聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 5 章  過 去

 6

 目の前に薄暗い光が飛び込んできた。
 何度かゆっくりと瞬いて目をならす。
 映る光景は繊細華美な模様を刻んだテキスタイルを敷き詰めた天井。
 体の上には肌触りのよい掛け布団がかけられている――
 意識がはっきりした瞬間、わたしは跳ね起きていた。
「気がついたか」
 聞き覚えのある声は不機嫌と無感情との狭間でそう言った。
 ベッドから大分離れた窓辺、横向きにおいた椅子に腰掛けて本を開いていた銀髪の青年は、普段と変わらない表情でわたしを振り返っていた。
 龍兄。
 唇を上下に押しのけて出かかったその名を、慌ててわたしは両手で押さえ込んでいた。
 心臓に悪すぎる。
 さっきあんな間近で見つめあったばかりだっていうのに。
 そりゃ、大昔の龍兄とちび聖っていう関係だったし、意識だってとうにちび聖にのっとられてしまっていたわけだけれど。
 おでこや背にはまだ龍兄の腕の温もりが残っているような気がした。
 小指には、絡めたあの力強さがまだ確かに残っていた。
「あの、わたしは一体……?」
 随分と寝心地のよかったベッドから這い出して、わたしはさっき見た夢の中の第一声とさほど変わらない言葉をまた口にしていた。
 蒼氷色の瞳が感情も無くわたしに据えられる。
 まるでこれ以上近づかれるのを拒むように。
 わたしは薄暗い寝室と明るい居間との間で立ちどまった。
「時の精霊を守護に持つのか」
 低く呟かれた言葉がわたしへの問いかけだったのか、ただの回想だったのか。
 測りかねたわたしは、早速次の言葉に窮した。
 それ以前に、問われていたとしてわたしはこの問いに答えることは出来ない。
 わたしがここにいるということは、気を失う寸前唱えた〈渡り〉が成功したということだから。
 他の精霊に比べて、時の精霊を守護に持つ神界住民はまずいない。
 いたとしても時空を渡れるクラスとなると聖くらいのものだろう。
 今すぐにだなんて言われても、上手いいいわけは思いつかない。
 けれど、龍兄はこっちの事情にはお構いなしに更に問いかけてきた。
「〈渡り〉でこの部屋に飛び込んできたんだ。何の用があってここまで来た?」
 開かれたままの本。
 おそらく、余り問い詰める気もないのではないだろうか。
「えっと……すみません」
 聖のように上手く丸め込めるような言葉がすらすらと口から出てくるはずもなく、わたしはなんとかしどろもどろになりながら謝った。
「その……わたし、ちょっと寝ぼけて魔法使う癖があるみたいで」
 頭をかきかき、そんなわけあるかと心の中でつっこみながら、わたしは龍兄のいる窓際に近づかないように壁伝いに出入り口のドアへと向かう。
「えっと、お邪魔しましたー」
 有極神のあの寒気のするような気配はもうどこにもない。
 あの夢が現実の一部だったというなら、わたしは何とか彼女を押さえ込むことが出来たのだろう。
 それなら早くみんなのところに戻らなきゃ。
 後ろ手にドアノブに手をかけると、龍兄の手の中で本がぱたりと閉じられた。
「帰れるのか?」
「は……?」
「ここは天龍の国だぞ。元いたところまで、ちゃんと帰れるのか?」
「天龍の国?!」
 思わず上げてしまった素っ頓狂な声に、龍兄はやや気分を害したように頬を歪ませた。
「もう着いていては悪いか?」
「え? あ、いえ、悪くはないと思います」
 悪くはないけど……早すぎでしょう。
 いくら国が隣同士で守護獣で行き来できるといっても、さっきの今でしょ?
