聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―

第1章 鈴の音は導く

5(樒)
 守られたいと、思ったことはない。
 だって、お姉ちゃんだから。
『お姉ちゃん、洋海のこと、よろしくね』
 小さい時から、洋海(おとうと)の面倒を見るのがお姉ちゃんの仕事だった。
 食べちゃいけないものを口に入れようとした時には、『それ食べちゃだめだよ』と注意をし、信号を渡るときには手を繋いで、もう片方の手で黄色い旗を掲げて横断歩道を渡るようにちゃんと教えた。小学校の時は算数を教えてあげた。一緒に動物クッキーを半分こして食べたし、パピコも半分こして食べた。
 ケンカもしたけど、洋海は姉にとって可愛い弟、慈しむべき相手だった。
 それはわたしの背を追い抜いてからも変わらなくて、弟はどこまで行っても弟なのだ。
 それなのに。
『この顔、姉ちゃんの顔じゃないよ。聖様のお顔だ。』
 切なそうに私の頬に触れる洋海が目の前に蘇って、足元がばらばらと崩れていくような、置いてきぼりにされるような感覚が甦る。
「姉ちゃん、早く結界!」
 もう一度怒鳴られてわたしは我に返る。
 いや、半分くらいまだ夢にでも意識を残してきたようだった。
 それでも反射的に、唇は言葉を紡ぐ。
『時空を司る精霊たちよ
 我が周りを侵すものとの間を
 断絶せよ』
「〈結界〉」
 口は、勝手に呪文を言わされていた。
 風邪もないのに身体が傾ぐような衝撃が走り、乱雑ながらも投げつけられてくるものくらいは弾くことができる結界が張り上がる。
 わたしの目の前で、弟の背が、せり上がっていた肩が、ふと緩む。
「まったく、いつまでもぼんやりしてたらほんとに殺されるぞ?」
 振り返った洋海の額には、いつの間にか何かが掠めていったらしい傷跡から赤く血が滲みはじめていた。
「洋海、おでこ!」
 わたしは慌てて駆け寄り、洋海のおでこにハンカチをあてがう。
 それなのに、洋海は意にも介さず、事もあろうにわたしのことを両腕に抱き上げた。
「ひ、洋海?!」
「暴れないで」
 手足をばたつかせておりようとするわたしに、鋭く洋海は言い聞かせる。
 でも、わたしは言うことを聞くわけにはいかない。
「自分で歩けるから! わたしのことよりも、額の傷を」
 流れ出す血にハンカチをあてがおうと手を伸ばすと、見下ろす洋海と目が合った。
 どきりと、嫌な鼓動が胸の奥に走る。
 咄嗟にわたしは目を逸らす。
 切なげに洋海も目を逸らす。
 だから、言ったのに。
 おろして、と。
 もう一度もがく間もなく、桔梗と詩音さんの元に連れてこられたわたしは、そこでようやく自分の足で立つことを許された。
 唇をかみしめ、腹を決めて再度洋海を見上げる。
「少し膝を曲げてくれる?」
 今度は洋海は大人しく膝を少し曲げ、目を閉じた。
 額から出た血は鼻筋の脇を辿り、口元へと流れ込んでいる。
 その血筋を丁寧にハンカチで拭い取り、傷ついた額に手をかざす。
『時の精霊よ』
 そう呟いた瞬間、洋海はびくりと肩を震わせた。
 怯えた様子が手に取るようにわかる。
 記憶を封じられると思ったのだろう。
 このタイミングで、やるわけないのに。
『今一度時を巻き戻せ
 傷跡なき時まで遡り
 傷を癒せ』
「〈治癒〉」
 鼻筋に残っていた血の跡はするすると傷痕へ向けて退いていき、血をのみ込むように傷口は塞がっていく。
「よし、綺麗に治った。もう目を開けていいよ」
 ゆっくりと洋海は目を開き、上目遣いにわたしを見上げる。
「何よ」
 一瞬の沈黙。
「痛くない」
