聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 5 章  過 去

 4

 みんなが窓を乗り越えて入ってくる中、聖と澍煒は建物を回って一番最後に部屋の中に戻ってきた。
 彼女がこの部屋に入ってきて最初に目を留めたのはわたしだった。
 浮かべた穏やかな笑顔はまるで死にゆく者の透き通った最後の輝きに取りつかれていて、おそらく未来など知らずとも彼女の生が長くないことを思わせた。
「それにしてもいつの間に……」
「そんなに心配しなくていいわよ。クライマックスの辺りからだったから」
 しゃあしゃあとわたしの独り言に答えてくれたのは桔梗。
 クライマックスって……思い出しただけでも顔から火が出るっていうのに、見られてただなんて……。
「三井にくっついていったら聖はもうこっちに戻ってくる途中だったんだよ。で、桔梗がもしかしたら静かに戻れば、龍と聖の密会並みにいいものが見られるかもとか言い出してさ」
「……へぇ、桔梗が」
「あら、私はただ憶測を述べただけよ。それを聞いて走り出したのはみんなでしょう?」
「桔梗も一緒に走ってたでしょ?」
 工藤くんに対する時とは別人のように優しくつっこんだのは詩音さん。
「詩音。私はただみんなに出遅れるのがいやだっただけなのよ。そんなやじ馬なこと、心からしたいと思ってやったように見える?」
「言いだしっぺが何を」
「そもそも、見たくなかったら桔梗は言い出さない主義じゃない」
「やぁね。私、そんな策を使うほどひどくないわよ」
 桔梗に氷の微笑が浮かんだところで、頃合を見ていたのだろう。聖がそっと私に視線を送って来た。
 わたしは頷いて、男子達のかたまっている方を向く。
「工藤君、」
 夏城君をからかい混じりに問い詰めている三井君と河山君、それを好奇心で眺めている織笠君と光くんの輪から少し離れて、工藤君はさっき夏城君が手にしていた本をぱらぱらとめくっていた。
 わたしの呼びかけに、時をもてあましたようなその動きも止まる。
「では、始めましょうか」
 工藤君は深く腰を下ろしていたソファから立ち上がり、軽く中央のテーブルに手をついてぐるりと全員を見回した。その視線は最後、鋭く睨むように工藤君を見つめる夏城君のところで止まる。
「その前に、前提をきっちり教えてもらおうか」
「前提?」
「統仲王で、いいんだな?」
 十一人分の注目を一身に浴びて、工藤君はゆっくりと口元に笑みを浮かべた。
「ええ。ただ、皆さんたちのように魔法石を持っているわけでもありませんから、証明するものは何もありませんが」
 そういいながらも自信たっぷりな態度はどこか統仲王を思わせる。全てを見通す目を持つものの余裕のようなものを。
「そう、ただ一つ、僕が統仲王から受け継いだものといえば〈予言書〉くらいのものでしょうか」
 わたしの思考を見抜いたように、工藤君はわたしににっこりと微笑みかけた。眼鏡の奥で眇められた目がやけに優しくて、わたしはさっき見た小さな聖の夢とあいまってちょっと胸に嫌なものとも良いものとも分からない動悸を感じた。
 彼が統仲王。神界の統治者。
 不思議な気がする。工藤君だけじゃない。みんな、兄さま、姉様たちとは姿も性格も違うのに、言われてみれば感覚的にああ、と納得してしまう。親近感のようなものさえ抱いてしまう。今まで、何度となく言葉を交わしたことがあるというのに。
 そういえば、詩音さんはどうなんだろう。愛優妃の庭に工藤君と一緒にお弁当持ってきていたくらいなのだから、何らかの関係者ではあるのだろうけど。
「詩音さんて工藤君と仲いいよね?」
 気になってそっと尋ねると、詩音さんは一瞬こわばった顔でわたしを睨んでから慌てて首を振り、にっこりと口元を引き上げた。
