聖封神儀伝 3.遥道 ―この道、遼遠にして行く先を知らず―
第1章 鈴の音は導く
2(樒)
同じ色の紐で結ばれた二連の鈴のストラップが恋のお守りだなんて、誰が言い出したんだろう。
誰が言いだしたかわからない。でも、たくさんの人たちの心をとらえて離さないもの――それが流行というものだ。
「きれーい! かわいー!」
河山君が葵に渡していった恋のお守りの鈴を、授業の合間に赤いストラップの部分だけを持って揺らして音を鳴らしてみたり、耳元に近づけてみたりしていると、葵が呆れたようにわたしを見ていた。
「そんなに気に入ったなら、樒にやろうか?」
「ううん、滅相もない。これはせっかく葵が河山君からもらった物じゃない。わたしがもらうわけにはいかないよ」
とか言いながら、手はまだ赤いストラップをつまんだまま、リンリンと鳴る軽やかな音に魅せられている。
「河山君、これどうしたんだろうね? まさか買ったのかな?」
「葵ちゃんへのプレゼント」?」
「違う、違う。もらったんだって。テニス部の後輩マネージャーから」
複雑そうに笑いながら葵が顔の前で手を振る。
「そのマネージャーさん、まだたくさん持ってるのかな」
「持ってたみたいだな。河山がくれって言えば、あっさりくれるんじゃないかな」
お願いしちゃおうかな、なんて思ってしまうくらいには、いつまでも聞いていたくなるような清流のせせらぎのような音をしている。
そんな小さな音は、実は最近、教室中のあちらこちらから聞こえるようになっていた。
「ずいぶん鈴の音が聞こえると思っていたら、恋のお守りだったのね。それはみんな、欲しくなっちゃうわよね」
教室中を見渡して桔梗も苦笑している。
「桔梗は欲しくないの? 恋のお守り」
「私は特に必要ないかしら。恋なんてしなくても生きていけるし、叶えたいと思う相手もいないし」
思わず葵とわたしは桔梗を一歩退いた目で見てしまう。
「大人ってそういうもの?」
「いやだ、私も樒ちゃんたちと同い年よ。一人だけ年取らせないでちょうだい」
「落ち着き方がただ者じゃないけどな」
「何があっても動じなそうだもんね」
「買いかぶりよ。私、そんなに強くないのよ?」
にっこりと桔梗に微笑まれて、またわたしと葵は視線を見合わせる。
これ以上突っ込むことはやめておこう。どう転んでもこちらの不利にしかならない。
そう視線で確かめ合って、わたしは一度名残惜しく鈴を鳴らしてから葵の手の中に返した。
葵は耳元で軽く鈴を振って、その音に耳を澄ます。
ちりんちりんと涼やかな音がこちらまで届いてくる。
「その鈴、女子は透かし模様の綺麗な方を持っておいて、こっちの模様のない方は好きな人にあげるといいんだって」
通りがかりに聞いていたのか、詩音さんが足を止めて言った。
「へぇ、そんな曰くまであるのか」
早速葵は結ばれた赤い紐を解きはじめる。
さて、誰にあげるつもりなんだろう。やっぱり河山君だろうか。この間海に行った時といい、前々から仲は良かったけど何か最近、余計に怪しいんだよね。
「詩音、詳しいわね。さては詩音ももう、持っているわね?」
桔梗につつかれて、詩音さんは薄紫色の鈴を出して見せた。花の透かし模様の入った綺麗な鈴だ。
「もう片方は?」
至極当然の問いに、詩音さんはあからさまに笑ってごまかす。
「そう、それじゃあ突っ込まないでおいてあげるわ。帰りになれば、鈴の音がする男子がこの辺を通るかもしれないから」
「ん〜、それはどうかな」
やけに自信たっぷりと断じた桔梗に、詩音さんはさらりと視線を外して教室の端を見やった。その先には特にめぼしい男子はいない。と思ったのだけど、隅の方で机に突っ伏して睡眠をとっている夏城君がそこにはいた。
ドキリ、と嫌な予感に胸が跳ねる。
首の後ろが硬くなって、サァーッと肩から胸まで一気に冷たいものが降りていく。
おそるおそる、わたしは詩音さんを振り返る。
その視線の先にはやっぱり夏城君がいて、詩音さんは柔らかな目で夏城君を見つめていた。
「樒?」
葵に名前を呼ばれて、無意識に唇を噛んでいた顎が緩む。
「え? あ、なんでもない」
慌てて手を振って、仮眠から醒めて背伸びしている夏城君を視界の端に収め、もう一度窺うように詩音さんを覗き見る。
「どうしたの、樒ちゃん?」
どうしたのって聞きたいのは、こっちの方だ。
どうして今、夏城君を見ていたの?
