聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 6 章 帰 着
5
母の腕に抱かれている時を思い出した。
『樒』
最後に抱きしめられたのはいつだっただろう。
ほんのり甘くて包み込むような匂いのするお母さん。
『もう大丈夫だからね。お母さんが来たからには何も怖いものなんかないんだからね』
泣いていたのか、頬は風に吹かれてうっすら筋を描いて冷たくなった。視界は暗い。何も見えなかった。ただ真っ暗で、わたしはひたすら何かに脅えていた。
あれは、何歳のときだろう。祭囃子が遠くで聞こえる。
そうだ。わたしは、迷子だった。
すれ違う人たちみんなが白い狐の面を被っていて、誰が誰だかわからない。立ち止まったわたしの両脇を、彼らは迷子が足元で泣いているとも思わずに無関心に前だけを向いて進んでいく。
道の真ん中でぽつんと、わたしはつっ立っていた。指には赤いヨーヨーのゴムを通し、ついさっきまで夢中でついていたことも忘れて上を見上げていた。誰かを探していた。
お母さんを探していたわけじゃなかった。
お父さんを探していたわけでもない。
まだ小さな弟を探しているわけもない。
でも、誰かを探していたんだ。
『りゅ……に……』
必死で誰かの名前を思い出そうとしていた。
『なんだ、お前も迷子なのか?』
青い浴衣を着た知らない男の子に手を握られて、白い狐のお面ばかりの雑踏から抜け出して、わたしは入り口近くの鳥居の下をそわそわと行ったり来たりしているお母さんを見つけた。
『あれか? お前のお母さん』
そうだよ。あれがわたしのお母さん。
『よかったな。もう迷子になるんじゃないぞ』
待って。あれはわたしのお母さん。でも、わたしうんって言ってない。お願い。手を離さないで。
ぎゅっと手を握った。
わたしの探しているのはあなたなの。
『りゅ……に……ぃ……』
わたしと同じ目線の男の子は、握った手を同じくらい強く握り返した。薄茶色の瞳がわたしの前髪をかきあげて間近から覗き込んだ。
『大切なお母さん、泣かせちゃだめだ』
小さな唇がおでこに触れて、男の子は思い切るようにわたしの手を離した。
その瞬間、お母さんがわたしに気がついた。
血相を変えて飛び出してくるお母さん。
人ごみの中、男の子は見えなくなっていた。わたしはお母さんの腕に抱きしめられて、思い出しかけた何かをまた手放した。
お母さんの匂い。温もり。わたしを守ってくれる腕。
安心していいんだ。何もつっぱねなきゃならないことはない。この腕はわたしのためのもの。ずっと、憧れ欲しかった場所。無条件に甘えさせてくれる場所。
そういえば、あの男の子は無事にお母さんのところに戻れたんだろうか。■
時空軸は母親の腕も同じ。
大事に人々の記憶を守ってくれる揺り籠のようなもの。
その揺り籠の中で生まれいずる時間を守るため、人々を守るため、わたしは決意したはずだった。そのための、彼女達はほんの小さな犠牲なのだと言い聞かせてきた。
だからこそ、叶えられる願いは聞き届けたかった。
でも、唯一の願いが死だなんて、あんまりだ。
「いや」
ようやく押し出した声が震えた。
鼻がくすぐったくなって、目頭が熱くなって、わたしは口元を引き締めた。
肩に、昨夜真由に屋上で突き飛ばされた時の手の感触が蘇っていた。
そう、小さな時のずっと忘れていたわたしの記憶。その手は小さくなどなくて、幼いわたしの手などよりもよっぽど大きな手をしていた。わたしを守りたいという力に溢れていた。
真由、真由の魂は今どこ?
ちゃんと輪生環を通って転生してる?
過去の記憶に囚われずに、今を生きてる?
時を変えることの悲しさを、わたしは今身をもって味わわされていた。
なぜ、愛優妃はユーラをちゃんと転生させてくれなかったの?
なぜ、ユーラはまた〈悔恨〉の炎に身を委ねるようなことをしたの?
