聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 6 章 帰 着
6
その魔法を一人で使ってはだめなの。
精霊獣を欠いたまま唱えれば、法王の身体でさえ時の重みに耐えきれず、あっけないほど簡単に蝕まれた。未来を奪われた。
一度は同じ身体の内にいたあなたなら、禁忌を破った聖がどうなったか、どうしてこんなことをする羽目になったのか、知っていたはずでしょう?
何故、そんな無茶をしようとしたの。
「レリューターーーっ」
叫ぶわたしの目の前で、レリュータは全身から黒い闇を吐き出して時の負荷に耐えていた。
〈悔恨〉の力と、世界を支える時の精霊の力がぶつかり合う。
両者は黒と白のうねりとなって絡み合い、周囲にあるもの全てをのみこんでいく。
『集え、時の精霊たちよ
時空を隔て、我らを守りたまえ』
「〈結界〉」
とっさに叫んだものの、わたしは魔法石を持っていなかった。
レリュータの手の中で、それは一段と輝きを放つ。
『清らなる風よ 吹き荒べ
その身を以って 邪なる者から我らを守れ』
「〈結界〉」
河山君の呪いに応えて、風がさわさわと前髪を揺らしたかと思うと、ごうと突風が吹いてわたし達の周りから瘴気を弾き飛ばした。黒と白のねじれあう風の渦は、わたし達のいる場所を包み込みながらも、風の結界に隔てられた場所を除いて周囲の空間を侵食していく。
その嵐が通過していったかと思った瞬間、シャボン玉の割れるような音が響いて、辺りには何もなくなった。
「な……、どうなちゃったの?」
きょろきょろと辺りを見回した葵が茫然と呟く。
「何にもない……みたいだね」
「学校の校庭に一緒に出た時も、あたり一面こんな感じになっていたわね」
光くんの言葉に桔梗が頷く。
「空間が丸ごと消えたってことか?」
河山君の張った〈結界〉から出ようと手を伸ばして反射的に手を引っ込めた三井君が首を傾げた。
「いくらなんでも、何もない空間じゃ風の精霊も仕事できないだろ」
風の〈結界〉を維持しながら、吹き出る冷や汗を河山君が拭う。
相当な負荷がかかっているのは、青ざめた顔色を見れば分かる。
外は無ではないだろうが、限りなくそれに近い、空間という仕切りだけがかろうじて存在している状態、というところだろうか。
そんな外に在って、レリュータは俯いていた顔をゆっくりと上げた。
口元からは血が流れ出している。
「はっ……はははははははは、あっはははははははは」
手の甲で口元を拭って、レリュータは壊れたように笑い出した。
「〈悔恨〉よ。お前の力はたったこれっぽっちなの? 時の精霊も従えられないで、この私の命を糧に生きようと?」
天を見上げ、朗々とレリュータは自らの内にあるものを挑発した。
「まして、聖刻法王の魂を糧にしようなど、片腹痛い!」
レリュータは握っていたわたしの魔法石を思い切り足元に投げつけた。
その魔法石を覆うように、音もなく黒い影が現れる。
「とんだ無茶を強いてくれたな」
黒い影は長身の男性へと形を整え、叩きつけられた魔法石を拾い上げた。
「樒、魔法石は無事のようだ」
振り返った飛嵐はわたしに向けて魔法石を差し出す。
わたしは河山君の方を見た。
「河山君、結界解いても大丈夫」
河山君は一つ頷いて風の精霊たちを解放した。
冷たいとも熱いとも、生ぬるいともつかない空気が、やんわりわたしたちの頬を撫でた。とりあえず、呼吸は普通に出来る。気圧もこれといって異常はない。
「河山、ちょっと、大丈夫? 顔青いよ」
「ああ、ちょっと疲れただけだから」
葵にうっすら笑って応えたものの、河山君は貧血を起こしたようにぐらりと後ろへと倒れた。
「おわっ」
慌てて夏城君と三井君が支えに入り、織笠君が〈快復〉を唱える。
大丈夫そうなのを見てとって、わたしは真っ直ぐ飛嵐の元へ歩み寄った。
差し出した両の掌に飛嵐は拾い上げた魔法石を落とす。
魔法石にはひび一つ入っておらず、瘴気が入り込んだ形跡もなかった。
「飛嵐、緋桜は?」
「緋桜なら――」
飛嵐は再びレリュータの方を向いた。
レリュータとわたしたちの間、いつの間にかもう一つ背中が増えていた。
「お母さん」
幾分掠れた声で緋桜はレリュータに呼びかけた。
