聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第1章 鈴の音は導く
4(宏希)
『誓うよ。離れてしまっても、きっと見つけ出してみせる。俺の道は、必ず君に繋がっているから』
「カァァァァァッッッットッッッ!!!!!」
微妙な静寂を打ち破って、やたらかしましい声が視聴覚室に響き渡った。
「はい、ダメダメダメダメェッッッッ」
黄色いプラスチックのメガホンで台本を叩きながら、映研プロデュースの舞台の演劇監督兼脚本を買って出た左右田(そうだ)が、折りたたみ椅子を蹴倒して立ち上がり、ずかずかとおれと科野の間に割って入ってくる。
「河山宏希! なんだその棒読みはァァッ! 何のために貴様をヒロインの相手役に抜擢したと思ってる!? 男勝りの運動神経抜群男装ヒロインよりも高身長な上に、女子受け抜群のその爽やかな甘いマスク! それに尽きる! がっ、だがしかしだッ! それも演技力が並み程度にはあると見込んでの配役だッ! そんなんじゃぁ、大根役者の方がまだましだぁァァァッ!!!!!」
勝手に見込まれても困る。
そんなに言うなら、大根役者連れてくればいいだろうに。
「……耳元でガンガン喋るなよ、左右田。メガホンいらないんじゃないの? そんなに言うなら別の奴に変わってもらえばいいだろう?」
しかも貴様って何だ、貴様って。
「あ、はいはいはーい! なんならこの俺様が相手役やってやってもよくってよ?」
放課後のサッカー部の練習が休みなことをいいことに、面白がって左右田に頼み込んで見学に来た三井がほいほいと手を上げる。
が、左右田はそれを眼光のみで黙殺する。科野に至っては、もはや表情さえも浮かべることなく黙殺している。
「そうはいくか! せっかく学園一、いや、都内一のモテ男が我が校にいるんだ! これを使わない手があろうか! いやないッ! 本番までまだ何日か日がある! それまでにこの私がッ、貴様を芸能界でも通じるくらいの演劇俳優に育ててくれるわッ!!」
いや、だから、大根役者の方がましって言ったの左右田じゃん。しかも都内一の根拠が分からないし、そもそも、練習なのにこんな大勢の野次馬の前で科野に何言わせるんだ、ったく。
「いえ、結構です。――すいません。弟のお迎えがあるので今日はこの辺で」
長くなりそうなところ、黒板の上の時計が午後四時を過ぎているのを確認して、おれは律儀にお辞儀してさっと左右田とヒロイン役の科野の前から身を翻した。
「ちょっと待てェェェェいッ! 河山宏希! 貴様最後の最後、一番大切なシーンで逃げる気か!? まだヒロインとの抱擁が残って……」
やってられるか。
抱擁とか脚本に付け足したの、今日だろうが、今日。
心の準備も何も、たとえできていたとしても、さすがにただの同級生とそこまでは踏み込めない。
「おつかれさまでしたー」
おれは科野の顔も見ずに、寄せ集まった野次馬どもの間を縫って鞄を肩に引っ掛けて、廊下へ出た。
ただの同級生。科野はただの同級生。
ぶつぶつと頭の中で呪文のように繰り返す。
演技?
おれは俳優じゃないし、俳優も目指してない。
そんなの上手くできるんだったら、とっくに科野の手くらい握れてる。
「あ゛〜〜〜〜っ」
頭をかきむしりたくなるのを堪えて、階段の手すりに額を乗せる。
科野、怒ってるだろうなぁ。
顔、見ないようにして出てきたけど、逃げたってばれてるだろうなぁ。
最後の台詞だって、一言一句間違わずに口から台詞を押し出すので精いっぱいだったんだ。目なんて合わせられるはずもない。ずっと虚空を彷徨わせて逃げていたのに、科野ときたらすっかりヒロイン気分でじっとおれのことを見つめてやがった。
いや、それが演技としては正しいんだけど。
もっと恥じらいとか、照れとかないのか?
相手はおれなんだぞ?
