聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第2章 失われた記憶

2(聖→樒)
 その昔、今よりもまだとても小さかった頃、一つのお墓に遭遇したことがある。
 あれは、ルガルダの森に迷い込んだ時だった。
 天龍の国の上空に浮かぶルガルダの森には、天馬である翡瑞を駆れる龍兄か、時空を渡れる私くらいしか上ることはできない。
 龍兄は、極力ルガルダの森には近づけまいとしていたけれど、頻繁に龍兄がルガルダの森に通っていると知ってからは、こっそりと後を追いかけて私も飛ぶようになった。
 森に飛んで辿りつけたからといって、龍兄の後を追いきれるとは限らない。龍兄が天龍城にいないからといって、毎度ルガルダの森に通っているとは限らないから。だけど、この森のどこかに、龍兄の心を寄せる場所があるのだということは分かっていた。
 たとえ龍兄の気配がしなくても、龍兄の大切にしているものがそこにあると知ることができただけで、私は一歩龍兄に近づけた気がしていた。
 その日も、午後になってもご機嫌伺いにやってこない龍兄に腹を立ててルガルダの森に飛んだのだった。
 鬱蒼とした森は、昼間とはいえ、背の高い針葉樹林の木立の合間から漏れくる光に導かれて歩くしかない。針に糸を通すような細い光が所々に差し込んで、けもの道を示す。時折、不吉な声をあげて鳥が飛び立ち、茂みを揺らす音が舌かと思えば、角の立派な鹿が一瞥して去っていく。木の根元にはたまに毒々しい赤い茸。触れただけでかぶれるから、お腹が空いてもこれに手を出すことはしてはいけない。そう教えてくれたのは、森を散策する私を龍兄が見つけてくれた時だ。
 どこかで、私がこの森を歩き回ることを許してくれていたのだと、思っていた。
 限られた者しか入れないこの森に入ることを許されているのを、私は特権だと勘違いしていた。
 そのお墓は、長方形の御影石を半分土に埋めただけの簡単なものだった。
 初めて見つけた時、私は不気味さよりもいっそ、物珍しさに駆られたものだった。
 お墓には、行く度に別な花が手向けられている。あらかじめ準備してきたと分かる豪華な花の時もあれば、その辺で摘んできたと思われるシロツメクサが一輪の時もある。けれど決して、何も手向けられていない時はなかった。
 たまたまなのではなく、しっかりと誰かに管理されているのだ。
 誰か――ここに来られるのは私の他には龍兄しかいない。だから、龍兄が毎回欠かさずに花を手向けているのだと思っていた。
 その日、私はまたぶらぶらと森の中を散策し、お墓に手向けてみようと戯れに一輪の白い花を摘み、お墓のある場所へ向かっていた。
 もしかしたらお墓の前で祈る龍兄の背中を見ることができるかもしれない。そんな期待もしながら、大分慣れたけもの道を進んでいく。
 その日の午後はとてもとても森は静かで、鳥の声一つ、鹿の気配一つしていなかった。全ての生ある者たちが息を潜めて何かが行き過ぎるのを待っているかのようだった。
 まるで時が止まっているかのよう。
 その中をずんずん歩いていく自分は、唯一この世界の支配者にでもなったかのような気分で、靴の下でぱきぱきとわざと小枝の音を大きく響かせてみたり、草を踏み分ける音を立ててみたりしていた。
 それなのに、どうしてだろう。
 次の茂みを抜ければお墓だというところで、ふと、息を潜めなければいけないような気がした。
 気配を感じたのだと思う。
 茂みの向こうで、何かとてつもなく後ろ暗い思いが渦巻いている気がした。
 私はこっそりと茂みの葉の隙間から向こうを覗き見た。
 女性がいた。
 青い着物に身を包んだしなやかな背中、結い上げられた艶やかな黒髪。
 一瞥して、ただの女性ではないと思った。
 高貴な女性。
 すぐに海姉さまだと気づかなかったのは、その女性がお墓の前に立ちつくし、睨むような勢いでお墓を見下ろしていたからだろう。
 後ろ暗い気配も、その女性から漂ってきているものだった。
 この調子ではすぐにでも闇獄界の瘴気の穴と繋がってしまいそうだ。
 だけど、声はかけられなかった。
 握りこぶしが作られた両の手は、爪が手の平に深く食い込んでいるであろう程に白くなっていた。
 悔しさ。
 悲しさ。
 惨めさ。
 肩を震わせる女性は、奥歯をぎりりと噛みしめ、耐えるようにそこに立ち、お墓を見下ろしていた。
 私は、そのお墓が誰のものか知っていた。
 “綺瑪”。
 私が生まれる前に亡くなった、海姉さまの〈影〉。
 何故亡くなったか、龍兄はもちろん、パドゥヌも誰も教えてはくれない。
 字が読めるようになってしまった私は、墓碑に刻まれた名と亡くなった年を読み取れはしても、それを尋ねることはできない。ただ、察するだけだ。