鈴の片割れは誰にあげたの?
込み上げてきた言葉を、勢いをつけて呑みこむ。
桔梗が言ったばかりじゃない。
帰りになれば、鈴の音がする人が近くを通るかもって。
もう少ししたら、夏城君じゃないって、きっとわかる。
きっと別の、誰かだよね?
「詩音はどこで鈴買ったの?」
「わたし? わたしはね、校門出てけやき通りに入ったところの露天商。買ったっていうか、お試しでもらったんだ。もし御利益があったら、広めてって言われて」
「お試しで?!」
思わずわたしは詩音さんに喰いついてしまってから、はっと我に返って前のめりになっていた体勢を戻す。
詩音さんはくすくすと笑っている。
「行ってみる?」
「うん、行く!」
詩音さんの言葉に、わたしは一も二もなく頷いた。
「樒ちゃんが行くなら、私も行ってみようかしら」
「なんだよ、興味なかったんじゃないのかよ?」
「両想いになれる鈴には興味がないけど、お試しで縁結びの鈴をくれるっていう人には興味があるわ。どんなお人よしさんなのかしらね」
『うわー』
桔梗の見てやろうじゃないのとばかりの人の悪いスマイルに、わたしと葵と詩音さんは揃ってドン引く。
「あ、ごめん、あたしはパス。放課後、例の練習あるからさ」
そんなわけで、五、六時間目が終わり、帰りのHRで来週の文化祭でのクラスの出し物がようやくメイド執事喫茶に決まったところで、わたしたちは葵を残して、終礼のベルと共に外へと飛び出した。
そう、だから、詩音さんの好きな人が誰なのか、確認する間もなかった。
鈴の音がする男子が近くを通る前に教室を出てしまったから。
「今日もいるかしらね」
「露天商だからどうだろう。それにこのお天気だし」
今にも降り出しそうな雲の垂れこめた重い空を見上げて、詩音さんが言う。
冷たく湿った空気がすぅっと頬に線を引くように吹き退っていく。
けやき通りに入ってしばらく進むと、空き店舗になった店の前のスペースに黒いビロードを広げてアクセサリーのようなものを売っている人の姿が見えた。
「あれ?」
「そう! いてよかったね」
広げた品の奥に折り畳みの椅子に腰かけているのは女性だった。しかも何やら頭から薄い紫色のケープを被り、クリーム色のローブのようなゆったりとした異国の格好をしているお姉さんだ。
明らかにこの日本の小さな通りからは浮いているのだけれど、その周りにはすでに女中高生らしい子たちが五、六人群がっている。
りんりん……チリチリチリチリ……
風に乗ってかわいらしい音がこちらまで響いてきて、引き寄せられるようにわたしはその子たちの間に割り込んだ。
「こんにちは」
碧い瞳の女性?がにこやかに微笑みかけてくる。
「こんにちは」
つられて微笑む。と同時に、なぜか、かぁぁっと顔が赤くなるのを感じた。
女の人なのに、なんでだろ。中東辺りにいそうな彫の深い綺麗な顔立ちの人だからかな。なんだか無性にどきどきする。
心臓が飛び出さないように胸のあたりを軽く抑えて、わたしは黒いビロードの上に広げられた異国情緒あふれるガラス細工やアクセサリーの中に、ようやくお目当ての鈴を見つける。
赤、紫、ピンク、水色、黄色、青、黒、白、緑。
単色で編まれた二本のストラップの先には同色の鈴がそれぞれ二つ。花模様のような透かし模様が入った鈴と、透かし模様が入っていない鈴と。
葵が河山君からもらった鈴と同じものだった。
「この鈴を身に着けていると、好きな人と両想いになれるのよ」
滑らかな日本語で露天商のお姉さんは微笑み、ピンク色の鈴をわたしの手の上に乗せた。
「花模様の鈴は貴女が持っておいて。こっちの模様の入っていない鈴は、できれば好きな人に渡して。そうすれば、鈴同士が引き合って、惹かれあうようになるわ」
