聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第2章 失われた記憶

1(宏希)
 茉莉は、おれが言うのもなんだけど、元は超がつくほどのブラコンだった。
「お兄ちゃん!」
 両サイドで結い分けた髪を弾ませながら、笑顔で駆け寄ってきては甘えるようにぎゅっと抱きつく。三つ下の妹は、それはもう可愛くて、おれの自慢の妹だった。
 いつか茉莉が彼氏を連れてきたら、一発ぶん殴ってやろうと思うくらいには、おれもシスコンだった。
 父さんは警察官。母さんは公務員。
 共働き世帯な上に、父さんは何か特殊な仕事に就いているらしく、三月に一回家に帰ってくるかどうかという状態だった。母さんも母さんで忙しいらしく、小学校から帰ったら、おれと茉莉は学童に行くか、夕方家に帰っても二人でご飯の準備を始めるかだった。
 そんな中で、お腹が大きくなっていった母さんが産休・育休で一年近く家にいたのは、おれたちにとってはかけがえなく大切な温もりに溢れた日々となるはずだった。
 それは、夏も終わりかけ秋を感じさせるような夕日が差し込むような夕方のことだった。
 おれは、中学校の下校帰りに夕食の買い物を済ませて家に帰ってきたところだった。
「助けて! 助けて、お兄ちゃん!!」
 アパートの扉の向こうから、異変を示す妹の悲鳴が聞こえてきていた。
 おれは買った物の袋を持って上がるのもまだらっこしいと、両手に持っていた買い物袋を投げ捨てて錆が目立ちはじめた鉄骨階段を駆け上がり、家の扉を開ける。
 鍵はかかっておらず、勢いよく引っ張った分、自分が勢いに押されて外階段の柵に背中を強かに打ち付けられた。
「お兄ちゃん! 助けてぇぇぇぇっ」
 茉莉の悲鳴。そしてそれを援護するかのように泣き叫ぶ生まれたばかりの赤ん坊の声。
 母さんは用事があって出かけたらしく、まだ戻っていない。
 玄関には大きな男の靴跡が中へ向かって伸びている。
 おれは玄関先に置かれたステンレス製の傘立てをひっくり返して持つと、中へと突進した。
 夕暮れ時の薄暗い居間の奥で、ベビーベッドを背にして必死に男を威嚇する茉莉の姿が見えた。
「茉莉!」
 妹の名を叫び、おれはステンレス製の傘立てを頭上にふりかざし、刃物を握った男の後頭部めがけて打ちつけた。
 傘立ては振り下ろしきる前におれの手を離れ、ガインと間の抜けた音を立ててカーペットの上に転がり落ちる。おれは打ちつけた反動で大きくよろめいていた。
 後頭部をやられた男も同じくふらついてはいたが、頭に蠅が止まったのかという程度の触れ方をした後、ぐるりとおれの方を振り向いた。
「……父さん……」
 絶望の響きがおれの口から零れだしていた。
 どうして父さんがいるの?
 こんな時間に。
 まだ仕事だよね?
 しばらく仕事で家に帰れないって、言ってたよね?
 なんだよ、その左手に握った刃物は。包丁? 冗談だろ。料理にしちゃ向ける対象が違う。
「ぅぉお、ぃ、ひ、ろ、き……」
 泣きながら、怪物に取りつかれ魘されたような表情で、父さんはおれに向かって包丁を振り上げた。
「化、け……物……! 殺して、やる!!」
 動けないおれの頬を切り裂いて、顔の右側の床に包丁が突き立てられる。
(殺される……殺される!!)
