聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 6 章  帰 着

 2
 時を戻さなくちゃ。
 全てが取り返しのつかないことになる前に、早く。
 焦りに握った手は、冷たい苔のようなものを引掻いていた。
 辺りに立ちこめるのは静寂と黴臭さ。
 頭の中枢を未だ揺する不快な感覚をねじ伏せて瞼を開けると、遠く闇にけぶるオレンジ色の灯火が淡く揺らいでいた。
 頬に触れるのは、でこぼこなのに冷たく吸いついてくる湿った石の感触。
 聖の……廟?
 まるで昨日の夕方に戻ってしまったような錯覚に、心もとなさが胸をよぎる。またはじめからこの時間を繰り返すのだろうか?
 でも、今からならまだ間に合う。わたしはこの先どうなるか知っているんだもの。ここで夏城君に出会って、緋桜に出会って、怖いレリュータに追いかけられて、サザがいて、飛嵐が助けてくれて、そして真由に会う――。
 ああなるしかなかったのかと、割り切ったつもりでも燻る重いが胸を焦がした。痛みというよりも疼きに近い感覚。
 わたしは息を殺したまま胸元を押さえて身体を起こした。
「つっ……」
 けれど、狙い澄ましたかのように突き刺してきた痛みに膝は力なく折れ、あっという間もなく石畳の隙間が眼前に迫ってきた。
「危なっ」
 まだ変声期が終わりきっていない不安定な声がすぐ側で聞こえたかと思うと、わたしはぐるりと半回転して闇しか見えない天上を仰ぎ、腰と頭から落ちていた。
「大丈夫ですか?」
 覚悟した痛みは訪れず、かわりにしっかりとした腕の存在を背中に感じていた。
 見上げると、彫り深い西洋人の少年の顔がそこにあった。
 きらきらと細い金糸のような髪が淡い光に透けて揺れている。
 覗きこんできた瞳は光を背にしているせいか漆黒に沈んで見えた。けれど、その中には穏やかで知性を持っていながらも見る者を心から魅了して溶かしてしまうような危ない色が潜んでいた。
 歳は、同い年か少し向こうの方が若いくらい。でも、光くんほどの幼さもない。
「……聖様……」
 にわかに穏やかだった瞳に漣が立ちはじめた。
 色は違えど声質と顔立ち、そのいずれにもナルギーニの面影が色濃く残る。だけど、ナルギーニは白髪だったはず。この人はナルギーニではありえない。それならば――
「ライレク?」
 聖の記憶を引き出して合致したのは、聖としての生を終らせるために訪ねたこの天宮で出会った幼い男の子。聖の肖像画に寂しそうだったからと向日葵を描き加えてくれた、悪戯好きで、だけど心優しい男の子。
「やっぱり、聖様だ」
 ライレクは嬉しそうに微笑んで、下敷きになっている腕でそのままぎゅっとわたしを抱きしめた。
「え? わ、ちょ、ちょっと!!」
「お会いしとうございました。聖様」
 嬉しさと悲しさ。相反する感情が一杯になって溢れ出てきてしまったかのようにかすかな響きは奔流の如く渦巻き、わたしの中へと流れ込む。
「は、離して……!」
 押しのけたライレクの肩越し、統仲王の胸の上では赤い光が禍々しく輝いていた。
 統仲王の血晶石。
 見間違うはずがない。代替わりの度に五十回、聖はあの光を見てきたのだから。
「ここは……天宮の廟?」
「はい。お待ちしていた甲斐がありました……!」
 もがく隙も与えず、ライレクはわたしを抱きしめた。
「わぁぁ、ちょ、ちょっと、離してよ。わたしは聖だったみたいだけど、聖本人ってわけじゃ……」
「おい、いつまでそうやってる気だ?」
 困り果てたわたしを、高みから夏城君が覗き込んでいた。その手には、すらりと抜き放たれ、いつもより不気味に冷たく輝く蒼竜が握られている。
「な、夏城君、それはしまって。危ないからしまって」
