聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第1章 鈴の音は導く
3(聖)
背中は嫌いだ。
振り返ってほしいのに、振り返らずに遠ざかるだけだから。
背中は嫌いだ。
自分が守られるだけのちっぽけな存在だと、突きつけられているようだから。
行かないで。
待って。
そう言えるうちはまだよかった。
いつからだろう。
そのたった一言、二言が言えなくなってしまったのは。
いつからだろう。
あの人の背中を目で追うことしかできなくなってしまったのは。
私のためだけに与えられる腕の温もりも、胸の鼓動も、いつから、与えられなくなってしまったのだろう。
私が龍兄を見つけた時、いつも龍兄は私に背を向けている。
大きく声を張り上げなければ、到底気づいてもらえないくらいの距離を置いて、龍兄はいつもそ知らぬふりで私から離れていく。
背を向けているというのなら、龍兄は私に向かって歩んで来ていたはずだ。
それなのに、私が気づくのが遅いせいなのか、それとも龍兄が私を見つける方が早いからなのか、私には龍兄の背中しか見えない。
龍兄がいつ踵を返しているのか、いつの間に私の横をすり抜けているのかすら分からず、気づいた時には私は龍兄の背中を目で追っている。
寒さから身を守るための銀色のコートの裾が背中で風に揺れているのを見送るばかりだ。
私から背けられ続けているその顔にどんな表情が浮かんでいるのか、もはや想像もできなくなってしまったほど、私は長らく龍兄の顔を見ていない気がする。
今日は、何の用事で風環宮に来ていたんだろう。
「聖ー! 聖ー!」
龍兄の背中が見えなくなってどれくらいの時が経っていたのか、ぼんやりしていた私は、風兄さまに名前を呼ばれて我に返った。
「聖! どうしたの。何回も名前を呼んでも振り向かないから、立ったまま気絶してるのかと思ったよ」
初秋のからりとした風と共に現れた風兄さまは、無表情で佇んでいた私をあっという間に笑顔にした。
「まさか。そこまで器用じゃないわよ」
「そうかな。それとも、誰か愛しい人の後ろ姿でも見送っていた?」
悪気など一切ない爽やかな笑顔で言われたにもかかわらず、図星を突かれて私の表情は凍りつく。
途端に気まずそうになった風兄さまは、首を振って謝った。
「おっと、ごめんごめん。そんな怖い顔しないでよ。ついさっきまで龍兄さんが来てたんだよ。今度の豊穣祭の打ち合わせでさ。だから――」
「知ってる。さっき、背中だけ見たもの」
風兄さまは困ったように空を仰いでいる。
つられて私も空を見上げた。
高い高い、突き抜けるように青い空。
色は盛夏を過ぎて薄くなってきてはいたけれど、風環の国の首都アンクリュッセルの空は、聖刻の国の首都ユガシャダよりもよほど透明感に溢れていて、白い雲も重さのないカラッと気持ちの良い空だった。
「今年は龍兄も何かやるの?」
神界は毎月どこかで何らかのお祭りが開催される。
父母や私たち法王の生誕祭の他に、秋の実りを収穫する九月には作物の豊穣を祝う豊穣祭、十月には月を愛でる深月祭、一年の終わりには今年の多幸を感謝し、来年の幸を祈る謝年祭が開催される。開催される場所は、豊穣祭と深月祭は法王が治める各国が持ち回り、謝年祭は天宮で統仲王の主催の下、毎年開催される習わしとなっている。一年の始まりを祝う祈命祭は、年始が長男の育兄さまの生誕日でもあることから天宮と育命の国双方で行われる。
今年の豊穣祭の担当は風兄さまで、私は祝祭のための歌を捧げる下見のために風環の国を訪れていたのだった。
豊穣祭は数あるお祭りの中でも街中が盛り上がる喜びに溢れた祭りだった。
祝いの祭りで風兄さまは笛を吹き、私は歌を歌い、〈影〉の澍煒が舞を舞う。
他の兄さま姉さま方は統仲王とともに、主催が回ってきていなければ基本的にはお客様だ。
龍兄も然り。
むしろ、あのいつも仏頂面で「祭りなんかどこがおもしろいんだ」と言わんばかりの龍兄が、豊穣祭の打ちあわせなんてどんな風の吹き回しだろう。
「今年のメインステージは夜にやろうと思っていてね」
「夜?」
