聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 5 章  過 去

 7

「どういうことですか?」
 たずねたのは、わたしではなく工藤君だった。
「簡単なことです。刻生石がどの世界でもいい、現在に存在しなくなって時間が経過しすぎたため、時間を留める空間を維持できなくなったのです。もとより人界はすでに闇獄界の瘴気の進入も許しており、だいぶ空間自体が弱っておりましたから、弱点に歪ができるのは道理」
「飛嵐、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」
「主の手を煩わせたくありませんでしたので」
 緋桜の問いに、飛嵐は顔色一つ変えずに答えた。
 わたしは、飛嵐ではなく聖から目が話せなかった。
 飛嵐の背を睨みつける聖の表情。鬼か般若の面を被っても、あれほど鬼気迫る表情にはなれないだろう。
 聖の記憶を辿ってみる。
『助けてくれなかったくせに、今更邪魔しに来ないで』
 そうわたしの口から叫んだ昨日の聖の言葉を頼りに。けれど、答えらしき匣を見つけたとき、わたしはなぜか怖くなって意識を引き戻していた。
「主?」
 他の人の問いに答えながらも、飛嵐はわたしから目をそらせてはいなかったらしい。
 気がかりを見つけたように、飛嵐はわたしに歩み寄った。
「なぜ……ここには飛嵐がいないの……?」
 わたしは飛嵐ではなく、恐ろしい表情のまま飛嵐の一挙手一動を追いかけている聖に問いかけた。
 聖は、はっとこわばった頬を緩めた。
 笑んだわけじゃない。表情の消えたフラットな状態に戻っただけ。
「私に聞くの? それを、私に聞くの? 自分の記憶に聞けばいいでしょう?」
 余裕のない声が絞り出されていた。
 惨めだ。
 そんな思いが流れ込んできた。わたしの聖の記憶からなのか、今目の前にいる聖の声が聞こえたのかは分からないけれど。
「それより、聞きたいのは私の方だわ。なぜ、飛嵐が貴女の元に現れるの?」
 両瞳色は違えど、暗い影の落ちた瞳がわたしを見つめた。
 怖れに胸が縮むほどきつく。
 その瞳はわたしが答えを知らないと気づくと、飛嵐の背に向けられる。
 飛嵐はようやく、そこに聖がいたと気づいたように鷹揚に振り返った。
「飛、嵐……」
 ぎりぎりと思いのありったけを刷り込んだ声で聖は飛嵐の名を呼んだ。
「私が時を戻したいといった時は協力を惜しんだのに、今度、その子が戻したいといえば力を貸すというの?」
 抑えられた声は怒鳴りださんばかりの力がこもって震えていた。
「貴女は貴女自身の後悔を拭いたいがために時を戻そうとなさった。仮にも時を治める法王でありながら、その力を私的なことに使おうとなさった。貴女は私を去らせてもまだ、その罪深さを反省していらっしゃらないのですか?」
 切り替えした飛嵐の声は、普段の声がまだ優しかったのだと思えるほど鋭利な剣のような冷たさを纏っていた。
「どこが……どこが違うというの? 私が時を戻したかったのは、こうなる未来を先に食い止めたかったから……」
「いいえ。時を戻したとしても、貴方はまたあの方の声に耳を傾けたことでしょう。それが、あの方の敷いた未来へのレールなのですから、そうならないわけはないのです。何より、貴女がその胸にしまっておられる想いを忘れるか断ち切らない限りは、何度でも時は繰り返す」
 龍兄への思いを断ち切らなければ、何度でも時を繰り返す、と。
 飛嵐の言葉を聞いた聖は、白くなるほどきつく唇を噛み締めていた。
 もし、飛嵐は聖が自分の龍兄への想いを忘れたいといえば、〈忘却〉の魔法をかけてくれたのだろうか。その想いの発端がいつに遡るかは分からないけれど、自分では断ち切れぬこの思いを綺麗に忘れさせてくれただろうか。二度と思い出す糸口も見つけられないほどに。
 おそらく、それなら飛嵐は二つ返事で引き受けただろう。時を治めるものとして、公正な判断力を保つために必要なことなのだと説けば。
