聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 6 章  帰 着

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 一人になりたくないと思えば思うほど、孤独感は募っていく。どんなに周りにたくさん人がいても、振り向いて欲しい人たちの笑顔じゃなきゃ満たされない。だからいつまでも、遠ざかる数多の無機質な背中だけが眼裏に灼きついている。
「時空軸は電線と同じようなものです。赤や黒のビニールで覆われた絶縁部分が刻生石によって作られる三界を隔てる世界の仕切り、金属の導線一本一本が記憶であり魂の軌跡、その記憶の中を流れる電流が時の精霊たち。電線と時空軸の違いといえば、一つの生を終えた魂が世界を隔てる刻生石の壁を超えて輪生環をくぐり、また新たな世界へと旅立つことくらいのもの」
「知ってる。今更そんなこと聞きたいんじゃない。二十四時間はもつはずだった。そうでしょう?」
 そもそも、時空軸は神界、闇獄界、人界の三軸が共に螺旋を描きながら時を蓄積している。それが、人界の時が止められた時点で、神界と闇獄界の軸のみが現在に至るまでの時間分余計に伸びたわけだろうけど、実際、一日にも満たない時の長さであれば、刻生石の生み出した世界の壁を崩すほどの影響を与えることはない。
「刻生石を百年ほど魔法石から離しておられましたね? その時間が現在の時間の土台を揺らがしてしまったのでしょう。聖様の望んだとおり」
 責める棘すらない飛嵐の声は、むしろ哀れんですらいるようで、逆にわたしの良心を突き刺した。
「でも、闇獄界の瘴気が時空軸に入り込んきたのは誤算だったわ。そのせいで人界と神界だけに留めておくつもりが、結局三界巻き込んじゃったんだもの。闇獄界も闇獄界よ。自分達の世界も危うくなるっていうのに、何考えてるんだか」
 苛立つ緋桜の声に賛同するような気は起きなかった。
 わたしの作り出した百年が、みんなの存在を消してしまった。
「元に戻せばよいのです。闇獄界の瘴気が入り込んできた時間に」
 こともなげに飛嵐は言った。
「ねぇ……どうしてわたしだけここに残ってるの?」
 わたしはまだ彼らのように冷静に先を考えられない。
 途方もない乾いた寒さが体内を吹き荒れている。
「それは、貴女が刻生石を持っていらっしゃるからです。全ての時の原点はあなたの存在する場所を基点に形成されます」
 教科書どおりの答え、とでも言えばいいのだろうか。
 そんな答え、望んでないのに。
 周りを見回した。
 誰もいなくなっていた。
 まるで、見ていたテレビを途中で止められてしまったかのような喪失感。
 姿も声も、もうどこにもない。
「何があっても、刻生石を持っている限りわたしだけは生き残るの? わたしだけ、みんなに置いていかれるの?」
 目の前で講堂中の同級生が闇の中にみんな消えてしまった時よりも、今の方が比べ物にならないほどきついのはなぜだろう
 みんなが戻ってくる可能性が、根本的に立たれた可能性があるから?
「あ、あ……」
 いや。
 気持ちが、過去の記憶と交わる。
一瞬。
 知っている。その気持ちにおそるおそる手を伸ばす。白い空間。どこまでも薄ら白い空間。青ならば空があっただろう。黒ならば闇があっただろう。だけど、そこは何もない。目に映るものが何もない。だから視界はすべて白。雪の優しさもなく、雲の気まぐれさもない。むらなく白のペンキで塗りつぶされた、果てしなくもともすれば方寸なこの空間。己の立ち位置すら天なのか地なのかわからない。踏みしめるものすらなく、ただ無重力の空間に放り出されてしまったあの心もとなさ。
 遮断され続けているもう一人の記憶に手を伸ばしたのは、いじましくもこの喪失感を分かち合うつもりだったのかどうか。
 ―――どうして……どうして私だけ置いていったのですか? どうして私も一緒に連れて行ってくださらなかったのですか? どうして! なぜ! あの愚かな人どもはお連れなさったのに私だけ……あんまりです。貴方のいないところで一人生き延びろとは、あまりな仕打ちです。
「夢……だったんだ。わたしはずっと一人だった。わたしの周りにははじめから誰も……いなかったんだ……」
 今まで見たものは、聞いたものは、感じたものは、そう、あの唇の温もりでさえ、みなわたしが作り上げた都合のいい夢だったんだ。
 わたしは、最初から一人だった。
世界もそうして生まれた。私の孤独を紛らわすために。刻生石は有極神の孤独に凝った心のかけら。あの世界は、その心が孤独を癒すために見る夢でできている。欺瞞とわかっていても、その夢がなければ私は生きてはいけなかった。
「聖様」
耳に馴染んだ声が聞こえた。
「聖様、御手を」
不安になると聞きたくなる。ナルギーニ。貴方の声が。
わたしの唯一の共謀者。秘密を分かち合った人。
 その過去すらも、わたしの作り事だったんだろうか?