「危ないのはお前の方だろうが。よく自分の状況考えてみろ」
 冷たい目で見下ろされ、わたしは慌ててもう一度ライレクの肩を向こうへと押しやった。
「聖様……」
 捨てられた犬のようにライレクはわたしを見つめる。
 うっ。騙されてなるものですか。
 構えたところで、ぱちぱちと手が打ち鳴らされる音がした。
「おやおや、痴話げんかですか? お元気そうで何よりです」
 まるでまた夏城君が間に入るまで見守っていたかのように、白々しい笑みを浮かべながら工藤君が灯りの下に現れる。
「樒ー、何だ、早速浮気か?」
 続いて、やはり見守っていたに違いない。葵と桔梗、それに詩音さんにほかの男子たちまでニヤニヤしながらわたしとライレクを見下ろしている。
「葵……ち、違うよ」
「あら、じゃあ、なぁに? 襲われてたの?」
「そのいかにもそんなのありえないわよね、みたいな言い方は何、桔梗?」
「ほほほ」
 ほほほって言う人、初めて見たかも。
「もうっ、とにかくこの人は違うの!!」
 わたしはまだ縋るように見つめてくるライレクの視線を振りきって立ち上がった。
 ライレクは金糸の髪を軽く揺らして仕方なさ気に小さなため息を吐き出しながら立ち上がると、ぐるりとこの場に集まった十人の顔を見渡し、最後に工藤君に目を留めた。
 そんなライレクを横目で警戒しながら、夏城君が足元から拾い上げた何かを工藤君に手渡す。
「工藤、これ統仲王のだろ。柄のところ、菊の紋が刻まれてる」
 鞘のない白銀の短剣。短くも細く美しい曲線を描く刀身は、工藤君が手の中で返すと淡い蝋燭の灯を受けてゆらりと輝いた。
「確かに、これは元は統仲王の所有物だったものですね。ですが、血晶石とともに天宮の宰相だったマルナートに譲ったはずですが」
 工藤君は笑みをしまいこんでライレクを見おろした。
 ライレクは少年の顔にしたたかな微笑を浮かべ、見る者を惹きつけるような動きでその場に跪いた。
「この特別な日に、まさか貴方にまでお会いできるとは思っておりませんでした。私は第五十一代天宮王、ライレク・コード・マ・ナート・シエル・ロイツ・カヌックⅢ世と申します」
「五十一代、天宮王……」
 誰が呟いたかはわからない。だけど、きっとみな心の中ではその職名を唱えたことだろう。時の重さとともに。
 けれどおそらく、わたし一人は違ったはずだ。
「第五十一代? 五十二代ではなく?」
 思わずわたしは口を挟んでしまっていた。
 だって、第五十代がナルギーニなのだ。ライレクはナルギーニの孫。それなら、この子の父親は一体どうしてしまったのだろう。ナルギーニが奔放すぎて困ると、それでも自慢の種にしていた息子は。
 ライレクはゆっくりとわたしに視線を移した。
「ええ。父は天宮王になることなく、十年以上前に母と共に戦乱で亡くなりました」
 ナルギーニ。
 心がざわめいた。
 天宮王になるということは魂をあの赤く輝く血晶石に永遠に繋がれること。転生がないということは、人でなくなるということ。息子を天宮王に立たせなければならない苦しみを代々の天宮王は嘆いてきたものだったけれど、もしかしたらナルギーニは生きているうちに息子の死を見る羽目になっていたのではないだろうか。
「ライレク、ナルギーニは? ナルギーニは、いつ……」
 特別な日って言った。
 天宮地下、統仲王の抜け殻の前に若き天宮王がいる理由は、一つしかない。封印された伝説の名残が残るこの地下に、それ以外の理由で誰が入ろうなどと思うだろう。
「戴冠式だったんです。ついさきほど、私は天宮王の名前だけ祖父から引き継ぎました。そしてここに来たのは……聖様ならお分かりのはず」
 ライレクは工藤君の手から短剣を奪い取ると、百八十度向きを変えて眠る統仲王の胸の上で白刃を振り上げた。
