聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 5 章 過 去
5
庭には光が降りそそいでいる。
麗しき光の精が上機嫌で竪琴でも奏でているのだろう。
青々と茂る草木の葉はそよぐ風に揺れて薫り、小川の流れゆくせせらぎが涼を運ぶ。大地は長らく沈黙し、天空に雷の集まる気配もない。寒い冬が訪れるのはまだまだ当分先だし、炎が必要になる夜の気配も遠くのこと。
時は、今日も穏やかに現在を紡いでいる。
そう。
ここが、私の創った小さな小さな宝物。
愛してやまぬ思い出を再び象った世界。
足りぬものは何一つない。
怯えなければならないものは何一つない。
平凡に穏やかに続いていく現在。
それが何よりの幸せなのだと、私はちゃんと知っている。
過ちは繰り返さない。
欲深く望んだりなどしない。
望むものが多すぎると、手に余って守りきることができないから。
結局大切なものまでその腕から零れ落ちていってしまうから。
大切なものは、ほんの少しだけでいい。
いざという時、この腕で抱きしめられるだけでいい。
「幸せ……です。私はちゃんと、幸せでおります」
毎日毎日、重ねられる嘘。
届くわけのない誓約の言葉。
足りぬものは何一つない?
そんなわけはない。
私が一番望むものは、もう二度とこの手に入らない。
怯えなければならないものは何一つない?
まさか。
私は、手に収まる範囲のこの穏やかな幸福がいつか何かに破られてしまうことをいつも心のどこかで恐れている。
この世界は私の手から成り、私が神である限り真正。
誰が見てもそれは変わらぬ事実。
けれど、私だけは知っている。
この世界が偽りであることを。
どれほど時を経ようとも、この世界が私の望むものに重なる時はけして来ないということを。
全て、私の手が生み出しし愛し子たち。
竪琴奏でる光の精霊も、踊り歌う時と命と水と風の精霊も、大人しく沈黙を続ける土と雷と炎と熱の精霊も。
そして、彼らに毎日を祝福されて過ごす統仲王と愛優妃。
――知っている。
この世界の全ては、私にとって欺瞞の産物であることを。
「蘇静、蘇静! 蘇静神如はいないの?」
「ああ、有極神様! 今日は蘇静様は精霊獣たちと共に散歩に行っておられるようですよ」
賢げな青年がいつもどおり誠実そうな微笑を浮かべてお辞儀する。
「有極神様、見てくださいませ! 今日はわたくし、花冠を作ってみましたのよ。きっと有極神様にお似合いになると思って」
春の日差しにふさわしい金色のふわふわとした髪を風に遊ばれるがままに、少女は無邪気な笑顔で私にレンゲとタンポポとクローバーとを合わせた花冠を差し出す。
統仲王と愛優妃。
この世でたった二人、人であるものたち。
彼ら二人が仲睦まじくしているのを見ることが、私の心の救いだった。
私は、叶わなかった幸せを彼ら二人に重ね見ることで満足を得ようとしていたのかもしれない。
しかし、誰がそれを非難できよう?