それは……問うまでもない。この世からファリアスが消えたから。
それでも、現在の記憶に存在が灼きついているなんて悲しすぎる。
倒さなければよかったのだろうか。ファリアスを。この繊月に番える矢で刺し殺しさえしなければ、ファリアスとユーラはまだ一緒にいられただろうか。
わたしの手は、真由以外、誰の死の感触も知らないままでいられただろうか。
もっと時間があれば、聖が考えるよりももっといい方法を考え出せたんじゃないだろうか。
「命を生かすことが、果たして一番なんだべか」
むせ返る瘴気の中、妙に訛った男の声が聞こえた。
「愛優妃様は、ユーラさんが何を望んでるか知ってただ。だから、輪生環を通さずに過去の運命を入れ替えた」
闇獄界で生き別れたままになっていたクレフの声だった。綺麗な声の割に、あの強烈な訛りは間違いない。
「クレフ? クレフなの? どこ? 無事だったの? 無事だったなら姿を見せて」
一条の光を見出したような嬉しさに、思わずわたしは闇の中で叫ぶ。
「樒、ユーラさんの願いごとは樒にしか叶えらんね。闇獄主は、獄炎に負けて理性を失ってまで生きていたいとは思わねのす。だから、早く」
優しく諭す声に頷いていたのに、最後に投げかけられたその言葉は、わたしを突き放すも同然のものだった。
「クレフ……クレフまでそんなこと言うの? どうして? どうしてそんなひどいことが言えるの?」
聖だったわたしの口が詰っていいものではなかった。
元をただせば、聖がファリアスとユーラをそこまで追い詰めたのだ。
それに、すでにわたしの手はファリアスの血で汚れている。
あの重い感触が、錘のように手首に下がっている。
――いずれ忘れてしまう記憶でしょう?
もう一人のわたしが軽く囁いた。
なら、一人も二人も同じよ。それでユーラが幸せになれるっていうなら、これも罪滅ぼしでしょ。
「罪……滅ぼし……」
本当に?
本当にそんなことでわたしの罪は消える?
消してしまっていいの?
忘れてしまっていいの?
わたしはそれで、後悔しない?
真由の時のように、息する人形のように戻ってしまったりしない?
「ああ……どうして生きるっていうのはこんなに難しいんだろう」
ため息が零れだした口から、瘴気が怒涛のごとく流れ込んできた。嚥下を起こそうがむせようが、おかまいなしにそれはわたしの体内を駆け巡りはじめる。
「聖刻法王、汝の望みを言え。我が新しき器として召抱えてやる」
握った双祈を支えにして前倒しに覗き込んできたレリュータの目には、すでにさっきまで見え隠れしていた悲しみが見えなくなってしまっていた。
「召抱えてやるって、ずいぶん上から目線なんだね。残念ながら、わたしは自分の望みはもう人に託したりしないって決めたの。後悔しないためには自分で道を切り開くしかないって、嫌なくらい思い知ったから。それに、わたしは聖刻法王じゃない。守景樒だよ」
レリュータ、ごめん。
そう心の中で呟いて、わたしは台の上に上半身だけ仰向けになったその状態で、両手と腹筋に力を込めて両膝をレリュータのお腹めがけて繰り出した。
「ぐっ……は……」
レリュータはお腹を抱えて後方へとよろめいた。
わたしは首の上で交差して両脇に突き立てられていた双祈を引き抜き、身体を起こす。
「レリュータ」
抜き取った双祈を、わたしは膝をついて苦しげに咳きこんでいるレリュータの前に放り投げた。
「緋桜はいいの?」
体内に入り込んだ瘴気を、二、三度咳をして吐き出す。たったそれだけで全部が出きったとは思わなかったけれど、もう何回か咳をしたところで身体の奥底まで入り込んだ〈悔恨〉を呼び覚ます闇を吐き出すのは困難なことだろう。
構わない。
生きてるなら一度や二度の後悔は当たり前だ。
その事実から逃げようとするから、後悔は誰かへの憎しみや恨みへとすりかえられてしまうんだ。〈悔恨〉は、そんな人の様々な思い出と業を糧に生まれた。
「緋桜の母親は、貴女だけだよ。貴女たちは緋桜のために聖との契約に頷いたんでしょう? いいの? 今、見捨てることになってもいいの?」
床の上でお腹を抱えてのたうっていたレリュータがぴたりと動きを止めた。白い腕がすっと双祈へと伸びる。
「馬鹿じゃない? どうして双祈を返したりしたのよ。これを砕けば、私は終われたのに」
「終わりにしたいなら、どうしてそれに手を伸ばしたの?」
双祈の柄を握りかけたレリュータの指が開いた。
「レリュータ。望みを」
繊月に矢を番え、わたしはレリュータに狙いを定めて腕が震えるまで引き絞った。
わたしがレリュータの望みを叶えてあげるのではない。レリュータの望みを叶えるためにこの手を貸すだけ。
青い瞳に光が戻り、レリュータの白い衣を纏った身体からどす黒い瘴気が溢れ出した。
「緋桜は母の腕を知らない。その腕がどんなに安心できる場所か知らない。澍煒もそうだった。その緋桜から母の腕を奪ったわたしが言うのもおこがましいけど、貴女には生きて欲しい。緋桜を愛しいと思う貴女には」
生かしてどうする?
