聖 封 神 儀 伝 ・0 記 憶 の 扉



幕 間


「龍兄! 龍兄はどこぉっ!?」
 大勢のお客さまの間を足元をかきわけて、聖はいっしんふらんに龍兄を探していた。
 今日は統仲王のお誕生日。
 神界のあちこちからたくさんたくさん、お祝いの人たちがこの天宮に集まってきている。もちろん、七人の兄さま、姉さまたちも全員、三日ほど前からここに泊まっている。
 兄さま、姉さまたちが全員揃うのは珍しいから、聖はとっても嬉しくて、あまり会えない育兄さまや麗兄さま、海姉さまのところでお話していたんだけれど、ふと気がついたらふきげんそうながら後ろで見ていてくれた龍兄はいなくなってしまっていた。
 ここは聖の生まれた場所だというけれど、忙しい統仲王は次男の龍兄に聖の養育権を預けてしまったから、天宮に来ることなんてめったにない。それにこの人の多さで、あっという間に聖は迷子になってしまった。
 龍兄も、それ以外の兄さま、姉さまたちの姿も見えない。
 見えるのは色とりどりのドレスの裾ばかり。
 やがて、聖は人の波に押しやられるようにして回廊から中庭に押し出されていた。
 白い噴水から絶え間なく水が噴出す池、その向こうにはちょっと暗くて恐そうな森が広がっている。
 だけど、中庭はいくつもあるはずだから、この風景だけじゃ今聖がどこにいるのかなんて、かいもく見当もつかなかった。
 へたり、と聖は池のふちに座りこんだ。
 あんなにたくさんの人の中にいると、息が苦しくなってしまう。
 新鮮な空気が吸えるという点で、ここは誰もいなくて寂しいけれど一息つくにはもってこいの場所だった。
 天龍の国よりも南の天宮は、お日様の光もぬくぬくとあたたかい。
 四月の終わりにお外で両足を投げ出して芝生に座れるなんて、向こうにいたらぜったいできないことだ。
 お空だってずっとずっと青く透きとおっていてとってもきれい。
 天龍城のあるロガトノープルの空はこの季節はまだ冬のように灰色い。だけど、時たま顔をのぞかせるうっすらとした蒼が龍兄の瞳の色みたいで聖は大好きだった。
 一週間もここにいると、そろそろおうちが恋しくなってくる。
 空をもっと見たくて、聖は背中も芝生に預けてみた。
 ゆっくり往来していく白い雲。北へと列なして飛んでいく鳥の群れ。
 あの鳥さんの背に乗せてもらえたら、今すぐおうちに帰れるのにな。
 ううん。でも一人で帰ったってつまんない。
 やっぱり龍兄と一緒じゃなきゃ。
 勢いをつけて起き上がったときだった。
 薄暗くてとってもじゃないけど近づきたくない向こうの森に入っていく白い人影が見えた。
 森に入る間際、風に吹かれた短い髪が白銀の光を落とす。
「龍兄!」
 見間違えるわけがない。
 翻っていたマントの色は銀色。髪の色もロガトノープルの雲の色。何より、あの真っ直ぐ伸びた大きな背中は龍兄のものだった。
 聖はあわてて起き上がって、転びそうになりながら龍兄の背中を追いかけた。
 薄暗い森だって踏み込むのは全然恐くなかった。
 木の根も、茂みも、いつも龍兄と天龍城の裏庭の森でしてる探険ごっこでなれている。
 だけど、龍兄は聖なんかにちっとも気がつかないで、足早にどんどん薄暗い奥へ奥へと足早に歩を進めていく。そして一歩進むたびに、大きくて広い龍兄の背中は聖の知らない人の背中になっていった。
 早く声をかけていればよかったのかもしれない。
 龍兄、と一言呼べば、きっと笑顔で聖、と呼んで両腕を広げて抱っこしてくれたことだろう。
 でも、あの人の背中は、もうどう見ても聖の知っている大好きな龍兄の背中じゃなくなっていた。
 何があってもぐらつかず、揺らぐことなく全てのものから聖を守ってくれる背中。それが聖の大好きな龍兄の背中。ううん、聖はその背中しか見たことがなかったし、それが龍兄の全てだと思ってた。
 あんな悲しそうな背中、聖は見たことがなかった。
 これ以上追いかけ続けたら、きっと心臓がぎゅっと縮んで泣いてしまう。
 そう思ったときだった。
 薄暗い森に一筋差し込む光の泉が見えた。
 龍兄は真っ直ぐその中へ進んでいき、やりきれなさを背中いっぱいに背負いながら何かを見おろし静かに佇む。
 聖はどきどきしながら音をたてないようにそっと茂みの中に隠れた。
 見てはいけないものを見ている気がした。
 龍兄は厳かに膝を折る。その前には緑の池にはとうてい不釣合いの磨かれた灰色い長方形の石。
 その石の前に龍兄はどこで摘み集めたのか、ピンクや黄色の春の野の花を集めた小さな花束を置いた。
 お墓だった。
 きっと、聖ははじめて見る。
 死んだ人が眠る場所。そこに行けば、直接お話はできなくてもその人との想い出をしのぶことができるのだそうだ。
綺瑪あやめ……」
 アヤメ。
 聞いたことのない言葉だったけれど、聖はすぐにぴんと来た。そのお墓で眠っている人の名前だ、と。
「綺瑪」
 愛しげに悲しげに何度もその名を呼ぶ龍兄の声は、とっても柔らかくて聞いたことがないほど甘やかだった。
 そして、そのたびに聖の胸にはその声が短剣の刃となって突き刺さっていた。
 アヤメって、誰?
