんたの腕がいいっていうから、奈月から来たんだ』
『おれは火炎の国の都、ゼロービアから』
 二、三人が一時に訪ねてきたときには、追い返すのに苦労したものだ。
 あれからどれくらい経ったのだろうか。
 闇獄界との戦争はどうなったのだろう。
 彼らが言うには、奈月から闇獄界が侵攻してくる兆しがあるとのことだったが、今日もこの森は戦争に踏み荒らされることもなく、平和なままだ。
 この大地の上、空の下、人々が生死をかけて戦っている場所など本当にあるのだろうか。それとも、この場所が浮世離れしているだけなのか。
 ――剣は打たない。
 それは、女神がおれに罰を与えて去っていった後、取り戻されていく日常の中で決めたことだった。
 一人だけ、復讐を果たすために師となってくれたシャルゼスに紹介されたと言って訪ねてきた鉱土法王と名乗る子供の鉱石を打ったふりをしたが、あれはそもそも意志を持った精霊が入り込んでいて、おれが打ち直すまでもなく、自ら姿を剣の形に変えてみせたのだった。おれは鍛えたふりだけするように口裏を合わせればよかった。
 火炎法王といい、鉱土法王といい、一般庶民にはそうそうお目にかかれるはずもない雲上の神々と出会う機会があるというのも不思議なことだ。しかも、彼らの方から来るのだから、何か因縁のようなものを感じずにはいられない。
 おれが、風の精霊王と契約を結んだままだから――?
 湖面に向けて手のひらをかざす。
 さらさらと風は湖面を撫で、寄せてくる波に逆らって小さな波涛を現す。
 波涛は大きく湖面を覆い隠す蓮の丸い葉を揺らし、時に避けさせながら対岸まで進んでいく。
 全てが終わったら、契約は解除したいと思っていたんだ。
 彼女を解放してあげたいと思っていた。
 でも、それはできないのだと、彼女は怒りに燃える目でおれを睨みつけ、泣きながら言った。
『私たちはもう、互いの魂に深く傷を刻み混み合ってしまった』
 そう言い捨てて、彼女は姿をくらましてしまった。
 時折、こうやって波で遊ぶために風を起こすけれど、思う通りに風が吹き起こるのを見ると、まだ契約が続行されていることを思いださずにはいられない。
「君を、本当のご主人様の元に返してあげたいのだけれど、ねぇ」
 どうしたらそれが可能なのか、誰も教えてはくれなかった。
 おれに風の精霊王との契約を唆した師匠ですら、おれがその昔この場所から周方へ旅立ってから一度もおれの前に姿を現してはいない。ようやく生まれた小さな主に、砂剣を打たせる名目で様子見に寄越しただけだ。
 精霊王であるカイン自身が方法を知らないというのなら、本当にもう、どうすることもできないのかもしれない。
 指を鳴らし、打ち放たれた第二派が湖面を揺らし、蓮の葉をかき分けて進んでいく。が、あろうことか波涛は何かにぶつかって、赤い飛沫を上げた。
 赤い、水飛沫。
「え……?」
 思わず疑念の声が漏れる。
 そりゃぁ、十五の時、ここでエマンダの血を洗い流した時、湖水は一部だけど赤く染まった。が、普段は育命の国から流れ込んでくる清流を受けて、晴れの日は湖面は空を映して青くなるのがこの湖だ。湖畔に鍛冶小屋を作り、山を分け入って鉄鉱石を採鉱してきてはいるが、鉄分のせいで赤く濁ったことは今のところ一度もない。まして、あの赤は、血の赤だ。
 どきりと心臓が跳ね上がる。
 何が、流れ着いた?
 上流に生った赤い実か?
 あんなに赤い水飛沫を上げるくらい熟した赤い実が、この時期に流れてくるか? それも湖畔を一部とはいえ赤く染めるほどに?
 おれはざわざわとした胸騒ぎを覚えながら、赤い水飛沫の上がった湖畔へと駆けた。
 そこは、最も大きな蓮の葉が寄り集まるようにして湖面を覆い隠していたが、そんな大きな葉でも隠しきれないほど赤く濁った水が、葉の狭間から覗き出していた。
 再び風で葉を避けると、葉の間からは赤い甲冑を身に纏った人の形をしたものが、うつぶせに顔を水に浸け、半ば沈みかけていた。
 おれは迷わず赤い湖に飛び込んだ。
 蓮の根に足をとられないよう注意しながら、葉の茎を掴み渡るようにして赤い甲冑の重さに沈みかけている人のところまで泳ぎつき、うつ伏せだった身体を仰向かせた。
 現れた見覚えのある顔に、おれは思わず絶句する。
「……女神……?!」
 頬に張りつく赤い髪を避けてやると、その昔、一度だけ出逢った時とあまり年の変わらない少女の顔が現れた。
 異なるのは血を失い蒼白になった顔色と、苦しそうに歪んだ目元口元だった。
 赤い水は、彼女の周りが一番濃く、どろどろとしている。
 おれはひとまず意識のない彼女を抱えて泳ぎ、湖岸に引き上げ、冑と胴あてを脱がせて水を吐きださせた。
 何度か肋骨の間を押し、息を吹き込むと、指に血のぬめりが纏わりついてきたが、構わずに今は水を全部吐かせる。
 何度か繰り返すうちに彼女はようやく息を吹き返し、激しく咳き込みながら血の混じった水を吐きだした。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」
 身を捩るのを助け、背中をさすってやると、しばらく咳き込んでいた彼女は、最後の水を吐き切ったのかまた意識を手放してしまった。そして、濡れて貼りついた衣服に寒さを感じたのか、血を失ったからなのか、蒼白のまま激しく震えはじめた。
「しっかりしろ!」
 声をかけても反応はない。
 おれは慌てて彼女を抱きかかえ、小屋に戻り、夏だというのに暖炉に薪を放り込んで火をつけた。赤々と燃える暖炉の前で、身体に濡れて貼りついた服を脱がせる。
 現れた赤銅色の肌は、本来少女らしく滑らかであっただろうに、浅くも深くも大小無数の切り傷がつけられ、夥しく血を流しつづけていた。切り傷の方向はまるで竜巻にでも飲まれたときにつけられたかのように、斜めに巻き上げるように刻みつけられていた。それは、美しい顔にも容赦なくつけられている。それ以外にも、剣につけられたとみられる突き傷や、深い切り傷もある。そして、きちんと仰向けに寝かせて気付いたが、右足は膝から下がぶらりと垂れ下がりあらぬ方向に曲がっていた。
 よくこれで生きていられるものだ。普通の人であればとうに冥府の門を叩いているところだろう。
 そうやって観察しているうちにあっという間に床は血だまりになっていく。
 小さな傷一つ一つにちまちまと薬草を貼っていてはきりがない。
 いくら永遠の命を持っているという神の子の身体でも、歪む顔から察するに痛みも苦しみも感じるのだ。このまま命が尽きないという保証もない。
