聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 6 章 帰 着
4
「サザ」
驚きはしなかった。さっきからわたしを惑わしていたのは、この人の声だと気がついていた。
「えー、驚かないの？」
唇を尖らせて、サザは不満げにわたしを見る。
「驚かないよ。聖をお姫様って呼ぶのはサザくらいだもの」
「つまんないのー」
「サザ！ あんた、一体何しに来たのよ！ 昨日は聖刻の国にも来て余計なことしてって！！」
帰ろうかなとでも言うそぶりを見せたサザに対し、緋桜はただでは帰さないわよとばかりに、わたしの数倍も息巻いていた。
「澍煒。お前、すっかり人間ぽくなっちゃって……同じ精霊王として嘆かわしいなぁ」
はぐらかすような言葉とは裏腹に、サザの背後では緊張感溢れる音と共に白い雷光が閃いた。
突然のことに目が眩んで、わたしは二、三歩後退る。
撃たれてもいないのに音に脅えて肩は聳え、一瞬で戻ってきた闇に目は何も映さなくなっていた。
「ああ、闇の精霊が多いとこであんまり放電すると律に怒られるんだよねー。見つかってなきゃいいんだけど」
「同じ精霊王として嘆かわしいのはこっちの方だわ。人間ぽくなってどうこうって言うけど、あんたなんか元からその性格でしょ」
「そう。だから闇獄界って結構居心地よくて気に入ってるんだ。神界はお綺麗過ぎて住み心地が悪い。追い出されて正解だったよ。ね、お姫さん」
ようやく闇に慣れてきた目の前に映ったのはわたしの額にあてがわれた白い指先。陽気だけど、どこか屈折した思いを宿したサザの黒い瞳。
どきんと心臓が跳ねたのは、喜びに胸が高鳴ったからじゃない。さっと肩に落ちた霜が冷や汗すらも凍らせて、聖の記憶のかけらを奥へ奥へと封じ込めていく。
「俺が恐い？」
赤い唇の端が歪んで嘲りの雫がこぼれた。
「俺が憎い？」
「……どうしてわたしに構うの？ 夏城君、探さなくていいの？」
恐いとはかすかに思う。聖はこの人の関してほとんど何も教えてくれない。幼い頃、一緒に遊んでもらった記憶はあるのに、顔を見ればうっすらと悲しい怒りのようなものが心の中に湧き上がってくる。でも、憎いとわたしが言うにはまだ及ばない。憎しみはそんなに簡単には造成されない。昨日今日で、たまたま聖刻の国でレリュータと共にわたし達に刃を向けたからといって、警戒こそすれ、憎む理由はさしてない。
「あっは。あいつを探せって？ 探してどうしろって？ 残念ながら、俺はあいつに忠誠心も何も持ってないからね。あいつが死のうが消えようがどうだっていいの」
「魔法石の中に自分の命が握られていても？」
「関係ないね。命なんてもんに縛られて自由を奪われる方が、俺はよっぽど困る」
「でも、命がないと自由もないでしょ？」
「違う違う。自由があるから生きてる意味があるんだよ」
つくった笑みが張りついた顔が近づいてきたかと思うと、やけに赤い唇がわたしの頬に触れた。
「な……っ……」
キスされた頬を押さえて、わたしは思わずサザを睨み見た。
突き飛ばすまでの余裕はない。
「やっぱ女の子のほっぺたは柔らかいなぁ」
「ちょっとちょっと！ あんた、それ以上うちの樒に近づかないでもらいましょうか？！」
満足げに舌なめずりしたサザを、緋桜がわたしから引き離す。
「いいじゃない。御礼だよ。お、れ、い。飛嵐の本心、誰のおかげで聴き出せたと思ってるの」
真っ白になってた視界に、得意げなサザの笑みが戻ってきた。
「サザ……」
今生でも、やっぱりあなたはわたしに本心をはぐらかしてばかりなのね。
「そんな切ない声で呼ばないでくれる？ 今度はほっぺじゃなくて口にキスしたくなるじゃない」
赤い口を手の甲で拭うそぶりをして、サザの姿は闇の中に消えていた。
「ったく、あいつは一体何をしに……！」
怒り心頭の緋桜は、取り出したハンカチでサザがキスしていったわたしの頬を一所懸命拭きはじめる。