 聖として過ごしてきた長い孤独も?
 どうせ見るなら、もっと楽しい夢を見たかった。
 楽しくて幸せで……ほろ苦い夢。
「帝空神様……」
 どこか遠くで、重い蓋が滑り落ちる荘厳な音が響いていた。
「貴女はこの方への想いまで夢になさるおつもりですか?」
 一面が白い。
 息詰まる白の空間。
「龍兄」
 そこに、眠る愛しい人の面影が浮かび上がる。
「龍、兄……」
色を失った唇。まっすぐ通った鼻梁を辿れば、固く閉じられた両の瞼を飾る霜降る睫。考え事をする度に指をあてがっていた精悍な顎周りは伸びた白銀の髭と髪に覆われ、首元すらも白くけぶっている。
「ずいぶんと……長い、時を……」
 膝からは力が抜け、わたしは見えてきた棺に横たわる愛しい人の組まれた手に手を伸ばした。
 かすかな温もり。冷たいとすら思えるほどの、かすかな温もりが指先に灯っている。
 心臓は内側から肋骨を押し開けようとでもいうように、骨を軋ませながら脈打っていた。
 どうしてこんなにも掻き乱されるのだろう。
 これは魂の無いただの抜け殻なのに。
 どうして、こんなに冷たい手を頬に当てただけで涙が出てきてしまうんだろう。
「逢いたかった……逢いたかったよ、龍兄」
 逢っていたじゃない。もうとうに、わたし達は今生で出逢っていたじゃない。ついさっきまで一緒にいたじゃない。
 なのにどうして、こんなにもこの人が愛しいのだろう。
「守景さん」
 聞くと安心する声は、昔よりもちょっと高く幼くなっていた。
 景色が戻ってくる。蝋燭の灯火しかない薄暗い地下宮の中、残されたのは前世の兄姉達のうつわと、ようやく二人揃った時の精霊の要たち。そして、わたしに幾度となく安心をくれた人の血を繋ぐ者。
「まだ、疑いますか? その方の温もりも、貴女が一人で作り出しているものだと思いますか? 全てが夢だったと思いますか?」
 この温もりを嘘にしたくない。
 聖はもう一度この儀に宿った魂と出逢うために、罪を購おうとした。さらに新たな罪を犯して。
 それでも、取り戻したかった。
 未来を。
「でも、わたしは聖じゃない」
「聖様が守りたかった未来はその方との時間一つ。でも、貴女は守りたい時間が増えたのではありませんか?」
 願うことをやめたわたし。
 もう、何も望みなどしないと、一度は決めた。
 それなのに、なかったことになるこの時間の中で、わたしはずいぶん欲張りになってしまったみたい。
 真由のことも、夏城君とのことも、過ぎれば時の狭間の出来事となり、平凡な日常と平和な未来という願いを叶えれば忘れてしまう。
 今辿っているこの時間に、続きなどない。なのに、わたしは惜しくて惜しくて仕方がない。それでも、この時間を犠牲にした未来には、増えてしまった大切な人たちとまた別な形で大切な時間をつくる可能性が残されている。
 夢じゃない。
 確かな現実がある。
「どうして聖はこんな方法しか考えられなかったんだろう」
 未来を変えたい。そのためには、過去を変えればいいと思っていた。真由のいる未来。
間違いのない選択の上に築かれた未来を、わたしはずっと欲してきた。
 何の後悔もない現在が欲しいと、ずっと思い続けてきた。
 けれど、そんなものに何の意味があるだろう。
 完璧な現在。完璧な未来。何一つ、心に引っかかることなく過ぎていく時。嫌なことはないに越したことはない。だけど、好きなものだけに囲まれていたら、貪欲なわたしはきっと、更なる幸せや刺激を求めはじめることだろう。人は足ることを知らない。おそらく、この世で最も神と呼ぶにふさわしい有極神ですら、望みや願いを胸に秘めずには生きていけない。永遠に現状に満足し続けることなどできやしない。