 本能が核心に変わった瞬間、おれは左側に転がって包丁から離れ、再び傘立てに手を伸ばす。しかし、何かに取りつかれた父さんは、床から包丁を引き抜くと、おれではなく再び泣きつづける赤ん坊に狙いを変えたようだった。
「何だ、この赤ん坊は。宏希と茉莉、それから? 誰だ、こいつは!!」
 怒鳴り声に、いよいよ火がついたように直緒は泣き叫ぶ。生まれたばかりなのに恐怖が伝わるらしい。
「やめて! やめて、お父さん。この子は直緒だよ。先月生まれたばかりのあたしたちの弟だよ」
「先月! こりゃあいいや、誰の子だ? ああ? 一体誰の子だ?」
 一歩一歩、じりじりと追いつめるように近づいていく父の背中を薙ぎ倒すように、おれは傘立てで殴りつけた。殴り飛ばされて尻餅をついた父さんは、憎悪の目でおれを見る。
「お前の子か? そりゃあいいや、お前もでかくなったもんだ!」
 アル中でもこうはなるまいというくらい下卑た笑い声を立てて、父だった人はおれを揶揄する。
「母さんを、侮辱するな!!」
 傘立てを盾に、茉莉と直緒を背後に庇う。
「あっはは、こりゃあいいや。宏希、お前もすっかり一人前だな。何だぁ? 父さんの帰ってくる場所はないってか? 悲しいな。おれはもう、すっかりお前たちにとってもお荷物だっていうのか!!!」
 鼓膜が痺れるほどの怒声とともに、父はおれが盾にしていた傘立てを蹴り飛ばし、包丁を振り上げた。
 おれはとっさに父に背を向け、茉莉を庇うようにベビーベッドの端を握りしめた。
 左肩から右腰に掛けて、焼けた鉄で切り裂かれたかのような熱い痛みが駆け抜けていった。
 悲鳴が迸る。
 感情が抜け落ちていく茉莉と目が合い、おれは額を茉莉の肩に乗せたまま、歯を食いしばる。
「お兄、ちゃん……」
 がくがくと震える茉莉の頬には、おれの血が跳ねついていた。それを拭ってやると、茉莉はずるりと腰を抜かして座り込んでしまった。
 何が起きているのか、さっぱり訳が分からなかった。
 優しく正義感にあふれていた父が、言葉の通じない怪物となっておれたちの背後に立っている。
 仕事で、何かあったのだ。一度家を空けると、半年や一年、その顔を見ることもない父だ。だけど、帰ってきたときにはこの上なく幸せそうに「ただいま」という人だった。その父が、げっそりと痩せこけ、憔悴しきった顔色は最早生きている人間のそれではなく土気色で、充血し黄色くなった目は、現実では幻に翻弄されているかのようだった。
「まだ立っていられるのか。我慢強いな」
 憎悪に満ちた声が投げかけられた瞬間、おれの背中は傘立てで殴り返されていた。
 思わずおれは頽れる。
「茉莉、ごめん」
 肋骨が何本か折れたようだった。込み上げた血は堪える間もなく口から吐き出され、茉莉の膝を汚す。
「ごめ……」
 もはや意識がないも同然の茉莉は、うんともすんとも言わない。
 そんなおれたちの上に、黒い影が差す。
 父は生まれたばかりの直緒に手を伸ばそうとしていた。
「や、めろ……!」
 父の腕に渾身の力でぶら下がるも、父は物のようにおれを蹴りあげ、おれはベビーベッドに顔からぶつかった後、力が入らないまま茉莉の上に倒れ込んでいた。
 直緒の泣き叫ぶ声が大きくなっていったかと思うと、喉を締めつけられているかのような声に変わっていった。
「や、めろ、やめろ、やめろ、やめろ……」
 どうして、こんな時におれには力がないんだ?
 どうして妹一人、弟一人、守ってやれないんだ?