「何って、ちゃんと時の理を整えてもらうために決まってるだろう。またお姫さんに失敗されたらかなわないからね」
生真面目に答えだけが返ってきて、緋桜は声のした方を睨み見た。
「感謝なんかしないからねっ」
「されるつもりなんかないよ」
返ってきた答えに、緋桜は深くため息をついた。
「飛嵐、あんた、何で何にも言い返さないのよ。それどころか追い帰しもしないで！」
「私は樒の番犬じゃないからな」
「はぁっ、誰が番犬よ！」
息巻いた緋桜に、飛嵐はふっと口元をほころばせた。
その表情に、思わずわたしは見入る。
「心配かけたな、澍煒」
澍煒と呼ばれたにもかかわらず、緋桜は口を引き結んで一瞬、視線を下に落として瞼を閉じた。
聖と飛嵐の不仲をずっと心配してきたのは、誰あろう間に挟まれてきた澍煒だったに違いない。一番近くにいるのに、何も出来ない歯がゆさに、一番悔しい思いをしてきたのも。
飛嵐は澍煒の思いを知っていても、自分の気持ちに素直に生きるしかなかった。
「心配なんか……してなかったわよ」
ほっとした口調で吐かれる嘘はこの上なく安らぐ。気がかりなことは全て過去のことになったのだと。
「ほんとにあいつっ、わけわかんないっ」
和みかけた空気を締め直すように、緋桜は一言言い捨て、わたしに向き直った。
「樒！ 魔法石！」
「え？ は、はいっ」
緋桜ほど気持ちの切り替えがうまくないわたしは、ぼんやりとしたまま緋桜に命じられるままに魔法石を取り出した。
「まずは時空軸の歪を修復して瘴気の侵入を止め、それから浄矢で軸内の瘴気を全て清める。時を戻すのはそれからよ」
「結構……大変だね」
刻生石を内包した魔法石は、変わらず白い輝きを闇に放ち続けている。
「大変だけど、あいつが払ってった瘴気が戻ってこないうちにちゃっちゃと片してしまわないとね」
緋桜は忌々しげにサザが消えた方を見やった。
「さっきの雷光って、そういう意味だったんだ……」
全く、わけが分からない。敵なのか、味方なのか。
もっとも、あの口ぶりからすると、そういった枠にはめられること自体が好きではないのかもしれない。だから、人をはぐらかし、もしかしたら、自分の心すらもはぐらかしてあの人は生きている。
昨日までのわたしのように。
でも、果たしてそれは本当の自由なんだろうか。外から見た自由の体裁を整えようとしているだけじゃないだろうか。少なくとも、自分の心からは誰も自由にはなれないのだから。
「樒、魔法石を」
すでに気配の消えた闇の中、ついサザの姿を探してしまったわたしの前につと飛嵐は跪き、両の手をさしだした。
「え？」
動揺して緋桜を振り返ると、緋桜は面白くもなさげに頷いて見せた。
わたしは指を開くように飛嵐の手の上に魔法石を落とす。
飛嵐は右手の指先を鉤爪の鋭い原型に戻すと、すっとその爪で左腕を撫ぜた。白い腕に一筋赤い線が浮かび上がる。
「飛嵐？」
一筋の赤い軌跡は腕の傾くままに赤い雫となって白い魔法石の上に零れ落ちる。
一瞬、サザの雷光に負けないほどの閃光が放たれた。
「お受け取りください」
目が慣れた頃を見計らって、飛嵐は両手で濁りなく白い魔法石をわたしの前に押戴いた。
何をしたのか、とは問うまでもなかった。
魂を込めたわけではないのだろう。精霊獣は現在のために存在しているのではなく、次代のために存在しているのだから。定められた契約者は遠い未来、この世界が崩壊した後に現れる。もちろん、その時には契約など結ぶ必要もないかもしれないけれど。
でも、これは契約だ。
わたしが存在する間は、その血を賭してわたしに力を貸してくれるという。
魔法石を掴む指先が震えた。
いいの？ 本当に、いいの？
嬉しさなどではなく、これは不安。
飛嵐にまた裏切られるのではないという不安なんかじゃなくて、わたしにそこまでの価値があるのだろうかという。
