聖封神儀伝
0.
記 憶 の 扉
開かれし時の扉は 意地悪く私の眠りを妨げる
夢うつつに垣間見る現実は懐かしく 過去への郷愁すら呼び醒ます
安息を願い ただひとえに貴方だけを探し求めど
全ては 今も昔も遠い彼方に消え落つばかり
私は再び忘却の淵に己を沈め
この身ばかりを暗き流れにたゆとわす
望む未来は 我とて知らず――
序 章
だめ。
来ないで。
――さあ、おいでなさい。
来ちゃだめ!
――あなた達の願いを叶えてあげる。
お願い!
今すぐここから逃げて――!!
蝋燭の炎がわずかな風に吹かれて闇の中で揺らめいていた。
冷たい石造りの廟内に妖しく響くは若い男女の睦み声。
それほどまでに強く求め合い、願いどおり結ばれたならもはや思い残すことも悔いることもあるまい。
否。
後悔すら出来なくなるのだから、せめて今は愛し合うがいい。
聖刻法王の身体 が眠るこの廟に彼らが駆け落ちてきたのは、つい数刻前。
神の子達の遺体が眠る法王廟は王となった者のみが入廟を許される。
許されぬ恋に身を焦がす王が逃げ込むには、さぞ最適の場所であったろう。
私の廟でさえなければ。
彼らは柩が安置された壇の下に並んで跪き、今を限りと許しを請う。
そして、私の返事など待つことなく堰を切ったように溢れだした想いを互いにぶつけ合いはじめていた。
愚かな王よ。それほどまでにその娘は愛しかったか?
哀れな娘よ。お前は何も知るまい? 目の前の相手が誰なのか。この先に待つものが何なのか。
私は聞こえるはずもないため息をついて、柩の中の自分の身体を見た。
永遠の命を与えられていたはずの神の子の身体。
右半身は父の血を色濃く継いだ漆黒の髪と鳶色の瞳。左半身は見たこともない母に生き写しという黄金の髪と青藍色の瞳。
まだ病など知らなかった頃、それら二つの異色のものをつなぎ合わせていた肌はピンクがかった真珠のようになめらかで瑞々しさに溢れていた。
しかし、柩の蓋越しに透かしみえるものにそんな美しさは見る影もない。
病の悪巣と化した身体は誰の前にとて晒けだしてよいものではなかった。
頭蓋に張りついた髪は色褪せて枯れ落ちた葉のような色になっていた。落ち窪んだ眼窩の奥底に落ちてしまった目は両目とも白濁し、右目に至っては艶やかだった鳶色が完全に失われて黒目も白目も境を失っていた。
何より、透き通るように白く肌理細やかだった肌と老いを知らなかった肉体は、今や肉が削げ落ち、茶色く干からびた皮が細い枯れ枝の如き骨にこびりついていた。
死した直後の私の身体が、九百年余りの時を過ごしてもまだ、灰塵となることなくここにある。
朽ちるはずのないといわれた法王の肉体だからだろうか。
魂が離れても、神の血を継いだ肉体に終わりはない、と。
時は誰にも平等ではなく、彼らばかりはすり抜けて通るのかもしれない。
生きながら腐りゆく身体に閉じ込められ続けた生前の絶望はいかばかりだったろう。
痛みから逃れた瞬間から、都合の悪いことなど全て忘れて私は九百年をたゆたってきた。
神の死と共に大きく変わっていく世界と、望むものがいつも側にあった優しい世界との往復を繰り返しながら。
さながら、この廟は現実と夢の狭間。
外界の変化から私を守ると同時に、甘やかしながら悪夢の罠へと導く連結点。
誰かがこの廟に外から干渉してくれない限り、私は絶望の淵をさらに彷徨うことになっただろう。
しかし、時は満たされてしまった。
予言通りこの廟にやってきた生贄たちが、私にそれを覆す機会をくれる。
――時よ。
形のない唇を震わせる。
今一度、時間を停めたこの身体に時を通わせるために。
ずるり、と私は身体に引きずり込まれた。
瞬間、襲いくるは生の痛み。
呻き声は上がらない。
私と共に死滅したはずの細菌にも同時に時が吹き込まれたのだから。
急速に腫れ上がる喉からは情けない吐息がかすれ出るばかり。
この身体がたとえ時を得て生を取り戻したとしても、それは死の直前と何一つ変わらない。
生に固執する私の意志で無理矢理終ったはずの寿命を延ばしているだけだ。
九百年という気の長くなる時を費やして、私はひたすらこの廟に聖刻王の名を冠する者が入ってくる日を待っていた。