 まさか龍兄が移動中にわたしが落ちてきたわけでもあるまいし。
 でも、そうなのかな。
 たしか、〈渡り〉を唱えた時に最後に思い浮かべた場所っていえば、龍兄だったのだから。
 この人なら何とかしてくれるんじゃないかって、思ったんだ。
 何とかできるんじゃないかって。
 結局はわたし一人で……ううん、聖と一緒に何とかしたようなものだけど。
「って、わたしがどこにいたか知っているんですか?」
「聖刻城にいただろう?」
 ああ、ばれてる。
 ばれてるよ、聖。
 左手のひらで顔を覆いながらわたしは呻いた。
「でも、会っていませんよね?」
「その前は愛優妃の庭」
 もはやわたしは呻くこともできなかった。
 椅子に本を置いて龍兄は立ち上がり、わたしへと向かってくる。
 夏城君、言ってたっけ。
 龍兄は何でもお見通しだ、みたいなこと。
 もしかして、わたしが聖の転生であることもお見通しなんだろうか?
「何を飼っていた?」
「飼う?」
「その中に、何かいただろう? 現われるなり随分とうなされて意識も無かったからな」
 間近まで迫られて、わたしは今すぐにでもこのドアの向こうにすり抜けてしまいたかった。
 嫌な予感と幸せとがない混ぜになった鼓動で耳はどんどん聞こえなくなっていく。
 それなのに、その言葉だけははっきりと聞こえた。
「聖と、同じ者がいるな」
 諦めにも似た悲しげな表情で龍兄は確かにそう言った。
 わたしは後ずさろうとして、見事に腰が砕けた。
 見下ろす龍兄。見上げるわたし。
「何故、そんな姿でそこにいる? 聖」
 息が止まった。
 時間が止まった。
 龍兄は、自分も他の兄弟たちもいずれ間もなく死ぬことを知らないはずだ。
 知らせてはいけない。
 未来は知らないほうがいい。
 知ったら縛られてしまうから。
 だけど。
 わたしは違うとは言えなかった。
 即座に首を横に振ることが出来なかった。
 龍兄はそんなわたしを瞬きもせずにずっとあの蒼氷色の瞳で見つめていた。
 陰になった表情は、より悲しみに沈んで見える。
 わたしはそんな龍兄から目が離せなくて、龍兄が逸らしてくれるまでずっと、息もできずに見つめていた。
「そうか」
 はたりと落とされた言葉に、わたしは息を吹き返した。
 何を納得したのかなんて恐くて聞けなかった。
 それなのに、龍兄はわたしに手を差しのべる。
 大きな手。
 夏城君のよりも大きくてがっちりしていて、大人の男の人の手。
 わたしは俯きながらその手の側に自分の手を差し出した。
 手は握られ、引き上げられる。そしてすぐに離された。
「一つだけ、教えてくれないか?」
 それは龍兄にしてはやけに弱気な声だった。
 打ちのめされて床にでも伸びてしまいそうなほど頼りなげな声だった。
 わたしは横目で龍兄を捉える。
 龍兄はわたしを見てはいなかった。
 僅かに首を右に捻ってわたしから視線を無理矢理にそらせている。
「わたしに答えられることなら」
 震える声を励ましてわたしは答えた。
「お前の側に私もいるか?」
 聖刻城でわたしを見かけていたのなら、あるいはわたしの存在に気づいていたのなら、夏城君にも気づかなかったわけはない。
 聖だったわたしがわたしを自分の転生だと悟ったように、龍兄だって……。
「いるよ」
 あれは、そう、とてもあやふやな思いだった。
 確信ではない。
 何しろ永遠の命を持つ者が転生なんてありえないから。
 だけど、そこにいるのは確かに自分で。
 龍兄も、確かめたかったのだろう。
 夏城君が自分なのかどうか。
 彼が、ちゃんとわたしの側にいるのかどうか。
 ――そう思い至った瞬間、顔が火照った。
 龍兄は、そんなわたしに気づいた様子もなく深いため息とも安堵ともつかぬ息を吐き出した。
「龍兄」
 呼んじゃいけない。
 こんな呼び名を口に出したらいけない。
 そう思っていたのに、わたしの口はついに禁を破ってそう呼んでいた。
 そっと龍兄はわたしを振り向く。
「ごめん、龍兄」
 もし、あの後。聖刻の国を追い返してしまった後、こうやって会う機会があったなら。
 龍兄が気にかけてくれていると分かっていたなら。
「心配かけて、ごめんなさい」
 ちゃんと、そう言っておきたかった。
 聖が龍兄と会えるのはあと何回だったか。
 一回か、二回か。
 いずれにしろもう残り少ないことは確か。
 だけど、このときの聖は龍兄が大方勘づいていることも、どれだけ心配しているかなんてこともちっとも分かっちゃいなかった。
 それどころか有極神の存在を知られるのを、知っているのだと告げられることを何より恐れていた。
 だからいつも逃げるように最後はあの腕から遠ざかってしまう。
 もし、飛び込んでいたら変わっていただろうか?