 おれに、力があれば。
 おれが、もっと大人だったら。
「宏希」
 静かな声が覆いかぶさっていた茉莉から聞こえてきた。
 それは、ずいぶんと冷静でしっかりしていて、それなのに心はここにあらず、どこか遠いところから何かに操られているかのように紡ぎだされた声だった。
 おそるおそる、おれは茉莉を見る。
 見開かれた目は未だ焦点があっていない。
「茉莉、しっかりしろ、茉莉!」
「契約だ。守る力は貸してやろう」
 何者かが茉莉の口を借りて告げた途端、黄色い光が茉莉の中から弾けたかと思うと、ごう、と音がして茉莉とおれの周りに突風が巻き起こった。
 突然の予期せぬ風に、父は弾き飛ばされ、直緒は放り出される。
 おれは直緒に手を伸ばす。だけど、足りない。身体は大事なところのつなぎ目が壊れていて、これ以上は動かせない。
 落ちてしまう。
 床に叩きつけられてしまう。
 伸ばした手の先から、風が巻き起こった。
 風は落下する直緒を巻き込むと、おれの腕の中へと運んできた。
 父は、開いた玄関の先、鉄骨の欄干に身体を打ち付けられ、意識を失っていた。
 鉄骨階段を駆け上がってくる大勢の足音。
 父は捕えられ、おれはもう一度血を吐き、意識を失った。
 目が覚めた時、おれは病院にいた。
 全治六か月。
 肋が四本、腰骨の陥没骨折、背中を切りつけられたことによる、脊髄までの深い傷。
 麻酔漬けで痛みなど感じないはずなのに、身体がバラバラになり、心だけがぽっかりとベッドの中で布団をかぶっているような心もとなさがあった。
 寒い、と思った。
 縫い付けられた傷がある背中を上に仰向けにしていても、何かが重くのしかかってくるような感じがしていた。
 そして、おれは声を失っていた。
 父に襲われたショックのためだろう、と主治医は言っていた。
 父はあの日まで、麻薬を扱う組織に潜入していたらしい。それがばれて薬漬けにされ、幻覚に翻弄されるがままに家に戻ってきて、おれたちを襲った、と。
 父は生きていた。今は的確な治療を受けることができる病院に入院している。いつか、元気になって退院したら、また元の優しい父親に会うこともできる。主治医はそう言っていた。
 父に会いたいかと言われると、考えただけで吐き気がしてきた。恐怖に頭がぎゅっと締めつけられる。
 茉莉は、幸い体に目立つ傷はなかったものの、心の方に大きなトラウマを抱えることになった。赤い血を見ると嘔吐するのだという。
 おれのせいだな、と思った。
 一度だけ、茉莉が見舞いに来てくれたことがあった。
 母さんに付き添われて、おれの病室まで来て、口は動くのに声が出ないおれを見て、恐怖に引き攣った顔をしていた。
「ごめんな」
 そう言いたかっただけなのに、口の動きに音はちっとも乗りはしなかった。息すら出てもいない。一体、今までおれはどうやって声を出していたのか。
 茉莉は弾かれたように病室から飛び出していってしまった。
 紙で伝えることも、携帯に打ち込んで会話することも可能だったのに、茉莉は待ってはくれなかった。おれはまた一つ、茉莉の心に傷をつけてしまったのだと悟った。
「ごめんな、茉莉。おれは大丈夫だよ。すぐに元気になって帰るから、また一緒に暮らそうな」
 そう伝えたいだけだったのに、おれは上手く笑えてさえいなかったらしい。
 声だけじゃなくて、表情筋までいかれていたことに主治医が気づいたのはこの時だったという。
 笑えない。
 頬の筋肉を持ち上げ、口元を引き上げ、目元を緩める。
 ただ、これだけのことができない。
 主治医は、おれの表情が乏しいのは、十一歳という年頃のせいで、愛想笑いなどしないい子供だからだと思っていたかららしい。
 声も失い、表情も失って、おれが気持ちを伝える手段は著しく制限されることになった。
 紙に書けばいい。メールで送ればいい。
 代替手段はあるが、文字は気持ちを表すのに時に不十分だ。
 楽しい気持ちも嬉しい気持ちもこの表情では伝えられない。
 思いの外、それはおれにとって大きなストレスになっていった。
 伝えられない、伝わらないもどかしさに、物を叩いたり投げつけたり、衝動を抑えきれない日常が始まった。
 退院しても、声も表情も戻っては来なかった。
 カウンセリングはおれを苛立たせるだけだった。
 茉莉は暴力的になったおれをますます嫌い、距離を置くようになった。