法王にとっては九年程度のものが、死した後は九百年という言葉がそのままの重みを持って私を支配してきた。
決して今、この機会を投げ出すわけにはいかないのだ。
簡単に手に入る安楽ほど先の見えない絶望を孕んでいる。またあの無為な時を過ごすくらいならば、この身体に降りかかる苦痛などいかばかりのものか。それも永遠のうちにおいてほんの一瞬だというのなら、今耐えることは容易い。
だが、呼吸は荒さを増していく。
全身が水分を求めて喘ぐ。
わずかに開いた口から吸い込める空気は石棺内に充満した冷たい湿気と死臭に満ちていた。やっとの思いで吐き出した息とてさらに石棺内の死臭を濃くするばかり。
生きているにおいなどどこにもしない。
しかし、死を感じているということ自体私が今生きているという証だった。
瞼を持ち上げる。
柩の暗闇をぼやけながらも映し出しているのは左側のみ。予想通り右側の視界には真っ白い空白が広がる。
見えないもどかしさはさらに手足の末端に至るまでぎりぎりと締め上げられるような激痛とあいまって、死の間際よりもより強く痛覚を刺激し絶望に駆り立てる。
それでも私は大理石の柩の蓋に刻まれた溝に両指をかけた。
そのまま重い石の蓋を引きずりおろそうとすると、爪の生え際から痛みが走って無量の血が顔に滴り落ちてきた。
悔しさに歯をくいしばれば、奥歯は頼りなく斜めに傾ぐ。
『望みを叶えてやろうか?』
聞こえるはずのない女の声が耳元で囁いた。
全ては、弱さに負けた私が彼女のその言葉に縋ってしまったことから始まった。
跳ね除けられる強さがあったなら、私は今も夢の世界の続きを現実で体験していたはずだ。
「……生……きる……」
そうだろうか?
彼女が現れようが現れまいが、生を拒む日がいずれは来ていたのではないだろうか。
それが早まったかどうかという違いがあっただけで、結果は同じだったかもしれない。
それとも、時間が延々続いていったなら、いつかはあの人が私を見てくれる日もきたのだろうか。
震える手で蓋を押しのけるうちに、ようやく柩の外が見えてくる。
丸い天井に蝋燭の灯が投影しているのは、激情に任せて絡み合う二人の男女。
あふれ出しそうになったものを飲み込むように、私は息を飲み込んだ。
浅ましい嫉妬心。
身体がなければ、これほどまでに鮮やかに感じることもなかっただろう。
肉体を愛撫しあう喜びを私は知らない。
誰しもが平等に得られるという無上の喜びを、生前、私はついに得ることはかなわなかった。
思いがすれ違うどころか、本来禁忌の間柄と固く戒められた人との私の恋。
想いは一度死しても尚、活性化する病魔たちに引きずりだされて身体の奥底で再び燻りだす。
汚泥の如き想いは、外の熱気に煽られて醜い狂気に練りかえられていった。
――今、のまれるわけにはいけない。
九百年という時間の魔を克服して私は今ここにいるのだ。
私の犯した過ちの始末をつけるために。
それが新たな過ちを生み出そうと、私はもう突き進むしかない。
半ば開いた石棺から、私は上半身をもたげた。
ぼちゃ。べちゃ。
長く伸びた髪の重さに耐えかねたのか、髪の束が頭の肉ごと削げ落ちてふとももの上に落ちていった。背中の肉も胸の肉も、重力に逆らいきれずに下に垂れ落ちていく。
蝋燭の灯はそんな私の影を忌憚なく廟の壁に映し出す。
だが、どんなに苦しかろうとこの世に干渉できる媒介が残っていればよいのだ。
耳にはひどい耳鳴りに混ざって間近から荒い吐息がとびこんでくる。
彼らの耳には石棺の蓋が不快な音をたてて開いていく音すら入ってはいまい。聞こえるのは互いの声と吐息だけ。
「ユーラ、このままずっとお前と一つでいられたらいいのに」
熱を帯びた男の声が、一瞬落ちた静寂の中にじわじわと染みこんでいった。
「ファリアス様、ユーラも同じ想いでございます」
静かに口づけ、愛を噛みしめるように抱き合う二人を、私は祭壇の上からじっと見つめていた。
嫉妬。憎悪。悲哀。憤怒。その中にあって排しきれずに残された慈愛。
