聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 4 章 闇 世
6
息を吸い込む度、胸が切り裂かれていくような気がした。
口の中から水分を奪い取り、喉を鋭く抉りながら肺まで達した空気は、見えない刃で肺胞に取りつく毛細血管をもちりちりと灼き焦がしていく。
喘ぎながらわたしは、のばしても到底手など届かぬ場所に揺らめいていた影に気づいて、思わず湧き返ってきた憎しみに声を掠れさせた。
「ファリアス……!」
考えるまでもなかった。
時空の流れを捻じ曲げてわたしの足を引き掴むなんてことができるのは、時の血晶石を持つこの人しかいなかったのだから。
招じ寄せられたのはどこかの建物の中。
白を基調とした中世的な壁や柱の装飾は明るく華やかで立派だけど、人がいないせいでやけにがらんと物寂しい。
小学校の体育館くらいはあろうかというその広間の奥で、レリュータの姿をしたファリアスは、大きな玉座に王様のようにふんぞり返り、壇上からわたしを見下ろしていた。
「こんなところまで来てくださったのは、私を探していたからではなかったのですか?」
嘲笑混じりのやけに上ずった声が天井高く上っていく。
「それなのに会うことも忘れて逃げ出そうなんて、なんてつれない方でしょう」
ひとしきり笑い声を立てた後、ファリアスは嘲笑をひっこめて、ひたとわたしに視線を据えなおした。
「どうです? 労せず私に会えた気分は」
「どう? 嬉しいよ、とっても」
自分でも驚くほど好戦的な声に、つられて気分も高まる。
繊月を手に私はファリアスを睨み据えながら立ち上がった。
が、大人しくしているならまだしも、動けばそれだけ酸素を必要とする。立ち上がってすぐに、わたしは胸幅を狭めて痛みから逃れようと前のめりになって繊月で身を支えた。
「おやおや情けない。ここは外の空気よりもよほど清浄なんですよ。ええ、神界よりも。こともあろうに聖刻法王の魂を持つ方がまさかこの空気に馴染めないとは」
口の中で小さくファリアスは笑う。
「やはり所詮は人間ということでしょうか。穢れ深き人間の身体にこめられてしまっては、いくら神の末裔の魂といえどもままならないらしい」
「人間の身体だから……?」
本当にそれだけが平気そうなファリアスとわたしとの違いなの?
ファリアスの表情は、外にいるときとは比べ物にならないほど険が取れている。目のぎらつきだけはそのままだけれど、内から蝕む己の苦しみからは解き放たれているように見える。
何か理由があるはずだ。ファリアスがここにいても楽な理由が。ううん。むしろここにいるからこそ楽でいられる理由が。
「そうなのかもしれないね。でも、ここの空気はきれいすぎる」
結界、とようやく口にする。
聖の魂の眷属たちに囲まれて、わたしはようやく一息ついた。
が、その側から結界を構成する時の精霊たちの気配は薄まっていった。
「どういうこと!?」
「貴女の力に染まった精霊たちではここに留まることができなかったようですね」
ファリアスはにっこり笑んで玉座から身体を浮かせた。そして一段一段、階段を降りてわたしに近づいてくる。
わたしは動けずただファリアスを見つめるだけ。
まるで聖が甦ったあの日を再現しているかのよう。
追い込む立場も、空間そのものも。
全てを逆にして。
「私は生きなくてはならないんです。貴女もそれはお分かりでしょう? なにしろ、これは貴女がわたしに課したことなのだから」
結界が完全に消える。
頼りになるのは繊月だけ。
その繊月を引きずりながら、わたしは立ち上がれないまま足を掻いて後退する。
「〈双祈〉」
わたしを壁際まで追い詰めるまでもなく、目の前に迫ったファリアスの手の中で白い燐光が散った。
「それは……?」
「貴女が魔法石を身を守る者として具現化できるように、私もこの身に封じた獄炎の力を引き出し、具現化することができるのですよ」
「な……」
燐光の消えたファリアスの両手には、錐三本をひとまとめにした大きなフォークのようなものが握られていた。
ファリアスはそれを重ね合わせ、これみよがしに擦りあわせる。
研ぎ澄まされているのをアピールするかのようにそれは涼やかな金属音を立てた。
「もしかしてそれでざっくり突き刺すの?」
「ええ。これなら弄せず魔法石を砕くことができます」
ぞっと背中が粟立つ。
何とか、もっと距離をとらなきゃ。こんな近くからじゃ矢を番えている暇さえない。
「どうして今頃そんなもの出すのかな。聖刻の国にいたときも、過去にいたときも、それを使えば一発だったんじゃないの?」
どっちに走る?