 しかも、退院して連れ帰られた家は、あの事件のアパートよりも一千キロほど離れた場所だった。
「東京で新しい暮らしを始めるのよ!」
 あのぼろアパートとは雲泥の差の新築一戸建ての扉を開けて、母は気丈に笑ってみせた。
 おれと茉莉にはそれぞれ部屋があてがわれ、狭い居間で顔を突き合わせなければならない理由もなくなった。母はますます忙しく働くようになり、直緒の面倒を見る時だけ、おれは茉莉と顔を合わせることになった。
 だけど、表情がこわばったままのおれが直緒を抱き上げてあやそうとしても、直緒は泣くばかりだった。声をかけたくても音は出ない。イラついた茉莉が結局取り上げて直緒をあやすと、直緒はきゃっきゃっと嬉しそうな声を上げる。
 おれは居場所が無くてふらりと外に出ることが増えた。
 東京に来てから、おれが行く場所は転院先の病院か、病院付属のカウンセリングルームか、近所のコンビニくらいだった。それもコンビニは、昼間は行けない。学校に通っていないことが近所の噂になったら母の肩身が狭くなる。転校先の小学校に籍は置いていたが、喋れない、笑えないでは学校に行ったところで見世物になるのは目に見えていた。おまけに、口性ない大人たちはきっととっくにおれたちが引っ越してきた背景を嗅ぎつけていることだろう。
 母に心配をかけたくないと学校に通う茉莉の表情が、次第に暗くなってきているのが何よりの証拠だった。
「無理して学校いかなくたっていいんだぞ」
 一度おれがそうメールを送ったら、烈火のごとく怒った茉莉がおれの部屋に飛び込んできて、「あたしは宏希とは違うの!!」と叫んで出ていった。
 声が出て羨ましいな、とおれは思った。
 その時にはもう、茉莉はおれのことを「お兄ちゃん」とは呼ばなくなっていた。
 ある昼下がり、直緒の離乳食が無くて買い出しに行く途中、赤いランドセルを背負った女の子が公園のブランコに座って一人で泣いていた。まだ学校は下校の時間ではない。
 なんだ、茉莉もこんなところで無理して時間を潰していたのか。早く帰ってくればいいのに。そうすれば直緒とも遊べて笑顔になれるだろう。おれが邪魔ならおれが出ていけばいいし。
 慰めたくても、きっと近づいただけで起こられるに違いない。一人でなく場所があるなら、それを奪うこともない。
 買い物を終えてまた公園を通りかかると、茉莉は何人かの子供たちに囲まれていた。
「お前の兄ちゃん、登校拒否なんだってな」
 ランドセルの色は男女さまざまだ。そのうち、黒いランドセルの男の子の甲高い声が、取りかかったおれにまで聞こえてきた。
 ぎくりとして思わず、茂みに身を隠す。
「ワイドショーでやってた、あの事件の関係者なんだろ?」
「父親もそうだけど、兄貴も相当暴れたらしいじゃん」
 若干九歳の舌っ足らずな声で、大人の言葉が真似されている。
 茉莉は俯いたままブランコを小さく揺らしている。
 家でおれに食ってかかる時の剣幕は微塵もない。
 やがて、小学生たちは手拍子に併せて囃し立てはじめた。
 「殺人一家」と。
 おれは、買い物の袋をそのまま指から放し、小学生たちの輪をわざとど真ん中から掻き分けて割り込んでいった。
 自分の胸くらいまでしかない小学生たちを見下ろして、茉莉の横で人にらみしてやると、小学生たちはひぅっと息を呑んで喚きながら雲の子を散らすように帰っていった。
「バカ宏希。何てことするのよ」
 何が? とおれは振り向く。
 茉莉は唇を噛みしめて、泣くのを堪えていた。
「あんたが出てきたら、明日からあたし、もっと……」
 はっと気づいた。
 明日も学校に行かなければならない茉莉からすれば、おれが出て行ってはいけない場面だったのだ。あそこはただ、聞いていないふりをして凌ぐのが、茉莉の明日も学校に行くための方法だったのだ。
 ごめん。
 ブランコに座ったままの茉莉の前に膝をついて、頬に手を伸ばす。
「触らないで!」
 怯えた目で茉莉はおれを見ていた。
 ああ、頬におれの血が飛んだ時のことを思いだしたのだ。
 口を利けないと、やたら他人の想いに心が靡く。
 ごめん。
 指で足元の砂にそう書くと、茉莉はそれを足でぐしゃぐしゃに消した。
「バカ宏希! あんたなんか、お兄ちゃんなんかじゃない!!」
 叫んで茉莉は公園を飛び出していく。
 こら、飛び出したら危ないよ。