 何故、海姉さまの〈影〉のお墓が水海の国ではなく天龍の国にあるのか。
 何故、わざわざ海姉さまはこんなところまでやってきたのか。どうやってやってきたのか。
 自分の〈影〉の墓にお参りすることが悪いわけでは、勿論ない。
 ただ、違和感があったのだ。
 どうやって上ってきたにしろ、ある程度の労力をかけてお参りに来たはずなのに、なぜ海姉さまの背中はあんなにも打ち震えているのだろう、と。
 一通り祈りなのか怒りなのかわからないものを捧げた後、海姉さまはすっと肩から力を抜いて首を振った。
「馬鹿ね」
 一言だけ呟いた声が聞こえた。
 私は、海姉さまがここから去るまで、ずっと息を潜めているつもりだった。だけど、とうに海姉さまは私に気づいていたらしい。
「聖、いるのでしょう?」
 咎めるでなく、振り返りもしない海姉さまからそんな声が聞こえてきて、私は思わず茂みを揺らしてしまった。
「怒らないから出てきなさい」
 怒らないから、という割には、こちらとしては見てはいけないものを見てしまったのだからある程度の覚悟はしなければならない。かといって、ここで〈渡り〉で天龍城に逃げ帰っても、後で海姉さまが訪ねてきたときに白を切りとおす自信はない。
 大人しく私が茂みから顔を出すと、振り返った海姉さまとばっちり目が合った。
 海姉さまは、仕方なさそうに目を伏せた後、諦めたような微笑みを浮かべる。
 いつもの海姉さまの優しさを感じさせる微笑。さっきまでの渦巻くような負の感情はすっと影を潜めていく。
 おずおずと私が茂みから抜け出すまで、海姉さまは何も言わずにお墓の方を見下ろしていた。その背に、さっきまでの勢いはない。
「聖はよく来るの?」
 お墓の前で海姉さまと並んで立つと、静かに海姉さまが尋ねた。
「たまに」
「龍がいると思って、探しに来るの?」
 思わず図星をつかれて、私は斜め下に顔を背ける。
 海姉さまはくすくすと笑った。
「隠すことはないわよ。顔に全部書いてあるもの」
 楽しそうに、優しげに。なのに、とても哀しそうに見える。
「顔に書いているなら、わざわざ聞かなくたっていいでしょう?」
「あら、言い返すようになったわね。いつまでもおちびさんだと思っていたのに」
「もう、今日の海姉さま、意地悪だよ」
「だって、一番見られたくない姿を見られてしまったんだもの」
 振り返った海姉さまの目は、笑ってはいなかった。
 殺意、とまではいかずとも、無事では済まないような気がして、全身から血の気が引いていく。あまりにも恐くて、視線を外したいのに、がっちりと視線を掴まれて外させてもらえない。
「聖」
 冷えるような海姉さまの声。
「お願いがあるのだけど、聞いてもらえる?」
 おずおずと私は頷く。
「もう二度と、ここには来ないで」
 はっと、私は海姉さまを見上げる。
「ここは……私と龍だけが知っている場所なの。他の誰も、知る必要のない場所。分かるわね?」
 私は、唖然として海姉さまを見上げたまま、腰が抜けて座り込んでしまった。
 それでもまだ怖くて、いくらかでも後ろに下がろうと腕で地をかく。
 海姉さまはそんな私を見下ろしたまま、手を伸ばそうとしなかった。
 荒波さえも飲みこんでしまうほど暗い夜の海のような目で、私を見下ろすばかりだ。
 瞋恚というものが目に見えれば、きっとこんな風に見えるのだろう。触れれば火傷では済まない恐ろしさが秘められている。
 そう分かっているのに、私は震える声を搾りだして尋ねていた。
「綺瑪さんは、龍兄にとって……何?」
 海姉さまから放たれた冷たい雷が、私の全身を打ちひしいだ。
「ご、ごめんなさ……」
 私が謝り終らないうちに、海姉さまは私の前にすとんとしゃがみこんだ。
 いつもの海姉さまからは想像もできないほど意地の悪い笑みを浮かべて、私と同じ目線で私を見つめている。
「知りたい?」
 豊かな唇が三日月の形に歪められる。
 私は、その目に、微笑に、気圧され、身体の芯を冷やされ、もはや頷くこともできない。そう思ったのに、小さく私の首は上下に揺れていた。
 海姉さまの目がさらに眇められる。
 馬鹿な子、とでも言いたげに目の中に苛立ちが燃え上がる。
 その目が一度閉じられて、凍りついた青い目が再び現れた。
 私はもう、何の言葉もあげられない。
「綺瑪は龍の初めての恋人だったの」
 ひゅうと吸い込んだ息が胸の中で石になっていくようだった。
「とても、仲がよかったのよ」
 海姉さまの声には、悔しさが滲んでいた。
 まるで自分のことのように。
 それは、そうだろう。法王と〈影〉は一心同体だというから。
「どうして、死んだの?」
 〈影〉なのに。
 法王の命は永遠。それに付き従う〈影〉の命も永遠ではなかったの?