 唇を噛みしめる。
 それはもう、考えても栓無いことで。
「送ろう」
 数秒かけてわたしの言葉を受け止めてくれた龍兄は、またいつもの無表情に近い表情に戻ってそう言った。
「お、送るって、翡瑞ひずいで?」
 龍兄の守護獣の翡瑞。
 でも、今は向こうの聖に龍兄を会わせない方がいいのではないだろうか。
 動揺したのが顔に出ていたらしい。
 龍兄は苦笑した。
「聖もこれくらい分かりやすいと助かるんだが」
 そう言って、左手ですぐ横の空間に大きく十字を切った。
「え……?」
 指が通り抜けていったその場所から、熱もないままに陽炎のような透明な揺らぎが漏れ出でる。
 これは、〈時空扉〉?
「これで、五分だろう?」
 珍しく、口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
 五分。
 わたしが夏城君が龍兄だと教えたお礼?
 それでもって、このことは夏城君には問うな、と。
 でもどうして龍兄が時空の魔法を使えるの?
 龍兄の契約している精霊はサザ――雷の精霊だけなのに。
 ……そういえば、わたしが何も分からずに時を止めた時、夏城君だけは普通に階段を下りてきたっけ……。
 問うなといわれてもどうしても気になってしまって、わたしは思わず龍兄を見上げた。
「気をつけて」
 温かな手の平がとん、と、わたしの肩を作られた時空の裂け目に追いやった。
 その力はとても優しいものだったけれど、わたしの足は縺れ、前のめりにその中に飛び込んでいた。
 そして、次の瞬間。
「ほらな、戻ってくるって言っただろ」
 相変わらず呆れたような夏城君の声がわたしを迎えた。
「あ……」
 ぐるりと三百六十度から注がれる視線に、わたしはごまかし笑いをしながら起き上がった。
「た、ただいま」
 他になんと言いようがあっただろうか。
 床にへたり込んだまま、どう見ても眉を吊り上げているみんな、特に桔梗と葵を見回す。
 二人は示し合わせることも無くつかつかとわたしの前に立った。
 そして、葵は口を引き結んだまま桔梗に目だけで合図を送った。
 桔梗は特上の笑みを浮かべて頷く。
 ぞっと、わたしの背中は有極神のあの顔を見たときよりも凍りついた。
「どこに行っていたのかしら?」
 研ぎ澄まされた声が優しげな言葉に包まれてうなだれた後頭部に思いきり突き刺さる。
「その、えっと……」
「その、えっと、というところはこの世には存在しないんじゃないかしら?」
「あ、はは」
 返す言葉もなく力ない笑い声だけをもらしたわたしを、葵は我慢できなくなったのか首根っこを掴んで引き寄せた。
「そんなにあたしらが信用できなかったのか?!」
 目が、真剣に怒っていた。
 向けられる桔梗の目も笑んでいるようで、その実けして笑ってやしない。
 恐い。そう思うよりも、体の芯から痺れるような申し訳なさがこみ上げてきて、わたしは動かせる限り首を横に振った。
「……嘘ね」
「ああ、嘘だな」
 なのに桔梗と葵は追及の手を休めようとはしない。
「有極神、だったかしら? まさか一人でなんとかしてきたの?」
 わたしは言葉も継げずに黙り込む。
「一人というか、聖と一緒だったっていうか……」
「ふぅん、あたしらなんていらなかったってわけだ? 樒には」
 のらりくらりとかわそうとしたわたしを葵はずい、と間近で覗き込んできた。
 もうだめだ。
 葵の視線は外せるほど弱いものじゃなかった。
「聖のを抑えるだけでみんな力使い切っちゃっていたでしょう? だから、せめてみんなが回復するまでどこかで……」
「んなこと言って、そのどこかで樒一人で抑えきれなくなったらどうするつもりだったんだよ?! どこにいようが、樒が折れちゃったらこの世界丸ごとおじゃんなんだろ?!」
 わたしは口を噤んだ。
「そんなことになったら、私たちどこにいたって同じよねぇ」
 さっくりと桔梗がわたしの無意味な行動を詰った。
 無意味……?