「わたしと維斗とは仲がいいとは言わないのよ? ちょっと家が近いだけよ」
「何言ってるんです。いつも人の家に押しかけてきて家事一切切り盛りしてる人が」
「あっ、ばっ、ちょっ」
「詩音は僕の叔母さんなんですよ。母の妹なんです。もう、小さい頃からの腐れ縁で……」
「叔母さんじゃないっ! 従兄妹ってことにしてって言ってるでしょ!?」
「叔母さんじゃないですか。今のままじゃ」
「何で同い年なのにそんな風に呼ばれなきゃならないのよ!」
 タブーだったんだ。
 詩音さんに工藤君の話ふるの……。
「ああ、あの二人ならいつものことだから気にしなくていいわよ。あれで仲良しさんらしいし」
「桔梗……。でも、このままじゃ先進まないよね」
「あら、そうね。じゃあ、あの二人なしで進めちゃいましょ。どうせ統仲王の転生なんていたって何の役にも立ちはしないんだから」
 ばっさりと切り捨てた桔梗の発言に、詩音さんと応酬を繰り返していた工藤君の口がぴったりと止まった。
「言ってくれましたね?」
「言ったわよ。事実でしょ?」
 我がクラスの学級委員長二人が今度は壮絶な冷たい視線の応酬を始める。
「もう、いい加減にしてっ! こっちは時間ないんだから!」
 思わず叫んでいたのは、誰あろうわたし。
 よぎった一瞬の後悔は、しかし聖の押し殺すような笑い声によって拭われていた。
「面倒をかけてしまうわね。未来の私」
 青と黒。異色の瞳が憂えに翳る。
「ここまで来ちゃったんだもん。仕方ないよ」
「ありがとう」
 ほっとしたように安堵の表情を浮かべて、聖はゆっくりと工藤君の方に向き直った。
「統仲王、知ってたの? 知ってて全て見てみぬふりを?」
 尋ねられた工藤君は、そっと眼鏡を押し上げると口元に笑みだけ浮かべた。
「〈予言書〉を見られる貴方ですものね。考えるまでもなかったのよね。でも、それならどうして助けてくれなかったの? 私を」
「時が足りなかったんです。この時代、闇獄界との度重なる戦争で法王も精霊も相当疲弊していたはずです。そんな状態で有極神の封印を強固にするために生命を削れとは、彼には言えなかった。それに……」
「これは〈予言書〉にはない未来だわ。そうでしょう、統仲王?」
 聖の問いに工藤君は一度口を噤んだ。
「期待すべき未来ではあった、ということです。統仲王はあなたをそれはもう可愛がっていましたが、彼は父である以前にこの世界の王だった。たとえ愛娘の命がかかっていようとも、彼には切り捨てることができたんです」
 その非情な回答に、聖はゆっくりと瞼を閉じた。
 工藤君は再び口を開く。
「ですから、〈予言書〉どおり自らが転生した後はあなたに協力しようと思っていたんです。どこかの誰かみたいな理由ではありませんが、僕は僕で、自分のために」
 聖は頷いた。
 納得はしなかったと思う。
 容易に納得させてくれるほど、彼女の心身に負った傷は浅くはなかったから。
 それは、工藤君にも分かっていたのだろう。
 黙する聖のかわりに、工藤君はわざと陽気な声を作って3分間クッキングでも始めるように言った。
「はい。それでは皆さん、魔法石を出してください。出せますよね? 原型のままで。勝手に武器なんかに変形させないでくださいよ。危ないですから」
「工藤のお兄ちゃん、僕ら一応幼稚園児じゃないんだからさ。いちいちそんなこと言わないでくれる?」
「思春期入り口、反抗期のし始め。いいですね、小学六年生というのは」
 意にも介さない工藤君に、光くんは聞こえるように舌打ちをした。
「これでいいの?」
 あくまでそりが合わないことを強調したいのか、尖った声で光くんは紫色に輝く魔法石を掌に乗せ、工藤君の方へと突き出して見せた。
