聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 5 章 過 去
3
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や、と、じゅういち……狭いっ! おまけに暑いっ!!」
古風な数え方をしながら指を折っていた緋桜は、終いに呻いた。
聖刻城の一番広い客間。
夜風が入ってくるとはいえ、真夏だったらしく、冷房がない状態でこの人数が一部屋に押し込められているのはさすがに辛い。
更に、一人いらぬ熱を上げている始末。
「それはね、俺様の緋桜ちゃんへの愛が……」
「そうか。あんたが原因か。……〈転送〉」
見てるこっちまで心冷えそうな目を三井君に向けて、緋桜は一言、せっかく来たばかりの三井君をこの部屋ではないどこかに飛ばしてしまった。
「ひ、緋桜……!」
「いいのよ、いいのよ。ああいうタイプはどこ飛ばしたって死なないから」
「どこ飛ばしたってって、どこに飛ばしたのよ!? 場所によっては……」
「あら、なんだか五度くらい涼しくなった気がするんだけど」
「暑くるしー馬鹿がいないと涼しくていいなぁ」
それでもパタパタと手うちわで扇ぎながら、口々に桔梗と葵が緋桜の功績をねぎらう。
「桔梗! 葵!」
思わず諌めてはみたけれど、確かにちょっとだけ暑苦しさは減った気もする。
ごめん三井君。一瞬だけ自業自得、とか思っちゃった。
「でも緋桜、ほんとにどこ飛ばしたの?」
「ん? 別にたいしたことはないわよ」
開け放たれた窓辺で、風に白いレースカーテンが揺れる。
さわさわとゆれていたかと思いきや、それは外側から人影に押しのけられるようにめくれ上がった。
「緋っ桜ちゅわ~んっ、たっだいま~! 君が欲しかったのはこの花かい?」
ぐらつくことなく窓から中に着地を決めて、三井君は緋桜の前に跪き、白い百合の花を高々と頭上に掲げた。
「……早っ」
呆れはててたみんなの心を代弁したのは葵。
白百合を捧げられた緋桜は、らしくもなくくらりと眩暈を起こし、ソファに深くもたれてしまった。
「徹、お前いい加減にしとけ」
ひたすら我関せずを通していたはずの夏城君が、ようやく一言言葉を発した。
「う゛っ」
その一言で白百合を捧げ持ったまま三井君の挙動は停止する。
これまで織笠君が「ヴァイタリティ溢れた人だねぇ」と言おうが、河山君が「暑苦しいクーラー」と揶揄しようが、工藤君が「緋桜さんが困っているようですよ?」と間接的に注意しようが、「いい加減にしたら?」と保健室ですでに顔見知りだったという光くんに冷たく言い放たれようがやめなかったというのに。
ちなみに、これ以上三井君が暴走するようなら桔梗と葵がキレて同時に……という悲惨な末路が待っていたはずだ。
硬直していた三井君は、ややあってからぎこちなく手足を動かし、緋桜の横にいたわたしの腕に例の白百合を抱かせた。
聖刻城の中庭の百合の花。
そもそもわたしたちが何をするでもなくこの狭い部屋に押し込められているのは、少しだけ時間が欲しいといった聖の回復を待ってのことだった。
緋桜が繋いだ空間を渡ってここに出たとき、この部屋にはもう一人、直接わたしは会ったことのない人物が待っていた。
澍煒。
栗色の真っ直ぐなロングヘアに透き通るような白い肌。ふっくらとかわいらしい珊瑚色の唇。
緋桜は驚くこともなく、むしろ言葉を交わさずに頷きあうだけでわたしの肩にもたれていた聖を彼女に渡した。
立っているだけでも辛いだろうに、聖は先に部屋で待っていた五人を見渡して、最後に夏城君に目を留めてこっそり、微笑んでいた。
心持ち、なんだか面白くなかったのは桔梗と葵たちには絶対に内緒だ。
それはそうと、本当ならわたしはわたしと緋桜以外を残し、今連れてきたばかりの三井君、河山君、工藤君に詩音さんも含めてみんなにはそれぞれ別の客室を借りて休んでもらおうと思っていた。
聖に対して思い当たる節でもあるかのような反応をした三井君と河山君に関しては、わたしはその理由を尋ねて巻き込む勇気はなかったし、彼らが自らそれ以上何かを言い出すこともなかったから、やっぱりできるだけ関わらせないようにしようと思ったのだ。工藤君と詩音さんなんかは完全に無関係だと思っていたから余計にそうしようと。
だけど、緋桜が空間を閉じて一息ついたところで、澍煒に肩を借りた聖と、無関係のままにしようと思っていた三井君、河山君、詩音さんも含めてみんなの前でとんでもないことを言い出したのは、誰あろう、一番無関係を装っていた工藤君だった。
