聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 1 章 侵 食
1
音が耳にこびりついていた。
暗闇を侵食する真っ赤な血が目の前から消えてくれない。
わたしのものではないはずなのに、心にはずん、と重い呵責が沈み込んでいる。
恐い夢を見た。
外国人の少女が柩から生き返り、二人の男女を食べる夢。
正確には見たというのは適当ではないかもしれない。
わたしは逃れることも出来ず、彼女と感覚を共有させられていた。
今も胸の奥には混沌としたへどろのようなものが渦を巻いている。
夢の中で、何度それを吐き出したいと思ったことだろう。
結局吐き出せずに残った嫌悪感は、目が覚めて意識がはっきりしてくればしてくるほど余計に肥大して喉元にこみ上げてきた。
いつもの夢なら簡単に忘れてしまうのに、さっきの夢はあまりにインパクトが大きすぎる。
日本ではないどこか。
真っ暗な、墓の中。
普通に生きていれば、事故にでも遭わない限り、あんなに大量の血を見ることも、浴びることもなかっただろう。
人間の喉に噛みつくことも。
「うっ……」
あんなに暗かったのに、間近に見た肌理細やかな白い肌が目の前に蘇ってくる。
違う。
わたしじゃない。
わたしは何もしていない。
わたしは……ただ見させられていただけ……。
「樒! みーつーきーっ?」
ひらひらと目の前を白い掌が左右に揺れていた。
女の子のものにしてはちょっと大きめだけれど、細くて長いしなやかな指がすっきりと伸びた綺麗な手。
わたしはようやく夢から抜け出すように彼女を見上げた。
「科野さん、どうしたの?」
「だあぁぁっ、科野さんじゃない! 葵でいいって言ってるだろう? あたしだけ呼び捨てって、なんかなれなれしいじゃん」
「え、あ、ごめんなさい」
「敬語もやめぃって、言ったよね? 守景さん?」
怒気たっぷりににっこり笑いかけられて、わたしはつられて笑いながらも思わず肩をすくめた。
区立の中学校からこの岩城学園の高等部に入学して早三ヶ月。
内部進学者が八割を占めるこの学園で、大方人間関係に悩まされることもなく夏休みを迎えられたのは、ひとえに同じクラスになった彼女、科野葵ともう一人のおかげだった。
「ごめんごめん。でも、怖いからその半ギレの笑みはやめて」
科野さん……じゃなかった、葵は怖い笑みは引っ込めたものの、かわりに深いため息をついた。
「三ヶ月も経つんだぞ? もう夏休みなんだぞ? いい加減、あたしに心開いてくれたっていいじゃないか! あたしはこんなに樒のことを……」
「だから、ごめんって。ちょっと寝ぼけてただけだよ」
「寝ぼけたときこそ本音が出るもんだろう?」
お弁当を広げるのも投げ出して、葵は泣き真似をしながらわたしに縋りつく。
「葵ちゃん、その辺にしておきなさい。樒ちゃんが変な目で見られるでしょう?」
購買からパンと牛乳を買って戻ってきたのは、藤坂桔梗。
「なんだよ、あたしなら変な目で見られたってかまわないって?」
「あら、有名よ? 一年女子の一部が葵ちゃんのファンクラブを作ったって。うちの男子バスケ部だって決して弱くはないし。いえ、むしろ強くてかっこいい人もたくさんいるって聞くのに、わざわざ同い年の女の子がファンクラブを作るなんて、ねぇ」
にっこりと桔梗は葵に微笑みかけた。
微笑の凶力さなら、格段に桔梗の方が上だ。
「誤解だ! ごーかーい!」
すっぱりと言いきって葵はわたしの肩から腕を解く。
「ファンクラブなんていったって、どうせあたしのシュートやらパスやら決める姿見てキャーキャー言うだけだろ? んな、一年のうちからインハイ予選のレギュラーもらえたわけでもなし。あたしより上手い先輩だって山のようにいるし、どうせすぐに冷めるって」
「まぁ、それは困るわ」
呆れ半分にため息を突いた葵の前に、桔梗は徐にお財布から抜き出した赤いカードを突き出した。
「科野葵ファンクラブ、会員証……? 桔梗、お前……」
途中まで読み上げて絶句した葵は、軽蔑をこめて桔梗を見上げた。
「だって、私達初等部からのお友達でしょう? 私が入らなくて誰が入るの?」
「誰がって、ついさっき存在否定したばっかじゃないか。ナンバー四って……番号早いし!」