右? 左?
わたしの足の速さじゃ移動できる距離なんて……あ、そっか。一人だけなんだし〈渡り〉を使っちゃえばいいんだ。
「〈渡り〉」
時間稼ぎの問いに対するファリアスの答えを待つまでもなく、わたしはファリアスの背後の玉座に狙いを定めて空間移動の魔法を唱える。
一瞬の浮遊感の後、身体は重力よりも重い疲労感に床に叩きつけられていた。
ファリアスがすぐに後ろを振り向く。
わたしは起き上がることができなかった。
「私はまだ若輩者なので、この部屋以外では上手く獄炎の力を制御できないんですよ。だから、貴女をここにお呼びしたのです。愛優妃様が器なき獄炎を正式な器が現われるまで仮に封じ、抑制し続けるために清浄な空気で満たしたこの部屋に」
「どういう……こと?」
床に這いつくばったままわたしは顔だけを上げ、引き返してくるファリアスに訊ねた。
「獄炎を完全に克せる者はこの部屋には二度と入り込みたがりません。貴女のように、いいえ、貴女よりもより苦しい目にあうことが目に見えていますから。ですが、私は獄炎を封じ込めたとはいえ、残念ながらまだ完全に克しきってはいないのです。封じておく分には外でも暮らせますが、力を引き出すとなればそれなりの補助が必要なのです」
「だから、少し表情が和らいでいたんだね」
清らかすぎるほど清らかな空気。この空間を埋めるものは負に染まらず、正のみを貫き通す。わずかな負を見出せば、執拗に清めにかかる。
ファリアスが楽そうだったのは、その浄化作用を借りて易く己を保つことができているから。わたしが苦しいのは、この身に抱える負の重荷に対して浄化作用が苛烈に働きすぎるから。
逆にそこまでの浄化作用を持ちながら、なおも力を発揮できる闇獄界の炎はなんと重いものなのだろう。それを生み出した人界、神界に住まう人の心が生み出した負の心とは、なんて大量で重いものなのだろう。
それを一身に取り込んでしまったファリアスの〈悔恨〉の念は、どれほど強いものだったのだろう。
繊月を握る手に力をこめる。
ファリアスは真由の敵だ。
でも、聖は彼を犠牲にした。
「ここなら、私は思うがままに動くことができる。サザに操られることなく、己の心に惑わされることなく。決着をつけましょう、聖刻法王。今度こそ」
自分で立ち上がる間もなく、ファリアスがわたしの肩を掴んで上半身だけ引き立たせた。
「は……なして! 苦しい……痛いよ……」
首を締め上げ、わたしの胸元に双祈を突きつける。
「聖刻法王、これ以上、もう私を裏切り続けないでください」
双祈を振り上げる。
その顔は、今にも泣きだしそうなほど歪んでいた。
「ファリアス……」
もしかして、今のファリアスは……。
「樒!」
思考は飛び込んできた緋桜の呼び声に妨げられた。
ファリアスの唇が笑む。
その笑みの意味を考える間もなく、双祈は大上段からわたしの胸元めがけ振り落ちてくる。
夢中でわたしは繊月を盾にして三つの刃を搦め取り、手首を返してファリアスの手から双祈の片割れを跳ね飛ばす。
手首を押さえながらもファリアスはもう一つを利き手に握りなおし、仰向けに床に転がったわたしに覆いかぶさりざま、突き立てんと振り下ろした。
「っ!」
「!!」
左耳のすぐ側で、金属が大理石の白い床を傷つける音が響いた。
「っゃぁっ……」
数秒の沈黙の後、重くのしかかったレリュータの口から小さな悲鳴が漏れた。
「ぃゃ……ファリアス、嫌よ! ファリアス、嫌ぁぁぁっっっ」
「……ユーラ?」
「ぁぁぁっ、ファリアス……!」
焦点の合わない目のままで叫び続けるレリュータの身体を、緋桜がわたしから引き離した。
その身体には繊月の矢が突き立っている。
「お母さん」
矢を抜くことなく、緋桜はレリュータの身体を抱きしめた。
「お母さん」
そう呼ぶ声は震えていた。
「緋…桜……、ファリアスが、ファリアスが……!!」
「うん……」
わたしは、彼女達に背を向けた。
直視はできなかった。
見届ける責任があったかもしれないけれど、わたしには無理だった。
背を向けたその先にあったのは、わたしをとらえそこなった三本の刃、双祈。
手元が狂った?