誰も私のことなど知るまい。
蘇静でさえ、この世界で産まれた子だ。
誰も、本当の私を知る者はいない。
誰も、この世界が偽りと知る者はいない。
否。
自らの手より成ったこの世界において、唯一この私だけが異質なのだ。
唯一、この私だけが孤独なのだ。
対となるものを持たず、同属と呼べる者を持たず。
ただ一人、私だけがこの世で一人。
「有極神様、見てくださいませ。花冠を作ったんですのよ」
それでも愛おしい。
望む私を象った女。
「いかがですか? 有極神様も一緒に花冠でも作りませんか? 愛は付き合えと言うのですが、僕には多少退屈で」
苦笑を浮かべる男に、あの方の面影などかけらも与えはしなかった。
それは、きっと私がより女という存在に近かったからなのだろう。
愛しいわが子に嫉妬しては、何にもならない。
望むあの方でなくば、私の想いを託せはしない。
自らの創った土人形に想いを寄せるなど、私にはそんなむなしいこと出来はしない。
宝物は小さく狭く。
私の掌で転がせるだけでいい。
この世の全ては私の意志によって律され、この世の全ては私によって生み出される。
可もなく不可もない。
そんな理想はとうに捨てた。
望みをうち捨てれば、この世界は理想になる。
人に科学を与え、進歩を許し、己ごと世界を破壊されたあの方のやり方はやはり間違えていたのだ。
人は愚かなもの。
だからこそ、私という監視者がきちんと導きさえすれば、ほら、こんなにも平凡な日常は続いていく。
それを愛しさえすれば、愛すことが出来さえすれば、焦れるような望みも冷めていく。
「退屈なんてひどいわ。あなただって楽しそうに編んでいたじゃない」
「僕は愛が楽しそうに編んでいる姿を見ていたから楽しかっただけだよ。花冠を編むのが楽しいと思えるほど、僕はもう幼くない」
いつもどおりに思えた統仲王の言動。
だけど――
胸に冷たい刃物で切り込まれたように、すっと嫌な予感がよぎった。
僕はもう幼くない。
それは、同じ時を維持し続けているはずの彼らの口から出てはならない言葉だった。
「もう、統ったら。知らないわ、あなたなんか。どこへでも行ってしまってくださいな」
「ああ、ようやく解放されて清々するよ」
この二人の些細な喧嘩はいつものこと。
今日も、多分に漏れず些細な喧嘩で統仲王が庭の花畑から遠ざかっていく。
「有極神様、どうぞ座ってくださいませ。統なんか少し頭を冷やしてくればよろしいのですわ」
「ああ。それじゃあ、私にも作り方を教えてくれるか?」
「勿論ですとも!」
愛らしい笑みを浮かべて手招かれ、私はその手の導くがままに愛優妃と向かい合わせに座った。
ふわふわと一足早く花の季節を終えた綿毛たちが風に吹かれ飛び立っていく。
「あ、その前にこれを。わたくしが載せてもよろしいですか?」
人が神に冠を載せるだなんて。
常識ではありえない。
けれどこの日、私はすこぶる機嫌がよかったんだ。
それに、愛優妃の多少間の抜けたところは生まれつきだった。
「いいよ」
そっと私は愛優妃の前に頭を垂れる。
愛優妃の手が甘い花々の香りがする冠を持ち上げるのが見えた。
一瞬の間。
白く美しい少女の手は躊躇した。
「愛優妃?」
顔を上げようとしたそのとき、私の後頭部には味わったことのない衝撃が加えられていた。
「お許しくださいませ、有極神様」
震えるか細い声が、絞り上げられるようにそう呟いたのが聞こえた。
「愛、謝る必要なんかないよ。僕らはこの方の玩具じゃない。僕らにだって望みを叶える権利はあるんだから」
私はこの世を作った神だ。
この世を象り埋める精霊たちを作ったのもこの私。
私に逆らえるものなどありはしない。
どんなに精霊たちが力を寄せ集めようと、どんなに統仲王と愛優妃が生活のために与えられたその力を駆使しようと、この私には効きはしない。
この世の全ての力は私へと還ってくるのだから。
「蘇静、蘇静はどこ? この子達を……止めてちょうだい……。わた…しの世界を……守ってちょうだ………い……私の、蘇…静……」
私に精霊の力より生み出された魔法はまず効かない。
統仲王と愛優妃の物質と精神を操る力も効くわけがない。何しろ彼らの力は私の持つ力を二つに分けて与えたものだから。
だけど、まさかこんな野蛮な方法に出るなんて……。
視界に闇が走る。
嫌な子。
お前は私を脅かすから、とうにこの世から捨てたはずなのに――
色とりどりの瞳が、わたしを覗き込んでいた。
蒼氷、紅蓮、紺碧、深緑、青藍、漆黒、濃紫、黄金。
「龍兄……? 炎姉さま、それに風兄さまと鉱兄さまと……」
寝ぼけ眼にそこまで呟いたところで、思わずわたしは口を噤んだ。
そしてかわりに目を見開く。
「え? えぇぇえぇ?!」
ありえないことが起こっている。
覗き込んでいたのは、紛れもなく聖の七人の兄姉達。それに統仲王まで。
どうしよう。
どうしたらいいの?
わたし、聞かれたらまずいこと口走っちゃってたよね?