 手のひらにべったりとこびりついた赤い血を見て、ふつりと腹の奥から何か良からぬものが湧き上がりかけ、おれは慌てて手のひらから目を逸らす。
「カイン」
 どこにいるともしれない風の精霊王の名を呼んでみる。
 おれの戒めとなっている彼女の名を。
「力を貸してくれ、カイン。人を傷つけるための力ではなく、助けるための力を」
 戒めを声に出し、腹の底に湧き上がりかけたものを鎮める。
 さわさわと風が集まりだす。暖かな気を持った子たちだ。
「ありがとう」
 礼を言って、おれは目を閉じる。
『この世を寿ぎ渡る風の精霊よ
 我が呼びかけに応え 力を顕せ
 ここに深き傷を負いし者あり
 寒さに震える者には温もりを 痛みに苦しむ者には安楽を
 慈悲深き汝の吐息を以って この者に命の息吹を吹き込め』
「〈治癒〉」
 目を開けた瞬間、扉すらも開け放って温かな突風が小屋の中に入り込み、彼女の周りを席巻したかと思うと、彼女を水平に持ち上げ、その身体の周りをぐるぐると渦巻きだした。
 暖炉の火は踊りだす。己が主を励ますように、ぱちぱちと音をたて爆ぜりだす。
 風にくるまれた彼女は、まるでカインが抱きしめているかのようだった。いや、そこには本当にカインがいたのだ。陽炎のように揺らぐ彼女は、空中で火の女神を抱きしめながら、じっとおれを見ている。
「カイン……」
「助ける時だけよ。貴方が心から誰かを助けたいと思った時だけ。貴方の私怨のために、私の力で誰かが傷つくのはもうまっぴら」
「わかっているよ。来てくれてありがとう、カイン」
 見上げて礼を言うと、彼女はふいっとそっぽを向いてしまったが、女神に落される視線は穏やかで慈愛に満ちたものになっていた。
 そう、本来、彼女は慈悲深い風の女神なのだ。
 それを怒らせてしまったのはこのおれ。謝っても許してはもらえないほど傷つけてしまったのは、このおれ。
 空中で彼女に抱かれながらも、火の女神は血を流しつづけていたが、やがてそれも止まり、表情には穏やかさが戻りはじめる。
 頃合いだとばかりにカインは火の女神を床に戻す。
「カイン、足は?」
 相変わらず変な方向に曲がったままの右足を見て、おれはカインを見上げた。
 カインは苦く笑う。
「少し、貴方の元で休ませてあげなさい。身体の傷は癒せても、心の傷までは私には癒せない」
 そう言い残すと、カインは煙が立ち消えるように姿を消してしまった。小屋の戸口に掛けていた鈴が別れを告げるように鳴り、後には静けさが残る。
 ぱちり、と暖炉の火が爆ぜた。
 おれは汗だくになりながら、彼女の右足に添え木を固定し、今はもう着る者もいない母の寝巻を着せて両親のベッドに彼女を横たわらせた。
 気づくと、とうに日は暮れて夜の虫たちが鳴きはじめていた。
 その日、彼女が目覚めることはなかった。
 そして次の日も。
 寒がる様子はなくなったので、暖炉の火は消したが、それでも時折、彼女は苦しそうに顔を歪めながら震えていた。額に手をあてると嫌な熱さが額から伝わってきて、慌てておれは濡らしたタオルを彼女の額に乗せた。
 呻き声と共に彼女が目を開いたのは、実に湖畔から引き上げて四日後のことだった。
 その日、彼女の様子を見に寝室に入ると、紅蓮の瞳が、ぽっかりと開いた瞼の内側からぼんやりと天井を見上げていた。まさか目が覚めているとは思わなかったおれは、変な悲鳴を上げて一瞬飛び退った。どうして悲鳴になったのか、それは、きっと目を開けてはいるものの魂の抜け殻と化したかのような彼女の姿が異様に思えたからだろう。
 おれの悲鳴にも、彼女は目を向けることなく、瞬き一つせず虚空を見つめている。
 おれはおそるおそる彼女に近づき、視界を遮るように手のひらを宙で左右に振ってみた。
 ゆっくりと彼女は目を閉じ、再びゆっくりと開いた。
 その目は虚空に向けられた後、確かにおれの手のひらを過って、おれの顔に向けられた。
「っひっ」
 それは、悪夢と共に息を呑みこむような悲鳴だった。
「あ……あ……あ……」
 言葉にならない呻き声を上げながら、彼女はがたがたと震えだす。
 おれだってどうしたらいいかわからなくてその場から逃げ出しそうになる。明らかに彼女はおれを拒絶しているじゃないか。それを必死に思いとどまって、もう一度、彼女の顔を覗き込む。彼女は虚空を見たまま震えつづけ、額に乗せた濡らしたタオルは枕元に落ちてしまっている。おれはそれを拾い上げて、枕元に置いてあった盥の冷たい水の中にほぐし、よく絞ってから彼女の額の上から少しずらして目の上にそっとのせた。
「あ、あ、あ……あ……」
 額と言わず、頬と言わず、首筋と言わず、こんなに震えているのに、彼女は汗をびっしょりとかき、赤い髪が天鵞絨のような赤銅色の肌に艶めかしく張りついていた。布団の中からは細い腕が宙へと伸ばされていく。何かを求めるように、縋るように。
「行かないで!」
 叫んで彼女は跳ね起きた。
 ぜーぜーと肩で息をしながら、はっと我に返る。何かを掴み損ねた手を引き寄せ、そこで彼女ははじめて、すぐ側に人がいたことに気がついたようだった。
「大丈夫?」
 かける言葉に事欠いて、おれはありきたりな言葉をかける。
 ゆっくりと彼女はおれの方に首をめぐらせてくる。
 怯えた子供のような目で、窺うようにおれを見上げる。
 そこには、あの夜、おれを導いた女神の姿は欠片もなかった。荒野に捨てられて怯えるただの子供がそこにはいた。
「あ……」
 胸元に寄せられた両手の指先が所在無げに、しかし確実に硬く握られていく。
「だ……れ……?」
 彼女の紅蓮の瞳に映るおれの姿は、あの時より年は重ねていただろうが、たかだか人の年に換算すれば五、六年程度のものだ。面影が全くなくなっているわけでもない。それとも、平和ボケしすぎてあの時の追い詰められた緊迫感がない分、見た目からでは分からないのだろうか。いや、そもそも彼女は裁きの女神なのだ。たった一夜、出逢った少年のことなど記憶の奥底に沈殿し、塵と化しているかもしれない。
 なにより、彼女のこの異様な怯えぶりを早くなんとかしてあげなければ。
「おれはキース。君は?」
 火炎法王。そう、聞くまでもなく、おれは彼女の名を知っている。だけど、彼女はおれの名に反応することもなく、少し小首を傾げ、幼子が己が名を口にするときのようにあどけない口調で言った。
「えん」
 その名に意味は籠められていないかのようだった。ただ、誰かが自分をそう呼んでいた音をなぞるかのように、懐疑的な響きと共に彼女はその名を口にした。
「えん」
 もう一度、今度は自分の名にするために彼女は呟いたようだった。
 おれは心の中で首を傾げる。
 彼女は記憶喪失なのか?