〈悔恨〉を抱えている限り、彼女は永遠にわたしの命を付け狙うよ。
緋桜への愛と、わたしへの虞と憎しみに板ばさみにされたままになってしまうよ。
「ひ……ぁあぁ……」
心の隙間に湧き上がった反論、微かな迷い。
その隙を見抜いたように、レリュータの手は双祈の片割れをわたしめがけて投げていた。
左脇腹にぶら下がった重く鈍い痛みが、わたしの身体を石畳の上へと導いていった。
頭が真っ白になる。
痛みで?
違う。痛くなんかない。
二本の鋭い爪が深く突き刺さった衝撃が、脳髄を揺らしていた。
身体中を寒気が覆う。
『非情なる時の精霊たちよ
汝らが研ぎ澄まされし牙をもち
我が敵の身に宿りて 時の歯車を狂わせよ
未来を引き寄せ 現在を蝕め』
「腐食」
冷徹なレリュータの声が双祈を揺らした。
じゅっと火傷したような嫌な音が廟中に響く。
双祈の突き刺さった部分が熱く融かされていくような感覚に、おそるおそる左脇腹を見ると、双祈の刺さった部分から同心円状にシャツが裂けて血を流す肌が紫色に変色しはじめていた。
こみ上げた吐き気に腕を上げる力もなかった。
双祈を引き抜く力も勇気もない。
「貴女さえいなければ、私はファリアスと緋桜と三人で暮らすことも出来た。そんな未来があったっていいでしょう? 時を巻き戻してやる。貴女と出会う前に。この廟ではなく、もっと遠くに逃げてやるわ。〈預言書〉の未来に、貴女の復活はなかった。三界全ての時を解いて、百年前からやり直してやる」
手から滑り落ちていた繊月は魔法石に戻り、瘴気を纏わりつかせたレリュータの手に拾われた。
「返……して……」
伸ばそうとしても腕は最早一ミリたりとも動かなかった。
双祈に命が吸い取られていくのが分かった。献血で血を抜かれるよりも、もっと容赦なく大切なものが抜き取られていく。
視界は白く靄がかかりはじめていた。
魂が消滅するって、痛いんだろうか。
今はもう何も感じなくなってしまっているけど、それがずっと続くんだろうか。今考えているこの意識すらなくなってしまうんだろうか。眠ったまま夢も見ず、永遠に。生まれたときに立ち返って、存在すら抹消されてしまう。そんなこと、消えたわたしは知る由もないのだろうけれど。
死を怖れるようになったのは、今の身体になってからだ。人間になってから、やけに死というものが身近になった。
聖の時は、親しくした人があっという間に年をとって死んでいった。そういうものなんだと、割り切れるようになったのは成神してからだったと思う。それでも、自分だけは死なない、死ねないと言われて育ったから、死というものが自分に降りかかる日など永遠に来ないと思っていた。
病の苦痛は永遠に続くのだと思っていた。
――いっそ殺して。
有極神は願いは叶えてはくれなかった。
私は龍兄を振り向かせたかっただけだったのに。
身体が朽ちていく。
内側から、腐っていく。
いつか、魂すらも蝕まれて私は消滅するのだろうか。
死を望みながら、死を怖れていた病床。
麗兄様の死は、私に安堵をもたらした。鉱兄様の死は、私に確信をもたらした。
法王の身体でも終わりを引き寄せられるのだと。
もう、終わることしか考えていなかった。
この身体に閉じ込められたまま歩む未来など、すでに見えてはいなかった。
『炎……』
夢に歩く戦場。
緑豊かに茂り、水は清らに流れていた大地は、煤けた煙を上げる荒野と成り果てていた。
山となった闇獄兵の骸の上、風兄様が炎姉様の亡骸を抱きしめていた。
静かな慟哭。
泣かないで、風兄様。
未来で必ず会えるから。
届かない声を真っ直ぐ伸ばされた背にかけて、私は飛び立つ。
龍兄。
逢いたい。龍兄。
雪が大地を覆う北の地へ。
魂だけの私はなんて身軽なことだろう。
いっそ、ずっとこうやって生きていけたら……そうだ。身体なんてなくても、私は生きていける。病に蝕まれることのないこの魂だけで、時を重ねることは出来る。そうすれば、転生のサイクルに煩わされることなく、目的を遂げることが出来る。
龍兄。
夢に遊べる時間は次第に暗い仕切りに蝕まれるようになっていた。