「ええ。他の皆さんも、準備はいいみたいですね」
 ずらりと聖を取り囲む八人のてには銘々八色の魔法石。緑、青、銀、赤、紫、金、黄、それにわたしの白。
「それでは行きますよ」
「って、ちょっと待った!! 何させる気だよ、お前」
 あくまで解説なしで雪崩れ込もうとしたのを葵が止めた。
「いや、時間がないっておっしゃるものですから」
「そーれーでーも、だ。魔法石ってあたしらの命なんだろ?」
「正確には私達と精霊王との魂がこめられたもの、ね」
「だから、大切なもんだろうが。それを出せってことは、使うってことだろ? 大丈夫なのかよ?」
「ええ。大丈夫ですよ。そもそも、魔法石は有極神を封じ込めるために作られたものなんですから」
 誰にとっても初耳なことを、工藤君はさらっと言葉にのせて喋ってしまっていた。
「うわ、なんかその話、いやな予感」
 背筋を震わせて魔法石を元通り身体の中に納めてしまった三井君の反応は、他の誰よりも早かった。
 つられるように一同、魔法石を身体に戻したり、掌で覆い隠して背を向ける。
「そんな警戒しないでください。法王はほんのちょっと疲れるだけですから」
「何、そのノリ。献血かよ」
「あ、それいい喩えですね、河山君」
 あっけらかんとした肯定に、掌で隠すだけに留めていた河山君や夏城君、それに葵まで元通りしまいこむ。
「夏城君、織笠君、木沢君、それに藤坂さんと科野さん。あなた方は何らかのお話をすでに守景さんから聞いていますよね?」
「ああ」
「うん」
「まあ」
「大方」
「そんなようなことは」
 夏城君たちは順に頷く。
「三井君、河山君、簡単に説明しますと、今回のことは統仲王と愛優妃が悪いんです。彼らは自分たちの我が侭を通したいがために自分たちを創った創造者を封印したんです。八人の精霊たちの力を借りて」
「統仲王と愛優妃を、創った?」
 理性的な範囲で素っ頓狂な声を上げたのは河山君。
「はい。予想通り驚いてくださってますね。よかったよかった。それで、その封印のために張った結界の核となるのが精霊王八人の魂であり……」
「ちょっと待った。ちっともよくねぇだろ。何でそんな大事なこと今頃……」
 一方、激しく工藤君を睨み据えていたのは三井君だった。
 対する工藤君は少しも怯んだ様子はない。
「今必要だからお話しているだけです。聖があの方の書いた〈予言書〉の行く末を変えたいと足掻いている今だからこそ」
「……俺様は知らなかったぞ。統仲王と愛優妃がこの世の創造者だって信じて疑ったことなんかなかったんだ。お前らどの面下げて神様やってたんだよ!」
「三井、それは工藤にぶつけるべき言葉じゃない」
「わかった。それじゃあ、この時代にもいるんだろ? 聖がこんなに苦しんでんの分かってて見過ごしてるおおたわけがっ。そいつに会って全部……」
 それでも、〈予言書〉は変えられるのだろうか?
 もし変えられるのなら、いっそ……
「無駄ですよ。統仲王はとことんしらばっくれますよ。あなたも、鉱を名乗ってもそんなこと信用してもらえないでしょう。なぜなら、法王は永遠の命を持っていることになっていますからね。死ぬわけがない。なまじ未来から来たのだといったところで、時空軸は聖以外の人は通れないことになっていますし、刻生石が不具合を起こすなど考えられないことになっています。あなたの言葉は、絶対神の前にただ否定されるだけですよ」
 あくどい気がするのはわたしだけだろうか……。組織ぐるみの隠蔽工作とかって、こうやって人を丸め込んで行われるのかもしれない。
 でも、工藤君の言うとおりだ。
 わたしになどとても辿りきれない年月、人々を欺き続けてきたのに、突然認めるようなことを言えるわけがない。
 たとえ認めたとして、それに何の意味があるだろう?