いやいや、その前に――
「あの、ここはどこですか?」
寝ぼけた声が口から出ていた。
一瞬で、わたしの真上に張り巡らされていた緊張の糸は切れてしまったようだった。
よく響く丸天井にまず鉱兄さまの笑い声が、それから炎姉さまの甲高い笑い声と統仲王の高らかな笑い声。もっとずっと下の方では海姉さまと風兄さま、それに育兄さまの押し隠すような笑い声とが地べたを這うように続き、不協和音すれすれの協奏曲を奏でていた。寝ぼけるにもほどがあるとか言いながら。
表立って笑い声の聞こえなかった麗兄さまといえども、顔を見れば必死で唇を噛みしめて堪えているのが分かる。
しかし龍兄はそもそも笑う気がないらしい。
「具合はどうだ?」
その無愛想な唇が、聖の記憶のまま無感情な声を紡ぎ出した。
もし聖ならこんな声を間近で聞けただけでも喜ぶのだろうか。
だけどわたしは震え上がっていた。
とんでもないことになってしまった、と。
見つめられてどぎまぎ弾む心臓の鼓動には、幾分さっき間近で夏城君に見つめられた時のような全身が焼けてしまいそうな熱も混じっている。
これが、聖の想い。
違うことなき恋を患う者の抱える熱。
って、そんなしんみり浸っている場合じゃないでしょ。
わたしは心臓が跳ねすぎて飛び出してしまうのも覚悟で龍兄の瞳を覗き込んだ。
蒼氷色の瞳に映るは大分幼いながらも西洋人形のように愛らしい顔と長い睫に縁取られた左右異色の瞳。
うん。確かにこんな顔を毎日見慣れていたら、わたしの顔が鼻ぺちゃの平凡すぎるくらい平凡な顔に見えたっておかしくない。
じゃなくて。
わたし、ほんとに聖の中にいるんだ。
なのに言動がおかしかったから兄さま、姉さまたちは大笑いしてるのね。
でも、どうして――?
「聖」
再度龍兄の口から怒っているとも心配しているともつかない声音が漏れる。
「あ、うん、大丈夫。でも、私どうしちゃったの?」
できるだけ聖の言葉遣いを真似てわたしは尋ねた。
なのに龍兄の眉根には一層の皺が刻まれる。
「観劇中に倒れたんだ。覚えていないのか?」
「カンゲキ?」
感激して倒れた? 何に?
「ごめんなさい。まだなんだか意識がはっきりしないみたいなの」
とりあえず、統仲王をはじめとしてこの大人数は遠ざけてしまいたい。
それからゆっくり考えるかもう一度寝てしまえばきっと元通りになっているに違いない。
って……
「聖! 一体どうしてしまったんだい? さっきから急に大人びた口調になってしまって……倒れた時に頭を強く打ってしまったのかい?」
「頭に外傷はな……」
「ほら、麗の言うことなんかあてにならないからね。パパに正直に言ってごらん? すぐに痛くなくしてあげるからね」
パ、パパ?