 額に手をあてて、洋海が言う。
「当たり前でしょ。痛くなる前まで戻したんだから」
 洋海はわたしを見つめる。
「ありがとう」
 ぎこちない満面の笑みを浮かべ、すっくと背を伸ばす。
 記憶を封じてもいいと、洋海は言った。
 八月に工藤君のペンションに行った時のことだ。洋海がわたしを守るために白虎を揮い、洋海がヴェルド・アミルだったのだと、わたしは知ってしまった。
 洋海は、わたしが時の魔法を使っても驚いた様子もなかった。
 いつから知っていたのか、と思う。
 いつから弟のふりをして過ごしてきたのだろう。
 わたしのつたない姉の演技に、失笑でもしていたのではないだろうか。
 そんなことは――ない。
 洋海はそんな器用な演技はできない。
 ヴェルドは、こんな不器用なわたしでもきっと笑わない。
 そうわかっていても、知ってしまった今はもう、ただの姉弟として顔を合わせるわけにはいかなくなってしまった。
 記憶を封じてしまおうと、あれから何度も思った。何度もそうできる機会はあった。むしろ、洋海が望んで二人きりになる機会を作っているかのようだった。
 八月、わたしは幽体離脱して全てを見ていたわけだけれど、父と母は事件に巻き込まれて、病院のベッドで眠ったままになってしまったわたししか見ていなかった。だから、意識を取り戻して退院した後も過保護なくらい心配していて、近所のコンビニに行くだけでも、「洋海、お姉ちゃんに着いていってくれる?」とお目付け役をつけることを忘れなかった。洋海は漫画を読んでいる途中であろうと、見ているドラマが途中だろうと、ゲームがラスボスのダンジョン攻略中であろうと、父や母に言われると「はーい」とぼんやりした返事を返して、何食わぬ顔でわたしにくっついてきた。
 近所のコンビニまでの道すがら、かわされる言葉は他愛もないことこの上ない。入道雲が出てるよ、二学期の夏休み明けテストの勉強してない、ジャイアントコーンが食べたい、今日の夕飯何かな――工藤君のペンションであったことには、一切触れずに、現実的な姉弟としての他愛もない話題ばかりを、洋海はひとり言のように呟いていた。
 わたしは、少し洋海から離れて歩くようにしながら、適当に相槌を打つのがやっとだった。
 避けていた。
 弟なのに、まるで好き避けだと思った。
 違うのに。
 なのにどうして、こんなにぐちゃぐちゃな気持ちにならなきゃいけないんだろうって、何回も泣きたくなった。
 元の姉弟に戻るなら、早く洋海の記憶を封印してしまった方がいい。それができないなら、できるだけ洋海を近くに寄せないこと、視界に入れないことしかできることはない。
 一体、何が洋海からヴェルドの記憶を封じてしまうことを阻んでいるのか、わたしにももうさっぱりわからない。
 ただ言えることは、わたしは洋海からヴェルドの記憶を奪えなかったのだ、ということだけだった。
 多分きっと、洋海がただの弟になってしまっても、わたしは彼がヴェルドだったことを思いださずにはいられないだろうから。
 ヴェルドの記憶があった方が守ってもらえて得だからとか、損だからとか、そんなつもりはなかった。ああ、でも、その記憶はない方が、洋海自身に危険が少ないことは、さっきの額の傷がよく物語ってくれている。
 わたしを守ろうと身体を張るなんて馬鹿な真似、弟にしてほしくない。
 わたしは、聖じゃないのだから。
「樒ちゃん、怪我は?」
「わたしは大丈夫」
 ちらりと洋海を見ると、桔梗は察したようだった。
「洋海君、ありがとう」
「桔梗」
「姉ですから、守るのは当たり前です」
 洋海はぼろぼろになった黒い傘をとんっと床に着いて、やっぱりどこか苦みのある笑みを見せた。