 ねぇ、聖にそんな冷たい背中を向けてばかりいないで、いい加減気づいて?
「りゅ……」
 耐えられなくて、聖が茂みから飛び出そうとしたときだった。
 冷たい手が聖の口元を押さえ、腕を引いた。
「ん~っっ」
「しっ。聖、私よ」
 その人は、くるりと聖を回転させて自分のほうに向けると、柔らかい胸の中に聖を抱きしめた。
「海姉さま?」
「ええ、そうよ。探したのよ。急に半泣きになっていなくなるんですもの」
 海姉さまはそう言いながらも聖の顔を見ることもなく、より強く聖のことを抱きしめた。
 囁く声はか細く、震えている。
「心配……かけてごめんなさい」
 なんだか恐くなって、聖はとりあえずその言葉を押し出した。
「ううん、あなたが無事でよかった」
 その言葉に嘘はなかっただろう。
 だけど、心のもう半分はどこか別のところに飛んでいってしまっているような声だった。
「さ、聖、戻りましょう?」
 まだ聖のことを抱きしめているのに、海姉さまは早くこんなところから立ち去りたいのだと言わんばかりに聖をせかした。
 でも、聖は龍兄を置いていく気にはなれなかった。
「姉さま、アヤメって、誰?」
 聞きたいことがたくさんあったから。
 こわばっていた海姉さまの腕は力を抜くでもなく一瞬平衡状態になり、やがて、ずるずると聖の腕伝いに落ちていってかろうじて聖の指先を握った。
「綺瑪はね、私の〈影〉だった人よ」
 聖から顔を背けるように俯いたまま、海姉さまは震える声を押し出した。
「死んだの?」
「ええ、そうよ」
「龍兄は……その人のこと、大好きだったの?」
 海姉さまの肩がびくりと震えた。
 握る指先に少しずつ力が入っていく。
「ええ。とても大好きだったと思うわ」
 聖よりも?
 とは聞けなかった。
 だって、聖なんかよりも大好きなのだと正直にあの背中が言っている。
 かわりに聖は違うことを聞いていた。
「じゃあ、その人も龍兄のこと、大好きだった?」
 聖は龍兄がとっても大好き。
 それなら、世界中の誰にも絶対に負けない。
 なのに、ゆらりと顔を上げた海姉さまの青い青い瞳はこれ以上ないほど打ちひしがれて濡れていた。
 冷たいものが聖の背中を包みこんでいった。
「ええ、大好きだったわ」
 恐かった。
 目の前の女の人は、海姉さまじゃないみたいだった。
 そう、そこにいるのはまるであのお墓の中に入っているはずのアヤメさん本人のようだった。
 聖は何も知らずにとんでもないことを聞いてしまったような気がして、一歩、後ずさった。
 ううん。違う。
 負けたと……思ったのだ。
 よく分からないけれど、聖が龍兄を思う大好きよりももっと深くて悲しい大好きがあるんだって。その大好きの方が、聖の大好きよりも何倍も何倍も大好きなんだ、って。
「あ、聖!」
 気がつくと、聖は海姉さまの手を振り払って茂みを越え、龍兄の背中に向かって走り出していた。
 びっくりした顔で龍兄が振り返る。
 だけど、聖はずっと向けられ続けていたその背中に全身で抱きついた。
 いつもおんぶしてくれる時と同じように、龍兄の背中はあったかい。
 でも、今この人の背中は聖のものじゃなくなっていた。
 今の聖には鉄壁のようにとても冷たい背中だった。
「聖?」
 頭に龍兄の大きな手が伸ばされる。でも、その手は途中で止まってしまった。龍兄の視線は、聖から茂みに取り残された海姉さまの方にいつのまにか向けられていた。
「姉上」
 さっきまでアヤメの名を呼んでいたのと同じ声とは思えないほど、その声は低く暗いものにまみれていた。
 海姉さまは、アヤメさんのことを語っていたときとは別人のような冷たい視線で龍兄を一瞥すると、聖には目もくれず踵を返して森の闇の中に消えていってしまった。
 聖は、一瞬龍兄の背中から離れたくなっていた。
 かたくて冷たくて、聖に閉ざされたままの龍兄の背中。
 でも、それでも聖はこの人の背中を抱きしめる両腕を解いてはいけないような気がした。
「龍兄、海姉さまね、聖のこと探しに来てくれたんだよ。聖はね、龍兄のこと探しに来たの」
 だって気がついたら龍兄いなくなってるんだもん。ごきげんななめだったし、聖、何か悪いことしちゃったのかなって、とっても不安だったんだよ。
 見つけたらそう言おうと思ってた。
 けれど、もうそんな小さなことなんかどうでもよくなっていた。
 聖はぎゅっと龍兄の背中を抱きしめる腕に力をこめた。
 聖に冷たい背中。
 どうして冷たいなんて思ったのだろう。
 聖のことを見てくれてないから?