 手を伸ばしても声は飛ばない。
 もどかしさにおれは地を蹴った。跳び上がった砂埃が膝まで舞い上がる前に落ちていく。
「あの、これ」
 いつの間にか女の子が目の前に立って、おれが落とした買い物袋を差し出していた。
 おれよりも背が高く、セーラー風の制服を着ているのに、窮屈そうな横長の背の割に小さな茶色い鞄を背負っている。彼女は飛び出していった茉莉を気にかけるように振り返ると、後ろで一つに高く結い上げたポニーテールが豊かに背中で波打った。
 何かの既視感に流されそうになりながら、おれは差し出された買い物袋を受け取り、「ありがとう」と言う。が、勿論声にはならないから、しゃがみこんで砂にかこうとすると、女の子は慌てておれの手を止めさせて、笑いかけた。
「どういたしまして」
 花が咲くような笑顔だった。
 あ……
 おれは、知っている。
 この子を、知っている。
 だって、ずっと探していたんだ。
 いた。
 ここにいた。
「え……」
 かすれるような声が喉から湧き上がっていた。
 手を伸ばす。
 思い出せそうで白い靄に包まれたその名を引き寄せようと、手を伸ばす。
 彼女も、驚いた顔をしていた。
 おれの絞り出された声に驚いたのか、それとも――互いに何かを見たのか。
「葵ー、あ、道草してると思ったらこんなところに! 今日はお客さんが来るから早く帰らないといけないって言っただろ」
 紺色のブレザーにグレーのスラックス。臙脂色のネクタイ。
 どこの制服だろう。私立? 声をかけて彼女を迎えに来た中学生は、彼女の制服の胸章と同じ胸章がついた制服を着ていた。
 岩城。
 衣装を施された刺繍からその文字が読み取れた。
「ごめん、兄貴。今いく! ――じゃ、ね」
 あ……行ってしまう。
 行かないで。
 行かないでくれ。
 せめて、名前を思い出すまでは。
 背を向けて駆け出しかけた少女は、ふと立ち止まり、振り向いた。
「またね、風」
 ざぁっと風が吹く。
 それは、忘れていた初夏の風だった。
 蝉の声が耳鳴りのように降り注いでくる。
「炎!」
 振り絞り、力んだ結果、おれは吠えるようにその名を呼んでいた。
 彼女は驚いたようにおれを見返す。
 そして深く笑むと、「またね」と手を振った。
 黒髪のポニーテールが背中で弾みながら去っていき、公園の外で待っていた中学生がその子の手をしっかりと握ると、ぎろりとおれを睨んだ。
「ひぃっ」
 喉を通り過ぎるだけだった息が、きちんと音になって外に吐き出されていた。
 ひとしきり炎天下の中で立ち尽くした後、おれはもう一度発声を試みた。
「あー、あー。……喋れる! 喋れる! 喋れるぞー!!」
 小躍りするおれを、陰で茉莉は見ていたらしい。
 家に帰ってから、「お帰り」のかわりに「気持ち悪っ」と侮蔑を込めた目で見られたが、おれは気にはしなかった。
 逃げようとする妹を捕まえて、頭も背もぎゅっと抱きしめる。
「ごめんな、茉莉。心配かけたな。いろいろと、ありがとうな」
「はーなーせ、気持ち悪い、触るな、エロ宏希! 痛い、痛い、痛い!」
 抱きしめすぎた腕を緩めてやると、茉莉は相変わらずおれを睨みつけていたが、前ほどの憎悪はなくなっていた。
「なあ、茉莉。おれ、笑えてる?」
「っ、だから、気持ち悪いって言ってるんだよ!」
「そうかー、おれ笑えてるのかー」
 へらへらと笑いながら、しばらくぶりに鏡を覗き込む。
 憔悴しきって自分の顔ともわからないような顔だったが、確かに頬は上がり、目尻は下がり、口角は自然に上がって、「あははははは」という声と共にぎこちなくもその顔はちゃんと笑っていた。
 後日、先生と呼ぶには大分軽いノリのカウンセリングの先生のところに行くと、「奇跡だ」の一言で片づけられた。仕方がないので、声が出るまでの一部始終を話して聞かせると、ネットを検索して岩城学園のサイトをおれに見せて言ったのだった。
「その制服、多分ここ。おれもそこの卒業生だから分かるけど、結構受験きっついぞー。特に宏希、お前、小5の冬から学校行ってないんだろ? 通信でもなんでもできることやらなきゃ、今からじゃ間に合わないぞー」
「な、何言ってんの、高平さん。おれ、別に受けるなんて……」
「追いかけないの?」
「え?」
「そのポニーテールの子のこと、追いかけないの? 運命じゃないの? いいの? このまま二度と会えなくて?」