 そういえば、カインが言っていた。『身体の傷は癒せても、心の傷までは私には癒せない』と。
 心の傷?
「っつっ……足……足が痛い……」
 折れている右足に力を入れてしまったのだろう。彼女は顔をしかめて右足を抑えた。
「右足、折れているんだよ。今添え木をしているから、くっつくまで動かさない方がいい」
「折れて、る……? 足が」
「そう、足が」
「あたしの、足が……折れてる……」
 不思議そうに掛布団の上から右足をなぞり、彼女は顔をしかめる。
「ここは?」
 声音に少しずつ現実感を増してくる。
「おれの家。火炎の国と育命の国の間にあるラピラス山脈の中腹にあるホアレン湖の湖畔」
「火炎の国……育命の国……」
 そうだよ、ここは君が治める国の東端だ。
「あたしは、どうしてここに?」
「四日前、ホアレン湖の湖畔に流れ着いていたんだよ。何か思い当たることは?」
 傷だらけで、とは言わなかった。今の彼女の体に異常があるとすれば、右足が折れているくらいだ。身体中の傷はカインが全部綺麗にしていった。
 彼女は、幼子がそうするように小首を傾げた。
「ここは、人界じゃないの?」
 つられておれも首を傾げる。
「ジンカイ?」
「あたしは人界に降り立って、悪いことをした人たちを……全部……真っ黒に……」
 紅蓮の瞳は次第に虚空を見はじめ、暗い闇に染まったかと思うと、彼女は悪夢に引きずり込まれたかのように獣のような悲鳴を上げた。喉元をひっかきながら呻き、「助けて、助けて」と繰り返す。そして、「ごめんなさい、許して、ごめんなさい、許して、許して」と何度も何度も、混乱に目を見開き、涙を流しながら見えぬ人々に詫び、許しを請いはじめる。
 たまらず、おれは彼女の頭と肩を抱きしめた。
「炎!」
「ひっ……あっ……」
 悲鳴はしゃくりを上げるように呑みこまれていく。
 おれの腕の中で、彼女はしばらく震え続けた。喉元をかきむしっていた手は、やがて力を失い、両横に降ろされていく。
「落ち着いた?」
 悲鳴も呻き声も聞こえなくなり、震えも止まった頃合いを見て腕を緩め、彼女の顔を覗き込むと、彼女はまだ虚空を見上げたまま、静かに涙を流していた。そこには何の表情もない。魂を失って、身体だけが反応で涙を流しているかのようだった。
 どうしてしまったのだろう。
 まるで幼子のようだと思っていたが、これでは幼子どころではない。
 壊れてしまった人形のようだ。
 ふと、虚空ばかりを見つめていた彼女の瞳がゆっくりとおれにむけられ、ひたと据えられた。
 吸い込まれそうになるほど、透明な血の色。
 腹の奥底にある何かを髣髴とさせる、おれにとっての禁忌の色。
 その目は、今までの子供じみた目とは打って変わって、何かを悟りきったような諦めきったような目に変わっていた。それでいて、誘惑するかのように妖艶で、大人の遊びを覚えてしまった子供のような危うさが潜んでいた。
 するりと彼女の手がおれの胸元を這いあがってくる。
「ねぇ」
 何でも知っているのよ、と言わんばかりの目で、彼女はおれを覗き込んでくる。
 おれは少し顔をのけぞらせる。
 その様を、彼女は口元だけで嘲笑った。悲しそうに。
「ねぇ、教えて」
 ごくりと、おれは生唾を呑みこむ。
「あたしは、誰?」
 今にも泣きだしそうに顔をくしゃりと歪めて、彼女はおれに訊いた。
 おれは、すぐには答えなかった。
 さっき、彼女は自分で自分を「えん」だと言った。そして、おれは彼女が火炎法王だと知っている。その上で、「炎」と呼んだ。おそらく、それが彼女の真名だと思って。
 彼女は、まだ自分の名前が思い出せないのだろうか。それとも、何かと混乱しているのだろうか。例えば、他に名前があるとか。それとも、思い出しかけた名前に背負わされた役割を認めたくないのだろうか。
 カインの言っていた心の傷って、何のことだよ。何がどうして、いま彼女はこのホアレン湖に流れ着いてきて、こんなに錯乱した状態になっているんだ?
 彼女は、火炎の国の首都ゼロービアから出陣して、南で闇獄界と戦っていたはずじゃないのか? その末の傷があの小さな切り傷だったんじゃないのか?
『少し、貴方の元で休ませてあげなさい』
 カインが残したもう一つの言葉を思い出す。
 再度、彼女を見つめ返し、おれは心の中で呟く。
(おれのところでいいのかよ)
 と。
「エン」
 音としての意味しか持たない「えん」ではなく、責任を背負わされた「炎」でもなく、「エン」と、おれは彼女を呼んだ。
 それが、彼女の心に掛けられた鎖錠を解けるかはわからなかったが、おれも彼女も知らないもう一人の「エン」という少女を、おれはここに作りだそうとしていた。
「エン?」
 不思議そうに彼女は小首を傾げる。
 はて、それは自分の名であっただろうか、とでも己に確認するように。そして、さっき一度「炎」と呼んでしまったおれに、確認するように、あどけない上目づかいでおれを見上げる。
「そうだよ、君の名はエンだよ」
 汗で額に張りついた前髪を指の背で脇へと撫でおろしてやる。
 驚いたように彼女はおれを見つめていた。
「あたしの名は、エン?」
「そう、エン」
「誰でもない、エン?」
「そう。他の誰でもない、エン。それが君の名だよ」
 目が見開かれ、それからようやく、彼女は緊張から解かれ安心して緩みきった笑顔をおれに向けた。
「そっか。じゃあ、もう誰も殺さなくていいんだね」
 笑いながら、たくさんの涙を溢れさせ、そのまま彼女は突っ込むようにおれの胸の中に倒れ込んできた。
「エン?!」
 ずっしりとした重みに、起こすまでもなく彼女は気を失ったのだと分かった。
 ベッドに横たえると、安堵した顔で彼女は寝息を立てていた。
 おれは複雑な気分で彼女を見下ろしていた。
 火炎法王、貴女は――おれとの約束を覚えていますか?
 今は覚えていないかもしれないけれど、血まみれになってこの湖に流れ着く前には、覚えていましたか?