 そう、でもない。
 多分きっと、ただ無意味だったわけでもない。
 勿論、有極神の封印に関しては無意味だったかもしれないけど……わたしは夏城君の方をちらりと見た。
 目が合い、夏城君はすぐにそらせてしまった。
 今度は助けないぞ、とでも言うように。
 そういうつもりじゃなかったのだけど。
 わたしはお腹の底から長く息を吐き出した。
 夏城君は知ってるんだよね。
 わたしがどこにいたか。
 その出会いが、けして無駄じゃなかったってことも。
 わたしの中にいる聖には必要だったんだよ。
 目的がすり替わってしまっているけれど、それはそれでよかったのだ。
 でも、わたしがさっきこの場から逃げ出してしまったのは、そう、桔梗と葵の言うとおりだった。
「ごめんなさい」
 下げた後頭部に底冷えするような二人の視線が突き刺さる。
 思わず肩をすくめると、ぽんと誰かが優しく手を置いた。
「桔梗、葵。樒ちゃんもこういってることだし、ね? 信じられなかったとかいう以前に、みんな疲れきってたのは傍から見ても確かだったわよ?」
 ぽん、ぽん、と更に二度優しく肩を叩かれてわたしはおそるおそる顔を上げる。
 振り返ると、詩音さんは思わず安堵の吐息をつきたくなるような笑顔で頷いてくれた。
 一方の葵と桔梗はお互いを窺いあい、また目だけで会話する。
「詩音がそういうなら仕方ないわねぇ」
 やがて、本当に仕方なさそうに桔梗は浅い吐息をついた。
 それをうけて葵が有り余る背ごとのしかかるようにわたしの首に抱きついてくる。
「だけど樒、もう突然いなくなるとかやめてくれよ。心臓に悪いからさ」
「もう少し目の届く範囲にいてくれないと、肝心の時に役に立てないものね」
「そうそう。迷惑かけるとか、こんなとこまで一緒に来てるんだから今更なしだっての」
「うわわ、葵、重い、重いって」
 加減はしてくれているんだろうけど、背骨の付け根がぽきぽきと音をたてていた。
「ああん? 重いとは失礼な! これでもダイエット中なのに」
「ダイエットって、どうせ筋トレでしょう? 葵ちゃんの場合、筋肉が増えて身体は引き締まっても体重は増加してそうよね」
「……桔梗……じゃああたしにどう痩せろと……?」
 桔梗はさっきまで身に纏ってた威圧を吹き飛ばすように笑い出す。
 その声に、大人しく見守っていた男子達がようやくほっと胸をなでおろしたのがわかった。
「まあ、僕たちも聖を何とか出来てほっと一息ついちゃったもんね。この先はもう気を緩めないようにするからさ」
 そう言いながら織笠君は謝るような視線を投げかけてくる。
「でもよ、結局どこに行ってたかは教えてくんねぇのな。星の奴が自信たっぷりに絶対戻ってくるって言うから待ってたけどよ」
 つまらなそうに三井君は首を振ったところで、何かにはたと気がついたように動きを止めた。
 ぐるりと一堂を見回し、最後に夏城君に視線を据える。
「……なんだよ」
 いらだつ夏城君に三井君はにんまりと笑んだ。
「ああ、なーるほど」
「何がなるほどなんだよ」
「三井君、今頃気がついたの? そんなことすぐに気づきなさいな」
「は? だって藤坂、お前もどこ行ってたか今さっきまで問い詰めてたじゃん」
「面白くなかったからいじめただけよ」
 桔梗……今、ほんとに信じててもいいのか不安になってくるようなこといったよね?