「ナルギーニが教えてくれた。飛嵐は聖の良心の代弁者だったんだろうって」
いつも正しいことを諭す飛嵐を、分かってはいても受け入れることは出来なくなっていた。己の悔いを晴らすために時を戻そうと決心した時、一番邪魔だったのが時の守護者たる聖刻法王としての良心だった。
「飛嵐、わたしは飛嵐に何を返せばいい？」
魔法石を握ると、思った以上の力が体内に流れ込んできた。
脈打つような強さではない。水の流れのように穏やかながらもしなやかさを感じさせる温かな力。常日頃見せる飛嵐の感情の薄い表情からは想像もできないほど、それは鋼のような理性というよりも厳格な父性愛のようなものに満ちていた。
「何も」
短く答え、飛嵐は身を起こす。
左腕からはまだ赤い血が流れたままだった。
「大丈夫？ 結構深そうだよ、その傷」
「ご心配には……」
飛嵐の言葉を最後まで聞くことなく、わたしは持っていたハンカチを細長く畳みなおして飛嵐の左腕に巻きつけた。
「これでよし」
ハンカチの白地の部分には、早くも血が滲みはじめていた。
「樒……治癒すればよかったんじゃない？」
多少呆れた声で緋桜が言った。
「わたしが治癒したら、時間が契約前に戻ってしまうでしょ？」
ね、と飛嵐を振り返ると、飛嵐は大人しく目を閉じた。
主になる必要なんてない。
この契約は、わたしが飛嵐を使役するためのものではなく、力を貸してもらうための盟約。
わたしが、時を司る者としての良心を取り戻した証。
「全く」
苦笑混じりにため息をついた緋桜に合わせて、わたしも一つ息を吐き出した。それからもう一度吸い込んだ息を止めて、そっと吐き出す。
『時を刻み、生み出す石よ
三界を隔てる壁、過去から未来へと魂の辿る道を成す石よ
紡ぎだされたその道に綻びあれば 彷徨う魂も有りなん
定められし道を外れ 彷徨うものも有りなん
欠け落ちた時よ
時の精霊の力を借り
汝があるべき場所へと戻れ』
緋桜と飛嵐と三人、頷きあう必要もなかった。統率された時の精霊たちの流れが一瞬、ぴたりと止まる。
「修復」
唱えた瞬間、血を抜き取られたような目眩を覚えた。
大丈夫。
時の病になど陥らない。
この魔法は失敗しない。
閉じていた瞼を開いた時、変わらず瘴気は目の前にあったけれど、強く吹きつけるような強さはなくなっていた。
「樒、乗りなさい」
力を発揮しても息一つ乱していなかった飛嵐が、目も覚めるような白銀の鳥に変化していた。二つ返事でわたしは枝垂れた尾を辿ってその背に掴まる。緋桜はその身軽さですでに飛嵐の翼上にあった。
飛嵐は翼を力強く羽ばたかせ、闇を切り裂いて時空軸の先端――現在へと向かっていく。
吹きつける風に目を閉じている場合ではなかった。
『悠久なる時の流れにたゆといし 我が魂なる力ある石よ
時の王の魂、守護者の血の祝福を受けし 聖なる時の石よ
時空の理 守るため
今こそ一張りの弓となりて 我が手によみがえれ』
「繊月」
前に伸ばした右手にずっしりとした重みが生じる。
闇の中、二日月のように一見頼りなげな細い弓が静かに白銀の燐光を落とした。
「ここが、時空軸の先端です」
飛嵐は闇を掻く翼を止め、静かに告げた。
それまで規則正しく三界三本の軸が螺旋を描きながら伸びてきていたのに、その先端は無理やり引きちぎられたかのように乱雑に断ち切られ、今も目の前で崩壊、即ち過去へと向けて解け続けていた。
わたしは一つ頷き、気持ちを左手に集中する。
「白矢」
左手に現れた矢を弓に番え、わたしは過去へと身をねじった飛嵐の上から力いっぱい弓を引きしぼった。
『聖なる力を宿しし時の矢よ
穢れに満ちた闇をうち祓え』
「浄矢」
頼りなく風に舞っていた白銀の燐光は矢に凝り、手を離した瞬間、矢と共に闇を切り裂き呑みこんで、雷のように地へと落ちていった。数秒を置いて、ふわりと軽い衝撃が飛嵐越しに伝わり、眼下には染み一つない白い空域が広がっていた。