 海姉さまの目に少しの驚きが混ざる。まさかこの状況で、私が不躾に質問してくるなんて思わなかったのだろう。
「殺されたのよ」
 何のこともないように姉さまは言った。
「誰に」
 怯えきっているはずの私の口は、噤まれることなく思ったことが滑りだしてきてしまう。
 海姉さまはすっと立ち上がると、墓の方に向かったまますっと首だけを回して私を見下ろした。
「私に」
 短くそう言った後、再び墓に向き合う。
 私はごくりと唾をのみ込んだ。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ。
 それは、もう振り返る気のない海姉さまの背中を見ていれば分かる。
 何故、とはもう、聞くことはできなかった。
 私は何も言わず、心の中で〈渡り〉とだけ唱えた。
 景色は変わる。
 自分の部屋のベッドの上。
 私はようやく深く息を吐きだし、緊張を緩めた。
 目を閉じると底なし沼のような真っ黒い海姉さまの目を思い出しそうで、瞬きを繰り返す。
 あそこはもう、行ってはいけないのだと、心に刻み込まれてしまっていた。
「誰にも喋らないから……許して」
 その日から、私はひと月近く高熱でベッドから出られなくなった。

 目が覚めると、汗がぐっしょりで気持ち悪かった。
 吐きそうになって、思わず口元を抑えたけど、特にこれ以上上がってくる気配もない。
 目を閉じると、あの時の海姉さまの目が追いかけてくるかのようだった。
 海姉さまは、優しい人だった。
 遠慮深く、思慮深く、誰にでも公平に優しく、聖にだって甘い顔をしてくれていた。
 聖だって、海姉さまが大好きだった。
 と、思っていた。
 けれど――
 どこかで、恐がっていた。
 心の奥底が、いつも冷たいままだった。
 気づかないようにして普通に甘えていたつもりだったけれど、炎姉さまや風兄さまには手放しで甘えられていた自覚があるのに、海姉さまは隣国で行き来もしやすかった割にどこか遠く感じていて、それほど多く遊びにいった覚えもない。
 今の記憶があれば、恐がるのも当然だろう。
 でも、聖は多分、今わたしが夢で見た記憶を覚えてはいない。
 高熱で魘されるうちに、都合よく忘れてしまったんだろうか。
 それでも、あの後、綺瑪さんの墓に近づいた記憶はない。
 綺瑪さんを海姉さまが殺したという噂も聞いたことはない。
 皆が知っているのは、綺瑪さんは自殺だったということだ。
 海姉さま、どうしてあんなこと言ったんだろう。自分が殺しただなんて。何か追いつめるようなことでもしてしまったということなんだろうか。
 考え込みそうになって、わたしは首を振った。
 あれほど長く生きた聖でも知りえなかったことを、今のわたしがどうこう考えたところでどうしようもない。
 スマホに手を伸ばすと、午前2:44の表示が見えた。
 新着の連絡もない。
 昨日、駅で別れてから、桔梗からは何の連絡もなかった。
 わたしも、すぐに連絡をする気にはなれなかった。詩音さんなら直接桔梗と連絡を取って無事を確認してくれているかもしれない。詩音さんに連絡してみればよかったのかもしれない。でも、もう夜中だ。朝になって学校に行けば、嫌でも桔梗には遭うことになるだろう。桔梗は学校をお休みしたことなんてほとんどないから、きっと今日も来る。
 そして、何もなかったふりをしながらおはようと言うんだろうか?