「……ほんとに何とも思ってないんだな」
気が抜けたようなため息が零れた。
何が悲しくて、科野を前にあんなクサい台詞を吐かなきゃならない? というか、どうすればおれが科野に向かってあんなことが言えるっていうんだ。
昨夜、メールが来た時から相当な苦戦を強いられることは予想していた。夜に来たメールだったのをいいことに、茉莉と直緒のお迎えを交換できなかったと言って十六時になったら早々にずらかろうと思っていた。
言えるわけがない、あんなセリフ。
心を込めて、このおれが科野に大衆の面前で言えるはずがない。
誰だ、あんな脚本作った奴。誰だ、おれにあんな台詞言わせようとしてる奴。
あ、左右田か。そうか、左右田なら仕方ない。
「で、済むわけないだろう!」
何なんだ、あの男は。何か知ってるのか? 何か見ていたのか? 何かに勘付いているのか?
ったく、何が男装の沖田総司だ。何が沖田が男装と知っても土方に知らせずその活躍のために裏で粉骨砕身する名もなき色男の監察方だ。誰だ、そんな乙女小説でしか出てこないような頭沸いた脚本、高校生の文化祭の演劇ステージで演ろうとしてる奴。
あ、左右田か。左右田なら仕方ない……仕方、ないわけあるかァァァァァァッッッッ!!!!
「はぁぁぁぁぁ」
心の叫びまで左右田化してきてる。やばいな、おれ。このままいったら、今、目の前に三井でも現れようものなら貴様呼びして首締め上げてそうだ。いや、いっそ三井でいいから現れてくれ。このおれのやり場のないストレス発散の犠牲となってくれ。
「河山」
手摺にもたれて溜息をつくおれの後ろから、気遣いと苛立ちが綯交ぜになった声が投げかけられた。
振り向くまでもない。科野だ。
嫌だな。どんな顔して振り向けと?
「ああ、おつかれ。ごめんな、途中で抜け出してきて」
とりあえず、何事もなかったかのように曖昧に無難に微笑んで振り返ってみるが、ぎこちなくなっているであろうことは、頬に走る緊張から自分でもよく分かっていた。
科野は憮然とした表情を隠しもせずに、じっと窺うようにおれを見ていた。
「嫌なのか?」
聞かれてどきりとする。
「……何が?」
何を聞きたいのか分からないわけではなかったが、意地悪くおれは聞き返す。
「あたしの相手役が、嫌なのか?」
一言一言を区切るように、科野は尋ねる。脅しとも取れる聞き方だ。
おれはもちろん首を横に振る。
「そんなわけないだろう。光栄だと思っているよ」
「光栄って、何その言い方。馬鹿にしてるの?」
「してないよ」
「なら、どうして……!」
「ごめん」
科野に詰め寄られて、おれは素直に謝った。
が、その素直さが逆に科野の怒りに火をつけてしまったらしい。
科野はおれの襟ぐりを引き掴むと、間近からぎりと睨みつけた。その迫力たるや、地獄の閻魔さまに睨まれてもここまで恐ろしくはないだろう。捕って食われるのではないかと思うほど、目は獰猛な肉食獣の如く爛々と冷たい火を吐きだしている。
「科野のせいじゃないよ。おれの問題」
正気かどうかも怪しい科野の目を見据えて、おれは努めて冷静にゆっくりと答える。
科野の目に宿っていた炎は陰を潜めていったが、かわりに突き刺すかのような冷気が漂いはじめる。
「練習する時間が無いとか、やる気がないっていうなら、さっさと降りろ」
科野はぎりぎりと遠慮容赦もなくおれの首元を締め上げる。
「本番だけ上手くやろうったって、そう簡単にはいかないものだって言ったでしょう?」
「わかってるよ」
「じゃあ、逃げないでよ!」
ほら、結局はお見通しなんだ。
お見通しなのに、分かってない。
好きでやってるわけじゃない。仕方ないからやっている。
だから、ハードルが上がれば逃げ道を探したくもなる。
相手役が科野じゃなかったら、はじめからこんな話、引き受けたりはしない。例えばおれが降板して他の奴が科野の相手役をやることになったら、それはそれで面白くない。
心が、おいつかない。
割り切れない。
ただそれだけだ。
「科野は平気なの?」
平気じゃないのは、本当におれだけなのか?
