聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第1章 鈴の音は導く

6(宏希)
『清廉なる風の精霊よ
 悪意で満たされし この地の大気を
 その息吹もて 吹き浄めよ』
「〈浄化〉」
 できるとは思っていなかった。
 どちらかというと、あっという間に暗く立ち込めた瘴気を何とかしなければと必死で、今の自分にそれができるかどうかはあまり深く考えていなかった。
 でも、心のどこかで、できなくても仕方ないかと諦めていた。
 何故できたのか。
 晴れていく瘴気の中に守景の姿が浮かび上がってくる。
 彼女の周りでも時の精霊たちが跳ね躍っている。
 ああ、なんだ。
 おれがやったんじゃないんだ。
 これは、彼女の力。
 そう思った瞬間、がくりと膝から力が抜けた。全身に耐えようもない疲労感が訪れる。
 まるで、一千メートル走りきった後のように、重怠くじわじわと手足の末端、心の臓から増してくる疲労感。
 そうだ、茉莉は?
 見回すと、茉莉もすぐ側で両手を両腿について上半身を折り曲げたまま、荒い息を吐いていた。
「茉莉?!」
「触らないで!」
 駆け寄って思わず肩に手をかけようとすると、勢いだけは立派に茉莉に手を叩き落とされた。
「大丈夫か、茉莉」
「大丈夫に見える? 全然大丈夫じゃない。あんただってぜーぜーしてるじゃない。人のこと心配している場合?」
「それは、そうだけど……」
 茉莉は顔を上げるときっとおれを睨みつけた。
 憎悪の目。
 だけど、仕方なさに諦めたような切ない目。
 嫌悪感たっぷりな目で見られるのはいつものことだ。でも、こんな仇を見るような目で見られるのは、はじめてだった。
 はじめて?
 本当に?
 本当にこんな目を見るのははじめてか?
 憎みたいのに憎みきれない、こんな目を見るのは――
「バカ宏希!」
 茉莉の怒鳴り声に、過去に引っ張り込まれそうになった意識が引き戻される。
 過去に。
 あれはいつだろう。
「――ね、河山君」
 いつの間にか守景がこっちに戻ってきて、草鈴寺がおれに話を振っていた。
「ああ、タイミングが合わせられてよかった」
 適当に話を合わせながら、おれは自分の手のひらを見つめる。
「どうしたの?」
「いや、なんでも」
 茉莉を見ると、茉莉はふいっと野良猫のように顔を背けた。
 おれにそんな力はあるはずないんだ。
 あるのは炎への執着にも似た記憶だけ。
「河山さん、すごいね。向こう側の瘴気まで〈浄化〉しちゃったんだ」
 この手の平から出せるものは、髪を乾かすドライヤー程度の風だけ。
 そう思いこんでいたのは自分だけだったのか?
 〈浄化〉なんて大技、風の時でも使ったことがあったかどうか。
「バカ宏希! いつまでぼーっとしてんのよ。行くわよ!」
 茉莉の顔面をひっぱたかれるような声で、おれはまた我に返る。
 守景と草鈴寺たちは先に駅の構内から出ていく。おれも茉莉に引っ張られるようにして駅を出る。
 雨が降っていた。
 曇天に雷が轟き、光の龍が点から地へと舞降る。
 土砂降り。
 夏の名残を洗い流してやろうとでもするかのような、灰色の雨。
 肌で弾ける雨は冷たさが滲む。
「じゃあ、おれ達はあっちの駅から帰るから」
 守景の弟が守景に傘をさしかけて雑踏の中へと消えていく。
 草鈴寺には折よく迎えにきた黒塗りの車が駆けつける。
 駅の周りには、さっきの騒ぎを聞きつけたパトカーや消防車や救急車が続々と集まりはじめていた。
「わたしたちも行こう」
 茉莉はおれの先に立って傘もささずにずんずんと歩いていく。
「待てよ、傘くらいさせよ」
「持ってないの、傘なんて」
「じゃあ、おれが持っているから」
 鞄から折りたたみ傘を出してさしかけようとすると、茉莉は勢いよくそれを跳ねのけた。
「茉莉!」
「優しくしないで!」
「え?」
「わたしに、構わないで!」
 キンキンとした声はいつものことだが、振り返っておれを睨みつける茉莉の表情はいつもとは少し異なっていた。その姿はまるで近づかれすぎるのを嫌がって逆毛を立てている野良猫そのものだ。
 野良猫?