レリュータは口元に深く苦いものを宿らせたまま、口の端をあげた。
「この空間を守ったのはあなたね、緋桜。聖刻法王の唱えた〈結界〉の適用範囲を勝手にこの時空に広げて、空間の崩壊だけは免れさせた。これだけ何もなければ崩壊したも同然だろうけど」
「同じなんかじゃない。中身はどうあれこの空間の存在が保たれれば、時空軸も崩れずに済むから」
二人は数瞬見つめあった。
「緋桜、」
呼びかけられて、緋桜は小さく答える。
「ファリアスを、覚えている?」
問うたレリュータの、ううん、ユーラの表情は不安に満ちていた。
少しの間をおいて、緋桜はこっくりと頷く。
「お父さんを忘れるわけないでしょう」
多少の緊張感を孕みながらも明るい声で答えた緋桜に、ユーラは少女のような微笑を花開かせた。
それをちゃんと見納めたのか、緋桜はくるりとわたしを振り返って呆れ顔になった。
「樒、あんたハリウッドかなんかの映画に出てくる特殊メイク施した怪獣みたいなことになってるわよ」
「こ、これは……」
「痛くないの?」
「痛いけど……」
歩み寄ってきた緋桜が紫色に変色したわたしの左腕に触れる。
「時よ、戻りなさい」
緋桜の二本の指が左腕から双祈が突き刺さった脇腹を経由して、右脇腹まで斜めに横切っていく。なぞられた指のあとを追うように、黒い瘴気が血のように噴きだす。その途端、がくんと身体を支えていた力も奪われてしまったように、わたしの身体は前のめりに傾いた。
「あんたは闇の精霊にはやらない。そんなものに頼らず、自分の意志で立ちなさい」
抱きとめた緋桜が耳元で囁く。
「え?」
「〈悔恨〉に入り込まれてたのよ。ったく、しっかりしなさい」
貧血のような目眩は一瞬。軽くなった身体で見上げた緋桜は、母親のように心強い笑みを浮かべてわたしの肩をぐいっと広げた。
「ほら、しゃきっとしなさい、しゃきっと。そんな肩で繊月が使えると思ってんの? あんた、元の世界戻っても少しは身体鍛えなさいよ」
緋桜の青い瞳からは未来への心配など微塵も見えなかった。緋桜は、そう、澍煒の時から自分の感情を悟らせないのが得意だった。何かあるときほど周りを明るくするような笑顔で振舞う。
「緋桜、ごめん。ごめん、緋桜」
「なに謝ってんのよ。意味わかんない」
謝られてもどうしようもない。そんなことは分かっていても、わたしはごめんと呟くしかない。
「聖刻法王」
全てを吹っ切ったかのようなレリュータの声が、どこまで続くとも知れない空間に朗々とこだました。
「時は巻き戻らないものね。どんなに悔いても時は巻き戻らない。時に執着した獄炎でさえ、理を覆すことは出来なかった。でも、私は満足よ。だって、自分に出来ることは全てやったんだもの。もう、私に出来ることは何もない。生きて叶えられる望みは何もない」
空気が低く唸って、レリュータの身体は両手の双祈から燻り出た黒い炎にあっという間に包まれた。
「レリュータ!!」
黒炎の柱は天高く衝き上げる。器の中に凝縮されていた炎が制御を失ってしまったのか、その勢いは留まるところを知らず、熱風がこっちにも炎の触手を伸ばす。
みんなの周りには飛嵐が結界を張る。
わたしの前には楯になるように緋桜が立ち、魔法石を握ったわたしの手を両手で包み込んだ。
「繊月を」
穏やかな表情で緋桜は言った。
わたしは戸惑ったまま緋桜を見つめた。
「忘れないでって。闇獄主の魂は一度消滅すると二度と蘇ることはない。転生することもない。闇獄主がいるはずだった未来は失われ、歴史はどこかしら変化する。でも、最期に関わった者と強く思いを寄せあっていた者は忘れない。その人たちの見た歴史は変わらない。人の数だけこの世界には未来があるのよ。それらが全て絡まりあって時空軸は成長していく。心配しないで。あたしは何があっても、父のことも母のことも忘れない」
緋桜の手に力がこもる。
「時を戻すってのは、繋ぎなおすだけ。公式的にその時間は消えてしまっても、起こったことはなかったことには出来ない。時間が上書きされるだけ。――樒、繊月を」
わたしは文字通り泣きながら魔法石を繊月に変化させた。
「あの闇は貴女が生み出した闇。浄化できるのも、貴女だけ」
緋桜が傍らに退き、わたしはレリュータに向けて弓を引き絞った。
