聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 5 章 過 去
1
抱きしめられるあたたかな腕の中で、いつも眠りに落ちてしまうのは私の方だった。
今も、まるで貴方に魔法をかけられたかのように、目を閉じればとろとろと心地よい眠気が押し寄せてくる。
あるいは貴方は本当に魔法をかけていたのかしら?
もう少し、もう少しときりなく時をのばそうとする私の身体を気遣って、早く城に連れて帰ってしまうために。
でも、そのために貴方が私を抱きしめてくれる腕に少しでも力をこめてくれるなら、このまま眠りに落ちたっていいとさえ私は思ってしまうの。
またしばらくは貴方に逢えなくなってしまうけれど、貴方の温もりの中で眠れるのならそれも悪くはなかったから。
さやさやとほのかな風が髪を揺らし、優しく頬をくすぐっていく。
そのくすぐったさに、私は思わず眠り入ることを妨げられてうっすらと目を開いた。
月の光が雲に遮られたのか、緑に色づいていた草が押し寄せる黒に染め替えられていく。
「どうした、聖?」
つい空を見上げてしまった私から、龍兄は我に返ったように両腕を解いてしまった。
やっぱり、なんとしてでも眠ってしまえばよかった。
そうすれば、せめて龍兄の腕に抱かれたまま城に帰ることができたのだから。
でも、今夜は何があってもその願いは叶えられそうになかった。
ここ、愛優妃の薔薇園の厚く高くそびえるレンガの壁向こうで、人々の緊迫した声やら落ち着きない足音が騒々しく響きはじめたのだ。
「聖、帰ろう」
もういいだろう? と言わんばかりに龍兄は私を覗き込んだ。
その表情に不満げな色はかけらもない。
いつもいつも、貴方はそう。
期待させたかと思いきや、次の瞬間には兄として妹を宥めただけなのだと掌を返したように冷たい表情で私を打ちのめす。
せめてほんの少しでも、私の想うほどの一掬いだけでも貴方が名残惜しげに顔を歪めてくれれば、私だって素直に頷く気にもなっただろうに。
「私、もう少しここにいるわ」
首を振った私を龍兄は心配そうに見つめ、もう一度ためらいがちに手をのばす。が、その手は私に触れることなくはたりと宙で止まり、力なくおろされてしまった。
追いかけるものを見失った私の目は、一呼吸の間ふらふらと宙を彷徨う。
「先に帰っていて。私もすぐに戻るから」
「しかし、これ以上外の冷たい風に当たらせるわけには……」
「もう少し。もう少しだけここで月を見ていたいの」
雲にうっすらと光を翳らされながら月はさやさやと私たちを監視している。
折り合いをつけようと思っていた。
私の中にいる彼女と。
永遠の命を持つはずの神の娘でありながら、私の体は刻一刻と残りの命を減らしていく。同時に、〈予言書〉に記された神界最後の時も近づいていた。
間もなく闇獄界が西と北から攻め入り、第三次神闇戦争が起こるだろう。
それは統仲王も愛優妃も知っていること。
けれど〈予言書〉の運命とは、覆そうともがいた結果が記されているのだ。
彼らは決められた道を辿らされることに慣れてしまったのか、諦めを覚えてしまったのか。少なくとも統仲王は日々変わりなく暮らしている。
歯がゆさがあった。
どうしてもっともがいてはくれないのかと。
〈予言書〉に記されていないことが一つでも起これば、それで運命は変えられるはずなのに。
それとも、単に未来を記した書を与えられただけでは、それほど危機感など持たないものなのだろうか。
統仲王や愛優妃と私が決定的に違うこと。
それは、私のほうがより直接的に彼女の悪意に向き合わされていることなのかもしれない。
「月などまたいつでも見られるだろう?」
龍兄は何も知らない。
私が内に何を抱えてしまっているのか。
未来に何が待ち受けているのか。
でも、そうね。貴方は何も知らなくていい。
今日、ここに迎えに来てくれただけで私には充分。
触れ合っているとついついもっと求めたくなってしまうけれど、貴方がそのぬくもりを分けてくれただけで私の心を決めさせるには充分。