あの身体が滅ぶ前に、出てしまわなければ。
次に戻ったら、もう二度とこうやって外に出てこられないかもしれない。
龍兄。
今、逢いに行くよ。
『この者に愛しまれし記憶たちよ
この者の喜び全てを象りし記憶たちよ
その形失うことなく 色褪せることなく
眠る汝らが主に醒めることなき永遠の夢を与えよ』
「〈封印〉」
有極神を封じ込めて、私は病床を蹴る。
〈渡り〉で降り立ったのは、静寂しかない病床とはうって変わって、かまびすしい鬨の声が大地を揺らす最前線を睥睨する切り立った崖の上だった。
眼下では、今まさに真紅の布に黒く獅子の紋様が入った旗と、桜花の紋が入った白銀の旗とが激突しようとしているところだった。雄叫びとぶつかり合う甲冑の音が竜巻のように暗雲を抱く天へと立ち上っていく。
その最前線、その人の姿はあった。
従者のベリテオーネルに左を守らせ、白いユニコーンを駆って縦横無尽に戦場を駆け巡り、血の前線を押し進めるその姿はまさに鬼神。
音に聞き、想像していた姿よりも遥かに雄雄しく覇気に満ち、しかしながら銀の衣装を血で赤く濡らしながら蒼竜を振るう様は、神界の将にあるまじき禍々しさを漂わせていた。
「我は天龍法王。この永遠の命をもちて、神界の民の楯とならん。この大地蹂躙したくば、先ずは我が首とってみよ」
あれだけの雑音、騒音の中にあって、名乗りを上げる龍兄の声は地平線の彼方にまで鳴り響いていった。
兄様たちも、炎姉様も、戦場ではいつも最前線に立っていたという。
どれだけ切り刻まれようが、どれだけ矢を受けようが、私たち神の子は死ぬことがないから。なにより、契約を結んだ精霊が死を許さない。法王の死は世界の拮抗を崩すから。
そう言われてきたのに、熱も土も炎も、変わらずこの世に存在している。
何故、この第三次神闇戦争に限ってこうもたやすく兄様姉様たちが命を落としたのか。死ぬことは予言されていても、理由は何も記されていない。もしかしたら統仲王なら何かを知っているのかもしれないけれど、統仲王は何も私たちに教えてはくれなかった。兄様姉様たちを集めても、ただ戦略を練るための話ばかりをしていた。
闇獄兵たちが龍兄に殺到していく。
龍兄はそれを蒼竜一振りで薙ぎ倒し、突き進んでいく。その後ろから、天龍の国と主を弔うために志願した魔麗の国の兵達がいっせいに押し寄せ、前線を押し上げる。
何かに取りつかれているかのような剣さばきだった。
死を見ていたのか、未来を見ていたのかは分からない。
でも、突き進むその先には何かが見えているようだった。
龍兄。
予言書は、この羅流伽の戦いで龍兄が戦死することを定めている。
そして、私は病床で肉体から解き放たれる。
目に焼きついた予言書を消すために、ゆっくりと目を閉じ、開けたときだった。
「我が名はグルシェース。闇獄十二獄主が一、〈憤怒〉を従えし者なり。天龍法王、貴殿に手合わせ願いたい」
大砲が爆発したかのような大音声が轟いた。
黒い駿馬に乗って闇獄軍の前線を掻き分け前に出てきたのは、黒銀の甲冑が眩しい大男だった。
声は聞こえど、ここからでは表情までは見ることは出来ない。
だが、グルシェースと名乗った男は戦場でありながら、それも闇獄主が一と名乗りながら、とても嬉々として大剣を振るったように見えた。その剣の大きさときたら子供一人分はあろうかという長さと幅広さを有している。蒼竜など受けただけで折れてしまうのではないかというほど、ここからは頼りなく見えた。
龍兄の頷きに応じて、闇獄軍も神界軍も両者の周りから離れ、別の場所でぶつかり合いをはじめる。
騎獣から降り、剣を合わせた龍兄とグルシェースの技量は互角のようだった。グルシェースが体格がいい分、圧しているようにすら見える。
その間にも周囲の状況は一変していた。
龍兄の切り込みに応じて攻め込んでいた神界軍は、いまや龍兄を孤島のごとく残して引く潮のようにあっという間に後退していた。
あの位置からならば、本陣で燃やされている松明の煙すらも見ることが出来るだろう。
だめ。
それ以上は下がってはだめ。
誰かいないの?