『違う時を経た二つの魔法石をあわせるよりも、八人の法王の魔法石をあわせたほうがより強固な封印が施せますよ』
と。
思い返して、わたしは無意識にため息をついていた。
ついでに、その意味をすりかえるように呟いてみる。
「聖、まだかなぁ」
聖はみんなには少し休みにいくって言って出て行ったけど、本当は体力回復よりも、今夜は帰ってもらえるように龍兄にお願いするために一度部屋を後にしていたのだ。
確かあの薔薇園で龍兄に「絶対帰っちゃだめだよ?」とかなんとか自分で言ってたような気もするし。
もしかしたら龍兄に怪しまれてしまったんじゃないだろうか。
だって、そりゃそうだよね。「今日は帰って」なんて、おそらく聖の口からは絶対に出てくるはずのない言葉だったろうから。
それに――
わたしはちらりと工藤君と、その横で落ち着きなく室内を眺めている詩音さんを見遣った。
もし、お昼からずっと半日もあの薔薇園を彷徨っていたというのなら、聖や、それこそ勘のいい龍兄が気づかないわけはない。
怪しすぎるのだ、工藤君は。
さっきだって、結局工藤君は有極神の封印について提案だけして理由までは説明しなかった。聖が戻ってきてからゆっくり聞けばいいと言っただけで。
聖だって疑ってかかるかと思いきや、少し考えた末、工藤君のその言葉に頷いて澍煒と共に部屋を出て行ってしまったのだ。そう、少し休む時間が欲しい、と。
「あっ! そうそう、俺様中庭から帰る途中、いいもん見かけちゃったんだ~」
大人しくするかと思いきや、不意に三井君はわたしと夏城君とを交互に見つめ、人の悪い笑みを浮かべはじめていた。
「何馬鹿なこと言ってんだよ。そんなことであたしらの機嫌が直るとでも?」
すごんだ葵に珍しく怯まず、三井君はその耳に何事かを囁きこむ。
さっと葵の表情が好奇に変わり、同じく今度は桔梗に囁きだした。囁かれた桔梗は光くんに、光くんは織笠君に順に囁いていく。
「行こう」
「行きましょう」
夏城君を除いた先待ち組は、いつの間に織笠君も含めて仲良くなったのか、皆一様に好奇心に満ちた表情を浮かべて出窓へ向けて走り出した。
「え? ちょっと、どこ行くの? 勝手に動き回ったらお城に人たちに見つかっちゃうって! ちょっと、桔梗、葵、三井君! 光くんに織笠君まで!!」
引きとめも空しく、五人は三井君を先頭に順に窓から飛び降り、月明かりの下へと飛び出していく。
「ちょっとーっ」
一階とはいえ、わたしはすぐに飛び降りる決心もつかず、出窓に手をついたところで下を覗きこんで躊躇した。
その間に五人の影は夜に紛れていく。
「ど、どうしよ……」
「守景、守景」
呻いたわたしの肩を遠慮がちに叩いたのは河山君だった。
「科野の声がでかかったから聞こえちゃったんだけど、」
そこでいったん言葉を切り、再び我関せずを通そうとする夏城君の顔をうかがってから、河山君はやや声のトーンをおさえて囁いた。
「龍と聖の密会、だってさ」
「え……? ええぇえっ?!」
わたしは二重に驚いていた。
よりによって(と言ったら失礼かもしれないけど)あの五人……。喜び勇んで飛び出していくはずだ。
そして、何食わぬ顔でその名を口にした河山君。
凝視するわたしに河山君は苦笑しながら頷いて見せた。
「いやぁ、世間て結構狭いよね。……なんて」
「……鉱兄さま……?」
「あれと一緒にしないでくれる?」
笑顔を崩さぬまま最大限不快感をあらわにして、河山君は窓の外、おそらく率先して出て行った三井君を指差して言った。
「じょ、冗談だって。じゃあ……、そっか」
「うん」
風兄さま。
聖の一番歳近いお兄さん。
「でも、いつから?」
「時空あちこち飛ばされて、危ない目に遭わされてるうちに。記憶は今でも朧なんだけど、さっき実際に聖見て受け入れざるを得なくなったというか。まあ、そんなかんじ」
「三井君も?」
「一緒に飛ばされてたからね。同じ感じじゃないのかな。〈玄武〉振り回してたし」
三井君があの調子で二振りの曲刀を振り回す姿は、見なくても容易に想像できた。
ひとしきり二人で苦笑を分かち合うと、河山君は心を決めたように深く息を吸い込んだ。
「守景。あまり突っ込んで聞く気はないんだけど、守景と聖、何か企んでる?」
前置きした割に、河山君の質問は直球だった。
わたしは頷くしかない。
「そう。工藤から人界がなくなったって聞いたんだけど、それ何とかしようってこと?」
工藤君から?