 おれはまじまじと、サイトに掲載された受験案内にかかれた受験日と、受験料、入学料から学費までを見ていた。
「とてもうちにこんなお金は……」
「奨学金もあるし、おそらく、お前の家なら金で困って入れないってことはないんじゃないかな。気づいてんだろ? いきなりいろいろ裕福になってるなぁってこと」
「……」
「どうせなら妹ちゃんも一緒に転校させちゃえ! 嫌なところにいつまでもいる必要なし! この学校ならさ、通ってる生徒たちお行儀いいから、お前たちのこと根掘り葉掘り聞いたりしないよ。中学受験を機に合格して外部入学してきた兄と、くっついて転校してきた妹。そんな珍しくもないよ。よし、そうと決まったら勉強だな! おれでわかる範囲なら教えてやるから、カウンセリングついでにいつでも来い!」
「なんで急に乗り気なんだよ……」
「宏希、お前の声、そういう声してるんだな。笑うと小僧のくせに人懐こくてかわいいし。もともと顔立ちいいから、きっと中学校じゃモテるぞ!」
「モテるかどうかはどうでもいいけど……」
 高平さんが、おれの声を聞けたことを喜んでくれた。
 それだけで、おれも嬉しかった。
 だから、乗せられてみようかなと思ったんだ。
「じゃあおれも、中学受験しちゃおっかな〜」
「あ、結構お調子者だったのね、お前」
「えっ、調子に乗らせたの、高平さんでしょ」
「いやいや、地の性格でしょ」
「いやいやいやいやいや」
「宏希、」
「ん?」
「よかったな」
 何が、とは訊かなかった。
 全部ひっくるめてだって、分かっていたから。
「うん」
 頷いたおれは、それから猛勉強して、高平さんの企み通り岩城学園の中等部に合格した。
 茉莉もおれに負けたくないと言って転入試験を受けて、初等部四年生に転入が決まった。
 そして四月、おれは桜並木の下で彼女と再会する。
「久しぶり」
 微笑む彼女の元まで、ようやく辿りついたのだ。
 伸ばせば手が届く距離まで。
 その頃には、風やキースの記憶がだいぶ脳内で溢れかえっていた。
 彼女を求めることをおれは疑問にも思わず、毎日彼女を見つめていた。
 彼女が誰かに奪われることなど、想像だにしなかった。
 おれがそうだったように、彼女もおれだけを見てくれているものだと思っていた。
「違ったのかな」
 どこからが夢で、どこからが現実なのか。
 泳ぐように旅してきた記憶の果てで、おれは起き上がり、ため息を吐く。
 そういえば、高平さん、元気かな。
 中等部に入学してから、カウンセリングは飛び飛びになり、いつの間にか予約もしなくなっていた。
『次は話したいことができた時においで』
 話したいこと。
 高平さんのことだからきっと、どんな些細なことでも笑って聞いてくれたはずだ。
 なのにおれは、何か大それたことにでもならなければ行ってはいけないような気がして、中等部の半ばで遠ざかって以来、連絡すらもしていなかった。高平さんからの連絡もなかったから、あいこと言えばあいこなのかもしれないが。
 それとも、忘れてるかな。
 カウンセラーなんて、きっとたくさんの人の話を聞くのだろうし。
 会いたいな。
 なんて、思ってしまったのは、夢の冒頭のせいだろう。
 まだ、癒えていないのか。いや、癒えるわけがない。多分、これは一生付き合っていかなければいけない時間(記憶)。
 自分は、魘されていただろうか。
 汗はあまりかいていない。
 あの狭いアパートのことよりも、桜吹雪の中で見つけた彼女の笑顔だけが目裏に蘇る。
 少なくとも、おれは彼女に一度救われたのだ。
 そうでなければ、おれは未だにあの狭いアパートの隅で震えていたに違いない。
『ねぇ、科野にとって、おれって何?』
 何だっていいじゃないか。
 おれにとっては真っ暗闇を照らしてくれる灯りなんだから。
 とは、都合よく割り切ることなどまだできなくて。
 白黒つけたいのは、おれの方なんだろうな。
 だから、望まない答えが来ることが怖くて、おれは逃げたんだ。
「寝よ」
 地下道で会った男のことは極力思考から排除して、目を閉じる。
 あれは、とても不快な記憶に繋がっているに違いないから、見なくてもいいんだと自分に言い聞かせた。
 仰向けに寝ていると、ずきりと背中の古傷が痛む。
 呻く前に身体を横にして、もう一度目を閉じた。