聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第2章 失われた記憶
6(宏希)
こうもへヴィな夢を立て続けに見ると、どうもちゃんと休んだ気がしない。
小学生だった頃のおれと、風になる前のおれと、どれもこれもはじまりのきっかけを示唆する夢だった。
いっそのこと今日は学校を休んでしまおうかと思ったが、茉莉に睨まれ、素直を保育園まで送って、教室では科野とは一定の距離を取り、左右田の都合で演劇の練習が休みなのをいいことに、部活にも行かず早々に学校を抜け出してきた。
どこに行こうかなんて、ちゃんと考えていたわけではなかったけれど、漠然と夢の合間合間に現れた高平さんに会いたいなと思ってしまっていた。
病院のカウンセリングはもちろん予約が必要だ。平日の夕方にふらっと行って都合よく会えるわけがない。それでも、昇降口を出て校門に向かう間、アドレスが変わっているかもしれないと思いながらメールを打つと、あっさりと返事が返ってきた。
指定された場所は、病院ではなく、学校からもそう遠くはない喫茶店だった。
マップアプリで案内されたとおりに向かうと、辿りついたのは若干昭和の香りがする低層ビルの前だった。入口はこれまたレトロな木製の扉で、入り口の前ではコーヒーメーカーのロゴが入った面と喫茶店の店名が入った看板がゆっくりと回転していた。
「喫茶 麒麟」
どこにでもありそうと言えばありそうなおめでたい名前の喫茶店だ。
回転看板の脇には、黒板に今日のおすすめメニューがチョークで書かれている。
“グアテマラ産のコーヒー豆、入荷しました。”
どこかで見たことがあるような字だなぁと思いながら重い扉を押すと、頭上でカランカランとお決まりの鐘の音がする。店内は、明るさを抑えた照明の下、無垢材を使った床とどっしりとして艶のあるテーブルと椅子がより一層レトロ感を醸し出し、店主のこだわりが見えるようだった。
「いらっしゃい」
化学実験室で見るような巨大なフラスコのようなものをのせたカウンターの奥から、やけに気さくな声がかけられた。
おれは正面も見ずに「ああ、どうも」と低く返事をして店内を見回す。
そろそろ約束の時間のはずだが、店内には今のところ客は一人もいない。
「って、高平さん?!」
はっと気づいて、おれは正面カウンターの奥で黒いエプロンをつけた店主に視線を戻した。
「よぅ、久しぶり」
「えっ、高平さん、どうしたの、そのエプロン! 仕事は? カウンセリングは?」
「ああ、手のかかる坊やが卒業してったんで、コーヒー好きが高じて二、三年前に転職したんだよ」
「ということは、ここ、高平さんの店?!」
「そうだよ。どうだ、このこだわりのインテリア。店内だけじゃなくて、コーヒー豆にもこだわってるんだぞ。調理師免許もとって、軽食だってお手の物だ。焙煎した豆の販売もしているし、最近はラテアートだって、SNSでじわじわと人気出ているところなんだ!」
えっへんとばかりに胸を逸らせてみせた高平さんに、おれはただただ感嘆の声しか上げられない。
「まあ、いいから座れよ。コーヒーは飲める? 何がいい?」
カウンターの真ん中の席に腰かけて、差し出されたメニューにざっと目を通す。
豆の種類だけでも何種類もある。それにブレンドまで。
「高平さんのお勧めは?」
「そうだなぁ。宏希は苦いのは得意?」
「結構好き」
「コクは?」
「あった方がいいかな」
「香りは?」
「甘い感じがいいな」
「酸味は?」
「あんまり」
「ふむ。じゃあ、本日のおすすめグアテマラの深煎りにしよう」
高平さんは鼻歌交じりに用意してあった焙煎済みの豆を挽きはじめる。
「で、宏希、元気だった?」
奥の方でガリガリと豆が挽かれる音がした後、戻ってきた高平さんがドリップの準備に取り掛かりながら尋ねる。
「元気っちゃ元気だったけど」
「ただ元気なだけだったら俺に連絡寄越さないよな。どうしたよ?」
どうした、と尋ねられるとどう説明したものかと迷う。
前世って信じますか?