「あら、ほほ、嘘よ、嘘」
 わたしの疑わしげな視線に気づいた桔梗はぱたぱたと目の前で手を振って見せる。
「ほほ、って、桔梗がそう笑うときは大抵何かごまかしてる時だよな」
「何言ってるの、葵ちゃん。私はいつでも誠実よ」
「正直っていわないあたりが謙虚だよな」
「ほほほほほほほ」
 ……わたし、どうしてこの二人と友達やってるんだろう……。
「まぁまぁ。あの二人なりの気遣いよ、あれでもきっと」
「詩音さん……」
 いい人なのは詩音さんだけかも。
 本格的に疑念が芽生えかけたところで、さっきからずっとソファで死んだように眠っていた聖がゆっくりと身体を起こしはじめた。
「さて、それでは守景さんも無事帰ってきましたし、眠り姫もお目覚めのようですからそろそろお暇しましょうか」
 再び傍観を決め込んでいたかに見えた工藤君は、手を打ち鳴らしながらわたしにお願いします、と目で合図を送った。
「お疲れとは思いますが」
 分かってはいるけど、どうにもめまぐるしくてわたしはまた床にへたり込みそうになる。
「私がやるわ。澍煒」
 すっかり起き上がった聖が工藤君を制してわたしの前に歩み寄る。
「でも、今目が覚めたばかりなんでしょ?」
 有無を言わせず黒と青の瞳は真っ直ぐわたしを見下ろした。
「お世話になったお礼よ。自分にお礼と言うのもおかしいけれど」
 そっと聖は笑った。
 どこか病的な翳にとり憑かれ、すぐさま手折れそうなほど弱々しく見えるのに、やけに芯だけはぎらぎらしている笑み。
「聖、」
 このままだと、彼女にはまた辛い未来が待っている。
 真由のときは変えられなかったけれど、わたしが一言告げさえすれば、聖は龍兄のところにいけるかもしれない。
 そんなどうにもならない思考をまた繰り返して呼びかけてはみたものの、そっと夏城君に肩を叩かれて、わたしは口の先まででかかった言葉を飲み込んだ。
 龍兄は全部分かっているみたいだよ。
 ただそう一言告げるだけで、聖の心持ちは大きく変わる。
 変わるには違いないけれど、そうだね。
 おそらく、今の聖にそんなことを言っても悲嘆にくれ、自らを余計に苛むだけだろう。
 龍兄に頼る。
 それは、今はもう聖ではなくなったわたしだからこそ考えられる選択肢なのだ。
 分かっているから、龍兄も告げずにただ見守るだけを貫いている。
「いいのよ。あなたが今未来にいることが分かっただけで、わたしはこれからの時の重さにも耐えられる」
 わたしが言わんとしたことが言外に伝わってしまったのか否か。
 微笑に漂う影が一瞬だけ払拭される。
「それに、ね」
 聖は嬉しそうに夏城君をみつめた。
 夏城君は少しだけ視線を受け止めたあと、大仰に首を左に回して聖から逃れる。
 その様子に、聖は小さく声を立てて笑った。
 さっきの今でこの二人にそんなことはありえないって十二分に分かっているつもりだけれど、やっぱりなんだか妬けてしまう。
「あ、今妬いた? 妬いたでしょう?」
 どうやらしっかりそれも顔に出ていたらしい。
「こっちの子も龍兄よりまだまだ隠すのが下手ねぇ」
 くつくつ笑いながら聖は夏城君を一度だけ視界に納め、澍煒に呼ばれて彼女の方へと歩いていく。
 わたしと夏城君はその背中を見遣りながら、そっと顔を見合せた。