 有極神を解放することは、即ちこの世界の崩壊を意味する。
 今すぐ肉体を手に入れられると言うのなら、有極神は喜んで目覚め、統仲王と愛優妃の手になるもの全てを破壊しつくすだろう。
 それが分かっていて、統仲王もいまさら後へなど引けるはずがない。
 導き出される未来は変わらない。
 いっそ、そうしてしまえ、と思った自分の浅はかさが、一瞬にして自己嫌悪にかわる。
「さっき藤坂さんがおっしゃいましたが、僕にできることは過去を語ることだけです。そして、統仲王にできたのは、この世界を守ることだけ。自らが招いた有極神の復讐心から、どんな嘘をついても、大切なものを傷つけても、彼にできることはそれしかなかった。それが、闇獄界へ赴いた愛優妃との約束でしたから」
「たとえ俺様が聞き届けてもらえなかったとしても、周りに俺様の言葉を聞いて不審に思う者くらい……」
「間もなく第三次神闇戦争が始まります。神界を分けては、闇獄界に負けてしまいますよ」
「……闇獄界に負けちゃったら、それはそれで意味がなくなっちゃうね」
 守りたいものは人界にあるのだから。
 闇獄界が世界の主導権を握ってしまえば、人界もすぐさまあの鬱屈とした闇夜に飲まれてしまうことだろう。
 三井君は白くなるほど唇を噛みしめ、一番にしまいこんだはずの金色の魔法石を手に出現させた。
「つまり、俺様たちは俺様たちにしか今できないことをするしかないってわけだ」
「そういうことです」
 怒ったふうもなく、喜んだふうもなく、工藤君は淡々と頷いた。
「で? この魔法石にも何か仕掛けがあるんだな? わざわざ出させたってことは」
 三井君に続いて銀色に輝く魔法石を取り出した夏城君が不機嫌そうに尋ねる。
「はい。簡単に言ってしまうと、それは法王の生命力を吸い取って精霊王に送り込み、精霊王たちがその力を援用して有極神を封じる結界を維持するためのハブのようなものです」
「ハブ?」
「精霊の力を使えるようになる契約の証じゃなかったのかよ?」
 河山君と葵が口々に再び取り出した魔法石を見つめながら問いかける。
「夏城君、龍とサザのこと、覚えていますか?」
「なんだよ、いきなり」
「覚えているも何も、さっきちょっかい出されたところでしたっけ?」
「だからなんだよ」
「サザは龍のことが嫌いでしたよね。あなたたちの反目ぶりは法王と精霊王という関係にあって特異なものでした。大抵は精霊王も法王を気に入って契約を結び、己の支配する精霊の使役力を法王に与えるかわりに、自分は有極神を封じるための生命力を法王から摂取し続ける」
 不安げに顔を上げたのは葵。
「そんなこと……」
「法王のメリットは明らかにしても、精霊王のメリットは教えてはいけない。そう命じたのは統仲王と愛優妃です。知れれば有極神の存在がばれてしまいますからね」
「……そんな……。てことは、法王ってのはエネルギー供給源で、しかもある種人質みたいなもんだったってのか? 魔法石は契約の証でもなんでもなく、有極神とかってやつを封印しとくために精霊王を縛りつけておくためのただのつなぎ……」
「ええ。ですから、例えばサザがどんなに龍を嫌っていても今でも夏城君が魔法石の変化形態である蒼竜を使えるのは、サザは何があろうと魔法石を介しての契約の解除を申し出ることができないからです。もし法王の生命力を摂取できなくなってしまえば、自分が有極神に食い殺されてしまいますから」
「あいつ……」
 夏城君は苦々しげに呟く。
 わたしはちらりと緋桜を見た。
 緋桜は苦笑を浮かべている。
 一方、聖はそっと瞼を閉じたまま、身じろぎすらしなかった。
 彼女は、とうに知っていたのだろう。
 澍煒もまた、聖の傍らで大人しく耳を傾けているだけ。
「いいの? そこまではっきり説明しちゃって」
 笑みすら浮かべて桔梗は訊ねた。
「いいんですよ。今だけのことなんですから」