実体ある胸にこみ上げる正負混合の感情が、何度押し留めてもどろどろと渦をまいて小さな狂気を大きく大きく育て上げていく。
のまれなければいいのだ。
そう、使いようによってはこの狂気も私に味方してくれる。この魔物を逆に飲み込んでしまえばもう何も恐いものはない。
「その願い、叶えてやろうか?」
かすれて抑揚を欠いた声が冷たく廟に落ちた。
聞いたような言葉を私の口は紡いでいた。
愛撫しあう手を止めて、二人は一斉に柩をのせた祭壇へと首をひねる。
石棺から顔だけを出した私に向けられた彼らの表情は、真っ白い紙に目と鼻と口をくりぬいた仮面のようにごっそりと感情が抜け落ちていた。
そんな彼らの表情から私が得た感慨は皆無に等しい。
腕に神経を集中させて白い大理石の柩の蓋を一押しすると、重さに負けた蓋は均衡を失って勢いよく滑り落ち、廟中に低く轟きを残した。
その音に鞭打たれたように彼らはようやく驚愕に震え、恐怖と畏怖をこめて私の姿を捉えなおしたようだった。
私は柩の外に片足をゆっくりと下ろした。
柩と同じく大理石で出来た祭壇はしっとりと冷たい。
その冷たさに酔いながら私は五段ある階段を下りていく。一歩踏み出すごとに腿や胸の肉はだらしなく融け落ち、白い死装束を黒く染め、或いは裾下から水っぽい音をたてて石段に落ちていく。
二人は声もなく、震えることも出来ずにただ凝固するばかり。
(憐れな……)
ただ素直に、私はそんな彼らを見て心中で呟いた。
憐れみが向けられたのは彼らだったのか、私自身だったのかははっきりと線を引くことは出来ない。だが、口元に浮かんだのは自嘲の笑みであったと思う。
「有限の命しかない人が永遠を願うなど笑止。だが、私なら叶えられないこともない」
石段を降りきった私は彼らの前に膝をつき、蒼白な娘の頬をなぞって小さな顎をつまんだ。
「願いを申してみよ」
娘の口はせわしなくがちがちと奥歯を噛み鳴らす。触れられた瞬間に噴き出した汗は、あっという間にどこかへ引いてしまっていた。言葉は愚か、悲鳴すら上げられない娘はただただ美しい青の瞳で私を凝視する。
「その口はそなたには無用のものか?」
腐食した指は血肉の破片を落としながら唇、顎に赤い軌跡を残しながら滑り落ち、やがて柔らかな首筋に爪を立てた。
「ひっ」
流れ出る赤い血は生暖かく私の指を濡らしていく。
「そこの男とずっと一つになっていたいのだろう?」
「あ……あ、あ、あ……」
私は唇の端を吊り上げた。
「逃れることが出来ないのなら、その望みだけを強く願え」
(憐れな……)
娘からの返事はない。
それもそのはず。彼女の喉笛は私の口の中にあった。
噛み切られた娘の喉笛からは生暖かな血が迸り、私の頬を掠めていった。
真横で直に娘の血飛沫を浴びる聖刻王は狼狽の声すらなくして茫然自失のまま座り込んでいる。
私から愛しい娘の体をとり返そうなどとは露ほども思わないのだろうか。聖刻王は声も表情もなく、ただただ娘が私に食いちぎられていく様を視界に入れているだけだった。
その一方で、私の身体にとっては九百年ぶりの食事。
味も、食べているものが人肉であることも忘れ、私は本能が突き動かすままに行儀悪く娘の体にかぶりつく。
娘の体に残された未来をこの身に溶かしこむように。娘の存在をこの身体に移しかえていくように。
そして最後に、身体を失って漂い出た乳白色の魂をわし掴んで私の胸に閉じ込める。
時の経過とともに転がるように進行していた身体の腐蝕は止まっていた。
彼女の肉が、細胞の一つ一つに流れる血が、何よりまだ若い魂が私の身体を再構成しはじめる。
滑らかになっていく腕を見て、私は再び笑んだ。
「……ユーラ……」
目の前に積み上げられたまだ生々しい血肉のこびりついた頭蓋骨、肩、肋骨、腰骨、両手足のそれぞれの骨、そして緑がかった黒く長い髪の毛。それらと私とを見比べて
ようやく聖刻王は声を絞り出す。
彼の目に映っているのは異色の髪と瞳を持っていたはずの私の姿ではなく、緑色がかった黒い髪と両眼とも翠の瞳を持つさっきの娘の姿だった。
温かい現実が頬の上を流れ落ちていった。
深い悲しみばかりがこの身体を覆っていく。この私の制御を超えて。
