聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉

第 6 章  帰 着


 1
 いつも大切な時、わたしの側には誰もいなかった。
 一人で決めて進むと、必ず何か障害にぶち当たる。
 もう、一人で後悔するのはいやだった。
 一人で決めれば、全部自分の責任になってしまうから。詰ることが出来るのは自分だけになってしまうから。
 少しでも、この重荷を誰かと分け合いたかった。肩代わりして欲しかった。一つでも多く。
「お願いよ、澍煒、飛嵐。私、このままでは本当にだめになってしまう。今にも気がふれてしまいそうなの。彼女と永遠に一つ、この身体の中に閉じこめられて私ばかり眠っていなきゃならないだなんて、本当に気が狂ってしまいそう」
 試したのだ、私は。
 有極神と契約を結び彼女を受け入れてからというもの、昼は私がこの身体を使い、夜、私が眠ると彼女が起きだして人知れずどこかへと出かけていく。そして、結局疲れがとれぬまま翌朝身体は引き渡され、疲労とだるさの中でわたしは日が中天にあるうちから再び夢の世界を彷徨う羽目になる。それでも夜中にはまた彼女が起き出してくるのだから、身体は弱る一方。微熱は下がることなく、時に意識を混濁させるほどにのぼりつめる。
 彼女が一体何をしているのか、当初私はよく分かっていなかった。
 彼女はいつも私の意識が完全に途切れてから動き出すから。
 だけど、この悪循環はあまりにも私が耐え難い。このままでは本当にいつか死んでしまうかもしれない。
 言い知れぬ恐怖に襲われた日、私は眠ったふりをしてできるだけ気配を殺し、耳を澄ませた。
 そんなこと、しなければよかったのかもしれない。だけど私が眠っている間、この身体がどこで何をしているのか、わたしは知っておかなければならないような気がした。
 ただ、それだけのつもりだった。
 追い出す術を心得ているなら、とうに彼女をこの身体から追い出している。
 私は、ただ知りたかっただけだった。
『主、こちらです』
 有極神が私の身体を起こした直後のことだった。
 見計らっていたように流れ込んできたその声に、私は自分の耳を疑った。
『珍しいな。今日はお前が案内してくれるのか、飛嵐』
 幾分楽しげに浮ついたその声は、はっきりとその名を呼んでいた。
『久方ぶりに月宮殿へ参りませんか? あなたの愛でていらした白百合がそろそろほころびはじめております』
『月宮殿、とな。それもよいであろう。まさかこの身体で帰ることが出来る日がくるとは思わなかったが』
『ついでにあなたを縛る戒めを少し緩めてまいりましょう。少しずつならあのお二人もお気づきにはなりますまい』
 いつもどおり冷静に聞こえる飛嵐の声。けれど、私にはすぐに分かった。
 少なからず、彼の心も浮き足立っている、と。
『飛嵐、お前は何故我にそれほどかまう? 他の王も獣も、愛も統も、お前の主も我を忌々しく思うだけだというのに。お前とて、我の手の内にいるのと変わらないのだぞ?』
『私の主はあなただけでございます、有極神様。――さあ、お手を』
 一体、何が許せないと思ったのか。
 私という主がいながら、夜にはそれすらも偽りだったのだと元の主に仕えていたから?
 それとも、差しのべた手に重ねられた私の手をいとおしげに握ったから?
 ああ、そうか。
 飛嵐は一度もわたしを「主」などと呼んだことがなかったからだ。
 月宮殿に着く前に、私は意識を手放した。
 何も知らなければよかったと思った。
 どこかそっけなくて、澍煒ほどに心を許してくれていないことは分かっていたけれど、それでも私を主と認めて仕えてくれているものだと思っていた。
 主従関係にそれほどこだわりがあるわけじゃない。
 澍煒なんて一番の親友だし、西方将軍のヴェルドだって大切な友人だ。
 飛嵐だって――友人でも兄妹でもない。まして親子でもないけれど、どこか家族のように思っていた。
 手放しでいざとなったら私のために尽くしてくれると、信頼、していた。
 それなのに。
 それなのに――!!