どうして工藤君がそんな情報持っているの?
思わず工藤君の姿を探すと、工藤君も詩音さんもいつの間にかこの部屋からいなくなっていた。
「あれ、工藤君は?」
「ああ、あの人たちなら龍と聖の密会見にみんなのこと追いかけてったみたい。窓からじゃなく、ちゃんとそこのドアから」
三井君がいなくなって顔色がよくなってきた緋桜が、やや隙間を残して閉じかけのまま放置された扉を指差した。
「ちょっと、緋桜! 見てたんなら止めてくれたっていいでしょ?」
「えー、だってあの人が聞くわけないじゃん、あたしの話なんか」
「あの人って、緋桜、工藤君と知り合いなの?」
緋桜は驚いたように口を開いたまま声をとぎらせた。
苦笑する河山君と、相変わらず表情の少ない夏城君と。この部屋に残されたわたし以外の三人は、思い思いの表情を浮かべたまま目のみで会話を繰り広げたようだった。
「統仲王」
ぼそりと低くそう教えてくれたのは夏城君だった。
「とうちゅうおう?」
漢字変換が上手くいかなかったわたしは口の中で鸚鵡返しに呟く。
「神界の統治者であり、聖たちのお父さんでしょうが。ついでにさっき会った愛優妃様の旦那様」
緋桜はすっかり呆れ果てた目でわたしを見遣った。
「工藤君が?」
揚句、緋桜は頭の悪い子でも見るようにわたしを見つめた。
「他に誰がいるってのよ」
いや、そう言われても。
さっき、夢記憶に違わぬ姿の愛優妃を見てきたところだというのに、統仲王は転生しているだなんて。
それもわたし達と同い年の、同じクラスの学級委員長。
らしすぎるといえばすぎるんだけど、でも、元父親、なんだよね?
「複雑だわ」
「工藤はそうでもないらしいけどな」
「そうなの?」
「龍と聖の密会って聞いて見に行ってしまうくらいだからねぇ」
頷く夏城君に河山君が、ちらちらわたしと夏城君とを気にしながら苦笑まじりに付け足した。
「昔の統仲王様なら絶対怒り狂って引き離しに行っただろうけどね。あのお人は楽しそうに出て行ったわよ」
うんうん、と河山君と緋桜は頷きあう。
「でも、さっき言ってたよね。魔法石が八つあるなら、その方が強固な封印を施すことができるって。あれってどういうつもりだろう? 愛優妃の言うとおり、統仲王はとっくに聖の中に有極神がいるって気づいてたのかな。だから、工藤君わたし達にあんなこと教えてくれたのかな」
「それはとりあえず追いかけてって確かめるしかないでしょう」
いつの間にか緋桜はレースカーテンを背に払いのけ、出窓越しに飛び降りようと構えていた。
「えっ、緋桜まで行くつもりなの?」
「だって密会よ、密会!!」
「じゃあ、俺も行こっと」
河山君までもがひらりと窓を乗り越えていく。
レースカーテンは二人が消えた後も、しばらくゆらゆらと風に揺られ続けていた。
わたしは追いかけるべきか、この気まずい緊張感が続くのを承知で夏城君と二人ここに残るか、決めあぐねて部屋の中央で立ち尽くした。
できることならわたしもみんなのいるところへ行きたい。
でも、ここでわたしが外に飛び出したら、それは龍兄と聖の密会とやらを見に行くってことになって、おそらく夏城君の機嫌を大幅に損ねることになるだろう。もしかすると軽蔑されてしまうかもしれない。
見たいのかといわれれば……龍兄は見てみたかったりするんだけどね。
ああ、どうしたらいいんだろう。
それともわたし、考えすぎ? 意識しすぎ?