意表を突かれたとでもいうように、きょとんとして、科野はおれを見ている。
「何が?」
何が。
全く意に介していない、と?
割り切れている、と?
毎朝風様、風様って言っておいて、平気なのか?
おれに甘い言葉を囁かれることも、抱きしめられることも?
いや、そうか。毎日風様、風様言えてるから、平気なんだ。
おれのことなど、何とも思っていないから。
おれはゆっくりと襟ぐりを掴む科野の手を振りほどいた。
「ごめん、お迎え遅れると延長料金なんだ。知ってるだろ?」
おれは朱に染まりはじめた空を窓越しに眺めやり、科野はちらりと自分の腕時計に目を落とす。
「河山」
「なに?」
「この役、本番もやる気ある?」
だから、どうしてそうやって真っ直ぐにおれを見るんだろう。
逃がさないって、目が言ってる。
裁きの女神は白黒つけなきゃ気が済まない性質なのは、今も昔も変わっていない。人の心なんてそんなにはっきり線引きなんてできないのに。
少し、考えさせるくらいの余裕が欲しいよな、なんて、ただの女子高生の科野に望んだって仕方ないか。炎と科野じゃ、背負うものが違いすぎる。
「今まで必要なところはもう全部撮り終えちゃったし、今更降りますとはいえないでしょ。あとは本番だけなんだから」
降りる気は、ない。この立場を手放す気も、ない。
ただ、苦しいだけなんだ。
「じゃあ」
おれは、どうしたらいいかわからないと言った顔した科野に背を向けて階段を下りはじめた。
慌てて科野が引きとめにかかる。
「じゃあ、って……!」
引き留めてくれて、よかった。
諦めないでくれて、良かった。
まだ、おれは科野に手放されていない。
「ねぇ、科野にとって、おれって何?」
振り向いて、おれは階段の上の彼女を見上げた。
なに聞いてるんだろうって、自分でも思ってる。誰も聞いてなきゃいいなって、肌で周囲の気配を探っている。だけど、聞かずにはいられなかった。
おれにとって、彼女は炎だ。
探し求めてようやく見つけ出した最愛の女性だ。
でも、彼女は違う。彼女にとっては、おれはただの河山宏希でしかない。風の記憶を持っているただの同級生だ。
秘密の共有者っていうのは、そういうことだろう?
答えなど分かりきっていた。おれの望む答えと、彼女の正直な気持ちとの間に大きな乖離があることもうすうすわかっていた。
だからおれは、彼女の答えを聞くこともなく、逃げるように階段を駆け下りた。
彼女は追い掛けてこなかった。彼女自身も、彼女の声も。
少し、おれはがっかりしていた。
逃げたけれど、本当は答えを聞きたかった。
本当におれをただの河山宏希としか思っていないのか、それとも、おれと同じように重ね見ているのか。
分かっていても聞きたかった。
せっかく探し当てた彼女が目の前にいるのに、彼女はおれを見てはくれない。手を伸ばせば届く位置にいるのに、手を伸ばす大義名分がおれにはない。
結局、あのセリフを言えないのも、演技のふりして抱きしめることさえできないのも、おれが多くを欲しがってるからだ。
伝えたい。
触れたい。
自分の気持ちが勝りすぎて、やましさを抑えきることができない。
「あほか」
これ以上降りきれる階段もなくなったところで、おれは溜息をついた。
「今年のミスター岩城学園にノミネートされてるハンサムが、恋患い?」
ねっとりと絡みつくような女の声に、おれは全身が総毛立つ。
「齊藤先生」
いやいや振り返ると、予想通り、形ばかり白衣を纏った夜の蝶が楽しそうに微笑んでいた。
その顔を見て、おれは余計にげんなりとする。
嫌な相手に捕まったものだ。見られた? 聞かれたか?