「ライレク!!」
 振り上げた腕に、わたしは反射的に飛びついていた。
 ナルギーニに続いて、ライレクも本当に統仲王の胸を血晶石ごと貫き通してしまいそうだったから。
 短剣の切っ先は、血晶石に触れるか触れないかの所で止まっていた。
 ライレクは堪えられなくなったように笑い出す。
「やっぱり、そうこなくっちゃね」
「ちょちょちょちょちょっと、貴方、今自分が何をしようとしたか……」
 蒼白になっている工藤君に、ライレクはさっき見せた恭順の姿勢も忘れたかのようにからりと言い放った。
「分かってますよ。統仲王の息の根を止めようとしたんです。みんな、やろうとしたことです。そして、やり遂げられなかったこと。今のように聖様が五十回、現れて止めてきたから、誰も運命に逆らえなかった。そして、私も」
 自嘲したライレクは、短剣を床に捨て、統仲王の胸の上から血晶石をつまみあげた。
「聖が、五十回現れて統仲王の命を救った?」
 不思議そうに工藤君が私を見ている。
 違うんだ。聖は父親の身体を守っていたんじゃない。自分の未来を守ろうとしていただけなんだ。統仲王がいるかいないか、それだけで、神界、闇獄界、月宮殿の力の均衡は大きく変わってしまう。
「救ったなんて大げさなことしてないよ」
 わたしはライレクの手に渡った血晶石に手を伸ばしていた。
 紅く、ルビーのように輝く穢れない命の結晶。この中にナルギーニの魂がいる。
 今日、戴冠式だったというのなら、まだナルギーニの身体は上に安置されているはずだ。天宮では、死んだ王のお葬式よりも、何よりも統仲王の身体の存続を優先する。だから、対外的には死んだ王の喪主は同等の地位を得た者、即ち新たに王となった者にしか勤められないという慣習を根づかせていた。
 ――逢いたい。
 泣きそうな声が聞こえた。
 聖の孤独を癒し、苦しみを知り、いてほしいときにはいつも側にいてくれた。
 もう二度と逢うことはできないと、あの時決心はついていたはずだった。たとえ何かのはずみで再び神界に来ることができても、看取ることは愚か、眠る姿に祈りを捧げることもできないだろうと。そんなタイミングよく、人間となった自分が彼の側に行くことなどできないだろう、と。
 わたしは一度上を見上げ、ナルギーニの柔らかな微笑を思い出すと、ライレクの手から受け取った血晶石をそっと頬に当てていた。
「ナルギーニ」
 聖には龍兄しかいない。
 でも、この気持ちはなんなのだろう。
 龍兄を想う気持ちとは正反対に、とても静かだけれど揺らぎない信頼に裏打ちされた安心感。互いに手が届かない距離にいるからこそ、逆に思う存分甘えあえる。
 頬に当てた血晶石はひやりと冷たく、かと思いきや、今にも鼓動を始めそうなほど生暖かかった。
 いる。
 確かに、彼はこの中にいる。永遠という名の時の牢獄の中に。
 貴方だけは、けして囚われてほしくなかったのに。
「守景、ナルギーニって誰だ?」
 聖の記憶に乗って募りゆく想いが、ふつと途切れた。
「夏城君……」
 その声はけして責めた色を帯びていたわけじゃないのに、わたしの肩は震え、全身は強張ってしまった。
「前代の……天宮王」
「それは、さっきの話を聞いてれば分かる」
 かすかに含まれた苛立ちがわたしの心に棘となって突き刺さった。
 わたしは答えられずに血晶石を握りしめたまま俯く。
 それを見た夏城君は、わたしの肩に手をかけて、珍しく強引に正面から覗き込んだ。
 薄茶色の真剣な眼差しに、わたしは守景樒に引き戻される。
「悪ぃ。龍なんて関係ないって言っときながら」
 ため息が優しく背をなぞった。
 わたしはほっと一息ついて口を開いた。