思いは全て目の前の薄情な男に向けられたものだった。それも、娘は男を薄情とも思わず、ひたすら絶対的なもので愛しい男と引き離されてしまったことを嘆いているのだ。
もどかしかった。
男は娘が襲われているというのに何一つ動こうとしなかったのだ。そんな男を、恨みこそすれ、より慕う気持ちを強めるなど私には分からなかった。
付け足された未知の「私」は涙腺を支配して思いの丈を勝手に男に伝えようとする。
それを妨げる術は私にはない。感化されたくなくて、私はあえて感情を押し殺して訊ねた。
「第五十二代聖刻王ファリアス。汝、何故このような場所に逃げ込んだ? 何故、駆け落ちなどした?」
彼らがここに来る前から答えは知っていた。
彼の苦悩の原因が何なのかも知っていた。
それでもあえて、私は聞きたかった。彼に何を重ねようとしていたのか、その愚かさも充分承知しているつもりだった。
それなのに、男の反応は私の予想も望みも大きく裏切ったものだった。
「……聖刻法王……なのですか……?」
見開かれた両目から溢れだす涙には、恐怖のみならず喜色が混ざりこんでいた。
いうならば畏敬や畏怖といった類のものだ。
私は眉をしかめた。
実際に見たことなどないだろうに。
遠い祖先から伝えられてきた昔語りや残された書物を頼りにすることでしか、私を知る術などないはずだ。
それなのにこの男の様子ときたらどうだろう。
目の前で愛しい者を食い殺した犯人を、奇跡の象徴でもあるかのように畏怖をこめて見つめている。
「愚かな……」
神の子よと尊ばれる存在であっても、私は決して幸せではなかった。常に畏怖の視線を受け、失望させないようにその視線に応えていくのが私達の仕事だった。
彼らが見るのは私たち自身ではない。神の子であり、自国を治める法王として私達を見るのだ。
私を見つめるファリアスの目は、まさにそんな民達と同じ色をしていた。
「貴方が聖刻法王……。実の兄である天龍法王に想いを寄せ、その想い叶わずとも最期はかの人を戦場にて勝利へと導き、息を引き取ったという……」
自嘲含みの笑みが口端に浮かんだ。
「そのような神話じみた話を信じているのか?」
「聖刻法王と天龍法王を間近で見てきた侍女や侍従が語り部となって編まれたものとあれば、信じざるを得ますまい? 何より、私は貴女の血を借りた者なのですから」
私は男の胸の真ん中よりやや左に狙いを定めて指を開いた手を突き刺した。
余裕をかましているようにも見えた男の畏怖の表情が痛みにゆがんだ。
私は指に力をこめて躍動する男の心臓を掴む。
微かに懐かしい気配。
「私の血晶石は健在か。それは何より」
血晶石は、法王が自らの血とそれぞれ契約した精霊王の血とを混ぜ合わせて作った 玉だ。私達はそれを国政の補佐をしてくれる者に受けつがせてきた。もし、私達に何かあっても精霊たちの庇護を受けられるように、と。
今、心臓を掴まれてびくりと体を硬くしたこの男は、私が最期に宰相に任じた男の末裔。
神が死んだ時、血晶石を持った宰相がそのまま国の王となって混乱期を乗り切ったというのは、何も私の治めていた聖刻の国ばかりではない。兄と姉七人が治めていた国々でも同じだった。
「な……何故……? 何故、このようなことを……」
青ざめた聖刻王は声を絞り出して問う。
「聖刻王。その言葉、遅すぎるのでは?」
目を見開き、絶句して、それでも聖刻王はわずかな期待を目に宿して私を見る。
「私の機嫌を損ねたくなくて娘が喰われるのを傍観していたのか? 私の力があれば後で娘を生き返らせてくれるだろうと考えて?」
我ながら嫌な笑みが浮かんでいたことだろう。見下された聖刻王は、完全に目から期待の光を消した。そんな目を見ても、私の心はもういささかも痛まない。
私は、脱力し、絶句したままの聖刻王に唇を近づけた。
さっきの娘を装ったままで。
だが、それは吸うためではない。聖刻王の唇を、舌を食いちぎるため。
沈黙を引き裂くように耳障りな絶叫が廟内の淀んだ空気を揺るがせた。
「私ならば汝らの恋を優しく世間から庇護してくれると願でも掛けに来たのか? 地位に縛られ、それでも禁忌を犯さずにはいられない自分を理解してくれるのではないか、と?」