誰か力になる者が……。
『お姫様』
「サザ、あなたが龍兄の側にいてくれたらよかったのに」
あなたほど、龍兄にとってこの上ない片腕になれる人はいなかったろうに。
私が悪いのだ。
私が真実を皆に告げなかったから。
サザは無実なのだと、声を荒げて主張しなかったから。時空の狭間にサザが流された時、私がまだ眠っていたから。
疑わないで、龍兄。
何もなかったのよ。サザとはキスすらしていない。
お前は悪くない。そう言いながら、どうしてそんな蔑むような目で私を見るの?
恨んでない。私はサザを恨んでなんかいない。ただ龍兄に信じて欲しかっただけなの。でも、あなたが固く口止めをするから……サザ……あなたはどうしてそんなにも龍兄から離れたがったの?
いない人を恋しがったって、頼りにしようとしたって、詮無いことだった。
『この世に生まれし者 即ち 時を紡ぎし者なり
闇に堕ち 心忘れても 記憶は消せず
生ある限り 正邪隔てず 同じく時は流れる
ならば 時の精霊よ
我 彼らに時の記憶の祝福を与えん
忘却の淵に沈められし忌まわしき記憶を呼び覚まさん』
「降り注げ、〈時の矢〉」
白矢を番えた繊月の弦を引き絞り、曇った空に向けて放つ。
白夜は雲を切り裂くかと思いきや、幾筋もの矢に分かれて流星雨の如く大地へと降り注いだ。
生まれ来て、最も思い出したくない記憶を引きずり出し、目の前に蘇らせる魔法。もしかしたら、この世で最も残虐卑劣な魔法かもしれない。たとえ対象が闇に堕ちた者たちだとしても。
間もなく、闇獄軍の兵士達は残らず動きを止めた。じっと何かを堪えているかのように一点を見つめた後、悲鳴の柱が一帯から昇り上がった。彼らは握った剣を放り投げ、喉元を、胸元をかきむしり、ひとしきり暴れると糸の切れた凧のように踏み崩した大地の上にぱったりと倒れ、指先すら動かなくなった。
片や、神界軍からは喝采が上がった。
「聖様だ……聖様がおられるぞ!」
「聖様が加勢ににいらっしゃってくれた……!」
「おお、これで我が軍も……」
口々に、彼らはこちらを向いて跪きはじめた。
魂だけの私の姿が見えているのだろうか。それとも、降り落ちる純白の光に時の精霊の気配を感じたのだろうか?