「これで浄化完了だね。あとは、進みすぎて崩壊した闇獄界と神界の時間を人界の現在とそろえてもう一つの現在をつくるだけ」
安心したせいだろうか。くらりとまた目眩がして、わたしは手から繊月を取り落としていた。
飛嵐の羽の中に埋まった繊月を拾い上げようと手を伸ばすと、繊月は自ら震えて魔法石に戻ってしまった。
「な……に……？」
ざわりと嫌な予感が背中を走る。
「緋桜、今の、何？」
「わかんない。こんな、魔法石が勝手に姿を変えるなんて……」
震える指先を魔法石に近づけると、魔法石から静電気のようなものが伝わってきて、わたしは思わず手を引っ込めた。
石には血管のように黒い筋が幾筋も浮き上がりはじめる。
「フェ、飛嵐、大丈夫だった？」
「私は大丈夫ですが……」
何か考え込むように飛嵐が言葉を濁した時だった。
「闇は時空を欲している。なぜなら、己だけでは無の中で存在できないから。それが、たとえ己を滅ぼすことになろうとも、一度理性の掛け金をはずされてしまうともう肥大化することしか考えられなくなる」
それはどこか自分に陶酔した声だった。わたし達に教えようとしているよりは一人で呟いているような。
「誰？」
緋桜が誰何の声を上げるよりも早く、わたし達の魔法石は黒い瘴気を思い切り吐き出していた。
思わずわたし達は悲鳴をあげ、のけぞりながら後退った。一歩、二歩、そして、三歩目。
飛嵐の背を辿っていたわたしの左手は空に落ちた。
のけぞっていたせいで、そのまま頭から宙へと沈み、視界は黒の世界からまだ穢されていない白の世界へと反転する。
そして、投げ出されたそこには、表情なく覗き込む顔があった。
溟く青い瞳。蒼白の顔。真っ直ぐに天へと向けて落ちる黒髪。
「……レリュータ？」
幽霊を見てしまったときのようなぞっと粟立つ寒さと共に、わたしは気づく。 彼女は何の表情も浮かべていないのではなくて、あらゆる感情に振り回されすぎて擦り切れてしまったのだということに。
彼女の青い目からは瞬きに応じて透明な涙が零れ上がっていった。
真っ直ぐに結ばれていた口元には、うっすらとしまりない笑みが浮かぶ。
ただ、やっぱり青い目には何の表情も浮かんではいなかった。
わたしを映しながらも、わたしなど見ていないかのようにその目の焦点は定まらず、かといって他にどこかを見ているわけでもない。
「守景君」
どこかから伸びてきた手に支えられて落下が止まったかと思った瞬間、瘴気に再び汚染された飛嵐たちのいる辺りから、威圧的にすら感じる男の声が降ってきた。
「誤解しないでほしい。今回、我らは静観を決め込むつもりだった。それが愛優妃の考えだったからね。むしろ私は手助けまでしようとしたのに、君は無碍にこの手を跳ね除けてくれた」
「高白羽、黎那……。……だから、こんなところで邪魔をしたっていうの？」
昨日人界で出会った闇獄界からの使者。ちょっとナルシーが入ってるあの人の声だった。
「冗談を。言っただろう。誤解しないでほしいと。我らとて、有あってこその闇。しかし、正気を失った瘴気のせいでこのまま時空軸が崩壊してしまったら、我らの存続も危うい。そこの精霊王が言ってたとおりだよ。そんな馬鹿な真似、自ら進んですると思うかい？」
逆さまのまま不安定に支えられた状態で、うまく思考が回らないままわたしはその声を聞いていた。何を考えているか全く心の裡を読めないレリュータを目の前にしながら。
「じゃあ、何をしに……」
頭に強制的に血が上ってくらくらしてきたところで、わたしの魔法石が闇を吐き出しながらどこをめがけるでもなく降ってきた。
きらりと目の前のレリュータの青い瞳に健全とはいえない光が宿る。
『我に慄き 跪くものよ
汝らが牙以ちて 刻み込め
己が主を忘れし者たちに 永遠の恐怖を』
「吹き荒れろ、〈破邪の闇〉」
レリュータの白い腕が魔法石を掴もうとする前に、吐き出される闇よりもなお黒い闇が魔法石を覆い、爆ぜる音と共に消えた。