「聖のお茶のみ友達だった人なの。幽霊になってた聖に気づいてくれて、人としてちゃんとお付き合いしてくれた人なの」
 嘘じゃない。ナルギーニは聖にとってとても大切な人だった。
 聖を孤独から救い出してくれたんだから。
「それから――」
 聖の計画の密かな共謀者。
 そう言いかけた時だった。
「うっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁっっっ」
 地下宮の天井いっぱいに葵の悲鳴が響き渡った。
「葵?!」
 緩んだ夏城君の腕の中から驚いてわたしは顔を出す。
 炎姉さまの柩の前、驚いていたのは葵だけではなかった。織笠君も三井君も口を無駄に開閉し、光くんは桔梗の後ろに隠れ、桔梗は光くんを庇いながらも蓋の開けられた柩の中をじっとみつめている。
 その中で河山君だけは一番に気を取り直し、柩の側に膝をつき手を伸べた。
「……あったかい」
 その一言に、いつの間にか勝手に柩を開けていたみんなは声すらものみこんで茫然と立ちすくんだ。
「話には聞いていたけど、ほんとに対面することになるとはねぇ」
「分かってて開けてみようっつったの、桔梗だろ」
「好奇心には勝てなかったのよ。それに――」
 葵に責められた桔梗は悪びれもせずに答え、一度言葉を切ってため息をかわりに吐き出した。
 その間に桔梗の後ろから出てきた光くんが、麗兄さまの柩へ向かってゆっくりと歩きながら言葉を継ぐ。
「確かめたかったんだよね。この記憶がリアルなものだったのかどうか」
 紫の布を取り払い、小さな体で柩の蓋を押し開ける。そして、今度は恐れることなく中を覗きこみ、白金に透ける絹のようにしなる髪を掬い上げた。
「どこかでさ、嘘だったらいいのにってほんとは思ってたんだ。小さい時から僕はこの人のこと知ってたけど、小さすぎてわからないこともたくさんあったからまだ救われてた。でも最近じゃそんなことも言ってられないくらいどうでもいい知識や知恵もついてきちゃって、繰り返される映像が全部僕の夢想の産物なんだって思い込もうとしてたくらい……ほんとはきつかった」
 柩の端に頬杖をついて光くんは横たわる麗兄さまの顔を眺めていた。
 光君は、手放しで麗兄さまの記憶を受け入れられているとばかり思っていた。桔梗を共有者と呼び、秘め事の共有者が増えるのを子供らしく喜んでいるのだとばかり、思ってた。
 だけど、そうだ。たしかに魔麗法王の名が自分の前世の名だと告白した時、その口元には大人ですらぞっとしそうな冷たい笑みが浮かんでいた。
 幼いときから見ていたのでは拒む基準が分からなかったに違いない。だから自分の前世だと受け入れておきながら、年を重ねるにつれて拒む理由を探していたのかもしれない。
「聖様、血晶石をいただけますか?」
 横たわった静寂に時を継ぎ足すように、ライレクがわたしの前に手を伸ばした。
「あ、うん」
 振り返って曖昧に返事は返したものの、わたしはまだ血晶石をきつく握りしめたまま放す気にはなれなかった。
 これを渡してしまったら、ライレクもまた、この生一度限りになってしまう。それに、おそらく今のライレクは過去最年少といわれたナルギーニよりもどう見てもさらに若い。
 ナルギーニの心痛はいかばかりだったことだろう。息子に託すならまだしも、こんなに幼い孫に引き継がせなければならなくなってしまって――もしかしたらあの時、統仲王の胸に短剣を突き立てておかなかったことを後悔しているかもしれない。止めに入った聖のことを、やっぱり恨んだかもしれない。
「聖様、血晶石を」
 同じくらいの目線から、ライレクは透明感溢れる紫水晶の瞳でわたしを覗きこんだ。
「さっきの、本気だった? 統仲王の胸に短剣をつきたてようとしたとき、やっぱり本気だった?」