 望みや願いは夢とは違う。手を伸ばせば掴み寄せることが出来る。
 この、龍兄の手のように。
「主、参りましょう。今ならまだ間に合います。崩れた時空軸を整え、神界と闇獄界の進みすぎた時と人界の時とを繋ぐのです」
「この二十時間を、神界の人の記憶も闇獄界の人の記憶も、それこそ夢にしてしまうんだね」
 それが、聖のつくりたかった時の歪み。たとえ夢にされてしまっても、この時間は各自の記憶の中に保存はされる。二度とアクセスできなくなるだけ。
 夢は、記憶の免罪符なのかもしれない。
 わたしは龍兄の手を胸の上へ戻し、その顔を目に焼きつけた。
「ありがとう、ライレク。思い出させてくれて」
 にっこりと微笑みかえした菫色の瞳に、幼い頃とおなじ色が浮かんでいた。
「聖の時も励ましてくれたよね。向日葵の絵を描いて」
 あの頃、双眸に宿った茶目っ気溢れる光は、同時に溢れんばかりの聡明さも湛えていた。
「ひまわ……あっ、覚えていらっしゃったんですか?」
「あのあと、ちゃんと肖像画も見たよ。すごく、嬉しかった。ライレクは忘れてたの?」
 肩をすくめると、ライレクははにかみながら首を横に振った。
「いいえ。忘れていたなら、あなたを聖様とはお呼びしておりませんでした」
 ナルギーニは聖が一人のときに安らぎをくれたけど、ライレクは前に進む力をくれる。
「樒、今ならまだ間に合うから。巻き戻すのにちょっと復元が加わるだけだからさ!」
 ばしん、とおばちゃんのように緋桜が肩を叩いた。
 今の衝撃で、わたしの目は完全に覚める。
「みんなも戻ってくる?」
「それ以外の未来なんか、あんたはいらないんでしょ?」
 覗きこんできた茶色い緋桜の瞳は、決断を求めているかのように思いのほか強い色を宿していた。
「うん。いらない」
 力があるんだ。今のわたしは、思いのままに時を操ることができる。めちゃくちゃになった過去を整理し、進みすぎた二界の時と人界の現在とを繋ぎ、望む未来を招く現在をつくりだすことが出来る。
 なんて、恐ろしい力。
「ありがとう、ライレク。ナルギーニにも……よろしく伝えて。それとこの地下宮だけど」
 ナルギーニに言葉を伝えるなら、上に安置されているだろう亡骸よりも、目の前の孫の身体に宿った天宮王の血晶石に、だろう。けれどそれでは逆にあまりにも悲しいから、わたしは亡骸に伝えて欲しいと思った。天宮王の血晶石に囚われた魂は、転生することもなければ目覚めることもないから。
「地下宮なら、祖父に代わって私が及ばずながらお守りいたします。貴女の危惧なさることが起きないことを祈りながら」
「お願いね」
 力強く頷いたライレクを記憶にとどめて、わたしは緋桜と、そして飛嵐を順に見た。
「もう少しだけ、力を貸して」
『この世に存在する全ての時空に通じる時の精霊よ
 命有るもの 無きもの 全てを一つに繋ぐ時の精霊よ
 我が声聞こえるならば
 今ここに時紡ぐこと止められし人界の最果てへの扉を開け
 我を はじまりの地へと導け』
「開け、時空扉」
 時空に透明な揺らぎが生まれ、異次元が顔を覗かせる。その途端、予想していたとはいえ闇が溢れ、わたしは手を引きつかまれた。
『君は一人だよ』
 それは聞き覚えのある声だった。
「主!」
 尻餅をつきそうになったわたしの肩を、慌てて飛嵐が掬い上げる。
「今誰かが……」
『知ってる? 都合のいい夢ってのは、視覚や聴覚だけじゃなく、触覚すらも望むままに偽ることができるんだ』
 姿も影もどこにも見えない真っ暗闇。白の次は黒かとため息をつきたくなるほど、何も見えない。肩を支え起こしてくれた飛嵐の手すら薄ぼんやりと白く浮いて見えるだけだ。そんな中で、女性のような男性のようなどこか艶すら含んだ中性的な声が耳元で囁き続ける。