 うちの妹は、こんな孤独な顔を今まで見せたことがあるだろうか。
 こんな寂しげな、どうしようもなさそうな顔を見せたことがあっただろうか。
「茉莉」
 おれはもう一度茉莉に傘をさしかけた。
 それから、雨に濡れて透けてきた肩に、部活で使わなかったタオルをかけてやる。
 茉莉は驚いたようにおれを見上げた。
「早く帰ろう」
 極力茉莉の勘気を無視するようにして、おれは歩き出す。
「あ、あんたと相合傘だなんて」
「誰も見てないよ。みんな、駅の中の方しか見てない」
「そうじゃなくて」
「残してきた友人たちが気になる?」
「そりゃそうだけど」
 茉莉は唇を噛みしめて傘の中に入ってくる。
 おれ達は足早に歩きだす。
 ああ、そう言えば、さっきの茉莉に見られたんだ。
 魔法、使ってるとこ。
 そうか、だからか。だからおれが、恐いのか。
 どうする? 言い訳しとく? 弁明しとく?
 茉莉がそれを聞くタイプか? 信じるか? 信じるって、何をどこまで喋る気だ?
「直緒のお迎え、遅れちゃったな」
 結局、敢えてそれには触れずにおれは口を開いた。
「あんたが余計なことに首つっこんで来るからよ」
「しょうがないだろう。茉莉の姿が見えたんだから」
「えっ、わたしが見えたからこっちに来たの?」
「そうだよ。でなきゃあんな異様な状態のところに、飛び込んでなんか行かない」
「……なんで」
「なんでって、妹だから」
 びくっと茉莉の肩が震える。
 心の中の何かを整理するように立ち止まり、また足早に歩いてついてくる。
「身体、大丈夫なの?」
 低く不機嫌な声は、だけど確かにおれを心配して発されたものだった。
 全身に広がった疲労感は、こうやって歩いていてもただでは抜けてくれそうにない。
 それはそうだ。今まであんな大技、使ったことなんてなかったんだから。
 しかもこれは人界の人間の身体。
 法王の身体じゃない。
 人の身で魔法を使うことすら、負担が大きかったというのに、こんな土くれ人形の身体ではなおさらだろう。ばらばらにならなかっただけ、ましというものだ。
 それを言うなら、守景も、大瀑布を放った藤坂も、相当身体に負担がかかっているはずなんだが、さて、彼女たちは平気なんだろうか。
 それとも、名のみの法王と、正式に精霊と契約して魔法石を持つ彼女たちとでは負担のかかり方も違うんだろうか。
「まあ、なんとか」
「直緒、眠っていたらおんぶして帰ってよね」
「わかってるって。でも、二人で迎えに行ったら喜ぶかな」
「喜ぶでしょうね。あの子、素直だから」
「名前の通り、ね」
「そう。名前の通り。それに比べて、あんたは名前負けね」
「そう?」
「大きな希望なんて、持ってるように見えないけど」
「確かに、そんな大それた希望なんて持ってないけどね」
「大それてないなら、何かあるの?」
 ちらりと茉莉が見上げてくる。
 その視線を、さらりと受け流す。
「さあ、どうだろう」
 それが誰の望みなのかは、今となってはもうわからない。
 彼の望みであっただろうし、もう一人の彼の望みでもあった。
 おれは、その望みを叶えて、今ここにいる。
 この先も叶え続けられるかどうかは、未来だけに未定。
 これが大きな望みなのか、小さな他愛もない望みなのかも、きっと人によるのだろう。だけど、いまおれがこの時代、この世界に生れ落ちることができたことが奇跡だと、きっと彼は思っている。
「茉莉こそ、身体は? さっき、膝つきそうになっていたけど」
「大丈夫よ。わたし、そんなにやわじゃないの」
「そう? 直緒のところまでおぶって行ってやろうか?」
「結構です! わたし、もうそんな年じゃないんで!」
「無理するなよ」
「本当にもう大丈夫、っていうか、兄貴面しないでよ!」
 ぴしゃりと茉莉の言葉が頬を打った。
「わたしが許したと思う? 許すわけないでしょう? 助けてくれなかったのに、あんたのこと、許せるわけないんだから!」
 ぐっさりと心臓にはナイフが突き降ろされてくる。
 何を言っているのかは、わかりきったことだった。
 それは、六年前のこと。
「それなのに、なんで、どうして……あんたなのよ!!!」
 慟哭。
 同じ傘の中で、傷ついた獣のように茉莉は毛を逆立て、必死に何かに抵抗しようとおれに噛みついてくる。
「やっぱりいつだって同じじゃない! あんたはわたしを裏切る。いつもそう! いいように使い倒して、はいそれでおしまい。使い捨てることに微塵の罪悪感もないんだ!」
 使い捨てる?