イメージが……イメージが……
無理矢理抱き起こされ、抱きしめられて窒息しかけながら、わたしは更なる眩暈を覚えた。
「ろくに治癒も使えない貴方に何が出来るというんです。いいから貴方は大人しく劇場に戻って場でも繋いでいてください。そもそも貴方の誕生祭でしょう? 主賓が消えたら劇団の人々も祝いに集まってくれた観客達も困ってしまいますよ」
あ、ああ、観劇ね。
龍兄から統仲王への棘のたくさんつまった言葉からようやくわたしは今の状態を察する。
統仲王の誕生祭で観劇中にたくさんの人にあてられたか熱でも出したかして倒れてしまったのだろう。
それならば、ここはおそらく天宮の一室。
兄さま、姉さま方がみんな集まっているのも頷ける。
「娘の一大事に暢気に年増えたことを喜んでいられるものか。それとも龍、さてはお前ひがんでるな? どうだ、いいだろう? 聖は私のものだ!」
勝ち誇ったように笑いながら統仲王はわたしの頬にしゃりしゃりと頬を擦りつける。
「い、痛いよ」
お父さんにだって近年、抱きしめられることは愚かここまでされたことはないのに。
思わずわたしが押しやると、統仲王はさも悲しげな顔でわたしを見つめ返し、見守るだけだった兄さま姉さま方は更に笑い出す。
「統仲王、いい加減になさってください。それほどまでに愛しい娘なら、天宮で自分の元にお置きになればよろしいでしょうに」
呆れ果てた龍兄の声が降ってくる。
降ってくると同時に、わたしの……幼い聖の胸はぱっくりと不安に切り裂かれていた。
統仲王を手で押しのけたまま、わたしは龍兄を見上げる。
ぴたりと兄さま、姉さま方の笑い声は止んでいた。
「りゅうにぃ……」
何かがもんどりうって駆け上がってきて、わたしを押しのけ突き飛ばしていった。
「りゅうにぃ、ひじりのこときらい? ひじりのこと、もういらなくなっちゃったの?」
視界はじっと困惑する龍兄を見つめたまま揺らがない。
ただ、映像だけが俄かに歪んでいく。
「聖、パパがついてるじゃないか。よかったらもうこのまま天宮に……」
「パパはだまってて! ひじりはりゅうにいにきいてるの!」
幼く甲高い声がぴしゃりと統仲王をやり込める。
拒絶されてどこからどう見ても可愛そうなほど落ち込んだ統仲王を龍兄は押しのけて、困惑顔はそのままに聖をベッドから抱きあげた。
「すまない。そういうつもりじゃなかったんだ」
「そういうつもりじゃなかったって、どういうこと?」
「いや、余りに統仲王がうざったかったものだから……」
「きらいになったの? いらなくなったの? どっち?!」
統仲王の方へとそらしかけた龍兄の視線を引き戻すように聖は叫んでいた。
必死、だったんだと思う。
だって、これは一大事だったから。
こんな小さな体では、まだ恋のこの字も知らないだろう。
それでもあんなふうにどきどきはできるし、何より、龍兄は忙しい統仲王が押しつけたとはいえ、幼い聖の親代わりだったんだから。
統仲王なんかよりも、いくら大好きでも他の兄さま、姉さまたちよりも、龍兄は特別だった。
親子とか、兄妹とか、恋人とか、そんなのも越えたところに龍兄はいて、幼い聖にとっては龍兄がこの世の全てだった。
どうしてこんなに好きなのかもう分からないくらい小さな時から、聖は龍兄のことが大好きだった。
こつりと龍兄のおでこが押し当てられる。
「大好きだよ、聖。いらなくなるなんてこと、あるわけないだろう?」
「じゃあ、もうあんなこといわない?」
「悪かった」
「あやまってほしいんじゃないの。いわないかどうかってきいてるの!」
「言わないよ。絶対にもう言わないし、絶対にあそこの変態親父のところになんかやらないから」
「龍、お前自分の父親だって分かってて言ってるんだろうな?」
「絶対だよ?」
統仲王のぼやきも聞こえぬまま聖は龍兄だけを見つめて尋ねる。
「ああ、絶対だ」
沈んでいくのが分かった。
安堵に、わたしの意識が暗い底へと落ちていく。
「じゃあ、約束だよ」
ぷにぷにとした小指を立てて差し出した小さな手。
「さぁさ、劇の続きを忘れないうちに戻りましょう」
「龍、お前二度と馬鹿なこと口走るんじゃないぞ。こんな馬鹿親父に聖の面倒が見れるわけないだろうが」
