聖 封 神 儀 伝 ・0 記 憶 の 扉



終 章


 夢を見た。
 どんな夢だったかは、もう思い出せない。
 ただ、胸にはせつなさと悔しさと、感じたことのないほど甘い想いが疼いていた。
 そして、授業中にもかかわらずぐっすり寝てしまったせいだろうか。
 体も心も軽くて、珍しくやる気のようなものがみなぎっていた。
「樒! みーつーきーっ!?」
 ひらひらと目の前を白い掌が左右に揺れた。
 女の子のものにしてはちょっと大きめだけれど、細くて長いしなやかな指を持つ綺麗な手。
 わたしはにっこりと笑って彼女を見上げた。
「葵、どうしたの?」
「え……?」
 葵はきょとんとわたしを見返した。
「あれ、わたしなんかおかしいこと言った?」
 はたと我に返った葵は不信感を振り払うように左右に首を振る。それから、嬉しげに笑って言った。
「いや、ようやくあたしが言わなくても葵って呼んでくれたなぁって思って」
「ん? ああ、そっか。寝ぼけちゃったのかな。やっぱり科野さんの方がよかった?」
 葵はさらに熱心に首を振る。
「葵がいい! 口調も今の方がいい! いいか、絶対敬語なんかに戻んなよ?」
「あはは、戻んないよ」
 そういえばわたし、今朝までずっと葵とは敬語で話していたっけ。
 でも、どう考えても今の方が自然だ。
「樒! 嬉しいよ。ようやくあたしの愛が通じたんだな?」
 感極まったのか、葵は人目もはばからずわたしを抱きしめた。
「葵ちゃん、その辺にしておきなさい。樒ちゃんが変な目で見られるでしょう?」
 購買からパンと牛乳を買って戻ってきた桔梗は、にっこり微笑んでわたしから葵を引きはがした。
「なんだよ、あたしなら変な目で見られたってかまわないって?」
「あら、有名よ? 一年女子の一部が葵ちゃんのファンクラブを作ったって。うちの男子バスケ部だって決して弱くはないし。いえ、むしろ強くてかっこいい人もいるって聞くのに……」
「誰がかっこいいって?」
 手に小さなバスケットを抱えて、詩音さんがぬっとわたしたちの間に割りこんだ。
「かっこいくないわよ、あんな奴。眼鏡だし、七三だし、馬鹿だし、甘いもの好きだし」
「工藤君にはもうチョコムース渡してきたの?」
「渡したんじゃない! とられたのよ!」
 桔梗にからかわれて拳を握って叫んだ後、詩音さんは我に返って赤くなった。
「そうそう、みんなの分のチョコムースはちゃんと死守してきたわよ。いいお天気だし、屋上の温室で涼みながらお昼にしない?」
 バスケットにかけられたハンカチを取ると、中にはパティシエも唸りそうな、それはもうおいしそうなチョコムースが四つ残っていた。
「おいしそ~」
「あ、それならあたしも唐揚げとかコロッケとか作ってきたぞ」
 自慢げに差し出された葵の手提げの中からは、講堂中に広がったお弁当の匂いよりも香ばしい揚げ物の香りが漂ってきた。
 胃のあたりがうずうずする。
「わぁ、早くお昼にしよう!」
 お弁当を手に、わたしは率先して歩き出す。
 講堂を出て、すぐに屋上への階段を上って――
 四階と屋上の間の踊り場を前に、わたしはふと上から下りてくる人影に足を止めた。
 影の主を見上げる。
 階段の窓からの光でちゃんと顔は見えなかったけれど、その人も足を止め、わたしを見下ろしていた。
 口を開く。
 何を言おうとしたのか自分でもわからなかったけれど、何か言わなければならないことがあるような気がした。
 ああ、そうだ。
 傘、返さなきゃ。
 去年の夏、塾の前で雨宿りしていたら押しつけるようにして渡された女物の傘。
「あの……」
 一歩階段を上る。
 その人も一歩階段を下る。
 ――夏城君。
 心の中で、わたしは大切な人の名を呼ぶようにその名を呟いていた。
 傘のことだけじゃない。
 何かもっと大切なことをわたしは……。
 もう一段、上る。
 踊り場の上、その人ももう一段降りて、ふせた顔にうっすらと優しげな微笑を浮かべた。
 その影にどきりとわたしの心臓は跳ね、継ぐ言葉を失う。
「傘なら気にするな」
 低い声がそっと囁いて通り過ぎていった。