 さっきまでわたしたちがいたところには、桔梗が造った大瀑布が暴徒と化した人々とわたしたちとの間を妨げていた。
「藤坂、守景、草鈴寺」
 その滝の脇から、わたしたちの名を呼んで這い出るようにして出てきたのは、女の子を肩に担いだ河山君だった。担いでいる女の子は……さっき一番前で襲い掛かってきた河山君の妹だという茉莉ちゃん。
 思わずわたしは半歩後ろに退いてしまった。
「守景、すまない。うちの妹が」
 茉莉ちゃんを背負ったまま、河山君は真っ直ぐにわたしを見つめ、頭を下げた。
「あ、ううん、わざとじゃないと思うから」
 高まる鈴の音の中で意識を揺さぶられてしまった人々の中の一人だったのだから。
「でも、今はもう、大丈夫なの?」
「河山君、茉莉ちゃんの頭上にも鈴が浮いていたでしょう? あれは?」
「茉莉の鈴なら壊しておいた。物ならあれの向こう側にある」
 河山君は滝の向こう側をさす。
「それに、もしもの時はおれが……」
「おれが、なによ。おろしてよ、バカ宏希」
 それまで意識を失っていたらしい茉莉ちゃんは、手足をばたつかせると河山君の肩の上から飛び降りた。
「茉莉ちゃん」
 元気良く飛び降りたものの、まだ足元がおぼつかない茉莉ちゃんは後ろによろけ、詩音さんが支えに入る。
「大丈夫? 頭は痛くない? どこか痛いところは?」
 心配する詩音さんの声に、河山君を睨みつけていた茉莉ちゃんの表情も少し和らぐ。
「頭が、少し」
「怪我は?」
「わたしはしていないと思います。でも……」
 茉莉ちゃんはわたしを振り返り、詩音さんの手を離れて自分だけの足で立つと、深々と頭を下げた。
「守景さん、すみませんでした。いくら何でも、あれは……本当にごめんなさい。それから、守景先輩」
 先輩?
 意外な呼び方に戸惑っていると、茉莉ちゃんは洋海の方に向き直っていた。
「額の傷、すみませんでした!」
 茉莉ちゃんは直角に身体を折り曲げ、深々と洋海に頭を下げる。
 洋海はちょっと驚いたようだったけど、少し大人っぽい表情で茉莉ちゃんに手を伸ばした。
「頭を上げて。俺は大丈夫だから。ほら」
 洋海がさっきまで血が流れていたはずの額をさして見せると、茉莉ちゃんは驚いたように目を瞠った。
「わたし、確かに……」
「記憶はあるんだ?」
「あります! ありました。でも……身体がもういうことを聞いてくれなくて……本当にごめんなさい」
「痕残ってないから気にしなくていいよ。それにしても、どうして」
 洋海は茉莉ちゃんを気遣いながらも、わたしたちを見回し、桔梗に目を留めた。
「何を知ってるんですか?」
 何か、とは言わず、洋海はあえて何を、と言ったあたり、我が弟ながら意地が悪い。
 桔梗は洋海の視線にも動じることなくにっこりと微笑む。
「何も」
 何も、ということはない気がするな、わたしも。
 だって、桔梗はさっき鈴をもらわなかった。鈴の音が大きくなってきたときも、耳を塞いで、と的確な指示を出してくれた。そして、落ちた鈴を拾っちゃダメ、と珍しく怒った。
「やだ、私のこと疑ってるの?」
 口元は微笑みながら、目が真面目に据えられた。
 恐い。
 本能的に怯えている自分がいる。
 決して敵に回してはいけない人を一人上げろと言われれば、迷わずわたしは桔梗を挙げるだろう。とっても大好きでいつも一緒にいる分、彼女のことは嫌というほどわかっているつもりだ。
「疑ってるだなんて、そんなわけないでしょ。ただ……」
 取り繕おうとしたくせに、「ただ」なんてつけちゃったから、余計に桔梗の目が眇められる。