「龍兄、私ね、また龍兄に逢いたいよ」
それでもまだ心は迷っていて。私はさっきまで間近にあった龍兄の服の端をつかんで呟くように囁いた。
案の定、龍兄は怪訝そうに私を見下ろす。
「会おうと思えばいつでも会えるだろう? 兄妹なのだから」
悲しいくらいに感情が排除された返事に私はちょっと笑った。
「そういう意味じゃないんだよ」
その言葉は飲み込むだけに留めたのだと思う。
かわりに私は龍兄を見上げて微笑んだ。
「そうだね。だから今日は先に行ってちょうだい? 心配なら聖刻城で待っててくれてもいいよ。むしろそうしてくれたら嬉しいんだけどな」
蒼氷色の瞳は機嫌悪そうに私を一瞥する。
「なら一つだけ約束するんだ。戻ってくる時に〈渡り〉は使うんじゃない。飛嵐を呼べ。いいな?」
飛嵐、か。
彼はもう、私の側にはいないのに。
「うん、わかった。約束するよ」
苦い思いを掃き捨てるように私は笑顔で頷いて、子供の時のように小指を立てて龍兄の前に差し出した。
一瞬、龍兄の顔に困惑が混じる。
「どうしたの?」
私はちょっと小首を傾げてみせた。
「約束する時はこうするんだって教えてくれたの、龍兄だよね?」
予想通り龍兄はため息をつく。
「ちゃんと、守るんだぞ」
渋々ながらも指を絡めてくれるかと思いきや、龍兄は大きな手で私の手を小指ごと軽く覆いこんだだけだった。
ごつごつと骨ばったその手からはため息以上の温もりが流れ込んでくる。
「はーい」
胸の奥に息づくかすかな喜びを押し隠して、私は妹の顔でもう一度頷いてあげた。
薔薇の茂みの中に消え去っていく龍兄の背中を見送って、私はもう一度月を見上げ、大きく息を吐き出す。
いつからだろう。
あの背中を見ても胸が苦しくなくなったのは。
小さい頃はあの銀の外套を纏った大きな背中を向けられる度に胸苦しくなり、発作を起こしていたというのに。
どちらかと言えば昔の方がもっと心は近かったとさえ思えるのに。
「ああ、そっか。自分で行ってって言ったから……」
私の独り言に答えてくれる者はどこにもいない。
今は私の中の彼女も眠ってくれているから。
彼女――この世の真の創造者は、私の儀に入り込んできた後も眠り入っていることの方が多い。時たま、私が眠っている間に好きなように動き回っているらしいが、この頃ではこの儀自体が不調を訴えることが多くなり、私とてそうそう簡単に外に出られることもなくなっていた。
まして、龍兄に忠告されるまでもなく〈渡り〉は一度使っただけで疲労感がいや増す。下手すればどことも知れぬ亜空間でのたれ死んでいたかもしれないのだ。
そんな危険を冒してまで今日ここに来たのは、ほかでもない。
龍兄に逢いたかったから。
龍兄に逢って、来世でもまた逢いたいと思えるかどうか確かめたかったから。
そして、龍兄もそう思ってくれているかどうか、私は知っておきたかった。
「龍兄、自惚れてもいいかな、私」
残された温もりを手繰るように自分の肩を抱きしめる。
私の小さな掌ではどんなに大きく広げても、到底覆いつくせない貴方の掌のあと。寒風に直接晒されたその部分の方が、自分で触れている部分よりも熱く体に刻み込まれていくような気がするのは何故だろう。
思い出して、確かめて、そしてまた思い出して。
繰り返すほどに私は貴方が分からなくなる。
記憶は思い返すたびに願望が織り交ざって嘘ばかりが増えていってしまうから。
思い出だけじゃ足りないの。
私には今もこの先も、龍兄、あなた自身が必要なの。
どうしてこんなにも思い焦がれてしまうのか、もう私にも分からない。
いつからこんなに歯止めが利かなくなってしまったのかも、もう私には思い出せない。
せめてこの世が永遠に続くと思えたなら、もっとおおらかに貴方を見つめるだけで満足して過ごせたのだろうか。
意識することなく私の首は左右に振れていた。
もしこの状態が永遠に続くと思っていたなら、私の想いは行き場を失ってもっと激しく私自身を蝕んでいたかもしれない。