 こいつ、何言ってるんだ?
「おいおい茉莉、何を言い出してるんだ? 使い捨てるだなんて……確かに、あの時助けられなかったのはおれの責任だ。だけど、決して茉莉たちのこと犠牲にして逃げようとしたわけじゃ……」
 風が、吹く。
 突風だ。
 持ち手が緩んでいた傘が、あえなく骨が逆に折れて吹き飛ばされそうになる。
 顔に当たる雨粒は、目を開けていられないほど痛い。
「茉莉?」
 この顔を、おれは見たことがある。
 妹じゃ、ない。
 もっと、別の時代に。
「茉莉」
 誰だ? 確かに、こんな目で見ていた人をおれは知っているはずだ。
 とても一番初めに、深く傷つけた人。
「鈴なんて、もらわなきゃよかった」
 膨らみすぎた風船がしぼむように、茉莉は途端に目を伏せて低く呟いた。
 おれが握り潰して捨ててきた鈴。
「そんなもんなくても、茉莉ならすぐにかっこいい彼氏できるよ」
 茉莉は肩をはね上げておれを見上げた。
「あんたってほんと、変わらないのね。バカ宏希」
 茉莉も茉莉だ。つっかるにしても、やけに変な言い方をする。
 妹じゃない。これじゃ、まるで――
 雨を避けて地下鉄の駅へと向かう階段に差し掛かった時だった。
 背後の地上から、笛の音が聞こえてきた。
 こんな雨の中、しかもこの人通りの多い場所を笛を吹きながら歩くなんてどうかしている。関わり合いにならないように、おれは茉莉の肩を抱きかかえて足早に階段を下りる。
 しかし、笛の主は階段の上で立ち止まったのか、笛の音は地下階段のホールいっぱいに響きだす。
 後ろを振り返ろうとした茉莉に、振り返るなと腕を引くと、雨でぬれたタイルで茉莉は足を滑らせた。
「ごめんっ」
 慌てて茉莉を抱きかかえる。
 いつもなら文句の一つもびんた代わりに飛んでくるのに、腹をうしろからおれに抱きかかえられた茉莉は、顔を上げると小さく一度震えた。
「どうした?」
 茉莉を引き寄せて立たせながら、おれも前方を見る。
 そこには、口元に笛を寄せた男が一人、立っていた。
 背後を振り返ったが、地下階段の入口には誰もいない。
 追い越された? いつの間に? 茉莉が足を滑らせている間に?
 もう一度おれは前方を見る。
 男は笛を持っていた。
 金色の滑らかな笛。長さはフルートとピッコロの間くらいだろうか。
 それは、確かに見覚えのある笛だった。
「おれの、笛……」
 夢で何度も何度も見てきた笛だ。
 母から受け継いだ金の笛。
 風として生まれ直してからも、手から放さなかった笛。
 見間違えるわけがない。
 あれは、おれの笛だ。
「お前の、笛?」
 笛から唇を放した男は、にやぁっと分厚く浅黒い唇を歪め、真っ白な歯を剥き出しにした。浅黒い肌を覆うゆったりとした衣装も、スーツや制服が当たり前のこの日本では浮いてしまうくらい真っ白。サンダルのバンドも白い。
 なのに、誰も彼を奇異な目で見ていかない。
 と思ったら、誰もこの地下階段にはいなかった。
 まるで、空間を切り離されてしまったかのように、誰も降りてこないし、誰も上ってこない。頻繁に発着を繰り返す地下鉄駅への入口なのに、誰一人通りかからないなんてあるわけがなかった。
 おれは、茉莉を抱き寄せたまま、後ろに階段を一歩上ろうと足を掛けた。
 男は目ざとく笛を唇に当て、短く強い音を発する。
 その音だけで、おれが足を掛けた階段のタイルが割れ弾けた。
「本当にこれはお前の笛か?」
 にやぁと笑い、男は金色の笛でもう片方の手を軽く叩きはじめる。
 そして、ふと笑いを引っ込めて首を傾げた。
「もしかして、俺のことが分からない?」
 ごくりとおれは生唾をのみ込む。
 茉莉、逃げよう。
 口からその言葉を押し出したいのに、どうしたらここから逃げられるのか、おれには分からない。
 男は一歩前に踏み込んでくる。
 茉莉はびくりとさらに震える。がちがちと歯まで鳴りだしている。
 ああ、そうだ。こういう時、一緒に逃げようっていうんじゃなくて、こう言ってやればよかったんだ。