 だけどそれだけじゃ、ないんだよ。きっと。
 「綺瑪」って呼ぶ龍兄の背中、とっても寂しそうだったから。聖がいるのに、龍兄はこの世にたった一人置き去られてしまったような背中をしていたから。
 ちょっと違うかもしれないけど、聖も遊び友達が「お母さん」の話をしたり、街で「お母さん」と手をつないで歩いているのを見ると、同じような気持ちになるよ。
「あのね、龍兄。聖ね、ずっと龍兄の側にいるよ。聖は統仲王の娘だから死んだりしないし、絶対世界中の誰よりも龍兄のこと大好きだよ」
 心の中で、見たことのない女の人の顔が海姉さまの顔を借りてちらついていた。
 今までは龍兄が他の人こと考えてても気にも留めなかったのに、今はそれがとても痛くてつらい。
 でも、決めたのだ。
 聖はずっとこの人の側にいよう、って。
 これ以上この人がこんな寂しげな背中をしなくてもすむように一緒にいよう、って。
 「側にいさせて」でも「側にいて」でもなくて、とにかく聖は龍兄の側にいようって決めたのだ。
 だって、少なくとも聖といる時の龍兄はこんな背中はしないもの。
 あったかく笑って嬉しそうにしてくれるもの。
 ――必死、だった。
 ささいないつもの思い出から、必死に拒絶されない証拠を探して自分を勇気づけて。
 聖はこの人を失ってしまったら、きっと一人ぼっちになってしまう。
 パドゥヌとか、他の兄さまや姉さまたちもいるけれど、聖は龍兄じゃなきゃ嫌なのだ。たとえ世界中の誰に嫌われても、龍兄にだけは嫌われたくない。龍兄に嫌われたら、聖はきっと死んでしまう。
 だけどね。  たとえ拒まれても、伝えなきゃならないって思ったの。
 あなたのことを大切に思っている人がここにいるよ、って。
 だから、そんな捨てられた子供みたいな背中をしないで、って。
 いつものように広くて大きな背中で背筋を伸ばしてしゃんと顔を上げた龍兄に戻って、って。
「聖」
 どれくらい聖はその背中にしがみついていたのだろう。
 凍りついた時の中に閉じこめられてしまったかのようにそれは永遠に続きそうなほど長くて、だけど一瞬のように短い間だったんだと思う。
 龍兄の声は氷を溶かすように柔らかくて温かだった。
 アヤメさんを呼ぶ声とはぜんぜん違うけれど、聖を呼ぶいつもの声。
 聖はかすかにその声に物足りなさを感じた。
 けれど、わしゃわしゃと頭を撫でる龍兄の手の温もりに、そんな小さないらだちもすぐにかくはんされていった。
「ありがとう、聖」
 龍兄の背中の氷が解けていく。
 妹の聖をおんぶするための背中になっていく。
 龍兄の腕が伸びて、聖を抱きしめる。だけど、その両腕は聖に開かれた背中とは違って、まだ別な誰かを抱きしめるためにあるかのようだった。
 ――今は、それでもいいやと思った。
 痛くて切なくて、それでも大好きな気持ちがあるんだって教えてくれたから。
「私も、ずっと聖の側にいるよ」
 だからもう、その言葉だけでいいと思った。










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