 でも、決して聖はそんなことは言わない。言えない。龍兄のことを全て忘れてしまったら、聖には何の時間も残らない。
「それに、わたしは貴女の飛嵐ではございません。お忘れなきよう」
 握り、振り上げかけた拳を、聖は空中で止めて力いっぱい握ったあと、ゆっくりと無理やり上から押し込めるように下げた。
「そうね。貴方は私を見捨てたのよね。私があまりに課せられた職務に怠慢だったから。いいえ……そもそも貴方ははじめから私など見ていなかった。飛嵐、貴方は私がどんな思いで彼女の呪詛を聞きつづけていたか分かる? 私が有極神の甘言にのせられたことをどれだけ悔いているか、貴方は分かる? 力を蓄えるために千年も時を待たなければならなくなったこの虚しさ、悔しさ! 永遠の命を持ちながら、体の内が人知れず時に蝕まれ、老い朽ち、死へと向かっていくこの恐ろしさ! 飛嵐、貴方は分かる?! 分からないでしょ!?」
抑えることなく聖は飛嵐に心の裡に燻る憎しみをぶつけていた。
 息が切れ、肩が揺れ、梳きとかされた髪は振り乱され。
 そう、その姿は有極神ととてもよく似ていた。
 怒りは何度でもぶり返してくる。無理やりひかせても、海の波のように別な力に操られてまた寄せてくる。
 怒りに血が頭に上っているだろうに、聖の表情は青ざめるのを通り越して土気色に変色していた。
 ヒューっと空気の漏れる音が静まり返った部屋に響いたかと思うと、聖は目を見開いて倒れた。
「聖!」
 わたしと、顔を背けるようにして聖を見守っていた澍煒が聖に駆け寄る。
 胸をかきむしりながら、聖は必死で酸素を求め、喘ぐ。
 その手の細さに、軽さに、触れて初めてわたしは愕然とした。
 形を保っているのが不思議なくらい、聖の手は最早見た目の十六ほどの弾力も重さも、肌の張りもなかった。九十を過ぎた老人のように、胸を掴む力さえも弱くなっている。
「時を戻すということは、かなりの危険を伴います。もし失敗すれば、時の病に身体を食い尽くされる。その方のように。その方は法王であったため、まだ命をとどめておりますが、モリカゲミツキ、人間の身体うつわである貴女は、もし失敗したら簡単に肉体は滅びることでしょう。もしかしたら、貴女の魂すらただではすまないかもしれません。それでも、貴女は時を戻しますか?」
 聖の姿を見下ろして、飛嵐は淡々と問うた。
 飛嵐の言葉は、聖のこの状態を目の当たりにさせられているだけにすぐに頷くにはあまりに重い問いだった。
「治らない、わけだよね。時の病って、何それ。聞いたこともない」
 聖の傍らに膝をつき、様子を見ながら光くんが投げ出すように呟いた。
「麗の努力は無駄だったわけだ。ただの病気なら、この世界のものだもの。この世界のもので治せないわけはない。だけど、時間が絡んでいるなら、僕じゃお手上げだ」
「光くん! 今そんなこと、聖の耳元で言わなくても……!」
「だって、そうでしょう? 僕は……麗は、これでも医者のプライドにかけて聖を元通り元気に走り回ったり笑えるようにしてやろうと思ってたんだよ。その暁には龍と駆け落ちして人界でもどこでも行っちまえって思ってた。それを……言えよ! 何で言ってくれなかったんだよ!! だから僕はお前が嫌いだったんだ! 好き放題やるなら最後までやって見せろよ。お前はできたんじゃないか、それが。想い想われて、どうして……自分で墓穴掘るようなことしてんだよ!!!」
 叩きつけた小さな拳に、かすかに床が鳴動した。
「無力じゃないか……そんなの、あんまり僕が無力だ……」
「ごめん……なさい……麗、兄さま……」
 澍煒が口に流し込んだ薬を飲み干して、ようやく聖は空気交じりのかすれた声で涙混じりに呟いた。
「光くん、」
 桔梗がそっと光くんの肩を抱こうとすると、光くんはそれを振り払って聖の耳元に何かを呟いた。
『麗には言うなよ。絶対言うな。騙し続けろ』
 聖の記憶から転がり落ちてきたのは、かたく、告白を禁じる声。
 聖はただ二度、頷いた。
 言わない。絶対言わないから。
 だから、許して。
 願うように、だけどそれは声にならなかった。声にしなかった。