ううん。違う。
そんなことありはしない。
胸を狙っていたはずなのにこんなそれたところに突き立てるなんて、どんなに手元が狂ったってあるわけがない。
わたしは残された双祈に手を伸ばした。
人差し指の指先から冷たさが染みる。
次の瞬間、双祈は白い石となり、ひび入って粉々に崩れていった。
同時に、玉座の対奥で静かにこの部屋の扉が開く音がした。
息を切らし、飛び込んできたその人は、後ろ手に扉を閉めて青ざめた顔でわたしたちを眺める。
その澄んだ青い目は、やがて緋桜に抱きしめられたレリュータを経由してわたしに留められた。
金髪の長い巻き毛の美しい女性。
ヨーロッパ系の白い肌と深い彫、そして赤い官能的な唇。一目で美しいと溜め息が漏れるその顔には、しかし今は焦燥だけが刻まれていた。
その唇が震え、柔らかいながらも凛と芯の通ったソプラノを奏でる。
「聖……?」
そう呼ばれることに抵抗がなかったわけじゃない。
だけど、わたしは素直に返事をしていた。
「はい」
「そう。あなたがやったの」
わたしは緋桜たちを振り返り、頷いた。
それを見て、女性はゆっくりこちらへと歩み寄り、わたしの横もすり抜けてレリュータの傍らに跪く。
「あ……愛…優妃…様……」
途切れ途切れにレリュータの唇はその名を紡いだ。
愛優妃。
分かってた。
聖の記憶にもないこの女性が、彼女を生み捨てて闇獄界へと去った女性だということは。
クレフに導かれて会い損ね、もう二度と会う機会もないと思っていたのに、こんなところで、こんな状況で顔を合わせることになるなんて。
「ユーラ、ファリアスを支えてくれて、ありがとうございました」
慈しみに満ちた声が震えることなく滴り落ちる。
「とんでも…ございませ…ん。夫も…本望でしょう……」
「貴女は、よかったのですか? 本当に」
ユーラはそっと目を閉じた。
「炎が…残って、い…るのなら、私も〈嫉妬〉……のかの方…の如く……この魂を、暗い炎で……灼き焦がしてしまいたい……」
言葉すらままならないその体で、ユーラは白くなるほどレリュータの唇を噛みしめた。
「ごめんなさい。私は貴女からも大切な人を奪ってしまった……」
「ちが……違います。奪ったのはわたしです!」
力なく頭を垂れた愛優妃に、その肩を引きつかんでわたしは叫んでいた。
「確かめたでしょう? わたしがやったのかって。わたしがやったのよ! 繊月の矢でその胸を貫いたのよ!」
青い瞳は揺らがない。
悲哀を浮かべたまま、そっと瞼を閉じる。
「聖、ごめんなさい。私は龍だけでなくあなたにも業を背負わせてしまった」
そう呟いて、愛優妃はユーラの方に顔を戻す。
いい知れぬ思いがお腹の底からふつふつと湧きあがってきた。
この思いをこの人にぶつけたくて仕方ない。
だけど、どうぶつけてよいのかわからない。
「ユーラ。ファリアスとの約束です。貴女を輪生環に送ります」
レリュータの顔に張りついていた修羅の形相が歪み、やがて凝りが解けた。
「分か…ってい…ます。お願い……します……」
「ま…待って!! ユーラ、恨み言ならわたしにぶつけなさいよ! 悪いのはわたしでしょう? 聖でしょう? 聖のせいであなたたちは引き離されたのよ?! こんな運命背負わされたのよ?! どうしてわたしを責めないの? 責めなさいよ! ちゃんとわたしを責めて!!」
うっすらとユーラは瞼を開ける。
唇は、開かれることなくその両端がわずかに引き上げられただけだった。
愛優妃は、息切らすわたしを一度視界におさめた後、レリュータの胸元を一撫でしてか弱い光を放つ球体を一つ、取り出した。
そして口元に寄せ、そっとその光に口づける。