聖刻王の下唇は引き裂かれ、食いちぎられた舌根から溢れだす血が、気泡混じりに剥きだしになった歯茎の合間から流れ出していた。
残された上唇を吸い、鮮血を舐めながら首筋へと唇を這わせて私は囁く。
「確かに地位も、恋の相手が許されない者だったことも同じ。けれど、あの娘は何も知らなかったはずだろう?」
私達とは違う。私達は二人とも逃げようのない事実を背負っていた。少なくとも、生まれたばかりの私を自分の城で育ててきたあの人は幻想を見る余地すらなかったはずだ。
彼らのように生まれる前に生き別れ、成長した後に聖刻城で王と侍女として出会い、恋に落ちたのとはわけが違う。「知らなかった」など通じるわけもない。
否。それが通じたなら、どんなによかったことか。
「秘めておけばよかったのに。汝さえ知らぬふりを通していればよかったのに。そうすれば、汝らはここに来ることもなく、あの娘も何も気づくことなく生を全うできたかもしれないのに……」
来てくれなければ私が、世界が困る。しかし、そんな思惑など吹き飛んでしまうほど、私は悔しかった。或いは、それは今更事実を知ってしまった娘の感情だったのかもしれない。
「ユ……ーラ……」
うつろな目が私を見る。
そんな目で見るくらいなら、後悔するくらいなら、気づいたときにつきはなしておけばよかったものを。
――それでも娘は食い下がっただろうか? 想いが通じ合っているとわかっていればこそ、もっと諦められなくなっただろうか。
すでに気を失った聖刻王の目を見て私は一息つき、娘同様、その喉笛に歯を立てた。
血は復讐するかのように私に吹きつけた。
「今更、遅い」
けれど、もっと噴きつけるがいい。私がお前達の無念を忘れないように。私がお前達に生かされたことを忘れないように。
鼓動がやんだのを感じて、胸に差し入れていた手を引き抜く。
抜き出されたのは十六、七の少女の片手に納まるほどの半透明の球体。中には血管のように赤い筋が幾本も縦横無尽に走っている。
半透明の玉全体を作っているのは精霊王の血。赤い筋は私の血。その中に留め置かれたままになっているのは現聖刻王・ファリアスの魂。
わずかとはいえ力を凝縮させた血晶石は、私の中に眠ったままの法王としての力や感覚を呼び起こしていく。
同時に、私は聖刻王の肉体も我が物にしていった。
体内を駆け巡っていた彼らの体は、やがて私の中に同化していく。
こんなのは聖刻法王 の力じゃない。全ての創生者である彼女の力。
眠っているとはいえ、容易に使える力でないことは確かだ。
それほどまでに私達の魂の融合は進んでいる。
「っはは……」
漏れでた嘲笑は耳慣れない低さだった。
聖刻王と娘の血溜まりに移る私の姿は、今度は容姿ばかり麗しい聖刻王のもの。
「はは……やった……」
握っていた血晶石を最後に一飲みする。
これで私は彼ら二人の寿命を糧に聖刻王として生き返ることが出来る。
「どう? 願いが叶えられた気分は。あなたたちは、私が死ぬまで二人で一つよ」
溢れかえった笑い声はすでに喉元にとめておけるものではない。
薄暗い廟中に低い嘲笑がこだまする。
それを聞きながら、私の視界は次第に曇っていった。
「澍煒 」
胸が苦しくなって、耐えきれずに私は呟く。
もう一度口の中で楽になる呪いのように呟いて、平静を思い出す。
「澍煒」
二度目に呼びかけた声はまだ芯が通ったものだった。
そして、不意に廟内に新たな気配が生まれる。
血晶石よりももっと懐かしさを凝縮した気配は、後ろから静かに歩み寄ってそっと跪き、背中ごと私の肩を抱きしめた。
「相変わらず不器用な子。こんなやり方をして、まだ自分を苛めたりないの?」
九百年ぶりに聞く〈影〉の声。その声は年老いることもなく、十六の少女のままだった。
「……私の過ちは、どんな罰を受けようとも償えるものではないわ……」
震えてはいけない。脅えてはいけない。投げ出してはいけない。
過ちに過ちを重ねて私は今ここにいる。
澍煒のぬくもりを感じ、一方で伏せた視線の先には血溜まりに映る私の姿。