『今、君の後ろには誰もいないかもしれない。誰も君を支えてなんかいないかもしれない』
「そんなことない。いるよ。飛嵐は」
『あるいは、いなくなるかもしれない。あの時のように』
 ぞっと身体中を虫が這い上がってくるような不快感が駆け抜けた。
 ひぃ、と開いた口の隙間から情けない悲鳴が上がる。
「違う。あれは飛嵐からいなくなったんじゃない。聖が追い出したんだ……」
『いいや、どうだろうね。彼は君から離れたくて、わざと君をそう仕向けたのかもしれないよ?』
 わざと? 仕向けた? 聖を? 聖の側から離れたくて?
 なぜ?
『その男が仕えているのは――分かってるんだろう? 君じゃない。創造神だ。何度裏切られれば気が済むんだい、お姫さん? いい加減、賢くなりなよ』
 わざとらしく吐かれたため息が、耳から入って肺全体に突き刺さっていった。
 顔も見えない誰かの声なんか信じない。そう思っても、負の感情にまみれた瘴気の中にいるからだろうか。ちまちまと植えつけられた疑念と不安の種はあっという間に芽吹き、見る間に空高く伸びていく。
「飛嵐」
 呼ぶ声が震えた。
「このままではいつまでたっても人界の現在に辿りつけません。先ずはこの闇を払いましょう」
 返ってきた飛嵐の声は至って冷静。肩を掴む手に力が加わることもない
「そうじゃなくて、飛嵐。聞こえなかった? 今、誰かがね……」
『お姫様。思い出してみてよ。飛嵐はこれまでお姫様のことを名前で呼んだこと、あった?』
「名前……?」
 返事をしちゃ駄目だ。聞く耳を持ってもいけない。
 そう思うのに、口からは不安が溢れ出す。
『そうだよ。聖様でも、主でもなく』
「その者の甘言に耳を貸してはなりません、モリカゲミツキ!」
 ぴしり、と胸の奥で何かが皹入る音がした。あるいはそれは、さっきから伸びていた疑念の芽が天を衝いた音だったのかもしれない。
「なんだ、聞こえてたんじゃない、飛嵐も。どうして聞こえないふりなんかしたの?」
 あはは、と乾いた笑いが漏れた。
 なんでだろう。くすぐったくて悲しい。
 すごく、憤ろしい。
「その声に耳を傾けたところで、今、貴女の目の前にある問題は何も解決しないでしょう」
 冷ややかとも思えるほど冷静な飛嵐の声に、わたしは肩を掴んでいた飛嵐の手を払いのけていた。
「飛嵐……飛嵐はほんとはわたしのことなんて見てないんじゃない? 聖のことはまだ聖様って呼んでたけど、聖は飛嵐がわたしのこと主って呼ぶのを聞いて複雑そうな顔してたけど、ほんとは飛嵐、わたしの存在認めてないんじゃない? だから、今だってモリカゲミツキなんて記号読むようにわたしのこと呼んだんでしょう?」
 嗤う気配がした。
 さっきの声の持ち主が口元をほころばせたに違いない。
 はめられた。
 そう分かっても悔しくないのは、分かっててはめられたから。わたし自身、本当は飛嵐をどう思っていたのかよく分からせてもらったから。
 信じることが出来ないでいるのは、わたしだ。
 壁を感じているのはわたし。その壁すらも適切な距離だと思えればいいものを、出逢ってからの時が短すぎるのか、過去の記憶が邪魔しているのか、わたしにはどうにもその高さ、厚さを取り払うことが出来ない。
 たちこめた闇はわたしの抱いた負の感情に呼応して、喜びに踊りさざめき濃さを増していく。
「飛嵐……」
 違いますって言って。
 そんなことありませんって、言って。早く。
 心が急いて答えを求める。
 だけど一方で、虚無感に苛まれていた。
 どうしてわたしまで、聖と同じようにまた飛嵐を困らせているのだろう。
 昨日、聖の廟に飛嵐が現れて、わたしを窮地から助けてくれた。
 それが答えではないの?