少し手を揺らして鈴の音を確かめる。
カロカロ、チリチリ、とかわいらしい音が響く。
「もちろん、二つともあなたが持っているだけでも、この鈴の音が貴女の心を大好きな彼の元に届けてくれるわ」
大好きな彼、という言葉に、夏城君の顔がぱっと思い浮かんでしまって、わたしは慌ててその像を頭の中から掻き消す。
……詩音さんのもう片方の鈴を持っている人って誰なんだろう。
教室で夏城君を優しく見つめる詩音さんの顔が思い出されて、思いきり頭を横に振った。
もう一度、耳元で音を確かめる。
翼が生えたかのように軽やかな音色に、心が洗われていくようだ。
「これ、いただきます!」
意を決してお財布を出そうとすると、綺麗なお姉さんは押しとどめるように手を振った。
「この鈴のストラップはおまけのようなものだから、お代はいらないわ。素敵な恋を叶えてね」
微笑まれて、わたしはまた顔が赤くなっていった。
素敵な恋、って……なんだか恥ずかしい。
そう思いつつも、お礼を言ってしっかり鈴は握りしめたままお店の前から離れる。
すでに鈴を持っていた詩音さんは、岩城の中等部の子と後ろの方で何やら親しげにおしゃべりしていた。
「樒ちゃん、もらえたか?」
「うん」
おずおずとピンク色の鈴を出して見せたものの、やっぱり恥ずかしいな。
「うわぁ、可愛い」
中等部の女の子は、ぱっと目を輝かせる。
「あの、こちらは?」
ちらと詩音さんを見上げると、詩音さんは思い出したように頷いた。
「河山君の妹の茉莉ちゃん」
「妹?」
「そう。中等部の二年生なの。バスケ部でたまに中高で交流戦やるんだけど、その時に知り合ったの。わたし、バスケ部にもたまに顔出してるから」
詩音さん、家庭科部でよく手作りのお菓子とか差し入れてくれてるけど、バスケ部にも入ってたんだ。だからいつも葵と仲良かったのか。
一方、紹介された茉莉ちゃんはちょっと不満げに詩音さんを見上げていた。
「草鈴寺先輩、宏希の妹っていちいちつけないでくださいよー」
「同じ名字だから、何も隠すことないでしょう」
にこやかに諭されて、茉莉ちゃんはちょっと頬を膨らませていたけど、気を取り直したように笑顔を作って、わたしに向き直った。
「はじめまして。岩城学園中等部二年A組、河山茉莉です。バスケ部で草鈴寺先輩と葵先輩にお世話になってます」
人当たりのよさそうな柔らかい雰囲気は、確かに河山君に似ている。でも、目はばりっと芯が強そうで、どこか葵と通じるものを感じた。
「はじめまして、守景樒です」
軽くお辞儀をして自己紹介すると、茉莉ちゃんは興味津々にわたしの鈴を見ていた。
「ピンク色の鈴も可愛いですね。わたしがもらったのは黄色だったんですよ」
茉莉ちゃんがカバンから取り出したのは、明るい爽やかなレモン色のストラップの鈴だった。
「黄色も可愛いよ。ぱっと明るくて華やか」
思ったままに褒めると、茉莉ちゃんは嬉しそうに笑った。
「わたし、黄色大好きなんです。知ってますか? このお守りの鈴、お店の人が見立ててくれた色だと効き目が高いんだそうですよ」
「そうだったんだー」
効き目が高いと言われると、尚更手のひらに乗せたストラップが愛しくなる。
「茉莉ー、うちらもお守り手に入れたから、帰ろう」
「うん、今行く! それじゃ、先輩方、また」
ぺこりとお辞儀をして、茉莉ちゃんは同級生たちの元へ戻っていく。
その茉莉ちゃんとすれ違うようにして、桔梗がお店から戻ってくる。
「可愛い子ね」
「河山君の妹さんだって」
「なるほど。道理で雰囲気が似ているはずだわ」
「桔梗、それ茉莉ちゃんの前で言わないでね? あまり触れられたくないみたいだから」
「思春期かしらね」
「それより、桔梗は何色にしたの?」