残された白い大理石のごとき魔法石を前に、レリュータは伸ばした手を引っ込め、憎悪の目で上空を見上げた。
石は、レリュータの手に落ちることなくわたしの手の中に納まる。
「何をしたの？」
さっきのように手ひどく拒む痛みはなかった。大人しくわたしの手の中でまどろむ魔法石をしっかりと握って、わたしは高白羽黎那がいると思しき方を見上げた。
「君の魔法石の中で未だ燻っていた〈悔恨〉の闇を祓ったのだよ。悪いことではあるまい？ 私たちは君の存在だけは失いたくないのだ。しかし、〈悔恨〉が君を選ぶのであれば、それは止めることはできない。お互いに平和が戻ったら、また君に会いに行くよ。その時は、少しは今日のことを覚えていてくれたまえ。私たちは君の敵ではない。共に手を携えていきたいだけなのだということを」
上空にはまだ闇が立ち込めたまま。その闇の中で、一段と黒い人影が気障に立てた指を一振りして、闇ごと消えていった。
「……私を切るか……。私を〈悔恨〉たらしめた貴方が、私を切るのか……」
一度、消滅させたはずだ。
この魔法石――繊月の矢で、確かにその胸を突き刺し、その身体は灰になったはずだ。魂は輪生環に還ることなく、滅んだはずだ。
そのレリュータが、高白羽黎那へと向けていた静かな怒気を纏ったままわたしを見据えた。
「お久しぶりです、聖刻法王。いいえ、貴女にとってはつい数時間前に私を殺したばかりでしたか」
さっきまでのなんともいえない無表情から一転、レリュータは朗らかな微笑を浮かべた。
「樒、離れて！ その人、やばいよ！」
飛嵐の上から緋桜の悲鳴が聞こえた。
飛嵐はわたしを見つめつつも、近づきたくても近づけないもどかしさを懸命に目で訴えていた。
レリュータの醸し出す張りつめたオーラは、すでにわたしを呑み込み、異空間へと取り込んでいた。
「お会いしとうございました。聖刻法王」
会いたかったと、この一日の間に何度言われたことだろう。
けれど、今回ばかりは懐かしさに目を細めている場合じゃなかった。
「どれだけお会いしたかったことか。長い長い……百年でございました」
「百、年？」
「人は、悔いても生きていくことが出来ます。悔いたくらいで死ぬことはありません。ただ深く深く、重ねる時間をただ一時の過ちに執着して過ごすだけ。命は続いていきます。たとえ一人になってしまったとしても――出でよ、双祈」
レリュータの長い黒髪が空気を孕んでふわりと膨らんだ。
「繊月っ」
とっさにかざした繊月越しに両手に走った重い衝撃が和らぐ前に、レリュータは一歩引き、両手に持った双祈を振り上げて再びわたしに襲い掛かった。
一合に左右二撃ずつ。それを二合、三合と繰り返されて、悲鳴をあげながらわたしは必死に繊月で受け止める。
こんなに近くから撃ってこられたら、弓を引くどころじゃない。白矢を出す余裕すらありはしない。あっという間に腕が痺れて、四合目、衝撃に耐えかねて腕が曲がり、フォークの先のような双祈の鋭い切っ先が目の前に迫った。
思わず目を瞑って顔を背ける。
引けた腰と背中は、何かにつまずいてもつれた足が導くままに固く冷たい石に打ちつけけられていた。
苔でも生えてるんじゃないかと思えるくらいじめじめとした湿気が、夏城君の貸してくれたシャツとスカート越しに伝わってくる。
何故、時空軸にそんな石が存在しているんだろう。
答えは目を開ければ分かる。
開けられさえすれば。
「百年前、私はここで生まれた」
背けた鼻の先の空気を鋭く切り裂いて、何かが石に突き立った。
おそるおそる開けた視界に映るのは、不気味な輝きを放つ双祈の刀身。
そして、石一面に赤黒くこびりついた血の痕。
鼻を衝くのは紛れもない、腐った肉の臭い。