「龍兄さんに見れているんだからそこは大丈夫なんじゃないの?」
「馬鹿か、お前は。幼かろうが父親にあんなに青ざめるまで抱きしめられて頬ずりまでされて、そのうちぐれるぞ、普通なら」
「ああ、炎姉さんのようにね」
「風、お前は一体何が言いたいんだ?」
「別に~?」
海姉さまに続いて炎姉さまと風兄さまが部屋から出て行く。
「おら、行くぞ、親父。ふられたらさっさと次の策練るんだろ」
「うっ、うっ、うっ」
「父上、父上がいなければ他の観客も劇の続きを見られず歯がゆい思いをしておりましょう。聖は龍に任せて我々も戻りますよ」
鉱兄さまに引っ張られ、育兄さまに追い立てられて統仲王も部屋から引きずり出されていく。
「兄上、これ以上聖を興奮させないようにさっさと寝かしつけといてください。まだまだ絶対安静なんですから。劇が終ったら様子を見に来ます。それまでに休ませておいてください。……全く、まだ薬が効いてるはずなのに……」
統仲王に抱き起こされた勢いで下に落ちていたタオルを絞りなおして聖の頭にのせ、麗兄さまも最後に部屋を後にしていった。
「りゅうにぃ!」
ぼんやりそれを見送っていた龍兄の前に、聖はもう一度立てた小指をつき出す。
「あ、ああ」
一瞬気圧されてから苦笑して、龍兄はためらうことなく小さな小さな聖の小指に自分の小指を絡ませた。
いつからだったんだろう。
たとえ、それが私を意識してくれるようになった証だったとしても、約束はできないという誠実さの裏返しであったとしても、私は何度でも貴方とこうやって小指を絡ませて、くすぐったい幸せの中で笑っていたかった。
嘘でも欺瞞でも、何でもよかった。
貴方の唇が欲しいなんて、大それたこと望んだりはしないから。
だから――
永遠に続けばよかったのに。
この幼い日々が、永遠に続いていけばよかったのに。
大きくなっても無力なままならば、いっそ……。
すぐ横で呟いて底に落ちていっていたのは聖の心。
わたしなんか及びもつかないほど重く苦しいものを抱えて溺れていく。
闇の奥底に根を張る有極神に搦め取られていく。
とっさに、わたしは腕を伸ばしていた。
黒い澱みを掻き分けて潜りこみ、白く浮き上がる細い手首を掴む。
ふわりと、金とこげ茶と黒、三色の髪が舞い上がった。
がくんと腕にかかる聖の重み。
「どこに行くの?」
見上げた聖の顔は泣き濡れていた。
「……どこにも」
青ざめた桜色の唇が震える。
「取り戻すんでしょう? そのために、わたしに生まれ変わってきたんでしょう? それともわたしじゃ不満? そりゃ鼻は低いし、顔だって平凡だし、頭だってそんなよくないし、運動音痴だし余りいいところないかもしれないけど、でも……」
認めようとしなかったのは。受け入れようとしなかったのは。
わたしだ。
でも、ようやくなんだか分かった気がするんだ。
この焦れるような想いは、確かに人を狂わせるよね。
永遠に通い合わせられないなら余計にはけ口を失って、どんどん溜まっていくよね。
幸せになりたかっただけなんだ。
もがいていろんなしがらみにがんじがらめにされて、それでも捨て切れなくて、諦め切れなくて。
生まれたこと自体を悔いることも出来ない。
悔いたら、出逢わなければよかったと思うことになってしまうから。
幼い頃のあの記憶も大人になってからの苦いばかりの記憶も、全部が全部で龍兄への想いを象っている。
捨てたりなんか出来ない。
捨てて、楽になれるようなものじゃない。
だって、それが聖、あなたの人生の全てだったんだもんね?
生まれてから死ぬまで、ずっとあなたの世界は龍兄を中心に回ってた。
龍兄への想いを捨ててしまったら、あなたの人生は空白になってしまうもんね?
あなたには未来しかなかった。
過去も現在もなくて、ただ、未来だけ。
現在がないのは、辛いよね?
どこにいるか分からなくなっちゃうよね?
未来なんて不確かなものしか残っていないなんて、わたしにはきっと耐えられない。
でも、聖、あなたはずっと待っていたんでしょう?
〈予言書〉に記された未来。
そこで生まれ変わった自分の姿を想像しながら千年弱。
ずっと一人で、彷徨いながら未来へと歩いてきたんだよね?