『聖なる時の精霊たちよ
邪なるものをうちはじくものたちよ
我が声聞こえるならば この手に宿りし繊月に集い
番えし白き矢に 過去の鎖 解き放つ力を与えよ』
レリュータは獄炎に焼かれながらぼんやりと天を見上げていたが、わたしが弓を引いたのを見てとると、この距離でも分かるほどしっかりとわたしを見据えた。
「聖刻法王、私をこの永遠の修羅から解放して」
その声ははっきりと耳元で聞こえた。懇願するのでもなく、哀願するのでもなく、小さな鈴を振るかのような淡く澄んだ祈りだった。
「浄めの矢」
右手の指を開いた瞬間、白矢は向かい来る獄炎に負けることなく真っ直ぐに貫き進み、レリュータの左胸に突き刺さった。
開いたままだった右手に、触れてもいないのに衝撃が走る。
白矢をファリアスだったレリュータの胸に突き刺した時よりも、尚重く、生々しく。
白い光はレリュータを噴き上げる炎ごと包み込み、凝縮し、弾ける音と共に消滅した。
そこにはもう、何も残ってはいなかった。
ユーラの魂の気配も、着ていた衣服の切れ端さえも残らなかった。
膝から力が抜け落ちる。
右手にはまだ重さが残っていた。一生、何度でもわたしはこの重さを思い出すことが出来るだろう。たとえ全て忘れてしまったとしても。
「樒」
飛嵐の結界を飛び出してきた葵が思いきりわたしの肩を抱きしめた。
続いて桔梗が右手をとり、噛み締めるように囁いた。
「ありがとう、樒ちゃん」★
冷たくなっていた右手が少しずつ温もりを取り戻しはじめる。
半ば緊張感にがんじがらめにされてパニックになっていた頭にも、少しずつ思考が戻ってくる。
「わたし……」
「終わったんだよ」
夏城君が軽く頭を撫でた。
見上げたわたしに、夏城君は少し思うところがあるのか複雑そうな笑みを見せた。
「聖も、これでようやく成仏できただろ」
孤独の九百年。レリュータとしての三年足らず。そして、わたしの中で眠り目覚めた十五年。
――聖。
呼びかけても返事はなかった。気配も。
生きてる時も、死んでからも、彼女の想いはなかなか報われなくて、いつも一人のような気がしてた。生きていた時間に固執することでしか孤独を紛らわすことが出来なくて、募った想いは行き場を失って未来に預けるしかなくなった。聖の孤独が生み出したレリュータ。孤独は連鎖し、過去に執着する気持ちもまた、連鎖してしまった。
何のための時だったのだろう。
何のために生まれてきたのだろう。
何一つ叶えられない神生だったと言えば、非難されるだろうか。
多くの望みを手に入れたかったんじゃない。私は、たった一つの願いが叶えられさえすればそれでよかった。
夏城君が手を差し出す。
この手がほしかった。
ずっとずっと、こうやって正面から差しのべられる貴方の手が、私はほしかったの。
その代償のなんと大きかったことか。
「夏城、成仏ってなんかおかしくないか?」
「仏教ってわけでもなかったよな、あたしら」
「そうそう。そもそも崇められる立場でしたしね」
「い、いいんだよ。ものの例えってやつだよ。たーとーえっ」
顔色のよくなった河山君とちょっと潤んだ目をした葵、それに相変わらずちょっと偉そうな工藤君にまでつっこまれて、しどろもどろになりながらも夏城君は開き直る。
「それに、まだ終わってねぇだろ」
三井君が緋桜と飛嵐の方を指して言った。
「もう一仕事、残ってるもんね」
織笠君が頷く。
「緋桜さん、飛嵐さん、守景さんもう相当疲れていると思うんです。もちろん、あなた方も。僕らの魔力使ってもらえませんか? ほら、時空の中身っていろんな精霊たちが集まって出来てるし、時間戻すなら時の精霊だけじゃなくみんなの魔力があった方が楽なんじゃないかって」
織笠君の提案に、緋桜は飛嵐を見上げた。
「異論は、ないよね? 飛嵐」
「有難く」
二人で頷きあうと、飛嵐は再びこの空間に淡い薄紅色の翼を広げた。
「時を戻す、か。この時間、忘れたくないような気も、ちょっとするんだよね」
呟いた光くんは、いち早く飛嵐の背に飛び乗っていった。
少しだけ、わたしの心は揺さぶられた。
「ちょっとだけだけどな。全部忘れりゃ前世のことも丸ごと忘れちまうんだろうし。ちょっと寂しいよな」