「そう。いつもは昼間にやっていたけど、今年は夜に派手にやってみようと思って、みんなにも声かけてるんだ」
「あ、もしかして……」
「聖~っ、久しぶりだなぁっ」
その名を呼ぶ前に、私は豊満な胸の中に頭から抱き寄せられていた。
「ぐっ、苦じい……炎姉さま、苦じい……」
「会いたかったぞ~、聖。どれくらいぶりだ? ん?」
「姉さま、先月鉱兄さまの生誕祭で……ちょっ……」
炎姉さまの胸で窒息しそうになりながらも、さわさわと胸のあたりに伸びてきた手にはっと我に返る。
「聖、お前相変わらず貧にゅ……」
「んもうっ、言わないでっ!」
息を切らしながら、私は炎姉さまを押し返す。
「おお、元気だ元気だ。よかったなぁ」
炎姉さまは悪気など微塵もなく私の頭を撫でつけたが、すぅっと視線が私の胸元に下りると憐みのこもった目になった。
「でも……」
「ね・え・さ・まっ! 怒るよ、もうっ」
「もう怒ってるじゃないか。あたしは心配してるだけだっていうのに。聖も十六の姿でそれなんだろう? いっそ、二十歳くらいまで年齢を引き上げてみたらどうだ? あいつは貧乳よりボインの方が好きだぞ、絶対。(マザコンだからな。)で、そんな首元まで襟の詰まったような服じゃなく、もっと胸元や谷間を強調する服を……」
「炎姉さん、それくらいにしてあげなよ。聖がすっかりむくれちゃってるじゃないか」
「……やったことくらい、あるわよ」
『え?』
「昔、小さい時、二十歳くらいまで大きくなってみたことがあったわよ。私が何を司っているか分かっていて?」
「時」
「そうよ! 大きくなってみたけれど、……胸は……大して……」
思わず自分の胸元に視線を落として溜息をつく。
二十歳の自分も、十六の自分も変わらなかった。
「どうせ小さいなら、十六のままで結構よ!」
ぷい、と炎姉さまと風兄さまからそっぽを向く。
「俺は小さくても構いませんけどね」
「え……?」
声のした方を振り向くと、くすくすと笑いながら風兄さまと炎姉さまの後ろにヴェルドが立っていた。
「ヴェルド!」
私は真っ赤になって顔を覆う。
ヴェルドは意に介した風もなく飄々と炎姉さまと風兄さまに挨拶をしている。
「ちょっと、ヴェルド! どういうつもりよ!」
「どういうつもりも何も――聖刻法王様におかれましてもご機嫌麗しう」
ヴェルドはさらりと私の前に跪くと、左手の甲に口づけを落とした。
挨拶とわかってはいても、さっきの話を聞かれた後では恥ずかしくて、私はさっと手を引っ込める。
「おやおや」
風兄さまと炎姉さまはにやにやと笑っている。
んもう、とりなす気皆無なんだから。
仕方なく私から口を開く。あくまで口を利いてあげているんだと言わんばかりに、視線を合わせることなく。
「ヴェルドまで風環宮に来るなんて、どうしたの?」
「聖様が滞在されていると伺いましたので、御挨拶に」
悪気ひとつない爽やかな笑顔でヴェルドは私に笑い返す。
ほんとにもうっ、誰から聞いたのよ、誰から。
風兄さまと炎姉さまを軽く睨みつけると、それぞれ視線を明後日の方に放り投げた。
「お元気そうで、何よりです」
見上げると、直接翠玉色の瞳が私を優しく包み込むように見下ろしていた。
小さく、脈が波打つ。
いつもの発作前の不整脈とは別の、小さな抵抗のような。
思わず顔を背ける。
「そりゃ、元気よ。そうでなきゃ、豊穣祭で歌えないもの」
「毎年、聖様の歌声を楽しみにしているんですよ。俺だけでなく、聖様の歌声を愛してやまないファンは神界中にたくさんいるんですから」
「愛して、って……」
そんな意味じゃないと分かっていても、そんな真顔で言われたら顔から火が出そうになる。
「透明感があって、光が降り注ぐような歌声。貴女の歌を聞くと、どんな憂いも病も浄化されていく。心の中が空っぽになって、幸せで満たされていくんです」
光が降り注ぐような歌声。
照れることなく賞賛したヴェルドに、私は返す言葉もなく立ち尽くす。
目の前が真っ白くなるほどの光の洪水。その中に一音、水滴のように落される。拡がった波紋は私の胸を打ち、声となって放たれる。突き動かされるように私は光の洪水の中を泳ぎ、真実を探す。歌い言葉を手繰りながら、己の心の真実を見極めようと深淵へ手を伸ばす。