変わらない過去になんかもう帰らなくていい。
変えられない過去にも現在にも、もうこだわらなくていい。
あなたの目指した未来は、ここにあるのだから。
「聖、あなたはわたしなんだよ」
ようやく、言えた。
ようやく、彼女に微笑んであげられた。
「樒……」
「龍兄も、近くにいるよ。時の巻き戻しが上手くいったらわたし達、今日の記憶も何もなくなってしまうけど、でもね、きっとまた通じ合える日が来ると思うんだ。だからね、一緒に行こう? もう嫌がったりなんかしないから。拒んだりなんかしないから。取り戻そう? ううん、新しく手に入れに行こうよ。聖の未来」
「私の……未来……?」
今目の前にいる聖が昨日からずっとわたしの中にいる聖なのか、それともさっき出会ったばかりの聖なのか、わたしには分からなかった。
でも、どちらでもよかった。
掴んだこの細い腕を掴みあげてあげようと思った。
ちゃんと、ゴールがあるのだと安心させてあげたかった。
何より。
彼女はわたしの一部なのだから。
「そうだよ。聖の未来。あなたの望む現在。もう辿りついているんだよ。だから、おいで」
さっき、わたしは確かにわたしのままだったけれど、聖でもあったんだ。
そうでなきゃ、龍兄にあんなこと言われてわたしまで傷つくわけがない。
大人になった聖とリンクして、わたしまで切なくなるわけがない。
「いいの?」
「いいんだよ。わたしなら大丈夫」
そう告げた瞬間、すっと聖の重さが消えた。
掴んでいた右腕を伝って、何かがわたしの中に浸透していく。
それは、ちっとも嫌な感じではなかった。
むしろ、大海にでも抱かれているように、とても穏やかなものだった。
うん。
わたしももう、大丈夫。
だから、あとはこの人だけ。
「有極神。あなたの望みは何?」
蟻地獄のような澱みの渦の中心からわたしに向かって伸ばされてくる手。わたしを貫き殺さんとする鋭い眼光。
「神を裏切った者たちに永遠の死を」
しゃれこうべから発されているかのようなしゃがれた声が響き渡った。
「それはきけない。過ちは繰り返さない」
「無を。失敗作など私はいらぬ。全て無に帰して我もあの方の元へ」
わたしはあえて彼女の元に降りていった。
もがく腕は半ばから胸以下ともども蟻地獄に飲み込まれ、彼女は胸像のように身動きとれずにいた。
ただ、同じ目線から見るその形相は、思わず腰が抜けそうになるほどすさまじいものだった。
昔話に山姥の話を聞いたことがあるけれど、いるならきっとこんな顔をしていたのだろう。
艶も張りもなく針金のように伸びきったくすんだ金髪、澄んでいるならばさぞかし美しかったであろう地球の色によく似た瑠璃色の双眸は血走り、乾燥してひび割れた唇はどす黒く不満げにへの字を象る。
きっともう、この人には正気も何も残っていないのだろう。
闇獄界の炎に魂灼かれたファリアスの切羽詰った表情によく似ているもの。
「あの方っていうのは、誰?」
それでも、少しでも正気を取り戻して欲しくて、わたしは彼女と向き合う。
「さっき聖の中に入ってしまう前にわたしが見ていたもの。あれは、あなたの記憶だよね? 統仲王と愛優妃にわけも分からないうちに封じられてしまう直前までの記憶だよね? 多くを望まず、現状に満足しようと努力して、自らの創造物に囲まれていながらそれでもあなたは一人だけ孤独で。そんな中であなたが毎日誓いの言葉を捧げていたあの方というのは、一体誰?」
彼女はわたしをぎろりとより一層鋭い目で睨みつけた。
「理解しようとでもいうのか? この我を? お前が如き年端も行かぬ人間風情が? 憐れもうというのか? 神を? 人間が? あっはははははははははは」
彼女のたがの外れた笑いは空しくこの得体の知れぬ空間を高みへと駆け上がり、そのまま垂直に彼女の上に落下していった。
その痛みにか、笑いは途切れる。
「そんなこと、知ってどうする? 我が前につれてきてくれるとでも言うのか? 我が気の遠くなるほど捜し求めても見つからなかったというに?」
「手伝うよ」
「ははは、無理だ。あの方はもうどこにも居られぬ。あの方は嘘つきだからな」
「……好き、だったの?」
軽蔑した表情が、一瞬毒抜かれたように真っ白になった。