「行かないのか?」
不意に、気まずい空気を打ち破りたいのか、さらに濃くしたいのか分からないようなことを夏城君は口にした。
思わずわたしは夏城君を見つめる。
怒っている節はない。
機嫌が悪そうなのはいつものことだとして、わたしがここに残ろうがみんなのあとを追いかけようが、夏城君自身はここを動くつもりはなさそうだった。
「なら、とりあえず座れ」
凝視するわたしを答えに詰まっていると判断したのだろう。夏城君は手近にあった鮮やかなピンクの蓮華の刺繍が施された白いクッションを軽く放ってよこした。
クッションは反射的にのばした腕の中にすっぽりと納まる。
「疲れてんだろ。ほんとは。守景体力なさそうだもんな」
あくまで視線を合わせるつもりはないらしい。
見つめられたら、そりゃわたしは今すぐここからクッション抱いたまま逃亡してしまうかもしれないけれど。
ぎこちないながらも手足を動かして、わたしは二人分空けて夏城君の横に座った。
いや、この空きぶりは、もはや横なんて言えないかもしれない。
小学生みたいなことをしてしまったと後悔しても、いまさら左横に移動するわけにもいかない。
仕方なく、わたしは大人しくクッションに縫い取られた蓮華に視線を落とした。
それでいながら、向こうを遮る左サイドの髪の隙間からちらちらと夏城君の横顔を盗み見る。
テレビも音楽プレーヤーも何もない部屋。
あるのは隅に置かれた本棚くらい。
その本棚から取り出してきたのだろう。
仰々しい装飾の施された分厚い青紫の本を開いて、夏城君はそれを組んだ膝の上において読むともなく眺めているようだった。
余りの静けさに互いの呼吸音すら聞こえてしまいそうな部屋の中、どこからともなく時計の秒針を刻む音が響いてくる。
かち こち かち こち――
「どこ、寄り道してたんだ?」
めくったページに目を落としたまま夏城君は尋ねた。
「えっと、うんと……」
「聖と一緒に来たからちょっと驚いた」
「驚いた……」
夏城君が、驚いた?
顔を上げて凝視してしまったわたしの視線を、夏城君は今度は真っ直ぐ受け止める。
「守景。お前、俺のことサイボーグか何かだと思ってるだろ?」
「え」
違うの? と思わず口から出かかった言葉を飲み込む。
そんなこと分かってはいるけれど、普段の夏城君は驚くほど表情の種類が少ないから。
今わたしを見つめる顔にも、なんらこれといった表情は浮かんでいない。
ただ、一度捕らえたら放さない薄茶色の瞳が強く、わたしの呼吸をも支配していた。
「ううん、そんなこと、思ってないよ」
時を逸してしまったというのに、わたしは往生際悪く取り繕う。
「嘘だな。目が泳いでる」
「うそっ! 泳いでないよ! だって……」
泳ぐはずがない。
視線を、逸らしたくても夏城君が逸らさせてくれない。
顔に熱が上ってくるのが分かった。
わたし、おかしいよ。
さっきまでだってここまでひどく上がらなかったのに。
逃げ出してしまいたい。
何度となく思ったけれど、今は結構切実だ。
クッションを掴む手が汗ばんでくる。
ふっと。
夏城君の目元と口元がわずかに緩んだ。
初めて間近で見た笑顔に、わたしの心臓は耐え難いほどの騒音を体内に撒き散らしだす。
「分かりやすい奴」
「ええぇ、何が? どこが? そんなことないって。わたしこれでも結構深いんだから」
……何言ってるの、わたし。
ああ、早く桔梗たち戻って来てくれないかな。
「ふぅん」
しかし、そんなわたしの動揺をよそに、さらりと夏城君は頷いて再び本に視線を落としてしまった。
わたしは思わず胸元に手をあてて呼吸を整える。
「だから分かりやすいって言うんだよ」
薄茶色の瞳は本の文字に注がれたまま。だけど夏城君はちょっと肩を震わせて笑っていた。
「ずるいよ」
根拠もなくそんな言葉が口から飛び出す。
「どこが?」
夏城君は意に介した風もなく、口元に笑みを浮かべながら訊ね返す。
「……そういうところ」
ちょっと考えた末、わたしは何の根拠もない答えを返した。
「それなら守景の方がずるいだろ」