 それとも、女神という存在は、数多の人と言葉を交わし、約束を交わしつづけるものなのでしょうか。おれとの約束もその一つにしか過ぎないというのなら、貴女は一体これまでいくつの約束を交わしてきたのでしょう。いくつの約束を守ろうと、そんなになるまで戦ってきたというのでしょう。
 出逢った時と、さほど変わらない十五、六歳ほどの少女の身体のままの彼女の右手を持ち上げてみる。
 重い。だけど、男の腕の重さではなく、大人の女の腕というにはあまりに線が細く華奢な腕だ。丸みを帯びた輪郭の中にもまだ子供の幼さを残してもいる。
 この手で、彼女は何人も殺してきたというのだろうか。
 心を壊しながら、何人も何人も――そう、例えばおれのような子供が、もう二度と剣を握らなくてもいいように、自分が代わりに剣を握り、殺してきたというのだろうか。
「約束なんて、おれが覚えていれば十分だ」
 一人ごちて、おれは彼女の手をベッドの上に戻し、寝室を後にした。
 お湯を沸かそうと思った。汗まみれになってしまった彼女の身体をできるだけ綺麗に拭き清めて、シーツも替えて、次に目覚めた時、嫌な思いをしなくてもいいようにしてやろうと思った。
 悪夢が、彼女を連れて行ってしまわないように。
 そうやって彼女の世話をしていくうちに、彼女は次第に心を開いてきてくれているようだった。おれの名前を覚えてくれたし、食べたいものを言うようにもなったし、自分で用を足そうとベッドから立ち上がろうとすることもあった。そんな彼女のためにおれは松葉杖を作り、一緒に歩く練習を始めた。はじめはベッドから立ち上がる練習をし、室内を歩き回れるようになった次は、居間まで来れるようになった。そして、怪我がだいぶ癒え、コツを掴むと外にも出られるようになった。
 一度動けるようになると、彼女はどんどん行動範囲を拡大しはじめた。
 散歩は家から湖までだったのが、いつの間にか森に入って茸や薬草を摘んでくるようになった。そうこうしているうちに摘んできたその茸や薬草で夕飯を作るようになり、朝と昼も受け持ってくれるようになった。その分おれは鍛冶場の仕事に戻れるようになり、出来上がった物を持って町に売りに行き、夕方には炎が食べたいと言っていた果物や肉などをたんと買い込んで家に帰った。
 「お帰り」とエンが言ってくれる家に帰るのは、次第に当たり前になっていき、ふと、気がついてしまったのだ。
 幸せだな、と。
 それからはもう、おれは彼女との時間が愛おしくて大切で、どうしようもなくなった。
 手放すことなどできないと思った。
 二人で囲む食事のテーブルも、朝仕事場へ出る時に交わす何気ない気遣いの言葉も、お昼や夜に交わす他愛ない今日の出来事の話も、「おやすみ」と言ってお互いに違う部屋に入って行くその瞬間まで、一日の時間がきらきらと煌めいているようだった。
 家族ごっこだと言われればその通りだろう。でも、おれにとってはここで養父母を殺されてから、しばらくぶりに味わう楽しくも穏やかな日々だったのだ。
 養父母との生活だって、血の繋がらない他人が一人混ざりこんで家族ごっこをやらせただけだったと言われればそれまでだ。それでもおれは確かに気を抜くことを覚えたし、誰よりも彼らを信頼していた。彼らの息子でありたいと思うようになっていた。彼らも聡い人たちだったから、何かにうすうすは気づいていたのかもしれないけれど、おれに血のつながり以上の愛情をくれた。
 だから、本当は彼らの期待を裏切るような真似はしたくなかった。彼らがおれの留守中にこの家で襲撃されて殺されることさえなかったら、おれは実のところエマンダのことさえ忘れて生きていってもいいんじゃないかと思いはじめていたのだ。
 あの日、おれがこの家を留守にしたのは、両親の目を盗んで深夜、森で剣の稽古をするためだった。普通の少年として生きることを望んでくれた彼らには申し訳なかったが、どこかで母の仇は打たなければならないと思っていたのだ。それでも、その日が来なければいいと、彼らの愛情に包まれてぬくぬく過ごしていればいつか本当の家族になれるんじゃないかと、母も許してくれるのではないだろうか、などと思いながら、師もなく生温く剣を揮っていたのだ。エマンダが何の罪もない養父母たちさえも殺しさえしなければ、多分おれは風の精霊王と契約することもなく、誰かを殺すこともなく、ここで彼らと笑いあったり時に喧嘩しながら幸せに暮らしていたはずだったのだ。
 今度は、逃したくはない。
 一人でも何とでも暮らしていけると思っていた。
 鍛冶場で無言で鉄を打っていても、この家で黙々と一人でご飯を食べ、誰とも合わず誰とも話さない日々が続いたとしても、寂しいと思う気持ちそのものを忘れていたのだ。
 でも、おれは思い出してしまった。
 家族ごっこの楽しさ。
 彼女がただの女性じゃないことは知っている。夜中に魘されて、時におれの部屋まで届くくらいの悲鳴を上げていることも知っている。少しずつ、無邪気な少女のエンから火炎法王の時に纏っていた威厳を思い出しつつあることにも気づいている。だけど、それに気づかないふりをしてエンでいつづけようとしているのにも気づいている。
 おれだって、夜中に魘される彼女を見る度に、このまま火炎法王だったことなど思い出さなきゃいいのにと思いはじめている。
「キース、キース、お願い、来て」
 悪夢から目覚めておれを呼ぶ声が聞こえる度に、おれは彼女を抱きしめる。
 彼女はしばらくおれの腕の中で震え、やがて安堵したように再び眠りに落ちる。
 そうやって当初は無邪気におれを呼んでいた彼女も、次第に魘されて悲鳴を上げてもおれを呼ばなくなっていった。気になったおれはいつでも飛んで行けるように彼女の部屋の扉口の前に立って中の気配を窺ってしまうのだが、自分で気持ちを落ち着かせられるようになったのか、しばらくすると規則的な寝息が聞こえるようになっていた。
 これで右足の骨折も完治してしまえば、そう遠くない未来、彼女はエンをやめて火炎法王として火炎宮の主として帰って行ってしまうかもしれない。
 それを裏付けるように、一度、彼女は夜中、呼ばれるように外に出ていったことがあった。カーテンの隙間から盗み見ると、彼女の前にはいつぞや火炎法王が騎乗していた黒い獅子が翼を広げて立っていた。迎えに来たとしか思えないのに、なぜか彼女は黒い獅子を返し、この家に戻ってきて翌朝からも何事もなかったかのようにエンを演じつづけた。
 それを見てしまってから、幸せしかなかった毎日に疑念と焦りが混ざりはじめ、おれは彼女の右足が治らなければいいのにとすら思うようになっていた。それなのに、一度松葉杖で歩けるようになってしまった彼女の腕を引く勇気すらおれにはない。
 幸福感と鬱屈とした想いが混じり合いながら鍛冶場に向かってもいい仕事などできない。
 エンも様子のおかしいおれに気づいていたのだろう。
「キース、どこか体の具合でも悪いのか?」
 せっかく彼女が作ってくれた朝食を無言で食べていたおれを、彼女は無邪気に覗き込んだ。
 こんな時、女神のくせに鈍感だなぁと思う。
 ちょっと手をのばせば顎に触れることができる。その唇に口づけることだってできるというのに。
「エンは料理はどこで覚えたんだ?」
 ぼってりとした分厚い唇から目を逸らし、にんじんのスープに目を落として話をすり替える。
 彼女の料理は絶品だった。調味料なんて岩塩と砂糖くらいしかなかったのに、野菜の甘みを生かして何でもおいしいスープや煮物、炒めものを作ってくれた。小麦が手に入ればパンを焼き、パンケーキまで焼いてくれた。
 火炎法王なのに。
 裁判の女神が自炊する暇などあるだろうか? 彼女が住む火炎宮にはたくさんの人々がその生活を支えるために傅いているはずだ。そもそも料理も洗濯も掃除も、全くできなくてもおかしくはないのだ。それなのに、彼女はなぜか養母のマーサ並みにこの家のことをよく取り仕切ってくれていた。
 返事がないので顔を上げてみると、エンは蒼白な顔で口元を抑えていた。
「ちょっと、ごめん」
 そう言って外へと駆けだしていく。
 食べたばかりのものを戻しているのだろう。
 おかしいと思ったんだ。これは、火炎法王・炎の仕事じゃない。
 じゃあ、誰の仕事だったのか?