なんてところから始めたら、明らかに頭を疑われるだろう。
「あ、わかった! ポニーテールの彼女に振られたな?」
「っ、まだ振られてないよ!」
昨日の別れ際の科野の哀しそうな顔が浮かんで、思わず叫び返す。
「なんだ、それか」
「それって何だよ」
「恋の悩みだろ? 十七歳だもんなぁ。年頃だ」
にやにやしながら高平さんはドリッパーの中に引いたコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぎはじめた。はじめは一滴一滴丁寧に、やがて少しずつお湯の量を増やしていくと挽かれた粉の真ん中が膨らんできて香ばしいコーヒーの香りがカウンター中に広がっていく。更にお湯を注いでいくと真ん中に泡が出てきて、全てのコーヒーが落ち切る前に、高平さんはドリッパーを外した。
「それ、捨てちゃうの?」
「この部分は灰汁みたいなもんだから。美味しく飲むためには美味しいところだけをいただくんだよ。――あ、今勿体ないって思ったね?」
うっ。何でもお見通しなんだ。
高平さんは笑いながら綺麗な装飾が施されたカップにコーヒーを注いでいく。
「贅沢だって思う? ま、コーヒーなんて嗜好品だからね。豆を吟味して輸入して焙煎して、っていう風に、何時間も手間暇かけてこの一杯を注ぎだす。だからこそ、一番おいしいところだけを切り取らないともったいないだろう?」
さ、と目の前に出されたコーヒーは艶やかな色をしていて、顔に近づけると馥郁たる香りが鼻孔から体内に広がっていった。心奪われるようなふわりと華やかな香り。口に含むと華やかな香りの後にしっかりとしたコーヒーのコクとじんわりとした苦みが広がり、後にはさっぱりとした感触だけが残った。
「美味しい」
「だろ? 自信の一杯だ」
「こんなにおいしいコーヒー飲んだことない」
放課後や休日に寄るチェーン店の味にはもう戻れない気がする。
「それはマスター冥利に尽きるな」
にこにこしながら、高平さんはチーズケーキをつけてくれた。
「これも高平さんが焼いたの?」
「いやいや。デザート部門は別」
「取り寄せ?」
「ぶっぶー。ハズレ。このチーズケーキは……」
高平さんが答えを口にする前に、背後の入口のベルがカランカランと鳴って、一人、買い物袋をがさがさといわせながら誰かが入ってきた。
「ただいまー! ごめん、遅くなっちゃって。宏希、もう来てる?」
聞き覚えのある若い女性の声だった。
過去に時間が引き戻されたかのような、このコーヒーのように深く苦く香ばしい思いが胸に広がって、身体が固まる。
「お帰り、杏。宏希なら、ほら」
にこやかに交わされる高平さんと杏とのやり取り。
おれは、おずおずと後ろを振り返った。
会いたくなかったというわけじゃない。ただ、その……嫌な予感、というのだろうか。
「やっだー、ほんとに宏希だー!」
買い物袋もその辺にほっぽって、杏が飛びついてくる。
甘酸っぱい匂いがした。
あの頃と変わらない、杏の香りだった。
「こら、杏。宏希が固まってるじゃないか。もう子供じゃないんだぞ。高校生だぞ。十七歳だぞ。いろいろ大人なんだぞ」
「え〜、いろいろって何〜? ねぇ? もう、宏希ったらこんなに大きくなっちゃって。ほんと、元気そうで信じらんない。会いたかった〜」
まるで迷子の犬に再会したかのように、杏はおれをぎゅっと抱きしめて頬ずりまでしてくる。
「あっ、その制服、岩城の高等部の! ポニーテールの彼女とはお付き合い順調?」
杏のその一言におれは我に返って、杏を押し返す。
「相変わらず元気そうだね、杏」
「なによー、杏だなんて、宏希のくせに生意気〜。これでも今は人妻なのよ?」
にっこりと微笑むと、杏はおれの前に左手を突きだして見せた。
左手の薬指には確かに銀色の指輪が嵌っている。
おれはおそるおそる高平さんを振り返って、その手にも同じ指輪が嵌っていることを確認する。
軽く落胆しながらそっと目を閉じる。
分かっていたことじゃないか。高平さんと杏が付き合ってることくらい。杏が纏っているこの甘酸っぱい香りと同じだ。ちょっとした憧れだっただけだ。臨床心理士として高平さんと一緒に働いていた杏が、あの頃、ちょっと眩しく見えただけだ。口のきけないおれに、他の人と変わらず太陽のような笑顔で接してくれた杏が、少し天使のように見えただけだ。