ぱたり、と夏城君は本を閉じた。
「どこが?」
「そういうところ」
わざとなのか、いや、わざとだろう。
くつくつと、どこか桔梗と似た忍び笑いを漏らしながら夏城君は本棚の方へと立ち上がる。
そこで、ふと思いついたようにわたしを振り返った。
「読むか?」
差し出された青紫の表紙に黄金の装丁の分厚い本。
とじあわせられた紙は、時の浸食に黄色くやけている。
「何の本?」
「聖の日記」
手に取りかけたその本を、わたしはものの見事に掴み損ねた。
本は開いた状態で青紫の表紙を上に無残な状態で床に落ちる。
「嘘」
しれっとした顔で目もあわせず夏城君はそう言って、本を取り上げるためにわたしの足元に膝をついた。そして、まだ信じられずに疑念の目を向けているわたしの前に、琥珀色のページを開いてみせる。
「夏城君、これ、読んでたの?」
黒い文字は飾り文字のような綺麗な形をしていたが、目によく馴染んだアルファベットとはまた違う形をしていた。勿論ひらがなや漢字とも程遠い。
「読めるわけないだろ。ただ暇だったから眺めてただけ。何が書いてるかなんてさっぱり。喋ってる言葉は分かるのにな」
めくって見せられた感じでは、文字ばかりで図や絵らしきものは一つもない。
「でも、聖の字だよな、それ」
まともな印刷技術すら禁じられたこの世界。暇に飽かして聖は数え切れないほどの写本をしている。
何の本かは分からないけれど、言われてみれば確かに見覚えのある癖がいくつもあった。
「分かるんだ?」
嫉妬にも似た想いをわたしは一瞬で抱いていた。
ぶつけすぎないよう、抑えた声は自然と低くなる。
「聖の癖、分かるんだ?」
癖があるといっても、あからさまに下手というわけじゃない。
読み返すことを考えて写されたその文字は、文字間隔とあわせて几帳面なほど印刷用のフォントのような統一感があった。
わたしだって一目見たところですぐに聖の字とは気づかなかったのに。
静かに見つめてくる視線はやっぱり魔力を帯びていた。
「分かるよ」
そっと囁くように唇が動いた。
「龍は聖に待ちぼうけを食らわせられるたびに、城のあちこちに置かれた本で暇をつぶしていたんだから。聖の手なんて飽きるほど見てる」
「待ちぼうけなんて……」
「今日も、そうだろ? 今頃聖は言葉を尽くして龍を丸め込んでる」
夏城君はそう言ってさもおかしそうに笑った。
わたしはその隙に視線を逸らし、窓辺を見遣る。
開いた窓の向こうには人気のない中庭への道のり。その先、人目をはばかるように散策する龍兄を聖は見つけて、そう、夏城君の言うとおり、言葉を尽くして説得、もとい丸め込んでいる最中のはずだ。
「ねだる時と隠し事のために嘘をつくときだけは、ほんとに頭の回る奴だった」
「うわ、ひっどー」
さすがに自分は聖じゃないと思っていても、その言葉は素直にむかついた。
即座に切り返したわたしを夏城君は覗き込む。
「上手くだまされたふりしてやってた龍の身にもなってみろよ」
耳元を声がくすぐる。
「だまされたふり?」
「愛優妃の秘密の庭園。あそこに寄って来たんだろ?」
「気づいてたの……やっぱり」
「聖が待ってたのはお前だった。どうして来ると分かっていたのか、それは分からないけど」
冷や汗と熱とで体がどうかしてしまいそうだった。
「来るなんて思っていなかったよ。ほんとに月が見たいだけだったの」
「嘘つき」
その言葉は薄い刃でわたしの心に切り込んできた。
「もう嘘なんてつかなくていい。隠さなくていい。有極神とかって奴の存在――それが一番の秘密だったんだろ? なら、もういいだろ? 一人で抱えるな。俺は龍じゃないし、お前は聖じゃない。あの時とは何もかもが違ってる。ただ、もてあますような記憶をお互い抱えてるだけで」
この不安は、一体どこから来るのだろう。
中途半端な幸せの中をたゆとうような心もとなさ。
確かに幸せなのに。そう。たとえこの想いが一方通行だったとしても、あんなに馬鹿みたいに緊張していても、こんなに近くで夏城君の存在を感じられて、わたしの心は確かに喜びに満ちている。
