聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 4 章  闇 世

 5

 さてどうしたものか。
 わたしと緋桜は桔梗の張ってくれた水の結界の隅っこで、作戦タイムと称して相談をしていたのだけれど。
「樒、ここは諦めて全部晒そう。下手な言い訳、小細工、嘘を並べてさらに突っ込まれて信頼落とすよりかは、シンプルかつ大胆にまとめてしまったほうが火傷は少なくて済むに違いない」
 うんうん唸った末に緋桜の出した結論は、相談した価値もないものだった。
「緋桜、考えるのめんどくさくなっただけでしょう?」
「だってどんなに考えたってあそこの三つ編みのお姉さん、多分絶対言い逃れなんかさせてくれないよ? それは樒が一番よく知ってるんじゃない?」
「うっ」
 どうしてたった数時間の付き合いでそこまで見切れるかなぁ、緋桜は。
 わたしには返す言葉もない。
「どうやら詳細に説明するとまずいことが多いみたいね。ほんと、一体何をやらかしたのかしら、樒ちゃんは」
 冷静な桔梗の声にわたしと緋桜の肩は思わずそばだつ。
「桔梗! 聞いちゃ駄目って言ったじゃん! というか、わたしがやったって言うかなんて言うか……」
「聞いちゃ駄目って、樒、お前なぁ。この狭い空間で背中合わせに座ってんだぞ? 嫌でも聞こえてくるわ」
 ちょうど背中合わせになっていた葵はちらりと首をめぐらせて、呆れたはてた目でわたしを見おろした。
「神界、闇獄界、人界、三界の時を生み出す刻生石。確か魔法石と共に聖が預かっていた物だったわよね。その刻生石を、どうしてついさっきまで、現在の聖刻王であるレリュータという人が持っていたのかしら?」
 つまりそれが原因よね、と言わんばかりに桔梗がとりまとめて問いかける。
 わたしは首肯するしかなかった。
 聖の罪を告白することは、すでに自分の触れられたくない過去を晒すのと同じくらい、わたしにとって重いものになっていた。
「どうしてレリュータが刻生石を持ってたかっていうと、聖が渡したの。死ぬ前に」
 どこから話してよいやら分からなくて、わたしはとりあえず桔梗の質問に答えてみた。
 緋桜の作戦通り、大雑把に。
 厳しい突っ込みを覚悟したのだけれど、問題の桔梗は軽くふぅんと頷いて次を促しただけだった。
 これでは逆に話しづらい。
 助けを求めようと緋桜を見ると、緋桜はそ知らぬふりをして暗黒の空に浮かぶ純白の月を見上げて小さく鼻歌を刻んでいた。
「緋桜~っ」
「えっ、なぁに? シンプルかつ大胆にまとめきったじゃない。よくやったわ、樒!」
 だめだ。
 やっぱ当てにならない。
 深く息を吐き出して、わたしは一から話す覚悟をした。
「あのね、驚かないで聞いてほしいんだけど、聖は神界を創った本当の神様に取り憑かれてたの。願いを叶えてあげるから身体うつわ貸して欲しいって言われて頷いちゃって――結局願いなんて叶わなかったんだけど。聖は貸してる間、その神様が何してるかなんて知らなかった。ただ、一緒に同じ身体に入っているうちに魂がくっついてとれなくなっちゃって……その時初めて彼女の創った〈予言書〉っていうのを盗み見ちゃったの。本みたいな形してるんだけど、ほんとの本じゃなくって。なんていうんだろ、頭の中に本の立体イメージとして流れ込んできて、ページもめくれちゃう感じの本。あ、結局本だよね。とにかく、そこには彼女が統仲王と愛優妃に身体を封じられて復讐を誓ったところからはじまって、人界が崩壊する未来に至るまでの予言がこと細かに書かれていたの」
 顔を伏せたまま、思いつくままに口早にまくしたてたわたしは、そこで言葉を切ってみんなの反応を待った。
 が、沈黙が続く。
 おそるおそる顔を上げると、みんなはそれぞれの方向を向いたまま、聞き耳を立てているようだった。
「あの……つっこみとかはないの? 神界を創った本当の神様って何? とか」
 また沈黙。
 それを破ってくれたのは、投げやりなため息を吐いた葵だった。
「愛優妃はともかくさ、統仲王はやりそうだよなぁ。あいつ自分が一番じゃなきゃ気が済まないとこあるじゃん? 子供っぽいっていうか。いや、炎の父親だったけどさ」
「そうよねぇ。きっと理由も単純よ」
「自分も神様の真似事してみたかった、とかな」
「あ! それできっと人界造ったんだよ!」
『あー』
 桔梗が頷き、夏城君が呆れたように付け加え、織笠君のまとめに一同が深く頷いた。
 なんだろう、このノリ。
 大筋で当たっているだけに、強引に流れを修正する気にもならない。
 もしかして思い悩むほど重要なことじゃなかったのだろうか?