公園で科野に出会う前。まだ、おれが風の記憶にもキースの記憶にも縛られていなかった頃の、初恋の人。
苦く胸に広がる痛みに、好きだったんだなぁと今更ながら感慨が広がっていく。
間違いなく、河山宏希だけの想い。
「しかもね、今わたし……」
「あ、ばか、杏それ以上は……」
「妊娠五か月なんだ〜」
指輪に続いて、更に何か得体のしれないものが頭をぶんなぐって胸を押し潰して通り過ぎていった。
「高平、ばかとは何よ〜。せっかくの御祝い事なんだもの、宏希にも知ってほしかったんです〜」
おれはもう一度、ぎぎーと音が出るんじゃないかというくらい動きの悪い首をめぐらして高平さんを振り返った。
高平さんは苦笑いしつつも、おれと目があった瞬間に申し訳なさそうに目を伏せた。
だよな。高平さんだって気づいてるよな。おれが杏に特別な感情を抱いていたことくらい、お見通しだよな。カウンセラーだもんな。
おれは席を立って、高平さんと杏を順に見た。
「二人とも、結婚おめでとう。それに新しい命も授かってて、本当におめでとう」
心からのおれの言葉。
「ありがとう、宏希!」
ぎゅっと抱きしめてきた杏にとって、おれはやっぱり飼い犬のような存在なのだろう。
今はもう、それでいいんだけど。
膨らみはじめた杏のお腹が触れる。
泣き顔が、見えるようだった。
炎の、泣き顔。泣き腫らした顔で笑う炎。諦めたようにお腹をさすり、零れだす嗚咽を飲みこむ炎。
命を授かるということが、どれだけ難しいのか、おれは知っている。
だから、大切にしてほしいと思う。生まれる前も、生まれた後も、大切にしなければならないんだ。
君は、永い時の中で僕たちの子供が欲しいと言っていたね。
それが叶いにくいと、ジリアスから言われた時から、君は自暴自棄になっていったんだ。
ねぇ、僕らは死ぬはずのない神様の体だったんだよ?
子供なんか残さなくても、僕たちの種族は絶えることがない。僕ら自身が絶えることがないはずだったのだから。
僕は、君と二人でいられるならそれでよかった。それ以上望むことはないと思っていた。なのに、君はそんな僕を理解できないと言って、どんどん心が離れていったよね。
死のない約束された未来を、どうして僕たちは満喫することができなかったんだろうね?
神の子だというのに、どうして幸福ばかりじゃいられなかったんだろう。
「もう、やだぁ、泣かないでよ、宏希」
はっと我に返ると、視界は涙に白くぼやけていて、杏はおれの肩をばしばしとはたきながらティッシュでおれの頬を拭っていた。
「ああ、ごめんなさい。おめでたいのに、泣くつもりはなかったんだ」
多分、今の涙はおれじゃなく、風のもの。
タイミング悪く人の身体を使わないでほしい。
そうでなくてもお前の記憶に悩まされているというのに。
「わかってるって。あ、そのチーズケーキ、高平出してくれたのね。それ、わたし作ったのよ。高平が喫茶店やりたいっていうから、わたしパティシエの勉強して、一通りお店で出せるくらいのものは作れるようになったんだ〜」
「へぇ、それはすごい。さっそくいただきます」
席に戻ってフォークをスフレ状のチーズケーキに沈みこませる。柔らかさと弾力を併せ持った一かけを掬い取り、口にはこぶと濃厚なチーズの風味と爽やかなレモンの香りが鼻に抜けていった。そして一口コーヒーを啜る。
「美味しい! チーズケーキも絶品だよ!」
「でしょ? よかった、宏希に褒めてもらえて」
杏は上機嫌でカウンターの中に買い物袋を移動させ、冷蔵庫に物を詰めはじめる。
「学校はどう? うまくやってる?」
楽しくやってる?とは訊かないあたりが、高平さんらしいのだろう。
「まぁまぁだよ」
「彼女はできた?」
楽しげに杏が割り込んでくる。
「んー、いや、まだ? かな」
おれと科野って、そう言えばどういう関係なんだろう。なんて。ちゃんと告白したわけでも、付き合おうって言ったわけでも言われたわけでもなくて、秘密の共有者だったけど、最近じゃその秘密もどんどん周りに拡大していっていて、――このままじゃただのクラスメイト? 保育園の送り迎え仲間?