「……どうして……? どうして分かったの?」
 わたしの言いたいことを、どうして分かってくれたの?
 ううん。あんな刹那で名前も聞かなかったのに、どうして傘を渡した相手がわたしだとわかったの?
「樒? 何がどうしたんだ?」
 振り返ったわたしの前、葵がにやにやと顔を覗きこんでいた。
「え? あ、ううん。なんでもないの」
「ふ~ん」
 にやにやしたまま葵は詩音さんとともに階段を上っていった。
 階段の下、夏城君の背中はもうない。
「樒ちゃん、夏城君、なんだって?」
 事情を知っている桔梗がそっと耳元に囁いた。
「傘、気にしなくていいって」
「そう」
 にっこりと桔梗は微笑んだ。
「よかったわね」
「よかった……のかな……」
 本当はもっと、お話してみたかったんだけどな。
「だって、傘渡したのが樒ちゃんだって分かってたんでしょう? 覚えてもらえてたってことじゃない。ここからよ、ここから」
「そっか。そうだよね。って、桔梗! ここからだなんて……!」
「あらあら、いいじゃない。いいお天気ですもの。お昼食べながらゆっくり次の策でも練りましょう」
 桔梗って、実は面白がっていただけなんじゃないだろうか。
 階段を上りはじめるときとは一転。ぼんやりしていたわたしは桔梗に引きずられ、屋上の扉の前に立たされていた。
「どうしたの? 開けないの?」
 なぜか扉の前で固まってしまったわたしに桔梗は言う。
「桔梗開けて?」
「無理よ。私、さっき開けちゃった牛乳、斜めにするわけにはいかないもの」
 わたしの腕を掴んでいる腕を放せばいいだけのような気もするんだけれど。
 こういうとき、桔梗に逆らってもいいことはない。
 仕方なく、わたしは銀色のドアノブに手をかけた。
 ドアノブは冷たいような生ぬるいような微妙な温度を指先に伝えてくる。
 この外は、きっと東京の灼熱の太陽に照らし出されてうだるような暑さになっているのだろう。開けたらすぐにクーラーのきいている温室まで走らなくちゃ。
 どこか嫌な記憶を呼び起こすようなその行為に、わたしは息を吸いこんで覚悟を決め、ゆっくりとドアノブを回して重い鋼鉄の扉を押し開けた。
 熱風が吹きこむ。
 雲一つない青空が広がる。
 広がるコンクリートの屋上。その最奥には白くペンキで塗られたフェンスが連なる。
 どくん。
 心臓が重く呻くように高鳴った。
「あ……真、由……」
 それはここじゃない小学校の屋上。
 夜空には寒風吹きすさぶ十一月の空にふさわしい、冴え冴えとした満月と綺麗なお星様。
 記憶が、流れこんでくる。
 思い出せなかった小学校の時のわたしの記憶。
 真由は笑っていた。
 小さなわたしの腕の中で、真由はわたしに会えてよかったと言ってくれた。
 わたしも、ちゃんと真由に会えてよかったと伝えていた。
 死なせてしまったけれど、わたしたちは伝えたい言葉はちゃんと伝え合っていた。
 どうしてこんな大切なこと、五年間も忘れていたのだろう。
 熱風が頬を撫で上げ、視界にはまぶしい太陽と目に痛いほど青い空が戻ってくる。
「樒ー! 早く来ないと詩音のチョコムース食っちゃうぞー!」
 冷気が逃げないように温室の扉をわずかに開けて葵が叫んだ。
「行きましょ、樒ちゃん」
 わたしの横をすり抜けて、暑さに負けず桔梗が颯爽と屋上を歩き出す。
『今のお友達も、素敵だね』
 声が聞こえた気がした。
 幼いながら、しっかりとした真由の声。
「あたりまえじゃん。わたしの好きになる人はみんな素敵な人たちばかりだよ」
 幻と分かっていながら、わたしはその声に笑って答えた。
「うわ、樒が一人で笑ってる! 大丈夫かよ、おいっ」
 再び顔を出した葵は真剣に青ざめて温室を飛び出し、つづいて詩音さんまでもが心配げに駆け寄ってわたしの腕を引っ張りはじめた。
『違いないや』
 暑気を孕んだ風とは違う爽やかな風が、わたしの頬を撫でて吹き去っていった。




〈了〉






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