ユーラの魂は、その瞬間光の残滓を残して消えていった。
否、神界の輪生環へと送られたのだろう。
レリュータの身体は支えを失って緋桜の腕の中でぐったりとしなだれ、やがて間もなく、あの双祈のように白く石になってさらさらと崩れていった。
緋桜の手に赤い聖刻王の血晶石だけを残して。
砂と血晶石とが残る手を、緋桜はぼんやり眺め、ゆっくりと握りしめる。
「あ……」
わたしは自分の手を見つめた。
レリュータの身体に繊月を突き立てたこの手を。
手は、赤く血に染まって見えた。
震える。
はじめは小刻みに。やがて大きく、震えていく。
その手を、柔らかな手が外側から覆い包みこんだ。
「私を冷酷非情と恨みますか?」
冷たい手だった。
わたしが触れたことのある手の中で、一番冷たい手。
常に氷づけになっているかのように、その手は温むことを知らない。
「聞いてばかりなんですね。あなたは」
声が凍え震えた。
嫌いだ。
この人は、ずるい。
わたしも大概ずるさはあるけど、この人は、背負って見せようとすることで免れようとしている。
「自分が全て罪を背負えば、罪を犯した者は皆救われるとでも思っているんですか?」
「……いいえ」
「なら、分かち合えばいいと思っているんですか?」
「いいえ」
愛優妃は首を振り続ける。
美しいブロンドが漣のように揺れる。
そして顔を上げ、ただ一言、絶望に満ちた呟きを漏らした。
「私には、何もできません」
「……」
この人の瞳の色を、わたしは見たことがある。
地中海の海の色だ。
澄みきっていて、これこそが青なのだという確信に満ちた色。
これが数えることもままならない年月を闇獄界で過ごしてきた人の目だろうか。
これが、闇獄界の全てを束ねる人の目だろうか。
「あなたは口でどんなに懺悔しようと、その目は穢れないままなんですね」
わたしの手を包み込んでいた彼女の手から、一瞬力が抜けおちた。
その隙に、わたしは自分の両手を抜き取る。
責めて欲しかった。
叱って欲しかった。
懺悔を、聞いて欲しかった。
だけど、この人がわたしに懺悔の瞳を向けているのだ。
わたしは、聖から受け継いだ思いをこの人に告げる機会を失ってしまったのだ。
「緋桜」
呼んでいいのか少しだけ迷ったその名を、わたしはしっかり思いをこめて音にした。
緋桜はゆっくり両手を左右に引き離す。
広がる隙間からレリュータの砂は落ちていった。
「はいな」
砂が全て零れ落ちた後、緋桜はいつもの笑顔で顔を上げた。
「行こう。時間がない」
「あいあいさ」
立ち上がった緋桜は砂の山を回り込んでわたしの傍らにつく。
「聖、私はあなたのすることを止めませんでした」
もはや聞く気などないわたしに、顔を伏せたまま愛優妃は言った。
「おそらく、統仲王もあなたの中にあの方がいると気づいているはずです。ですが、私たちには運命は変えられない。変える資格がないのです。あの方に逆らったのは私たちの罪。けれど、私たちは償う術を持たないのです。ただ、成り行きを傍観するだけ。罪の意識が表立ってあの方に立ち向かうことを苛むのです。だから聖、私はあなたが運命に逆らおうとしていることが嬉しかった。これで本当に運命が変えられるなら……」
嫌いだ。
わたしはこの人が、嫌いだ。
「わたしは聖じゃないよ。守景樒。それと、別にあなたたちの運命を変えるために聖は始めたんじゃないの。聖は、ただ龍兄と一緒にいられる世界を守りたかっただけなんだよ。――誰を犠牲にしても」
緋桜が扉を開く。
わたしは後も見ず、その扉をくぐりぬけた。
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