「情報は人より早く入手してこそ世の中渡っていけるのよ。それに私がいる限り、ただ甲高い歓声上げているような烏合の集団にはしないわ。今、葵グッズを作っているところだし、もう少ししたら夏のイベントの打ち合わせのために、会員になっていることを告白しようと思っていたところよ」
「やめて来い。今すぐやめて来い。でなきゃもう二度と、絶対、話しかけられようが殴られようが桔梗とは口利かないからな」
葵はそっぽを向いて、気を紛らわすようにお弁当を広げだす。
桔梗はグッズやイベントは冗談なのに、とくすくす笑いながら私の左隣に座った。
「あっ。樒、樒は入ってないだろうな? あたしのファンクラブ」
「ごめん。夏期講習終ったら入会手続きしてくるね。桔梗、事務室までつれてってくれるかな?」
「勿論、よろこんで」
「……いい加減にしろよ、お前ら……」
岩城学園高等部の校舎四階、東の端にある一学年三百人を収容できる東講堂には、高い天井いっぱいにお昼ごはんのにおいが充満し始めていた。
あんな夢を見た後だから、とてもお昼ご飯なんて食べる気にならないと思っていたのに、おかずやご飯のいいにおいは意識していなかった空腹を刺激しだす。
「少しは顔色が戻ってきたようね」
牛乳パックにストローをさしながら桔梗はわたしの顔を覗き込んで微笑んだ。
「え?」
「え? じゃない。真っ青通り越して、さっきまで真っ白だったんだぞ」
自作の野菜炒めを口に放りこみながら、葵も私の顔を覗き込む。
「……そんなにひどかった?」
「ひどかったもなにも、なぁ?」
「数学の授業始まった途端に机につっぷしちゃうんだもの。一学期が終って、お休みなしで夏期講習でしょう? 樒ちゃんはお家も遠いし、きっと疲れもたまっているんだと思って起こさなかったんだけど……」
「授業中なのにうなされはじめるんだもんな。一番後ろだから大丈夫かと思ってたけど、さすがに礼堂の奴も気づいたからさ、起こしてやろうと揺すってたんだけど、」
「樒ちゃん、どんなに揺すっても起きないんだもの。そうしているうちにどんどん顔色だけ悪くなっていくし。葵ちゃんに背負ってもらって保健室に連れて行こうかと思ったほどよ」
あんな夢を見せられたら、転寝してても当然、蒼白にくらいなるだろう。白髪になってないだけ、まだましかもしれないけれど。
「その前に授業が終って、樒もなんだか目が覚めたみたいだったからさ、とりあえず大丈夫かとは思ったんだけど」
「ごめんね。ぜんぜん授業に集中できなかったでしょう?」
「私はいいのよ。葵ちゃんだって数学だけは人並みですもの」
「まずいのはわたしだよね……どうしよ。明日までに数学復習しとかなきゃ追いつけないよ……」
数学のあの記号と数字を想像しただけで、盛り返してきた食欲が減退していく。
いそいそと数学のノートを開いてみるが、今日の日付の部分に書かれていたのは、書いた本人すら解読不可能なミミズ文字だった。
「わたし、どれくらい起きてた?」
「五分弱、かな」
「礼堂先生がまだ黒板に何も書いていないうちに机に突っ伏してしまったものね」
つまり、一時間半の授業を丸々寝ていたことになる。そんな状態じゃノートに何か書いてあるはずがない。
体中の酸素を吐き出すくらい、わたしは深く息を吐き出した。
「それにしても、どうしてあんな急に顔色悪くなったんだろうな。朝はいつもどおりにこにこしてただろ? 授業中に転寝なんて樒、しょっちゅうしてるし」
心配しているんだか揶揄しているんだか分からない葵の言葉に、ため息が喉に詰まる。
「クーラーがききすぎてたからじゃない? ほら、わたし達の真上に通風孔があるでしょう? 私もちょっと寒かったもの」
「いや、樒のことだからなんか悪いもんでも食べたのかも……」
一応、真剣に心配してくれている二人の会話を聞いていると、夢見が悪かったとはなかなか切り出しにくい。
それでも、答えを求める二人の視線には真実で答えるしかない。
「ちょっと、怖いっていうか気持ち悪い夢見ちゃって」
「夢?」
「うん。壮絶っていうか、凄惨っていうか……」
どう伝えようか考え込んだとき、ちょうど葵はわたしの目の前で豚のしょうが焼きを口に運ぶところだった。
「っうっ」
瞬間、お腹の奥底から何かがじりじりと内臓を焼きながらこみ上げてきた。
講堂中に充満するお昼のにおいが耐え難いほどそれを助長する。
「ごめん、ちょっと……」
察した桔梗が立ってくれて、長い椅子と机の間をすり抜けてわたしはトイレへ駆け込んだ。