貴方と血の繋がった兄妹だという事実に永遠に繋がれ続けることに絶望して。
この先に死があるというのは、むしろ私にとっては幸運なことなのだ。
この死をきっかけに、もう一度貴方と戒められることなき立場で巡りあえたなら。
「大丈夫」
だって、〈予言書〉はそう予言している。
私達はまた出逢えると。
私の望むとおり、全くの他人としてまた巡り逢うことができる、と。
けれど、その世界はいずれ失われる。
私達は――ううん、彼らは幸せ半ばで引き離される。
その後の命運がどうなるかはわからない。
〈予言書〉の内容は一千年後の人界崩壊までを事細かに描いて終ってしまっているから。
その後、残された神界と闇獄界がどうなるのかは、全くの未知。
〈予言書〉には空白のページだけが続いていく。
まさにそれが、統仲王と愛優妃に対する彼女の復讐だった。
〈予言書〉という抗いがたい運命でがんじがらめにして足掻くことの無意味さを徹底的に教えこんだ後、今度は予想すらできない空白の時に放り込む。辿ることを強制された道が途中で途絶えていると知りつつ永年かけて歩まされる苦痛はいかほどのものだろう。
そして、その途絶えた先に待つものが明示されずとも彼女の復活であることくらい、誰でも容易に想像できる。
復活に向けて暗躍する手段が私の儀だとまでは知らないだろうけれど。
私はもう一度自分の体を抱きしめた。
二つの魂を宿した儀。
休む時なく意識を繋ぎ続けられて、この儀も相当疲弊しているはずだ。
本当なら彼女はもう私の儀から離れているはずだった。
統仲王と愛優妃の末娘を道具に蘇られれば何よりの意趣返しと思っていたらしいけれど、時を共にするに連れて私たちの魂は融合しはじめていた。
全く異種の意識を持つというのに、そんなことがありえるはずはない。
何度も彼女は混乱して泣き喚き、私の儀から出て行こうとしていたけれど、足首同士を錠のついた鎖で繋がれたように私たちの魂は一部を共有し、切り離すことができなくなっていた。
最近の彼女が至っておとなしいのは私への温情なのかもしれない。
いずれ彼女は、私の魂も意識も飲み込んで復讐を果たす糧にするつもりなのだろうから。
だから今のうちは好きにすればいいと。
足掻きたければ足掻くがいいと。
もしそれで私たちがお互いの束縛から離れられるなら、それが一番よいことなのだろう、と。
ならば私は彼女の思うつぼだとしても足掻くしかないのだ。
己を維持し続けるために。
龍兄へのこの想いを消されてしまわぬように。
〈予言書〉の予言を外す。
時空を司る力を持つ私にはできないことではない。
一番簡単な方法は、時をある時点からある時点まで巻き戻してやり直しさせてしまえばいい。
巻き戻すという行為それ自体が〈予言書〉にはないものとして、きっと運命を歪ませてくれるだろうから。
けれど、今の私のこの儀はもう一つの時の流れを作れるほどもはや強くはなかった。統仲王と愛優妃、人である二人の血を受けていなければ、とうに死んでいたっておかしくはない。
機会は来世。
人界に人間として生を受けたその時。
人間の体でその魔法の威力を受け止めきれるかどうかは甚だ不安なものが残るけれど、私が病の巣食うこの体に戻ることは二度とない。戻れたとしても、兄さま姉さまたちのように儀に時を留める術のない私には、程なく滅びが待っているだけ。かといって新たに統仲王と愛優妃の子の儀を手に入れられる保証もない。
〈予言書〉に定められた運命を変えたい。
そう思っているはずなのに、私の行動指針はすでに〈予言書〉に運命づけられた未来を前提にして立てられていた。
「なんて皮肉」
未来が分かっているからこそそれを逆手に取っているのだ、などというのは体のいい言い訳。結局翻弄されて終るだけかもしれない。
未来を考えれば考えるほど不安は募る。
募った不安は誰かに打ち明けでもしない限り、一人きりでは拭い去ることも出来やしない。
でも、これを統仲王に相談するの?