「化け物ね、私。……ねぇ、澍煒。教えてちょうだい。私は、何?」
澍煒はちょっと血溜まりに映る私の姿を見たようだった。
「貴女は神界の父と母である統仲王と愛優妃との間に生まれた第八子、聖。時の精霊王である私と契約して時の主となった聖刻の国の法王、でしょ?」
「私は本当にまだ聖のまま? 人の肉を喰らってその容姿を服を着るように自分のものにできるのよ? 何より、私はこれから兄さま、姉さまたちの運命を歪めに行くというのに?」
震える私を宥めるように澍煒は肩を抱く腕に力をこめる。
「全ては聖が選んで決めたことでしょう? 聖は悔いるくらいなら初めから実行に移したりはしなかったわ」
「……私に後悔するな、と?」
私はさんざん悔いてきた。さっきだって、どれほど後悔したか。
「立ち止まるなと言っているのよ。どんな罪を犯そうと、どんな力を得ようと、そしてどんな容姿に成り果てようと、私を使えるのは聖、貴女一人だけ。あなたが動くことをやめてしまったら、私にはもう何も為す術はない。でも、たとえ苦しみにでももがくことが出来るなら、私は貴女に手を差しのべてあげることができる」
澍煒は私の前に回りこみ、上から手を差しのべた。
確かめるように右に傾げられた頭につられて、まっすぐな栗毛の髪が滑らかに揺れ、甘えを許さない黒曜の瞳が次の選択を私に求める。
「今のように?」
「そう。今のように」
以前よりも骨ばり、二周りほど大きくなった手で私は澍煒の華奢な手を取った。
覚悟していたこととはいえ、一人きりではこの血溜まりから立ち上がれなかったかもしれない。
どれほど長い時を重ねてこようと、私は幼く惰弱な少女の殻を脱ぎ捨てることが出来なかった。隠し、守るようにこの身体に鎧を幾重にも纏いつけていくだけ。
「澍煒。彼らは駆け落ちしてきたの。世間に許されない想いを遂げるために」
「……うん」
「あの戦争がなかったら……ううん、もう少しだけ長生きする道があったなら、龍兄も私を連れ出してくれたかしら……この世界そのものから」
聖刻王を詰っておいて、本当は羨ましかったのだ。最善などではなく、袋小路に入ってしまう道であったとしても、私は叶えてもらえなかった。どれほど切望したか知れないというのに。
「人界の片隅で統仲王の目を盗んでひっそりと、人々がそうするように夫婦となって暮らすのが私の夢だった……そのためなら永遠の命なんか誰にだって捧げられた」
地平線まで麦穂の揺れる大地に小さな丸太小屋を建てて、太陽の理にしたがって龍兄と二人きりで生きる……そんな他愛なくも壮大な夢の世界で生きる時が私は一番好きだった。
私の顔は、手は、身体は、聖の心に感化されて在りし日の少女を象っていく。
腐食した身体に他人の肉を張り合わせ、ぼろぼろの魂を二人の魂に補われたこの身体は、揺れ動く私の心に応えるかのように定まりなく転変する。
「化け物」
私は血溜まりに映った自分に向けて、澍煒の耳にすら届かないほど小さな声で頭の中に巡る思いを振り切るために吐き捨てた。
「行きましょう、澍煒。いつまでも感傷に浸っている場合ではなかったわ」
「まずはどこへ?」
私の心の全てを汲み取り、澍煒は訊ねる。
「天宮へ。天宮王にだけは話を通しておかなければ、ね」
罪を犯して得たこの身体もまた有限。いずれまた、時と共に朽ち果てる。
そして私の精神自体がそのときまで欠片でも残っているという保証はないのだ。
協力者が必要だった。蘇るその時が来るまで兄さま、姉さまたちの身体を預かってくれる者が。
唯一私が魂だけになって神界を彷徨っていたことを知っている者。彼なら、この馬鹿げた私の計画をとりあえず聞くだけ聞いてくれることだろう。
「天宮ね」
澍煒は慎重に頷き、私達の前に立ちはだかる廟の扉に向けて片手を伸ばす。
『時空を彷徨う精霊達よ
我、聖刻法王の命によりて我が前に導きの扉を開かん
望む時は現在 第四十九代天宮王ナルギーニの元なり』
澍煒の伸ばした手の先で闇が不自然にねじくれた。その歪からは取り戻した視力をふいにしかねないほどの烈光が溢れだす。
目が慣れるのを待って、私は静かに命じた。
過去を捨て、未来を繋げるために。
「開門」