「樒ちゃんまで、私が何かしたと思っているの?」
 ざわりと、黒い靄のようなものがわたしたちの周りを漂いはじめたような気がした。
 気がしただけじゃない。確かに駅構内の照明は灯ったままなのに、薄暗い霧の中に包まれはじめたかのようだった。
「何かなんて、できるわけないでしょう? わたしはただ、鈴をもらわなかっただけ。嫌な音がしたから耳を塞ごうって言っただけ。宙に浮く鈴なんて普通有り得ないから、怪しいと思って拾っちゃだめって言っただけ」
「でも桔梗、わたしたちがパニックの時も落ち着いていたよね?」
 言うつもりなんかなかったのに、ついと口から言葉が滑り出てしまった。
 いつだって桔梗は冷静なのに。そのお蔭で、今、何とか無事でいるのに。
「ああいう時こそ冷静になるように努めているだけよ。これでも努力、しているのよ? 自分で自分の身を守るために、周囲の状況に呑みこまれないように意識的に気を付けているだけ。だから周りの様子もよく見える。様子が分かれば、対処する方法も見えてくる。それだけよ」
 わたしと桔梗との間に横たわっていた黒い靄が霧のように少し濃くなり、ゆるゆると渦を巻きだす。
「姉ちゃん」
 洋海が耳元で囁いて、わたしのことを一歩下がらせる。
 桔梗も顔をしかめながら一歩下がる。
 黒い渦は濃さとともに勢いを増し、わたしと桔梗との間を隔てていく。
「桔梗」
「みんなに助けられてばかりの樒ちゃんには、きっとわからないわ」
 はっと胸を突くような桔梗の一言に、わたしはその次に継ごうとしていた言葉も息も胸の奥に吸い込まれていってしまうのを感じていた。
 桔梗は、わたしのことそんな風に――そりゃ、一人では何もできないし、ドジばっかり踏んでいるけど――
「助けてほしいなんて思ってない! わたしだって自分のことは自分でなんとかできるもん!」
 前に出そうになるわたしのことを抑えていた洋海の手を振り切って、わたしは一歩前へ出る。黒い靄の中に踏み込む。
 靄の向こう側で、桔梗が呆れたように薄く笑うのが見えた。
「そう。それなら自分で何とかなさい。神の――末娘さん」
「! なんで! どうしてそんな呼び方!!」
 暗い箱の中に閉じ込められたかのように、一瞬にして辺りが真っ暗になった。
 桔梗の姿はもう影も見えない。後ろにいるはずの洋海や詩音さん、河山君たちの気配も途切れる。
「えっ……」
 全ての感覚が遮断されたかのような息苦しさ。耳も何も聞こえない。肌にも何も感じられない。まるで自分の中に閉じ込められてしまったかのよう。
 慌てて振り返る。
 そこも真っ暗。
 前に手を伸ばす。
 桔梗は捕まえられない。
「洋海!? 桔梗! 詩音さん!? 河山君!?」
 えっ、えっ、えっ。
 何で、何で。
 ここは駅じゃなかったの?
 何でこんなに真っ暗なの?
 夜よりも深い闇。
 ここは、どこ?!
 やだ、こんなところ。
 一人で残さないで。
「誰か、助けて!!」
 あ……
 誰か助けてって、言った。
 わたし、誰か、って。
 自分で何とかできるって啖呵切ったばかりなのに、誰かって――しかも、桔梗の顔をもい浮かべてた。
 恐い。
 恐い、恐い、恐い。
 ここから出られなかったら?
 出たい。
 こんなところにいたくない。
 助けて、誰か。
 誰か、助けて。
 自分で自分を抱きしめて、愕然とする。
 いつの間にわたしは、他人に助けてもらうことを前提に生きていたんだろう。
 きっと誰か助けてくれる。
 揺るぎなく、そう思って生きてきたんだ。
 小さい頃はお母さん?
 最近は騎士のような洋海?
 学校では賢く何でもお見通しの桔梗? 正義感の強い葵?