 見る者、老若男女問わず、おそらくこの瞳は惹きつける。虜にする。恋愛感情とは別の、そう、服従させる力。
 本人は気づいているのだろうか。ナルギーニはちゃんとライレクに自分の瞳の力の恐ろしさを教えただろうか。
「もちろん、本気でしたよ。子孫の運命を変えられる、たった一度のチャンスだったんですから」
 ライレクは床に転がった短剣に視線を落とす。
「短剣をつけろと言ったのはマルナートでしたね。どんな慣習であろうと、引き継ぐかどうかは最終的には子孫の意志に任せたいからと。統仲王も笑いながらそれを許しました。〈予言書〉には再びその体に戻る日が来ると記されていましたから」
 工藤君は短剣を拾い上げ、鞘を作り出してライレクに渡した。
「工藤、お前今、何もないところから鞘作らなかったか?!」
 驚いた声を上げたのは、鉱兄様の柩の蓋を元に戻してこちらを伺っていた三井君だった。
「作りましたよ。統仲王は物質を司る神。僕も人界じゃ何も出来ませんけどね、場所が場所だけに出来ちゃったみたいです」
 複雑そうな内心を隠そうともせずに工藤君は笑い、命の気配の欠片もない統仲王の顔を見下ろした。
「これじゃまるで人形ですね」
 黒く艶やかな長髪、通った鼻筋、引き結ばれた薄い唇。痩せて見えるけれど、けして軟弱には見えないしなやかな体つき。
 これが神界の王。
 物質を創造する力を持つ人界の創造神。
 眠っていても、たとえそこに魂がこめられていなくても、統仲王の身体には存在するだけで神と冠されるだけの威厳と神々しさが秘められている。
「本当に人形になってしまってたらよかったのに」
 工藤君は小さく呟いて、子供のように無造作に統仲王の鼻をつまんだ。
「ちょっ、くど……」
「おやめください!」
 わたしがたしなめる前に、ライレクが工藤君の手を払いのけていた。
「無礼をお許しください。ですが、この方は私の祖父はもとより、この血を残してくれた者達が苦悩の果てにお守りすると決めて魂を賭した方の身体です。私の代で先祖達の苦労を水の泡にするわけには参りません」
 さっきまで本気で統仲王を殺そうと思っていたとは思えないほど真摯なライレクの言葉に、工藤君は払われた左手をみつめる。
「聖様、血晶石を」
 そして、ライレクは再度わたしの前に両手を押し出すように差し出した。
 渡さなければならないだろう。わたしが持っていてもどうすることもできない。
「分かっているの? この石を受け継ぐということは、あなたの子孫もまた同じ運命を強いられるんだよ?」
 一番分かっていないのはわたしだ。ライレクをはじめとする代々の天宮王たちの思いを、一番分かっていなかったのはわたしだ。
「いいえ。私の代で終わりです」
 断固たる意思のこもった声でライレクは答え、微笑んだ。
「聖様、貴女が何故今ここに統仲王様はもとより他のご兄弟方とともにいらっしゃったのか私には分かりません。ですが、貴女は祖父に話したとおりちゃんと転生なさったのですよね? その姿は転生後のお姿なのでしょう? 貴女がお生まれになったのが今から何年後のことなのか、〈予言書〉も持たなければ時を行き来することもできない私には分かりかねますが、おそらく貴女の現在は今からそう遠くないことのはずです。唐突な事故などがない限り、おそらく神界はまだ私こと第五十一代天宮王の治世でしょう」
 わたしが〈予言書〉を変えられれば、少なくともこれからは天宮王の子として生まれる者が重荷を背負わされることはなくなる。いや、もし有極神が復活してしまったとしても、その時は統仲王が甦る。統仲王の血晶石は生命維持としての機能しなくてもよくなるのだから、結局はこのライレク一代で悲しい運命は終止符が打たれることになる。