ちらりと横目で茉莉ちゃんの姿を振り返った桔梗に、わたしたちは興味深々でその手元を覗き込んだ。
が、桔梗の手の平には何色の鈴も載っていなかった。
わたしたちの意図するところに気付いたのか、桔梗は空の両手を振って見せた。
「もらわなかったの?」(詩音)
「残念ながら」
「なんで? どうして?」(樒)
「どうしてって、特に欲しいのがなかったから」
「店主さん、選んでくれなかったの?」
「そうねぇ、紫色の鈴を勧められたけど、断っちゃった」
『えー、なんでー? どうしてー?』
桔梗のあまりのそっけなさに、わたしたちは揃って唇を尖らせる。
「言ったでしょ、私、叶えたいと思う相手がいないんだもの。それにね、下手にもらっちゃったら、光くんに見つかって片方取り上げられるかも」
悪戯っぽく桔梗は笑って見せたが、桔梗の住んでいるマンションの部屋のお隣に住んでいる中等部一年のマセ子供、もとい、木沢光くんなら、確かに桔梗に熱を上げているからやりかねない。
「それは確かに危険だね」
「でしょう? うっかり光くんとご縁が結ばれちゃったら、大変だわ」
桔梗はいつものようににっこり笑って見せたけど、その実、目は笑っていない。
「ご愁傷様です」
わたしたちから理解が得られた桔梗は、鷹揚に頷いて、つ、とわたしのピンクの鈴に視線を移した。
「樒ちゃんの鈴、可愛いわね」
「うん、ありがとう。音もとっても綺麗なの」
「もう片方も、渡せるといいわね」
「! 桔梗っ、もうっ」
さらっと言われてわたしは軽く怒って見せると同時に、詩音さんの表情をちらりと窺った。
特に変わりなく笑っている詩音さん。
そりゃあ、詩音さんはわたしが、その、夏城君のことをどう思ってるとか知らないだろうけど、ていうか、そもそも桔梗にも葵にもそう言うことを言ったことはないはずなんだけど、あーもう、やだな。わたし、分かりやすすぎるのかな。
「あれ。お店の人、いなくなってる」
ふと、詩音さんが呟くと、どこからともなく雨の匂いが漂ってきて、ぽつりぽつりと肌に雨粒が触れ始めた。
「帰りましょう」
桔梗の一言で、わたしたちは駅に向かって走りはじめた。
日の入りにはまだ少し早い夕方のはじめ。
この時間、いつもはまだそれほどごった返していない駅が、雨宿りのために集まってきた人で賑わっていた。
チリチリ……リンリンリンリン……カロカロカロカロ……
下校途中の学生が多いせいだろうか。雑踏の絶え間ない雑音の中から、浮かび上がるように方々から鈴の音が聞こえてくる。
「みんな、鈴持ってるんだね」
このまま帰るか甘いものでも食べて帰るか、と思案する桔梗と詩音さんの脇で、わたしは周りを見回して呟いた。
「ただで恋のお守りがもらえるなら、持っちゃうわよねぇ」
「桔梗が言うと、ちょっと違うよね?」
「でもね、樒ちゃん。ただより高いものはないっていうでしょう?」
桔梗がそう言った時だった。
それまでばらばらに思い思いの音色を奏でていた鈴の音が、少しずつ音を同調させはじめたのだ。
チリチリチリと小刻みに小さく震えるような音が続いたかと思うと、少しずつ振動は大きくなっていき、チリンチリン、リーンリーン、リィィィィィィィィと不穏な音へと変わっていったのだ。
もちろんわたしと詩音さんの鈴も同調して不気味なセッションを奏でている。
それだけじゃない。駅中のあちこちから同じ振動数の音が湧き上がり、驚いた人々は足を止めて周りを窺い、鈴を持っている子たちは慌てて鞄を探り出す。
「桔梗」
恐くなって、わたしは思わず桔梗の腕を掴む。
「だから言ったでしょ。ただより高いものはないって」
鈴はわたしの手を離れ、音を張りつめさせながら頭上へと浮遊していく。詩音さんの鈴も詩音さんの頭上へと浮かび上がっていく。