「ほんとだよ。わたしは何も隠してなんかいないよ」
伸ばされた手が、頬をそっと撫でていった。
すっと冷たさが尾を引いて、感覚でなぞる間もなく冷めていく。
「なら、もうそんな顔すんな」
泣いているなんて思わなかった。
人は確かな理由が分からなくても涙を流すことができるものなのだと、わたしははじめて知った。
「喜怒哀楽、分かりやすいのがお前のいいところだろ」
「そんなに分かりやすい?」
「百面相って守景のような奴のこと言うんだろな」
「そこまで激しくないよ! わたしだってちゃんと大人の事情みたいなもの分かってるし!」
「なんだよ、大人の事情って」
夏城君は今度こそ屈託なく笑い出していた。
――願わないと、決めたんだ。
願うと、手に入らなかったときに苦しいから。裏切られると悲しいから。
結局、物事はなるようにしかならなくて、一度失ったものは二度と手に入ることはない。
でも、願わなきゃ前に進めない。
立ち止まってばかりじゃ周りにおいていかれてしまうだけ。
時の虚ろにはまり込んでしまうだけ。
真由が教えてくれた。
ちゃんと前を見なさいって。向かうものを見つけて、ちゃんと歩きなさいって。
「だからそんな顔するなって」
切なげに、寂しげに、薄茶色の瞳はわたしを見つめてくる。
「今度逢えるときがあったら、もう見てみぬふりをしてやるのはやめようって誓ったんだ。そんなのは、お互い苦しめあうだけだから。それに、今はもうそんな必要もない」
龍兄。
夏城君を心の中でそう呼んでしまった自分が、どうしようもなく信じられなかった。
「やめてよ。龍兄の言葉なんて、わたしに伝えないで」
「いいから聞けよ。あいつらの想い封じ込めたままじゃ、俺たちはどこへも進めない。この記憶を垣間見ちまったからには、俺はお前を放っておけない」
「聖だから? わたしが聖だから? 結局、夏城君は龍兄の視点からしかわたしのこと見てくれてないんだ?」
「あの聖がお前でよかったとは思えても、お前が聖だからよかったなんて思ったことは一度もない」
頭の中がぐちゃぐちゃになるようなことを言って、夏城君はまたわたしの頬を拭った。
「去年、傘渡した時に龍が見つけたって言っただろ」
「……うん」
聖は、それを聞いてとても喜んでいた。わたしじゃない。聖が。
「でも、俺は知ってたよ。その前からお前のこと」
伏せていた目が、思わず彼を捉える。
「うそ……」
「今度は嘘じゃない」
包み込むように頬に添えられた手が、より熱をあおる。
「あの傘渡すちょっと前、誰かのサッカーの試合応援しに来たことあっただろ? お前の中学の校庭でやった練習試合」
弟の洋海が中学一年でサッカー部に入って早々、一年ながら補欠だけどベンチに入れてもらえたから絶対見に来いってしつこく言われてフェンス越しにはじめから終わりまでその試合を見に行ったことがあった。
あれは、五月の終わりのこと。
情けないことにうちの中学は惨敗だったけれど、洋海はすっかり相手チームの一人に心酔してた。
白地にマリンブルーの「11」を背負った人。
素人のわたしの目にも飛び込んでくるほどよく走り、うちの中学をかき回してくれていた。
それが夏城君だって洋海が教えてくれたのは、わたしが岩城に入った後だ。
「すごく熱心に応援してる奴がいるなって。嫌でも目がいって集中できなかった」
「……うそだぁ。だって、うちの中学、夏城君に負けたようなものだって洋海が……」
「洋海って、誰?」
「弟」
即答したわたしを夏城君は呆けたような顔で見遣った。
「弟?」
「そう。今二年生だけど、去年一年だった弟の応援に行ったの。ベンチ入りしたからって。あの時は……確か奥谷の『15』番。後半のちょぴっとしか出られなかったけど」
「……あの15番が守景の弟……?」
今度は信じられないものでも見るような目つきで夏城君はわたしを凝視する。
「どうせわたしは運動神経悪いですよ!」
「そうだよな……姉弟とは思えないほど似てないよな……」
「正真正銘血の繋がった弟ですっ」