「でも、ライレクは逃れられないんだよ? そんなこと、ナルギーニだって一番心配してただろうに」
 ライレクはちらりと夏城君の顔を窺ったあと、血晶石を握るわたしの手の指を一本一本開いていった。
 統仲王の血晶石は静かにライレクの手の中に転がり込む。
「決めてたんです。聖様が止めなかったら血晶石ごと統仲王の身体をその短剣で貫いてやろう。でも、もし聖様が現われたら、その時は祖父の意思を継いで本物の天宮王になり、ここに眠る方々をお守りしていこうって」
 ライレクは、教えられてもいないだろうに手にした血晶石を胸元に近づけていく。血晶石は衣服に触れるか否かまで近づくと、ふっと中に吸い込まれるように消えていった。
 程なくライレクは上半身を折り曲げて呻き声を上げはじめた。額からは雫となって滴り落ちるほど汗が噴きだす。
 せめて身体を支えてあげようと伸ばした手は、礼儀正しく押し返された。
 ナルギーニが言っていた。
 魂が囚われるこの瞬間が、肉体的には一番苦しいのだと。
 けれど、精神的な苦しみはおそらく肉体が朽ち果て、魂が磨耗されつくされるまで続くのだろうと。
 握るものを失ったわたしの手は、自分の手の平の柔らかい部分に爪を立てていた。
 せめて痛みを共有したかったのだろうか。
 きっとこんな些細な痛みには及びもつかない葛藤の中にいるだろうに。
 ライレクが苦しんでいる間、工藤君はほとんど表情もなくライレクの姿をみつめていた。
 そんな工藤君の横をすっと通り抜け、それまで大人しくわたしたちを見守っていた詩音さんが膝をついたライレクの正面に屈みこんだ。
「詩音さん……?」
 詩音さんは首だけめぐらせて優しくわたしに微笑むと、そっとライレクの頭を手のひらで包み込んだ。ライレクの苦痛に歪んだ表情はそれだけで少しずつ緩んでいく。
「ごめんね」
 母親のような表情で詩音さんは呟いた。
 どうして詩音さんが謝るんだろう。詩音さんだってこんなことに巻き込まれて大変な思いをさせられているはずなのに。
「いいえ。私は実際にあなた方にお目にかかれただけでも幸せ者です。迷うことなくこの地下宮の秘密を守り通す意志を固められましたから」
 詩音さんに触れられただけで大分顔色のよくなったライレクは、少しふらつきながらも立ち上がり、力強く微笑んで見せた。
「維斗、あんたも妙な気起こしちゃだめよ?」
 立ち上がった詩音さんは軽く工藤君を睨むと、ふらつくライレクの腕を支えた。
「詩音さん」
「ん?」
「詩音さんも何か魔法が使えるの?」
 ちょっとためらって尋ねたわたしに、詩音さんはあっさりと首を左右に振ってみせた。
「なぁにも。だって、わたしはただの人間だもん。せめてそこの自殺願望丸出しのでくの坊のように、目だけでも金色だったら多少ここにいても場違いじゃなかったでしょうね」
「誰が自殺願望丸出しですかっ!」
「だって、さっき統仲王殺そうとしてたじゃない」
「この人は僕とは全く別の人格を持った人なんです。僕自身じゃありません」
「まぁねぇ、目が金色っていったって見えてるもんは同じだもんね。〈予言書〉読んで、書き換えることも出来ずにああでもない、こうでもないって唸っているだけだもんね?」
「ええ、どうせ僕は何にも出来ませんよ! でも、人界崩壊に巻き込まれずに済んだのは、僕が聖刻王が事を起こす時機を正確に読んでたからじゃないですか!」
「あんたがちゃんとそう言ってくれてたらもっとちゃんとしたお弁当や非常食準備したわよ! ていうか、それ以前に分かってたんなら学校のみんなくらい何とかしてあげればよかったじゃない! この自己中男がっ」
「学校の生徒だけ救えたからって他の人々はどうなんですか? 中途半端に救ったところで、人数が多ければ非難させた時代に悪影響だって及ぼしかねないんですよ? そうなったらもう時を戻すだけじゃすまなくなるんですよ?」