 聖の怒りが解ける日までの限定的な追放だったはず。飛嵐がわたしの前に姿を現したということはつまり、飛嵐は聖を許したからわたしのことを助けてくれたのでしょう?
『違うよ。そこの獣はお姫様が守景樒だから助けたんじゃない。聖刻法王だったから助けたわけでもない。あんたが有極神の魂を持っているから助けたのさ。許した、許さないはまた別の次元の話なんだよ』
 わたしという存在を見てくれてないのに、わたしを守ろうとする。飛嵐のその思考と行動の矛盾が、聖もわたしもどうしても受け入れられない。だってそうでしょう? 誰だってそんな人に守られたくなんかない。割り切って契約を結んでいるわけでもない。
『いつ裏切られるか、分からない。そんな奴を側においといていいの?』
「だから……だから私は訣別したんじゃない。信じたいのに、顔を見ただけで疑いたくなるなんてもう嫌だったのよ。分かっていたから私はあんなことをした。殺すよりもおぞましい……生きたまま孤独の地獄に突き落とした。そんなに愛しければ、思い出だけ抱いて彷徨えばいいと思って! だって……だって、私は有極神じゃないんだもの!!」
 後悔なんかしないと思ってた。
『聖様――』
 〈外〉に突き落とされる間際、悲しげながらも気遣わしげに私の名を呼ぶその声すら耳に入っていなければ、これほど胸に苦味が残り続けることもなかっただろう。それどころか、迷いなく恨み、憎み続けることが出来たに違いない。
 飛嵐が最後に私の名さえ呼ばなければ。
 私がその声に気づきさえしなければ。
 飛嵐の存在そのものを否定した己の行いを、悔いることもなかったことだろう。
「主」
 ぼやけた視界に遠くから強くわたしを見つめる金の瞳が映りこむ。
 許さないと、聖は言った。
 永遠に許すつもりはないと、聖は誓った。
 誓った直後に、己が恐ろしくなった。手を伸ばせば引き戻してしまえそうな数秒前の過去。だけど過去となってしまっては最早どんなに足掻いても取り戻すことは出来ない。
「どうして……助けたの? 昨日、どうしてわたしの前に姿を現したの? 教えて、飛嵐」
『向こうは半日なんかじゃないわよ。樒ちゃんが生まれてから今日まで、姿は見せなくてもちゃんと見守ってくれてたはずよ。友達というよりは子孫を見守るご先祖様に近い感覚だったかもしれないけれど』
 桔梗が昨日言ってた言葉が耳元に蘇る。精霊王も精霊獣も、ずっと昔からわたしの魂の行方を見守ってくれていたんだって。
 でも、それは桔梗が聖と飛嵐の過去を知らなかったから言えたことなんだよ。
 緋桜はそうかもしれない。でも、飛嵐は違う。見守るなんて優しい気持ちを持っていたわけがない。
「〈外〉からこちらに戻ってくることは、聖様が想像するよりも私には容易いことでした」
相変わらず淡々とした声ながら、飛嵐は口を開いていた。
「ええ、私は、貴女の前に姿を現さないことで、貴女への憂さを晴らしていたのかもしれません。貴女の私に対する葛藤を見る度に私の心が躍ったのは確かです。もっと苦しめばいいと、有極神様はそれ以上の苦しみに耐えていらっしゃるのだから、と」
 飛嵐の金色の両眼だけが、闇色に塗りつぶされた視界野中で唯一色を持って輝いていた。発した言葉は確固たる信念に支えられているのだとでも言うように、僅かほども視線をそらせたりなどせず、真っ直ぐ射るようにわたしを見つめている。