 いや、多分絶対そんなことはないんだけど。
「ねぇ、みんなショックじゃないの? 統仲王と愛優妃はほんとの神様じゃなかったんだよ?」
 おそるおそるもう一つ聞いてみる。
「ショック? むしろあたしは安心したかな。神社で手ぇ合わせてるときにあいつに願かけてたのかって、さっき知ったときの方がショックだったから」
「よかったわねぇ、新鮮なうちにショックが拭われて」
「ほんとだよ」
「そっか、そうなんだよね。神様って統仲王と愛優妃だったんだ……うわぁ」
 ずれてる。
 織笠君に至っては今頃実感しているらしい。(うわぁってどういう意味だろう)
「そ、それでね、聖は後悔して、その予言書の内容を変えようとレリュータに刻生石を渡したの」
「樒ちゃん、さっきまでとっても詳しい説明だったのに、今とっても端折ったでしょう?」
「うっ」
 桔梗の目が鋭く輝いた。
 どうやらさっきまではわたしの自白を待ってくれていただけだったらしい。
 刑事さんの取調べってこんな感じなんだろうか。あの眼光に見据えられたら、居心地が悪いどころかどんどん居場所がなくなっていく気がする。
「織笠君、聖の周りでレリュータって人の名前聞いたことある? 私の記憶によるとそんな人いないんだけど。もちろん、聖刻の国の宰相の家系にも」
「え? どうして僕? 僕より聖のことは龍の方がよく知ってるんじゃないの?」
「あの頃は龍ったら聖のこと避けてたでしょう? 聖もずっと病に臥せってたから聖刻城にこもりっきりで、めったに顔あわせることもなくなってたじゃない。この薄情者さんはお見舞いって言葉も知らないみたいだったし?」
「だから俺とあいつを一緒にするなって」
「それに、この中で最後まで生き延びたのは、皮肉なことに長男と長女の私達だったでしょう?」
 にっこりと桔梗は含みのある微笑を織笠君に向けた。
「樒、だから言ったじゃん。この人は食えないよって」
「わたしはシンプルかつ大胆に……」
「つまり、私達も死んだ後に渡したのね。何らかの方法を使って生き延びた……わけはあの状態じゃできないのはわかっているし、看取ったのは海だったから死んでないとは言わせないわ。生き延びるのが無理なら、……もしかして生き返ったのかしら?」
 見てたんじゃないかと思うほど、桔梗の問いは確信に満ちていた。
「例えば聖が何らかの方法を使って生き返ったとして? 聖は戦争で殺されたんじゃなくて、身体がぼろぼろになって死んだんでしょ? その体にまた魂戻したって長くもつわけないじゃないか」
 それまで桔梗の隣で大人しく膝を抱えていた光くんが、ようやく不信の目でわたしを見据えた。麗兄さまは聖の主治医の一人だったのだからもうその言い訳は使えない。
「何も聖の身体に生き返ったとも限んないだろ。転生してから渡したって考えるのが普通じゃないか?」
「転生するからには表面上記憶は消されるわ。戻るかどうかもわからないのに転生した後になんか賭けれるかしら?」
 さらりと葵の意見を一蹴するあたり、やはり桔梗は何か握っているのかもしれない。
 やっぱりちゃんと話そうと思ったときだった。
「守景、俺たちが学校から飛ばされた場所、聖刻の国の聖の廟だったよな?」
 傍観を決め込んでいたかに見えた夏城君が不意に口を開いた。
 わたしは一瞬夏城君と見つめあい、即座に斜め下に視線を逸らす。
「……言って、いいよ」
 あの時はつっこまないでいてくれたけど、もう見過ごしてはくれないだろう。
 分かってる。
 わたしが一番知られたくなかったのは夏城君だったのだ。聖も龍兄には知られたくないと思っていた。その人にとうにあの廟を見られてしまっているのだから、もう今更じたばたしたってどうしようもない。
 わたし達は、ただ真実を問いただされることから逃げてきただけだ。
「守景、お前が自分で話せ。知っていることは全部。守景が仕組んだことじゃないんだろう? 聖とお前は違う。流されるな」
「流されてる……?」
 そう、なのかな。
 そうだと思いたい。
 でもわたしはそこまで完全に聖を切り離せないよ。
 あれほど拒絶していたのに、記憶を携えて魔法石に返ってきた刻生石が過去の空白を埋めてしまった。
 その記憶の全貌を辿ったわけではない。でも、全部辿らなくたってわたしには分かる。
 全て、龍兄を中心に彼女の世界は回っていた。
 生まれたときから二度目に死ぬまで、彼女の心は龍兄の側にあった。
 その想いはあまりに強すぎて、わたしのちっぽけな心など一度波寄せれば簡単に染め替えられてしまいそう。
 何より、彼女はまだちゃんと死んでいない。
 わたしの中に記憶を携えて甦ってきた。
 〈予言書〉の運命を変えるために。
 今思えば、繊月を持った時のわたしはわたしだったのだろうか? ちゃんと守景樒のままだっただろうか?