全部胃の中に残ったものを吐き出してしまえば、あの夢も一緒に消えてくれるのではないかと思った。
けれど、苦い痛みは余計に夢の中の光景を引き寄せる。
気分の悪さも、ねじれる胃の痛みも、がんがんしだす頭も、鉛をつけられたように気だるく重い体も、この身全てがわたしの意識から切り離されていく。
支配するのは、そう、夢の中の少女。
でも、あの二人を食べたのはわたし。
だって、喉に錆の味がこびりついている。
「あ、あ、あ、あ、」
どんなに口元を拭っても、ねっとりとしたものは取れた気がしなかった。
違う。
わたしじゃない。
忘れてしまえ。
数学の公式みたく、今すぐ頭の中から消えてしまえ……!!
「樒ちゃん? いるんでしょ? 樒ちゃん?」
「樒ー? 大丈夫かー?」
二人の呼び声が、何度もよみがえっては脳に刻み込まれていく映像をかき消した。
「ごめん。大丈夫だよ。やっぱ何かにあたっちゃったのかな。昨日、冷蔵庫に入れ忘れたマドレーヌ、夜中にこっそり食べたから、もしかしたらそれかも」
できるだけ明るい声を装ってわたしは答える。
でも、桔梗はあっさり騙されてはくれなかった。
「マドレーヌ? 夏だから保管場所にも夜でしょうけれど、市販のものでしょう? 常温でも簡単には悪くならないんじゃないかしら。それに、さっき樒ちゃん明らかに葵ちゃんが豚のしょうが焼き食べたのをみて……」
豚のしょうが焼きと聞いただけで連想できてしまう自分の想像力と喰い意地の悪さを、このときほど呪ったことがあっただろうか。
「え、何、あたしのせい?」
葵がうろたえている。
違うよって言ってあげなきゃ。
胃の中にはもう何も残っていなかった。
涙目になった目を拭い、口元をもう一度拭い直して、ふらつく足を励まして外に出る。
想像するまでもなく、二人は出てきたわたしを痛ましげに見つめていた。
「樒ちゃん、午後は保健室で休んだほうがいいわ」
「ああ。また顔色が悪くなってるもんな」
洗面台の鏡に映るわたしは、青白く、ひどくやつれて見えた。
潤んだ目で見ているせいか、わたしの顔は定まることなく揺れ続け、誰か別の顔と重なりだす。
左から右まで染め分けていったように金色から黒のグラデーションがかかった髪。
左が青、右が黒、と左右で色の違うオッズ・アイ。
蝋燭の蝋のようで健康的とは言いがたいけれど、滑らかで生粋の日本人にはみないほど白い肌。
羨ましくなるほど高い鼻筋と深い顔の彫り。
鏡に映るのは明らかにわたしではなかった。
血溜まりに映った少女と同じ顔をしている。
目を背けたくても、鏡の向こうから見つめてくる彼女はわたしの視線を絡めとってはなさない。
左右異色の瞳は責めるようにわたしを射抜いてくる。
「ち……がうよ……。わたしじゃない。食べたのは、あなたでしょう?!」
叫ぶと同時に視界の揺れがぴたりと止まった。
綺麗に磨かれた鏡に映るのは、鬼のように怒気に汚れたわたしの顔。
思わず、ずるずると私はしゃがみこんだ。
桔梗と葵はあっけにとられ、息をのんでわたしの後ろに立ち尽くしていた。
先に動いたのは葵。
わたしの前に回りこみ、一緒にしゃがんで肩を抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫だから落ち着け。な?」
言葉遣いに反して、声音はお母さんのように優しい。
宥めるように軽く叩かれる背中は、そこからほわっと温かくなっていく。
「食べてはいけないものを食べたのね」
頭の上に降ってくる桔梗の声は、まるで一緒に見てきたように同情に満ちていた。
「わたしは食べてない……。わたしじゃない人が食べたの」
「樒ちゃん。夢は所詮ただの夢よ。でもね、夢は見た人の深層心理を表していることもあるというわ。例えば、人間を食べたなら、その食べた人に頼って生きていこうっていうことを表しているんですって」
「でも、わたしはその人たちを知らないよ?」
「夢の中の登場人物は、誰かが実在の人の代わりをしていることもあるのよ。私だって夢の中に知らない人がでてきたことくらいあるわ。ね? そんな夢の解釈まであるくらいですもの、極端におかしな夢というわけでもないでしょう?」
おずおずとわたしは頷く。
頷いて納得させようとしていた。
だって、桔梗の言葉はいつも冷静で、根拠があって嘘がない。
桔梗の言うとおりなら、私は一体誰に頼って生きていこうとしているというのだろう。
男女だったから、お父さんとお母さん?