 やっぱり連絡……いやいや、もうこんな夜中なんだから。
 メッセージを打ちはじめようとした指を止めて画面を閉じる。
 なんだか、最近微妙だ。
 特に夏休みのことがあってから。
 洋海のことが一番、いろいろとやりづらい。
 こんな近くに、よりにもよってヴェルドがいるなんて。
 昨日だって、あんなに張り切っておでこに傷までつくって――やっぱり、早く記憶を消してしまわなきゃ……
 夜中、目が覚める度に何度となく思う。
 早く、と。
 今なら洋海も熟睡しているはずだ。
 部屋に鍵がかかっていようがいまいが関係ない。
「〈渡り〉」
 呟くだけで、簡単にわたしは洋海の寝息の聞こえる部屋に入れる。
 何の変哲もない中三男子の部屋。そう思っていたのに、夏前にはなかったはずのダンベルが床に転がっていた。
 当たり前だ。
 洋海の身体は運動神経もよく、サッカー部で鍛えていると言っても所詮ヴェルドの鍛え抜かれた西方将軍としての肉体には敵わない。少しでも強くなりたいなら、筋トレからと思ったのかもしれない。
 そんなこと、しなくていいのに。
 もう、関わらなくていいのに。
 息を押し殺して枕元に立つ。
 洋海の寝息は崩れない。
 大丈夫、よく寝てる。
 今まで、ここまで試みなかったわけじゃない。でも、できなかったのはわたしにも甘えがあったからだ。
 守ってもらおうなんて思ってない。
 そう言っていたのに、期待していた。守ってくれると信じてた。
 わたしは、弱かった。
 何もできない自分をそれでいいと思っていた。
 でも、わたしにはできる。わたしには力がある。
 これから先もこの記憶が元で何か変なことが起こりつづけるのだとしたら、洋海をわたしのせいで危険にさらすわけにはいかない。
 手をかざす。
 静かに息を吐き出しながら、心の中だけで呟く。
『悠久の時を渡る時の精霊たちよ
 汝らが刻みし時の記憶に踊らされし者の痛みを癒せ
 死せし時失われしはずの記憶 今一度忘却の彼方に解き放て――』
「姉ちゃん、夜這い?」
 あと一言、〈忘却〉と唱えるだけというまさにその瞬間に、洋海は目を開けてわたしを見上げていた。
 わたしは思わず息をのむ。
「悪いけど俺、そういう趣味ないんだけど」
「わ、わたしだってないよ!」
 手をかざしたまま、叫んだわたしに洋海は起き上がって苦笑する。
「じゃあ、その手は何?」
「何って……」
 ようやく手を引っ込めて、わたしはそっぽを向く。
「何でもないよ」
「何でもなくはないでしょ」
「何でもないったら、なんでもないの」
「俺のこと、邪魔?」
 ベッドに腰掛けたまま、洋海は上目遣いにわたしを見た。
 気づいている。
 わたしが何をしようとしていたか、洋海は気づいている。
「今までも何回か、記憶消しに来てたよね? でも今回は、本気だったでしょ?」
「気づいて……」
「気づくよ。人の気配に敏感になってるんだから」
 それは、ヴェルドのせいだ。
 人の気配に敏感になるなんて、戦場で戦う者だからこそ持つ習性。
 この世の中に必要なスキルじゃない。
 わたしはもう一度、下げていた手を洋海の前にかざした。
「悪いけど、何度記憶を消されようと俺は思い出すよ。たとえ記憶がなくても、俺は姉ちゃんを助けに行く。そのために生まれてきたんだから」
 自信たっぷりに洋海は笑っていた。
 わたしよりもよほど、余裕気に。
「姉ちゃんが大変なのに、俺がのうのうと生きてられると思う? ヴェルドの記憶なんかなくたって、俺は根っからのシスコンだよ?」
「嘘」
「嘘じゃない。ただ、どうせ守るなら、姉ちゃんのことも自分のことも、より安全に守りたいだろ? それなら、ヴェルドの記憶はあった方がいろいろと便利なんだ。ヴェルドの記憶がなくても白虎を揮えるなら特に問題はないんだけどね」
「馬鹿なこと、言わないで。わたしは巻き込みたくないの。昨日みたいなことがまた会ったら、洋海、また怪我するでしょう? そんなこと……」
「それだけ? 例えば、俺が当方将軍 藍鐘和(らんしょうわ)だったら? そこまで気にしないんじゃない?」
 はっと胸を突かれた思いがした。
 そう、例えば洋海が藍鐘和だったら。ヴェルド・アミル以外の他の人だったら。
「姉ちゃんが俺の記憶消したくなるの、俺がヴェルドだからだろ? まだ、聖様のこと追っかけてるって思ってるからだろ?」