見えているにしろ、見えていないにしろ、もはや私にはここに立ち続けるだけの体力は残っていなかった。
龍、兄……。
首をめぐらせ、龍兄を探す。
龍兄とグルシェースは、重なるようにして倒れた闇獄軍の兵士達の中で、演武でもしているかのようにまだ華麗に剣を交えていた。
あの位置ならばグルシェースも時の矢を受けたはず。なのに、その太刀筋に乱れはない。それどころか、グルシェースはますます鮮やかに大剣を繰り出していた。
対照的に、蒼竜を繰り出す間隔が次第に短くなっていた龍兄の眉間には、険しいものが宿っていた。
その表情に余裕を見出したのか、グルシェースは口元を歪めた。二言、三言言葉をかけて蒼竜ごと龍兄を跳ね飛ばすと、よろめくように後退した龍兄に向かって間髪をいれずに大剣を振りかざして突っ込んだ。
私は思わず息を飲み込んだ。
この戦いの結末は知っている。
それでも、あのグルシェースの勢いは予言書の運命をも動かしそうに見えた。
神界軍も息をつめて二人の行く末を見守る。
さらりと冷たく乾いた風が頬を撫で、ほろりと涙のような真白い雪の欠片を置いていった。
白く雪に霞みはじめる視界の向こう、グルシェースの分厚い背中から、青白い光が突き出ていた。
ゆっくりと倒れ掛かったグルシェースの陰に隠れて見えなくなっていた龍兄は、蒼竜を引き抜き、グルシェースの身体を大地へと横たえる。
が、無事に見えた龍兄も、一度立ち上がったかと思うと、肩から脇腹にかけて赤い飛沫を上げて両膝をついた。かろうじて両手に握った蒼竜に助けられて地に倒れ伏すことは免れていたが、崩れるのも時間の問題のようだった。
一瞬の静寂。
神界の兵士達は津波のように龍兄の元へと駆け寄っていった。
――龍兄。
『聖』
心の中で呼ぶと、すぐ耳元で声がしたような気がした。
遠く雪が闇獄兵たちを覆い隠していく中、肩で白い息を吐き出しながらも龍兄は確かにこちらに顔を向けていた。
『聖、共に……』
青ざめた唇が震えるのが見えた気がした。
『共に……行こう、聖』
全身にざわりと冷たいものが駆け抜けていった。
龍兄が手を伸ばす。私に向かって。
ようやく背中ではなく、正面から手を差し出してもらったのに。
「ごめん……なさい……。ごめん……なさい……」
私は口元を両手で押さえ、泣きながら首を振るしかなかった。
伸ばされた手をとりに〈渡り〉を使うことさえ、もう出来なかった。
「ごめんなさい……龍兄……。大好きだよ。大好きだけど、私、一緒に行けない……」
あの手が妹に差しのべられたものだったとしても、愛しい人に差しのべられたものだったとしても、もうどちらでもよかった。一緒に行こうと言ってくれただけで、私は幸せだった。
なのに、どうして私はいつもこう、タイミングが悪いんだろう。
「お姫様。いいの、行かなくて」
「……サザ……」
そして、この人はどうしていつも全てが終わってから出てくるんだろう。
「どうしてもっと早く来てくれなかったの?」
「追い出したのは君たちだよ。でも、ねぇ、お姫様。連れてってやろうか。あいつのところ」
魂だけの私の傍らで、サザは私には目もくれず、龍兄だけを見つめていた。
私は懸命に首を振る。
頷いてしまったら、この先の未来がだめになってしまう。
「馬鹿な子」
サザは、ぼそりと一言呟くと私の側から消えていた。その姿は、次の瞬間には龍兄に駆け寄る群集よりも早く倒れた龍兄を抱き起こし――。■
死なんてものは、自分には関係ないと思ってた。
「おい! 守景! 目ぇ醒ませ、守景!」
やめて。揺さぶらないで。お腹が痛い。焼けつくように、酸に溶かされていく。時の牙が、身体の中に食い込んでくる。
「守景!!」
懇願するような悲痛な叫びに、わたしはうっすらと目を開けた。
意識を手放した覚えもないのに、いつの間にか誰かがわたしの肩を抱きしめていた。
「龍……兄……」
虚ろに呟いた言葉に、彼は少しの戸惑いを安堵の表情で覆い隠して不器用に笑ってみせた。
「逢えた……逢えたんだね……。未来で、ちゃんと逢えた……」
伸ばした手をちゃんと握って、彼は――夏城君はそっと額を寄せた。
「守景、緋桜と飛嵐はどこ行った? その傷、藤坂が治癒しても、血は止められても紫色のは治せなかった。時の精霊が絡んでるなら、俺たちじゃどうにも出来ない」