 「えん」だ。
 彼女の思い出したくない記憶の一部の中に、法王には似つかわしくない暮らしをした経験があるのだ。
 おれはタオルと水を持って外に出る。
「ごめん」
 立ち入ったことに踏み込んでしまったことを詫びながらタオルを差し出すと、エンは黙って受け取り、口元を拭い、水で口をゆすいだ。
 しゃがみこんで少し丸めた背中が全身で怒っていると訴えていた。
 そんな様さえも可愛く見えてしまうおれは、きっと感覚が麻痺してしまっているんだろう。
 隣にしゃがみ、彼女の背中を撫でる。
 こうやって触れていると、人と何も変わらないのに。体温も、背骨の凹凸も、呼吸で上下するところも、感情に振り回されて嗚咽を漏らすところも。
「キース」
 少し落ち着いてきたエンが、顔を上げずにおれの名を呼んだ。
「うん」
「町に行きたい」
 ああ、来たか、と思った。
 きっとここを出ていくつもりだ。町に出てそのまま行方をくらましてしまうつもりなのだろう。それならそれで、いい。
 町に行きたいと言った彼女は、もう松葉杖なしで歩くことができるようになっていた。まだ少し足を引きずるところもあるが、森の木の音を飛び越えることもできるようになっていたし、町へ降りる下り坂もつんのめって転ぶことなく歩くことができた。
「せっかく二人で町に行くんだから、楽しもう。ね?」
 嬉しそうに彼女はおれの前を歩いていく。
 そんな気なんかないくせに。
 おれは屈折した思いを押し込めて無理に笑い返す。
 ホアレン湖から一番近い麓の町は、火炎法王が暮らしていたゼロービアに比べれば活気も店の数も何もかもが物足りないものだっただろう。しかし、彼女は露店の軒先に並べられた鳥や豚の肉、籠一杯に盛られたブラックベリーやオレンジ、細工屋のおもちゃの指輪に至るまで好奇心で一杯だった。目を煌めかせながら踊るように店と店の間を行き来する彼女に、不安よりも眩しさと幸福感が勝っていく。
 目を離したら彼女はいなくなってしまうんじゃないか。
 そんな不安はただの杞憂で、彼女は買い物かご一杯に食材を買い込むと、最後に初めにじっと見ていた細工屋の指輪をちら見して「さあ、帰ろう! 今日はキースの大好きなシチューにするよ!」と山に向かって元気に歩き出した。
 ここでいなくなってしまうんじゃないかと心配した自分がばかみたいで、おれは彼女に走って追いつくと、荷だくさんの籠を受け取ってさりげなく彼女の手を握った。
 拒まれるかと思いきや、彼女は優しく握り返してきた。
 思わず、いいの?と、歩きながら彼女の顔を覗き込んでしまう。
 彼女ははにかんだ笑顔で小さく頷いた。
 舞い上がりそうになる気持ちを抑えたくて、ふと顔を逸らすと、石のブロック塀に風雨にさらされて茶色くなった紙が貼られているのが見えた。
 見覚えのある女性の人相書き。
 赤い髪を頭上高く結い上げ、挑むように前を見据える少女。
 思わずおれは隣の彼女を振り返った。
 彼女は張り紙には気づかず鼻歌交じりに前を見て歩いている。
 ご機嫌だ。
 それだけに、尋ね人と書かれた張り紙に描かれた女性とは別人にさえ見える。
 だけど、あれは火炎法王だ。彼女だ。
 今は髪を三つ編みにして一本にまとめて下ろしているから、余計に雰囲気が違って見えるが、見る者が見ればわかるかもしれない。いや、それどころか、町のどこかで彼女自身があの張り紙を見てしまっているかもしれない。
 気づくと、彼女の手を握る手に力が入ってしまっていた。
 彼女は、「どうした?」とは訊かなかった。
 おれは不安を押し鎮めて、彼女との会話に乗るしかなかった。
 町で見かけた風変わりな旅人の格好のことや、ブラックチェリーの価格が店によってばらついていたこと、細工屋の綺麗なアクセサリーの話。水を得た魚のように、彼女は嬉しそうに他愛ないそれら日常にありふれていることを喋っている。
 なんて幸せそうに笑うんだろう。
 こんな庶民の日常に、そんなに幸せを感じるのなら、ずっとここにいればいいのに。
 エン、なんて名前、付けなければよかった。
 もっと全然違う名前にしておけばよかった。
 彼女が何も思い出せないように、髪だって、ここに流れ着いてきたときは何かに斬られてばらばらになっていたけれど、できるだけ残してやるのではなく、ざっくりと短くしてしまっておけばよかった。
「キース、家についたらシチュー作るの手伝って。今日は鍛冶場はお休みでいいよね? 夕飯食べたら外に散歩に行こう? 前に言ってたでしょう? 満月の夜に咲く蓮の花があるって」
「ああ、うん」
 生き生きしている彼女に比べて、なんて自分は沈みこんでしまっているんだろう。
 彼女はおれの生返事を気にも留めず、彼女は家に着くとてきぱきと夕食の準備を始めた。おれに考える隙を与えないようにするかのように、次から次へとジャガイモやニンジンの皮むきをお願いしてくる。その間に彼女はパンを捏ね、焼きはじめる。
「今日はずいぶんたくさんパンを焼くんだね」
「明日の分も焼いてしまおうと思って」
 にこにことしながら、彼女は手際よくシチューの味付けもしていく。
 エンと二人で食べたパンとシチューの夕食は、この上なく美味しかった。
「自分で野菜切ったりすると、余計美味しいのかな」
「そうかもね。あ、こっちのサラダも食べて」
 彼女はおれが食べる様子を満面の笑みで眺めている。
 そして夕食が終わると二人で手早く片づけを済まして、外に出た。
 夕暮れ時の朱のグラデーションが青い闇に呑みこまれていき、鳥たちの囀りの代わりに虫たちが軽やかに鳴きはじめる。湖面は凪ぎ、東の空からは丸い月が上ってくる。
「夜に咲く蓮の花は、どこ?」
 きょろきょろしているエンの手を引いて、湖畔を歩く。
 宵闇に埋もれて沼地に足を取られそうなところも、柔らかな月の光に照らし出されて簡単に飛び越えることができた。が、手を引いていたはずのエンがいつの間にか後ろで躊躇していた。
「ああ、ごめん」
 おれは戻って彼女を抱き上げた。右足はまだ完全には治っていないのだ。