「なんだなんだ、いっちょまえに恋の悩みかぁ。羨ましいなぁ、甘酸っぱいなぁ」
「そう言うわけじゃ……」
ないんだよ、と言いかけて、あるのかもしれない、とふと思う。
科野中心に世界が回っているというほどではないにしても、今の悩みの延長上には確かに、科野というか炎というかの存在がいる。
でも、今高平さんに相談できることと行ったら、こっちの世界のことだけだろう。
「昔の、夢を見たんだ」
コーヒーを半ばまで飲んだところで、おれは意を決して高平さんを見上げた。
高平さんは静かにおれを見返した。
「狭いアパートで起こったあの日のことも、東京に来てから出逢った科野のことも」
「科野っていうんだ、あの子」
「うん。科野葵。今、同じクラスで……弟たちの保育園の送り迎え一緒にしてる」
「……そりゃ、恋人とはちょっと違う方向にいったんだな。宏希、見立て通り今どきのかっこいい高校生に育ったのに、その子は見た目じゃ男を選ばないタイプか」
「鉄壁の兄もついてる」
公園で初めて出逢った日、科野の手を引いていった中学生は科野のすぐ上の兄で、岩城学園では中高と生徒会長を務めた有名な人だった。今は大学生になった分、シスコン度が上がっていて、保育園の送迎もそうだが、土日に会おうとした時でさえ若干監視がきつい。
何度かたまたま出会う度に送られてくる鋭い視線を思い出して、おれは肩を震わせた。
高平さんはそれを見て笑っている。
「手強いなぁ。その子もブラコンじゃないの?」
「うん……兄がシスコンだとは思ってないのは確か」
「ハードル高いなぁ。でも諦めるな、宏希。兄は兄だ。結婚はできない」
「けっ、結婚って、いきなり何言ってるの」
「でも、道ならぬ恋っていうのにも憧れるわ〜」
「杏ちゃん、そう言うのは少女漫画だけの世界にしといてくれる?」
「きっと出来るお兄さんなんでしょうね。憧れるわ〜。禁断の兄妹愛」
夢見るように空想に耽りはじめた杏を、高平さんは苦笑して見ている。
そう、なんだよな。これが今の現実。兄弟で、なんて、普通考えたりはしないし、怖気が走ると言われたって仕方ない。神様の子供だから、なんかアリな気がしてただけなのかな。死なない種族なんて、僕たち八人だけだったから。風が生まれた頃は兄弟も各国に封じられていて、一緒に育つことも生活することもほぼなかった。炎だけは小さかった風の後見役としてちょくちょく風環の国に様子見に来てくれたりしていたけれど、生まれた時からおれは炎を姉だなんて思っていなかった。
『おれは死なないよ? 炎と同じ血が流れてるんだから、炎を一人にすることもない。永遠に一緒にいられるよ?』
ぶわっと血が逆流するような台詞が聞こえて、おれは思わず左右を見た。
呟いて、いないよな?
今の、おれの心の中だけに聞こえた台詞だよな?
「おっ、どうしたどうした? いきなり赤面して」
「あっ、ほんとだ〜、かっわいい〜」
「まさか、茉莉ちゃんか? ポニーテールの君から、妹に心変わりして?」
「やだっ、きゃぁっ」
身を乗り出してきた高平さんと、顔を手のひらで蔽いながらもしっかりと指の合間からおれを好奇の目で見ている杏とを見て、おれはようやく平常心に戻り、ため息をつく。
「そんなこと言ったら、あいつに殺されますよ?」
「相変わらずお兄ちゃん嫌い、不潔〜って言われてるのか?」
「ん、まぁ……」
茉莉がおれを嫌いなスタンスに変わりはないんだけど、昨日のことで、何となく感じが変なのだ。それこそ、「宏希嫌い」という無味乾燥な拒絶から、年頃の娘が父親を汚らしいものでも見るかの目で見るような生理的な嫌悪に変わっているというか、――昨日助けてやったんだから、少しは態度が軟化するかと思いきやそんなこともなくて、今朝もむしろ一生分の傷を負わせたかのような嫌われぶりだった。
わたしに近づくな。
それが一番近いだろうか。
「難しい顔をして。そうだな、俺から見ると今のお前には女難の相が出ている」
笑いながらびしりと指差されて、おれは何も言い返せなかった。
「辛いも苦しいも恋の醍醐味だが、せっかく出逢えたんだ。掴んだら離すなよ」
掴んだら、離すな。
そのために、追いかけてきたんだろう?
ずっと、ずっと。
何度も生まれ変わって、彼女の手をまた掴むために、おれは今ここにいるんだろう?