 そして、どうしようもなくなった時には、きっと夏城君が来てくれる。
 いつの間にわたしは……小さい頃からずっとこうだったっけ?
 自分で何でもできるって思っていたのに、死にそうな目に遭うと誰かの顔を思い浮かべてる。
 きっと自分はこんなところで死ぬはずない。
 きっと誰かが助けてくれる。
 ハッピーエンドの物語は、いつも誰かが主人公を助けてくれる。
 だから、わたしも大丈夫。
 ――それはちっとも、大丈夫じゃない。
 誰もいなかったら? 誰もわたしがいなくなったことに気づかなかったら?
 自分の命よりもわたしの命を優先してくれなかったら?
「……なにを、わたし……自分の命が一番に決まってるじゃない」
 誰かが自分の命を賭してでもわたしのことを守ってくれると、そんなことを思っていたの?
 わたしはいつから、守られることに慣れてしまったんだろう。
 自分で、考えるんだ。
 自分で、ここから出られるように。
 幸い、なのか、わたしは時空を越えられる力がある。
 そう、この空間から出るの。
 自分の力で。
『時空を司る精霊たちよ
 闇夜の暗き世界と明るき世界とを渡す者たちよ
 我が身をその翼に乗せ 光あふれる世界へ誘え』
「〈渡り〉」
 闇の中に溶け込むように白い光がわたしから溢れだす。
 だけど、光は闇に呑みこまれ、わたしを暗闇の外に出すには至らなかった。
「なんで!? どうして!?」
 必ず出られると思っていたのに、周りは真っ暗なまま。暗闇の中に閉じ込められたまま。
「いやっ、やだっ、どうして!? 助けて! 誰か――」
 ヒュゥッと息が胸に吸い込まれたまま、ぐっと詰まった。
 首元に両手をあてがい、息を吸うのか吐くのか自分に問いかける。
 酸素はない、と頭は思っている。でも、ついさっきまでわたしは普通に呼吸をしていた。酸素はある。胸に吸い込まれていったものは、そう、この胸の中にある。
 息を、吐く。
 浅く。浅く。
 そして深く吸い込む。
 吸い込みすぎて、逆に苦しくなる。
 何も取りこめていないんじゃないかって不安になる。
 両手を口元にあてて、吐息が触れるのを確認する。
 あれ、この真っ暗な空気、吸っちゃっていいの? 瘴気なんじゃない? こんなの肺一杯に吸いこんだら、身体が真っ黒になっちゃうんじゃない?
 あ、や、だめ。これ以上考えたらだめ。
 せめて、息が吸えるようにしないと。
「〈結界〉――〈浄化〉」
 自分の周りに結界を張って、その中を浄化する。
 自分の手の平がクリアに見えてくるのを確かめて、息を吸い込む。
 少しずつ、そして、大きく。
 息ができることが分かると、自然と落ち着いてくる。
 この中にいれば、大丈夫。
 そう言い聞かせて、もう一度頭を上げ周りを見回す。
 どうしてさっき、〈渡り〉が使えなかったんだろう。
 確かに時空の精霊たちはわたしの周りに集まってきてくれたのに。
 魔法が発動しなかったわけじゃない。
 それなら、答えは一つ。
 わたしは闇獄界に取り込まれたわけでも、どこか別の空間に連れ去られたわけでもない。
 立っているところはさっきからずっと同じ。
 わたしが〈渡り〉で辿りつきたかった場所は、さっきからずっと立っている場所だったから、だからわたしはどこにも移動しなかったんだ。
 感覚が遮られているだけで、きっと近くに桔梗も詩音さんも河山君たちも、洋海もいる。
 じゃあ、次にわたしができることは、この闇を払うこと。
『清き場所を住処とする時空の精霊たちよ
 穢れし闇を払い 光さす清浄な空間を取り戻せ』
「〈浄化〉」
 ざわざわと時の精霊たちが白い光となって闇を払いはじめる。