 理性の塊のような飛嵐。感情などないかのように、わたしの前では振舞う飛嵐。 わたしを恨み復讐心に駆られていたのだと告白しながらも、最早それは過去のことだとでも言うように、言葉の中にその感情の片鱗は含まれていなかった。
「私にとって、貴女という存在はとても複雑なのです。聖様のときよりもずっと。貴女を樒様と親しみを込めてお呼びするにはまだ時が浅く、しかし聖様とお呼びするつもりもない。“モリカゲミツキ”、その名が今生、貴女をこの世界の道筋を辿らせる名前と知っていて、他の呼び名で否定するわけには参りませんから」
 飛嵐も、距離を探していたんだ。
 理性的で礼儀を重んじる性格らしく、緋桜のように手放しでわたしと親しくなれるわけでもなく。葛藤していたのは、わたしという存在をちゃんと認めてくれていたからだったんだ。
「モリカゲミツキ」
 金色の瞳は一つ瞬いて、わたしをそう呼んだ。
「私は本来、貴女が過去を背負うことなどないと思っております。貴女だけではない。他の法王方の魂を持つ方々も。過去を購うための未来など、あまりに……そう、悲しすぎる」
「飛……」
 飛嵐の本心が見え隠れする声を、わたしは初めて聞いたような気がする。
「ですが、あなた方がそのようにして世界を守ろうというのなら……有極神様のお創りになった世界も含めて守ることになるというのなら、私は己の持てる力を役立てていただきたい。その気持ちに嘘はございません。貴女の思っているとおりなのです、モリカゲミツキ。私は有極神様に安らぎを感じていただきたくて、貴女の元に戻ってまいりました。私にとって有極神様は生みの神ではございません。ですが……私をお創りになった方の母君でいらっしゃいます。何人も癒すことの出来ぬ悲しみを背負った方でございます……」
 初めてわたしから視線をそらし、ためらわし気に瞼を伏せた飛嵐に、わたしは何度かためらった後、手を伸ばした。
「飛嵐、わたしの魂は何と何からできている?」
 足を爪立てて背伸びして、両手で飛嵐の頬を挟みこむ。
 間近から目を覗き込むと、かすかに動揺の影が見え隠れしていた。
「聖様と……有極神様から成っております」
「聖と有極神は別の魂だったんだよね? それが、有極神が聖の身体を使っているうちに別々の意思を持ったままぴったり癒着してしまった。そんなことって、あるの?」
 顔を背けようとした飛嵐を、わたしは自分に向けさせた。
「もっと早く、飛嵐に聞けばよかった。そうすれば、聖も有極神もあんなに思い悩むこともなかったのに」
「いいえ! 有極神様に分からないことが、私めに分かるわけなどないのです!」
「聖と有極神の魂は、元は一つだった。それが何かの拍子に二つに分かれ、一つは転生し、一つは有極神のまま留まった」
 いいえ、いいえと飛嵐は首を振り続けた。
 聖の記憶を辿ってもそんな記憶はどこにもない。聖が生まれる前のことなのだから、聖という名がつけられた時間だけをたどっても何も分からないのは当たり前なのかもしれない。有極神の記憶は、触れようとすれば静電気のような衝撃が指先に走る。でも、有極神ですら知らないのは確か。知っていれば、聖と魂の癒着を始めたときに慌てるわけがなかった。でも、真実が保存されているとすれば、それは有極神の記憶の中にしかないはず。
 有極神がまだ己の体にいた頃のことを知っているのは、精霊王と精霊獣、そして、蘇静神如という人と統仲王と愛優妃だけ。
「樒、飛嵐も知らないよ」
 飛嵐の頬をはさんでいたわたしの腕を、緋桜が間に入りながらそっと下ろした。