「そんなことになってたの。いいよ、分かった。時を治める者がそんなんじゃこの世の時空も維持するの難しくなるし。ちゃっちゃと戻してやり直しちゃおう。ね、飛嵐?」
 一瞬難しい顔をして考え込んだ澍煒は、すぐに薄い本をめくりなおすような気安さで明るくうなずいた。
 だけど、一番うなずいてほしかった飛嵐は……渋い顔をしたまま目を伏せて首を横に振った。
「飛、嵐……?」
 口を噤んだままそれ以上何も語ろうともしない飛嵐に、私は思わず詰めよっていた。
「どうして? どうしてだめなの?」
「時の理を乱すことは、時を治める者のすることではありません」
「だけど、私が有極神にこの身体を貸してしまったことで、彼女はわたしの知らぬ間に何かよからぬことをしているの。私が彼女を受け入れさえしなければ、今まで仕組まれたことも全部なかったことになるわ。この世界だって〈予言書〉どおりの道を歩まずに済むかもしれない!」
「なりません」
「何故!?」
 振り向かせようとするのに、飛嵐は目をそらせたまま私を拒む。
「本当は……本当は嫌なんでしょう? 私の中から有極神がいなくなるのが嫌なんでしょう?」
 はじめて、飛嵐の肩が震えた。
 私の心には暗い炎が点る。
「ねぇ、飛嵐。有極神と二人、月宮殿は楽しかった? 白百合はさぞ綺麗に咲き誇っていたことでしょうね?」
 飛嵐はようやくおそるおそるわたしの目を覗きこんでいた。
 完敗したはずなのに、私の口元には歪んだ勝利の笑みが浮かんでいた。
「時を戻したら、本当の主との楽しい想い出もなかったことになってしまうものね。私の身体に愛しい人の魂を閉じこめて、私が眠っているのをいいことにこの手に触れて。ねぇ、飛嵐。もしかして私に契約を持ちかけるように有極神に助言したのも貴方なんじゃない?」
 息をのむ音が聞こえた。
「ほら、やっぱり」
 涙とともに笑い声がこぼれだしていた。
「貴方はとんだ裏切り者だわ、飛嵐。まさか誰にも許したことのないこの唇にまで触れていないでしょうね?」
「いいえ。そんな恐れ多いことはけして」
「恐れ多い? 誰に対して? 私じゃないわよね? 有極神に対してよね? だって、彼女は貴方の真の主なんですものね?」
「聖様……」
「違うというなら、私のことを主と呼んでみせなさいよ!」
 翳った黄金の瞳には病んだ少女の顔が映っていた。
 飛嵐は耐えかねたのか、顔を伏せたまま首を捻って私を視界から追い出す。
「飛嵐!!」
 両袖を掴んで揺すって。
 だけど、飛嵐はもう二度と私を見ることはなかった。
「飛嵐、本当なの? だって、あんただって同罪じゃない。あんただってあの方が封じられる時、何も言わなかったじゃない。すべてあの方の定められたとおりに動くしかなかったわたし達が自由を手に入れるためにはああするしかなかったって、あんただって賛同したから黙ってたんでしょう?!」
「……澍煒。お前が時を戻してもいいと言ったのは、聖様のためではあるまい? 魔法石を通して送られる聖刻法王の力が最近弱まってきていたからだろう? それでは満足にあの方の封印の礎となることも出来ない。だから――」
 強かに飛嵐の頬を張る音が室内に響いた。
「澍煒……」
 そう呟いた私の声には疑念と驚きがないまぜになっていた。
 飛嵐の言葉を信じそうになってしまっていたから。澍煒がはじめて誰かに手をあげるところを見てしまったから。
「ふざけないで。あたしが聖と契約結んだのはこの子が好きだったからよ。あんな封印の一角担うくらい、あたし一人だけだって出来るわ!」
「ほう。あの方がこの中にいらっしゃることすら気づかないほど弱っていたくせに?」
「それは……単に最近あたしの調子が悪かっただけよ!」
「法王と影は一蓮托生。結ぶ魔法石に互いの魂がこめられているのだから、その魔法石が曇ればお前の体調にも響くのは当たり前」
 わたしは不安を隠そうともせずに澍煒を見上げた。
 〈予言書〉の内容は知っている。
 それでも、知らないことがこんなにも身近にたくさんある。
「澍煒、ごめん。もっと早くに相談しておけばよかったね……」
「あんたこそ一人で悶々としてたんでしょ。道理で顔色が悪いはずだわ。それなのに、飛嵐! あんたは全部分かっていて、あの方と遊び歩いてたってわけ? それも弱っている聖の身体を使って」
「遊び歩く? それほど楽しいものでもありませんでしたよ」
 澍煒の言葉に飛嵐はうっすらと口元に自嘲的な笑みを浮かべた。
「開き直るの……? ねぇ、開き直る気なの?」
「聖様。私が貴方にお仕えしているのは、ひとえに澍煒が貴女に仕えているからです。精霊獣は精霊王を守り、王に何かあったときには次代の王となるべく生まれた者です。それは、法王との契約に縛られることを選び、精霊王が影と名を変え、精霊獣が守護獣と名を変えた今でも変わらぬこと。そして、私が主と呼ぶべき者はたった一人、有極神様のみ」
 体中から力が抜け落ちていった。
 わたしは法王なのよ。
 時空を司る者。
 その下に影と守護獣とを従え、時の理を守り続けなければならない者なのよ。
 なぜ?