 どれくらい深い闇なのか見当もつかないけれど、負けるわけにはいかない。
『精霊たちよ、駆け抜けろ
 空間一杯走り抜け、闇を払え』
 重ねた詞に力をいや増した精霊たちは明るさを増し、縦横無尽に頭上を、足元を駆け抜ける。
 少しずつ闇が晴れてくる。駅構内の四角く切り取られた白い天井が見えてくる。
 そして、一陣の風が吹き荒れて闇を払う。
 風が吹いてきた方には、河山君と妹の茉莉ちゃんがほうほうの体で立っていた。さらに後ろには詩音さんと洋海。
 洋海は闇が晴れるなり、わたしに気づいてぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「姉ちゃん!」
「洋海……みんな……あれ、桔梗は?」
 見回して、桔梗の姿だけがないことに気づいて尋ねると、洋海も詩音さんも河山君も一様に首を振った。
「瘴気を払った時にはもういなかったよ」
「いなかった? どこにも?」
 こっくりと洋海は頷く。
 桔梗は桔梗で自分の活路は見出して逃げることができたということだろうか。
 心配だからスマホで連絡だけでも取ろうとしたら、詩音さんに押しとどめられた。
「桔梗にはわたしから連絡しておくから、樒ちゃんは今はそっとしておいた方がいいかも」
「でも……」
 このタイミングでなければ、明日学校であった時も気まずいままになってしまわないだろうか。
「樒ちゃん、わたしから上手く伝えておくから。桔梗も桔梗で、さっきの桔梗はらしくなかったもの。きっと自分でもそう思っているわ」
「そうかな……桔梗の言ったこと、確かに正しかったんだ。わたし、さっき一人になってやっぱり、『誰か助けて』って言ってた」
「それはみんなそうよ。自分の力だけじゃ対処しきれない時や突然あんな真っ暗闇に閉じ込められたら、誰か――って思うわ」
「……うん……。みんなも真っ暗闇で一人だったの?」
 詩音さんは洋海や河山君を見渡すと、ゆっくりと首を振った。
「瘴気に巻き込まれて見えなくなったのは樒ちゃんと桔梗だけ。わたしたちの周りはそこまで暗くはならなかったから、河山君が張ってくれた結界で凌いで、樒ちゃんも結界を張ったりして白い光が漏れ出るのを見て、ようやく樒ちゃんがまだここにいることが分かったから、河山君にお願いして瘴気を風で吹き飛ばしてもらったの。樒ちゃんが〈浄化〉を使ったのに合わせて。ね、河山君」
「ああ、タイミングが合わせられてよかった」
 頷きながらも河山君は自分の手のひらを見ながら不思議そうに首を傾げている。
「どうしたの?」
「いや、なんでも」
 見つめていた手の平を握って、ちらりと妹の茉莉ちゃんを見る。
 茉莉ちゃんは河山君と目が合うと、さっと顔を背けた。
 何かあったんだろうか。
 洋海を見ても、首を竦めるだけで答えはない。
「桔梗はいなくなったみたいね」
 ざわめきが大きくなったことに気づいて、背後を振り返っていた詩音さんは呟いた。
 確かに、さっきまで彼らとわたしたちとを隔てていた大瀑布が消えている。
「河山さん、すごいね。向こう側の瘴気まで〈浄化〉しちゃったんだ」
 洋海に言われて、河山君も後ろを振り返り、もう一度握りしめたはずの手のひらを開いて見つめた。
 建物の中だというのに、〈浄化〉の名残なのか、柔らかな風が吹き去っていく。
「ねぇ、わたしたちもここから早く逃げた方がいいんじゃないかな? またいつあの鈴の音が聞こえてくるかわからないし」
 柔らかな風に惑わされることなく、詩音さんはまだ緊張した面持ちでわたしたちに言った。
「帰るなら、次の駅からか、別の駅からの方がいいと思う」
 詩音さんにそう言われて、わたしたちはひとまずこの駅から出た。