似てない、似てないとは昔からよく言われるけど、そこまで驚くことはないじゃない。
「いや、別に責めてるわけじゃないって」
ちょっと気を緩めた夏城君は思い出すように笑い出す。
「よかった。あんまり熱心に応援してるから、彼氏応援してんのかと思ってた」
「違うよ! だってサッカーの試合って、見てるとこっちまで力入ってきちゃうじゃない!」
「ああ、それこそ百面相やってた」
「ちょっと、思い出さないでよ! 恥ずかしいから! って、一緒に見てた友達も同じくらい力入ってたでしょ? わたしだけじゃないって」
「お前が一番すごかった」
「遠くからじゃそんなの分からないでしょ」
「分かったよ。グラウンドまで声届いてたのお前くらいだったもん」
「それは合唱仕込みの発声で……って、そうじゃなくて……」
「どんなに試合に集中してても応援は聞こえるもんなんだ。特に、心のこもってる応援は敵にも味方にもちゃんと届く」
見つめられて言葉が詰まった。
「来週、試合があるんだ」
「うん……」
「見に……来ないか?」
一瞬逸らしかけた視線を、夏城君はそのままわたしに留めた。
わたしは口を開きかける。
一瞬にして現実に引き戻された思考の中で考える。
来週なんてないんだ、と。
時を戻したら、わたし達が今過ごしている今日はなくなってしまう。
今、ここでこうやって二人で話した記憶も消えてなくなってしまう。
約束も、なくなってしまう。
わたし達はまたただのクラスメイトに戻り、何事もなく、それこそ一言挨拶するきっかけもなく教室の中をただすれ違うだけの関係に戻ってしまう。
口を、噤んだ。
時を戻すとは、そういうことだ。
夏城君も分かってるはずだ。
分かって、言ってくれているんだ。
「行く。夏城君のこと、応援しに行くよ」
「だから、泣くなって。百面相もいいけど、俺はその中でもお前の笑ってる顔が一番好きなんだ」
照れたように夏城君はついに視線を逸らす。
だけど、すぐにまたわたしをその薄茶色の瞳で魔法にかけた。
何度となく触れ慣れただろうわたしの頬を夏城君はそっと撫で、もう片方の手で遠慮がちにわたしの手に触れる。
絡められた指をわたしは握り返した。
そして目を閉じる。
息をしていいのか分からなくて、結局わたしは息をつめた。聞こえる鼓動は大きくなる。
同時に、夏城君の吐息が鼻の頭をそっと撫でて、ふわりと柔らかな幸せは舞い降り――
――たのかどうか。
何か重いものが転がり落ちてきた音に、わたし達は動きを止め、目を見開いた。
一瞬何も考えずに目を合わせたあと、おそるおそるわたし達は振り返る。
「あ……」
わたしは呟き、夏城君はそっと額に手をあてた。
「三井、あんたが身を乗り出すから」
「待て! 科野が見えないって俺様を押しやったんだろ?!」
「まあまあ、ここはとりあえず」
室内に転がり落ちていたのは三井君。窓の向こうにはずらりとさっき出て行ったはずの全員。
聖まで、いる。
そんな中からとりなしながら三井君を窓の外に引き上げたのは織笠君と河山君だった。
「あ、俺たちのことは気にしないで。すぐ退散するから。ね?」
『うんうん』
織笠君に続く河山君の言葉に、窓の向こうの一同は工藤くんも含めて好奇心旺盛な顔で頷く。
「んなこと言って、絶対また窓の下に隠れてるつもりだろ」
呆れ果てたいつもの不機嫌な声が夏城君の口をついて出ていた。
身体を突き破るかと思ったわたしの心臓の音は、徐々に音量が下がっていく。
深いため息を一つついて、夏城君はわたしを振り返った。
わたしは頷き返す。
聖の代行者として。
夏城君にはそれで充分だったらしい。
「入ってこいよ。聖もいることだし。さっさと有極神とかって奴、鎮めるぞ」
窓の外の一同と出窓に乗り上げたままの三井君は、皆一様に残念そうに深いため息をついていた。
聖まで例外なく同じ表情でため息をついている。
だけど――
わたしは無意識に指で唇を触れてしまわないように、きつく手を握りしめた。
ほんのり、唇には熱が残っていた。
←第5章(2) 聖封伝 管理人室 第5章(4)→