「逃げろ、茉莉」
「でも……」
 小声で返す茉莉の足は震えている。とても回れ右して階段を駆け上がっていけそうにはない。
 それなら、仕方ない。
『大気に宿りし 風の精霊たちよ
 我が周りに寄り集まりて
 盾となれ』
「〈結界〉」
 風が吹き荒び、笛を持つ男とおれたちとの間に見えない壁を作りだす。
 また、できた。
 そんな喜びに浸っている暇はなかった。
 おれは茉莉を横抱きに抱え上げ、三段飛ばしながら階段を駆け上がった。
 それなのに、地下道の入口にはまたあいつがいた。
「俺のことを、覚えていないのか?」
 憐れむように、男は微笑んだ。
 おれは、男が手に持つ笛を見た。
 あれは、確かにキースの笛だ。それは、分かる。
 だが、何故それをこいつが持っているのかは、分からない。
「所詮、お前にとっておれはその程度の存在か」
 真っ黒な目に、疑念の炎が湧き上がる。
「おれはずっとお前を信じつづけたというのに、お前はそれさえも忘れたか」
 男は笛に唇を当てる。
「約束など、信じられぬものだな」
 不協和音、としか思えない音が笛から飛び出してきた。
 頭をぶんなぐられたようにぐらりと目玉が一回転し、足元が揺らぐ。
 真っ直ぐに立っていられなくなってたたらを踏むうちに階段を踏み外し、茉莉を抱えたまま背中から落ちていく。
 やばい。このまま落っこちたら頭からあの冷たいタイルに突っ込んじまう。
 だけど、茉莉を手放すわけないは行かない。せめて茉莉は怪我しないように――茉莉の頭を抱きかかえる。
「バカ」
 そう言うのが聞こえた気がした。
 その瞬間、ふわりと、暖かな風が包み込むように背中を押した。抱きかかえるように風はおれを階段の踊り場に立たせた。
 茉莉はいち早くおれの腕から飛び降り、まだ目が回って前後不覚のおれの腕を引いた。
「逃げるよ!」
 ぴしゃりとした声に、揺れてぶれていた視界が元の位置に固定される。
 駆けだす直前。
 おれは上を見上げた。
 男は、金の笛を片手におれを見下ろしていた。
「まあ、いい。またな」
 笑った時の剥き出しの白い歯が、やけに目に焼き付いてしまった。
 またな?
 冗談じゃない。
 もう二度と、会いたくなどない。
 キースの笛を取り返さなくていいのかって?
 そうだ、あれはおれの笛だ。だけど、吹奏楽でもやってたならいざ知らず、今のおれが持っていたってどうにかできるようなものじゃない。欲しいならくれてやる。
 あの笛を取り戻すために、自分も茉莉も、危険になんか晒せない。
 どうしてか、って?
『危険ですので、駆け込み乗車はおやめください』
 車掌の渋い声が閉じた扉の向こう側に聞こえた。
 夕方の電車は、帰宅ラッシュ一歩手前だったが、座る席は残されていない。
「ごめん、茉莉。ありがとう」
 窓の向こうは真っ暗。
 目を閉じてもいないのに、あいつの真っ白な歯が目の前に蘇る。
 まさか窓に映っていて背後にいたりしないよな、とおそるおそる振り返ってみたが、奴はいなかった。
 茉莉はさっきからずっとおれの制服の端を掴んでいる。
「怖かったよな。ごめん」
 茉莉は何も言わずに俯いている。
「ねぇ」
 何駅かを過ぎて、ようやく茉莉は不安げな顔を上げた。
「ん?」
「あんたはそれでも、お兄ちゃん、なんだよね?」
 それは非難しているわけではなく、つっかってきているわけでもなく。
 ただの、確認。
「ああ、そうだよ。力不足でごめんな」
 つい何の気なしに茉莉の頭の天辺を撫でてしまったが、茉莉はおれの手を跳ね返すことはなかった。
 妹でいることを噛みしめているかのように、ただ大人しく頭を撫でられていた。
 茉莉は、やはりおれに魔法のことを聞かなかった。
 おれも、目の前で使った〈結界〉のことについて、何も言わなかった。
 そしてもう一つ、おれたちを助けた温かな風のことも、言わなかった。
「直緒、泣いてないといいな」
「そうだね」
 地下鉄の駅から地上に出ると、雨は上がって狂おしいほど赤い夕焼けが辺りを染めていた。