「ひゃあ」
 彼女の口からは少女らしいかわいらしい悲鳴が上がる。
 おれは思わず笑い声を漏らす。
「あ、笑ったな」
「随分かわいらしい声だったから」
「なっ……キースのくせに」
「うん?」
「キースのくせに、生意気な」
「ふぅん、そんなこと言っていいの?」
 ぴょんと沼地を飛び越えたその足で、おれは彼女を高く掲げ上げる。
「いやぁ、きゃぁぁっ」
 さっきよりも大きな悲鳴。
 腕に抱え直すと、彼女はおれの首に腕を回して「ばか」と言った。
 それが何だか温かくて、おれは笑いながら彼女を抱きしめた。
「キース?」
 彼女は不思議そうにおれの名を呼んだあと、その顔をおれの胸に埋めた。
 時が止まってしまえばいいのに。
 汗ばむような昼の陽気が退いていって、湿っぽい夜気が身体を包みはじめる。その中にあって、彼女の温もりは暗闇を照らす灯りのようだった。
 その灯りを大事に腕に抱えながら、目的の場所に辿りつく。
 そこは、ラピラス渓谷からの水が流れ込む場所。彼女が流れ着いた場所。常に新しい水が流れ込む、この湖で最も水が綺麗な場所。
 蓮は、泥の中に咲く。
 ここも上の水は綺麗でも、下には沈殿した泥が溜まっている。
 その緩く柔らかくも重い泥に長い根を下ろして、浮きのように丸い葉を大きく広げ、夏のこの決められた時期にだけ花茎をもたげ、紅い花を咲かす。
 紅蓮の華畑。
 月の光に照らし出されて、一斉に弾けるように花開いた紅蓮の花弁たちに、エンは声も出ないようだった。ただ、目を大きく見張って一面の紅蓮の華を見つめている。
「夜にしか咲かない、紅蓮の華」
 ぽつりとつぶやく、その声には驚嘆のほかに、どこか自嘲めいた響きがのせられていた。
 おれの首に回すエンの腕にふと力が籠る。
「エン?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。ああ、でもこの花が綺麗なのは夜に咲くからだけじゃないんだ。見てて」
 広げられた花弁の中から、仄黄色い光が一つ浮かび上がる。
 それが合図だったのか、他の紅い花にも灯がともり、ふわふわと飛び出した。
 灯は一つ増え、二つ増え、あっという間に空中を光の漣が覆い尽くす。
「綺麗!」
 ついにエンが偽りない感嘆の声を上げた。
「この花は夜光蓮。蕾の中で羽化した蛍が満月の夜、蓮が花開くとともに一斉に飛び立つんだ」
「すごーい!」
 ぽかんと口を開けたまま、エンは蛍たちの年に一度きりの饗宴に酔いしれている。
 おれは、そんな喜ぶ彼女の横顔を見つめる。
「エン」
 おれは彼女の名を呼んでみた。
「ん?」
 こちらを向いたエンの目を見つめる。
 赤い瞳が、無邪気におれを見つめた後、何かを悟ったようにそっと伏せられた。
 おれは彼女の唇にそっと口づける。
 拒まれないのをいいことに、少しずつ奥に分け入っていく。
 夕食で最後に食べたブラックベリーの香りがした。
 一度唇を離すと、目を開けた彼女と目が合った。
 互いの意思を確認するようにしばらく見つめ合った後、おれは彼女を下におろした。
 それから何度もキスをして、唇だけでは飽き足らずに彼女の全てに口づけて、きつく抱きしめながらおれは彼女に囁いた。
「行かないで」
 彼女は返事の代わりにおれを抱きしめ返した。
「キース、大好き。――愛してる」
 無邪気に大好きと言った後、彼女は誘うようにおれを見つめて、愛していると言った。
「おれも、愛してる、エン」
 彼女の頬に零れ落ちた涙を啜ると、おれと変わりない塩の味がした。
 初めて同じベッドで眠った翌朝、予想通り、と言っていいのだろうか。彼女はいなかった。
 昨日沢山焼いていたパンと、今朝拵えたらしいサラダとスープ。
『スープは温めて食べてね。必ず戻るから』
 走り書かれた書置きには、いつ戻るとは書かれていなかった。
 その日からおれは、三食を一人きりで食べるようになった。エンが作り置きしていったものも、夏場だからそう残しておくわけにもいかず、あっという間になくなって、自分でつまらないものを作って食べるようになった。
 ぽっかりと穴が開いたような日々の中でも、きっちりと三食食べている自分が不思議だった。まるで長いこと眠っていたのはおれの方だったのかもしれない。
 そう思いながらも、町に一緒に出掛けた日、彼女が最後に名残惜しそうに見つめていた指輪のことを思い出して、おれははじめて装飾品となるものを打った。鍋釜や包丁とは違って小さく薄いため、何度となく打ち直しながら、ようやくこれなら、と思えるようなものができた時、季節は夏の盛りになろうとしていた。
 その日はとてもよく晴れていて、朝から蝉が忙しなく鳴いていた。その割に森の木立はやけに静かで、まるで息を潜めてこれから起こることから目を背けようとしているかのようだった。
 おれはその日も一人で朝に石のようなパンを齧り、鍛冶場で指輪の仕上げをしようと思っていた。エンの分と、自分の分と。
 エンの指輪の内側には「K→E」と彫り、自分の指輪には「E→K」と彫刻を施す。
 ばかみたいだなと笑って投げ出したくもなったが、もしかしたらいつか、彼女が戻ってきてくれるかもしれない。
 たとえ夢だったとしたら、この指輪を作り終えたら、もうエンとの日々のことは一旦忘れよう、そう決めたら、彫金にも集中できるようになっていた。
 今日が、その最後の日。
 開け放たれていた鍛冶場の扉口に人影が現れたのは、そろそろお昼にしようかと思っていた頃だった。
「剣を打ってほしい」
 この暑いさなかに白いフードを目深にかぶって顔を隠した背の高い肌の浅黒い男は、そう言っておれの前に刃零れひとつしていない剣を差し出した。
「悪いけど、おれは剣は打たない」
「腕のいい鍛冶師だと聞いた」
「剣は打ったことはないよ」
「鉱土法王の砂剣を打ったそうじゃないか」
「ああ、あれは……」
 変な噂ばかり一人歩きされているみたいだ。師匠が広めたのか、あの無邪気なチビ法王が喜んで広めたのかは知らないが。