「兄妹だな」
「兄妹だね」
 不毛な確認と共にわたし達は同時にため息をつく。
「ああ、なるほどねぇ。そういう話してきたんだ?」
 どこから聞いていたのやら、にやにやと葵が絡んできた。
 そういう話ってどういう話よ? と聞けば詳細を言わせられるのは目に見えていたから、わたしはあえて唇に力をこめて口を開かないように引き締める。
「ははーん、どうしても言わないつもりなんだ? それなら……」
 夏城君が離れていったのをいいことに、葵はわたしのわき腹やそこらをくすぐりだす。
「ぅわっ、やめっ、やめっってばっ」
「樒、そう言う時はご想像にお任せします、って言っとけば問題なくすむもんなのよ」
「緋桜、今更忠告するくらいなら早いとこ助け舟出してよね」
 ずっと気配を抑えていた緋桜が今更のようにしゃしゃり出てくる。
「可愛い子には旅をさせろって言うでしょ」
「緋桜、親じゃないし! てか、葵、いい加減にして!」
 叱られてようやく葵は手を離す。そして、少しだけ落ち込んだような顔をした。
「あたしも会ってみたかったなぁ、ご本人様」
 囁くようにぽつりと呟く。
 が、それはすぐに相変わらず爽やか笑顔の河山君によって返された。
「科野の場合、髪赤く染めて鏡見ればそれでいいんじゃない? 中身そんなに変わってないし」
「河山、あのなぁ、この日本人顔でどんなに髪赤くしようと、あのナイスバディじゃない限り炎に見えるわけないだろう?」
「自分でそう言っちゃえるあたり、ほんとそっくり」
「なんだと? そういう河山はちっとも似てないじゃないか! ったく、もう」
「ああ、その様子だと本当に会いたかったのは炎じゃなく風の方か。へぇぇ。ふぅぅん」
 河山君のからかいに、珍しく葵は耳まで真っ赤に染まり上がる。
「っんだよ、悪いかよ!」
「それなら過去こっちに残っちゃえば? まあ、炎に勝てるわけはないと思うけど」
 あっさり納得したふりをして突っ込むかと思いきや、葵は怒気だけを放ってあからさまに河山君から顔をそらせた。
 あららら、まあまあ。
 せっかくお返しするチャンスだと思ったのに、今口を出したら末代まで呪われてしまいそうだ。
 河山君もどういうつもりでそんなことを言っているのやら。
「皆さん、時空の扉を……きゃぁぁっ」
 わたし達の雰囲気を見計らったかのように聖が告げようとした時だった。
 開いた、と聖が言う前に、その扉は向こうから押し開かれていた。
「主」
 現れたのは、飛嵐。
 聖や他のみんなには目もくれず、わたしだけを見つめて言った。
「人界が崩壊を始めました」
 一大事を告げているわりに冷静な飛嵐の声。その声よりも中身を正確に理解してざわめきの声を上げたのは、わたし以外の人たち。
 わたしはぼんやりと部屋の中を見回していた。
 飛嵐がいない。
 そうだ。
 この世界には、聖と共にいたはずの飛嵐の気配がどこにもない。
「力及ばず申し訳ございません、主」
 そう言って長身を折り曲げた飛嵐の後ろで、聖が憎悪のこもった目で飛嵐を睨めつけていた。
 主と呼ぶのね。その子のことは。
 確かそう、心の中で呟いていた。








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