「よかったな、聖。たくさんの人がお前の歌を楽しみにしてくれているって」
炎姉さまに頭を撫でられて、私は我に返った。
「ありがとう、ヴェルド。いい歌を届けられるように私、頑張るわね」
「はい、楽しみにしています」
ようやくヴェルドをまっすぐ見上げると、ヴェルドは眩しげに目を細めて微笑んだ。
微笑み返しているのに、小さく、心が漣立つ。
暖かな流れと、それを阻む小さな岩。
流されてはいけないと、その岩はそこに居座りつづける。棘のようにごつごつとした黒い岩は、それを受け入れまいと私の心の扉を閉ざしつづける。
ヴェルドが私にくれようとしているものの正体を、多分私は知っている。
私がいつも欲しがっているもの。
でも、それを素直に受け取れないのは、ヴェルドの気持ちが嘘偽りなく真っ直ぐだから。歪みなく綺麗で、あったかくて、日向みたいに居心地がよくて――きっと一度受け取ってしまったら、私はとても幸せになれるだろう。その代わり、私が一番欲しいものは永遠に手に入らなくなってしまう。
ううん、元から私が一番欲しいものは決して手に入らないもの。手に入れてはいけないもの。
小さい時は、幼さに甘えて我が儘を言うことができた。理など無視して自分の思うが儘に望み、振舞うことができた。大人の姿になって龍兄に想いをぶつけるなどという、はた迷惑なことだって、思うに任せて実行することができた。
今は、だめ。無理。
あの人は決して手に入らない人。
望んではいけない人。
命の限り、永遠に待ったとしても、決して振り向いてはくれない人。
そう言い聞かせて、思い込ませて、それでも溢れる気持ちをどうにか押さえ込んで、背中を見送ることしか私にはできない。
私が欲しいのは、あの人の愛情。あの人の笑顔。あの人の手。あの人の温もり。
十六歳の少女の形をしていたって、分かってる。
それらを手に入れるために私ができることなど、何もないのだ、と。
だから、ぐらつきそうになる。
小さい頃からひたむきに私を追いかけてくれるこの真っ直ぐな愛情に、すり寄りたくなる。依存したくなる。本当に欲しいものから目を背けて、彼のくれる愛情に盲目になるまで浸かっていれば、いつか私の欲しいものが、大切にしたいと願うものが、変わってくれているのではないか、と。
苦い思いをかみ砕くように、深く目を閉じる。
欲しいものと大切にしたいものは、別なものでもいいのかもしれない。
いや、むしろ、違うものなのかもしれない。
手に入らない宝物と、手元にある宝物。
手に入らないはずの宝物は、手に入った瞬間に宝物ではなくなってしまうかもしれない。
だから、愛おしい。追いかけたくなる。
私の想いは、とうの昔に歪んで元がどんな形をしていたかもわからなくなってしまっていた。
手放さなくては。忘れなくては。
そう言い聞かせる度に、想いの形は一度崩され、欠片を失いながら、あるいは塵芥で埋め合わされながら再構築されていく。
「そうだ、風兄さま、私、豊穣祭の舞台を下見に来たの。ね、いいでしょう?」
変質していくこの想いの名を、私は知らない。
黒く、薄汚れていくこの想いの正体を、私は知らない。
それでも私は、この想いを育てつづける。
己の手に負えなくなるまで成長しきった時、もしかしたらまた、幼い時のように無理を叶えようと動き出すことができるかもしれない。あるいは、この想いに喰われてしまうのが先か。
心が喰われてしまっても、この身体は永遠に生きつづけるのだろうか。
神の娘の身体は、主を失ってもなお、法王として微笑みながら人々の心を浄化する歌を届けつづけるのだろうか。
「もちろん、いいよ。袖や客席はまだ準備をしていると思うけど、気にしないのなら」
「もちろん気になんてしないわ。ね、ヴェルド、貴方のために一曲歌を贈らせてちょうだい。私、今、とても気分がいいの」
壊れるぎりぎりの瀬戸際で、私は立っている。己を保っている。バランスを取っている。
闇の深淵に引きずり込まれる日を心待ちにしながら、川面に顔だけ出した岩の棘の上に爪立てして微笑っている。
いつでもこの日常が壊れてしまえばいいと、願っている。