焦りの滲んだ声にようやく過去夢を取り払われて、わたしは目を見開いた。
夏城君に伸ばした左手は、エイリアンか何かのもののようにひび割れて紫色になっていた。焙られるような痛みは意識を失う前ほどではないが、ちりちりと身体中を突き刺している。
「レリュータは?」
「科野たちが相手してる」
時たま破裂する閃光が、そういえばちかちかと薄暗い天井を照らし出している。そうこうしているうちに、金属のかち合う音、気合の入った声、応援に徹しているらしい桔梗の声が次第に大きくなってきた。
聖の廟内にいるのはかわりないようだった。
時が経過したのを告げるのは、いつの間にか助けに入ってくれていたみんなの存在と、左手まで拡大した時の侵食。
「緋桜と飛嵐とは時空軸ではぐれたの。時空軸にレリュータが現れて、いつの間にかここに連れ込まれてた。夏城君たちはどうやって? 天宮で消えたとき、もう時を巻き戻さなきゃ逢えないんじゃないかって……」
「俺達はそれぞれあちこちの時間飛ばされてて、最終的にここに――守景?」
まだ、泣いちゃだめだ。
泣いちゃ……
「お願い。もう一人にしないで。ずっと側にいて……夏城君……」
この腕の中に抱かれていると、ついさっきまで一人で立っていたことを忘れてしまう。この胸に顔を埋めていると、何があっても大丈夫っていう気になってしまう。
自分を甘やかしたくなってしまう。
自分が一人だったことを忘れてしまう。
「守景……」
「ごめん。そんなこと言ったって、さっきのはどうしようもなかったよね。時空軸が崩れちゃったらどうしようもないよ。わたし、詰るつもりだったんじゃなくて……」
夏城君の困った顔が見たかったんじゃなくて。
塞がれた唇が震えた。
こんな時なのに、触れ合える喜びに胸がいっぱいになっていく。触れてもらえる喜びに身体中が震えていく。
このまま、一つになれたらいいのに。
時さえも止めて、このまま震える喜びの中で固まってしまいたい。
「夏城君……ありがとう。もう大丈夫だよ」
唇が離れた寂しさは一瞬のこと。
軋むほど強く抱きしめられて、わたしは窒息しそうになりながら夢を見る。
「今」から百年ほど前、この場所でファリアスがどんな思いで願いを口にしたのか。ユーラがどんな想いでそれに頷いたのか。
聖が彼らの気持ちを本当に知っていたら、未来はまた別なものになっていたに違いない。
「俺、言葉が足りなくて……いつも必要な言葉をかけてやれなくて……お前に何もしてやれない。抱きしめても全てから守ってやれるわけでもない。いつもだ。いつも俺は後になってからあの時ああしていればって、お前から目を離さなければって……後悔してばかりだ」
囁かれて、わたしはちょっと苦笑した。
「夏城君、いつまでわたしの保護者のつもり? わたし、もう龍兄の小さな妹じゃないよ。もうずっと前からだけど、わたし、守ってほしいんじゃないの。側にいてくれればそれで十分。一緒に行こうって手を差しのべてくれれば、今度こそ拒まず掴むから。だから――」
絡めあった指に力がこもったときだった。
『時を刻む石よ
その身震わせ 記憶の揺籠を生み出す石よ』
その声は、桔梗や葵たちの気合の入った声の間を縫って、しみとおる水のように静かに響いてきた。
「レリュータ……それは……」
夏城君を振り返ると、夏城君は黙って頷いてくれた。
後押しされて、わたしは声の聞こえ続けていた方へと飛び出した。
『我 時の精霊に守護されし紅き血を以って命じる
汝 我が前に積み重ねられし時の塔を差し出せ
理を外れ 歪められし運命
今こそ我が手にて改めん』
「レリュータ、だめぇぇぇぇっっっ」
葵の炎も、光くんの氷結も、織笠君のレリュータの身体中に巻きついた蔦も、切り刻む河山君の鎌鼬も、足元を埋めた三井君の土も、レリュータからわたしの魔法石を奪い、その口を塞ぐことはできなかった。
レリュータは、やっと現れたわたしを見て――やけにすっきりとした微笑を浮かべてみせた。そして。
「時戻」
裁きを待つかのように、静かに青い瞳を閉じた。
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