「有極神様は、この世界、といっても人界じゃないけど、その人界もひっくるめて存在できる空間を想像した時には、とうに有極神様だったからね。だから、蘇静様に創られた飛嵐は何も知らない。たとえうすうす分かっていたとしても、事実を有極神様から聞かされたわけでもなければ、誰からか聞かされたわけでもない。そんな推測でしかない事実無根のことを、この男が口にするわけないでしょ」
 珍しく、緋桜の目には厳しさがあった。これ以上の追求は許さないと。
 その気迫に押されたのかもしれない。わたしは飛嵐から手を引いた。
 あるいは、その問いを緋桜に向けていれば、わたしたちは答えを知ることが出来たのかもしれない。時の精霊王。彼女こそ、原初からその「有」そのものを維持する者だったのだから。
「一つだけ、お約束いたします」
 頬を軽く撫でて飛嵐がわたしを真っ直ぐ見下ろした。
「もう二度と、貴女のことを主とはお呼びいたしません」
 頑なに誓う声だった。
 思い出したのは、聖の胸を切り裂かんばかりの悲痛な声。
『主と呼ぶのね。その子のことは』
 飛嵐は一度も聖のことを「主」と呼んだことはなかった。その理由を、聖は自分が認められていないからだと思っていた。
 そもそもはそれが、飛嵐への不信感の根源。
「聖の中には有極神がいなかったから? だから、飛嵐は聖を一度も主って言わなかったんだね」
「ええ。だから……貴女のことを主と呼ぶのは、失礼なことだと思い改めました」
 飛嵐がわたしを「主」と呼ぶとき、飛嵐に見えていたのはわたしではなく、わたしの中に見え隠れする有極神の方だったのだろう。聖の時にも有極神は中にいたはずだけれど、明確に聖とは一線を画していた。だから、飛嵐は聖と有極神とを区別して一度も聖のことを「主」と呼ばなかったのだろう。
 飛嵐がわたしの前に現れたのは、ひとえに有極神のためだったはずだ。
 わたしを主と呼ばないと誓うということは、わたしを有極神とは重ねて見ないということ。
 わたしという存在を認めてくれるということ。
「分かったよ。ありがとう。でも飛嵐、モリカゲミツキって棒読みされるのはちょっと、ねぇ」
 わたしは緋桜に同意を求めた。
「そうよねぇ。ほんと、記号みたいに呼ぶもんね」
「事実、名前など記号のようなものかと」
「だぁぁっ、飛嵐っ、分かってない。有極神様のこと呼ぶみたいに敬愛込めて呼べといってるわけじゃないのよ。無関心っぽいのと最大限の敬愛との中間って、あんたにはないの?」
「……それは私が極端な性格をしていると、暗にそう言いたいのか、緋桜?」
「中庸な性格してるとでも自分で思ってるなら、もう少し自己解析したほうが今後のためだと思うわよ」
「それを言うならお前も少し……」
「あ、あのね、飛嵐!」
 緋桜と飛嵐がけんか腰になり始めたところで、わたしは慌てて間に入った。
「樒でいいよ。様とかつけなくていいから。守景だと苗字だから他にもいるし、名前呼び捨てでいいから」
 飛嵐はじっとわたしを凝視した後、コホン、と咳払いをした。
「では、樒。先ずはこの時空軸を掃除してしまいましょう。これほど濃い瘴気だと、何が隠れているか知れたものではない」
 きっと飛嵐が睨みつけた暗い虚空、ゆらりと闇が蠢いた。
「いやぁ、麗しき主従愛? 俺、感動しちゃった」
 ぱちぱちと手を打ち鳴らす白い手とにやついた白い顔とが、四、五メートルほど向こうに浮かび上がった。
 








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