 本当は、聖だったのではないだろうか?
「樒、それが流されてるって言うのよ」
 横から緋桜がわたしの肩を掴んで揺らした。
「もういいからちゃっちゃと告っちゃいなさい」
「こ、告る? だ、だ、だ、誰に?!」
「お馬鹿。作戦変更って意味よ。あんた自身、ほんとは一番納得も整理も何もしてないでしょ? よくよく考えたら、人様の激情パトス満載の記憶押しつけられて、一日たたずにうまく受け流せるほうがどうかしてるわ。あんたは聖としてやった罪を告白するんじゃなく、聖のしたことを暴露して、その上で自分がどう思うか話せばいいのよ」
「……ああ、そっか」
 それでいいんだ。
 聖の罪を懺悔するんじゃなく、ただ事実として話せばいい。
 それで、聖と自分との間に一線を引け、と。
「まあ、あんたが誰かさんにみんなの前で告りたいって言うならあたしは止めないけどね~」
「!!! ないっ! ないからっ!!!」
「葵ちゃん、聞こえた?」
「聞きたくなくても聞こえるくらい大きな声だったよな」
『全力否定』
 こんな時ばかり桔梗と葵は声を合わせてニヤニヤわたしを見る。
「まあまあ、今どきの小中学生でもそんなからかい方しないでしょ」
「織笠君……! そうだよね、そうだよね」
「僕現役だけど、今どきの小学生はそこまで恋心ひた隠しにしたりしないよ。みんな積極的だもん。だから樒お姉ちゃん、ああいうからかい方されてもしょうがないよ」
 ……この子供は……っ!
 ううん、駄目よ、樒。ここは大人にならなくちゃ。
 そう、わたしは高校生、高校生、高校生……
「光くん、もてそうよね。何人くらいとお付き合いしたのかしら?」
「なに言ってるの、桔梗。僕は桔梗一筋なんだから、誰とも付き合ったりなんかしてないよ。ごめんなさいした数は……別に言わなくたっていいでしょう?」
 上目遣いに光くんは桔梗を見上げる。
「そうね。終ったことは聞かないに越したことはないものね。でも夏城君と織笠君と樒ちゃんが恐いから、これ以上刺激するようなこと言っちゃだめよ?」
「おい」
「ちょっと……!」
「桔梗?!」
 桔梗の言葉にわたしたち三人は思わず声を荒げていた。
「あーあ、証明しちゃった」
 のんびり観客気取りに緋桜が言う。
「緋桜、緋桜もでしょ?」
「あたしは別にがっついてないもーん」
 そうですか、そうですか。
「裏切り者」
 わたしの低い呟きに緋桜は笑い声をつまらせた。
「ってわけだから樒、さっさと吐いちゃいな。別に聖が何してようがあたしらは樒のこと嫌いになったりとかしないから」
「多分ね」
「こら、光くん、余計なこと付け足すんじゃないの!」
 桔梗に口をふさがれたまま、光くんはにやりと笑ってわたしを見た。
 自然と口元が緩んだわたしは、そのまま大きく息を吸い込んだ。
「桔梗が正解。聖は生き返ったの。九百年の歳月をかけて、同じ聖の体に甦った。でも、光くんの言うとおり体はもうぼろぼろだったから、廟に……駆け落ちてきた二人を……」
 話し出した瞬間、目の前にあの光景がフラッシュバックしてきて思わず、わたしは口元を押さえた。
「樒、昼休み前の数学の時寝てたよな。起きたらすごく顔色悪くて。もしかしてそのとき見てた夢って、それか?」
 労りをこめて背中をさすってくれた葵にわたしは頷く。