「私のオリジナルは、哀れな侍女でございました。王家の血筋を引くことも知らず、兄王に仕え、兄王に恋をし、想いを確かめあった後は、何もかも捨てる覚悟でここへ参ったのです。伝説の聖刻法王が眠るこの廟ならば、私たちを匿ってくれるだろうと。聖刻法王様ならば、私の気持ちも分かってくれるだろうと。私は、貴女の伝説に自分を重ねておりました」
降ってきた声は優しい。
まだ恋に憧れを抱く少女のように、夢見るように懐かしむように、レリュータは言葉一つ一つを紡ぎ出した。
でも、わたしの心の中はその言葉にざわざわとかき乱されていた。
ここが聖の廟？
そんなことはどうだっていい。
彼女がここを選んだ気持ちは分かる。「レリュータ」が誕生した地こそが、全ての後悔の始まりの場所。その歪み荒んだ気持ちを雪ぐには、これ以上ない舞台だ。
そんなことじゃなくて。
わたしを動揺させているのは、そんな今のことじゃなくて。
「知ってたの？ ファリアスが実の兄だと、ユーラは知ってたの？ 知ってて、二人でここまで逃げてきたというの？ その身を……ファリアスに預けたというの？」
おそるおそる首を回して、わたしは仰向けにレリュータの表情を覗き込んだ。
勝ち誇ったような笑みがそこには浮かんでいた。
「私には、地位も身分もございませんでした。守るべきものは己だけでした。私が真実を知っていることを知っているのも、私だけでした。私には、城に双子の兄がいる。そう母と信じていた人から聞かされて私は育ったのです。城に上がって初めて王をお見かけした時、一目で分かりました。ああ、この方が私の片割れなのだ、と。とても不思議な感覚でした。兄を見つけた喜びにしては、深く哀切な思いがしたのです。今思えば、私は一目でファリアスに恋に落ちていたのでしょう。ファリアスが私が実妹と知ったのは、もっとずっと後のこと、私たちが思いを告げあった後のことのようでした。ですから、ファリアスは思いつめた顔で、私の手をとってここまで来たのでしょう。王の地位も何もなげうって、何も知らないはずの私との恋を守るために」■
薄暗闇でも、レリュータの頬が薔薇色に上気しているのが分かった。回想する彼女はこの上なく幸せそうで、その話の先を知るわたしにはとても痛ましかった。
「聖刻法王、私の願いを叶えてくれる？ あの時のように、また私の願いを叶えてちょうだい。私に……ファリアスを返してちょうだい？ 闇獄主となった者が法王に殺されれば、魂は消滅する。でも、私知らなかったのよ。過去に遡って、その存在すらなくなってしまうなんて」
泣き笑いの表情に、混乱した内心を如実に表す青い瞳。
渾身の力を込めていながら、わざと狙いを外してわたしの首の横に突き立てられる双祈の恐怖よりも、わたしは彼女が今晒されている現実の方が恐ろしかった。
「ユーラ？ 貴女、どの時間から来たの？」
「聞いていなかったの？ 百年前よ」
「百年前、ここで生まれて？」
「そう、ここで私は生まれた。貴女にレリュータの身体を食べられて」
レリュータは凄絶な笑みを浮かべてわたしに囁いた。
「ユーラという女性は病気の母親を看病して天宮で死んだそうよ。私は、貴女に食われて生まれ変わる前から、第五十二代聖刻王レリュータだった。その前は、ユーラという名で貴女に食われ、貴女からすればつい数時間前に貴女に殺されたレリュータだった。ファリアスの魂は〈悔恨〉を抱いたまま消滅し、私は愛優妃様の手によって、過去に飛ばされた」
「愛優妃が？ 輪生環は？ くぐらなかったの？」
「娘が娘なら、母親も母親ねぇ。レリュータとユーラの運命を入れ替え、存在が消滅したファリアスの代わりに、私は生まれながら聖刻の国の王だった」
双祈から離された片手には、半透明の結晶に赤い血筋が走った玉が握られていた。
「血晶石……」
「そう、貴女と精霊王の血が込められた血晶石。これと〈悔恨〉の力さえあれば、時を越えることくらい容易だった」
「な……にを言ってるの？ 〈悔恨〉はもう滅んでいるわ」