 信じてたのに。
 飛嵐。私は貴方を信じてたのに。
「命令よ。時を戻すから力を貸しなさい、飛嵐」
 精彩を欠く声が口から押し出されていた。
 澍煒は、命令という言葉を使った私を茫然と振り返った。
 飛嵐は身じろぎすらしない。
「時の守護獣、飛嵐。返事をなさい」
 なんて脆い絆だったんだろう。
 もしかしたら澍煒だって私に魔法石を預けていなければ、容易に私を裏切ったんだろうか。
 法王と守護獣の間には儀式のような契約もなければ、何か大切なものを交わしているわけでもない。
 影との契約が成立すれば、その影を守り、ひいては法王を守るためという名目で守護獣が現われる。兄さま姉さまたちの中にはその守護獣にも試された人もいるみたいだけれど、そういえば私は何も問われなかった。澍煒と契約を結び、しばらくしてから澍煒の紹介で引きあわされ、挨拶を交わし――それだけだった。
 私は、はじめから彼の眼中になどはいっていなかったのだ。
「できません」
 ふつりと、細い糸でつながっていたものすら断ち切られた音が聞こえた。
「お話はこれだけでございますか? それでは私はこれにて失礼させていただきます。愛優妃様より至急闇獄界に来るようにと命じられておりますゆえ」
 唖然として私は飛嵐の背中を見上げた。
 そう、そこにはもう、彼の背中しか残されていなかった。
 次の瞬間には、その背中すら残像となって掻き消えていた。
「澍煒……澍煒……」
 怒りすら萎えて、私は震える自分を抱きしめた。
 ――お願い。一人にしないで。
 その私を澍煒が上から包み込むように抱きしめる。
「聖」
 優しくて、力強くて。
「時を戻したい……。こんなのはいや。飛嵐にあんな言葉までぶつけてしまって……私は……」
 飛嵐を見返してやる。
 命令などという言葉まで使った自分を、確かにわたしは恥じていた。
 だけど同時に、心は荒れ狂う海の如く自我すらも見失いかけそうになるほど猛り狂っていた。
「だけど聖、覚えておいてね。この魔法は二人だけだと失敗する可能性の方が高いよ。もし失敗したら……」
「失敗したら? 私はこの身体から解放される?」
「……聖……」
「冗談よ」
 永遠の命なんかほしくなかった。
 だって、それは永遠に龍兄とは結ばれないということだから。
 時の影響を受けない身体なんかほしくなかった。
 この身体さえなければ、有極神に目をつけられることもなかっただろうから。
 私は、今持つもの全てが疎ましい。
 聖刻法王というこの名前すらも。
「もし失敗したら? どうなるの?」
「時の病にかかるかもしれない。あたしか聖かのどちらかか、あるいはどちらもか」
「時の病?」
「巻き戻そうとした時間の分、失敗すれば術者に同等の時間が逆に進行する形で戻ってくるの」
「つまり、老いるのね?」
 法王の身体には死はない。
 そう言われ続けてきたから、私はそれ以外の可能性を考えなかった。
「たとえ法王の身体でも?」
「実際にやったことがないから分からないけれど、普通の人間に返ってくれば、その人は一瞬にして塵に還るでしょうね。それだけ強い力を要するってこと」
 じゃあ、もし澍煒にだけ降りかかってきたら?
 そんな愚かな問いは、発するまでもなかった。
 失敗したら、私が全て引き受ければいい。
 飛嵐などいなくても、澍煒のこの腕だけは無くすわけにはいかない――
 この直後、私たちは二人で時を戻そうとしたものの、私の体力がもたずあえなく魔法は失敗した。
 私は戻そうとした数百年余りの時を少しずつ進行する形でこの身に受け、澍煒は長いこと昏睡状態に陥った。
 そして澍煒が目覚めないまま、三日が過ぎた頃だった。
「やはり失敗なさいましたね」
 痛烈な言葉とともに飛嵐はふらりと澍煒の眠る部屋に現われ、嘲笑うでもなくただ静かに佇んでいた。
 私は澍煒のように飛嵐の頬を張る気にもならず、飛嵐を振り返って表情を確かめる気にもならず、ただ呪詛を呟くように呪文を呟いた。
『我 時空を司る者なり
 この世の有たるもの全てを保護するものなり
 すなわち 我が意に背きしは我が保護を拒みし者なり
 我が意に仇なす者は無こそを望む者なり
 ならば 愛しき時の精霊達よ 我が命を聞け
 時の守護獣 飛嵐
 彼の者を 我が意及びし全ての時空から遠ざけよ』
「〈追放〉」
 悲鳴も何も聞こえなかった。
 ただ、一言、何か言いたそうに私の名を呼ぶ声だけが背後に残った。
 私はその声を耳奥から掻き消したくて吐き捨てる。
「この怒り解けるその日まで虚無の縁を彷徨うがいい、飛嵐」
 たとえ神界、人界、闇獄界から追放したところで、時の守護獣ならばこの有たる世界の外、無の中でも新たな空間を切り開き生きていくことが出来るだろう。
 怒りが解ける日。
 きっとそんな日は永遠に来ないに違いない。
 私はけして飛嵐を許さない。
 だけど。
『聖様――』
 どんなに忘れようとしても、消え去る一瞬残していったその声は、やけに長いこと私の耳に残り続けていた。











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