「有極神の――さっき言ったほんとの神様の力なの。取り込んだもの、作用を及ぼすと定めたものは何でも再構成できる力。その力で、聖は新たな肉体を手に入れた。それがあのレリュータなの」
 さすがに緋桜以外全員が息をのむ。
「レリュータが聖ってこと?」
 さしはさまれた桔梗の問いにわたしは慎重に頷いた。
「それから一年ほどは。でもその後、聖は取り込んだ二人の魂にそのレリュータの身体と刻生石を預けて輪生環に向かったの」
「だからあの聖刻王が刻生石を持っていたのね。でもどうしてそんなことを? 三界の時を生み出すあの石は、時の魔法石を以ってしか支えられないはずよね?」
「うん。聖はファリアスたちに刻生石を預けて時が狂うのを待っていたの。彼らの精神状態を犠牲にしてでも時の流れが乱れるのを。学校に恐竜が現われたり桔梗や葵が過去に飛ばされたのもそのせいだし、世界を越えてわたしと夏城君が聖の廟に飛んでしまったのも、みんなみんな聖が刻生石を不安定にして時空の流れを乱そうとしたせいなの」
 ごめんなさい。
 思わず出かかった言葉を、わたしはすんでのところで飲み込んだ。
 わたしが代弁しても意味がない、そう言いきかせながら。
「でも時空の流れを乱すことに何の意味があるの?」
 無駄な感情は交えず、更に桔梗が問う。
「〈予言書〉の最後は人界の崩壊で終っているの。偽りの神が造った偽りの世界は真正の神の手で滅ぼされるって。でも、人界ははっきり滅ぼされるって書いてるんだけど、神界と闇獄界に関しては最後どうなるかまでは触れられていなかった。きっと人界は明らかに統仲王たちが造ったものだから一番初めに滅ぼしてしまいたいんだと思う。確かなのは、人界は崩壊するということだけ。だから聖は人界を選んだの。確実に崩壊の予言が為されている人界を」
「何のために?」
「〈予言書〉とは違う未来を確実に引き寄せるために。もっと詳しく言うなら、聖自ら〈予言書〉に記された内容を〈予言書〉よりも早く実行して、一度崩壊という事実を作ってから時を巻き戻し、新たな人界存続のシナリオを作り出すために」
 桔梗はしばし考え込んだようだった。
「それは過去をやり直すということ? それとも、巻き戻してやり直しはじめた時を未来にするということ?」
 そうだ。わたしはこの答えが分からなかった。
 でも――
「過去をやり直すことに意味はない。やり直せたとしても、それは結局現在を作る要素の一部になってしまうから」
 わたしが過去に戻っても真由の命を救ってあげられなかったように。
「だから、わたしは未来を取り戻したい。〈予言書〉には記されなかった人界の未来を」
 確固とした口調に、言ってしまってから自分で驚いた。
 だけど取り消そうとは思わなかった。
 聖の九百年。
 そして、緋桜の九十九年。
 ううん。それは神界での時間なのだから、人界ではもっと時が経っている。
 わたしの想像もつかないほど膨大な時をかけてこの計画は準備されてきた。
 確かにわたしが練り上げてきた物ではないけれど、刻生石を預かり、時の精霊と契約した者として、やらなければならない。
 たとえ飛嵐がいい顔をしなかったとしても。
 ――時はね、一つだよ。未来も、過去も、現在も。全部一つに繋がっている。理が……あるんだね。
 真由。
 これでいいのかな。
 いいんだよね?