 このとき、第三次神界対戦で命を落とした麗兄様の死期は、もうすぐそこだったはずだ。診察に来るのも、もう残り少ない。
 光くんは、この時期麗兄さまが何を思って暮らしていたのか全部分かっているから口止めをしたのだろう。
 でも、聖にとってはこの上なく辛い一言だったんだ。
「樒、心配するな。時を戻す時にはあたしも力を貸すからさ。時空の精霊を従わせられるわけじゃないけどね、火だって空間を構成する要素の一つだ。時がスムーズに流れるように力を貸すことくらいできるだろ」
「俺様も、以下同じ」
 光くんを諌めることも、聖に何かかける言葉も思いつかずに座り込むわたしの肩を葵が叩き、三井君が頭を撫でるように軽く叩いた。
「もちろん、あたしもね」
 大人しくわたしと聖と飛嵐との遣り取りを見ていた緋桜が、ようやく明るい顔で手を挙げる。続いて、河山君、織笠君、夏城君、桔梗が笑顔で名乗り出た。
「はいはい! わたしもー!!」
「詩音、あなたは特に何の役にも立たないでしょう」
「維斗だって口にしなくたって、心の中で手ぇ挙げてたでしょ。こういうことはちゃんと口にしなきゃダメなのよ」
「たとえ役に立つ力が何もなくても?」
「そう、何もなくても。ね、樒ちゃん」
 笑顔で同意を求められて、わたしは口の端をうんと引き上げて頷き返した。
「ありがとう」
「ほら、伝えることが大切なの! 維斗はいっつも大事なことほど言おうとしないからいろいろと誤解されんのよ」
「まぁ……今回はそうだったんでしょう」
 詩音さんに圧されてたじたじになっている工藤君は、わたしに苦笑を投げかけた。
「光くんは?」
 さっき腕を振り払われたことなど気にも留めず、桔梗は聖に背を向けて窓の外を見ていた光くんに問いかけた。
「ねぇ、そんな恥ずかしい誓いたててる暇あるの? 外、とっくに雀啼いてるよ」
 引き開けられたカーテンから、白く真っ直ぐな光が差し込んできて、わたし達は思わず目を覆った。
 その光に目を覚まさせられたのか、聖はむっくりと起き上がり、黒い方の髪をかきあげて、両瞳、色の異なる瞳でわたしを見据えた。
「あなたは、私じゃなかったのね」  投げつけるでもなく、聖はその言葉をわたしとの間に静かに横たえた。その瞬間、そのたった一言は大きな割れ目をつくりながら、音もなく大地へと沈んでいった。
 わたしは返す言葉が見つからず、何度か口を開閉する。  それを見た聖は、次長にも似た微笑を口元に浮かべた。
「いいのよ。多分それで」  わたしから離れた視線はみんなの顔を巡って最後に飛嵐で止まった。
 聖と飛嵐が見つめ合う。
 さっきまでのように憎しみの炎が無機質な壁を舐めるような見つめあい方ではなく、互いがこれ以上言葉を交わすことは無意味だと確かめているかのような時間だった。
 やがて、聖は軽く首を振った。
「ごめんなさい」
 その言葉は、自分の傷つけた飛嵐でなければ伝える意味のない言葉だった。
「さっさと人界行って、時、戻そうよ。僕、もう眠いしお腹空いちゃったし。育ち盛りの小学生に徹夜はきついんだよね、ほんと」
 光くんはちらりとわたしを見、聖を見て、飛嵐の出てきた扉のノブを握り、ひねりながら引っ張った。
「あっ、いけません、すぐに開けては……」
 飛嵐が叫んだ時には遅かった。
 瘴気が狭い扉から噴出し押し寄せる。
 咳き込むみんなの悲鳴の中で、呪う聖の声がやけに明瞭に響いた。
『ここは清浄なる神の領域
 侵すこと 我が許さじ
 その命惜しくば 我が意に沿いて今すぐここより立ち去れ
 服わぬ者 我が支配下に残りしは 我 その存在を許さず
 汝らが未来 無きものと知れ』
「〈排除〉」
 聖の命により、神界の時空の精霊たちはわたしたちごと瘴気を押し出しにかかった。
「そのお身体でそんな大きな魔法を使っては……」
 洗濯機の中に放り込まれたようなうねりの中で、心なしか心配げな飛嵐の声が遠くで聞こえたような気がした。








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