「とにかく、おれは剣は扱っていないんだ。悪いけど余所へ行ってくれ」
「そうか、それは残念、だ」
 次の瞬間、目の前が真っ赤になっていた。
 何が起きたのか、さっぱりわからなかったが、やがて首から胸、胸から腹のあたりが燃えるように熱くなってきた。
 ぐらりと傾ぎそうになる身体を、剣を持っていた男が胸倉を掴んで引き寄せた。
 今度は重く腹を突き破られる感触が続く。
「まあ、これくらい切れ味がいいなら、必要ないか」
 男がおれを突き放して、腹から剣が抜けていく。
 勢いよく吹きだした血が男の白いローブとフードを赤く染めていく。
 男が手の甲で頬を拭おうとした瞬間、ずれたフードから男の顔が見えた。
 おれは息をのんだ。というか、もう息を吸うことさえもきつかったのだが、奴の顔を見て瞬間的に意識が研ぎ澄まされるのが分かった。
「ヨジャ……! ヨジャ・ブランチカ……!」
 男はよろけるおれを蹴倒すと、仰向けに倒れたおれの両手を両足で踏みしめ、剣の切っ先をおれの胸の上に向けて構えた。
「六年も湖の中に沈められてさぞかし錆びついているだろうと思ったが、さすがは周方王の名剣だな。いや、皇妃を殺し、周方城を一夜で陥落せしめた狂戦士の剣、と言った方がいいか?」
 男の言葉に、剣の柄を見ると、そこには確かに見覚えのある周方皇の紋章が彫られていた。
「どこから、そんな、もの」
「探したんだよ。どうせならこれでお前を殺してやろうと思って」
 にぃぃとヨジャは凄みを湛えた笑みを薄い口元に浮かべた。
「エマンダの、犬、が……」
「いくらでもほざけ。おれは、いつでもお前の願いを叶えてやるだけだ」
 ああ、どうしておれはこの男を殺しておかなかったんだろう。
 エマンダの指示でおれの母を殺したのも、養父母を殺したのもこの男なのに。
 どうして周方城にいないことに気づいていたのに、エマンダだけ殺して満足してしまったんだろう。探せばよかった。草の根をかき分けてでも!!
「死ね! キルアス!」
 衝撃はろっ骨を避けて胸の少し左より、心の臓を正確に貫いていた。
 口から血が溢れだす。
「願い、なんて……」
「お前がままごとごっこが好きだなんて知らなかったよ」
 ヨジャは剣を俺に突き刺したまま両手を払うと、彫金台の指輪に気づいて笑いながらそれを手に取った。
「やめ、ろ……」
「周方王の血とは、なかなか死なないものだな」
 白く霞んでいく視界のなか、憐みのこもった声が聞こえてきて、何かが手に触れた気がした。
「じゃあな」
 遠くにそんな声がして、奴が出ていくのが分かった。
 意識はおぼつかなくなり、強烈な寒気が全身を駆け回りはじめる。
「エ、ン……」
 待つんじゃなかったかな。
 指輪なんか暢気に作ってる場合じゃなかったんだ。
 いなくなったと分かったその日に、火炎宮まで迎えに行けばよかったんだ。
 お前なんか知らないと言われても、場違いな平民が来たと言われても、手をしっかりと握って引っ張ってここまで連れ帰ってくればよかった。
 そして「もうどこにもいかなくてもいいよ。お帰り」って言って、抱きしめてあげれば良かった。
 何だ、そんな簡単なことだったのに、おれは――
「キルアス」
 ふっと全身の寒気が和らいだのは、春の日差しのようなその女性の声が聞こえた時だった。
 ああおれ、いよいよ死ぬんだな。これがお迎えの声か。
 いや、声だけではなかった。目の前には緩やかに波打つ金髪と、海のように青い瞳を持ち、穏やかに優しく微笑む腹の大きな聖女がいた。
「こんにちは、キルアス」
 大きなおなかに手をあてながら、聖女はおれに微笑みかける。
 お迎えの美女が妊婦とは、どういうことだろう。そういう趣味はなかったはずだが。
「私は愛優妃。炎がとてもお世話になったわね」
 アイユウキ。
 その名に思い当たるまで幾ばくか時を要し、ようやくこの世界を創った女神の名だとぴんとくる。
 神の娘に続いて、今度は女神さまのご登場か。
 しかも、町で聞いた噂通りなら、あの大きなおなかは臨月を過ぎても一向に生まれてこない第七子。心無い者はとっくに死んでいるんじゃないか、なんて言ってたりもする。
「エンは、無事ですか?」
 もはや自分の口が動いているわけじゃないことはよく分かっていた。ここはもう、そういう次元の空間じゃない。
「あの子は今、大人になる大切な儀式の真っ最中なの。会わせてあげられなくてごめんなさいね」
 大人になる大切な儀式?
 おれは首を傾げる。
「神の子が人と違うところはそこなの。あの子たちは一人前の大人になるためには――大人になって自分の時を支配できるようになるためには、一度眠りにつかなければならないの。そうね、一度さなぎに入って脱皮するようなものだと思ってもらえればいいかしら」
 さなぎ? 脱皮?
 死の間際に見るお迎えのはずなのに、あまりに突飛な話に、自分でも呆れてくる。
 おれはさっき、奴に頭まで殴られただろうか。
「あらあら、もう時間がないわね」
 おっとりとした喋り口調でいた愛優妃が、俄かに慌てだした。
「キルアス。私、貴方と取引がしたくて今日はここに来たの」
「取引?」
 ここに来たって、お迎えに来てくれたわけじゃないのか?
 まあ、いくらなんでも本物の女神のお迎えというのも出来すぎてるだろうが。
「貴方は風の精霊王と契約したわね?」
 優しげだった女神の顔が、微笑んでいるのに急に険しくなったように見えた。
 青い目が全てを見通すようにおれを見つめている。
 この世の女神に何を隠すことができるだろう。
 おれは覚悟を決めて頷いた。
「はい。確かに」
 愛優妃は頷き、大きくなった自分のお腹をゆっくりとさすった。
「貴方も知っている通り、この子は私と統仲王の第七子。予定では、風を司る法王になるはずだったの。でも、貴方が風の精霊王と契約を結んでしまったがために、未だ臨月を過ぎても生まれてこられないでいるの」
 ぎくりとして、背中に冷や汗が流れていくような気がした。
 おれがカインと契約したせいで、神の子が生まれてこられないでいる?