 愛優妃の薔薇園で詩音さん達に会った時、微妙に言葉を濁していたのは、ただ飛ばされて来たからじゃなかったんだ。
「だからって見捨てていいもんでもないじゃない!」
「どうにもできないことだってあるんです! 僕は詩音の言うとおり無力ですから」
 分かってる。詩音さんが責めているのは濡れ衣だろうとなんだろうと工藤君だけ。でも、わたしにはまるでその言葉が自分に向けられたもののように聞こえていた。
 時空震に呑まれ、瘴気に呑まれ、わたしの目の前で消えていった同窓生達。桔梗や葵は運よく戻ってこられたけれど、何の力も持たない高校生がそれこそジュラ紀や闇獄界に飛ばされていたら、その生存はたとえ一日しかたっていないとしても相当怪しくなってしまうんじゃないだろうか。
 ただ目の前でもがく人がいないというだけで、悲鳴が聞こえてこないというだけで、わたしは目を閉じ耳を塞いでいるのと同じだ。
 肩に力が入っているのが分かったのだろうか。
 夏城君がそっとわたしの肩に手を置いた。
「ありがと」
 あまり気にするなという意味なのだろう。
 だけど、全く気にしないわけにもいかない。
 この手にどれだけの命が乗っているのか、想像もつかないことを言い訳にあまり考えないようにしていたけれど、あの西講義室にいた人たちのことを考えただけでも腕は重みに数段下がる。
 それだけじゃない。
 ナルギーニの思いや、ライレクの運命すらもわたしはこの腕に抱えているのだ。
「えっと、これで最後だよね。よっこいしょ、っと」
「さて、龍サマとごたいめーん!」
 少し離れた辺りから、さっきの深刻さはどこへやら。すっかり好奇心の虜となった光くんと、まじめな話に飽きたらしい三井君の声が聞こえた。
「あっ、おい、お前ら勝手に人の柩開けるなっ!」
 狼狽もあらわに夏城君はすでに蓋の開けられた龍兄様の柩へと飛んでいく。
 その姿が、突如忽然と消え去った。
「あれ、星おに……」
 続いて光くん、葵に桔梗、三井君、河山君、織笠君、そしてつい今まですぐ側で痴話喧嘩を繰り広げていた工藤君と詩音さんの声までもが、一瞬にして遠くなっていった。
 九人分の気配が、泡のように立ち消えていた。
「何? 何が……」
 不意に耳鳴りのような高音が張りつめた。
「樒!」
 目の前で時空の扉が開く。そこから転がり出てきたのはさっき離れ離れになってしまっていた緋桜と飛嵐。
「緋桜、飛嵐……! どうしよう、みんなが、みんながいなくなっちゃった……!!」
 くずおれたわたしを青ざめた緋桜が抱きとめる。だけど飛嵐は血相を変えるどころか、予め知っていたかのように廟の中を見回した。
「ここにいらっしゃったんですね」
「みんな、どこ行っちゃったの? ねぇ、飛嵐! すぐに時空軸の瘴気を一掃しなかったから? だからみんな、またどこかに……」
「人界の崩壊の影響です。すでに十五時間ほどが消えてしまいました」
 その一言を聞いただけで、体中の血という血が足元から一気に引き抜かれたような寒さがわたしの全身を襲った。
「は?」
「このままでは、昨日、時の異変が起こったときよりも過去の時間まで消えてしまいます。お急ぎください」
「急ぐ? 急いで……時を戻せばいいの? この時間をなかったことに。刻生石が現在に連続的に存在するように? でも、みんなは? 探さないと、みんなのこと……!」
「探す暇などございません。時さえ正常な理に戻れば、あの方々も無事にその現在に存在なさっているはずです」
「でも……!」
 一人になってしまったと思った。









←第6章(1)  聖封伝  管理人室 第6章(3)→