「前世の記憶なんてあったってどうしようもないって。こんな魔法も、普通に使えたら俺、人生踏み外しそうだもん」
「でも、僕はみんなと会えて嬉しかったよ」
「育兄貴は相変わらずマイペースだね」
「その言葉遣い、直しなさいって言わなかったっけ? 炎」
「あー、やかまし。あたしはさっさと忘れたいよ。これ以上説教されるくらいならね」
惜しむ三井君の言葉に激しくわたしの心は掻き乱されて、河山君の冷静な意見も、織笠君の育兄様を彷彿とさせる発言も、葵との遣り取りも、どんどん遠くのものに思えていった。
「消えませんよ。記憶は魂に刻まれ紡がれるもの。時は存在しなくなっても、魂に刻まれた溝は埋まらない」
「何かっこつけてんのよ。行くわよ、維斗」
工藤君が詩音さんに腕を引っ張られていく。
記憶は魂に刻まれ紡がれるもの?
本当に?
「行きましょう、樒ちゃん」
桔梗が手を引く。
わたしの足は動かなかった。
頑なに大地に張りついていた。
「樒ちゃん?」
「忘れたくないよ。ほんとは全部なしになんかしたくない! 全部忘れたら、わたし、また葵と桔梗に薄い壁一枚作って接しちゃいそうだし、真由のことで一歩踏み出せない自分に戻っちゃう! それに……夏城君に傘返さなきゃってまごまごしてた頃に逆戻りしちゃう……」
わたしは押さえ切れなくなった気持ちのまま首を振り、俯いた。
「嫌だよぉ……」
その頬に、大きな手が静かに伸ばされてきて、優しく包み込んだ。
「わたし、欲張りになっちゃったの。仕方がないって思うのに、ちゃんと元に戻そうって思うのに、失いたくないものが増えて、それ全部守りたくて仕方ない」
この一日には、愛おしくて仕方ない時間がたくさん詰め込まれてる。忘れてはいけない真実がたくさん散りばめられてる。なにより、わたしは昨日のわたしに戻りたくない。
「守ればいいだろ。捨てられないときに無理に捨てると後悔する」
夏城君は両手で頬を包んだままそっとわたしの顔を上げさせた。
「そうかもしれないけど、でも時は待ってはくれないんだよ?」
「工藤曰く、記憶ってのは魂に刻まれるんだろ? それなら、俺たちのこの一日も通常の時の流れの中に埋もれることはあっても、今の魂のまま昨日に戻されるなら、記憶がなくなることはないんじゃないか?」
夏城君はじっとわたしを見つめていた。
聖がごねて龍兄を困らせたときにも、こうやってじっと聖の目を見てたね。あの時はもっと困った顔をしてたけど、今は確信に満ちてる。
「……そっか……うん、そうかも。そうだよね、きっと」
わたしは、言い聞かせるように何度も夏城君の言葉を繰り返した。時を巻き戻しても忘れないように、魂にその言葉を刻み込んだ。
夏城君の大きな手がそっと髪を撫でる。
「安心しろ。守景が忘れてても、俺は忘れないから」
抱きしめられて重ねられた唇に目を閉じて応える。
握られた手から安心がぬくもりになって伝わってくる。
「わたしも忘れないよ」
夢見心地に囁き返すと、珍しく夏城君は意地悪そうに笑った。
「いや、お前は絶対忘れる」
「なんで?! 忘れないって!」
「だって、中学のとき俺の試合見てても、傘渡されても気づかなかったんだろ?」
「うっ……でもそれはわたしが聖の記憶ほとんど残ってなかったからで……」
「だから、それでいいんだよ」
ぽん、と夏城君はまたわたしの頭を撫でた。
それはもう、実に龍兄を彷彿とさせる仕草で。
「もうっ、子供扱いしないでって言ってるでしょう? 同い年なんだから!」
腕を掴んで必死に抗議すると、夏城君はちょっと困ったように笑った。
「やっぱり忘れとけ。な?」
それからもう一度キスをすると、夏城君はわたしを離した。
どうして、とは聞き返さなかった。
聖のことは受け入れたけれど、わたしは夏城君が龍兄だから好きになったわけじゃない。そんな簡単なことすら、記憶があれば過去に重なるたびに分からなくなっていってしまうかもしれない。
膨大な彼らの記憶を飲み下して自分のものとしてしまうには、わたし達はまだあまりに幼すぎた。
「おいおい、夏城ぃ、見せつけてくれんなよ!」
夏城君が離れたのを見計らったように三井君が野次を飛ばす。
やだ、みんないたんじゃん。どうしよう。思いっきり今の……やっぱり、見てたよ、ね?