 そう、だ。だって、聞いちゃったんだもの。八月に工藤君の別荘に行って長い間霊体で彷徨っていた時、洋海は――
「そりゃヴェルドは聖様のこと好きだよ。大好きだよ。ずっとずっと大切に憧れてきたんだ」
「やめて。聖様なんて言わないで」
「でも、だからちゃんと分かってる。聖様がずっと誰を見つめつづけてきたのか。今も、誰を見ているのか」
 洋海の真っ直ぐ射抜くような視線に息をのむ。
「だから、応援させてよ」
 くしゃりと洋海が相好を崩した。
 どうしようもなく好きだという気持ちと、諦めと、それだけではない親愛の気持ちとがないまぜになっていた。
「今生こそ叶えるチャンスじゃないか。ずっと貴方たちを悩ませてきたものはもう取っ払われたんだ。ようやく、望む形で出会えたんじゃないか。なのに、俺が進んで障害になりたいなんて思っていると思う?」
 そんな、まだ夏城君とどうこうなっているわけじゃないのに、そこまでそう言われてしまうと、どう答えていいかわからない。
「それでも、記憶を消した方が安心できるっていうなら、いいよ。何回でも消せばいい。でも、きっと何を忘れていても、姉ちゃんのことは守るよ。守られたくないっていうかもしれないけど、俺はそのために……」
「そのために生まれてきたなんて、言わないで。洋海には洋海の人生があるでしょう?」
「姉ちゃんにも姉ちゃんの人生があるだろう? 今のその人生は、聖様の人生じゃないはずだ。俺の人生がヴェルドの人生じゃないのと同じように」
「それは、そうだけど……」
「何てかっこいいこと言ってるけど、俺もヴェルドも見たいんだよ。――貴女が望みの幸せを手にする姿」
 わたしは唇をかみしめる。
 わたしが望む、幸せ?
「よし、言いたいことは全部言った。俺、明日も朝部活早いからそろそろ寝るわ。やりたかったら好きにして。――無駄だと思うけど」
 にやりと笑って洋海はわたしに背を向けてごろりとベッドに横になってしまった。
 唖然としているうちに、背中は規則正しく呼吸を始める。
「それは、ないでしょう……言い逃げ?」
 小さく呟いてみても、洋海はもう起きる気配はなかった。
 本当に記憶を消されてもいいと思っているんだ。
 試しに手をかざしてみても、洋海の呼吸に伴ってかすかに動く背中は変わらなかった。
 わたしが記憶を消さないと信じているの?
 そんなわけはない。
 洋海が信じているのは自分だ。ヴェルドの記憶を消されても、思い出せる、或いは思い出さなくても、姉を守るのだという強い意志。
「〈渡り〉」
 わたしは諦めて自分の部屋に戻った。
 翌朝、洋海は普通に元気よくわたしに朝の挨拶をし、部活の朝練のために一足早く家を飛び出していった。
 そして、その日、桔梗は体調不良という理由で学校を欠席した。
 消息については、詩音さんも首を振るばかりだった。
 スマホも電源を切っているみたいで、連絡が取れないのだという。さらに、光くんが桔梗が家に帰ってきていないと、お昼休みに駆け込んできた。
「それって、もしかして駅で闇獄界に攫われてしまったんじゃ……」
「学校に欠席の連絡があったってことは、きっと無事なのよ。維斗にもお願いして探してもらうから、きっとすぐに見つかるわ」
 そうは言っても、詩音さんの表情にも焦燥感が色濃くにじみ出ている。
「何があったんだよ、昨日」
 河山君との仲が、なんだか朝からぎくしゃくしている葵も心配そうに輪に入ってくる。
「鈴を買いに行ったら、その後からちょっと……。葵は何ともなかった?」
 葵は首を傾げる。
「何も。鈴がどうかしたのか?」
「駅に笛の音みたいなのが聞こえてて、あの鈴持ってる人たちがみんなちょっとおかしくなって、襲われちゃって。わたしも危なかったんだけど」
「葵も鈴持ってるなら早く捨てた方がいいよ」
 詩音さんが言うと、葵はあまり乗り気でなさそうに鞄から赤い紐のついた鈴を取り出した。
「これが?」
 思わずわたしと詩音さんはのけぞりながら後ずさり、葵は呆れた目でわたしたちを見た。
「そんなに怖かったのか。ふうん、じゃあ、今日の帰り返しに行こうか」
『えっ』
「鈴売ってた奴なら、何か知ってるだろ。せっかくの縁結びの鈴なのに、また変な騒ぎになったら嫌だし」
 それはそうなんだけど……
 放課後、それぞれの部活が終わるのを待ってわたしたちは昨日の露天商のところに行ってみることにした。