キースだった時。おれは、ずっと彼女の側にいるために、一度手を離した。
風となって再び側にいられるようになって、それでも永すぎる時に心は蝕まれていたのかもしれない。そして、死が二人を引き離した。
『だから、見つけて――あたしを、探して――』
そうしてようやく今生、また出逢うことができたのだ。
約束を、守ったのだ、おれは。
彼女を、探して、見つけた。
それなのに、彼女の手はおれの手の中にない。
「ありがとう、高平さん」
思い出したかったのは、それだったのかもしれない。
約束を守ったのに、得られない彼女の手。その現実との差異を埋められなくて、おれは呻吟していたのかもしれない。
「ごちそうさま。おれ、ちょっと行ってくるよ」
今ならまだ学校にいるだろうか。それともお迎えにもう向かっているかな。家に帰っているだろうか。
科野に会いたい。
会ってどうしたいとかいうわけじゃないけど、顔を見て、ちゃんと話がしたい。
文化祭で逃げ回っていたことも詫びなければ。
チーズケーキをおまけしてもらってお代を済ませて外に出ようとすると、高平さんと杏さんが出口まで見送りに出てきてくれた。
「ねぇ、また来ていい?」
「ここは喫茶店だぞ。いつだって誰が来たっていいんだ」
「そうだ、いつか彼女、連れておいで」
「できなくてもいつでも来ていいからな」
「ありがとう。それじゃあ」
手を振って学校へ戻ろうかと踵を返そうとした時だった。
慌ただしくなりはじめた夕暮れ時の空を切り裂くような悲鳴が聞こえた。
「科野!」
それは、まぎれもなく科野の悲鳴だった。
空気がざわめいている。
おれは声の聞こえた方へと駆けだした。
曲がり角を抜けると、散らされる朱雀蓮の炎が見えた。
悲鳴と、血と。
そこには昨日、地下鉄の駅の入口でおれと茉莉を襲った男がいて、今度は科野と守景と草鈴寺とを鎖で縛り上げて連れ去ろうとしていた。
待てよ!
その一言が、すぐには喉から出てこなかった。
恐かったのだ。
恐くて、震えていた。
おれには、何の力もない。
それでも、助けに行くべきだったんだ。
そんなことわかっていても、身体が動かなかった。足が地面にくっついたまま、ふわりとも浮き上がろうとしなかった。
科野達を腕に抱えた男は、おれに気づいて振り返った。
にぃぃと、男は笑う。
「弱いな」
ああ、分かった。こいつの名前。
「ヨジャ」
男は一瞬目を瞠り、笑みを深める。
残酷に、告白に、その薄い唇を三日月の形に歪めていく。
その顔に、おれは確かに見覚えがあった。
遥か昔はキースの時代から、風となってもまたおれの前に現れ、おれは――こいつが目障りでしょうがなかった。
だから、おれは。
「どこまで思い出した? 名前だけか?」
「科野を……その三人を返せ」
「取り返しに来ないのか?」
ぐっとおれは拳を握る。
『風よ』
そよとも風は動かない。
「くっくっくっ、あっはっはっはっ」
ヨジャは、目元を抑え、笑止とばかりに高く笑った。
「お前は本当に、何もわかっていない」
「何も分かっていないわけじゃ……!」
「じゃあ、何を分かっている? 何を思い出した? おれの名前だけか? 話にならない」
「おれを……お前はおれを殺した!」
すっと蛇のように男の目が眇められた。
「ほう」
おれはぐっと後ろに下がりたいのを堪える。
「キースだった時、おれはもっと生きられたはずなんだ。せめて彼女に別れを告げるくらいまでは……」
もしあの時、炎に別れを告げることができていたなら、どうなっていただろう。彼女はあれほどまでに最期、取り乱さなくて済んだんじゃないだろうか。
もし、キースが炎にちゃんと別れを告げることができていたなら。
君のことを捨てたわけじゃないのだと、告げることができていたなら。
「生まれ変わっても、お前はいつでもそれは言えたはずだ。なぜ言わなかった? 言えば、彼女は早々に救われていたかもしれない。それとも、前世のお前に心をかけたまま苦しむ炎の姿がよかったか?」
「なっ」
「ひどい男だ。俺は約束を守っただけなのに、逆恨んでお前は俺を殺した」
息を吸い込み、口を開けて、「違う」と言おうとしたが、声は出なかった。
「真実だけが音となる」
ヨジャはぴたりとおれを指差した。
「また後悔したくないなら、全て取り戻しに来い」
どこへ?
そう尋ねる前に、ヨジャは三人を抱えたまま、部下らしき女と共に湧き上がってきた黒い瘴気の中に姿を消していった。