 工藤君はちらりとわたしを見てそう答えた。
 わたしは軽く唇をかんで小さく頷く。
「そういうわけで、今皆さんに魔法石を取り出していただいたのは、他でもありません。有極神の本体はとある場所で精霊王たちが日夜押さえ込んでくれていますが、どの隙間から逃げ出したのやら、聖の中にはその魂が住みついてしまっています。今度は魔法石を持つあなたたちの力で、その魂を封じ込めるんです。彼女の魂の周りに結界を作って。それで聖も、大分楽になることでしょう。少なくとも、今よりは」
 にっこりと工藤君は微笑んだ。聖にと言わず、わたしにと言わず。
「工藤のお兄ちゃん、さっき精霊王は僕らの生命力を吸い取って糧にしてるって言ってたよね? 生命力ってのは、つまり何? 永遠の命を持つ神の子って言われた法王にも死があったのもそのせい? 僕らは今もそれを吸い取られ続けてるの? この聖に僕らの力で結界を作ったとして、僕らの寿命が縮むなんてことはないの?」
 理不尽さに苛立ったように、光くんは矢継ぎ早に問いかけた。
「永遠の命に関しては、今でも皆さん、お持ちでしょう。その姿で魔法石を自在に操れるようになった時から、取り戻したはずです。永遠に続くその記憶を。そして、生命力と言うのは体に宿ったもののことではありません。魂に宿ったもののことです。法王の魂は愛優妃と統仲王が選んだ特別なもの。常に内からエネルギーが湧き出し続け、枯渇することはありえないし、消滅することもまずない。あるとするならば、相反する性質をもつ同等のエネルギーを闇獄主らによってぶつけられた時のみ」
 永遠の命とは、永遠に消滅することのない魂に刻まれた記憶。
 魔法石とは、罪を隠蔽するために精霊王たちを縛りつける魂の牢獄――
 全員、口を開く者はなかった。
 わたしなどは、当事者であるにもかかわらず、事の大部分が飲み込めなかった。
 ただ一つ思ったことは、法王という存在は自分たちが思っているよりも、はるかに危うい存在だったのだということくらい。
 人間という存在と同じくらい、その形は脆かったのだということくらい。
「ですから、寿命が縮むということはありません。寿命とは、そもそも身体うつわの使用期限を指すものに過ぎないのですから」
 工藤君の言葉にわたし達は皆、不思議とそれぞれ自分の手のひらを見つめていた。
 寿命は身体の使用期限。
 その言葉がやけに冷たく心の中に響いた。
「さて、こんな感じでいいでしょうか。他にご質問のある方は?」
 ずらりと居並ぶ制服姿の十人。ああ、聖も一応見た目同い年くらいだっけ。
 工藤君はいつもの学級会を取り仕切るように慣れた口調で一堂を見回した。
「有極神の身体は精霊王たちがわたし達の生命力を借りて封じてくれているんだよね? でもわたし達は魔法石しか持っていない。聖の中に宿る有極神の魂を封じるのは、結局はわたし達の魂に宿る力ということ?」
「ええ。今度は皆さんに直接彼女に結界を張っていただきます。それでも……いつまでもつかは分かりませんが」
 眼鏡の奥で工藤君は憂えるようにわたしを見つめた。
 知らぬ未来に、わたしはぞっと背筋が粟立った。
 聖がわたしの中で受け入れがたいものであったように――今はもう大分慣れたとはいえ、もしかしたらいつか、わたしの中に有極神が目覚めるかもしれないのだ。
 今から聖にかける結界の魔法が成功したとして、これは現在から見れば大昔のこと。
 ざわり。
 更に嫌な悪寒が背を這い上がっていった。
「皆さんは魔法石を出してただそれに集中して下されば結構です。できれば聖に力を送りこむのをイメージしながら。あとは僕が皆さんから力を引き出して彼女の回りに結界を張りますから」
「あら、統仲王もできることがあるのね」
「ええ、これくらいなら僕にでも。目がありますから」
 桔梗の嫌味に動じることもなく工藤君は眼鏡のみを外し、詩音さんに手渡した。
「詩音、」