ちらりと桔梗を見ると、桔梗はあさっての方向を向いて知らぬ振りを決めこんでいる。
「いいだろ。三井、どうせお前は全部忘れんだから」
「ああ? 忘れっかよ。俺様はそんなに忘れっぽくないぜ」
「忘れっぽいかどうかの問題じゃないでしょ、ばか」
葵が遠慮なく三井君の頭をしばき倒す。
「葵ちゃん、すぐ手を出しちゃだめよって何度言ったら分かるの?」
「桔梗は時戻っても変わんないよなぁ、きっと」
「ええ、変わらないわよ、何も。でも、葵ちゃんはその口と手の悪さ、少し悪化したみたいだから、時が戻れば少しは良くなるかしらね」
桔梗が笑いながら飛嵐の方へ歩んでいく。
「うーん、海様っぽいなぁ」
緋桜もその後に続いていく。
「緋桜!」
わたしはその背に呼びかけていた。
「何?」
あっさりと緋桜は笑顔を向ける。ついさっき、母を失ったとは思えないほど普通だ。だけど、その目には「また謝ったら承知しないわよ」との怖い笑みが宿っていた。
「なんでも、ない」
首を振り、わたしは夏城君に手を引かれて飛嵐の背によじ登った。
「参ります」
短い一言とともに飛嵐は翼をはためかせ、次の瞬間には時空軸に戻っていた。
白い空間は同じ。だけど、空間中、ガラスの欠片のようなものがキラキラと舞い飛んでいる。そして絶え間なく、神界、人界、闇獄界の時空軸から時空風に乗せられてそれは飛んでくるのだった。
何も知らなければ綺麗だと思えたかもしれない。でも、こうしている間にも誰かにとってとても大切な時間が削り取られていってるんだ。
「綺麗だね」
ぽつりと葵が言った。
「雪みたいだ」
両手を広げて光くんが呟く。
「記憶の欠片だもん。誰かの大切な時間の一部だもん。魂の一部だもん。綺麗で、当たり前なんだよ」
返してあげなきゃ。この時間を、時を生み出す全ての人々に。
幸福な時間ばかりじゃないかもしれないけど、嫌な時間ばかりでもないはずだ。未来さえあれば、きっと過去の思いも変えられる。
「これより先が、七月二十三日、午後十二時半より未来の部分になります」
告げる飛嵐の声に神妙な表情でみんなは立ち上がり、飛嵐の背の上でわたしと緋桜を囲むように円を作った。
それぞれの手には精霊と契約を結んだ魔法石を持ち、呼吸を整える。
「僕と詩音は応援係ということで」
魔法石のない工藤君は、詩音さんの腕を引いて円から外れようとしたけれど、夏樹君が腕を掴んで引き戻した。
「工藤、肝心なとこで役立たなくてどうする」
「でも僕たちはほんとに大したこと……」
「維斗」
頑なに円から抜けようとする工藤君をきっぱりと見上げ、詩音さんはにこっと笑った。
「あんた、二人分ね。頼んだわよ」
有無を言わせぬその様子に、しぶしぶ工藤君が頷く。
そっか。工藤君、魔法石どころか何のかかわりもない詩音さんに遠慮したかったのか。統仲王とは違って、ずいぶん分かりにくい愛情表現だわ。
「ちょっと、樒ちゃん! 誤解しないでよ! あたしと維斗はそんなんじゃないんだからねっ」
「あー、はいはい。詩音は黙っててください。話がこじれます」
「話がこじれるって、あんたねぇっ」
工藤君の胸元に詩音さんが掴みかかる。
「あ、あのっ、喧嘩はまた戻ってからでも……できるよね?」
思わず割ってはいったわたしは、どきどきしながら二人の表情を窺う。
二人はつかみ合ったまま見つめあい、溜息をつきあった。
「僕たち、ほんとしょうもないですね」
「続きは戻ってからにしましょうか。確か昨日の昼休みもお弁当のおかずで喧嘩してたよね」
工藤君は苦笑しながら頷いた。
「そういうわけで、守景さん、皆さん、はじめましょうか」
「なーに仕切ってんだよ、学級委員長」