「いいえ。種さえあれば花はどこにでも咲くの。私はずっとあのファリアスと共にいたのよ。願いどおり、ずっと一つだった。ファリアスの抱えた闇は、私が抱えた闇。貴女に倒されて、ほとんどのエネルギーはファリアスが持っていってしまったけど、あなたの魔法石に封じられた刻生石に残っていた炎も回収し損ねてしまったけれど、でも、闇獄十二獄主が一人〈悔恨〉のレリュータはまだこのとおり生きている」
レリュータは左手の双祈をわたしの首の薄皮を切り裂いて突き立て、空いた両手で物でも掴むようにわたしの首を締めはじめた。
「願いを叶えてくれると言ったでしょう、聖刻法王。私はファリアスとずっと一緒にいたいと願った。肉体を超えて、本当に一つになってしまいたいと。確かに貴女は一時はそれを叶えてくれたけど、結果はどう？ 私は生まれながらに一人になってしまった。自分で自分を抱きしめ、二度目の時をファリアスの幻影を追いかけながら生きてきた。はじめから存在を抹消されてしまうなら、私の記憶の中のファリアスも消してくれたらよかったのに！ 私たちは永遠を願ったの！ 約束したでしょう？ 私たちの望みを叶えてよ、聖刻法王！！」
一人の孤独をずっと味わってきたんだ。
いるはずの人が傍らにいない、そんな空虚な時間を百年も重ねてきたんだ。
そんな彼女に、聖は何を返すつもりでその肉体を奪い取ったのだろう。
魔法石で消滅させた闇獄主の魂は二度と蘇らないのに。
「記憶を消せばいいの？」
「違う！」
「緋桜は……」
「戴冠する時、結婚させられた男の子供だった」
ぼろぼろと零れ落ちるレリュータの涙が、わたしの顔を見る間に濡らしていった。
唇の隙間から入り込んできたそれの味は、塩辛いと感じる生みよりもなお、辛くて吐きそうになった。
「それでも、愛してた。あの子は私とファリアスの子よ」
泣き顔が歪んで聖母のような微笑になる。
「貴女の遺体がまだ眠っているのを確認して、夜な夜な祈りに通ったわ。早く目を覚まして私をこの悪夢から救ってくださいって。早く私をユーラに戻してくださいって」
不意に、首を絞める力が抜けていった。
「でも、今度の貴女は緋桜を産んでくれただけだった。私にファリアスを返してはくれなかった。私に永遠にファリアスを想う時間をくれはしたけど」
レリュータがわたしの左右に突き立てていた双祈を抜き取る。
わたしが狂わせた時。
保険をかけるかのように、慈愛深い顔して愛優妃が狂わせた時。
いくら時を狂わせるためでも、こんな新たな悲しみまで生み出す必要はなかったのに。わたしのつくった些細な歪で十分だったのに。
「何故、私も殺してくれなかったのですか？ 何故ファリアスだけを殺したのですか？ 肉体も炎のほとんどもファリアスが持っていってしまったから、私はちゃんと死ねなかった。生きたまま新たな運命の中に閉じ込められてしまった。私の時間は前世で止まったまま……」
振り上げられた双祈は、今度は左右交差する形でわたしの首の脇に突き立てられた。
首すらも動かせなくなったわたしは、真っ直ぐにレリュータを見上げるしかない。
その姿が己のものだった時、聖は鏡や水に映る度に「化物」と吐き捨てていた。
肉体は魂の牢獄。
それは、血の繋がった実の兄を恋い慕うようになってから間もなく知った真理。血の繋がりさえなければと、気の遠くなるほど嘆いて招いたものが、父母への復讐に燃える創造神だった。
聖に、ユーラほど清濁併せ呑む度量が有ったならよかったのに。
「お願い」
その結末が、たとえ苦しみに悶えるものだったとしても、想いを貫き通すことが出来たなら、悔いなど残らなかっただろう。誰も、これほど深く傷つけることにはならなかっただろう。
「殺して」
レリュータの全身から、むせ返るほど濃厚な瘴気が溢れ出した。
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