「詩音、耳を塞いで。樒ちゃんも」
桔梗に言われるがままに耳を塞ぎ、さらに桔梗がわたしの手の上から自分の手をあてて、鈴の音が二つの手のひらに遮られて鈍く遠くなっていく。それでも不穏な音が鳴りつづけているのは、目の少し上で身悶えるように震えつづける鈴を見ても一目瞭然だった。
次の瞬間、ピーンと鈴の音が張りつめたかと思うと、周りにいた人々は呻き、叫びながら頭を押さえて蹲りはじめた。
わたしと詩音さんも桔梗に促されるようにしてしゃがみこむ。
張りつめていた音は蓄えたエネルギーを一気に放出するかのように、爆音とともに弾け散った。
一瞬の静寂。
直後、蹲っていた人々は枷を外されたように、ある者は逃げ惑い、ある者は近くの人の胸倉を掴んで殴りはじめ、ある者はショーウインドウに鞄を投げつけた。
「なに、これ」
立ち上がることもできずに呟く。
「逃げましょう」
わたしの耳から手を放した桔梗は、有無を言わせずわたしの腕を引っ張って立ち上がらせる。
わたしの頭上にはまだピンク色の鈴が浮いていたが、すぐにぽとんと足元に落下した。詩音さんのうす紫色の鈴も詩音さんの足元に落ちていく。
その鈴を拾い上げようと手を伸ばすと、桔梗は強くわたしの反対側の腕を引いた。
「拾っちゃダメ!」
珍しいほどの剣幕に、わたしはびくりと体を震わせ、おそるおそる桔梗を仰ぎ見た。
「分からないの? 原因は、それよ」
そう、かもしれないけど、恋が叶うお守りの鈴だって。
そうは思っても、惜しいと思う気持ちを桔梗の前でそのまま口にすることはできなかった。
桔梗は構わずわたしと詩音さんの腕を引き、人々の混乱の合間を縫って走り出した。 と、正気を失った人々の頭上で輝く色とりどりの鈴は、吸い寄せられるように軽やかな音をたててわたしたちを追いかけはじめた。鈴に導かれるように、正気を失った鈴の持ち主たちもわたしたちを追いかけだす。
中には鞄からスマホを取り出して投げつけてくる人までいる。あるいは鞄ごと投げつけてくる人、傘を槍のように投げてくる人。
『大気に溶け込みし水の気よ
寄り集まりて 我らを守れ』
「〈結界〉」
スマホやら鞄やら傘が追いついてくる前に、桔梗が水の結界を張る。
わたしは、それにちょっとほっとしてしまったのだろう。息を吐き出した瞬間、足がもつれた。
「樒ちゃん!」
桔梗の手からも滑りぬけ、水の結界からも漏れた状態で、わたしは転んでしまった。
何とか上半身まで起こし、はっと後ろを振り返ると、暴徒と化した人々が傘や鞄や買い物袋を振り上げていた。
その一番前で傘を振り上げていたのは、ついさっきけやき通りの露天商前で会った河山君の妹さんだった。
頭上には輝く黄色い鈴。
黄色が好きだと言っていた。可愛い鈴に目元を和ませていた。その鈴に操られて、目からは正気が失われていた。
「樒ちゃん、〈結界〉を!」
桔梗が叫ぶ声が背後に聞こえる。
〈結界〉? そうだ。自分の身は自分で守らなきゃ。
混乱と恐怖の中で、思考が追いつかない。
目の前にはもう、いろんな物が放物線を描いてわたしに向かって来ていた。
しかも、河山君の妹さんや同級生らしき女の子たちは、わたしに飛びかからんと駆けだしていた。
頭が真っ白になった。
殺される? のかな?
実感もわかないまま、漠然とこの後のことを予想する。
そんなわたしの目の前に、突風と共にさっと黒い影が飛び込んできた。
黒い影は長い剣のようなものを一回転させて、飛び来る物を全て打ち払い、飛びかかってきた女子中学生たちを吹き飛ばした。
「姉ちゃん、結界! 早くっ!!」
その背中は、中等部のブレザーを着ているものの、いつの間にかわたしよりも大きくなった洋海の背中だった。