私の中に彼女がいると知った瞬間、統仲王は私の父親としての顔を捨ててしまうかもしれない。
ならば慈悲深いという愛優妃に相談しに闇獄界まで行く?
まさか。
私を産み落とすだけ産み落として異界に引きこもってしまった女になんか誰が自ら会いになど行くものか。
たとえ折れて会いに行ったとしても、愛優妃の慈悲がどこまで深いのか私は身をもって知っているわけじゃない。統仲王でなくとも、誰が自分を陥れようとしている者を閉じ込めた儀を目の前に平静でいられるだろう。
「ほらね。だからやっぱり私がやるしかないのよ」
何度も何度も言い聞かせてきた言葉。
それでも迷いを振り切れずに龍兄にまで迷惑をかけて。
なのに私の心はまだ迷う。
確信がほしいと。一歩踏み出すための確信がほしいとうずくまる。
その確信が具体的に何を指すのか、別に気づいていないわけじゃない。
つまり、時が巻き戻されてもう一つの未来が築かれた場合の〈予言書〉の内容が知りたいのだ。
〈予言書〉が存在しない世界を取り戻そうとしているというのに、一度未来が見通せてしまうと人はもう手放しでは歩けなくなってしまうものなのかもしれない。
それは、一抹以上の恐怖。
麻薬の快楽を知ってしまった者の、断ちようもない依存性。
統仲王と愛優妃だけにかけられたはずの呪縛は、明らかに私をも毒していた。
胸をかきむしりたいような思いの丈をこめて、私は宙に浮かぶ満月を睨み上げる。
あの月に彼女の体はあるという。
月宮殿と呼ばれる、見えてはいても異次元に存在するあの月の城に。
一度〈渡り〉で行こうとしたことがあったけれど、その時は亜空間で何かに弾かれて体がばらばらにされそうなほど吹き飛ばされてしまった。
彼女は言う。
月宮殿こそが本当の創造神が住まう世界で、この神界は神の暇つぶし程度の箱庭に過ぎないのだと。
それを悔しく思ったのかは知らないが、統仲王と愛優妃は自分たちも箱庭がほしくて人界を造った。
彼女はそれを快く思わなかったから、二人に油断した隙を突かれて封印されてしまったのだそうな。
創造神が自らの手から生った者に反抗されるなどお笑い種もいいところだが、だからこそ、彼女の怒りも深い。
「……助けて……」
見上げたまま私は呟いた。
自分の本心のつもりだったけれど、もしかしたら封じられて自由を奪われた彼女の本音も混じっていたのかもしれない。
「誰か、助けて……」
音にして空中に放ってしまうと、口元には虚しさだけが残った。
誰も聞く者がいないからこそ吐き出すことができたのに、吐き出した瞬間に私は今すぐ救いの手がさしのべられることを期待していたのだと思い知らされた。
だけど。
風に揺るがされたにしてはやけに不自然に大きな物音だった。
「誰?!」
誰も入り込めるはずのない愛優妃の聖域。
それだけに、突如紛れ込んできた人の気配に自然と誰何の声は厳しくなる。
でも、私はすぐに考えを改めて、ためらいがちにその人の名を呼んでみた。
「……龍兄?」
もしかしたらやっぱり心配して戻ってきてくれたのかもしれない、と。
けれど、おずおずと赤い薔薇のゲートをくぐって現われたのは、平凡な顔立ちをした一人の少女だった。
「聖」
茫然? 愕然? 安堵?
私の名を呼んだ少女の声には様々な感情が混在していて、そのたった一言からでは敵なのか見方なのかは見当もつかなかった。
ただ、私はその子の目を見た瞬間、鏡を見るような既視感を覚えた。
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