「ミスター岩城学園にノミネートされてたなんて、初耳ですよ」
取り繕って、当たり障りなさそうなあたりを返してみる。
「知らなかった? 学園の女子限定で予選やってたのよ。私もあなたに投票しちゃった」
「……そうですか」
何を年甲斐もなくきゃぴきゃぴと。
年のころは三十代前後。場合によってはそれ以上。黒いロングストレートの髪は艶やかに背中で揺れ、切れ長の黒い目は妖しく煌めき、赤く引かれた唇には男を誘う笑みが刷かれている。
白衣を着ていなければ、夜の街で暗躍していそうな保健医だ。
三井のような免疫のない男子はほいほいと保健室に通いたがるが、おれからすれば毒にしか見えない。
四月に木沢先生の産休代替で配属されてから、一度テニスで手首を捻って保健室にお世話になったものの、保健室に行かなくても廊下やそこら辺でやたらと声をかけられている気がする。
こっちは一度お世話になった時から苦手だというのに。
「もう、愛想が足りないわねぇ。せっかく投票してあげたのに」
苦手な理由はこれといって言語化して認識したことはないが、多分こういうところなんだと思う。
ずかずかと入り込んで言いたいことだけ言って去っていくような無責任な感じ。
「それは、ありがとうございます」
そそくさと目の前から離れようとするが、齊藤先生はなかなか逃してはくれない。
「それで、恋患いなの? お相手は? 何があったの?」
「プライベートなことなんで」
「もう、冷たいわねぇ。何かあったらいつでも保健室にいらっしゃいね。授業さぼりたいときでも、恋患いの悩みでも」
「ありがとうございます」
絶対この人には相談しないだろうなと思いながら、これ以上絡まれないために極上の微笑で礼を言う。
「それで、」
「あの、まだ何か?」
立ち去ろうとしているのに、今日の齊藤先生はやけにねちっこく引き止めようとする。
「最近恋のお守りの鈴っていうの? あれ、流行ってるじゃない?」
「え? ああ」
「あれ、あなたもまだ持っているの?」
おれは首をかしげる。
齊藤先生の表情は、珍しく神妙だった。
「今朝、美竹さんから渡されてたでしょう?」
「もらいましたけど……何を突然」
おれとしてはとうに科野に渡してしまったので、すでに終わったことになっているはずだったが、あまり興味のないおれに構わず、齊藤先生は続ける。
「んー、ただの勘なんだけどね。ここ最近、中等部も高等部も、保健室に具合が悪いって言って休みに来る子が増えているのよ。しかも、真面目そうな女の子たちばっかり。ベッドで休んでいる間もずっと鈴を見つめているのよね。それで、いつから具合悪いのかって聞いたら、ここ数日だって。しかも、どの子も恋のお守りだっていう縁結びの鈴をもらってから、少しずつぼんやりする時間が増えてたみたいなのよね」
「恋にうつつを抜かして鈴ばかり見ているうちに、寝不足にでもなったんじゃないんですか?」
「そうかもしれないわね。目の下に隈ができている子もいたから。でも、昨日の午後、中等部の方では河山茉莉さんも保健室に来たのよ?」
「え……?」
それが言いたかったのか、とようやくおれは齊藤先生の顔をまじまじと見返した。
「茉莉さんもかわいらしい黄色の鈴を持っていたわね」
昨日、茉莉の鞄の中から聞こえていた軽やかな鈴の音のことを思いだす。
「でも、茉莉はそんなこと、一言も。まして、あいつが鈴見てぼーっとしてるところなんて想像つかないんですけど」
そもそも、茉莉は少し具合が悪いくらいで保健室で休もうなんて思うようなタイプじゃない。できるだけ人に弱みを見せないように、何でもできると強がっているのが茉莉だ。
「どっちかというと自分で来たっていうよりは、机に座っていてもふらふらしていたみたいで友達に連れられてきたんだけどね」
茉莉が、学校でふらふらになっていた?