「じゃあ、巻き戻す部分は今私たちがこうやって話しているところも含まれるのね?」
 目を閉じてわたしは頷いた。
 今こうやってここにいることも、何もかもが上書きされてゼロになる。
 わたしたちにとっては消されてしまう現在。
「人界が滅んだ日。七月二十三日の、異変の起こる直前の午後十二時半まで、巻き戻す」
 闇が降りて、恐竜が出現して。
 二時間目の数学の講習が終ったのは午後の十二時半だったはず。異変が起きたのはその直後だったのだから、午後十二時半まで巻き戻せればその一日はなにもない平凡な一日に生まれ変わる。
「緋桜」
 わたしはまたぼんやり月見をしていた緋桜に向き直った。
「はいさ」
 相変わらず返事はどこか間が抜けている。だけど、その目は嬉しげに笑っていた。
「正直に答えて。あの時の蘇生と一つの世界の時を巻き戻すのと、どっちが大変?」
 肩を掴んで、わたしは僅かな光の揺らめきも見逃すまいと緋桜の澄んだ青い目を覗き込んだ。
「七月二十三日、午後十一時三十二分五十秒」
「え?」
「今の時間よ。人界の時間でね。異変がはじまって十一時間ほど。巻き戻すなら、二十四時間が限界」
「二十四時間って」
「つまり、残り十三時間ってこと。それ以上かかるようなら……」
 緋桜は優しく微笑んだ。
 それでもきっと何も言わずわたしに力を貸してくれるのだろう。
「刻生石なら、さっきレリュータに返されたもの。あとはこれを使って時を戻せばいいだけだよね」
「まぁ、ね……。ああ、それと一つ付け加えとくけど、巻き戻すのは人界の時だけじゃ駄目だよ。神界、闇獄界、刻生石が時間を紡ぎ出す三界全ての時を同時に戻さなきゃ、世界の均衡は崩れてしまう」
 三界。
 肩に重さがのしかかったような気がした。
「時が戻れば、僕たちは普通にあのお昼を過ごせるってことだよね? 誰も死ぬことなく、行方不明になることなく」
 織笠君が考えるように問いかけた。
「うん。そうなるね」
 更に織笠君は顔を伏せたまま考え込み、やがてふと面をあげた。
「なら、早く時を戻そう。僕なんかの力で役に立つかわからないけど、協力するよ」
 確固たる意思に支えられた笑顔が、やけに心強く見えた。
「いいのか? お姉さん探さなくて」
「時が戻れば夢追ちゃんも譲葉ちゃんもいなくなることはない。そうでしょう?」
「……うん」
「それなら、今夢追ちゃんたちを探すよりも守景さんに協力したほうがいいに決まってるじゃん。僕だって安否が気にならないわけじゃない。みんなもそうなんじゃない? 家族、残してきたんでしょう? あるいはどこかに大好きな人たち攫われてしまったんでしょう? 失われた魂を返すことは難しいけど、でも、時を戻して全て元に戻してしまえるというのなら、僕は守景さんに賭けるよ」
 三界の重さ。
 それは単に空間的、物質的なものだけではなくて、人々の魂や心までを含んでいたのだ。
 お父さん、お母さん、洋海。
 自分のことで精一杯で、わたしはとても大切なものをおざなりにしていた。
 思い出すと身を切られるような思いを味わいたくなくて、わたしはどこかで本当の現実から目をそらせていたのかもしれない。
「そいじゃ、ちゃっちゃと時を戻しに行きますか」
 葵がぽんと膝を叩いて立ち上がった。
「はぁ、ようやくこの世界から出られるんだね? 僕もうごめんだよ、これ以上こんなとこにいるの。ほんと、ここ、あんまいい思い出ないんだ」
「闇獄界にいい思い出ある人なんているのかしらねぇ」
「いたらぜひとも会ってみたいよね。成り立ちが成り立ちだし、闇獄界生まれ、闇獄界育ちっていうならこの世界も天国なんじゃない?」
 光くん、桔梗、織笠君が葵に続いて軽口を叩きながら立ち上がり、それぞれ軽く腰の辺りを払う。
 夏城君はとうに無言のまま立って背伸びしていた。
 わたしはそれをまだぼんやりと見上げている。
「どうしたの、樒ちゃん。行くんでしょ?」
「あ……うん……でも、いいの?」
 このままわたしを許しても、いいの?