けれど、高校生のうちは頼らざるを得ないよね? バイトでも始めればいいのかな。
無理矢理当てはめようとしても、どの人も適格でないような気がした。
あれは、夢なんかじゃない。
事実だったのだと、どんなにわたしが否定しようとしても、知らないわたしがそう言うのだ。
「樒、とりあえず荷物持ってきてやるから、樒は桔梗と先に保健室行ってな? 木沢先生なら融通利くし、ほんとなら夏休みなんだから、顔色よくなるまで休ませたら早退させてくれるだろ」
「そうね。そうしましょ、樒ちゃん」
諭すような二人の言葉に、わたしは夢のことは極力考えないようにして頷いた。
「立てるか?」
「うん。荷物も自分で持っていけるよ」
頭痛はいつの間にか消えていた。
体も温かくなって、体中に纏わりつくようだった倦怠感もだいぶましになっている。
立ち上がって、講堂によって荷物を取り、エレベーターは気持ち悪くなりそうだから、階段でゆっくりと一階の保健室まで降りるくらいなら何とかなりそうだ。
ふらつくことなく立ち上がったわたしを見て、葵と桔梗は顔を見合わせて頷きあう。
「でも、弁当のにおいはきついんだろ? 講堂の外で待っててくれればすぐにあたしが持ってきてやるからさ」
言うなり、葵はもう走り出していた。
「じゃあ、行きましょうか」
「ちょっと待って。うがいさせて」
桔梗を後ろで待たせて、私はもう一度洗面台に向かう。
さっきのようなことは、もう起こらなかった。
蛇口をひねり、出てきた水を手のひらで掬って口に含む。
それが終ると、桔梗が緑のチェックのハンカチを差し出してくれていた。
「ありがと」
遠慮なく借りて口を拭う。
後は、講堂に立ち寄って、ちょっと足を伸ばして保健室へ行くだけだった。
それだけのはずだった。
「え?」
「うわっ」
ぐらり、と、足元が大きくしなるように揺れた。
遊園地の海賊船にでも乗ってしまったような感覚だった。
投げ出されたわたしと桔梗は、それぞれ壁やドアに打ちつけられる。
たった一度の大きな衝撃の後、地下深くで蠢くような地鳴りが始まった。
「何? 地震?」
放心するわたしの前にいち早く我に帰った桔梗が手を差し出す。
「わからないわ。葵ちゃんは大丈夫かしら。講堂は階段教室だから、私たちみたく投げ出されていたら……」
それを聞いた瞬間、わたしは具合の悪さなど吹っとんだように忘れ、桔梗の手を引っぱって講堂へと走り戻った。
中からは地獄のような阿鼻叫喚が聞こえてきてくる。
わたしはためらわずに講堂の扉に手をかけていた。
「樒ちゃん、今開けたら中から人が押し寄せてきて……」
桔梗の制止もきかず、わたしは観音開きの扉を渾身の力で引き開けた。
二度目の巨大な衝撃が足元を直撃したのはそのときだった。
扉に縋りつきながらわたしは葵の姿を探す。
この入り口近くに座っていたのだから、すぐ見つかるはずだ。
「な……」
けれど、実際に目に入ってきたのは真っ黒な闇のベールだった。
蛍光灯の灯すらも飲み込んで、机の上や床で呻く生徒達の上にも、それは吸いつけられるように覆いかぶさっていく。
そして、講堂に響いていたたくさんの悲鳴は、瞬時に消滅していた。
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