貧血とも無縁だと思うんだが。
「帰ったら、気を付けてあげてちょうだい」
齊藤先生は心配そうに微笑んでみせる。
おれは、何となく意外な思いで頷いた。
齊藤先生が真面目に生徒の心配をしていること然り、茉莉の体調が悪かったらしいということ然り。
きっと茉莉に体調はどうだとか、保健室に行ったのかとか直接聞いても無視されるだけだろう。でも、独り言のようになっても、「齊藤先生が心配していた」とつければ、多少は耳に残るかもしれない。
問題は、科野。
科野が鈴を見てぼーっとするなんて考えられないが、茉莉でさえそんな状態になったというなら、科野に起こってもおかしくはない。
だけど、さっきあんな別れ方をしてきたというのに、今更鈴を返せなんてどんな顔で言えばいいものか。つまらない誤解をされたくもない。
迷いながら、おれはちらっと腕時計を確認する。
もう、四時半になろうとしている。
まあ、科野なら何かあっても自力で何とかするだろう。おれなんかより、よほど科野は強い。魔法も、精神も。
「それじゃあ、妹には気を付けるよう伝えるので」
「そう。引き留めて悪かったわね。帰り、気を付けてね」
腕時計の時間は午後四時半。
あっという間に三十分が過ぎている。お迎えの五時まであと三十分弱。
急がないと。
おれは走って駅まで向かう。
途中で冷たい風が吹きはじめて、スプレーのような小雨が吹きつけはじめた。傘をさすと風を受けて駅に着くのが遅くなりそうだったから、できるだけ濡れないように肩を丸めて駅までの道を駆け抜ける。
そうしてようやく駅の入口まで辿りついた時だった。
駅の中から、緊迫感漂うぴぃんと張りつめた高音が、不気味な静寂の中に一本の線を引いていた。
まるで時が止まってしまったかのような、動く者の気配一つ感じられない緊張感。
嫌な予感がする。
このまま駅に入ったら、何かとんでもないことに巻き込まれてしまいそうな、とてつもなく重い空気。
それでも、駅舎の上階には電車が滑り込んでくる音が響いてくる。
行かなくちゃ。
お迎えが来なくて、保育園で一人取り残されて居心地悪そうにしている直緒の表情を思い出して、おれは一歩、駅の構内へ足を踏み入れる。
張りつめた金属的な高音はボリュームを増して駅構内の奥に進めば進むほど、耳を塞がずにはいられないほどの不快感を与えてくる。
思わず、おれは耳を塞ぐ。
黒板をひっかく音よりも、胸の内を切り裂くような不快な音だ。
足は知らず知らずのうちにここから出ようと後ずさりはじめている。
逃げろ、と本能が告げる。
これは、明らかにおかしい。
それでもなお足を引きずるようにして進んだ先に見えてきたのは、慌ただしく道行く人々の姿などではなく、だるまさんが転んだでもしているかのように息を潜めて思い思いの姿で立ち止まり、あるいは頭を抱えて蹲りながらも、不思議そうに頭上で燐光を放つ鈴をぼんやりと見つめている光景だった。
次の瞬間、張りつめていた高音は風船を割るように爆音を撒き散らして弾け飛んだ。
一瞬の静寂がもたらされた直後、蹲っていた人々も頭を抱えていた人々も、思い思いに喚きながら逃げ惑い、或いはぶつかり合った者同士で殴り合いをはじめ、或いはショーウインドウに鞄を投げつけたり自ら体当たりに行くなど、まるで意味の分からない行動を始めた。
誰一人として己の行動を望んでいないのは、頭上の鈴を見つめる目が虚ろであることから明らかだ。そう、混乱に陥って暴れているのは頭上に鈴を見ている人たちであり、鈴を持たない人々は逃げ惑い、暴れる人たちに捕まっていく。
おれは一歩退いた。
まだ誰もおれに気づいていない。
逃げるなら今だ、と思った。