 そんな馬鹿な。
「これは内緒の話だけれどね、精霊王たちは法王が生まれてくる前にその魂に仮契約となる印をつけているの。そして、生まれてきた後で法王の願いによって正式に契約が結ばれる。でも、この子はそれができなかった」
 すぅっと眇められた愛優妃の目に、おれは身動きが取れなくなった。
 神と、神に作られた人。絶対の条理が女神とおれとの間にはあった。
「このお腹の中に入っているのは、神の子ではなくただの肉塊だ、なんて噂もあるのでしょう? その通りよ。この子に魂は入っていない。そこで、なんだけど――」
 創造主たる女神は悪戯っぽく笑った。
 正の心を司るこの世で最も美しい女神のはずなのに、とても悪いことを企んでいる優しい悪女の笑みだった。
「キルアス、貴方、私の子供にならない?」
「……」
 おれは思わずあんぐりと口を開けてにっこり微笑んでいる女神を見返した。
「すでに風の精霊王との契約も済ませているわけだし、貴方しかいないのよね」
「……おれは人ですよ? 人に、神になれ、と?」
「そうね、貴方は人ね。でも、精霊王と契約してしまったんでしょう? その辺の精霊との契約ならよくあることだし、大して魂にも身体にも負荷はかからないでしょうけれど、貴方は人だもの。いくら三番目の人の子孫とはいえ、人は神にはなれない。遅かれ早かれ、貴方の人の身体は精霊王との契約の重みに耐えきれずに壊れていたはずよ。最近怠かったり精神的に不安定だったりなんだか胸が痛かったり、身体に不調を感じることはなかった?」
 そりゃあ、そういう症状はカインと契約してから大なり小なりあったが、エンが来てからの最近は彼女がいなくなってしまうことへの不安が募っているからだと思っていたのに。
「ヨジャが殺しに来なくても、貴方の未来はそんなに長くはなかった」
 聖女は妖艶に笑いながら死神のようなことを言う。
「いいのよ? 嫌だというのなら、貴方と風の精霊王との契約を無理矢理引き剥がすだけだから」
「カインとの契約を切れるのか?」
「貴方の魂を壊せば、ね」
 ぞくっと背筋が凍りついた。本能が完全なる無を突きつけられて、生きたいと足掻くかのような反応だった。
 今、おれの魂はこの女に握られている。
 そう、嫌でもわかる感覚だった。
 目の前にいるのはただの美しい女ではない。神という名を纏った悪魔だ。
「魂を壊すということがどういうことかわかる? 二度と転生できなくなる、という意味なのよ? 死によって完全なる無になるの。肉体の死の時、人は死の恐怖を味わうけれど、魂が転生することを知っていれば、完全に自己が消えるわけではないと救いを得ることもできるわよね。でも、貴方が拒めば救いはない」
 にじり寄られているわけでもないのに、おれは半歩後退していた。
「精霊王と契約するということがどれほど重いか、分かってくれたかしら? 彼女も、魂を半分、貴方に奪われたようなものなのよ?」
 にっこりと微笑み、彼女はその白い手を伸ばす。
 おれはその手の先を見つめ、顔を上げた。
「取引だと言いましたね。貴方はおれの魂をその子供に植え付け、第七子として育てる。それで、おれには何のいいことがあるんです?」
 顎に伸ばされた女神の白い指先は意外にも冷たかった。
「貴方は神の血を持つ肉体を手に入れる」
「風の精霊王と契約した負荷を減らすことができる? 人に転生するよりも?」
「人に転生する道はないわ。私の子になるか、無となるか。でも、そうね。人に転生するよりも、貴方の寿命は延びる。圧倒的に。ほぼ永遠ともいえる時間を手にすることができる」
「ほぼ、永遠」
 にこにこと彼女はおれを見ている。
「そう、ほぼ、永遠」
「神の子でも死ぬのですか?」
「私たちでも死はいつか訪れるものよ」
「神であっても」
「そう。でも、その時にならなければ死は訪れない。貴方はもう一度赤ちゃんからやり直さなければならないけれど、成神なんてあっという間よ。一度成神すれば、貴方は好きなだけ望むことをすることができる」
「望むこと?」
「そう。取引よ。神の子供たち同士の恋愛は本来ご法度。でも、貴方に限っては私たちは目をつぶるわ」
 くいっとおれの顎を持ち上げて、女神はおれを見下ろした。
「炎が、欲しいのでしょう?」
 ごくり、とおれは唾をのみ込んだ。
 周方城を襲撃したあの夜、ホアレン湖で火炎法王に出会い、再び血まみれで流れ着いたエンを助けた。久方ぶりの家族ごっこに浮かれて、すっかりエンのいない生活など考えられなくなっていた。
 いつから、どこからどう仕組まれていたのか。
 エンも気づいていないに違いない。
 自分が、おれを神の子に引き入れるために実の母親に使われたのだということに。
 良妻賢母の慈愛深き女神、愛優妃。
 人々に愛され、敬われ、崇拝され、非の打ち所のない女神。
 神と人の違い。
 それは、容赦のなさなのかもしれない。
 彼らは人と同じ目線では生きていない。
 永遠に等しい時間を生きるものが、彼らにすれば数分程度しか生きていない人と同じ考え方のわけがない。
 そんな世界に、おれに飛び込め、と?
「お返事は?」
 無か、神の真似事か。
「記憶は消さないでほしい」
 真っ直ぐ見つめたおれの視線を受け止めた女神は、すぅっと目を眇めた。芳醇な唇は意地悪く歪む。
「自信がないの? あれほど深く愛し合ったのに?」
「おれに永遠の命をくれるというのだろう?」
「貴方は新しい身体を手に入れ、新しい名前で呼ばれることになる」
「それでも、おれはおれのまま彼女を愛したい」
 女神ははじめて小さな笑い声を立てた。
「そうねぇ、でも、赤ちゃんで何もできないのに今の記憶があるって、きっと辛いわよ? だから、そうね、三つの誕生日を迎えたら、貴方にキルアスの記憶を返してあげる。それから先は、自分で上手く舵取りをすることね」
 顎をつまんでいた手が頬をなぞり、額の中央に人差し指が据えられた。
 おれはじっと女神の目を見つめる。
 この記憶を奪われてなるものか、と。
「信じなさい。女神は、約束は違えない」

 臨月をとうに過ぎた愛優妃のお腹から第七子・風環法王が生まれたのは、夏の盛りを迎えようという七月の半ばも過ぎたある昼下がりのことだったという。