「刻生石の件片付けて、時巻き戻せば一件落着なんだろ? 本物の神とかいう奴の仕組んだ最悪の事態が回避できるってなら、今は聖の仕組んでったもんに乗るしかないだろ」
「人界吹っ飛んでたら帰る場所もないしな」
 夏城君と葵の手には再び蒼竜と朱雀蓮。おのおの、簡単に屈伸したりアキレス腱を伸ばしたり準備運動を始めている。それに倣って光くんと織笠君もそれぞれ魔法石を武器に変形させた。
「あら、準備いいこと。水の結界解いてくれなきゃこの人数で〈時空扉〉維持するのも大変だもんね。助かるわ。で? 樒、あんたいつまで休憩やってんの。こっからは撤退よ、撤退。そもそもあんたが寄り道したから……あ、でもそのおかげで育様に逢えたし、ま、いっか」
 するりとのばされる白い手。
 わたしは辺りを見回して、慌ててその手に掴まって立ち上がった。
 水の結界の外には、いつの間に寄ってきたのか黒い塊や理科室においてある骸骨の人体模型をそのまま連れてきたようなモノ等々が群がっていた。
「緋桜、後のこと考えると扉使うよりも飛嵐に連れてってもらった方がよくない? って、あれ? 飛嵐いないけどどこ行っちゃったの? やっぱり呆れちゃった?」
「あの人なら時空軸にいるわよ。さっき通った時にあまりに乱れてたから支えに行ったわ」
「支えに行った?」
「人界一つ飛んだって言ったでしょ? 三つで均衡保ってきてたのに一つ欠けたんだもの。そりゃ不均衡、不安定にもなるわ」
「飛嵐一人で?」
「あたしがここにいるってことは、他にあそこで調整できるのは飛嵐しかいないんじゃない?」
 時空軸内で一人で世界一つ分を補うだなんて、あまりにも無茶すぎる。
 唇をかんだわたしの肩を、今度は緋桜が掴んだ。
「樒、優先順位を間違えちゃいけないよ。今あんたがやるべきことは」
「分かってる。分かってるけど!」
「守景、お前はお前にしか出来ないことをやればいい」
 いっぱいいっぱいになって頭に上っていった血が、夏城君の一言で一気に流れ落ちていった。
「……うん、分かった」
 夏城君は、大事なところで必要な言葉をくれる。さっきも、その前も、そのまた前も。
「それじゃあ結界解くから、樒ちゃん、時空の扉開く準備を」
「任せて」
 視線を見交わさせて頷きあって、桔梗は軽く瞼を閉じて呟いた。
「解」
 冷たい霧が吹きつける。
 同時に、寄り集まっていた者たちはわたしたち目がけ、捕食の牙をむいた。
『この世に存在する全ての時空に通じる時の精霊よ
 命有るもの 無きもの全てを一つにつなぐ時の精霊よ
 我が声聞こえるならば 望む時へと通ずる扉を開け
 因縁深き 時狂う直前へ 我らを導け』
「開け、時空ときの扉」
 闇を切り取って、緋桜の傍ら、四角い光の扉が出現する。
「桔梗から行け!」
 葵の声に押されて桔梗がまずその中に飛び込む。
「悪いけど、僕長居したくないんだ」
 誰に指示されるまでもなく続いて光くんが、そして織笠君、葵と続いたところで、夏城君が振り返った。
「守景、お前鈍いんだから先に行け」
「でも、開いたからには最後じゃないと」
「夏城君の言う通りよ。ほら、さっさと行く」
 緋桜に押されてわたしは夏城君の方へたたらを踏んだ。
 夏城君の腕が、それをしっかりと抱きとめる。
「ありがと。……って、もう何回も言っちゃってるよね」
 妙に意識してしまうのを隠したくて、わたしは顔を合わせないまま笑ってごまかそうとした。
「ったく。あんまり煩わせんな」
 低くぼそりと呟く声。
 わたしは目だけ上に向けて彼の表情を伺う。
 暗いしこれといった表情はついていないけど、もしかして、照れてる?
 違う違う。
 まさか。思い過ごしよ! 自惚れよ!
 自惚れ……
 そう、自覚した瞬間、わたしは夏城君の腕から自分でも驚くほど俊敏に飛び退っていた。
「や、やっぱり夏城君先行って。ね?」
「先行けって、この状態で……」
「いいから」
 両腕は夏城君を光の扉の向こうに押しやっていた。
「うっわ、強引」
 呆れた緋桜の言葉なんか気にしている場合じゃない。
 わたしもその扉の中へ足を一歩踏み入れる。
「え?」
 踏み込んだ先、不意にぐにゃりと足元が崩れた。
「な、何っ?」
 何かがわたしの足首を掴む。
 冷たい女性の手。
「どうしたの、樒?!」
「やっ、きゃぁぁぁぁっ」
 ずるずるっと。
 ジェットコースターよりも恐ろしい角度とスピードで、わたしの体は時空の道が指し示す方向ではなく、あろうことかその壁の中に引きずり込まれていった。









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