なのに、見つけてしまったんだ。
「茉莉……」
お気に入りの赤い傘を振り上げ、暴徒たちの先頭に立って数人の女子高生たちを追いかけていく。頭上には、案の定、黄色い鈴が淡く輝く。
「なにやってんだ、あいつ」
舌打ちを堪える代わりに唇をかみしめる。
そして、よく見れば茉莉が追いかけているのは、事もあろうに藤坂と守景と草鈴寺の三人だった。
あれは、下手をすれば茉莉の方が殺される。
『風よ』
手のひらに風を集める。
ドライヤー程度の風しか集められなくても、風の障壁があれば少しは茉莉を守ってくれるはずだ。
『風よ、彼方まで吹き抜けろ』
道筋を示し、手を振り下ろす。
ごうっと音をたてて、思いの外強い風が茉莉と転んで立てなくなっている守景との間を駆け抜け、守景に向かっていた傘や鞄やらの持ち物を弾き飛ばし、茉莉とその後ろからついてきていた女子中学生たちも吹き飛ばす。
それでも風が追いつかなかった分は、守景の間に入った黒い影が器用に全部長物で払い落とす。
鈴は、鳴り響く。
怒声や喚声が溢れる構内にあって、一際涼やかな音を奏で続けている。
おれは、吹き飛ばされて尻餅をついていた茉莉の前まで駆けつけると、まだ虚ろな目で鈴を見上げている茉莉の手を引き寄せ、壁際へと引きずっていった。
茉莉は獣のような唸り声をあげておれの手を払おうとするが、今ばかりはセクハラと言われようが、変態と言われようが、掴む手を緩めるわけにはいかなかった。
何とか片手で抑え込んで、もう片方の手で茉莉の頭上にしつこく浮かびつづける鈴を握り潰す。
「あああああっ」
絶望的な表情で叫んだ茉莉は、おれのことを睨みつけた。が、すぐに糸が切れたようにだらりと頭を垂れ、膝をついた。
「茉莉! 茉莉っ!」
ぐいっと腕を引き上げ、顔を上げさせる。
顔を上げた茉莉は、歯を食いしばりながら泣いていた。
「見ないでよ、バカ宏希」
「なら顔伏せてろ」
一瞬怒気が放たれたが、大人しく茉莉は顔を伏せる。
両手首はまだ放さない。
「嫌なのに、身体が勝手に……」
「分かってる」
おれはちらりと藤坂の方を振り返る。
藤坂は厳しい目でおれを一瞥した後、守景と鈴に操られた人々との間に瀑布を出現させた。
「鈴を、壊したわね? バカ宏希」
足元に投げ捨てた色も光も失った金属の塊を見下ろして、おれは頷く。
「壊された瞬間、すごく痛かった。全身圧縮機にでも入れられたみたいにちぎれるかと思った」
「蝕まれすぎだ」
「鈴が悪いの?」
「さあ。でも、昨日授業休んで保健室に行ったんだって?」
「なんで、それ!?」
「帰り際、齊藤先生に捕まって聞いた。茉莉だけじゃなく、鈴持った女子が最近やけに休みに来るって」
諦めたように茉莉は溜息をつく。
「すごく体が重くなって、眠くって、それでも鈴から目が離せなくて。授業中なのに、鈴を手に持って眺めているわけにもいかないでしょう? しょうがないから具合が悪いって保健室に行って、思う存分鈴眺めてた」
茉莉は哀しそうに足元に転がった鈴の成れの果てを見下ろす。
「楽しかった? 鈴眺めてるの」
「わかんない。目が離せなくて、あっという間に時間だけ過ぎていってた。夢を見ていたのかもしれない。鈴の中に……夢が見えるの。ふわふわとした甘い……」
がくん、と茉莉の全身から力が抜け落ちた。
慌てておれは肩で受け止める。
「茉莉? 茉莉?」
鼻からは規則正しい穏やかな寝息。
緊張が限界を超えたのか、気を失ってしまったのだろう。まさか、壊れた鈴に夢の世界に誘われたなどとは思いたくはない。
念のため、おれと茉莉の周りに風の結界を張り巡らせて、おれは茉莉を肩に担ぎ、藤坂たちと合流した。