やがて、ゆっくりと口元だけが引き上げられ、奇妙に歪んだ形をつくっていく。
「そんな簡単な一言で片付けられるものではない」
嘲りを含んだ一言がひとかけらの哀切を伴ってこぼれ出る。
「簡単な言葉なんかじゃないよ。とっても大切な言葉だよ。言うのにとっても勇気のいる言葉だよ。重い、言葉だよ」
自分が受け止めて、相手にも受け止めてもらって。
全てのきっかけを作ってくれる想いなんだよ。
分かって欲しくて言葉を尽くしたつもりでも、彼女の顔に張り付いた怒りや悲しみにまみれた嘲笑はもうはがれることはなかった。
「無より生まれし有。それがあの方。分かるか? 娘。あの方は無に還ったのだよ。側にいると約束してくださったのに、どんなに話しかけたってあの方が答えて下さることは一度もなかった。それなら、あの方がいらっしゃる場所は無でしかない。本当なら逢いにゆくことなど容易いのだ。我も無に還ればいい。だがそうしないのは何故だと思う? 我が無に帰したら統仲王も愛優妃も、神界も人界も闇獄界も、全てが一瞬で無になる。今そんなことをしたら、統仲王と愛優妃も楽なままだろう? 己らの我が侭ばかり叶え、我の志を踏みにじった罪は死より重い。何より、我があやつらの苦しむ様を見ることが出来なくなってしまうではないか。だからそんなことはまだ、許さない」
有極神の浮かべたどす黒い笑みに、わたしは全身が総毛だった。
全てを拒絶する微笑。
もう、己の復讐心しか彼女は見えていない。
一瞬取り戻しかけた正気すら、それが正常なものだと気づかずに彼女は手放した。あるいは、正常であると気づいたが故にいらないと跳ね除けたのかもしれない。
この人はもはや何も守りたいものなどないのだ。
ただ全てを壊してしまうことしか頭にないのだ。
自分すら失ってしまっても惜しくないと思っている。
魂が融合しかけているという聖を受け入れたせいだろうか。
この人の気持ちも、僅かながら流れ込んでくる。
聖などよりもよっぽどどす黒い重苦しい気持ち。
悲しいよ。こんなものの中にずっと浸かっているのは苦しいよ。疲れるよ。
もうどれだけその怒りを維持してきたのか。
どんなに憎んだって、許さないと誓ったって、心があるなら疲れちゃうだろうに。
たとえ、それが神様だったとしても。
「汝、我を封じ込める気か? たった一人で? 無理に決まっておるであろう? 土の端くれが作った土人形が、我に何が出来ると言う?」
ぎょろりとひん剥かれた目は怪談映画さながらに恐ろしかった。
手が震え、体が震え、心が止まる。
それでも、わたしがこの人を克さなければわたしの未来はここで途切れてしまう。
手を伸ばした。
皺の寄った額に当てる。
有極神は必死にその手に噛みつこうとしていたが、無駄な足掻きだった。
「壊せばいいわけじゃないんだよ。壊すだけならいつでも出来る」
「〈予言書〉の未来を変えれば全てが円満に解決するとでも思っているのか? 笑止! 我が存在する限り、〈予言書〉は必ず実現する」
嘲笑が地を這ってわたしをも蟻地獄の中に引きずり込みはじめる。
「だからといって我を消せばこの世界も諸共に消える」
さも楽しげに彼女は笑った。
「それなら、永遠に眠っていてもらうだけだよ。わたしの中で」
わたしには救えない。
たぶん、もう彼女の恋うるその人じゃなきゃ、彼女は止められない。
それなら、今わたしにできるのはこれだけだった。
『この者に愛しまれし記憶たちよ
この者の喜び全てを象りし記憶たちよ
その形失うことなく 色褪せることなく
眠る汝らが主に醒めることなき永遠の夢を与えよ』
「封印」
せめてその愛しい人の記憶を抱いて眠ってくれればいい。
夢の中でくらい、浅ましい復讐心などに囚われず、甘い夢を見ればいい。
それでも、ぐらりと彼女の頭は色褪せた金髪を振り乱して揺れた。
「永遠などあるものか。いずれ、必ず……我は……必ず……」
澱の蟻地獄の中に飲み込まれながら、最後、あの血走った瑠璃色の瞳が呪いを残すようにわたしを睨みつけて沈んでいった。
おぞましいほどにその映像はわたしの目に灼きつき、しばらく離れることはなかった。
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