パンパンと仕切りなおすように手を叩いた工藤君を三井君が小突く。
「いいじゃないですか。学級委員長ですからね。ええ、皆さんまとめるには最適じゃないですか」
「俺様嫌だー」
三井君は大げさにげんなりと肩を落としてみせる。
笑っていると、後ろから葵が声をかけた。
「樒、帰ったら越後屋のイチゴパフェな。あ、その前に講習終ったら帰りにアイスだったか。居眠りこいて残されんなよ」
「分かってるよ。楽しみにしてるんだから、講習後のアイス。越後屋のイチゴパフェもね」
「私も楽しみにしているわよ」
「わぁってる、わぁってる。桔梗を置いてくなんて恐ろしい真似、あたしには出来ませんっ」
「やぁね。最後まで私を恐ろしい魔女みたいに言わないでちょうだい」
何も、変わらない。
今がなくなってしまっても、きっと昨日は今日と変わらない。
そんな気がする。
わたしは一呼吸ついてから、ゆっくりと周りを見回し、緋桜と向き合った。
「緋桜」
「うん」
魔法石を祈るように胸の前で両手に包み込む。
そして、わたしはゆっくりと言葉を紡ぎだした。
新たな未来を紡ぎだすための言葉を。
『記憶を守りし刻の石よ
全てを生み出し 全てを刻む聖なる石よ
そして 我と魂の契約を結びし時の守人よ
汝らの築きし理 偽りなく我が前に差し出せ』
一言発しただけで、全ての精霊たちが耳を傾けたのが分かった。
お湯にでも使っているような温かさが身体の中に波打ちながら漲ってくる。
わたしの安心感とは対照的に、応える緋桜の声は緊迫感に満ちていた。
『運命によりて織り上げられし歴史の布
ただ一目の過ちも許されなくば
例え一糸といえども掛け違いは加重なる過ちなり』
そんなに緊張しなくてもいいよ。みんなが力を貸してくれているから大丈夫。
『されば 現在を紡ぐものよ 今しばしその手を休めよ
過去を預かる者よ ほつれし場所への扉を開け
我 今こそその過ち正さんと欲すればなり』
『諾』
緋桜と飛嵐の唱和を受けて、わたしは一言発する前にもう一度みんなの顔を見回した。
みんな熱心に目を閉じて祈っている。そんな中で、夏城君がわたしの気配に気づいて顔を上げた。
――またな。
――またね。
失うんじゃない。また築く時間はたっぷりとある。
この軸の向こうに。
天を見上げ、わたしは命じた。
「〈時戻〉」
手の中で眠っていた刻生石が力強く鼓動した。
今度は失敗しない。
魔法石に乗って、わたしの意識は時間をなぞっていく。
それにつれて、時の吹雪の中、工藤君と詩音さんの姿が消え、河山君と三井君が消え、織笠君が消え、桔梗と葵と光くんが消え、夏城君の姿も見えなくなった。
怖くない。大丈夫。みんな昨日で待っててくれる。
そして、わたしはこっそり呟いた。
「解かれし時を我が魔法石に封じる」
どの軸にも戻れずに中を彷徨っていた時の欠片たちが銀河のように煌きながら魔法石の中に流れ込んでくる。
この時間は、人界と闇獄界と神界をわたし達が歩んできた時間。
「樒?!」
「樒、貴女はまた……」
緋桜は思わず目を見開いて顔をあげ、背中の軽くなった飛嵐は頭を抱えたそうな声を漏らした。
「だって、捨てる場所があるわけでもないでしょう?」
この記憶はわたしが抱えて生きていく。
たとえ、戻された昨日のわたしが全て忘れていたとしても、ファリアスとユーラを救えなかった悔しさとともに大切な一日はこの魂の中に刻まれる。
一日分の歴史は魔法石の中に封じられ、わたしは刻生石と魔法石とを重ねて全てを再始動させる結びの呪文を唱えた。
「〈再開〉」
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20080110~20080203(5-7~6-6改稿)