「わかってる。下がってればいいんでしょ」
 いじけた風もなく詩音さんは微笑んで、澍煒と緋桜のいる部屋の隅へと下がっていった。
 それを確認して工藤君は中央の聖と向き合う形で立つ。
 どことなく緩みがちだった部屋の空気が、一瞬にして張りつめた。
 その中、朗々たる工藤君の詠唱が始まる。
『古より神の記憶封じし聖なるうつわ


 世界を象る時空の主よ
 天地たゆとう生命預かりし者よ
 万物を結び分かつ雷電生み出す者よ
 御恵み与えし大地を支える者よ
 穢れ浄めし火炎点す者よ
 命潤す水海その腕に抱きし者よ
 形あるものに宿りて温冷渡しし者よ
 天空を吹き渡る疾風自在に操りし者よ


 我 汝ら支配せし物質を司るものなり
 我が声聞こえなば
 命に従いて 古より受け継ぎしその力を解き放て
 溢れ出ずる生命の営みをこの者に分け与え
 眠りし者の魂起こさぬよう 互いを結びて界となし
 過去 現在 未来 世を渡りて永遠の夢の中に封じ込めよ』
 工藤君の呼びかけた順に魔法石は眩いばかりの閃光を放ち、聖の胸元へと光は伸びていく。
 誰もが例外なく。
 八色の光が集まった直後、聖の周りには上下四つずつ、計八つの光球が浮かび、さっき工藤君が持っていた紙に画かれていた通りキューブを形作る。
 その時点でくらりと一度目の眩暈が襲った。
 やがて頂点は次第に辺を短くしながら白く輝く光でぴったりと聖を覆いつくし、それにも飽き足らず聖の身体の中へと吸収されていく。
 目を閉じていた聖はその一瞬だけ、死者が甦るようにカッと目を見開いた。
 虚空を泳ぐ黒と青の瞳。
 同時に、貧血のような眩暈がわたしを襲った。
 わたしだけじゃない。
 みんな、魔法石を手放してしまわぬよう必死に握りしめながら、ぐらぐらと揺れつつも何とか踏みこたえている。
 ざわり。
 再び、わたしの背筋を何かが走っていった。
 今度は駆け上がるのではなく、触れるか触れないか、そっと下へとなぞる優しくも不気味な悪寒だった。
 それは眩暈と共に内側からわたしを蝕む。
 ――急速に。
「樒ちゃん?」
「樒!?」
 背中を丸めてうずくまったわたしに、いち早く気づいてくれた桔梗と葵の声が降ってくる。
『許すまじ』
 虚ろになっていく身体の中、低く復讐の念に囚われた女の声が響いていった。
『許すまじ、統仲王、愛優妃、そして八人の子らよ。我が復活、たかがそれだけで封じえたなどと思うなよ』
 引き裂かれていくわたし。
『聖刻法王よ。未来がこれしきのことで変わると思うなよ』
 引き裂かれていっているのに、内側から迸るエネルギーは際限なく膨らみ続け、わたしの身体を食い破りだす。
「こんな……こんなタイミングで目覚めるなんて、意地が悪いにもほどがありますよ。皆さん、お疲れでしょうけど、もう一度……」
 目が回る。
 みんな、貧血に揺れている。
 ぐらぐら、ぐらぐら。
 だめ。
 こんなたて続けなんて、だめ。
 ……どうして?
 どうして、今こんなことに……?
『お前の魔法石の力が一瞬弱ったからだよ』
 意地悪魔女のようなしゃがれた声は楽しそうにそう答えた。
 どこか。
 どこか、わたしを運ばなきゃ。
 この身体うつわを。有極神を。
 工藤君が再び詠唱を始めている。
 無理だよ。
 わたしがいないならかわりに聖の魔法石を使うしかないけれど、聖はあの通り、人事不省に陥っている。
 少しだけ。
 みんなが休む間だけ。
「〈渡り〉」
 どこに行こうというのだろう。
 こんな状態でここを離れたところで、他に彼女を封じ込められる心当たりはないというのに。
 脂汗にまみれた視界の遥か先、青ざめた夏城君の顔が見えた。
 さわりと風に揺れる銀色の髪が、さらに遠くに霞んで見えた。











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